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|説明 = [[清]]代の書物に描かれた黄忠
|王朝 = [[蜀漢]]
|称号・役職 =
|出生 = 生年不
|出身地 = [[荊州]][[南陽郡]]
|死去 = [[建安 (漢)|建安]]25年([[220年]]
|死没地 =
|ピン音 = Huáng Zhōng
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|廟号 =
|別名 =
|主君 = [[劉表]]→[[劉琮]]→[[
|特記事項 =
}}
'''黄 忠'''(こう ちゅう、
== 生涯 ==
=== 劉備軍の勇将 ===
[[劉表]]に仕え、[[中郎将]]に任じられた。また、劉表の[[従子]]である[[劉磐]]と共に、[[長沙郡]]の[[攸県]]の守備の任についていた。しかし劉表が亡くなり、[[曹操]]が荊州を降伏させた後は、曹操より仮の裨将軍に任じられ、職務はそのままで長沙[[太守]]であった[[韓玄]]の配下についた。
[[赤壁の戦い]]の後に、劉備が荊州南
[[建安 (漢)|建安]]24年([[219年]])春、劉備が漢中攻めを行なうと、曹操配下で[[関中]]方面の総司令官であった[[夏侯淵]]と、定軍山において対峙し戦った。曹操配下として、勇猛果敢であると名を知られていた夏侯淵であったが、[[法正]]の指示を受けた黄忠は率先して、軍を率いて背後から夏侯淵に襲いかかり、
=== 後将軍 ===
同年秋、劉備が漢中王になると黄忠を[[前後左右将軍|後将軍]]に任命しようとしたが、[[諸葛亮]]は「[[張飛]]殿・[[馬超]]殿らは彼の活躍を見ているので文句は言わないでしょうが、(荊州に残った)[[関羽]]将軍はそのことを知らないので、納得しないでしょう」と進言した。だが劉備は、関羽の説得は自分がすると言って、黄忠を後将軍に任命し、[[関内侯]]の爵位を与えた。後日、やはり諸葛亮の不安が的中し、関羽は黄忠を「老兵」と侮って同列の[[前後左右将軍|前将軍]]になることを拒否したが、[[費詩]]の説得で前将軍に就任した。
翌建安25年
なお、同じ巻に纏められた関羽・張飛・馬超・[[趙雲]]ら四人と比べても黄忠伝は記述が少なく、裴松之による注釈も無い。他に彼の人柄を表す資料として、『三国志』蜀書の末尾に記載されている『[[季漢輔臣賛]]』の9番目に名前があり、「義に厚い壮士」であったとされている。
陳寿は、趙雲と共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となったとし、
== 三国志演義での活躍 ==
[[ファイル:Huang Zhong 2016 Han Zhao Lie Miao.jpg|thumb|[[成都武侯祠]]の黄忠像|250px]]
小説『[[三国志演義]]』では、60歳を過ぎた老将でありながら、弓の名手としてその腕前を披露する姿が描かれ、敵将を一騎討ちで討ち取る場面も多い。老いるともなお勇猛果敢な活躍を見せている。[[五虎大将軍]]の一人と位置付けられている。
関羽率いる劉備軍が長沙に攻め寄せると、韓玄配下としてこれに応戦する。その際、関羽との一騎討ちで互角に戦うが、馬が躓き危うく討ち取られそうになる。関羽は黄忠の武勇を認め「貴殿のお命しばし預けた。早く馬を換えて戦いに戻られよ
漢中攻略時には、同じく老将である設定の[[厳顔]]とコンビを組み、[[
また史実では220年に亡くなっているが、『演義』では[[夷陵の戦い]]にも参加している。その最中、劉備が[[関興]]・[[張苞]]といった若者を称え、老兵を軽んじる発言をしたため、部下十数名で[[呉 (三国)|呉]]の[[潘璋]]の陣へと斬り込んでいる。しかし最後は[[馬忠 (孫呉)|馬忠]]の矢にあたり、それが元で死亡してしまう。
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* [[廉頗]] - 『三国志演義』で、[[趙 (戦国)|趙]]の廉頗を持ち出して高齢になっても使いものになることを主張している。
{{三国志立伝人物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こう ちゆう}}
[[Category:劉表軍の人物]]
[[Category:曹操軍の人物]]
[[Category:劉備軍の人物]]
[[Category:三国志の登場人物]]
[[Category:
[[Category:生年不明]]
[[Category:220年没]]
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