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| 画像 = Toshiki Kaifu 19890810.jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 = [[
| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = {{生年月日
| 出生地 = | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1931|1|2|2022|1|9}}
| 死没地 = | 出身校 = [[中央大学法学部|中央大学専門部法科]]卒業<br
| 前職 = 政治家秘書<br
| 現職 =
| 所属政党 = ([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]<small>([[
| 称号・勲章 = [[正二位]]<br
| 親族(政治家) = ▼
| 配偶者 = [[海部幸世]]
| 子女 =
▲| 親族(政治家) =
| サイン = KaifuT kao.png
| ウェブサイト = http://www.anan.ne.jp/kaifu/
| サイトタイトル = 海部俊樹オフィシャルホームページ
| 国旗 =
| 職名 = 第76-77代 [[内閣総理大臣]]
| 内閣 = [[第1次海部内閣]]<br
| 就任日 = [[1989年]][[8月10日]]
| 退任日 = [[1991年]][[11月5日]]
| 元首職 = 天皇
| 元首 = [[明仁|上皇(明仁)]]
| 職名2 = 第95代 [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]](総理兼任)
| 内閣2 = [[第2次海部内閣 (改造)|第2次海部改造内閣]]
| 就任日2 = 1991年[[10月14日]]
| 退任日2 = 1991年11月5日
| 国旗3 =
| 職名3 = 第98・107代 [[文部大臣]]
| 内閣3 = [[福田赳夫内閣]]<hr
| 就任日3 = [[1976年]][[12月24日]] - [[1977年]][[11月28日]]<hr
| 退任日3 = [[1986年]][[7月22日]]
| 国旗4 =
| 職名4 = [[内閣官房副長官|内閣官房副長官(政務担当)]]
| 内閣4 = [[三木内閣]]
| 就任日4 = [[1974年]][[12月9日]]
| 退任日4 = [[1976年]][[9月15日]]
| 国旗5 =
| 職名5 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]
| 選挙区5 = ([[愛知県第3区 (中選挙区)|旧愛知3区]]→)<br
| 当選回数5 = 16回
| 就任日5 = [[1960年]][[11月20日]]
| 退任日5 = [[2009年]][[7月21日]]
| その他職歴1 = [[
| 就任日6 = [[1994年]][[12月8日]]
| 退任日6 = [[1995年]][[12月28日]]
| その他職歴2 = [[
| 就任日7 = 1989年[[8月8日]]
| 退任日7 = 1991年[[10月30日]]
| その他職歴3 = [[ファイル:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.
| 就任日8 = [[1976年]][[9月]]
| 退任日8 = 1976年[[12月]]
}}▼
'''海部 俊樹'''(かいふ としき、[[1931年]]〈[[昭和]]6年〉[[1月2日]] - [[2022年]]〈[[令和]]4年〉[[1月9日]])は、[[日本]]の[[政治家]]
[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]](16期)、[[労働省|労働]][[政務次官]]([[第1次佐藤内閣 (第2次改造)|第1次佐藤第2次改造内閣]] - [[第2次佐藤内閣]])、[[内閣官房副長官]]([[三木内閣]])、[[自由民主党国会対策委員会|自由民主党国会対策委員長]](第21代)、[[文部大臣]](第[[福田赳夫内閣|98]]・[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|107]]代)、[[自由民主党総裁]](第14代)、[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]([[第2次海部内閣 (改造)|第95代]])、[[内閣総理大臣]](第[[第1次海部内閣|76]]・[[第2次海部内閣|77]]代)、[[新進党]][[党首]](初代)などを歴任した。
[[国際天文学連合]](IAU)会長の[[海部宣男]]、2008年に[[ノーベル物理学賞]]を受賞した[[小林誠 (物理学者)|小林誠]]の従兄である。
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[[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]][[七曲町 (名古屋市)|七曲町]](現・東区[[東桜]]一丁目)に生まれる。6人兄弟の長男だった。家業は祖父が明治時代に創業した「中村写真館」。店は中区栄の松坂屋名古屋店の北側にあった。1943年3月、名古屋市立南久屋国民学校(現・[[名古屋市立栄小学校]])卒業。旧制愛知一中(現・[[愛知県立旭丘高等学校]])を受験するが不合格。同じ学校から受けた11人のうち9人が受かり、落ちたのは海部を含め2人だった{{Sfn|海部|2015|pp=30-31}}。同年4月、旧制東海中学(現:[[東海中学校・高等学校]])に入学。[[学徒動員]]により、名古屋市東区[[大幸|大幸町]]にあった[[三菱重工業]]の工場で働かされる。航空機のエンジン部品造りに明け暮れた。
1945年、少年飛行兵学校に合格。10月に入校することが決まるが、その前に
1957年11月17日、[[岐阜県第1区 (中選挙区)|旧岐阜1区]]の[[柳原三郎]]衆議院議員の手伝いをしていた岐阜県[[美濃市]]出身の女性と結婚{{Sfn|海部|2010|pp=38-39}}{{Sfn|海部|2015|pp=223-224}}。
1958年3月29日、河野が急死。後継候補の一人に押し上げられるが、[[三木武夫]]の判断で妻の[[河野孝子]]が地盤を引き継ぐこととなった{{Sfn|海部|2015|pp=40-41}}。同年4月20日、孝子の[[公設秘書|秘書]]となり{{Sfn|海部|2015|pp=223-224}}、5月22日に行われた[[第28回衆議院議員総選挙]]で孝子は初当選を果たした。
=== 衆議院議員 ===
[[
[[
[[1960年]]9月16日、河野孝子の代わりに、秘書の海部が次期衆院選・[[愛知県第3区 (中選挙区)|旧愛知県第3区]]に立候補することが決定<ref>『中部日本新聞』1960年9月17日付朝刊、尾張版、5面、「海部俊樹氏が出馬 衆院選第三区 河野現代議士に代わり」。</ref>。同年11月20日に行われた[[第29回衆議院議員総選挙]]で全国最年少で初当選した<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=dGY4QdzyAAw&t=135s 昭和35年11月 中日ニュース No.358_3「政局再び二大政党へ」] 中日映画社</ref>。
1960年12月、[[自由民主党青年局|自民党青年局]]学生部長に就任。1964年、[[青年海外協力隊]]の構想をまとめ、[[アフリカ]]を横断調査。同団体の創設に力を注いだ{{Sfn|海部|2010|pp=42-43}}。[[1965年]]には自民党青年局長となった。党内では三木派に所属し領袖の[[三木武夫]]にかわいがられ、若手時代には「三木の秘蔵っ子。」の異名があった。
1971年ごろまで[[一宮市]]新生で借家住まいをし、その後、同市平和一丁目に自宅兼事務所を構えた<ref>『中日新聞』1989年8月9日付朝刊、22面、「海部氏夫人、幸世さん 当選自宅で祈り続ける テキパキ内助の功、青春時代は文武両道」。</ref>。
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[[1974年]]には、[[三木内閣]]の[[内閣官房副長官]]に就任する。[[内閣官房長官]]の[[井出一太郎]]の代わりに[[第1回先進国首脳会議|ランブイエ・サミット]]の調整を行い、[[1975年]][[スト権スト]]問題の時には、政府の窓口として労政交渉や野党対応、マスコミ討論を担当する{{Sfn|海部|2010|p=47}}。
1976年9月、自民党国会対策委員長に就任{{Sfn|海部|2015|pp=223-224}}。同年12月、[[福田赳夫内閣]]で[[文部大臣]]として初入閣を果たした。[[石原慎太郎]]とともに[[昭和]]生まれ初の大臣であった。1985年、[[第2次中曽根内閣]]で再び文部大臣を務めた。文部大臣時代の業績として、「[[大学共通第1次学力試験|共通一次試験]]」の導入が挙げられる。1988年には[[消費税]]導入を含めた[[税制改革法]]の委員会審議で[[金丸信]]に代わり委員長を務め、大混乱の中[[強行採決]]で可決にこぎつけている。
=== 自由民主党総裁 ===
1989年7月24日、[[宇野宗佑]]首相が[[第15回参議院議員通常選挙]]で敗北の責任をとり辞意を表明。
{{See also|1989年8月自由民主党総裁選挙}}
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=== 内閣総理大臣 ===
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==== 就任 ====
参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、[[ねじれ国会]]に突入した。首班指名選挙では、自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部、野党が過半数を確保した参議院は[[日本社会党委員長]]の[[土井たか子]]を指名した。[[日本国憲法第67条]]第2項の規定に基づき[[両院協議会]]で協議されたが、両院の意見は一致せず、衆議院で指名された海部が[[内閣総理大臣]]に就任した([[衆議院の優越]])。海部は初の昭和生まれの首相でもある。
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海部にとって最初の大きな課題は総選挙で勝利することだった。衆院任期切れが迫る中、自民党は次の総選挙で参院選と同様の敗北を喫することだけは避けねばならなかった。結果、1990年の[[第39回衆議院議員総選挙]]で自民党を大勝に導く<ref group="注釈">自民党は単独で275議席を獲得し、さらに保守系無所属の11議席を足して286議席となり、過半数を上回った。</ref>。1990年には首相として[[即位の礼]]を仕切り成功させた。
1990年[[9月28日]]、[[ニューヨーク大学]]から[[名誉博士|名誉博士号]]を、1991年[[7月10日]]、[[ボストン大学]]から名誉法学博士号を授与された<ref>{{Cite book|title=海部内閣総理大臣演説集|url=https://
==== 党内基盤 ====
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==== 外交 ====
[[
[[1991年]]、
自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、小選挙区導入反対派の[[加藤紘一]]、[[山崎拓]]、[[小泉純一郎]]の「[[YKK (政治同盟)|YKK]]」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。
[[六四天安門事件]]後、[[ヒューストン]]の[[第16回先進国首脳会議]]で円借款再開を表明し、世界から孤立しかかった[[中華人民共和国|中国]]に天安門事件後の西側先進国首脳では初めて訪問して円借款を再開させた<ref>{{Cite web|last =|first =|title = 戦後の中日ハイレベル交流を振り返る (5)|publisher = [[人民網]]|url = http://jpn_cpc.people.com.cn/65014/7144836.html|accessdate = 2016-09-27}}</ref>。ヒューストン・サミットを前に海部は対中制裁反対派の[[中曽根康弘]]・[[鈴木善幸]]・[[竹下登]]元首相に制裁解除を迫られていた<ref>{{Cite web|last =|first =|title = Japan May Go Its Own Way on Economic Aid to China : Sanctions: Tokyo argues that Beijing should not be isolated from the world community. Kaifu will see Bush on Saturday.|publisher = [[ロサンゼルス・タイムズ]]|url = https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1990-07-06-mn-163-story.html|date = 1990-07-06|accessdate = 2016-10-25}}</ref>。海部自身は、「中国に対して原則を貫いた」と語り、天安門事件の犠牲者の冥福を祈るため、訪中時に[[天安門広場]]で献花を行ったという<ref>[https://web.archive.org/web/20120118044437/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0525&f=column_0525_003.shtml サーチナ2010年5月25日配信のインタビュー記事]</ref>。当時のアメリカの[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]大統領は[[アメリカ合衆国議会|議会]]と対立するほど制裁全面化に消極的であり<ref>{{Cite web|last =|first =|title = U.S. GRANTS BOEING A WAIVER TO SELL JETLINERS TO CHINA|publisher = [[ニューヨーク・タイムズ]]|url = https://www.nytimes.com/1989/07/08/business/us-grants-boeing-a-waiver-to-sell-jetliners-to-china.html|date = 1989-07-08|accessdate = 2016-10-25}}</ref><ref>{{Cite web|last =|first =|title = PRESIDENT WAIVES SOME CHINA CURBS|publisher = [[ニューヨーク・タイムズ]]|url = https://www.nytimes.com/1989/12/20/world/president-waives-some-china-curbs.html|date = 1989-12-20|accessdate = 2016-10-25}}</ref><ref>George Bush『All the Best, George Bush: My Life in Letters and Other Writings』435頁 1999年 ISBN 978-1501106675</ref>、秘密裏に[[ヘンリー・キッシンジャー]]やブレント・スコウクロフトを中国に派遣して民主化運動家の[[方励之]]の出国をめぐる交渉を行っていたとされる<ref name="Kissinger">{{Cite book|title=Henry Kissinger: On China|publisher=Allen Lane|author=Kissinger, Henry|year=2011|___location=United States|isbn=978-1-84614-346-5}} p.429</ref><ref>Spence, Jonathan D. ''Kissinger and China'', The New York Review of Books, June 2011.</ref><ref name=nyrb2011>"My "Confession", Fang Lizhi, translated by Perry Link. The New York Review of Books, 2011.</ref>。方励之の出国を条件に融資再開を日本は中国に持ちかけたともされ<ref name=nyrb2011/>、ブッシュは[[第16回先進国首脳会議]]で対中円借款再開を表明した海部に同調した<ref>{{Cite web |last= |first= |title=COLUMN ONE : China Taps Into World Coffers : The story of Beijing's successful run on the World Bank is a tale of persistence (by China), of avarice (in Western Europe and Japan) and of intrigue (by the Bush Administration) |publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ]] |url=https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1992-10-30-mn-985-story.html|date=1992-10-30|accessdate=2017-12-26}}</ref>。
1991年に民主化後初の[[大統領 (大韓民国)|大韓民国大統領]]である[[盧泰愚]]と会談し、その席で懸案であった[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]の[[指紋#利用に伴う問題点|指紋押捺]]の廃止を約束し、その後実施された。
==== 内閣総辞職 ====
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1991年11月5日、海部は総理大臣を辞職。在任中は竹下派に手足を縛られて思い通りの政権運営はままならず、PKOや政治改革といった重要課題は次期政権に持ち越すことになった。バブル景気末期や[[冷戦]]体制の終焉といった激動の時期に総理の座にありながら、海部本人が政治的なイニシアチブを取った形跡もなく、政権として目立った実績は乏しい。しかし決定的な失政があったとみなされたわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けた。在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており<ref>北岡伸一『自民党』所収のデータなど参照</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【アーカイブ】海部俊樹 海外への自衛隊、酢豚の味わい:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ1G34YSQ1GDIFI001.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2022-01-14|language=ja}}</ref>、煮え切らない不完全燃焼の中での退陣となった<ref>[[八幡和郎]]『歴代総理の通信簿』 [[PHP新書]]。</ref>。
首相在任日数は818日
=== 自民党離党と復党
[[1994年]]6月29日、自民党総裁の[[河野洋平]]が、党の政権復帰のため[[日本社会党]]、[[新党さきがけ]]と[[自社さ連立政権]]構想で合意し、首班指名で社会党の[[村山富市]]に投票することを決めると、これを拒否して自民党を離党した。同じく造反した[[津島雄二]]の説得により、旧[[連立政権|連立与党]]である[[新生党]]や[[日本新党]]から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。
同年7月18日、公職選挙法235条違反による裁判で参議院議員の[[新間正次]]の有罪判決が確定。新間の当選無効に伴う[[再選挙]]<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.city.chiryu.aichi.jp/ikkrwebBrowse/material/files/16-3-H60702sai.pdf |title=参議院愛知県選出議員再選挙 平成6年7月2日新間正次当選無効 |format=PDF |publisher=知立市役所 |accessdate=2018-12-14 }}</ref>で野党9党派は[[労働省|労働]][[官僚]]の[[都築譲]]を擁立し、7月27日、海部は都築の総合選対本部長に就任した<ref name="chunichi19940728">『中日新聞』1994年7月28日付朝刊、27面、「政界流動化 夏の陣/ 自民愛知県連 海部氏と“絶縁”宣言 野党の選対本部長就任 村田会長らが反発」。</ref>。対する自民党は国連職員の水野時朗に出馬要請し、党県連会長の[[村田敬次郎]]は海部と絶縁する宣言を行った。海部の番頭格だった服部光孝[[愛知県議会|県議]]も「25年間の縁を切る」と強い口調で述べ、自民党との溝は一層深まった<ref name="chunichi19940728" />。また、7月27日に海部は[[自由改革連合]]を結成して代表に就任している。
同年12月10日、[[新進党]]を結党して初代党首に就任。[[自由民主党総裁|自民党総裁]]を務めた人物が離党し他党の党首となるのは極めて異例
同年11月21日に[[政治改革四法]]における小選挙区の具体的な区割り法案が国会で可決<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.secj.jp/s_library/seiji_chronology_2.html | title= 政治改革の軌跡 1993年~1994年 |website=21世紀臨調オフィシャルホームページ |publisher= [[新しい日本をつくる国民会議]] | date= | accessdate = 2021-12-21 }}</ref>。海部も江崎鉄磨も一宮市を含む愛知10区の公認を主張して譲らなかったが、1995年3月17日、新進党本部の調整で海部は愛知9区、江崎は愛知10区と決まり、両現職の戦争は回避された<ref>『中日新聞』1995年3月17日付夕刊、1面、「海部氏は愛知9区に 比例と重複 10区は江崎氏 次期衆院選 新進党公認」。</ref>。
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政界引退後は、[[世界連邦運動]]協会会長、[[日本ソフトテニス連盟]]会長、[[大正琴協会]]理事長、[[日本ティーボール協会]]会長などを務めた。また、[[三木睦子]]が理事を務める[[中央政策研究所]]では最高顧問を務める。[[2010年]]には[[回想録]]『政治とカネ』を[[新潮新書]]から出版した。
[[2011年]]、[[桐花大綬章]]を受章。同年[[6月29日]]、[[愛知県|愛知]]県[[一宮市]][[名誉市民]]授与<ref>{{Cite web |url=https://www.city.ichinomiya.aichi.jp/shisei/shiryo/1009808/1010497.html |title=一宮市名誉市民(昭和33年12月20日 条例制定) |publisher=一宮市役所 秘書課 |date=2023-09-01 |accessdate=2024-10-12}}</ref>。同年[[12月3日]]、[[愛知県]][[名誉県民
[[2019年]][[11月29日]]に[[中曽根康弘]]が死去したことにより、首相経験者で最古参になった。また、この時存命の首相経験者としては[[村山富市]]([[1924年]][[3月3日]]生まれ)に次ぐ高齢者となった。最高齢の総理大臣経験者と最古参の総理大臣経験者が異なるのは、[[1993年]][[12月16日]]に[[田中角栄]]が死去して以来であった(田中は死去時点で最古参の首相経験者であったが、最高齢の首相経験者は[[福田赳夫]]であったため)。
2022年1月9日4時、肺炎のため[[東京都]]内の病院で死去<ref name="20220109chunichi">{{Cite news|和書 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/400018 |title=海部俊樹元首相が死去 91歳 |newspaper=[[中日新聞]] |date=2022-01-14 |accessdate=
</ref>。{{没年齢|1931|1|2|2022|1|9}}。政府は18日の閣議で[[正二位]]叙位と[[大勲位菊花大綬章]]追贈を決定した。海部の死去に伴い、[[細川護熙]]が最古参の首相経験者となった(最高齢は村山富市のまま)。
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=== ネクタイ ===
[[
[[水玉模様]]の[[ネクタイ]]を[[トレードマーク]]としている事で知られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202201140000331.html|title=海部俊樹元首相が愛した自民党のカレー 94年離党時に「心残り」漏らす|publisher=日刊スポーツ|date=2022-01-14|accessdate=2022-01-14}}</ref>。これは、三木内閣の官房副長官時代に[[日本国有鉄道|国鉄]]の[[スト権スト]]問題でテレビの討論番組に出演した際、対処で多忙を極め帰宅もままならぬ時期であったことから、たまたま水玉模様の同じネクタイを連日連夜着用し続けていたことに関して視聴者から[[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]が入る一幕があり、それを機に意図的に自らのトレードマークとして決めたという経緯によるものである(なお、この討論番組では当時、公共企業体等労働組合協議会事務局長であった[[富塚三夫]]に対して[[#弁論|後述の弁論経験]]を活かした一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった)。首相時代には水玉模様のネクタイばかり600本以上も持っていたと語っており、広島と長崎の平和記念式典にも黒地に黒の水玉模様のネクタイをして出席していたほどの徹底ぶりであった(表向きは[[喪服]]用の黒いネクタイだが、明るい場所で見ると仄かに水玉模様が見える)。また、昭和天皇の大喪の礼でも同じく黒地に黒の水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。
232 ⟶ 204行目:
ところが、後に[[#自由民主党総裁|前述の条件]]が重なったことにより、初当選から奇しくも'''29'''年後の[[1989年]]、公言通り総理大臣就任が実現した。
=== 秘書 ===
240 ⟶ 210行目:
* [[熊田裕通]] - 衆議院議員、元愛知県議会議員。
* [[長坂康正]] - 衆議院議員、元愛知県議会議員。
* 岩村進次 - 元愛知県議会議員、元議長。私設秘書に暴行を加えた事件が明るみとなり<ref>{{
* 西川学 - [[名古屋市会|名古屋市会議員]]。大学在学中に海部の事務所見習いとなる<ref>{{
=== ヒューストン・サミット ===
[[ファイル:
[[1990年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・ヒューストンで開催された[[第16回先進国首脳会議]]における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、アメリカ合衆国大統領[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]、イギリス首相[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]、カナダ首相[[ブライアン・マルルーニー|マルルーニー]]が爆笑している場面の写真が全世界に配信された。
254 ⟶ 224行目:
=== その他 ===
* 首相
* 首相退任後、バラエティ番組『[[三枝の愛ラブ!爆笑クリニック]]』に夫婦で出演した。
* 若年のころから[[三木武夫]]を政治家として尊敬して親交を持ち、[[三木睦子]]からは息子のように可愛がられた。睦子から「俊樹ちゃん」と呼ばれている姿がテレビなどで報じられるうち、いつしか視聴者の間でも「俊樹ちゃん」が愛称として定着した。
* 記録的な長寿で話題となった双子姉妹、[[きんさんぎんさん|成田きんと蟹江ぎん]]は生前、「尊敬する[[政治家]]」として海部の名を挙げていた。海部はきんの葬儀委員長を務めている。
* 元名古屋市長で、地域政党[[減税日本]]の代表及び政治団体「[[日本保守党 (2023-)|日本保守党]]」の共同代表でもある[[河村たかし]]とは、河村の母親が海部の姉と友人で、名古屋市にあった母親の実家が海部の自宅と隣同士であり、河村が案内して一緒にかつて家があった場所を訪れる約束をしていた。また、新進党時代には初代党首に就いた海部と河村は同僚で河村はよく指導頂いたと言い、海部が自民党に復党した時、「俺の処に来い」と声を掛けられ、河村は悩んだが断ったと言う<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASQ1G4Q7RQ1GOIPE007.html 海部元首相死去 河村たかし市長と深い縁「ようご指導いただいた」 朝日新聞デジタル (2022年1月14日). 2022年1月14日閲覧]</ref>。
* [[長渕剛]]の曲「親知らず」の歌詞の中に、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]、[[サッダーム・フセイン]]、[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]と共に登場する。
* 映画『[[小説吉田学校]]』(1983年)では、[[福田勝洋]]が海部を演じた。
*
* 2度目の文部大臣就任直後に[[岡田有希子]]が自殺。衆議院文教委員会で[[江田五月]]が採り上げ質問した際に「アイドルは皆に夢を与える存在。どうか命を大切にして欲しい、強くたくましく生きて欲しいものです」と答弁した<ref>[https://www.eda-jp.com/satsuki/kokkai/1986/860409.html 104 衆議院・文教委員会] 江田五月公式サイト</ref>。
* [[中日ドラゴンズ]]のファンである<ref>『[[毎日新聞]]』1990年4月12日東京夕刊社会面14頁「「[[さらば桑田真澄、さらばプロ野球|桑田問題]]」国会でも論議 「ファンに悪影響」と海部首相」([[毎日新聞東京本社]])</ref>。
== 家族・親族 ==
* [[テレビプロデューサー]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]プロデューサーの[[海部正樹]]は玉川大学卒の長男で秘書を務めた<ref name="jin45">人事興信録45版か55</ref>。葬儀では喪主を務めた<ref name="20220109jiji" />。
* 長女・睦(1963年7月19日生
* 曽祖父の[[海部昂蔵]]は[[尾張徳川家]]の[[家令]]、[[尾張徳川家#御相談人|御相談人]]を務めた。
* [[外交官]]の[[海部篤]]は甥<ref>[https://twitter.com/senkyo/status/1169143279839043584?lang=ar 〖 政 治( 聖 路 ) 動向・観察・監視・評 論 家 〗]</ref>。
* [[天文学者]]の[[海部宣男]]、2008年に[[ノーベル物理学賞]]を受賞した[[小林誠 (物理学者)|小林誠]]、シンコーホーム詐欺事件で2002年に有罪判決を受けたシンコーホーム元常務の'''海部俊一'''は従弟。
* [[名古屋コーチン]]の生みの親として知られる、旧[[尾張藩|尾張]][[藩士]]の[[海部壮平]]・'''海部正秀'''兄弟は遠い親戚(壮平・正秀の姉の
== 略歴 ==
[[
* [[1948年]] - 旧制東海中学(現・[[東海中学校・高等学校]])卒業。
* [[1951年]] - 旧制[[中央大学]][[大学専門部 (旧制)|専門部]]法科卒業、[[法務省]]に事務官として入省。
* [[1952年]] - 河野金昇代議士の秘書をしながら新制[[早稲田大学]][[法学部|第二法学部]]法律学科3年次に[[編入学]]、在学時は雄弁会に所属する(副幹事長に就任)。
* [[1954年]] - 早稲田大学第二法学部法律学科卒業、法学士号取得。
* [[1956年]] - 早稲田大学大学院法学研究科修士課程中途退学。
* [[1960年]][[11月20日]] - [[第29回衆議院議員総選挙]]に全国最年少で当選、以降連続当選16期を数えた。
* [[1966年]][[8月1日]] - 労働政務次官([[第1次佐藤内閣 (第3次改造)|第1次佐藤内閣第3次改造内閣]])。
* [[1974年]]12月9日 - [[内閣官房副長官]]([[三木内閣]])。
* [[1976年]]12月24日 - [[文部大臣]]([[福田赳夫内閣]])。
* [[1985年]]12月28日 - 文部大臣([[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根内閣第2次改造内閣]])。
* [[1989年]][[8月10日]] - 第76代内閣総理大臣。
* [[1990年]]
** [[2月28日]] - 第77代内閣総理大臣。
** 12月29日 - 第2次海部改造内閣発足。
* [[1991年]]
** 10月 - [[橋本龍太郎]]の辞任を受け、[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]を兼任。
** 11月 - 内閣総辞職により内閣総理大臣を辞任。
* [[1994年]]
** 6月 - 自民党離党。[[高志会]]を経て7月に[[自由改革連合]]代表。
** 12月 - [[新進党]]初代党首。
* [[1998年]]1月 - 新進党分党に伴い無所属(院内会派「無所属の会」)。
* [[1999年]]1月 - [[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]に入党し、党最高顧問に就任。
* [[2000年]]4月 - 保守党最高顧問。
* [[2002年]]12月 - [[保守新党]]最高顧問。
* [[2003年]]11月 - 保守新党解党に伴い自民党復党。[[新しい波 (派閥)|二階グループ]]最高顧問に就任。
* [[2009年]][[8月30日]] - [[第45回衆議院議員総選挙]]に17回目の当選を目指して出馬するも、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[岡本充功]]に敗れ落選。同日政界引退を表明。
* [[2011年]] - 桐花大綬章を受章<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?key=%b3%a4%c9%f4&k=201106/2011061800076 大綬章受章者]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/23haru/meibo_jokun/toka-daijusho.pdf|title=平成23年春の叙勲 桐花大綬章受章者|format=PDF|accessdate=2023-02-10|publisher=[[内閣府]]|date =2011
* [[2022年]][[1月9日]]4時、死去<ref name="20220109chunichi" /><ref name="
== 選挙歴 ==
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== 著書 ==
* 『模範スピーチ385選』有紀書房、1968年1月1日
* {{Cite book
* {{Cite book
* {{Cite book
* {{Cite book
* {{Cite book
** 初出『中日新聞』2014年6月24日~2015年3月25日連載、全57回。
=== 共編 ===
* 『ニューメディア・ルネッサンス 多彩な執筆陣が見通すニューメディアの未来像』自由民主党昭和会共編. 紀尾井書房, 1985.6
* 『モンゴル馬ダライフレグの奇跡 日本とモンゴル友好のかけ橋になった名馬の物語』[[志茂田景樹]]共著, 笹森識 絵, 籾山彩恵子英訳,[[宮田修]]企画・監修. Kiba book, 2006.7
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
344 ⟶ 315行目:
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書|author = [[奥島貞雄]]|title = 自民党幹事長室の30年|date = 2005年9月25日|publisher = [[中央公論新社]]|series = [[中公文庫]]|isbn = 978-4122045934|ref = {{SfnRef|奥島}}}}
▲}}
* {{Cite book|和書 |author=[[後藤謙次]] |date=2014-4-17 |title=ドキュメント 平成政治史 1 崩壊する55年体制 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000281676 |ref={{SfnRef|『平成政治史 1』}} |year=2014}}
* {{Cite book|和書|author = 海部俊樹|date = 2010年11月20日|title = 政治とカネ―海部俊樹回顧録|publisher = [[新潮社]]|series = [[新潮新書]]|isbn = 978-4-10610394-0|ref = {{SfnRef|海部|2010}}}}
* {{Cite book|和書|date = 2015年12月1日|title = 海部俊樹回想録―自我作古|editor = 垣見洋樹編|publisher = 人間社|isbn = 978-4931388956|ref = {{SfnRef|海部|2015}}}}
* {{Cite book|和書 |author = [[早坂茂三]] |year = 1991-12-12 |title = 権力の司祭たち |url={{NDLDC|12755123}} |url-access=registration |publisher = [[飛鳥新社]]|isbn= 978-4870311039|ref = {{SfnRef|早坂|1991}} }}
== 関連項目 ==
394 ⟶ 335行目:
* {{YouTube|RR22BPtd8gk|第76・77代総理大臣 海部俊樹【歴代総理列伝】}}(TBS NEWS)
{{S-start}}
{{
{{
|title = {{Flagicon|日本}} [[内閣総理大臣]]
|before = [[宇野宗佑]]
401 ⟶ 342行目:
|after = [[宮澤喜一]]
}}
{{
|title = {{Flagicon|日本}} [[文部大臣]]
|before = [[永井道雄]]<br/>[[松永光]]
407 ⟶ 348行目:
|after = [[砂田重民]]<br/>[[藤尾正行]]
}}
{{
|title = {{Flagicon|日本}} [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]
|before = [[橋本龍太郎]]
419 ⟶ 360行目:
|after = [[鯨岡兵輔]]
}}
{{
{{
|title = {{Flagicon|日本}} [[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]]
|before = [[田沢吉郎]]
426 ⟶ 367行目:
|after = [[佐々木秀世]]
}}
{{
{{
|title = [[新進党]]党首
|before = 結成
433 ⟶ 374行目:
|after = [[小沢一郎]]
}}
{{
|title = [[自由改革連合]]代表
|before = 結成
439 ⟶ 380行目:
|after = [[新進党]]へ
}}
{{
|title = [[高志会]]代表
|before = 結成
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|after = [[新進党]]へ
}}
{{
|title = [[自由民主党総裁]]
|before = [[宇野宗佑]]
451 ⟶ 392行目:
|after = [[宮澤喜一]]
}}
{{
|title = [[自由民主党国会対策委員会|自由民主党国会対策委員長]]
|before = [[宇野宗佑]]
457 ⟶ 398行目:
|after = [[安倍晋太郎]]
}}
{{
| title = [[自由民主党青年局|自由民主党青年局長]]
| before = [[宇野宗佑]]<br />[[内藤誉三郎]]
463 ⟶ 404行目:
| after = [[内藤誉三郎]]<br />[[西岡武夫]]
}}
{{
{{
|title = 最年少衆議院議員
|before = [[谷川和穂]]
518 ⟶ 459行目:
[[Category:東海高等学校出身の人物]]
[[Category:名古屋市出身の人物]]
[[Category:肺炎で死亡した人物]]
[[Category:1931年生]]
[[Category:2022年没]]
|