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| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]15年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]([[1546年]][[4月1日]])
| 死没 = [[慶長]]4年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]([[1599年]][[11月22日]])
| 改名 = 亀九郎、田子九郎<ref name="戦国人名事典590">{{Sfn|阿部猛・|西村圭子編『戦国人|1990|p=590}}([[仮事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月通称)P590</ref>(|通称]]
| 戒名 = 常往院殿前光禄大夫江山心公大居士
| 墓所 = 福寿山三光寺([[青森県]][[三戸郡]][[南部町 (青森県)|南部町]])
| 官位 = [[従四位|従四位下]]・[[大膳職|大膳大夫]]
| 主君 = [[豊臣秀吉]]
| 氏族 = 石川氏[[南部氏]]
| 父母 = 父:[[石川高信]]<ref name{{Sfn|阿部|西村|1990|p="戦国人名事典590"/>}}<br />母:[[一方井安政]]の娘<ref name{{Sfn|阿部|西村|1990|p="戦国人名事典590"/>}}(芝山芳光大禅定尼)<br />養父:''[[南部晴政]]''
| 兄弟 = '''南部信直'''、[[石川政信]]
| 妻 = 正室:'''南部晴政の長女'''<br />後室:'''慈照院'''([[泉山古康]]の娘)<br />側室:稗貫御前([[稗貫広忠|稗貫広忠(家法・重綱)]]の娘もしくは元正室・於三)
| 子 = '''[[南部利直|利直]]'''、千代([[八戸直栄]]室)、季子([[秋田英季]]室)
}}
 
'''南部 信直'''(なんぶ のぶなお)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[陸奥国]]の[[武将]]、[[戦国大名]]。[[南部氏]]第26代当主で中興の祖といわれる。
'''南部 信直'''(なんぶ のぶなお)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[陸奥国]]の[[武将]]、[[戦国大名]]、[[南部氏]]第26代当主。[[盛岡藩]]の[[藩祖]]とされ<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E8%97%A9-142852 コトバンク-ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「盛岡藩」の解説より]</ref>、南部氏中興の祖といわれた。
 
== 生涯 ==
=== 晴政後嗣とその後の確執 ===
[[天文 (元号)|天文]]15年(1546年)3月1日、[[南部氏|南部家]]の第22代当主・[[南部政康]]の次男・[[石川高信]]の庶長子として[[岩手郡]][[一方井城]]で生まれる。
 
[[永禄]]8年([[1565年]])、従兄である南部氏第24代当主・[[南部晴政]]にいなかったため、信直はその長女の婿となり養嗣子とった。かし晴政と[[三戸城]]の間迎え[[南部晴継]]が誕生したことで晴政か疎まるようになる。晴政の長女が早世するとさらに関係は悪化し、信直は相続を辞退した。
 
その後、晴継が第25代目となったが若くして死去。相続問題が起きる<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=南部信直 戦国の北奥羽を制した計略家|year=2016|publisher=戎光祥出版株式会社|page=86|author=森嘉兵衛|pages=}}</ref>。
永禄9年([[1566年]])と永禄11年([[1568年]])、[[鹿角郡]]に侵入した[[安東愛季]]軍を撃退する。
 
=== 家督相続 ===
{{要出典範囲|date=2016年3月|[[元亀]]元年([[1570年]])、晴政に実子・[[南部晴継]]が誕生すると次第に晴政から疎まれるようになる。
後継者を巡り一門郎党の大評定が行われた。南部家の古い慣習では相続人がいない場合、[[八戸氏|八戸]]家から養子を迎えることになっていたが、当時の八戸家にその余裕はなかった。八戸家は一族の新田家から幼い養子を迎えてかろうじて相続している状況だった。
 
他の有力候補として、晴政次女の夫である[[九戸実親]]([[九戸政実]]の弟)を推す声が多かった{{Sfn|森嘉兵衛|2016|pp=89-90}}。
元亀2年([[1571年]])5月([[天正]]9年([[1581年]])説もある)、南部一族の[[津軽為信|大浦為信]]に[[石川城]]を攻められて実父・石川高信が自害する(生き延びたとする説もある)。これは石川家を弱体化させておきたい晴政が、石川家の津軽地方をかすめ取るよう大浦為信を密に唆したとの説もある。なお南部氏側資料では、石川高信は天正9年(1581年)に病死し大浦為信に攻められていないが、南部氏側の作意を示す証拠が存在する。
 
しかし、一門の[[北信愛]]が「田子九郎信直は晴政の従兄弟、かつ晴継の大姉婿なり。その器量、また他に勝る。まさに家督に立つべき者なり」と発言し、[[八戸政栄]]も信直を推した。信愛は武装した将士を田子城に派遣すると、信直を第26代目として三戸城に迎えた{{Sfn|森嘉兵衛|2016|pp=90, 92-94}}。相続時期は不明で、永禄八年(1565年)か天正十年(1582年)といわれる。
[[天正]]4年([[1576年]])、正室(晴政の長女)が早世すると、本人も身の危険を感じていたのか晴政の養嗣子の座を辞退し[[田子館]]に引き籠もるが、刺客の脅威から逃れるため[[北信愛]]の[[剣吉館]]や[[南部氏#根城南部氏(遠野南部氏)|根城南部氏]]当主・[[八戸政栄]]の[[根城]]などに身を隠す。晴政は信直への不信を抱き続け、南部家内は晴政ならび一族内の有力勢力・[[九戸氏]]の連衡と、信直を盟主とする[[南長義]]、北信愛の連合の間で対立していく。}}
 
=== 南部宗家家督相続豊臣政権下 ===
信直は北信愛の進言で、[[豊臣秀吉|秀吉]]からの信任が厚い[[前田利家]]と交流する<ref>{{Cite book|和書 |title=剣吉城主 北 信愛 |year=1995 |publisher=青森コロニー印刷 |pages=52-53 |author=金澤啓三郎}}</ref>。交渉の記録は天正14年(1586年)8月頃から確認されており<ref>瀬戸薫「前田利家と南部信直」(『市史かなざわ』5号、1999年)</ref>、以降、前田利家が秀吉との取次を受け持った<ref>{{Cite book|和書|title=豊臣政権と北奥大名南部家(『偽りの秀吉像を打ち壊す』山本博文; 堀新; 曽根勇二 編 )|year=2013|publisher=柏書房|page=92|author=千葉一大}}</ref>。
天正9年([[1581年]])、信直が南部家の家督を継承し当主となる<ref>熊谷隆次「豊臣政権の八戸」(『新編八戸市史』通史編Ⅰ 原始・古代・中世、2015年)</ref>。
 
信直の実父・石川高信が石川城で死去すると、信直は弟である政信を津軽郡代として浪岡城に置いていた{{Sfn|森嘉兵衛|2016|p=108}}。しかし天正16年に政信が急死([[津軽為信|大浦為信]]が毒殺したといわれる)し、為信が叛乱を起こす。信直は救出のため動員を下そうとしたが九戸氏らは動かず、代わりに八戸政栄を派遣。しかし時機を逃して浪岡城は陥落した{{Sfn|森嘉兵衛|2016|p=110}}。
急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。南部晴継の後継者としては、九戸氏当主・[[九戸政実]]の弟でかつ晴政の二女が嫁いだ[[九戸実親]]を推す意見もあったが、北信愛が事前に八戸政栄を調略し、結局は信愛や南長義から支持された信直が、南部氏第26代当主を継承することとなった<ref name="戦国人名事典590"/>。このため九戸政実は遺恨を抱き南部家中は不穏な状態であった。
 
豊臣秀吉から小田原参陣命令がくると、信直は三戸城の留守を心配して八戸政栄に相談した。「八戸家伝記」にその時の記録がある。
これら南部宗家と一族間の内部抗争、ならび南部領内に度々侵入する外敵へ対処せざるを得なかったため、その間も大浦為信に津軽地方は切り取られていくのだが、南部氏側は有効な討伐を行うことができなかった。
 
信直が「小田原に参陣したいので領内の警備を貴方に任せたい。貴方の家は代々王室公家に奉仕し、由縁は他の氏族と異なる。秀吉公から安堵の朱印をもらってやりたいと思うが、近年わが領は穏やかでない。いろいろ考えて時期を待っていたが、今回は貴方の嫡子である直栄をつれて参陣させ、貴方の名代を勤めさせようと思う。参礼して安堵の朱印状を申し受けよう」と政栄に提案した。
=== 豊臣政権下 ===
天正14年([[1586年]])(天正16年([[1588年]])説もある)、[[斯波氏#高水寺斯波氏|高水寺斯波氏]]の当主・[[斯波詮直]]を滅ぼして勢力を拡大した。豊臣政権の[[前田利家]]との交渉は天正14年([[1586年]])8月頃から確認され<ref>[[瀬戸薫]]「前田利家と南部信直」(『市史かなざわ』5号、1999年)</ref>、前田利家が信直の取次をすることになる<ref>[[千葉一大]]「豊臣政権と北奥大名南部家」(山本博文・堀新・曽根勇二編『偽りの秀吉像を打ち壊す』柏書房、2013年)92頁</ref>。
 
しかし政栄がいうには、「小田原参陣は一番大切である。直栄を軍列に随わしめれば本望ではあるが、あえて直参の礼は望まない。今や九戸が叛乱し、津軽も同様である。これを思うと兵力を分けたり人々を疑うときではない。我々が嫡家とひとしく直参の礼をとれば、力はいよいよ分割され、民衆もまたいよいよ疑いを持つことになる。自家の栄耀を計り嫡家の安危を忘れるよりは、嫡家の付庸となり嫡庶両方の長久を保つ方が良い。後日もし不参の咎があれば、嫡家の方でよろしくこれを解いてほしい」といって肯かなかったという。
天正18年([[1590年]])1月津軽へ兵を進める。大浦為信は密に上洛するため既に津軽を離れていたと思われるが、大浦側の抵抗が固くまた真冬でもあり南部軍は苦戦を強いられ、目的を果たせぬまま小田原参陣のため撤退した。八戸政栄に三戸城代を委ね、政栄の子・[[八戸直栄]]を随伴し兵1,000を率いて、同年4月[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に参陣、そのまま従軍し[[奥州仕置]]の軍を進める秀吉から[[宇都宮市|宇都宮]]において、7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡([[糠部郡]]、[[閉伊郡]]、[[鹿角郡]]、[[久慈郡]]、[[岩手郡]]、[[紫波郡]]、そして[[遠野]][[保]]か?)についての覚書の朱印状を得る<ref>[http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-kyodokan/files/2010-0604-1454.pdf 天正20年(1500)7月27日付豊臣秀吉朱印状南部信直宛(盛岡市中央公民館蔵)] なお糠部郡は寛永11年([[1634年]])に北、三戸、二戸、九戸の4ヶ郡に分割された</ref>。
しかし大浦為信に津軽地方を押領されたことの訴えは、南部氏の小田原参陣よりも早い3月に為信が秀吉に小田原途上の沼津にて謁見し、既に津軽氏へ所領安堵されており却下された。同年7月、秀吉の奥州遠征の際には[[浅野長政]]と共に先鋒を務めた<ref name="戦国人名事典590"/>。
 
信直は涙を流してその誠忠に感謝し、直栄を伴って三戸を出発した{{Sfn|森嘉兵衛|2016|pp=129-131}}。
奥羽仕置後に[[葛西大崎一揆]]や[[和賀・稗貫一揆]]<ref>和賀・稗貫一揆によって滅亡した[[稗貫広忠|稗貫広忠(家法・重綱)]]の娘もしくは元正室・於三は出家し月庵尼と称したが、[[稗貫氏|稗貫家]]を再興すべく三戸城を訪れ、思惑通り信直に見初められて還俗、稗貫御前と呼ばれる側室になったが稗貫家再興の夢は成就しなかった。</ref>、天正19年([[1591年]])に[[九戸政実の乱]]が起きると、[[豊臣秀次]]を総大将とした秀吉からの10万人の援軍を得てこれを鎮圧し<ref name="戦国人名事典590"/>、政実ら謀反人を処刑した。九戸氏討伐直後に信直は、討伐軍に加わっていた津軽為信を悪逆であると小田原参陣時に続いて言い募り、秀吉の奉行である浅野長政に実父・石川高信の敵討の許しを願い出る。長政がこれを拒否すると、今度は[[蒲生氏郷]]を介して長政に敵討を願い出てきたので、長政は再び拒否するとともに不測の事態を避けるため、津軽為信に即刻領地へ帰るよう促したとされる。
 
信直が秀吉に謁すると、既に津軽は為信に与えられていた後だった。秀吉も今更間違って朱印状を出したともいえず、代替地のつもりで信直に志和、和賀、稗貫、岩手、閉伊を加増した。それゆえ新たに五郡を付加されたが石高は変わらなかった{{Sfn|森嘉兵衛|2016|pp=112-113}}。
秀吉の命で[[九戸城]]を蒲生氏郷が改修し、信直は三戸城から居城をここに移し福岡城と改名した。また失領している[[津軽郡 (陸奥国)|津軽3ヶ郡]]([[平賀郡]]、[[鼻和郡]]、[[田舎郡]])の代替地として[[和賀郡]]、[[稗貫郡]]の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡10万石の大名と認められて<ref name="戦国人名事典590"/>、11月に嫡子・[[南部利直]]と共に上洛して秀吉に謝している<ref name="戦国人名事典590"/>。信直の当主権確立を強力に擁護した豊臣政権により、天正20年([[1592年]])までに、信直の当主権力が確立したといえる<ref>熊谷隆次 「南部信直の元服書について」(『古文書研究』84号、2017年)</ref>。
 
天正19年(1591年)に[[九戸政実の乱]]が起きると、[[豊臣秀次]]を総大将とした10万人の援軍が秀吉から派遣された。九戸城が簡単には落ちなかったので、軍監・[[浅野長政]]は作戦を変え、政実の信頼厚い長興寺の住職を派遣して降伏を勧告した{{Sfn|森嘉兵衛|2016|p=161}}。部下を思いやる九戸政実は降伏を受け入れ、櫛引氏らと共に城を出た。長政は書簡で約束していたので秀次に助命を願い出たが、秀次は冷淡に全員を打ち首にした<ref>{{Cite book|和書|title=概説八戸の歴史. 上巻 第2|year=1961|publisher=北方春秋社|page=135|author=八戸社会経済史研究会}}</ref>。
[[文禄]]元年([[1592年]])からの[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]では、秀吉に従って1,000余名を率いて[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]に参陣したが、朝鮮に渡海せずに翌年に帰国を許された<ref name="戦国人名事典590"/>。
 
文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では、信直は病身をおして肥前名護屋城に参陣した。渡海を待っていたが、朝鮮との交渉は秀吉の思ったように進まず、休戦となったため帰国した<ref>{{Cite book|和書|title=南部信直 戦国の北奥羽を制した計略家|year=2016|publisher=戎光祥出版株式会社|page=177|author=森嘉兵衛}}</ref>。
 
=== 最期 ===
肥前国より帰国後は築城や諸城の破却に着手するなど<ref>{{Cite book|和書|title=戦国人名事典(コンパクト)|month=9|year=1990|publisher=新人物往来社|author=阿部猛; 西村圭子}}</ref>領内の基盤固めに専念した。
肥前国より帰国後は、[[盛岡市|盛岡]]に居城を定め、築城や諸城の破却に着手するなど<ref name="戦国人名事典591">阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)P591</ref>、領内の基盤固めに専念した。九戸の乱後の仕置によって、南部は[[伊達政宗]]と領地を隣接することとなり、盛岡への本城の移転は狡猾な野心家である政宗の侵略に対抗する為の防備であったという<ref>七宮,250項</ref>。慶長3年([[1598年]])に秀吉が死去すると、[[徳川家康]]に接近する。同年、[[盛岡城]]の築城を開始するが、その完成を見ず、慶長4年(1599年)10月5日、福岡城(九戸城)で病死した<ref name="戦国人名事典591"/>。[[享年]]54<ref name="戦国人名事典591"/>。法名は「常往院殿前光禄大夫江山心公大居士」。墓所は青森県三戸郡南部町の三光院。信直と後室(泉山古康娘)夫妻の墓が現存する。
 
文禄3年(1594年)、蔵入地拡大政策の一環として、新田村を蔵入地化し、文禄4年(1595年)10月頃、代官に木村秀勝を抜擢して代官所の建造を行なった。その直接の目的は年貢米の収納にあり、百姓はこれを[[籾]]のまま[[俵]]に詰めて個別に秀勝のもとへ納め、収納後は蔵に保管する制度が構築された<ref name="#1">熊谷隆次「豊臣政権期における南部信直の蔵入地支配について」(『地方史研究』71巻1号、2021年)</ref>。
晩年は[[中風]]を煩っており、秀吉への拝謁や朝鮮出兵の従軍の為に西方へ行くのも苦労していた。死の直前、長女・千代(八戸直栄室)に向けて書かれた[[手紙]]では「大事ない、[[海藻]]が食べたくなったので、[[ワカメ]]や[[昆布]]を確保して欲しい」と言っていたが、その直後の死であった。後を長男の利直が継いだ。
 
文禄・慶長初期、年貢米の一部は扶持方・賄米にあてられたが、上質米は売却された。米市場は新田村の三斎市と推定され、信直は売却時期を二月に公定することで米市場を統制化に置き、年貢米の確実な地払いを行った<ref name="#1"/>。
 
九戸戦後、浅野長政から「三戸城は山に囲まれていて豊穣の地にはなりがたい。一方、不来方(盛岡)は城を築くに適当である」と勧められ、自身もその考えを持っていた信直は盛岡城築城認可を依頼した。しかし朝鮮役が起こり、なかなか正式な認可は下りなかった{{Sfn|森嘉兵衛|2016|pp=181-182}}。いつ認可が下りたかははっきりしないが、慶長3年に認可の朱印状をもらったものとみられる。天正十九年の九戸戦後から、盛岡城建築を計画し整地をはじめ、慶長二年の暮には秀吉の了解を得る。慶長三年に認可の朱印状をもらい帰国した。その翌年に信直は逝去し、盛岡城は跡継ぎの利直によって建設、完成された{{Sfn|森嘉兵衛|2016|pp=186-187}}。
 
享年54<ref>{{Cite book|和書|title=戦国人名事典(コンパクト)|month=9|year=1990|publisher=新人物往来社|page=591|author=阿部猛; 西村圭子}}</ref>。法名は「常往院殿前光禄大夫江山心公大居士」。墓所は青森県三戸郡南部町の三光院にあり、信直と後室(泉山古康娘)夫妻の墓が現存する。
 
晩年の信直は[[中風]]を煩っており、秀吉への拝謁や朝鮮出兵の従軍の為に西方へ行くのも苦労していた。死の直前、信直は長女・千代(八戸直栄室)に向けて書かれた[[手紙]]では「大事ない、[[海藻]]が食べたくなったので、[[ワカメ]]や[[昆布]]を確保して欲しい」と言っていたがその直後の死であった。
 
== 家臣 ==
{| width="100%"
|-
| valign="top" |
* [[南長義]]
* [[南康義]]
* [[南盛義]]
* [[石亀信房]]
* [[石亀政頼]]
| valign="top" |
* [[石亀義実]]
* [[石川政信]]
* [[泉山古康]]
* [[泉山政義]]
* [[毛馬内秀範一戸政連]]
* [[毛馬内政次一戸出羽守]]
* [[上杉憲武]]
| valign="top" |
* [[毛馬内直次奥瀬重之]]
* [[石川政信奥瀬善九郎]]
* [[八戸政栄唐式部]]
* [[八戸直栄]]
* [[八戸直政]]
| valign="top" |
* [[北信愛]]
* [[北愛一]]
* [[北]]
* [[北直継]]
* [[北愛邦]]
| valign="top" |
* [[北信景]]
* [[東政勝北信愛]]
* [[東直義北秀愛]]
* [[木村秀茂]]
* [[切田小太郎]]
* [[切田兵庫介]]
* [[毛馬内直次]]
* [[毛馬内秀範]]
* [[毛馬内政次]]
* [[小平左近]]
* [[桜庭直綱]]
* [[奥瀬重之沢田助三郎]]
* [[下田直政]]
| valign="top" |
* [[浄法寺重安]]
* [[浄法寺重好]]
* [[津村伝右衛門]]
* [[戸来保秀]](治部少輔)
* [[中野康実]]
* [[八戸直栄]]
|}
* [[八戸直政]]
* [[八戸政栄]]
* [[東直義]]
* [[東政勝]]
* [[南長義]]
* [[南康義]]
* [[南盛義]]
 
== 偏諱を授けた人物 ==
* [[桜庭直綱|桜庭'''直'''綱]]、ほか{{Sfn|岩手県|1961|pp=564-565}}
 
== 南部信直を題材とする作品 ==
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=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
 
=== 引用元 ===
<references/>
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|title=岩手県史|volume=第三巻|volume-title=中世篇 下|publisher=杜陵印刷|author=岩手県|date=1961-10-20|id={{NDLJP|3004946}}|ref={{SfnRef|岩手県|1961}}}}{{要登録}}
* [[阿部猛]]・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)ISBN 4-404-01752-9
* {{Cite bookCitation|和書|authoreditor1-last=[[七宮ケイ三阿部|七宮涬三]]editor1-first=猛|titleeditor1-link=陸奥 南一族猛|editor2-last=西村|editor2-first=圭子|editor2-link=西村圭子|title=戦国人名事典|edition=コンパクト|publisher=[[新人物往来社]]|yeardate=19871990-09|isbn=4-404-0146801752-69}}
* {{Citation|和書|last=七宮|first=涬三|authorlink=七宮涬三|title=陸奥 南部一族|publisher=新人物往来社|year=1987|isbn=4-404-01468-6}}
* 瀬戸薫「前田利家と南部信直」(『市史かなざわ』5号、1999年)
* {{Cite journal|和書|author=西野隆次|title=南部信直と「取次」前田利家」(『|journal=地方史研究|issue=305号|year=2003年)}}
* 熊谷隆次「豊臣政権期における南部信直の蔵入地支配について」『地方史研究』71巻1号、2021年
* 千葉一大「豊臣政権と北奥大名南部家」(山本博文・堀新・曽根勇二編『偽りの秀吉像を打ち壊す』柏書房、2013年)
* {{Cite book|和書 |title=南部信直 戦国の北奥羽を制した計略家 |year=2016 |publisher=戎光祥出版 |series=中世武士選書 |ref=harv |author=森嘉兵衛}}
* 熊谷隆次「豊臣政権の八戸」(『新編八戸市史』通史編Ⅰ 原始・古代・中世、2015年)
* 金澤啓三郎「剣吉城主 北 信愛」青森コロニー印刷、平成7年
* 熊谷隆次 「南部信直の元服書について」(『古文書研究』84号、2017年)
* 八戸社会経済史研究会「概説八戸の歴史. 上巻 第2」北方春秋社、1961年
 
== 関連項目外部リンク ==
* [http://e-iwate.net/modules/content1/index.php?content_id=6 南部信直] - 岩手県岩手郡[[岩手町]] e-いわてまち.ねっと
* [[戦国時代の人物一覧]]
* {{kotobank}}
* [[南部氏]]
 
{{南部氏当主|第26代|1582年 - 1599年}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:なんふ のふなお}}
[[Category{{デフォルトソート:南部氏|なんふ のふなお]]}}
[[Category:戦国大名]]
[[Category:織豊政権の大名]]
[[Category:盛岡南部家|のふなお]]
[[Category:陸奥国の人物]]
[[Category:1546年生]]