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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 岡部 長泰
| 画像 = Okabe Nagayasu.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 岡部長泰肖像([[泉光寺]]所蔵)
| 時代 = [[江戸時代]]前期 - 中期
| 生誕 = [[慶安]]3年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]([[1650年]][[5月8日]])
| 死没 = [[享保]]9年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]([[1724年]][[9月5日]])
| 改名 = 龍千代(幼名)→)、宣就長泰
| 別名 = 帯刀([[仮名 (通称)|通称]]
| 諡号 =
|戒名=霊巌瑞應雲祥院
| 神号 =
|墓所=[[大阪府]][[岸和田市]]門前町の泉光寺
| 戒名 = 霊巌瑞應雲祥院
|官位=[[従五位]]下、[[備後国|備後]]守、[[美濃国|美濃]]守、[[従四位]]下
| 霊名 =
|幕府=[[江戸幕府]]
| 墓所 = [[大阪府]][[岸和田市]]門前町の[[泉光寺]]
|主君=
| 官位 = [[従五位|従五位下]]下、[[備後国#江戸時代|備後]]、[[美濃国#江戸時代|美濃]]、[[従四位|従四位下]]
|藩=[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]主
|氏族 幕府 = [[岡部氏江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川綱吉]]、[[徳川家宣|家宣]]、[[徳川家継|家継]]、[[徳川吉宗|吉宗]]
|父母=父:[[岡部行隆]]、母:[[堀直寄]]の娘
| = [[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]主
|兄弟=
| 氏族 = [[岡部氏 (藤原南家)|岡部氏]]
|妻=正室:[[内藤頼長]]の娘
| 父母 =父: [[岡部行隆]]、母:[[堀直寄]]
|子=龍千代(長男)、'''[[岡部長敬]]'''(次男)、岡部長徳(三男)、亮賢(四男)、[[柳生宗盈]](五男)、岡部長紹(六男)
| 兄弟 = '''長泰'''、[[有馬清純]]正室
|特記事項=
| 妻 = '''[[内藤義概|内藤頼長]]娘'''
| = 龍千代(長男)、'''[[岡部長敬|長敬]]'''(次男)[[岡部長徳(三男)|長徳]]、亮賢(四男)、[[柳生宗盈]](五男)[[岡部長紹(六男)|長紹]]
| 特記事項 =
}}
'''岡部 長泰'''(おかべ ながやす)は、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第3代藩主。岸和田藩岡部家4代。
 
'''岡部 長泰'''(おかべ ながやす)は、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第3代藩主。岸和田藩岡部家4代。
第2代藩主・[[岡部行隆]]の長男として[[江戸]]にて生まれる。初名は宣就。[[貞享]]3年([[1686年]])8月25日、父の隠居により跡を継いだ。藩財政は豊かで、祖父[[岡部宣勝]]や父の藩政のもとで岸和田藩は全盛期を迎えていたが、長泰は奢侈を戒めて倹約を主とした法令を定めている。また文武を奨励し、特に[[儒学]]を好んで[[林鳳岡]]に儒学を学び、自らも講師として藩士などに儒学を講じている。和歌をたしなみ、武芸を好むという智勇に優れた人物でもあった。民政においても善政を布いたことから、「誉ある将」と賞賛されている。
 
== 略歴 ==
2代藩主・[[岡部行隆]]の長男として[[江戸]]にて生まれる。初名は宣就。[[貞享]]3年([[1686年]])8月25日、父の隠居により跡を継いだ。藩財政は豊かで、祖父[[岡部宣勝]]や父の藩政のもとで岸和田藩は全盛期を迎えていたが、長泰は奢侈を戒めて倹約を主とした法令を定めている。また文武を奨励し、特に[[儒学]]を好んで[[林鳳岡]]に儒学を学び、自らも講師として藩士などに儒学を講じている。[[和歌]]をたしなみ、武芸を好むという智勇に優れた人物でもあった。民政においても善政を布いたことから、「誉ある将」と賞賛されている。
 
[[元禄]]16年([[1703年]])、[[京都]]の[[伏見稲荷大社]]を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願する稲荷祭を行った。これが全国的に有名な「[[岸和田だんじり祭]]」の起源となった。
 
[[宝永]]元年([[1704年]])、[[姫路藩]]主[[本多忠国]]の死去に伴い、[[大和川]]付替え|大和川付け替え工事]]の引継ぎを幕府より命ぜられ、完遂するなど、水利・治水に精通するなど民政に手腕を認められていた。
 
享保6年([[1721年]])9月22日、家督を次男の[[岡部長敬|長敬]]に譲って隠居し、享保9年(1724年)7月18日に岸和田で死去した。[[享年]]75。墓所は[[大阪府]][[岸和田市]]の泉光寺。
 
== 関連作品系譜 ==
*父:[[岡部行隆]](1617-1688)
* [[刃傷未遂]]([[1957年]]、[[大映]]) - 岡部長泰が登場する数少ない作品で、[[元禄赤穂事件]]のきっかけとなった江戸城・松の廊下での刃傷事件の約1年前を描いた作品。この作品で長泰は、高家筆頭の[[吉良義央|吉良上野介]]から無理難題を吹っ掛けられながらも、逆にこれをあしらい、上野介に恥をかかせると言う、ある意味「[[忠臣蔵]]」の異聞的な内容であった(演:[[長谷川一夫]])。
*母:[[堀直寄]]の娘
|妻=*正室:[[内藤義概|内藤頼長]]の娘
*側室
**次男:[[岡部長敬]](1680-1724)
*生母不明の子女
**長男:龍千代
**三男:[[岡部長徳]]
**四男:亮賢
**五男:[[柳生宗盈]](1692-?) - [[柳生俊方]]の養子
**六男:[[岡部長紹]]
 
== 参考文献 ==
*『新訂[[寛政重修諸家譜]]14』
 
== 創作 ==
* 映画『[[刃傷未遂]]([[1957年]]、[[大映]]) - には岡部長泰美濃守という勅使供応役の大名が登場する数少ない作品で、[[元禄赤穂事件]]のきっかけとなった江戸城・松の廊下での刃傷事件の約1年前を描いた作品。この作品で長泰は、高家筆頭の[[吉良義央|吉良上野介]]から無理難題を吹っけられながらも、逆にこれをあしらい上野介に恥をかかせるとう、ある意味「[[忠臣蔵]]」の異聞的な内容であった(演:[[長谷川一夫]])。元々は講談だったもの<ref>講談「忠臣蔵本伝 序・元禄十三年 岡部美濃守」</ref>
* 史実で長泰が担当したのは[[朝鮮通信使]]の供応である(吉良とは無関係)。また、元禄13年(1700年)には[[稲葉知通]](豊後[[臼杵藩]]主5万石)が勅使供応役を務めている。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 関連項目 ==
* [[だんじり]]
 
{{岸和田藩主|岡部氏|3代|1686年 - 1721年}}
 
{{デフォルトソートDEFAULTSORT:おかへ なかやす}}
[[Category:岸和田岡部|なかやす]]
[[Category:岸和田藩主]]
[[Category:譜代大名]]