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|commander2='''衛氏朝鮮'''
*[[衛右渠]]
|strength1=50000不明
*[[衛長降]]
*[[路人]]
*[[韓陰]]
*[[参 (衛氏朝鮮)|参]]
*[[王キョウ (衛氏朝鮮)|王唊]]
|strength1=50000
|strength2=不明
|notes=
}}
 
{{中華圏の事物
'''漢の衛氏朝鮮遠征'''(かんのえいしちょうせんえんせい)は、[[紀元前109年]]から[[紀元前108年]]まで、[[漢]]と[[衛氏朝鮮]]が戦った戦争。戦争は漢が勝利して、[[古朝鮮]]は終わりを告げる。
|タイトル=漢の衛氏朝鮮遠征
 
|画像種別=
== 事前の経緯 ==
|画像=
 
|画像の説明=
[[紀元前202年]]に高祖[[劉邦]]により[[前漢]]が成立。建国の功臣の一人である[[盧綰]]が[[燕国|燕]]王(現在の[[北京]]を中心とした一帯)に封じられた。しかし盧綰は高祖に対する反乱を企図していたとの疑いをかけられ、恐れて[[匈奴]]へと逃亡した。この時に盧綰の部下の一人であった[[衛満]]が朝鮮へと移り、当時の北朝鮮を支配していた[[箕子朝鮮]]を滅ぼして自ら王となったのが衛氏朝鮮である。都は王険に置かれた(現在の[[平壌直轄市|平壌]]){{Sfn|太田|2003|p=389}}{{Sfn|西嶋|1997|pp=196-197}}{{Sfn|田中|2000|p=33}}。衛満は[[恵帝 (漢)|恵帝]]・[[呂后]]時代に遼東太守の仲介により漢の外臣となった{{Sfn|太田|2003|p=389}}{{Sfn|西嶋|1997|pp=217-218}}。この時に漢から衛氏朝鮮に対して「守備を固めて夷狄の侵入を許さないようにすること」「周辺国が漢に入朝したいと願った時にこれを妨害しないこと」との条件を出していた{{Sfn|太田|2003|p=389}}{{Sfn|西嶋|1997|pp=197}}。しかし衛満が外臣となった後に周辺国に侵攻し、これに対して[[文帝 (漢)|文帝]]の時に朝鮮征討が議論されるようになったが、文帝は許可しなかった{{Sfn|田中|p=33}}。
|英文=Gojoseon–Han War
 
|繁体字=漢滅朝鮮之戰
== 開戦 ==
|簡体字=汉灭朝鲜之战
 
|ピン音=
時が流れて、朝鮮では衛満の孫[[衛右渠]]が王に、漢では文帝の孫[[武帝 (漢)|武帝]]が皇帝になっていた。衛右渠は、[[辰国]]や[[真番]]など周辺の小国が漢に対して入朝しようとするのを妨害するようになる{{Sfn|太田|2003|p=389}}{{Sfn|西嶋|1997|p=218}}{{Sfn|田中|2000|p=33}}。[[元封]]二年(紀元前109年)に漢は問責の使者として渉何を派遣したが、交渉は不調に終わる。渉何が帰る際に見送りに着いてきた朝鮮の副王を渉何が殺したので、怒った右渠は渉何を攻めてこれを殺した{{Sfn|太田|2003|p=389}}{{Sfn|西嶋|1997|p=218}}{{Sfn|田中|2000|p=33}}。
|通用 =
 
|注音符号=
武帝はこれに対して、遼東から陸路で左将軍{{仮リンク|荀彘 |label= |zh |荀彘 }}率いる軍(兵数不明)を、山東からは水路で楼船将軍[[楊僕]]率いる5万の水軍の二面から朝鮮へと攻め込ませた{{Sfn|太田|2003|p=389}}{{Sfn|西嶋|1997|p=218}}。両軍ともに初戦は衛右渠の迎撃にあって敗北。その後王倹城に迫ったものの衛右渠の抵抗も激しく、さらに荀彘と楊僕がお互いに功績を独占しようとしていたので漢軍内部で統一された行動が出来ていなかった。このため戦闘は長引き、攻城戦は翌年へと持ち越すこととなる{{Sfn|西嶋|1997|p=218}}。
|ラテン字=
 
}}
年が明けて元封三年(前108年)、荀彘が楊僕を捕らえて軍の指令を一本化して総攻撃をかけたことで漢の優勢となった{{Sfn|西嶋|1997|p=218}}。衛右渠は大臣の[[参 (衛氏朝鮮)|参]]によって殺され、参は漢軍に降伏した{{Sfn|西嶋|1997|p=218}}。その後も王倹城では抵抗が続けられた{{Sfn|西嶋|1997|p=218-219}}。
{{朝鮮の事物
 
|title=漢の衛氏朝鮮遠征
== 戦後 ==
|picture-type=
 
|picture=
王倹城を落とした後、武帝はその地に新たに[[楽浪郡]]・[[玄菟郡]]・[[臨屯郡]]・[[真番郡]]の4つの郡([[漢四郡]])を起き、この地を直轄支配下に置いた{{Sfn|太田|2003|p=389}}{{Sfn|西嶋|1997|p=219}}{{Sfn|田中|2000|p=34}}。
|caption=
 
|hangeul=
凱旋将軍の荀彘と楊僕であったが、荀彘は楊僕を勝手に捕らえた罪で[[棄市]]の刑となり、楊僕は数多くの兵を失ったことで庶民に落とされた{{Sfn|鶴間|1997|p=244}}。
|hanja=漢-衛氏朝鮮 戦争
|hiragana=かん-えいしちょうせん せんそう
|katakana=
|latin=Gojoseon–Han War
}}
'''漢の衛氏朝鮮遠征'''(かんのえいしちょうせんえんせい)は、[[漢]]の[[衛氏朝鮮]]遠征は、[[紀元前109年]]から[[紀元前108年]]まで、[[漢]]と[[衛氏朝鮮]]が戦った戦争。戦争は漢が勝利して、[[古朝鮮]]は終わりを告げる。戦争の起因は、[[衛氏朝鮮国王の一覧|衛氏朝鮮王]]の[[衛右渠]]が、朝鮮半島南部にある[[辰国]]が漢への往来や[[朝貢]]をすることを妨害したことである。[[漢の武帝]]が紀元前109年に軍隊を派遣して、最終的に古朝鮮を破壊する<ref>『[[漢書]]』巻95</ref>。古朝鮮は滅ぼされて、漢は[[遼東半島]]と[[朝鮮半島]]に[[漢四郡]]([[楽浪郡]]・[[真番郡]]・[[臨屯郡]]・[[玄菟郡]])を設置した<ref>『[[資治通鑑]]』巻21</ref>。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
 
=== 史料 ===
* 『[[史記]]』朝鮮列伝第五十五
* 『[[漢書]]』西南夷両粤朝鮮伝第六十五
* 『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』烏桓鮮卑東夷伝
{{wikisource|史記/卷115|列伝第五十五 朝鮮列傳}}{{wikisourcelang|zh|漢書/卷095|列伝六十五 西南夷兩粵朝鮮傳第六十五}}{{wikisourcelang|zh|三國志/卷30|魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳}}
 
=== 現代文献 ===
 
* {{Cite book|和書|author=[[西嶋定生]]|title=秦漢帝国 |year=1997 |publisher=[[講談社]] |edition= |series=講談社学術文庫 |isbn=4061592734 |ref={{SfnRef|西嶋|1997}} }}
* {{Citation|和書|author=[[太田幸男]]|contribution=前漢|title=中国史 先史〜後漢|ref={{SfnRef|太田|2003}} }}
** {{Cite book|和書|author1=[[西江清高]]|author2=[[竹内康浩 (東洋史学者)|竹内康浩]]|author3=[[平㔟隆郎]]|author4=[[太田幸男]]|author5=[[鶴間和幸]]|editor1=[[松丸道雄]]|editor2=[[池田温]]|editor3=[[斯波義信]]、[[神田信夫]]、[[濱下武志]] |title=中国史 先史〜後漢 |date=2003-08 |publisher=[[山川出版社]] |___location= |series=世界歴史大系 |volume=1 | edition= |isbn=4634461501 |ref={{SfnRef|西江|竹内|平㔟|太田|鶴間|2003}} }}
* {{Cite book|和書|author=[[鶴間和幸]]|year2004 |title=中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産:秦漢帝国 | publisher=[[講談社]] |edition=初版 |series= |isbn=4062740532 |ref={{SfnRef|鶴間|2004}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[田中俊明 (歴史学者)|田中俊明]] |editor=[[武田幸男]] |title=朝鮮史 |chapter=第一章 古朝鮮から三国へ|series=新版世界各国史2 |yeare=2000 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-41320-7 |ref=田中 2000}}
 
== 関連項目 ==
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[[Category:紀元前の戦争]]
[[Category:中国朝鮮関係史]]
[[Category:満州の歴史]]
[[Category:紀元前109年]]
[[Category:紀元前108年]]