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[[ファイル:Jinchoukan-Moriya-shiryoukan Mishaguchi-jinja-2.jpg|サムネイル|340px|神長官[[守矢氏]]邸([[神長官守矢史料館]])内にある御頭御社宮司総社([[茅野市]]高部)]]
井戸端サブページ/ヘッダ
'''ミシャグジ'''('''御左口神'''、'''御社宮司'''、'''御射宮司'''、'''御社宮神''' 等)とは、[[長野県]]にある[[諏訪大社#上社|諏訪大社上社]](かみしゃ)の神事に登場し、[[諏訪地域]]とその周辺に祀られる[[神 (神道)|神霊]]・[[精霊#古代日本の精霊観念|精霊]]の総称である。中世から近世にかけて上社の冬と春の神事において特に重要な役割を果たし、現地に点在する「御頭(おんとう)御社宮司社」「御社(射)宮司社」の祭神ともされている。
| date = 2024-10-20 19:44:54
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== マーベルアニメを放送していた放送局 ==
以下のチャンネルが見つかっているのですが、私が2000年・2003年頃に見ていたもう1つ(もしくは3つ)のテレビ局が見つかりません。探しても無く、ロゴがあるように見えるのに出てこないのです。当時、大和と東関東だったのですが、どこかにありませんでしたか?
[https://www.youtube.com/watch?v=yUkoWW707U0&pp=ygUY44K544OR44Kk44OA44O844Oe44OzIE9Q 日本語版OP]でコメントしてる人がいるんですが、確かにあったはずなんです。2003年10月2日から11月27日までの平日21時00分 - 21時30分でしたし、月曜日の裏番組[[機動戦艦ナデシコ]]も知ってます。スパイダーマン1981年版、アベンジャーズについては2003年4月でしたし、その中でマーベル・スーパーヒーローズ(2003年4月)も日本語吹き替え版でありましたが、シルバーサーファーは恐らく5月辺りでしょうが、超人ハルクは日本語字幕版で放送されてました。この期間、[[NHK教育テレビジョン]]で[[モンタナ]]、[[カスミン]]、[[テレ東]]で[[E'S OTHERWISES]]、[[カレイドスター]]などのアニメがあったの分かってるんですが。
 
日本国内においてテレビでの[[海賊放送]]は存在しない(ラジオは存在する)とお聞きしており、必ずあったと思うのですが、オークションでも売り切れているせいか、調べられない状況です。
ミシャグジの実態(本来の特性)については様々な説があげられているが、解明されたとは言い難い<ref name="daijiten802"/>。中世に書かれた上社の社家の文書では「御左口神」は諏訪大社の祭神([[タケミナカタ|諏訪明神]])の[[眷属]]とされ、近代の諏訪地方内では「御左口神」は[[タケミナカタ#御子神|諏訪明神の御子神]]の総称と解釈されていた([[ミシャグジ#王子神(御子神)としてのミシャグジ|後述]])。しかし、20世紀初頭から半ばにかけて、[[柳田國男]]や[[今井野菊]]などの研究者が諏訪地方のミシャグジと[[関東地方|関東]]・[[近畿地方]]の一部で見られる'''[[石神 (民間信仰)|石神信仰]]'''や、[[岐の神|塞の神]]・[[道祖神]]信仰との間に類似点があることに気づき、これらはすべて関連していると提唱した。こうして諏訪の「御左口神(御社宮司)」信仰と似た名前を持つ他地方の神格にまつわる信仰はすべて'''「ミシャグジ信仰」'''としてひとまとめにして扱われることが主流となったが、近年は諏訪のミシャグジと他所の石神や「ミシャグジ的なもの」は切り分けて考えるべきであるという意見も現れてきた。
 
本当に[[森川智之]]版のスパイダーマンが2004年7月からしかなく、[[猪野学]]版から始まったというなら、私はこの森川智之版を嫌うことになるのですが、どうも2004年7月に1967年版の第1話があったし、カートゥーンネットワーク版の裏として動いてたとしか思えないため、あったと思われます。2004年8月号は持っているのですが、その時点で既に無いことは確認できています。
[[諏訪盆地]]に[[縄文文化]]が栄えていたこと、ミシャグジ(あるいは似た神格)を祀る神社に縄文期の[[石棒]]が[[神体]]になっている場合が多いことや、上社の神事には古風の要素が含まれていることから、ミシャグジ崇拝は非常に古く、縄文時代にまで遡る可能性があると推測する学説も浮上したが、このような見解も最近疑問視されるようになった。
 
でも確かにそのテレビ局が存在していたことは分かっています。
== 呼称 ==
名前にはさまざまな表記や発音のバリエーションがあり、[[当て字]]と漢字の組み合わせも大変多い(諏訪地域内と他所で確認されている表記例を全部合わせると200以上もあるといわれている)。
 
どうも、放送実績が確認できなかったと書いている人がおかしい気がします。だって、実際に見てる人なんですよ??? もし数百人が見てて「放送実績が確認できなかったため」ってなったら、私がPGnomiさんに嘘を書かせているのと同じ状況になります。
上社の社家の一つである[[守矢氏]]の古文書では「御左口神」が主に使われており(平仮名で「みさくうし」と表記される一例もある<ref>「年内神事次第旧記」『新編信濃史料叢書 第7巻』信濃史料刊行会編、1972年、124頁。</ref>)、『[[諏方大明神画詞]]』(1356年成立)では「御作神」として一回出てくる。このほかに「御社宮神」と表記する文献もある。現在の諏訪では「御社宮司」「御射宮司」「御社宮神」と書くことが多い<ref>細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』[[ほおずき書籍]]、2003年、56頁。</ref><ref name="imaimisakuji">今井野菊「御作神」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、181-189頁。</ref>。諏訪のミシャグジを指して「御佐久知神」「御闢地神」という表記も用いられることがあった<ref name="yamada">山田肇『諏訪大明神』信濃郷土文化普及会 <信濃郷土叢書 第1編>、1929年、136-138頁。</ref>。「ミシャグジ」のほかに、「ミシャグチ<ref>守矢早苗「守矢神長家のお話し」『神長官守矢史料館のしおり』、4頁。</ref>」「サグジ<ref name="imai" /><ref>[{{NDLDC|993744}} 柳田国男 『石神問答』 近代デジタルライブラリー、2014(初版1910)、1ページ(コマ番号8)。]</ref>」「ミサクジ<ref>細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』[[ほおずき書籍]]、2003年、55頁。</ref>」「ミサグチ<ref name="Takei">{{Cite journal |和書|publisher=飯田市美術博物館 |url=https://doi.org/10.20807/icmrb.9.0_121 |title=祭事を読む-諏訪上社物忌令之事- |author=武井正弘 |journal=飯田市美術博物館 研究紀要 |volume=9 |issue= |pages=121-144 |year=1999 |doi=10.20807/icmrb.9.0_121}}</ref>」とも仮名で表記・発音される。
 
見つからない局
[[茅野市]]出身の郷土史家の今井野菊が著した「御社宮司の踏査集成」{{Efn2|長野県および他1都1府13県にまたがる、数千社での呼び名を調査している<ref name="imai">今井野菊「御社宮司の踏査集成」『[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I028483763-00 古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究]』古部族研究会編、人間社〈日本原初考 1〉、2017年、212-281頁、ISBN 9784908627156。</ref>。}}では、[[諏訪郡]]内と隣の郡に散在する御社宮司社を地元民が主に「(お)みしゃぐじ{{efn2|諏訪ではこれが主流。諏訪上社の信仰圏に入っていた[[上伊那郡]]にも数例あり<ref>今井野菊「御社宮司の踏査集成」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会編、人間社〈日本原初考 1〉、2017年、212-213, 220-224頁。</ref>。}}」あるいは「(お)しゃぐじ」「(お)しゃごじ(さま)」と呼んでいたと伺える<ref name="imai" /><ref>北沢房子『諏訪の神さまが気になるの』信濃毎日新聞社、2020年、184頁。</ref>。
*?
:* [[マペット・ベイビーズ]]([[真殿光昭]]、[[浅野るり]]、[[落合弘治]]、[[小桜エツ子]])※当時3歳のため、邦題は不明。
:* [[愛をあなたの胸に]](上記の番組からCMで見ただけ、日本語字幕版。日本人の声優がナレーション。)
:* [[スパイダーマン (1967年のテレビアニメ)|スパイダーマン'67]]
:* [[スパイダーマン (1981年のテレビアニメ)|スパイダーマン'81]]
:* [[超人ハルク (1982年のテレビアニメ)|超人ハルク (1982)]]
:* [[マーベル・スーパーヒーローズ (アニメ)]]
:* [[アベンジャーズ:ユナイテッド・ゼイ・スタンド]]
:* [[シルバーサーファー (アニメ)]]
 
*?
[[ファイル:Le Temple Shintô Futagawa-Fushimi-Inari - Le Temple Shintô Oshagûji-sha.jpg|サムネイル|280px|[[二川伏見稲荷]]([[愛知県]][[豊橋市]])にある御社宮司(おしゃぐじ)社]]
:* [[スパイダーウーマン (アニメ)]]
他の地域では「サク」「シャグ」「サグ」「サコ」「サゴ」「ショゴ」を含む神名や神社名が見られ、「[[守護神]]」{{Sfn|大場|2012|p=143}}「佐軍神<ref name="imai" />」「射軍神<ref name="imai" />」「[[赤口|赤口神]]<ref name="imai" />」「参宮神<ref name="imai" />」「社子神<ref name="imai" />」「曲口<ref name="imaimisakuji" />」「佐口<ref name="imaimisakuji" />」「山護神<ref name="imai" />」「釈護子<ref name="imai" />」等と表記される。発音も多様で、「(お)さんぐうじ<ref name="imai" />」「(お)さんごじ(さん)<ref name="imai" />」「さごじ<ref name="imai" />」「さぐじん<ref name="imai" />」「(お)さんぐうさん<ref name="imai" />」「じょぐさん<ref name="imai" />」「おしゃもつさま<ref name="imai" />」「しゃごっつぁん<ref name="imai" />」「しゃごったん<ref name="imai" />」「シャクジン{{Sfn|岩下|2016|p=11}}」「シュクジン{{sfn|中沢|2003|p=223}}」「シュクジ」「シュクシ」「シキジン」「シキジ」{{Sfn|中沢|2003|p=223}} 等がある。中には「お[[シャモジ]]様」「おしゃじん様」「[[薬師如来|おやくしさま]]」のように認識できないほど訛った呼び名まである<ref name="imai" />。また検地の神といって「尺神(しゃくじん)」をあて、検地棒や検地縄を奉納する所もある<ref name="onbashirasai" />。今井はこれらはすべて諏訪のミシャグジと関係があるという説を唱えた。
 
*?
[[柳田國男]]の『石神問答』(1910年)には「石神」「石護神」「[[石神井]]」「宿神」という名称の神も取り上げられている<ref name="onbashirasai">上田正明 他『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、24頁。</ref>{{Sfn|中沢|2003|pp=56-57}}{{Efn2|水本正人の『宿神思想と被差別部落』によると、「宿神」の読みは「シュクジン」の他に「シュクジ」があり、さらに少し訛った読みとして「シキジン」「シキジ」等もある{{Sfn|中沢|2003|pp=223-224}}。愛媛県の「祝詞権現姉姫神」(シュクシゴンゲンアネヒメノカミ)は、もとは「シュクジ(ン)」と呼ばれていた{{Sfn|中沢|2003|p=223}}。その呼び方が訛って「シキジ(ン)」となり、後にそこへ当て字の「姉姫神」が与えられたが、「シュクジ」という音は「シュクシ(祝詞)」という[[添え名]]として残った{{Sfn|中沢|2003|pp=223-224}}。一方で、この姉姫神が祀られている地域から数キロ離れた場所には、「縮地権現姉姫神」(シュクジゴンゲンアネヒメノカミ)がある{{Sfn|中沢|2003|p=224}}。これらを踏まえた水本の推測では、「シュクジ(ン) 宿神」・「シュクジ 縮地」・「シュクシ 祝詞」・「シキジ(ン) 姉姫神」は繋がっている{{Sfn|中沢|2003|p=224}}。}}。[[金春禅竹]]の『明宿集』(1465年頃)は、「宿神」と「翁」とを同一存在と見なし{{Sfn|中沢|2003|pp=185}}、翁(宿神)を[[諏訪明神]]や[[筑波山]]の岩石などと同一視している{{Sfn|中沢|2003|pp=165}}。なお、石神(シャクジ)と石神(いしがみ)を同一視する辞書は複数ある<ref>大辞泉・明鏡国語辞典・ブリタニカ国際大百科事典・百科事典マイペディアにおける「いしがみ」の項。</ref>が、『日本民俗大辞典〈上〉あ〜そ』は「石神(いしがみ)とは異なる」としている<ref name="daijiten802">『日本民俗大辞典〈上〉あ〜そ』802頁</ref>。
:* [[スパイダーマン&アメイジング・フレンズ]](2001年頃)
:* 超人ハルク (1982年)
 
見つかってる局
名前の由来については諸説あり、[[稲]]を守護することから「作(さく)神」とする説や<ref name="imaimisakuji" />、土地を開拓する(=さく)ことによってその中に秘められた生命力を表出させることから「御作(咲)霊(みさくち)」とする説<ref>大和岩雄『信濃古代史考』名著出版、1990年、192-194頁。</ref>{{Efn2|実際に[[新海三社神社]]では主祭神で当地の開拓神である[[興波岐命]]のことを新開神(にいさくのかみ)と呼んでいる。}}、「御赤蛇」とする説(ここではミシャグジはもともと[[ヘビ#信仰|蛇神]]であったとしている)<ref>吉野 裕子『蛇 日本の蛇信仰』講談社、1999年、272-274頁。</ref>などが唱えられる。
* [[カートゥーンネットワーク]]
:* [[宇宙忍者ゴームズ]]
:* [[X-メン:エボリューション]]
:* [[スパイダーマン (アニメ)|スパイダーマン'94]]
↑どう考えてもマーベルアニメを一杯放送してた局じゃないでしょ!?
 
* [[アクションチャンネル|AXN(アクションチャンネル)]]
== 「ミシャグジ信仰」の分布 ==
:* [[スパイダーマン 新アニメシリーズ]]
[[File:ミシャグジの分布.png|thumb|340px|いわゆる「ミシャグジ信仰」の分布(今井野菊の研究に基づく)]]
:* ドラマ:[[ミュータントX]]
[[今井野菊]]によると、[[長野県]]には750余りの「(ミ)シャグジ」系の神社が存在し、そのうち[[諏訪地域|諏訪]]109社、[[上伊那地域|上伊那]]105社、[[南信州地域|下伊那]]36社、[[上田地域|小県]]104社などが多い郡であるという。全国では[[山梨県]]160社、[[静岡県]]233社、[[愛知県]]229社、[[三重県]]140社、[[岐阜県]]116社、[[滋賀県]]228社のほか関東各県にも見られる<ref name="imai" /><ref name="onbashirasai" />。なお、[[大和岩雄]](1990年)は今井が「ミシャグジ神社」とした滋賀県内にある神社のほとんどが[[大将軍神社]]であると指摘し、それは「ミシャグジ信仰」に含まれないとしている。また、群馬・埼玉・山梨では[[千鹿頭神|チカト信仰]]と重なっている<ref>大和岩雄『信濃古代史考』 名著出版、1990年、199-200頁。</ref>。
 
* [[トゥーンディズニー]]⇒[[ディズニーXD]]⇒[[ディズニーチャンネル]](現在)
[[昭和]]9年(1934年)に書かれた「地名と歴史」の中で[[柳田國男]]は「社宮司」という神の淵源について以下のように述べている<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、79頁。</ref>。
:* スパイダーマン'94
:* [[スペクタキュラー・スパイダーマン]](なぜか[[スぺクタキュラー・スパイダーマン]]でダメ)
:* [[アルティメット・スパイダーマン]]
:* [[マーベル スパイダーマン]]
:* スパイダーマン&アメイジング・フレンズ
:* [[スパイダーマン・アンリミテッド]]
:* [[アベンジャーズ 地球最強のヒーロー]]
:* [[アベンジャーズ・アッセンブル]] ほか
--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 07:18 (UTC)
 
:他にもドラマの宣伝流してたのは覚えています。そのテレビ局は普段、アニメを放送するところではないってことも。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 07:21 (UTC)
{{Quotation|[[荒神]][[山神]]地ノ神[[道祖神]]は、西部の諸縣にもあるが、伊勢から紀州の一部を止まりにして東にしか無いのは{{ruby|社宮司|しゃぐじ}}といふ神である。是に就いて二十年餘りも前に、私は小さな本を一冊書いて居る。それから後に判つたことは、信州の諏訪が根源で、今は衰へてしまつた土地の神の信仰では無いかといふことである<ref>柳田国男「地名と歴史」『定本 柳田国男集 第20巻』筑摩書房、1970年、65頁。</ref>。}}
::1967年版のほう書き込みましたけど、これで無かったら家の窓から・・・。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 08:54 (UTC)
:::これで[[利用者:うさぎ副部長]]が「放送実績を確認できませんでした」と書いたら、PGnomiの嘘になってしまうどころか、私のほうが多くなってしまいますので探していただければ・・・。過去のガイド誌(2003年4月~9月と10月~12月、2004年4月~7月)、売ってないのつら・・・。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 08:57 (UTC)
::::[[ソニックX]]も忘れてました。しかし、本当にこれで無かったら非常に怖いので、本当にお願いしたいのですが・・・。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 13:02 (UTC)
{{コメント}}いったい何を言いたいのか、聞きたいのか、さっぱりわかりません。ただ、過去の放送実績に関する文献ですが、BS/CSの放送予定が分かればいいのであれば、国会図書館の蔵書検索で調べて実物を確認するのが良いと思います、としか言えないですね。--[[利用者:VZP10224|VZP10224]]([[利用者‐会話:VZP10224|会話]]) 2024年10月20日 (日) 15:49 (UTC)
 
:そちらの図書館では、スカパーガイド誌を2010年から辿ることになっているようです。しかし、私が求めているのは2003年です。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月20日 (日) 17:34 (UTC)
昭和10年、『石神問答』の再版の序でさらに柳田は次のように書いている。
 
::国会図書館であれば、手間はかかりますが該当する時期の新聞の縮刷版とかでテレビ欄を追うという手もありますよ。bs/csを記載している新聞も複数あるでしょうし、時期的な抜けは心配ないと思いますが。--[[利用者:Colonan|Colonan]]([[利用者‐会話:Colonan|会話]]) 2024年10月25日 (金) 00:32 (UTC)
{{Quotation|又あれから信州諏訪社の{{Ruby|御左口神|おさぐじん}}のことが少しづゝ判つて来て、是は木の神であつたことが先づ明かになり、もう此部分だけは決定したと言い得る。しかしどういふわけで{{Ruby|社宮司|しゃぐじ}}・{{Ruby|社護神|しゃごじ}}・{{Ruby|遮軍神|しゃぐんじん}}などゝいふ様に變つた神の名が、弘く中部地方とその隣接地とだけに行はれて居るのか、諏訪が根源かといふ推測は假に當つて居るにしても、其信仰だけが分離して各地に分布して居る理由至つては、三十年後の今日もまだ少しも釋くことが出来ないのである<ref>柳田国男「石神問答」『定本 柳田国男集 第12巻』筑摩書房、1969年、3頁。</ref>。}}
:::やっぱりそうなりますかね・・・、横浜の新聞(旭?)で横浜ケーブルビジョンの番組表があればまだいいのですが・・・。
 
:::子供の頃に読売新聞を一時期とっており、恐らくAXN辺りは載ってたことは分かってたと思うので(1度だけ早見優さんが広告に出た気がした)、
柳田の説に触発された今井も、「ミシャグジ」に似た名前を持つ民間信仰の神・神社が他所にあることのほか、これが諏訪信仰に重なっているところがあるから、関東・中部に広がるこの「シャグジ」「シャゴジ」等の大本は諏訪のミシャグジであるという前提で研究を進めた<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、80-82頁。</ref><ref name="imai02">今井野菊「御左口神祭政の森 上」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、286-306頁。</ref>。分布についてこのように記した。
:::ディレクTVじゃなくてもスカパーガイドじゃなくても調べられるってことなんですね・・・。
 
:::というか、なんでこんな質問したんだろうって思いました。本当にすみません。--[[利用者:Nikajp|Nikajp]]([[利用者‐会話:Nikajp|会話]]) 2024年10月25日 (金) 07:05 (UTC)
{{Quotation|御作神は、[[東海道]]・[[東山道]]の本通り添い、岐れ道・枝道・小枝道添いの、海浜から山地へ、山地から平地、平地から峠、峠から谷あいと、山河を要領よくつなぎ、この古道に添った天恵の要所、要地の草分け古村から、草分け古村をつないで遺跡を残しています。<br/>
この古道は、古代先祖の[[塩の道 (日本)|{{Ruby|塩|・}}運搬の理想道]]であり、{{Ruby|[[物々交換|物交]]|あきない}}の道でありました<ref>今井野菊「御作神」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、187-188頁。</ref>。}}
 
しかし、近年では全国に見られる「ミシャグジ的なもの」やミシャグジめいた石神はすべて諏訪に由来すると考えるのは乱暴で、[[諏訪大社]]において特化したミシャグジ信仰と、諏訪から切り離されてしまった諏訪由来と思われるミシャグジ信仰、または他所に見られる「ミシャグジ的信仰」をそれぞれ分けて考えるべきである、という意見が現れている<ref name="#1">石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、75頁。</ref>。かつての諏訪大社においてはミシャグジは特定の神官しか扱えない存在とされており、この神官が直接参向していなかった[[関東]]・[[東海]]等の石神信仰はそもそも諏訪地方のミシャグジと直接的な関係があったはずがないとの指摘もある<ref name="isigamisinnkou">石埜穂高「石神信仰と草薙剣」『スワニミズム 第4号』2018年、46-47頁。</ref>。
 
== 諏訪のミシャグジ(御左口神・御社宮司) ==
=== 守矢氏と神氏 ===
[[File:Suwa taisha Kamisha Maemiya , 諏訪大社 上社 前宮 - panoramio (13).jpg|サムネイル|330x330px|[[諏訪大社#前宮|諏訪大社上社前宮]](茅野市)]]
[[諏訪大社]]は上社(かみしゃ)と下社(しもしゃ)という2つの神社で成り立っている。[[諏訪湖]]南岸に位置する上社にはかつて大祝(おおほうり)と呼ばれる最高位の神官と、そのもとに置かれた5人の神職が奉仕していた。[[諏訪氏]](神氏)から出た上社の大祝は古くは祭神・[[建御名方神]](諏訪明神)の生ける[[神体]]とされ、[[現人神]]として崇敬された。
 
その大祝を補佐して神事を司ったのは[[守矢氏]]出身の神長(かんのおさ、後に神長官(じんちょうかん)ともいう)である。神長は大祝の即位式を含め上社の神事の秘事を伝え、神事の際にミシャグジを降ろしたり上げたり、または[[依代]]となる人や物に「付け」たりすることができる唯一の人物とされた<ref>細野正夫、今井広亀「第三章 上社への奉仕」『中洲村史』中洲公民館、1985年、380-381頁。</ref><ref name="Suwashishi726">諏訪市史編纂委員会 編「第四節 上社大祝と五官祝」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、726-727頁。</ref>。
 
[[洩矢神#明神入諏|諏訪地域に伝わる神話]]によると、諏訪明神が諏訪に入った際に[[地主神]]の[[洩矢神]]と相争った。洩矢神が戦いに負けて、明神に仕える者となったという。守矢氏は洩矢神の後裔で、神氏は諏訪明神の後裔とされた<ref>宮坂光昭 「古墳の変遷から見た古氏族の動向」『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会 編、人間社、2017年、77頁。</ref><ref name="yamadamoriya">{{Cite book|和書|author=山田肇|year=1929|title=諏訪大明神|publisher=信濃郷土文化普及会|pages=74-88|series=信濃郷土叢書 第1編|chapter=健御名方命に降服した諏訪の國つ神 洩矢神及び武居大伴主惠美志命}}</ref><ref name="imai1">{{Cite book|和書|author=今井野菊|year=1960|title=諏訪ものがたり|publisher=甲陽書房|pages=3-15|chapter=洩矢神と建御名方命}}</ref><ref name="moriya">{{Cite book|和書|author=守矢早苗|year=2017|title=神長官守矢史料館のしおり|edition=第三版|pages=2-3|editor=茅野市神長官守矢史料館|editor-link=神長官守矢史料館|chapter=守矢神長家のお話し}}</ref>。
 
地元の郷土史家は長い間、この「入諏神話」は諏訪に起こった祭政権の交代という史実を反映していると考えていた。この説では、外来の氏族(神氏)が諏訪盆地を統率した在地豪族(守矢氏)を制圧して、諏訪の新しい支配者となるが、守矢氏が祭祀を司る氏族として権力を維持した。この出来事が諏訪上社の祭祀体制の始まりとされている<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、92-94頁。</ref><ref name="suwashishi692">諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、692-693頁。</ref><ref name="kitamura">北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」考」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、105-106頁。</ref>。(なお、この見解は近年疑問視されており、入諏神話は考古学的知見と結びつけるべきではない<ref>青木隆幸「中世的神話世界の形成―諏訪上社大祝と『諏訪大明神絵詞』をめぐって―」『長野県立歴史館研究紀要』18、2012年、26-31頁。</ref>、あるいはこの神話自体は中世に広く流布していた[[聖徳太子]]と[[物部守屋]]の争い([[丁未の乱]])にまつわる伝承の影響を受けている<ref name="ihara162">井原今朝男「鎌倉期の諏訪神社関係史料にみる神道と仏道:中世御記文の時代的特質について」、『国立歴史民俗博物館研究報告』第139巻、国立歴史民俗博物館、2008年、161-162頁。</ref>、あるいはその伝説をもとにして中世に創作されたもので、古代神話ではない<ref>原田実「守矢家文書」『偽書が描いた日本の超古代史』河出書房新社、2018年、81頁。</ref>といった主張もある。)権力の交代劇が起こったとされる時期については諸説あり、諏訪に流入した神氏を[[稲作]]技術をもたらした[[出雲族|出雲系民族]]([[弥生人]])とする説や<ref name="nhkonbashira">{{Cite episode|title=古代史ミステリー “御柱”~最後の“縄文王国”の謎~|serieslink=NHKスペシャル|series=NHKスペシャル|network=NHK総合|airdate=2016|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009050501_00000}}</ref><ref>「第二節 地主神洩矢ノ神」『茅野市史 上巻(原始・古代)第二編』 茅野市、1986年、932-933頁。</ref>、[[金刺氏]]([[科野国造]]家、後に諏訪下社の大祝家)の分家<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、615-623、686-696頁。</ref><ref name="owa213">大和岩雄 『信濃古代史考』 名著出版、1990年、213頁。</ref>、または[[大神氏]]の一派あるいは同族<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、136-138頁。</ref><ref name="miyasaka87">宮坂光昭「古墳の変遷からみた古氏族の動向」『古諏訪の祭祀と氏族』『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会編、人間社〈日本原初考 2〉、2017年、87頁。</ref>とする説がある。後者の場合、政権交代劇を[[南信州地域|下伊那地方]]に開花した[[馬具]]副葬[[古墳]]文化が諏訪地域に出現した時期(6世紀末~7世紀初頭)によく当てはめられる<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、66-67, 135頁。</ref><ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、620-623, 692-693頁。</ref>。
 
===ミシャグジと建御名方神===
[[File:Suwa-taisha, Kamisha Honmiya, haiden-1.jpg|サムネイル|350x350px|[[諏訪大社#本宮|諏訪大社上社本宮]]([[諏訪市]])]]
{{see also|タケミナカタ#『古事記』の説話について}}
[[六国史|国史]]では諏訪の神が「建御名方神」という名前で登場しており、『[[古事記]]』や『[[先代旧事本紀]]』の[[国譲り]]の場面で[[建御雷神]]との力比べに敗れてしまう[[大国主神]]の次男として描かれている。しかし、『[[日本書紀]]』や、出雲地方の古文献である『[[出雲国風土記]]』と『[[出雲国造神賀詞]]』にはこの建御名方神が登場せず、『古事記』でも大国主神の子でありながらその系譜に名前がみられないため、建御名方神は国譲り神話に挿入されたという説を唱える研究者が多い。
 
諏訪にも建御名方神(正確に言うと『古事記』等における建御名方神)の影が薄いと言える。中世の祝詞には神名が出て来ず<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、689頁。</ref>、「建御名方神」という神名もほぼ浸透しておらず、祭神の事を単に「諏訪明神」「諏訪大明神」「お明神様」等と呼ばれることが多い{{Efn2|なお、中世から近世にかけては多くの神々が神社名を冠した「[[明神]]」で呼ばれる事が普通であり<ref>{{Cite journal|和書|author=中村一晴 |title=平安期における大明神号の成立とその意義 |journal=佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 |issn=18833985 |publisher=佛教大学大学院 |year=2009 |month=mar |issue=37 |pages=73-89(p.74) |naid=110007974761 |url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_DB003700003047}}</ref>(「[[春日神|春日大明神]]」「[[タケミカヅチ|鹿島大明神]]」「[[大物主神|三輪大明神]]」「[[住吉三神|住吉大明神]]」等)、むしろ本来の名前で呼ばれる方が珍しかった。今でも神・神社を「明神」と称されることがある([[神田明神]]、[[稲荷神|稲荷大明神]]等)。}}。また、『古事記』の説話とは異なる神話と伝承(入諏神話や、諏訪明神を蛇(龍)とする民話など)が現地に伝わっている{{Efn2|近世から現代まで『古事記』に見られる建御名方神の敗走が諏訪の入諏伝承と結びつけられることはしばしばあるが、元々は繋がっておらず、それぞれ別系統の神話である。}}。このことから、建御名方神は「ミシャグジ信仰をヤマト王権の神統譜に組み入れた結果生まれた神名」(大和岩雄、1990年)<ref>大和岩雄 「建御名方命と多氏」『信濃古代史考』 名著出版、1990年、212-213頁。</ref>または「朝廷への服従のしるしとして諏訪に押し付けられた表向けの神」(寺田鎮子・鷲尾徹太、2010年)<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太 『諏訪明神―カミ信仰の原像』 岩田書店、2010年、78-83頁。</ref>で、諏訪の本来の神はむしろミシャグジであるという説が度々立てられている。
 
『日本書紀』の[[持統天皇]]5年(681年)8月の条には「使者を遣わして、[[龍田大社|龍田風神]]、信濃の須波(諏訪)・[[健御名方富命彦神別神社|水内]]等の神を祭らしむ」とあり、諏訪に祀られている神は奈良時代以前に既に朝廷に風の神・水の神として崇敬されていたことが分かる<ref>{{Cite book|和書|year=1986|title=諏訪大社|author=矢崎孟伯|series=銀河グラフィック選書 3|publisher=銀河書房|page=22}}</ref>。建御名方神を後世に創作された神とする研究者はこの「須波神」をミシャグジ<ref>[[藤森栄一]]『諏訪大社』中央公論美術出版、1965年、24頁。</ref>または守矢神(洩矢神)<ref>宮坂光昭「強大なる神の国―諏訪信仰の特質」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、17、31-33頁。</ref>としている。
 
なお、後で述べるように中世の上社ではミシャグジ(御左口神・御社宮神)と諏訪明神は各々別神であると理解されていたことが明らかである。
 
===ミシャグジと大祝===
[[File:鶏冠社 - Keikan (Tosaka) Shrine.jpg|thumb|320px|鶏冠社(上社前宮境内)]]
上社の[[祝 (神職)|大祝]]は神長が執り行う就任儀式(即位式)を受けていた。この際に、大祝となるべく選ばれた者(この職に若い男の子に当てる例が多い)は[[柊]]または[[カエデ]]の木のある[[諏訪大社#摂末社|鶏冠社]](前宮境内にある上社摂社)の石の上に立ち、大祝の装束を着せられる。この儀式を受けることによって少年が諏訪明神の「御正体」([[神体]])となるとされた<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、719-724頁。</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、91-92頁。</ref><ref>矢崎孟伯『諏訪大社』銀河書房〈銀河グラフィック選書 3〉、1986年、96-97頁。</ref>。伝承では諏訪明神が8歳の男児に自分の衣を着せつけた後に「我に体なし、祝(ほうり)を以て体とす」と告げたとされ、それが神氏と大祝職の始まりとされている<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、89-92頁。</ref><ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、717頁。</ref>。
 
大祝に依り憑く神は実体のない霊的な存在とされることから、郷土史家の[[宮坂光昭]]と縄文研究家の[[田中基]]はこの神は建御名方神ではなくミシャグジであるとする説を唱えた。この説では大祝はいわばミシャグジの憑巫(よりまし)である<ref>宮坂光昭「強大なる神の国―諏訪信仰の特質」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、28-29頁。</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、163-164頁。</ref>。田中は「外来魂・ミサグジに装填したがゆえに大祝になった童児は、生き神様・現人神と考えられた」と述べ<ref>田中基「洩矢祭政体の原始農耕儀礼要素」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、195-196頁。</ref>、春に行われる御頭祭で大祝の代理を務める6人の神使(おこう)にはミシャグジが付けられることを指摘し、「神使は構造上どう見ても仮の大祝であり、神使が御左口神であるならば、大祝は大御左口神であってタケミナカタではない」と論じたが<ref>田中基「穴巣始と外来―古諏訪祭政体の冬期構成―」『諏訪信仰の発生と展開』 古部族研究会編、人間社〈日本原初考 3〉、2018年、238頁。</ref>、近年は「ミシャグジを大祝につけなかった」という意見に変わった。
 
{{Quotation|「あの{{Ruby|御曽衣祝|みそぎほうり}}は衣でこう覆って、胞衣で覆うような形で「我はタケミナカタだ」っていうような言い方するじゃないですか。(…)それについて僕は、初期には間違って書いたけれども。宮坂光昭さんもそういうふうに書いてるけれども。ミシャグジは大祝につけないよね。(…)神使さまには完全につけてあるけど。十四人の村代神主にもミシャグジつけちゃう。やっぱ、大祝だけは大明神だから。」<ref>守矢早苗、北村皆雄、野本三吉、田中基「今井野菊を継ぐ 今井野菊資料引継ぎ会 @守矢神長官資料館 2014年6月7日」『スワニミズム 第3号』2017年、47頁。</ref>}}
 
守矢氏の古文書には、即位式の際に神長がミシャグジ(御左口神)を大祝に「付け」たと明記されていないが、大祝と同様の儀式を受けて役を務める神使(おこう)には「付け」たという記録が残っている<ref>北沢房子『諏訪の神さまが気になるの』信濃毎日新聞社、2020年、192-196頁。</ref>。
 
=== 神仏習合 ===
[[平安時代]]末期に諏訪に[[仏教]]が入り、上社本宮には神宮寺・如法院・蓮地院・法華寺ができた<ref name="takabe39">『続・高部の文化財』高部歴史編纂委員会編、2006年、39頁。</ref><ref>諏訪市史編纂委員会 編「第一節 諏訪の古代信仰」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、719頁</ref>。[[本地垂迹説]]が広まると、上社の男神は[[普賢菩薩]]、下社の女神は[[千手観音]]の垂迹とされていた<ref>宮坂宥勝「神と仏の融合ー密教思想からの解釈」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、151-152頁。</ref>。[[室町時代]]に入ると、[[両部神道]]を学んだ神長・[[守矢満実]]が[[密教]]要素を導入して独特の「諏訪神道」を作ろうとした。天皇の[[即位灌頂]]や神道灌頂を参考にしつつ大祝を即位式を密教風にし、神事に密教的解釈を施した<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、116-117頁。</ref>。
 
満実が著した奥義書『諏訪大明神神秘御本事大事』<ref name="gohonji">{{Cite book |和書|chapter=諏訪大明神神秘御本事大事|editor=信濃教育会諏訪部会 |title=諏訪史料叢書 巻30|publisher=信濃教育会諏訪部会|year=1961|page=20|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1193847/19}}</ref>には両部神道・真言密教の影響が見られる。
 
{{Quotation|普天率土大小ノ諸神、殊ニ諏方両社十三所、上中下二十御左口神之王子部類眷属、九万八千、五百七十二神、軍神[[摩利支天]]、[[愛染明王|愛染]]、来臨影向我身内護持垂エ<br/>
<small>(普天率土の大小の諸神、殊に諏方両社・[[諏訪大社#摂末社|十三所上中下]]・二十の御左口神の王子部類眷属、九万八千五百七十二神、軍神摩利支天・愛染、来臨し我が身内に影向し護持を垂れたまえ)</small><ref name="gohonji"/><ref>信濃史料刊行会 編『信濃史料 第9巻(応仁2年正月-明応2年11月)』、1957年、392, 402, 413, 419頁。</ref>}}
 
御左口神を「付け申す」時の儀礼には[[印相]]と[[真言]]が用いられていることはその一例である。
 
{{Quotation|一、御左口神付申時ノ作法、四方ヲ礼シテ左右ノ手ヲ内縛ニ[[合略仮名#片仮名|乄]]右ノ頭指ヲ立テ、去来シテ<br/>
南無廿ノ御左口神、来臨影向シテ護持ヲタレ玉ヘ <small>三反</small><br/>
ヲンアリナウミリダセンキリハラダウンタラタソワカ <small>三反</small><ref name="gohonji"/><ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」考」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、120頁。</ref>}}
 
室町時代書写の『諏訪上社物忌令之事』([[1237年]]成立)の写本(神長本)に載録されている「陬波[[六斎日|六斉日]]精進之日記」<ref name="takei135">武井正弘「祭事を読む―諏訪上社物忌令之事―」『飯田市美術博物館 研究紀要』、9(0)、1999年、135-136頁。</ref>においては、「諏方南宮法性大明神・十三所王子{{Efn2|[[諏訪大社#摂末社|上社の摂末社群]]の祭神<ref>武井正弘「祭事を読む―諏訪上社物忌令之事―」『飯田市美術博物館 研究紀要』、9(0)、1999年、142-143頁。</ref>、あるいは後世でいう諏訪御子神の原型<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、90-96頁。</ref>を指す。}}・御左口神」が礼拝の対象とされ、6つの斎日に[[六道]]の主として[[六観音]]と習合された6体の御左口神が当てられている<ref>細田貴助 『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』ほおずき書籍、2003年、74-75頁。</ref>。
 
{{Quotation|南無皈命頂礼、[[タケミナカタ|大日本正一位諏方南宮法性大明神]][[諏訪大社|上下二宮]]。十三所王子御左口神。慚愧懺悔[[三科|六根]]罪障。<br/>
六済日、同[[六道]]、菩提、御左口神御本地[[六観音]]。<small>(中略)</small><br/>
十六日 [[地獄 (仏教)|地獄道]]之主、第一御左口神本地[[千手観音]]。<small>(中略)</small><br/>
二十三日 [[阿修羅|餓鬼道]]之主、第二御左口神本地[[聖観音|正観音]]。<small>(中略)</small><br/>
晦日 [[畜生|畜生道]]主、第三御左口神本地[[馬頭観音]]。<small>(中略)</small><br/>
一日 [[修羅道]]ノ主、第四御左口神本地[[十一面観音]]。<small>(中略)</small><br/>
八日 [[人間界|人道]]ノ主、第五御左口神本地[[准胝観音]]。<small>(中略)</small><br/>
十五日 [[天 (仏教)|天道]]ノ主、第六御左口神本地[[如意輪観音]]。<ref name="takei135"/>}}
 
=== 王子神(御子神)としてのミシャグジ ===
[[ファイル:Suwa-taisha Kamisha Maemiya - Wakamiko-sha (若御子社).jpg|サムネイル|若御子社(上社前宮境内)<br/><small>諏訪明神の御子神は大抵13柱あるとされているが、ここでは22柱の御子神が祀られている。</small>]]
 
ミシャグジ(御左口神)を諏訪明神の[[眷属神]]・御子神として位置付ける見方は既に中世に見られる。例えば、守矢満実は「当社御神の王子」について以下のように述べている。
 
{{Quotation|誠ニ当社御神之王子にて、外県{{Efn2|[[上伊那郡]]を指す。}}両人は上野一宮御腹、内県{{Efn2|現在の[[茅野市]]周辺を指す。}}・大県{{Efn2|[[諏訪湖]]周辺を指す。}}四人は下宮ニやどらせ給、御誕生うたがひなし。御左口神も十三所と申も、当社の王子御一体、今こそ{{Ruby|思合候|思ひ合はせ}}とて、{{ruby|弥|いよいよ}}{{Ruby|不致祈念者|祈念を致さざる者}}なし。|『守矢満実書留』}}
 
つまり、満実は御左口神を6人の神使(おこう)や「十三所(王子)」のように諏訪明神の[[王子神]]であると理解していた。これは、『上社物忌令』「陬波六斎日」に記されている「大明神・十三所王子・御左口神」と通じるとみられる<ref>細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』ほおずき書籍、2003年、75-76頁。</ref>。また、『守矢神長古書』には「当社にて御社宮神というのは皆御子孫の事言う也」とある<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」考」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、105頁。</ref>。『諏方大明神画詞』にも「十三所の王子」が諏訪明神を守護する眷属神として登場している<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、89, 93-94頁。</ref>。[[武田信玄]]による下知状『諏訪上下宮祭祀再興次第』(1565年)にも「精進屋におゐて神使三十日之精進、御左口神作立ル、王子胎内之表体なり」と書いてある<ref>諏訪教育会 編「諏訪上下宮祭祀再興次第」『諏訪史料叢書 巻2』1926年、23頁。</ref><ref>[[茅野市]] 編『茅野市史 史料集(中世 近世 近現代)』、1991年、222頁。</ref>。
 
近代の諏訪においては「御左口神」(ここでは「御闢地神」、つまり「土地開発の神」の意と解釈)という名称は国土開発に功績のあったと言われる13柱の御子神の総称とされた<ref name="yamada">山田肇『諏訪大明神』信濃郷土文化普及会 <信濃郷土叢書 第1編>、1929年、136-138頁。</ref><ref>三輪磐根『諏訪大社』学生社、1978年、31頁。</ref>。[[明治時代]]の[[神社明細帳]]では、諏訪に存在していたおよそ40のミシャグジ神社のほとんどが建御名方神(諏訪大神)の御子神を祀る神社として記録されており、その中には「健御名方命御子」として「御射宮司神」の名を挙げる神社が一社ある<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、70頁。</ref>。長野県(旧信濃国)全体に見られる諏訪御子神を単独で主神として祀る神社を「社子神」「御佐久地」等と称される例もある<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う《後編》」『スワニミズム 第4号』2018年、145頁。</ref>。
 
[[宮地直一]](1937年)は中世の御左口神と神使(おこう)と諏訪明神の御子神のそれぞれ関係について以下のように述べている。
 
{{Quotation|少なくも畫詞の時代に於ける此神(御左口神)は、諏訪大神の神格に包擁せられた被攝神で、之を例へていふならば、かの[[熊野権現|熊野權現]]の眷屬たる護法童子(御山ノ護法神)と類似の間に居り、神使その人に纏はる守護の神であつたと考へたい。さり乍ら、亦被攝關係より出發して御子神信仰に進入し、神使と同一の範疇に屬することゝなつたので、之を區別せんために、神使を大明神御子、精進屋に作立てられた御左口神を王子胎内の表體といふが如き相關的形容の辭を創めたのである。<ref>宮地直一『諏訪神社の研究 後篇』信濃教育会諏訪部会、1937年、453-454頁。</ref>}}
 
====石埜三千穂の説====
石埜三千穂(2017年、2018年)は諏訪御子神(十三所王子)信仰の発展を中世の王子信仰に照らして自説を挙げており、それにはミシャグジ(ここではミシャグジそのものと「ミシャグジを称する社祠」が区別されている)が絡んでいる。
 
元日の御占神事で1年の間に上社の神事に奉仕する郷村(御頭郷)が選定されると、選ばれた村から婚姻未犯の童男が神使(おこう)として出仕させられる。少年たちは新築されミシャグジを降ろした精進屋の中に30日間の精進潔斎に臨む。それが終わると神使(おこう)たちにミシャグジが付けられ、諏訪・[[上伊那郡|上伊那]]の各地にある湛(たたえ・たたい)と呼ばれる聖地(樹木・岩石など)を巡る。精進屋に付けられたミシャグジが神上げされた後に取り壊され、その場に新たな祠が建てられる。これが「ミシャグジ神社」である。つまり、石埜の説では諏訪に見られる「ミシャグジ神社」は本来「ミシャグジを祀る社祠」ではなく「ミシャグジが降りた場所を記念する祠」である<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う《後編》」『スワニミズム 第4号』2018年、148-152頁。</ref>。
 
新造された「ミシャグジ神社」には諏訪明神の御子神(王子神)が祀られる。いわば、神長が降ろしたミシャグジによって新たな神が「生まれる」とされる<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う《後編》」『スワニミズム 第4号』2018年、156-157頁。</ref>。([[ミシャグジ#神か精霊(力)か|下記の通り]]、石埜はミシャグジそのものを神長が扱う「諏訪明神のために働く力」・「生命力」という抽象的なものと解釈しており、神社に鎮座するような存在ではなかったとしている。)このことが諏訪御子神信仰の発展に繋がるとしている。
 
=== 「前宮二十の御社宮神」 ===
[[ファイル:Suwa Taisha Maemiya Shōjinya (諏訪大社 前宮 精進屋).jpg|サムネイル|360px|上社前宮にあった[[精進]]屋<br/><small>古くは大祝となる者が即位に備えて厳しい修行を行った場所であったが、[[昭和]]7年(1932年)に取り壊され、現在の本殿が建てられた。</small>]]
諏訪上社の{{読み仮名|'''前宮'''|まえみや}}は、名前の通り上社の中で一番古い社である。その周辺は元々守矢氏の本拠地で、神氏に譲られたといわれている<ref name="Suwashishi726">諏訪市史編纂委員会 編「第四節 上社大祝と五官祝」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、726-727頁。</ref>。近世までは生き神大祝がこの一帯に居住したということから、「{{読み仮名|'''神原'''|ごうばら}}」とも呼ばれた。また、建御名方神とその妃神の[[八坂刀売神]]はここに葬られたという地元の伝承もある。
 
[[File:諏訪大社上社前宮境内図 - Map of Suwa Shrine, Kamisha Maemiya.png|thumb|left|上社前宮境内図]]
神原一帯は古くは祭事の中心地でもあったため、いうまでもなくミシャグジとの縁が深いと言える。[[嘉禎]]3年(1237年)の『諸神勧請段』に載録されている以下の神楽歌から、前宮には古くは「二十のミシャグジ」が祀られていたという見解がある<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」考」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、117-118頁。</ref><ref>山本ひろ子「諏訪学の構築のために 序論にかえて」 『諏訪学』 国書刊行会、2018年、47頁。</ref>。
 
{{Quotation|前宮ワ廿ノ御社宮神 内ノオワカタ 外ノオワカタ<br/>
御社宮神ノ四ナノ{{ruby|孫|イト}}カ モモムスフ モモムスフ<br/>
ヤヱニホコレテ ゲキヤウメサレル<ref>{{Cite book |和書|chapter=諸神勧請段|editor=信濃史料刊行会 |title=信濃史料 巻十六|publisher=信濃史料刊行会|year=1961|page=278|url=https://adeac.jp/npmh/viewer/mp000016/1603/?pagecode=79}}</ref>
 
<small>(前宮は二十の御社宮神 内のお{{Ruby|県|あがた}} 外のお県<br/>
御社宮神の四十の{{読み仮名|孫|いと}}が {{Ruby|百|もも}}結ぶ 百結ぶ<br/>
八重に綻れて {{Ruby|現形|げぎょう}}召される)</small>}}
 
上記のように『諏訪大明神神秘御本事大事』にも「二十御左口神之王子」という表現が見られる。
 
これに対して石埜三千穂は大祝の即位式の記録や古絵図をもとに前宮のミシャグジ(前宮に付属しているミシャグジ神社)と前宮そのもの(前宮社・前宮大明神)はそれぞれ別の社祠であることを推測している。石埜の説では、前宮に本来祀られていたのは「ヒトとしての大祝一族の祖霊」であり{{Efn2|実際には前宮の周辺に多くの墳墓(大祝一族のものか)がかつて並んでいた。}}、それと対比して内御霊殿(うちみたまでん、うちのみたまどの)に祀られているのは諏訪明神の[[荒魂・和魂|幸魂と奇魂]]、すなわち「現人神としての大祝の神格」である<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う《後編》」『スワニミズム 第4号』2018年、161-164頁。</ref>。石埜は「二十の御社宮神」(=前宮を守護する御子神の社祠)を22柱の御子神を祀る若御子社に比定している<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う《後編》」『スワニミズム 第4号』2018年、165-168頁。</ref>。
 
=== 鉄鐸(さなぎの鈴) ===
{{seealso|鉄鐸}}
[[ファイル:Sanagi-suzu (サナギ鈴).png|140px|サムネイル|佐奈伎鈴(鉄鐸)]]
[[銅鐸]]によく似た鉄製の{{読み仮名|鐸|すず}}は上社に神宝として残されている。この[[鉄鐸]]は截頭円錐形(いわゆるメガホン形)に丸めた薄い鉄板で作られたものであり、内部には鉄の舌が吊るしてある。現在、上社本宮に同形式のものが6個1連で3組保管されているが、これは元々守矢氏が管理していた<ref name="suwashishi677">諏訪市史編纂委員会 編「第一節 諏訪の古代信仰」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、677-679頁。</ref><ref name="miyasakasanagi">宮坂光昭「サナギ鈴」『神長官守矢史料館のしおり』 茅野市神長官守矢史料館、2017年、第三版、24-25頁。</ref>。
 
「御宝鈴」「大鈴」「{{読み仮名|佐奈伎|さなぎ}}鈴」等と呼ばれるこの鉄鐸は、誓約の鈴として、土地境界や戦争の和睦などの際に使用されたものである。また、春の耕作期直前、鉄鐸を持った神使(おこう)たちが各地の湛に人々を集めて、これを鳴らして神事を行った。こうしてミシャグジが豊穣をもたらし、その代わりに郷村民がお礼として農産物を貢上するという契約を成立させた。秋の収穫後、貢納の取りまとめを行う際に同様の神事が行われる<ref name="suwashishi677"/><ref name="miyasakasanagi"/><ref>宮坂光昭 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社、1992年、67-68。</ref>。
 
鉄鐸の使用には[[礼銭]]が定められており、神長の収入源の一つであった。郡外不出のものとされ、宝鈴のタブーを犯すと契約が破綻するといわれていた。また、違約のある時はミシャグジの祟りがあると信じられていた<ref name="suwashishi677"/><ref name="miyasakasanagi"/>。
 
[[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])、[[武田信虎]]と[[諏訪頼満 (安芸守)|諏訪頼満]]の和睦の際に、神長の[[守矢頼真]]が鉄鐸を鳴らしたという<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第四章 戦国時代の諏訪」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、1015-1017頁。</ref>。
 
[[塩尻市]]にある[[小野神社・矢彦神社|小野神社]]にも12個1連の鉄鐸が保管されている。上社の鉄鐸とは異なり、原形のまま[[鉾]]に吊るされている。多数の麻幣が結びつけられており、[[御柱祭]]が行われる年に1かけずつ結ぶ習わしが現在も続いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=2345&seq=0|title=小野神社の鐸鉾|website=長野県の芸術・文化情報センター|publisher=公益財団法人 八十二文化財団|access-date=2018-10-31}}</ref><ref>野本三吉「地母神信仰の村・序説」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、36-43頁。</ref>。
 
=== 「祟り神」としてのミシャグジ ===
『画詞』(諏方祭巻第一 春上)は「御作神」(ミシャグジ)について「若(も)し触穢ある時は、此の神必ずたたりをなす。鳥犬に至るまで其の罰を被る」と述べており、つまりミシャグジは[[穢れ]]があれば祟りをなす神で、その祟りは犬鳥にまで下るという<ref>宮坂光昭 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社、1992年、54頁。</ref>。郷土史家の宮坂光昭(1991年)は以下の出来事を「ミシャグジの祟りがあった」として挙げている。
 
*[[現人神]]である大祝は諏訪郡を出てはならない、または[[穢れ]]の元となる人や馬の血肉に触れてはならないという厳しい不文律があった。この掟を破って[[奥州合戦|奥州征伐]]に従軍し、また[[源義家]](八幡太郎義家)の誘いで上京しようとした[[諏訪為信]]の子[[為仲]]は、大祝在職中ということで諏訪社一同に反対されたものの、それを押し切って出立したが、社の鳥居を出ると馬が数匹病気で倒れ、更に群外を出ると馬が7匹も病死した。やがて[[美濃国]]にたどりついたところ、[[源義光]]一行と酒宴を催するが、部下双方が喧嘩し死傷者を出すに及んで、為仲は責任をとって自害する。父の為信はこの事件を神罰と見なし、遺児の[[為盛]]を大祝の職に就けさせなかった。次に大祝となった為仲の弟の[[為継]](次男)は任職3日後に頓死し、同じく弟の[[為次]](三男)も任職7日後に急死したため(いずれも神罰とされている)、四男の[[為貞]]が当職を継ぐことになった<ref name="miyasaka" />。(ただしこの出来事を記録する『画詞』<ref>「[https://adeac.jp/npmh/viewer/mp000006/0603/?pagecode=20 諏方大明神画詞 縁起第四]」『信濃史料 巻六』、219-220頁。</ref>や『前田本 神氏系図』<ref>宮地直一「[https://books.google.co.jp/books?id=4hBVjsO2GOgC& 付録 一 神氏系図]」『諏訪史 第2巻前編』、信濃教育会諏訪部会、1931年。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/en/museum_history/03OD0624101600|title=神氏系図(前田古写本之写)/資料コード 03OD0624101600|website=信州デジタルコモンズ|access-date=2020-01-12}}</ref>では「神罰」という表現が見られるのみで、'''ミシャグジの仕業であると明記していない。''')
*大祝即位式の時、神長官における授職を行わない人には神罰が下るとされた。戦国大名[[諏訪頼満 (安芸守)|諏訪頼満]]は嫡子の[[諏訪頼隆|頼隆]]を大祝に立てたが、頼隆は父に先立ち32歳で死去した。神長官の[[守矢頼真]]はこれを「即位式不足による御罰」と言っている。大祝となった頼隆の嫡男である[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]も即位式も正式でなかったためか、母が死亡したので大祝を退位した。ところが、次の大祝として立つべき人がなく、再度大祝となったものの、即位式もなく、かつ一周忌もたたずして大祝となった結果、やがて[[武田信玄|武田晴信(信玄)]]に滅ぼされる<ref name="miyasaka">宮坂光昭「祟りなす諏訪の土着神 ミシャグジ」『歴史読本』36 (6)、1991年、[[KADOKAWA]]、72-73頁。</ref>。
 
== ミシャグジと諏訪上社の神事 ==
諏訪上社においてミシャグジは諏訪明神を祭る祭礼には欠かせない役割をしてきたが、単独に祀られることはなかった。ミシャグジが主に活躍したのは、冬から春にかけて行われる神事祭礼であった。
 
=== 御室神事(十二月下旬) ===
{{seealso|ソソウ神}}
[[ファイル:Kubota Ruins pit dwelling.jpg|サムネイル|[[竪穴建物]]<br/><small>中世諏訪社の冬の神事において建築される御室は古代の竪穴建物を彷彿させる。</small>]]
{{Anchors|御室神事}}旧暦12月22日になると、諏訪郡の郷民が奉仕して神原(前宮)の一部に建築した{{読み仮名|'''御室'''|みむろ}}と呼ばれる広大な[[竪穴建物]]に大祝、神長以下神職が{{読み仮名|'''穴巣始'''|あなすはじめ}}と呼ばれる儀式を始める。
 
『諏方大明神画詞』には以下のように書かれている。
 
{{Quotation|十二月廿二日、一の御祭。<br/>
大祝以下の神官、所末戸社に詣づ。行列例の如し、饗膳の儀又常の如し。同日御室入、大穴を掘て、其内に柱を立て、棟を高め[[萱]]を葺きて、軒の垂木をささへたり。今日、第一の御体を入奉る。大祝以下神官参籠す。<small>(中略)</small><br/>
同廿九日、大夜明・大巳祭。又御体三所を入れ奉る。其の儀式おそれあるによりて、是を委くせず。冬は穴にすみける神代の昔は、誠かくこそありけめ。<ref name="#2">伊藤富雄「諏訪神社の竜蛇信仰」『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会編、人間社〈日本原初考 2〉、2017年、212頁。</ref>|『諏方大明神画詞』「祭第七 冬」}}
 
『年代神事次第旧記』(室町初期成立)によると御室には柱4本、[[桁 (建築)|桁]]2本、[[梁 (建築)|梁]]2本がある。田中基の計算によると24[[畳 (単位)|畳]]分の菅畳が用意されたため、広さはそれ以上ということになる。中には「'''萩組の座'''」「'''うだつ'''」と呼ばれる特別な神座はあり、そこには大祝、神長、神使(おこう)しか入ることができなかった。[[破風]]には[[葦]]で壁体を作り、そこに御左口神を祀ったという記録もあるが、これは御室自体の破風を指すのか、「萩組の座」の破風を指すのか不明である<ref name="tanaka226">田中基「穴巣始と外来―古諏訪祭政体の冬期構成―」『諏訪信仰の発生と展開』 古部族研究会編、人間社〈日本原初考 3〉、2018年、222-229、233-234頁。</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、143-144頁。</ref>。
 
[[ファイル:Suwa taisha Kamisha Maemiya , 諏訪大社 上社 前宮 御室社 - panoramio (1).jpg|サムネイル|左|御室社(上社前宮境内)]]
22日の祭事の時に御室に入れられる「第一の御体」とは、祭事に関する部分が所々改変されている神長本『画詞』<ref>加藤夏希「{{PDFlink|[https://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/arts/publication/journal/docs/jinbunkagaku_kenkyu09.pdf 神長官家における『諏訪大明神絵詞』受容のあり方]}}」『人文科学研究』第9号、信州大学、2011年、1-22頁。</ref>から、御左口神であることが分かる<ref name="mori">{{Cite journal|和書|author=森隆男 |title=諏訪社の祭祀と仮屋 |journal=近畿民俗 |issn=0288-2183 |publisher=近畿民俗学会 |year=1999 |month=feb |issue=154 |pages=1-16 |naid=120005684520 |url=https://hdl.handle.net/10112/2843}}</ref>。また「御体三所」は、『旧記』から「'''[[ソソウ神|そそう神]]'''」と称する神霊で、23日の神事の項に「例式小へひ入」とあることから[[茅]](カヤ)でできた3つの小型蛇体であることが分かる。小蛇に飾りの麻と紙を着けて神霊を込められる<ref name="#2"/><ref name="miyasaka1992">宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社、1992年、141-142頁。</ref><ref name="kitazawa202-203">北沢房子『諏訪の神さまが気になるの』信濃毎日新聞社、2020年、202-203頁。</ref>。
 
『旧記』によると、24日の夜(大巳祭){{Efn2|室町中期に書かれた『画詞』と日付が異なっているのは、時間が経つにつれて祭事の日取りが変更されたからと思われる<ref>伊藤富雄「諏訪神社の竜蛇信仰」『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会編、人間社〈日本原初考 2〉、2017年、217頁。</ref>。}}には御左口神を依り憑けた「御笹」(「うだつの御左口神」とも言う)が「萩組の座」の左から、「御正体」(上記の3体の小蛇)がその右から入れられる<ref name="tanaka226"/>。「萩組の座」の中で何が行われたのかははっきりしないが、大祝が笹を持ちながら唱え言をしたようである<ref name="terada-wasio144">寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、144頁。</ref>。
 
25日の大夜明祭には茅と[[ハンノキ]]の枝できた長さ5[[丈]]5[[尺]](約16m)、太さ1尺5寸(70cm)の蛇体3体が御室に入れられる。「御身体」または「ムサテ」と呼ばれるこの大型の蛇体は小さい蛇体と同様に「そそう神」を表すという。[[田中基]]の説ではこれが小蛇が[[冬眠]]に入り、御左口神の力によって一夜のうちに大蛇に変身する様、すなわち「神霊の増殖」を表している。御左口神の依り代の笹と「そそう神」の依り代の大小の蛇体が3月まで「萩組の座」に安置する<ref name="tanaka226"/><ref name="mori" /><ref name="terada-wasio144"/><ref name="miyasaka1992"/><ref>北沢房子『諏訪の神さまが気になるの』信濃毎日新聞社、2020年、201頁。</ref>。
 
===蛙狩神事(正月元旦)===
[[ファイル:Kawazugari (Frog Hunting) Ritual - 蛙狩神事.jpg|200px|サムネイル|蛙狩神事の際に御手洗川で蛙を捕獲する神職たち(1937年以前)]]
{{quotation|さて御手洗河にかへりて漁猟の儀を表す。七尺の清滝氷{{ruby|閇|とじ}}て一{{ruby|機|はた}}の白布地に敷けり。雅楽数輩、斧鉄を以て是を切り砕けば、蝦蟆五つ六つ出現す。毎年不闕の奇特なり。壇上のかへる石と申す事もゆえあることにや、神使、小弓小矢をもて是を射取りて、各串にさして捧げもちて生贄の初とす。|『諏方大明神画詞』「諏方祭 巻第一 春上」}}
 
[[ファイル:諏訪大社 本宮 勅使殿.JPG|サムネイル|left|勅使殿(上社本宮境内)]]
[[元旦|元日]]の朝に上社本宮で行われる'''蛙狩神事'''では、本宮前の御手洗川から捕らえられたカエルが小弓と矢で射抜かれ、生贄とする。かつてはカエルを「射取る」のが神使(おこう)の役目であり、6匹を捕獲したのは6人の神使がいたからと思われる。しかし時代が下がるとカエルの数も少なくなり、現在は2匹が平均的である。「不闕の奇特」と言われるほど川には必ずカエルが現れると信じられ、これが[[諏訪大社七不思議]]の一つとして数えられている{{Efn2|ただし、実際はカエルを一つも捕れなかった年も過去にはある。}}。射抜かれたカエルは本宮の「帝屋」(現在の勅使殿)に座す大祝の前に供えられ、丸焼きした後に神薬として配られた{{Efn2|大祝職が廃止されてから本宮の幣拝殿で供えられるようになったが、近年では[[動物愛護団体]]から抗議を受けているため神事自体が非公開となっている。}}<ref name="miyasaka1819">宮坂光昭 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社、1992年、18-19頁。</ref>。
 
中世の伝承では諏訪明神による[[タケミナカタ#蝦蟆神退治|蝦蟆神の退治]]を模した神事とされているが、カエルを供える本当の理由は謎に包まれており、いろんな説が挙げられている{{Efn2|蛇神とされた祭神に好物のカエルを捧げる説、古代人に食料とされたカエルを祖先神に捧げる説、諏訪上社の御狩始めの儀式説、月([[陰陽|陰気]])を象徴する[[月の兎#ヒキガエル|蛙]]を殺し春を迎える説、[[三毒]]の退治を表す密教風儀式説など。}}<ref>原正直『龍蛇神:諏訪大明神の中世的展開』人間社、2012年、18頁。</ref><ref>福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、118頁。</ref>。一説ではこの話が蛇神としての諏訪神と土地神(ミシャグジあるいは洩矢神)による神権争奪を意味するという<ref>金井典美『諏訪信仰史』名著出版、1982年、68頁。</ref><ref>武井正弘「祭事を読む―諏訪上社物忌令之事―」『飯田市美術博物館 研究紀要』、9(0)、1999年、137-138頁。</ref>。
 
===御占神事(元旦)===
[[ファイル:剣先板 - Kensakiban.png|サムネイル|270x270px|御占神事に用いられる剣先板・小刀子・藁馬・ススキの[[筮]]]]
{{quotation|今夜深更に及びて御室に帰る。<small>(中略)</small>先ず萩組の座にして神ノ長御占を行ふ。{{ruby|[[ススキ|薄]]|すすき}}の穂一束掌内に奉る。{{ruby|大祝|おおのと}}に対して誦文あり。外の人に聞かしめず、[[丁半|重半]]の占いに付て当年の神使六人を差定す。是氏人の巡役なり。|『諏方大明神画詞』「諏方祭 巻第一 春上」}}
元日の夜、神長が御室の中で当番として1年間上社に奉仕する御頭郷と神使(おこう)を抽選する御頭御占神事(神使御頭御占、神使殿御頭定とも)を行う。
 
6人の神使と14人の'''村代神主'''(むらしろこうぬし、[[神田#沿革|神田]]を経営して上社の神事費用を負担する、諏訪郡内の郷村の代表者)のために神長は「二十の御左口神」を降ろす。その神体は剣型の板('''剣先板''')で、これが藁馬に差し立てられ、御頭の役名(「内県介(うちあがたのすけ)」等)が書かれた紙を小刀で刺し止める。御左口神を降ろすと神長は大祝に対し呪文を唱えて、[[ススキ]]の芯を投げ打っての丁半の占いで神使(内県介・宮付(みやつけ)、外県介・宮付、大県介・宮付)を選んだ{{Efn2|中世では外県介と付属の宮付の2名は上社の社家が務め、残り4名は郷村から選ぶのが慣例になっていたようである。}}。新しい神使が決定されると前年の神使は退下する<ref>山本ひろ子「囚われの聖童たち 諏訪祭政体の大祝と神使をめぐって」『諏訪学』国書刊行会、2018年、112-114頁</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、147頁。</ref><ref>宮坂光昭 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社、1992年、20-21頁。</ref>。
 
今でも御頭郷を選ぶ占いは諏訪大社の[[宮司]]によって行われるが、[[諏訪頼水]]が1614年([[慶長]]19年)に諏訪の郷村を15組{{Efn2|現在は10組である。}}に分けてから輪番制に替わったため、形ばかりの神事となっている。
 
===神使の精進(二月)===
[[ファイル:御贄柱拵方御絵図.png|サムネイル|left|御贄柱拵方御絵図([[文化 (元号)|文化]]2年)<br/><small>右には御贄柱、中央には幣串、左には御贄串が描かれている。</small>]]
御頭郷に当たった村には上社の神印<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=420&seq=0|title=諏訪大社 上社宝印|website=公益財団法人 八十二文化財団|accessdate=2019-02-08}}</ref>が押された[[神札]]・'''御符'''(みふ)が授けられ、村境に境締めの[[幣帛]]が立てられる。神長が神使(おこう)のために新造された'''精進屋'''('''お贄場'''、'''御頭屋'''とも)に御左口神を降ろし{{Efn2|精進屋は原則として御頭郷に建てられる一時的な建物であるが、神長の屋敷(現在の[[神長官守矢史料館]])には恒久的な精進屋があって、御頭郷がそれを利用した例が見られる<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う《後編》」『スワニミズム 第4号』2018年、150頁。</ref>。}}、神使とその従人、鹿人(ろくびと、料理人)等が2月上旬から30日間、この中に厳しい精進潔斎を行う。物忌みの期間中、女性との交接や[[触穢]]は禁じられている。もし違反する時は、御左口神の祟りがあると信じされていた<ref>宮坂光昭 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社、1992年、53-54頁。</ref><ref name="yamamoto114116">山本ひろ子「囚われの聖童たち 諏訪祭政体の大祝と神使をめぐって」『諏訪学』国書刊行会、2018年、114-116頁。</ref>。
 
精進初めの日には神長が鹿の皮を敷き、鹿の足を載せた[[まな板]]を置き、神使たちに御左口神を「付け」る儀式を行う。透き烏帽子・[[狩衣]]を着た神使たちは神長から「極意の大事」の[[印相]]と[[真言]]を授けられる。心身を清浄に保つのが重要であるため、10日ごとには装束と、精進屋にある[[畳]]や調度品等がすべて取り替えられ、火も毎日3度改めた。[[行水]]は初めの10日間は1日1回、その次の10日間は1日2回、そして最後の10日間は1日3回を取った。そればかりでなく、『上社物忌令』では精進屋に入る前に「七日の精進」が定められている。御頭郷全体にも禁戒が定められ、諏訪社の社殿造営(現在の[[御柱祭]])と同様に奉仕期間中は祝い事([[元服]]・[[結婚]]など)や[[葬式]]が禁じられた<ref name="yamamoto114116"/>。
 
精進屋の前に設置された[[鳥居]]型の'''御贄柱'''('''おんね柱''')に付いている25本の串には贄の鹿肉が大量に掛け並べていた<ref name="yamamoto114116"/><ref>松前健『松前健著作集 第9巻』おうふう、1998年、149頁。</ref>。
 
その一方で、14人の村代神主にも神使と同様に御左口神が「付け」られて、精進を課せられた<ref name="kitazawa204-207">北沢房子『諏訪の神さまが気になるの』信濃毎日新聞社、2020年、204-207頁。</ref>。
 
精進期間が終わる2月晦日に神使が精進屋から出て、前宮付近にある[[諏訪大社#摂末社|荒玉社]]に神事が行われる。赤い長袖の[[袍]]を着た神使たちは本宮に参詣して、若芽の[[カワヤナギ]]の幣を4束ずつ奉納してから、正式に大祝の代理となったという旨の申し立てをする<ref>宮坂光昭 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社、1992年、56頁。</ref>。
 
{{Quotation|二月晦日。荒玉の社の神事。<br/>
当年の神使六人<small>(上﨟四人・下﨟二人)</small>、童子を直垂を着して出仕、饗膳あり。当人の経営なり。是則ち正月一日の御占に任て、氏人を差し定めて、其の子孫の中に婚姻未犯の童男を立て、来月初午以前、三十ヶ日の日限を点じて、面々新造の仮屋をかまへ、精進を初む。<br/>
先ず神長此の室に望みて、御作神と云ふ神を立て、神使の食物、飯・酒・魚鳥の上分をたむけて、日々行水・散供・祓の儀、厳重なり。随逐の禄人已下、従類相共に潔斎す。此所に女人の経廻をとどむ。若し触穢ある時は、此の神必ずたたりをなす。鳥犬に至るまで其の罰を被る。不思議の事なり。<br/>
三月以後、大祝の左右に随ひて、明年正月一日に至るまで神事を取り行ふ。当社末社の内、若宮・児宮まします。神代童体のゆえある事等なり。|『諏方大明神画詞』「諏方祭 巻第一 春上」}}
 
境締めは今でも御頭郷となる地区の境に立てられている。御室や神使関連の神事のほとんどが廃止してしまったため、現存する諏訪大社の神事の中でミシャグジが登場するのはこれだけである{{Efn2|なお、茅野市・諏訪市にある4社の御頭御社宮司社には[[例祭]]に諏訪大社の神職が出向する習慣が今も残っている。}}<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、78-79頁。</ref>。
 
===廻湛・御頭祭(三月)===
[[ファイル:Suwa-taisha,_Kamisha_Maemiya,_Jikkenrou-1.jpg|サムネイル|270px|上社の例祭「御頭祭」の舞台となる十間廊]]
[[ファイル:Mine-tatae (峰湛).jpg|サムネイル|left|300px|上社前宮付近の峰湛([[諏訪七木]]の一つ)]]
神長に御左口神を「付け」られ、精進期間を終えた神使(おこう)が、大祝を代表して上社の信仰圏(諏訪郡と上伊那郡北部)に点在する'''湛'''(たたえ)と呼ばれる[[神籬]](根元に[[磐座]]あるいは[[祠]]のあった巨木と考えられる)を廻って、そこで現地の村代神主とともに豊作祈願の神事を行った。これを'''廻湛'''(まわりたたえ)または'''神使御頭'''(しんしおんとう)という<ref name="kitazawa204-207"/>。
 
外県(上伊那)行きの2人1組(外県介・宮付)の出発式は3月の初午の日に行われ、残りの4人2組(内県介・宮付、大県介・宮付)はその3日後の酉の日に出発する。酉の日の出発式は'''大御立座神事'''(おおみたてまししんじ)、あるいは'''御頭祭'''(おんとうさい)あるいは'''酉の祭'''と呼ばれ、上社で一番盛大な神事として知られていた<ref name="kitazawa204-207" />。大祝が正式に冬籠りを終え、御室を出る日でもある<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、148頁。</ref>。
 
[[ファイル:Jinchōkan Moriya Museum - Ontōsai Diorama.jpg|サムネイル|[[江戸時代]]中期の御頭祭の供物の復元展示([[神長官守矢史料館]])<br/><small>[[天明]]4年(1784年)[[菅江真澄]]が描いた絵に基づく。</small>]]
酉の日の夕方、前宮の十間廊(神原廊(ごうばらろう)とも)で御頭郷が準備した75頭の鹿(御贄鹿)をはじめ、各地の氏子が奉納した山海の幸([[猪肉|イノシシ]]、[[ウサギ#食肉|ウサギ]]、[[雁]]、[[エビ]]、[[ワカメ]]など)が用意され、参列者が神(大祝)と共に食事を楽しむ「神人共食」の宴が繰り広げられる。その最中、長袖の赤い袍を着た神使たちは、神長から'''御杖'''(みつえ、祭りに参列した神氏系列の氏人の髪の毛が入った[[サカキ|榊]]の枝)と錦の袋に納めた鉄鐸(御宝鈴)を授かる。神使が大祝の前にひざまずき、大祝が玉鬘(たまかずら。「藤白波」とあるため藤蔓製の髪飾り・首飾りか)を神使に掛けた。次に大祝は口伝の[[祝詞]]を唱え、神使はこれを復唱する。御杖と鉄鐸を持った神使たちは馬に乗り、大祝の館の外にある'''御手祓道'''を逆回りして{{efn2|外県の神使は3回、大県の神使は2回、内県の神使は1回まわる<ref name="miyasaka62-75"/>。}}、氏人を伴って湛へ向かう<ref name="miyasaka62-75">宮坂光昭 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社、1992年、62-75頁。</ref><ref>北沢房子『諏訪の神さまが気になるの』信濃毎日新聞社、2020年、207-208頁。</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、149頁。</ref><ref>[[山本ひろ子]]「中世諏訪社の一考察 失われた芸能と伝承を求めて」『東西南北 和光大学総合文化研究所年報』2016年、33-34[211-210]頁。</ref><ref>[[藤森栄一]]『藤森栄一全集 第14巻(諏訪神社)』学生社、1986年、148-149頁。</ref>。
 
3月丑の日、外県の神使と内県の神使が廻湛から戻る(大県の神使が帰るのはその翌日の寅の日である<ref>宮坂光昭 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社、1992年、74頁。</ref>)。この日に、神長が神使に「付け」た御左口神を「上げ」た(神返しした)のち精進屋は撤去され、御室の中にある笹に付いた「うだつの御左口神」は前宮に移される。次の12月に再び御室に移されるまでそこに安置する<ref>北沢房子『諏訪の神さまが気になるの』信濃毎日新聞社、2020年、209-210頁。</ref>。
 
== 考証 ==
=== ミシャグジの実態 ===
==== 石の神か木の神か ====
幕末に書かれた『諏訪旧蹟誌』はミシャグジについてこう述べている。
 
{{Quotation|{{ruby|御左口|ミサグチ}}神、此神諸国に祭れど神体しかるべからず。或三宮神、或社宮司、或社子司など書くを見れど名義詳ならざるゆゑに書も一定せず。或説曰、此神は{{ruby|以前|ムカシ}}村々検地縄入の時、先づ其祠を斎ひ縄を備へ置て、しばしありて其処より其縄を{{ruby|用|モ}}て打始て{{ruby|服収|マツロヒ}}むとぞ。おほかたは其村々の鎮守大社の[[戌亥]]にあるべし。此は即石神也。これを[[呉音]]に{{ruby|石神|シャクジン}}と唱へしより、音はおなじかれど書様は乱れしなり。<ref>大和岩雄『信濃古代史考』名著出版、1990年、189頁。</ref>}}
 
『駿河新風土記』にも、村の[[検地|量地]]の後に[[間竿]]を埋めた上でこの神を祀る一説がみられる他、『[[和漢三才図会]]』は「志也具之宮(しやぐのみや)」を[[道祖神]]([[岐の神|塞の神]]の一種)としている<ref name="daijiten802"/>。
 
[[ファイル:National Museum of Ethnology, Osaka - Road spirit (Dôso-jin) - Replica - Ueda City, Nagano Pref. - Made in 1979.jpg|150px|サムネイル|[[道祖神]]]]
柳田國男は、日本にみられる各種の石神についての[[山中共古|山中笑]]らとの書簡のやりとりを『石神問答』<ref>{{Cite book|和書|author=柳田國男|authorlink=柳田國男|year=1910|title=石神問答|publisher=聚精堂|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993744}}</ref>として1910年に出していた。[[神体]]が石ということからミシャグジを石神とする山中に対し、柳田は石を祀らないミシャグジもあり、石を祀ってもミシャグジといわない例があると指摘し、検地に使われる間竿がその神体として祀られることもあるから、ミシャグジは土地丈量の神であると主張した<ref name="Owa190">大和岩雄『信濃古代史考』名著出版、1990年、190頁。</ref><ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、83頁。</ref>。また、ミシャグジは[[大和民族]]に対する[[先住民]]によって祀られていた塞の神(境界の神)で、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に立てた一種の標識であるとも考察した<ref name="soukou">「『遠野物語』研究草稿」20頁。</ref>。『石神問答』の再刊の序では、柳田は「是は木の神であったことが先ず明らかになり、もう此部分だけは決定したと言い得る」と宣言している<ref name="Owa190" /><ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、79-80頁。</ref>。
 
この柳田の説に対して大和岩雄(1990年)は、自説に不都合だからか、柳田が『諏訪旧蹟誌』を引用した際に「此は即石神也」という文を省いていたと指摘し、そもそも『旧蹟誌』の著者がミシャグジを石神としたのは境の神に石神が多いからと書いている<ref name="Owa190" />。さらに大和は、ミシャグジが祀られる古樹の根元に祠があり、神体として[[石棒]]が納められているのが典型的なミシャグジのあり方であるという今井野菊の観察に基づいて、ミシャグジはやはり石にもかかわっており、木の神と決定するわけにはいかないという見解を述べている<ref>大和岩雄『信濃古代史考』名著出版、1990年、190-191頁。</ref>。[[石埜三千穂]](2017年)も、柳田が民間信仰としての石神の調査の延長としてミシャグジを扱っており、中世諏訪信仰にちゃんと注目していなかったからこの結論に至ってしまったと批判している<ref name="#1"/>。
 
==== 鹿の胎児・酒の神 ====
[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]は、1930年(昭和5年)「御左口神考」の中で[[口噛み酒]]を古くは「みさく」「さくち」と呼ばれていたことからミシャグジは酒神であるという説を立てた。更に鹿の[[胎児]]が「さご」と称されていたことや、[[諏訪大社]]と鹿の因縁深い関係からミシャグジの正体を雌鹿・孕み鹿とし、「鹿の胎児を造酒に用いる一種の呪術的作法が行われたのではあるまいかと思われるのである」と推察していた<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、82-83頁。</ref>。
 
しかし、郷土史家の[[伊藤富雄]]にこの説に関して訊ねられた今井野菊は、鹿の胎児を酒造に用いる呪術的作法は聞いたこともない、と中山の推察を否定した。[[北村皆雄]](1975年)も中山説を「どうも肯定しうるだけの説得力に欠けている」と批判すると同時に、中山が論考で取り上げた、[[三河国]][[設楽郡]][[振草村]][[大字]]小林(現在の[[愛知県]][[北設楽郡]][[東栄町]])で行われる種取りの神事で鹿の腹に納める[[苞]]が「鹿のサゴ(胎児)」と呼ばれるのをミシャグジの名称、または土地の開拓との関係を「なんらかの因縁をつけることができるかもしれない」と推測している<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、83-84頁。</ref>。大和岩雄もこの情報を踏まえて、ミシャグジは植物(畑作・田作)だけでなく、動物にもかかわると提唱している<ref>大和岩雄『信濃古代史考』名著出版、1990年、201頁。</ref>。
 
==== ミシャグジと古木・石棒 ====
[[藤森栄一]]・今井野菊・宮坂光昭・古部族研究会([[野本三吉]]、北村皆雄、[[田中基]]の3人)らの研究により、ミシャグジと[[石棒]]や[[石皿]]との関係が明らかになった。上記の通り、今井の実地踏査で古木の根元に石棒を祀るのが最も典型的なミシャグジのあり方であることが判明した<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、87-88頁。</ref>。このことから、ミシャグジは木に降りて、石に宿る神霊と信じられていたと考えられる。
 
北村は、ミシャグジの神体となっている石棒や石皿のほとんどが縄文中期のものであると指摘し、石棒は本来のミシャグジの神体ではなかったとする[[宮地直一]]の説に対して、ミシャグジ信仰のルーツを縄文中期の[[地母神|地母神信仰]]に求め、石棒の中にその信仰的胚珠をもっていたと捉えた<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、92-97頁。</ref>。いっぽう宮坂は神木・石棒信仰を古代の[[ヘビ#信仰|蛇信仰]]と結びつけ(神木-蛇-[[男根崇拝|男根]]-石棒)、[[諏訪大社]]の龍蛇信仰はやはり縄文中期に遡るといわれるミシャグジ(石棒)信仰と繋がっていると考えた<ref>宮坂光昭「蛇体と石棒の信仰―諏訪御左口神と原始信仰―」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、131-155頁。</ref>。
 
[[ファイル:Sekibou.jpg|サムネイル|left|石棒([[奈良県立橿原考古学研究所附属博物館]])]]
ただし、諏訪大社上社の過去の祭事においては、ミシャグジが木や石だけでなく、[[笹]]や人間などにも憑くため、単なる木や石の神ではないという指摘もある。また、他の神([[天白神]]、[[千鹿頭神]]など<ref>田中基「洩矢祭政体の原始農耕儀礼要素」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、192頁。</ref>)を祀る社祠にも石棒が神体として納められることもある。この事から、石棒祭祀はミシャグジ信仰特有のものではなく、それとは元々直接の関係がないとする見解もある。この説では「地中から出た特殊な石・[[石器]](石棒や[[石剣]]など)を神社に奉納して祀る」という各地に見られる石神信仰が諏訪信仰の拡散につれてミシャグジと結びつけられたとされている<ref name="isigamisinnkou"/>。
 
その一例として、石埜穂高(2018年)は[[武蔵国]](現・[[埼玉県]]、[[東京都]])を中心に分布している[[氷川神社 (曖昧さ回避)|氷川神社]]にも石棒・石剣を祀る例が多いことを挙げている。[[氷川信仰]]における霊石祭祀はミシャグジ信仰と関連がなく、石棒・石剣を[[天叢雲剣]]に比定して生まれた信仰であるとしている<ref>石埜穂高「石神信仰と草薙剣」『スワニミズム 第4号』2018年、44-46頁。</ref>。
 
==== 神か精霊(力)か ====
現在はミシャグジを「神」として見るのが一般的であるが、[[細田貴助]](2003年)は「[[精霊]]と[[神#神の性質についての様々な考え方|人格神]](神)とを、古くの日本人は区別していた。ミサクジを神とはしなかったであろう」と主張している<ref>細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』ほおずき書籍、2003年、58頁。</ref>。
 
これに対して石埜三千穂は、上社の神事においてミシャグジに憑かれた人が[[託宣]]する(神意を示す)ことがまずなく、1年の間に上社に奉仕する郷村を決める御占神事もあくまでも[[タケミナカタ|諏訪明神]]の託宣であって、祭事中に降ろされるミシャグジはそのために作用しているに過ぎないと指摘している。このことからミシャグジは本来、抽象的な「諏訪大神のために働く純粋な力」(すなわち自然エネルギーそのもの)と理解されていたという説を石埜が提唱している<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、73-78頁。</ref>。北村皆雄と田中基(2018年)もミシャグジを[[マナ]](実体性のない、人や物に付着する神秘的な力)や[[折口信夫]]の言う「外来魂」と例えている<ref>「シンポジウム「ミシャグジ再起動」~探求のあれからと今、そしてこれから~」『スワニミズム 第4号』2018年、110, 115頁。</ref>。寺田鎮子・鷲尾徹太(2010年)もミシャグジの本質を「生命力を励起するパワーのようなもの」、「空からやってくる(…)大気(空気・空)に充満するエネルギー」としている<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、152頁。</ref>。
 
== 注釈 ==
{{出典の明記|date=2021年1月|section=1}}
{{columns-list|colwidth=15em|
{{Notelist2}}
}}
== 出典 ==
=== 脚注 ===
{{Reflist|3}}
 
=== 参照文献 ===
<div class="references-small">
* {{Cite journal|和書|author=岩下均 |title=大国主伝承の一考察 |journal=目白大学人文学研究 |issn=1349-5186 |year=2016 |issue=12 |pages=1-19 |naid=110010051028 |url=http://id.nii.ac.jp/1514/00001140/}}
* {{Cite book|和書|author=上田正昭 他|authorlink=上田正昭|year=1987|title=御柱祭と諏訪大社|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-480-84181-0|ref={{Harvid|御柱祭と諏訪大社|1987年}}}}
* {{Cite book |和書 |author=大庭祐輔|date=2006|publisher=[[論創社]] |title=竜神信仰―諏訪神のルーツをさぐる|isbn=978-4846003142|url=https://books.google.co.jp/books?id=zuiAUVX8IwMC|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=大場四千男 |title=加藤幸信「北炭真谷地炭鉱の友子制度と軌跡」 北海道炭鉱汽船㈱百年史編纂(五) |journal=開発論集 |issn=0288-089X |publisher=北海学園大学開発研究所 |year=2012 |month=mar |issue=89 |pages=141-189 |naid=120003967405 |url=http://hokuga.hgu.jp/dspace/handle/123456789/1878}}
* {{Cite book|和書|author=大和岩雄|year=1990|title=信濃古代史考|publisher=名著出版|isbn=978-4-479-84078-7}}
* {{Cite book|和書|author=北沢房子|year=2020|title=諏訪の神さまが気になるの|publisher=信濃毎日新聞社|isbn=978-4-7840-7354-2}}
* {{Cite book|和書|year=2017|title=古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究|editor=古部族研究会|series=日本原初考 1|publisher=人間社|isbn=978-4-908-62715-6|ref={{Harvid|古代諏訪とミシャグジ祭政体|2017年}}}}
* {{Cite book|和書|year=2017|title=古諏訪の祭祀と氏族|editor=古部族研究会|series=日本原初考 2|publisher=人間社|isbn=978-4-908-62716-3|ref={{Harvid|古諏訪の祭祀と氏族|2017年}}}}
* {{Cite book|和書|year=2018|title=諏訪信仰の発生と展開|editor=古部族研究会|series=日本原初考 3|publisher=人間社|isbn=978-4-908-62717-0|ref={{Harvid|諏訪信仰の発生と展開|2018年}}}}
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* {{Cite book |和書 |editor=小学館国語辞典編集部|date=2012|publisher=[[小学館]] |title=[[大辞泉]] |chapter=三狐神|isbn=978-4-095-01213-1|ref={{SfnRef|松村|2012}} }} {{kotobank|1=三狐神 |2=デジタル大辞泉}}
* {{Cite book |和書 |editor=小学館国語辞典編集部|date=2006|publisher=[[小学館]] |title=精選版 [[日本国語大辞典]]|chapter=三狐神|isbn=978-4-095-21022-3|ref={{SfnRef|小学館国語辞典編集部|2006}} }} {{kotobank|1=三狐神 |2=精選版 日本国語大辞典}}
* {{Cite web|和書|url=http://www.city.ise.mie.jp/secure/10348/p27.pdf#page=6|title=2.名勝を構成する要素 |work=名勝二見浦保存管理計画 第2章 第3節 |publisher=伊勢市役所 |date=2010-03|accessdate=2019-02-21|ref={{SfnRef|伊勢市役所|2010}} }}
 
== 関連文献 ==
<div class="references-small">
* {{Cite book|和書|editor=|author=金井典美|year=1982|title=諏訪信仰史|publisher=名著出版|ncid=BN01626104|ref={{Harvid|諏訪信仰史|1982年}}}}
* {{Cite book|和書|editor=鈴鹿千代乃・西沢形一 |title=お諏訪さま―祭りと信仰 |publisher=勉誠出版 |year=2004|isbn=978-4-062-11850-7}}
* {{Cite book|和書|author=宮地直一|authorlink=宮地直一|year=1931|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1076393 諏訪史 第2巻 前編]|publisher=信濃教育会諏訪部会|isbn=|ref={{Harvid|諏訪史 第2巻 前|1931年}}}}
* {{Cite book|和書|author=宮地直一|authorlink=宮地直一|year=1937|title=[https://books.google.co.jp/books?id=UHYSgY4lTZcC 諏訪史 第2巻 後編]|publisher=信濃教育会諏訪部会|isbn=|ref={{Harvid|諏訪史 第2巻 後|1937年}}}}
* {{Cite book|和書|author=柳田國男|authorlink=柳田國男 |title=石神問答|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993744|year=1910|publisher=聚精堂}}
</div>
; 論文
* {{Cite journal|和書|author=武井正弘 |title=祭事を読む-諏訪上社物忌令之事- |journal=飯田市美術博物館 研究紀要 |issn=1341-2086 |publisher=飯田市美術博物館 |year=1999 |volume=9 |pages=121-144 |naid=110008434555 |doi=10.20807/icmrb.9.0_121 |url=https://doi.org/10.20807/icmrb.9.0_121}}
 
== 関連項目 ==
{{columns-list|colwidth=15em|
* [[守矢氏]]
* [[洩矢神]]
* [[神長官守矢史料館]]
* [[タケミナカタ|建御名方神]]
* [[諏訪大社]]
* [[天白神]]
* [[千鹿頭神]]
* [[翁]](宿神)
* [[塞の神]]
* [[道祖神]]
* [[マナ]]
* [[童子]]
}}
 
== 外部リンク ==
;文書
*[https://adeac.jp/npmh/viewer/mp000016/1603/?pagecode=66 祝詞段](『信濃史料 巻16』収録)
*[https://adeac.jp/npmh/viewer/mp000016/1603/?pagecode=76 諸神勧請段](『信濃史料 巻16』収録)
*[https://adeac.jp/npmh/viewer/mp000011/1107/?pagecode=18 諏訪社上社年内神事次第旧記](『信濃史料 巻11』収録)
*[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1193847/15 諏訪大明神神秘御本事大事](守矢満実 著、『諏訪史料叢書 巻30』収録)
*[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209134/177 守矢頼真書留](『甲斐叢書 第8巻』収録)
*[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1193847/27 諏訪上下社神事祭礼ノ事断簡](『諏訪史料叢書 巻30』収録)
*[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185900/27 守矢家諸記録類](『諏訪史料叢書 巻26』収録)
*[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209134/170 諏訪神使御頭之日記]([[守矢頼真]] 著、『甲斐叢書 第8巻』収録)
*{{PDFlink|[https://www.city.chino.lg.jp/uploaded/attachment/8154.pdf 神長官守矢家文書目録]|2.5&nbsp;[[メビバイト|MiB]]}}
 
;その他
*[https://shikanokuni.vfo.co.jp/ ドキュメンタリー映画『鹿の国』公式サイト]
 
{{諏訪信仰}}
 
{{DEFAULTSORT:みしやくし}}
[[Category:神々]]
[[Category:日本の神]]
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[[Category:日本の仏教]]