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[[File:Asahi Shimbun newspaper clipping (27 September 1950 issue).jpg|thumb|250px|「伊藤律との会見」を報じた朝日新聞(1950年9月27日付)]]
'''伊藤律会見
== 概要 ==
[[1950年]]([[昭和]]25年)[[9月27日]]付(26日発行)の『[[夕刊朝日新聞]]』と9月27日付の『朝日新聞』朝刊は、
会見模様として伊藤の表情が書かれ、記者との一問一答まで紹介されていた。また会見の状況として、記者は目隠しされた上で潜伏先のアジトまで案内されたと説明された{{sfn|朝日新聞社史(昭和戦後編)|page=195}}{{sfn|朝日新聞社史(資料編)|pages=160-162}}{{sfn|新聞の虚報・誤報|pages=96-100}}。
この会見記事には、伊藤の行方を追っていた[[日本の警察|警察]]も重大な関心を寄せることとなった。しかし、26日に[[法務庁|法務府]]特別審査局次長が[[朝日新聞大阪本社|大阪本社]]編集局長・神戸支局長の
スクープ記事を捏造した担当記者は、9月29日、勅令第311号([[占領目的阻害行為処罰令]])違反容疑で逮捕されるとともに退社処分となった{{sfn|朝日新聞社史(資料編)|page=162}}。このほか、大阪本社編集局長と神戸支局次長が解任(元神戸支局次長はその後、1951年8月に依願退社)、神戸支局長が依願退社、東京・西部両本社編集局長と大阪通信部長の3人が譴責処分、西部本社編集局次長ら6人が戒告処分となった{{sfn|朝日新聞社史(昭和戦後編)|page=196}}。担当記者はその後に[[執行猶予]]付きの有罪[[判決 (日本法)|判決]]を受けた。
担当記者は拘留された際の自供で、「動機は世間をアッといわせるような特種を書こうというニュース取材に対する競争心と功名心から」と語ったという<ref>{{Cite news |和書 |title=特種を焦って |newspaper=朝日新聞 |date=1950-10-01 |edition=朝刊 |page=3}}</ref>。『朝日新聞社史』では、事件の背景として、当時、伊藤律が神戸方面にいるらしいという情報が流れていたため、治安当局が捜査活動を行うのみならず、各新聞社も激しい取材競争を行っていたこと、また、共産党幹部関係のニュースは未確認情報であっても紙面に掲載される傾向があったことを指摘している{{sfn|朝日新聞社史(昭和戦後編)|page=197}}。
出稿前に大阪本社通信部のデスクから信憑性を疑う声が出たが、編集局長は現場の声に押されて掲載を決めた。東京本社ではさらに共産党担当記者から伊藤がインタビューに応じる必然性がないなどの声が出たが、「大阪がそこまでがんばるなら」という声に押されて報道に踏み切った。▼
▲出稿前に、[[朝日新聞大阪本社]]通信部のデスクから、信憑性を疑う声が出たが、編集局長は現場の声に押されて掲載を決めた。[[朝日新聞東京本社]]では、さらに共産党担当記者から「伊藤が[[インタビュー]]に応じる必然性がない」などの声が出たが、「大阪がそこまでがんばるなら」という声に押されて[[報道]]に踏み切った。
朝日新聞[[縮刷版]]では、この記事は非掲載となっており、該当箇所は白紙で、虚偽報道であったと「お断り」告知になっている{{efn|現在の『朝日新聞』縮刷版は、[[誤植]]・[[誤報]]の箇所についても、訂正記事を含め原版をそのまま収録しているが、1989年9月までは、縮刷版発行までに誤りが判明した箇所については、修正した形で収録する方針であった<ref>{{Cite news |和書 |title=読者と新聞 編集局から 縮刷版が少し変わります |newspaper=朝日新聞 |date=1989-10-22 |edition=朝刊 |page=5}}</ref>。当時の朝日新聞を収蔵している[[国立国会図書館]]では、新聞の[[マイクロフィルム]]や原本を所有しており、請求すれば閲覧や複写が可能である。また、朝日新聞のオンライン新聞記事データベース「(聞蔵IIビジュアル→)朝日新聞クロスサーチ」で公開されている「朝日新聞縮刷版1879〜1999」は、発行当時の紙面のマイクロフィルム版をスキャンしたものであるため、該当箇所も初出のまま収録されている。「会見記」のテキスト全文は、1995年発行の『朝日新聞社史 資料編』に、不祥事の事例の一つとして収録されている{{sfn|朝日新聞社史(資料編)|pages=160-162}}。}}{{sfn|新聞の虚報・誤報|page=99}}{{sfn|新聞の虚報・誤報|page=103}}。
また、[[誤報#昭和(戦後)の三大誤報|昭和(戦後)の三大誤報]]のひとつとしてあげられる。▼
1994年(平成6年)に発行された『朝日新聞社史 昭和戦後編』は、本件を「弁解の余地がない不祥事」としている{{sfn|朝日新聞社史(昭和戦後編)|page=195}}。
== 伊藤律本人の反応 ==
当時潜伏中だった伊藤本人は晩年の書簡で、記事の掲載当時は東京におり「なかなか迫真的なこの大記事を夕刊で見て思わず吹き出した」と記している
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |title=朝日新聞社史 昭和戦後編 |editor=朝日新聞百年史編修委員会 |publisher=朝日新聞社 |date=1994-07-10 |isbn=9784022730268 |ref={{sfnref|朝日新聞社史(昭和戦後編)}}}}
* {{Cite book |和書 |title=朝日新聞社史 資料編 |editor=朝日新聞百年史編修委員会 |publisher=朝日新聞社 |date=1995-01-25 |isbn=9784022730268 |ref={{sfnref|朝日新聞社史(資料編)}}}}
* {{Cite book |和書 |title=生還者の証言―伊藤律書簡集 |editor=伊藤律書簡集刊行委員会 |publisher=五月書房 |date=1999-10 |isbn=9784772703062 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |title=新聞の虚報・誤報 その構造的問題点に迫る |author=池田龍夫 |publisher=創樹社 |date=2000-06-15 |isbn=4-7943-0560-5 |ref={{sfnref|新聞の虚報・誤報}}}}
== 関連項目 ==
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* [[伊藤律]]
== 外部リンク ==
{{朝日新聞社}}▼
* [https://www.econfn.com/iwadare/page058.html もの書きを目指す人びとへ]([[岩垂弘]])
▲ {{朝日新聞社}}
{{DEFAULTSORT:いとうりつかいけんほうとうしけん}}
[[Category:日本共産党の事件]]
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[[Category:
[[Category:捏造]]▼
[[Category:1950年の日本の事件]]
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