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1920年(大正9年)、満25歳の時に[[尾上松之助]]の紹介により[[日活京都撮影所]]に入社。同年9月19日に公開されたサイレント映画『[[尾張三郎丸 前篇]]』で映画デビューを果たす。以後、[[片岡長正]]、[[中村歌枝]]らと共に同所の女形俳優として活動するが、翌1921年(大正10年)2月1日に公開された[[牧野省三]]監督映画『[[豪傑児雷也]]』では美青年・高砂勇美之助を演じ、また、同年3月10日に公開された牧野省三監督映画『[[忠臣蔵|実録忠臣蔵]]』では[[大石良金|大石主税]]を演じるなど、他の女形専門の俳優とは異なり、美青年役・立役として出演することもしばしばあった。その後、1923年(大正12年)9月1日に[[関東大震災]]が発生し、やがて松之助映画にも本格的に[[女優]]が採用されるようになると、松燕は正式に男優に転向、1925年(大正14年)5月31日に公開された[[池田富保]]監督映画『[[落花の舞 前篇]]』や、同年8月31日に公開された[[高橋寿康]]監督映画『[[鞍馬天狗 前篇]]』などに出演し、気品のある美しい二枚目俳優として活躍した。
 
1926年(大正15年)6月、会社の了解を得て日活を円満退社。退社後同年10月8日、かつて[[東京府]][[豊多摩郡]][[大久保百人町]](現在の[[東京都]][[新宿区]][[百人町]])に映画撮影所を設けていた[[M・パテー商会]]、後に[[日活]]に統合されてから1915年(大正4年)に[[M・カシー商会]]を立ち上げた[[梅屋庄吉]]の支援を得て、[[片岡松燕プロダクション]]を設立する。大正時代最末期である同年12月10日、独立第一回作品となる[[高浜順]]監督映画『[[大望 (1926年の映画)|大望]]』を発表。以後、翌1927年(昭和2年)までに全10本のサイレント映画を製作、松燕自身も女形兼男優として主演を務めたのち、同プロは間もなく解散。解散後は実演に転向、現在の[[東京都]][[台東区]]にあった[[宮戸座]]などに出演したが、この間も1937年(昭和12年)12月21日に公開された[[稲垣浩]]監督映画『[[飛竜の剣]]』を始め、同年12月31日に公開された[[マキノ正博]]監督映画『[[血煙高田の馬場]]』、翌1938年(昭和13年)3月1日に公開された[[辻吉郎]]監督映画『[[加賀百万石 (映画)|加賀百万石]]』と、日活京都撮影所製作の[[トーキー]]に特別出演した記録がある。
 
[[1943年]](昭和18年)[[6月10日]]、死去した。満48歳没。