「高宗 (朝鮮)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
→概要: 誤字修正 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
→閔氏一族の時代: 誤字修正 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
73行目:
[[1866年]]に[[閔妃]](明成皇后)が王妃として王宮へ入ると、大院君は閔妃と対立を始め、閔妃を中心とした閔氏一族と[[崔益鉉]]らの[[儒学者|儒者]]勢力、政敵安東金氏の勢力を中心に、大院君排除のための動きを見せていた。これらの勢力が結託し、[[1873年]]、高宗が成人すると親政を宣言し、崔益鉉の弾劾を機に大院君は追放される。代わりに政権を握ったのは閔妃の一族である閔氏であった。高宗は性格的に気の強い閔妃に頼るところが多く、政権を握った閔妃は閔氏一族を要職につけ、以後閔氏一族による勢道政治が始まる。
閔妃派が勢力を握ると、国内の情勢は鎖国から開国へ傾きかけ、開化派勢力が台頭してくる。[[1876年]]、[[日朝修好条規]](江華島条約)が締結される。これをきっかけに、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[ロシア帝国|ロシア]]とも通商条約を立て続けに結んでいくことになる。ロシアの南下政策に対し、[[清]]・日本・アメリカと協力しこれに対抗するという動きも見せ始めた。しかし国内の政治は、開化派と守旧派勢力(衛正斥邪派)との対立が深刻化していた。大院君もこの動きに連動し、高宗の異母兄を王位につける国王廃立の動きを見せていた。高宗と閔氏一族は、衛正斥邪派を弾圧することによって政局混乱
[[1882年]]、新式軍隊(近代式軍隊)に対する旧式軍隊の差別待遇、賃金未払いなどに対して、不満を募らせた旧式軍隊と衛正斥邪派・大院君の勢力が結託し、閔妃暗殺、閔氏一族・開化派勢力の追放をもくろんだ[[壬午事変]]が発生する。壬午事変によって一時的に大院君は復権するが、殺されたと思われていた閔妃は清の[[袁世凱]]に介入を要請。清軍が出撃しこれらの勢力を排除する。大院君は清へ連れ去られ、清は朝鮮の治安維持の目的で、3000の兵を朝鮮国内に駐屯させた。一方、この事変により日本公使館を襲撃され、多くの日本人が殺害された。日本も軍艦を朝鮮半島へ向かわせ、賠償を要求。[[済物浦条約]]により賠償金の支払いと邦人保護のための軍隊駐留を認めさせる。この事件により、清と日本の軍隊が朝鮮国内に駐留することになり、朝鮮の軍事権は深刻なダメージを受けた。
|