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一方、ファンサービスの改善策についても球団と交渉を続け、当時[[カカクコム]]社長の[[穐田誉輝]]ら球団外部からも人材を招聘。こうしてファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「'''F-Project'''」を[[11月1日]]に発足させ、様々なファンサービス策と地域密着策を次々と展開。古田はこのF-Projectの一環として球団に対し、球団名に都市名を冠することを提案。球団もこの意向を受けて検討の上で申請を提出、[[12月19日]]のプロ野球実行委員会で新球団名「東京ヤクルトスワローズ」への改称が承認された(プロジェクトの主な概略については[[東京ヤクルトスワローズ#F-Projectとヤクルトタウン]]も併せて参照)。
 
こうして[[2006年]]、古田は兼任監督1年目のシーズンを迎えた。メディアや評論家はそれまでの古田の堅実なプレースタイルから「手堅い野球をするだろう」と予想していたが、いざ蓋を開けてみると、1番[[青木宣親]]、2番[[アダム・リグス]]を置くなど3番[[岩村明憲]]、4番[[アレックス・ラミレス]]、5番[[グレッグ・ラロッカ]]という超攻撃的な野球であった。結局同年の東京ヤクルトはリーグ最多のチーム総本塁打161本を記録、総得点669も巨人読売ジャイアンツと並んでリーグ最多タイの数字を残すなど「打ち勝つ野球」を体現した。だが一方、投手陣では主力の故障離脱などにより駒数が揃わず、とりわけリリーフ陣の固定には頭を悩ませた。特に痛手だったのが、石井弘と五十嵐亮太の「ロケットボーイズ」の不調だった。
 
自ら代打出場する際、球審とアイコンタクトを取って自らを指差す「'''代打・オレ'''」のポーズは話題となった。