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{{Otheruses|民間輸送機計画|IATAコードがYXである航空会社|ミッドウエスト航空}}
'''YX'''('''ワイエックス''')は[[YS-11]]に続く機体として立案されていた[[日本]]の民間輸送機([[旅客機]])計画。[[アメリカ合衆国]]の[[ボーイング]]との共同開発により、[[ボーイング767]]として実現した。
== 計画推移 ==
=== 次期旅客機YS-33の研究 ===
[[File:Japan aerospace 2016 YS-33 scale model.jpg|thumb|right|280px|YS-33]]
[[1966年]]([[昭和]]
[[1968年]](昭和
[[1969年]](昭和
さらに独自に市場調査を開始し、当時の市場動向からさらに大型化が必要であると見られたため、ストレッチタイプの計3機種を計画した。
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* YS-33-30:さらに胴長の149席
翌[[1970年]](昭和
* YX-B/C案:150席
* YX-D案:200席から250席クラスの中型機
この中で、YX-Dは実現性が低いため、YS-33かYX-B/Cを優先して計画が進められた。低公害でハイテクノロジーの世界初の3軸式[[ターボファンエンジン|ターボファン]]、[[ロールス・ロイス
=== 日航製の規模縮小 ===
最後に残ったのはYX-Dであったが、開発費は1000億円規模と見られ、とても日本一国では開発費の負担に耐えられないとして国際共同開発の可能性を視野に入れ、予算を要求することとした。
一方、国会ではYS-11の赤字とともに、次期輸送機XC-1(後の[[C-1 (輸送機)|C-1]])も問題に上がった。日航製は最初、民間機のみ
=== 国際共同開発 ===
このころ、[[ベトナム戦争]]の泥沼化によって世界経済を率いてきた[[アメリカ合衆国]]が財政悪化に陥り、凋落の兆候を現していた。ここでアメリカは[[ニクソン・ショック|ドル
この頃、DC-10と[[ボーイング747|747]]の2機種が存在していた。加えて、更なる競合機としてL-1011と[[エアバスA300|A300]]が開発中であったが、その開発費が高騰しており、莫大な開発費を要する大型機については、大口受注が無ければ開発に踏み切るのは危険であることから、綿密な市場調査を必要とし、そのために時間を要してさらに開発費を高騰させる原因となった。
この開発費の高騰に耐え切れなかった欧米の中小航空機メーカーが次々と淘汰されていった時代に、YX計画は動き出したのである。
[[1970年]](昭和
* [[アメリカ合衆国]]・[[ボーイング]] - 中型輸送機の共同開発
* アメリカ・[[マクドネル・ダグラス]] - DC-11双発輸送機の共同開発
* アメリカ・[[ロッキード]] - [[ロッキード L-1011 トライスター|L1011トライスター]]の双発化改造開発への参加
* [[イギリス]]・[[ブリティッシュエアクラフトコーポレーション|BAC]] - 新型機の共同開発
* [[オランダ]]・[[フォッカー]] - 新型機の共同開発
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日本の企業は民間機を1機種しか作っていないにもかかわらず、これら多数の企業が共同参加を打診してきたのには、YS-11完成による日本の技術力の高さを買ったのはもちろん、欧米企業の下請け部門も納期を守るうえに高品質など、評価は非常に高かったからであるが、同時に70年に設立された[[エアバス]]の存在が各社を焦らせていた。[[フランス]]と[[ドイツ|西ドイツ]]は共同でエアバスを設立し、中型機を共同開発してリスクを分散させる方式をとったことに各企業は魅力を感じており、また市場を奪い合うより共同で開発したほうが得策であると判断したからである。国際共同開発は1970年代から世界の潮流になり始めていた。
日本にとっては、1971年(昭和
=== ボーイング共同開発 ===
[[1971年]](昭和
しかしボーイングは交渉を進めると、3発のYXを凍結し、ボーイングが独自に計画してきた'''7X7'''中型双発旅客機への参加に切り替えるように打診してきた。日本としては、これを蹴ってしまえば当分の間は旅客機を作ることはできないと考え、YXを7X7に統合することで参加を表明した。
この頃、日本の航空産業界でも状況が変わった。国内開発と噂されていた次期[[対潜哨戒機]][[PX-L (航空機)|PX-L]]が、時の首相[[田中角栄]]の強い推薦もあって[[ロッキード]][[P-3 (航空機)|P-3]]の[[ライセンス生産]]に決定してしまい、産業に穴があいてしまいそうになってしまった。それ以降、国が100パーセント支出せよといった強気な発言は無くなり、YXへの参加ムードが業界内にも広がり始めた。
[[1973年]](昭和
ところがこの直後、[[中東戦争]]の勃発が引き金となって[[オイルショック]]が到来した。燃料費の高騰によってエアラインも航空機メーカーも経営が非常に悪化していた。大規模なリストラに踏み切る企業も数多く現れ、ボーイングも[[ボーイング747|747]]の売上不調から、そうした荒療治によって企業生命を保っている状況であった。
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ボーイングはこのとき、7X7とは別に[[イタリア]]のアエリタリア社とも中型機の共同開発計画を持っていたが、時勢の変化によって二つの計画を平行させることは無意味として、この計画も7X7に統合させることを決定した。分担比率は交渉によって明らかになった三国の力関係から、ボーイング51パーセント、日本29パーセント、イタリアは20パーセントとなり、日本は当初の50パーセントから大きく後退したものの、出せる開発費が元々少なく、旅客機開発の実態もまるで知らない日本が権利の半分を手にするなど、そもそも無理な話だったのである。
とはいえ、ボーイングの強引なやり方に日本の不満は募り、[[1975年]](昭和
[[経済産業省|通産省]]は昭和51年度の開発補助金として、その年の開発費の85パーセントにあたる100億円を要求したが、[[大蔵省]]は日本主導でない計画に多額の出資をしては国民に説明できないとして、75パーセント分に削減した。この頃、オイルショックによる造船不況が尾を引いており、造船を管理する[[運輸省]](現[[国土交通省]])も多額の予算を要求していたため、国としては稼ぎ頭である造船への資金投入を優先したかったのである。
ともあれ、予算は少ないながらも取得できたため、ボーイングに対してさらに日本の主体性を6項目に亘るメモによって強調した。
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=== ボーイングの強硬姿勢 ===
ところが、[[1976年]](昭和
同年10月にスタンパー社長が来日し、「市場の変化から7X7とは別に、わが社独自の150人乗り7N7(後の[[ボーイング757|757]])との関係から、両機合わせて総合評価するために開発を遅らせたい」と申し入れた。これは、ボーイングが本気で7X7に取り組む姿勢に入ったことを表していた。ボーイングはこのとき、小型機[[ボーイング727|727]]の売上が史上最高を記録し、また超音速旅客機SSTを中止したため、予算と人員を丸ごと7X7(あるいは7N7)に投入することができるようになっていた。
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スタンパーはこの計画に10億ドルを出しても良いと言ったが、これはようやく日本側が捻り出した予算よりも一桁多かった。もちろんスタンパーは日本の予算も知っていて10億ドルと口にすることで、すでに主導権はボーイングにあることを示していた。また、独自調査によって、日本の参加比率が高くなると、信頼性の問題から売れなくなるとの見通しもあった。すでに経済力からも、ボーイングは日本を必要としなくなっていた。
こうなるとボーイングの宿敵ロッキードを、賄賂によって有利に導いた日本にはボーイングに対抗するだけの論理が無く、[[1977年]](昭和
# 開発の全責任はボーイングが負い、主導権を持つ。
# 共同事業体から共同事業体制とする。
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=== ボーイング767 ===
[[1978年]](昭和
[[Image:Aircanada.b767.750pix.jpg|thumb|240px|YXの実現である[[ボーイング767|767]](エア・カナダの300型)]]
日本は民間航空機開発協会が[[三菱重工業]]、[[川崎重工業]]、[[富士重工業]]に作業を委託し、3社によって分担開発された。開発部位は三菱が後胴パネル、川崎が前胴・中胴パネル、富士が主翼胴体間フェアリングを担当し、ボーイングに引き渡すこととなった。生産分野では、川崎が中部胴体・主翼小骨、三菱が後部胴体・乗降口扉、富士が主翼胴体間フェアリングと主脚扉で、[[新明和工業]]も3社の部品製造を行っている。部品メーカーとしては、[[帝人製機]]、[[島津製作所]]、[[KYB|萱場工
主翼などの最も重要な部門からは完全に締め出される状態であり、一部の設計を任されたものの、実態は下請けと変わらないものであった。とくに、販売やアフターサービスなど、独自に飛行機を持つうえで重要な営業ノウハウは、日本やイタリアが手にできないよう、ボーイングによって硬く閉ざされ、全く覗かせてもらえなかった。また、ボーイングからの厳しい発注基準に各社の技術陣は苦労を強いられたが、結果的に日本の技術水準を高めることとなり、ボーイングからも品質の高さを賞賛されている。
767は[[1981年]](昭和
=== YXXと777、787 ===
[[ボーイング767]]は一部で設計から参加できたとはいえ、実態は下請けと変わらない姿に日本の関係者の不満は募り、767開発開始の翌[[1979年]](昭和
[[画像:B777-200LR DSC04302.JPG|thumb|240px|日本は大型機[[ボーイング777|777]]開発にも参加した(写真は200LR型)]]
一方、ボーイングは国際分担によって開発費を減らすことと、納期を守る上に低価格高品質な日本の技術力、日本が気前良くはずむ開発費に味をしめ、[[ボーイング747|747]]と[[ボーイング767|767]]の間を埋める350席クラスの中型旅客機'''7-7'''を共同開発しないかと日本に打診した。
日本航空機開発協会(JADC、民間輸送機開発協会に[[1983年]](昭和
[[1994年]](平成
ボーイングは777の開発がほぼ終わりを迎えた1994年、[[エアバスA380]]に対抗する超大型旅客機[[ボーイング747-8#747X計画|747X]]計画で「777を上回る開発比率」として、主翼・中胴など日本側が求めていたものへの参加を許可し、A380に協力(エアバスは日本に10パーセントほどを負担してほしいと考えた)させないように仕組んだ上で、[[2000年]](平成
様々に振り回されてきたものの、日本企業にとって767と777への参加は非常に重要だった。767以前、日本の航空機メーカーの仕事の9割以上は[[防衛庁]]関連のものであったが、767と777によって民需への可能性を開くことができたと同時に、[[冷戦]]の終結によって世界的な軍縮の中で、防衛庁関連の受注も今後は伸びないであろう事から、積極的に民需への移転が必要とされるようになっていた。[[三菱重工業]]は後に[[カナダ]]の[[ボンバルディア・エアロスペース]]と協力関係を強め、[[川崎重工業]]も[[ブラジル]]の[[エンブラエル]]と協力体制をとることで、[[2001年]](平成
[[画像:Boeing 787 Roll-out.jpg|thumb|240px|3機種目の参加となった787(ロールアウト式典)]]
[[2003年]](平成
== 参考文献 ==
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* [[YXX]]
* [[YSX]]
* [[
== 外部リンク ==
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* [http://www.sjac.or.jp/index.html 日本航空宇宙工業会]
[[Category:日本の旅客機]]
[[Category:日本の
[[Category:経済産業省]]
[[Category:運輸省]]
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