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'''山根二郎'''(やまね じろう、[[1936年]][[9月27日]]生まれ)は、日本の[[弁護士]](登録番号9881、[[長野県弁護士会]]所属)、[[思想家]]。現在は[https://yamanejiro.com/ 山根二郎法律事務所]の代表を務めている。日本の[[法曹|法曹界]]において数々の大事件に関与し、[[環境問題]]や[[社会問題]]にも積極的に取り組んでいる。特に、[[裁判|法廷闘争]]の在り方に革新をもたらし、その名は『朝日人物事典』にも記載されている。
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== マーベルアニメを放送していた放送局 ==
以下のチャンネルが見つかっているのですが、私が2000年・2003年頃に見ていたもう1つ(もしくは3つ)のテレビ局が見つかりません。探しても無く、ロゴがあるように見えるのに出てこないのです。当時、大和と東関東だったのですが、どこかにありませんでしたか?
[https://www.youtube.com/watch?v=yUkoWW707U0&pp=ygUY44K544OR44Kk44OA44O844Oe44OzIE9Q 日本語版OP]でコメントしてる人がいるんですが、確かにあったはずなんです。2003年10月2日から11月27日までの平日21時00分 - 21時30分でしたし、月曜日の裏番組[[機動戦艦ナデシコ]]も知ってます。スパイダーマン1981年版、アベンジャーズについては2003年4月でしたし、その中でマーベル・スーパーヒーローズ(2003年4月)も日本語吹き替え版でありましたが、シルバーサーファーは恐らく5月辺りでしょうが、超人ハルクは日本語字幕版で放送されてました。この期間、[[NHK教育テレビジョン]]で[[モンタナ]]、[[カスミン]]、[[テレ東]]で[[E'S OTHERWISES]]、[[カレイドスター]]などのアニメがあったの分かってるんですが。
日本国内においてテレビでの[[海賊放送]]は存在しない(ラジオは存在する)とお聞きしており、必ずあったと思うのですが、オークションでも売り切れているせいか、調べられない状況です。
== 人物・経歴 ==
本当に[[森川智之]]版のスパイダーマンが2004年7月からしかなく、[[猪野学]]版から始まったというなら、私はこの森川智之版を嫌うことになるのですが、どうも2004年7月に1967年版の第1話があったし、カートゥーンネットワーク版の裏として動いてたとしか思えないため、あったと思われます。2004年8月号は持っているのですが、その時点で既に無いことは確認できています。
=== 出生と幼少期 ===
1936年、[[東京都]][[千代田区]]隼町で生まれる。名付け親は父親と親交があった[[川島浪速]]で、当初「興亞」(おきつぐ)と名付けられるも、高校3年時に「二郎」に改名<ref>1954年10月22日、高校3年のとき、父の反対を押し切り、名前が時代にそぐわないとして、自ら長野家庭裁判所松本支部に申立をして戸籍名を二郎に変更した。</ref>。幼少期には隼町から平河町に転居。1943年4月、永田町国民学校(現・永田小学校)に入学し、翌年には[[東條英機]]首相の挨拶を最前列で聴いた経験を持つ。1944年11月、川島浪速の伝手で家族ともども信州松本の[[浅間温泉]]へ疎開。この地域は名付け親である川島浪速の出身地でもあった。
でも確かにそのテレビ局が存在していたことは分かっています。
=== '''教育と思想的形成''' ===
戦後、[[日本国憲法]]の読本に感銘を受け、中学時代に[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]の『[[罪と罰]]』に没頭。これが後の弁護活動や人間理解に多大な影響を与える。1953年に[[長野県松本深志高等学校|松本深志高校]]へ進学し、そこで[[フランス語]]の恩師との出会い<ref>高等学校3年生のとき、選択科目のフランス語を担当した並木康彦教諭から[[フランス文化]]と自由の精神を学ぶ。特に、[[アルチュール・ランボー]]や[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の詩に深く感銘を受け、フランス国歌『[[ラ・マルセイエーズ]]』は今でも心に強く響いている。同級生には、後に[[国際教養大学]]を創立した[[中嶋嶺雄]]がいて、二人はこの年、共に北アルプスを縦走した。</ref>が自身の思想形成に影響を与えた。
どうも、放送実績が確認できなかったと書いている人がおかしい気がします。だって、実際に見てる人なんですよ??? もし数百人が見てて「放送実績が確認できなかったため」ってなったら、私がPGnomiさんに嘘を書かせているのと同じ状況になります。
=== '''大学時代と社会運動への関与''' ===
1956年、[[中央大学法学部|中央大学法律学部]]法律学科に入学<ref>当初は<[[フランス文学]]を志していたが、現実的に生計を立てるのは難しいと考え、大学受験直前に進路を変更し、弁護士を目指して中央大学法律学部法律学科に入学。しかし、[[法律]]にはどうしても興味を持てず、神保町の『モーツァルト』や『ラドリオ』、新宿の『風月堂』といった喫茶店に通う日々を送った。</ref>。在学中には、[[安保闘争]]が激化する中、1960年の国会突入時にデモに参加。これが彼の社会問題への関与の始まりとなった。
見つからない局
=== '''弁護士活動''' ===
*?
1966年、[[弁護士]]登録後、東京で[[法律事務所]]を開業。1968年、[[金嬉老事件]]の主任弁護人として、在日朝鮮人問題を初めて裁判で提起<ref>その後、韓国に帰国した金嬉老から、オモニ(母親)と山根の写真を並べて飾っているとの葉書が届いた。</ref>。翌1969年には、[[東大安田講堂事件]]の主任弁護人として460名の被告人を擁護し、[[東京地方裁判所|東京地裁]]と対峙<ref>この裁判において、山根は[[裁判長]]の訴訟指揮に従わず発言を続けたため、法廷の秩序を乱したとして2度にわたり監置処分を受けた。池袋の[[東京拘置所]]の独居房で、1回目は5日間、2回目は3日間の拘禁を経験するが、怯まず東京地裁の法廷で発言を続けた。昭和44年12月、東京地裁所長の[[新関勝芳]]は、山根の東大裁判での法廷活動に対して、第2[[東京弁護士会]]会長に[[懲戒請求]]を行い、山根の処分を求めた。しかし、昭和47年5月12日、第2東京弁護士会綱紀委員会は『懲戒しないことが相当である』と議決。しかし新関は異議を申し立て、日本弁護士連合会に懲戒を求めた。結果、7年後の昭和54年11月1日、[[日本弁護士連合会]]懲戒委員会は山根に『業務停止4か月』の処分を下した。これに対し、『山根懲戒処分に抗議する・千人委員会』が発足し、弁護士や各界の著名人が賛同署名(計757名)を行った。昭和45年に発刊された『現在の弁護士 4巻』(日本評論社)は、「弁護士山根二郎 - これほどはっきりと、裁判の儀式性に粉飾されたいやったらしい虚構の権威に嫌悪をたたきつけた者はない。」として、『[[金嬉老事件]]』『[[東大安田講堂事件]]』などの法廷闘争を展開した彼を、[[八海事件]]などの[[冤罪|冤罪事件]]と闘い続けた正木ひろし弁護士と並べて、「彼らのきりひらいた告発は、情況に対する計算を断ち切って自らをかけたことにおいて、比類のない強烈な弾劾を刑事司法に浴びせえたのである。」と評価している。
:* [[マペット・ベイビーズ]]([[真殿光昭]]、[[浅野るり]]、[[落合弘治]]、[[小桜エツ子]])※当時3歳のため、邦題は不明。
</ref>。この裁判での山根の闘う姿は、後に多くの若者が弁護士を志すきっかけとなった。また、昭和天皇狙撃事件の[[奥崎謙三]]の弁護<ref>昭和44年1月2日の[[皇居]][[一般参賀]]の際、元日本兵で[[ニューギニアの戦い|ニューギニア]]の生存者であった奥崎謙三が、バルコニー上の昭和天皇に向けて手製のゴムパチンコで数発のパチンコ玉を発射。そのうち一発が[[昭和天皇]]から数メートル離れたお立ち台の縁に当たり、奥崎は[[天皇]]に対する[[暴行罪]]で起訴された。山根は、起訴状に『被告人が天皇に向かってパチンコ玉を発射し暴行を加えた』としか記載されていない点を問題視し、この場合『天皇』ではなく個人としての氏名を記載すべきであると主張。また、もし天皇が暴行罪の被害者であるなら、その意思や証言を明らかにすべきだと公判のたびに[[検察官]]に問いただしたが、検察官はこれに応じることはなかった。</ref>も担当する。
:* [[愛をあなたの胸に]](上記の番組からCMで見ただけ、日本語字幕版。日本人の声優がナレーション。)
:* [[スパイダーマン (1967年のテレビアニメ)|スパイダーマン'67]]
:* [[スパイダーマン (1981年のテレビアニメ)|スパイダーマン'81]]
:* [[超人ハルク (1982年のテレビアニメ)|超人ハルク (1982)]]
:* [[マーベル・スーパーヒーローズ (アニメ)]]
:* [[アベンジャーズ:ユナイテッド・ゼイ・スタンド]]
:* [[シルバーサーファー (アニメ)]]
*?
=== 松本市への移住と環境問題への取り組み ===
:* [[スパイダーウーマン (アニメ)]]
1982年、東京を離れ、[[長野県]][[松本市]]に移住。1988年には[[スパイクタイヤ]]の製造・販売中止の調停を成立<ref>積雪・寒冷地で長年問題となっていたスパイクタイヤによる道路粉塵公害を解決するため、長野県弁護士会公害対策委員長であった山根は、タイヤメーカー7社を相手取り、公害調停を申立てた結果、スパイクタイヤの全面製造・販売中止を実現した。この調停成立は[[読売新聞]]の一面トップで報じられ、[[朝日新聞]]は『[[天声人語]]』で「取り返しのつかない健康被害を未然に食い止めた・・・歴史的な四大公害訴訟の苦い例を見るように、これまでの公害病の対策はたいてい後追いだった。」と評価し、今回は歴史的な意義がある』と賞賛した。</ref>させた。また、2000年には大仏ダム建設計画を中止に追い込む<ref>長野県松本市内を流れる[[薄川]]の上流において、長野県が建設を計画していた高さ88メートル、横幅400メートルの巨大ダム(大仏ダム)の着工を阻止するため、[[建設省]](現・[[国土交通省]])に乗り込み、建設工事差止訴訟を提起。これにより、[[長野県知事一覧|長野県知事]]に就任したばかりの[[田中康夫]]が建設計画を中止する決定を下した。</ref>など、数多くの[[公害|公害問題]]にも取り組んだ。
*?
=== 著名な法廷闘争と社会的影響 ===
:* [[スパイダーマン&アメイジング・フレンズ]](2001年頃)
1990年代には、[[資生堂]]や[[花王]]を相手取った[[独占禁止法]]違反訴訟で代理人を務め、業界の不正を明るみに出す。また、2002年に[[マックスファクター]]株式会社を相手取った裁判で、単独で日本最大規模の法律事務所に挑み、商品の出荷を命じる全面勝訴を[[神戸地方裁判所|神戸地裁]]で獲得。当時の[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ビル・クリントン]]から感謝と激励の手紙を受け取る。
:* 超人ハルク (1982年)
見つかってる局
=== '''その他のエピソード''' ===
* [[カートゥーンネットワーク]]
1955年、高校卒業後に父親とともに[[世田谷区|世田谷]]にある[[真崎甚三郎]]の私邸を訪問<ref>① このとき、父親は息子(山根)を指して真崎に『これはフランス文学をやりたいと言っているんですよ』と伝えた。それを聞いた真崎は、山根に向かってこう語った。
:* [[宇宙忍者ゴームズ]]
:* [[X-メン:エボリューション]]
:* [[スパイダーマン (アニメ)|スパイダーマン'94]]
↑どう考えてもマーベルアニメを一杯放送してた局じゃないでしょ!?
* [[アクションチャンネル|AXN(アクションチャンネル)]]
『君はフランスを自由な国だと思っているかもしれんが、あんなに差別が強い国はないんじゃよ。[[武官]]だったわしが[[パリ]]に行ったとき、エレベーターも別じゃった。わしから見れば、東條なんか小僧っ子みたいなもんじゃったよ。よく駆け足させたもんじゃ。わしが失脚していなかったら、あんな戦争は絶対に起こさせなかった。』
:* [[スパイダーマン 新アニメシリーズ]]
:* ドラマ:[[ミュータントX]]
* [[トゥーンディズニー]]⇒[[ディズニーXD]]⇒[[ディズニーチャンネル]](現在)
父親はその翌年の昭和31年8月8日に、真崎はその3週間後の8月31日に亡くなった。山根の手元には、[[真珠湾攻撃]]の20日前、昭和16年11月17日に真崎甚三郎が父親に宛てた手紙が残っており、そこには毛筆でこう書かれている。
:* スパイダーマン'94
:* [[スペクタキュラー・スパイダーマン]](なぜか[[スぺクタキュラー・スパイダーマン]]でダメ)
:* [[アルティメット・スパイダーマン]]
:* [[マーベル スパイダーマン]]
:* スパイダーマン&アメイジング・フレンズ
:* [[スパイダーマン・アンリミテッド]]
:* [[アベンジャーズ 地球最強のヒーロー]]
:* [[アベンジャーズ・アッセンブル]] ほか
--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 07:18 (UTC)
:他にもドラマの宣伝流してたのは覚えています。そのテレビ局は普段、アニメを放送するところではないってことも。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 07:21 (UTC)
『小生は只々、逆上者、強欲者、厚顔者、低脳者、破廉恥漢等が一日も速やかに迷夢より覚めんことのみ祈りおり候
::1967年版のほう書き込みましたけど、これで無かったら家の窓から・・・。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 08:54 (UTC)
:::これで[[利用者:うさぎ副部長]]が「放送実績を確認できませんでした」と書いたら、PGnomiの嘘になってしまうどころか、私のほうが多くなってしまいますので探していただければ・・・。過去のガイド誌(2003年4月~9月と10月~12月、2004年4月~7月)、売ってないのつら・・・。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 08:57 (UTC)
::::[[ソニックX]]も忘れてました。しかし、本当にこれで無かったら非常に怖いので、本当にお願いしたいのですが・・・。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 13:02 (UTC)
{{コメント}}いったい何を言いたいのか、聞きたいのか、さっぱりわかりません。ただ、過去の放送実績に関する文献ですが、BS/CSの放送予定が分かればいいのであれば、国会図書館の蔵書検索で調べて実物を確認するのが良いと思います、としか言えないですね。--[[利用者:VZP10224|VZP10224]]([[利用者‐会話:VZP10224|会話]]) 2024年10月20日 (日) 15:49 (UTC)
:そちらの図書館では、スカパーガイド誌を2010年から辿ることになっているようです。しかし、私が求めているのは2003年です。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 17:34 (UTC)
十一月十七日 真崎拝
::国会図書館であれば、手間はかかりますが該当する時期の新聞の縮刷版とかでテレビ欄を追うという手もありますよ。bs/csを記載している新聞も複数あるでしょうし、時期的な抜けは心配ないと思いますが。--[[利用者:Colonan|Colonan]]([[利用者‐会話:Colonan|会話]]) 2024年10月25日 (金) 00:32 (UTC)
山根 君』
:::やっぱりそうなりますかね・・・、横浜の新聞(旭?)で横浜ケーブルビジョンの番組表があればまだいいのですが・・・。
:::子供の頃に読売新聞を一時期とっており、恐らくAXN辺りは載ってたことは分かってたと思うので(1度だけ早見優さんが広告に出た気がした)、
ここに出てくる『逆上者、強欲者、厚顔者、低脳者、破廉恥漢等』とは、開戦に踏み切ろうとしていた[[統制派]]の首相東條英機らのことに他ならない。
:::ディレクTVじゃなくてもスカパーガイドじゃなくても調べられるってことなんですね・・・。
:::というか、なんでこんな質問したんだろうって思いました。本当にすみません。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月25日 (金) 07:05 (UTC)
② 父親は、[[二・二六事件|2・26事件]]の反乱軍を自宅の庭に招き入れ激励するほどの[[国粋主義|国粋主義者]]で、昭和8年の[[国際連盟脱退]]の立役者だった外務大臣[[松岡洋右]]や、2・26事件の青年将校らが担ごうとしていた[[皇道派]]の総帥、陸軍大将の真崎甚三郎とも親交が深かった。山根が小学校2年生のとき、2・26事件で失脚していた真崎が、父親を訪ねて信州浅間温泉の旅館『尾の上の湯』に投宿した際、父親は山根を密談の場に連れて行き自分の横に座らせた。そのとき真崎大将は、茶筒に入っていた『おこし』を半紙に乗せて差し出してくれた。</ref>。この訪問は山根にとって重要な節目となった。
また、2017年には[[国宝]][[松本城]]の樹齢400年の大[[ケヤキ]]の伐採を阻止<ref>平成29年1月、松本市が国宝松本城の内堀石垣上にそびえ立つ樹齢400年の大ケヤキを伐採しようとしていることを知った山根は、市役所に乗り込み、副市長と直接談判した。彼は『どうしてもこの大ケヤキを切るというのであれば、私はこの木に登って籠城し、全国民に松本市の暴挙を訴える。それで80歳の私が逮捕されれば、全国ニュースになるだろう』と宣言。この行動により、大ケヤキの伐採は回避された。しかし、松本市は今なお、この大ケヤキが立つ[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の最古の[[石垣]](500年の歴史を持つ)を解体する計画を進めており、[[文化庁]]を巻き込んだ利権構造の中でその計画は進行している。</ref>し、翌2018年には[[ネオニコチノイド]]系[[殺虫剤]]の空中散布を中止させるなど、地域環境保護にも貢献している<ref>松本市は、同市を取り囲んでいる松林の松枯れ防止のために、[[発達障害]]等の重大な[[健康障害|健康被害]]をもたらすと指摘されているネオニコチノイド系殺虫剤を過去5年間にわたってヘリを使って空中散布を続けていた。(医者でもあった)当時の市長は「明らかな健康被害が確認できたら、空中散布は中止する」と言って散布をやめようとはしなかったのであるが、それで取り返しがつかなくなったのがあの水俣病だった。</ref>。
== 主要な裁判・成果 ==
1968年[[金嬉老事件]]の主任弁護人となり、裁判の場に初めて在日朝鮮人問題を提起する。
1969年日本における若者最後の反乱というべき東京大学[[安田講堂事件]]の主任弁護人となり、三百数十名の被告人(学生)の[[統一公判]]を要求、分割公判を強行する東京地裁と全面対決した裁判闘争を展開。裁判所より発言禁止等の制裁を受けA級戦犯らも収監されていた巣鴨プリズン(現池袋サンシャイン60のあった場所)に5日間拘留されたほか、
他の弁護士から審判妨害罪で告発されることもあった<ref>東大裁判の山根弁護士を起訴猶予処分『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月19日朝刊 12版 22面</ref>が、弁護を継続し学生の大半の執行猶予付き判決を勝ち取る。この事件はそれまで閉鎖的であった日本の裁判そのものを社会的に開放した先駆けとなる。
1969年[[昭和天皇パチンコ狙撃事件]]の犯人[[奥崎謙三]](ドキュメンタリー映画『[[ゆきゆきて、神軍]]』の主人公)の弁護人を担当。事件の社会的タブーの度合いから弁護人のなり手がなく当時金嬉老事件や東大安田講堂事件で連日新聞の一面を飾りテレビにも出演していた山根(テレビのワイドショー等に弁護士が出演するようになったのは山根が初めてでそれまで閉鎖的だった裁判や弁護士という職業にスポットライトが当たる先駆けとなった)に白羽の矢が立った。なお、この事件がきっかけで皇居内のバルコニーに防弾ガラスが設置されることとなった。
1988年積雪・寒冷地の住民を長年苦しめてきたスパイクタイヤによる道路粉塵公害を解決するため、長野県弁護士会公害対策委員長時に、タイヤメーカー七社を相手取って公害調停を申立て、スパイクタイヤの全面製造・販売中止の調停を成立させる。
1991年資生堂・花王を相手取った民事訴訟の代理人となり、裁判等を通じて化粧品メーカーの独禁法違反問題を提起。
1993年アメリカ合衆国のメジャー化粧品メーカーの[[マックスファクター]]を[[独占禁止法]]違反で提訴した事件の主任弁護人となり勝訴。同事件は独禁法事件の代表的な判例として法学の教科書に掲載されるなどその後の独禁法訴訟の指針となった。
1996年カルト教団の宗教施設建設計画阻止のため地域住民を指導し、代理人として建設差止の調停を申立てるなどして撃退に成功<ref>長野県松本市横田に計画されていたカルト教団の宗教施設建設を阻止するため、山根は地域住民を指導し、代理人として建設差止の調停を申立てるなどして、この計画の撃退に成功した。この闘争の記録は『護られた街―実録 カルトは防げる』に詳述されている。</ref>。
1995年オウム事件を契機に執筆を開始、膨大な資料を徹底的に探索・検証し、根元的な思索と精神の激闘が著書「仏教解体」となる。
2001年元長野県知事[[田中康夫]]の[[脱ダム宣言]]に先立ち長野県松本市の[[薄川]]上流に建設予定であった[[大仏ダム]]の建設反対を訴え、同田中康夫知事が建設中止を決断した。実際に建設予定のダム建設が中止された全国的にもまれな先例となった。
2018年[[ネオニコチノイド]]系殺虫剤のヘリコプター[[空中散布]]の中止を求め長野県[[松本市]]を提訴。<ref>{{Citation|title=松本市は空中散布中止を!山根二郎弁護士による記者会見|url=https://www.youtube.com/watch?v=7Go6vJSWFKk|date=2018-06-25|accessdate=2019-05-15|last=ぴーすかふぇまつもと}}</ref>
2019年4月元号制定は違憲であるとジャーナリストの[[矢崎泰久]]らと国を提訴。<ref>{{Cite web|和書|title=「基本的人権を侵害しており、耐え難い苦痛だ」元号制定の違憲訴訟を起こした山根二郎弁護士を生直撃|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/reiwa-violation-of-the-constitution_jp_5ca3092be4b0a453fb74f4fc|website=ハフポスト|date=2019-04-02|accessdate=2019-05-15|language=ja}}</ref>
== 著作等 ==
'''仏教解体'''(仏教カルト研究所 、2000/4/1)
山根二郎作成の文書が公式ホームページである山根二郎.com https://yamanejiro.com にて公開されている。
== メディア等 ==
* 平成12年4月(62歳)、オウム真理教事件を契機に、5年間にわたって数千冊にのぼる膨大な書物や資料を徹底的に探索・検証し、執筆を続けていた『仏教解体』を発行する。
* 矢崎泰久発行『話の特集』-創刊40周年記念号-の「山根二郎かく語りき」、月刊誌『Hanada』H28・11月特大号、(作家時代の)石原慎太郎氏との対談、新宿紀伊國屋ホール出演、新宿LOFTにて田原総一朗と対談等で、山根独自の思想を展開。『疎外の構造・対論=羽仁五郎』(昭和44年朝日新聞社発行)ではソノシートで山根の討論を聴くことができる。ジャーナリストばばこういち氏のテレビ番組に出演するなど、今では当たり前であるが、弁護士として初めてテレビに出演したのも山根である。
== 外部リンク ==
[https://yamanejiro.com/ 山根二郎.com]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:やまね しろう}}
[[Category:日本の弁護士]]
[[Category:中央大学出身の人物]]
[[Category:長野県松本深志高等学校出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1936年生]]
[[Category:存命人物]]
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