「徳川家康 (1965年の映画)」の版間の差分

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{{Infobox Film
| 作品名 = 徳川家康
| 画像 = Tokugawa-Ieyasu-1965-1.jpg
| 画像サイズ = 240px
| 画像解説 =
| 原作 = [[山岡荘八]]『[[徳川家康 (山岡荘八)|徳川家康]]』
| 監督 = [[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]
| 製作 = [[大川博]]
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== ストーリー ==
駿府を居城とし、[[駿河国|駿]]、[[遠江国|遠]]、[[三河国|参]]の三国を領する'''[[今川義元]]'''が強大な勢力を誇っていた。西には新鋭の'''[[織田信秀]]'''が東方に進出し、西三河は東西勢力の接触点となっていた。この地域を拠点としていた岡崎と刈谷は、両勢力いずれかにつかざるを得ず、刈谷の'''[[水野信元|水野下野守信元]]'''は、刈谷の姫・'''[[於大の方|於大]]'''(おだい)を和睦のしるしに三州岡崎の城主・'''[[松平広忠]]'''の許へやり、今川方の松平に属した。
 
天文11年、於大は男子を出生、'''松平竹千代'''と名づけた。寅の日、寅の刻という奇瑞に岡崎城下は沸いた。
 
3歳の春、於大の父は病死し、城主となった信元は今川の勢力を脱し織田方と盟を結んだ。於大は兄の一決で織田方阿久居の城主・'''[[久松俊勝]]'''のもとに嫁いだ。病弱な広忠は如何なる運命にも耐えて、竹千代を守れと於大を送る。今川義元は伯父 '''[[太原雪斎|雪斎禅師]]'''の進言を容れ、岡崎を織田進撃を喰い止める要路とみて、竹千代を人質に迎える旨岡崎に伝えた。弱小国・岡崎のとる道は唯一つ、竹千代は七人の侍童に守られて駿府に向かった。だが途中、田原領主・'''[[戸田康光|戸田弾正]]'''の寝返りで、竹千代は一千貫で織田方に売られ、侍童たちは次々と割腹した。
 
信元は竹千代の命と引き換えに、織田方へ加担をすすめたが、広忠は武士の意地から拒否。これを聞いた於大は熱田に向かい、'''吉法師'''(後の織田信長)のおかげで竹千代の姿を垣間見る。竹千代は「母はおらん」というが、吉法師は於大の心に激しく心を揺さぶられ、竹千代が折った金色の折鶴を於大に渡す。
 
天文18年、広忠が病死し、弔いにかこつけて[[安祥城]]を奇襲した岡崎勢は城主信広と交換に、竹千代を3年ぶりに三河に迎えた。それもつかの間、竹千代は岡崎を去って駿府の人質となり、三河は今川に統轄された。
 
10年後、吉法師は'''信長'''と名を改め、勢力を拡げ、今川方を脅す。竹千代の動静を'''[[豊臣秀吉|藤吉郎]]'''を派遣し、つぶさに於大に知らせるが、信長の真意は分からなかった。竹千代も元服して'''元信'''と名を改め、義元の姪・'''瀬野'''と婚儀を結ぶ。雪斎は「お主は岡崎の者か、今川の者か」と問いつめる。
 
永禄3年、義元は天下統一のため上洛を決める。信長は元信の動静に眼を離すなと藤吉郎に命ずる。松平の血を継ぐ元信は岡崎譜代の家臣と自分のために切腹した7人の侍童に報いるため、[[大高城]]にこもり、織田方との戦いを避ける。信長は大高城を迂回し、[[桶狭間]]の今川の本陣に入り、義元の首をはねる。報を聞いた元信は織田軍に乗り込むと義元の首を受けたいと告げる。恨みよりも恩を返そうとする元信の心に、信長は拒否するが、かねて約束の馬を与えるといい、馬と馬がぶらさげていた義元の首を手渡す。
 
== キャスト出演 ==
順序は本作冒頭の[[タイトルバック]]および[[国立映画アーカイブ]]<ref name="nfaj">{{NFAJ title|1467|徳川家康}}</ref>に、役名は[[キネマ旬報映画データベース]](KINENOTE<ref name="kinejun">{{Kinejun title|21541|徳川家康}}</ref>)に基づく。
* [[織田信長]]:中村錦之助([[萬屋錦之介]])
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企画は[[東映京都撮影所]](以下、東映京都)所長・[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]<ref name="映画時報196411"/><ref name="キネ旬19660301">{{Cite journal|和書 |author = | title = 日本映画製作者名鑑| journal = [[キネマ旬報]] |issue =1966年3月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] | pages = 34 }}</ref>。当時の[[時代劇#東映|東映の時代劇]]はあまりお客は入らなかったが<ref name="映画時報196411"/>、[[大映]]の時代劇はお客を集め<ref name="映画時報196411"/>、テレビの『[[隠密剣士]]』や『[[三匹の侍]]』などは圧倒的人気で<ref name="映画時報196411"/>、特に『[[忍者部隊月光|月光忍者部隊]]』や『[[少年忍者風のフジ丸|風のフジ丸]]』などの[[忍者を主題とする作品一覧|忍者もの]]は[[漫画]]にまで普及して大きな人気を集め<ref name="映画時報196411"/>、1965年は時代劇のピークが来るのではと予想する映画関係者もいた<ref name="映画時報196411"/>。岡田は大映に対抗するには東映のオールスター映画を復活させて口火をつけようとテレビで放映中の『[[徳川家康 (山岡荘八)|徳川家康]]』の映画化に踏み切った<ref name="映画時報196411"/>。『徳川家康』は数年来ブームを呼んでおり、[[吉川英治]]の『[[新・平家物語|新平家物語]]』以上の読者を持ち、現代[[経営者]]から、[[学生]]、[[サラリーマン]]と、老若男女すべてに必見の書といわれていた<ref name="映画時報196411"/><ref name="週刊映画19641114">{{Cite news |title = バラエティに富む東映正月番組 話題呼ぶ超大作『徳川家康』 |date = 1964年11月14日 |newspaper = 週刊映画プレス |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 7 }}</ref>。各映画会社とも映画化を企画していたが、山岡荘八が映画化をOKしなかった<ref name="映画時報196411"/>。山岡は「まだ小説が継続中に映画化されてはテーマを全く別の視覚からバラバラに切りさいなまれるようなもの」などという持論をもっていた<ref name="映画時報196411"/>。岡田は監督に[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]を起用し、脚本も執筆するという条件を提示し<ref name="映画時報196411"/>、山岡は「伊藤さんならば安心してお願い出来る」と東映時代劇への信用と合わせて映画化を了承した<ref name="映画時報196411"/>。
 
1964年2月1日、[[大川博]]東映社長が社の大巾な機構改革と、それに伴う[[人事異動]]を発表し<ref name="映画時報196403">{{Cite journal|和書 |author = |title = 東映事業中心の多角経営を促進 東映、時代に則した新機構人事 |journal = 映画時報 |issue = 1964年3月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 24-26 }}</ref><ref name="映画時報196405">{{Cite journal|和書 |author = |title = 座談会日本映画界はどう進むべきか?―?―現代の経営路線に悩む各社― |journal = 映画時報 |issue = 1964年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 20-21 }}</ref>{{Sfn|私の東映30年|1991|pp=139-147}}、製作の中心が明確に現場に移され{{Sfn|私の東映30年|1991|pp=139-147}}、[[東映東京撮影所|東]][[東映京都撮影所|西撮影所]]所長の権限増が明確にされた{{Sfn|私の東映30年|1991|pp=139-147}}<ref>{{Cite journal |和書 |author = 井沢淳・[[瓜生忠夫]]・[[大黒東洋士]]・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿 |journal = キネマ旬報 |issue = 1965年7月上旬号 |title = 〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか |publisher = キネマ旬報社 |pages = 16 }}</ref>。人事の目玉が[[東映東京撮影所]](以下、東映東京)を現代劇で軌道に乗せた岡田[[取締役]]の東映京都所長復帰であった<ref name="映画時報196411"/><ref name="映画時報196403"/>{{Sfn|波瀾万丈の映画人生|2004|pp=164-165}}。これは東映の表看板である時代劇の復興を岡田に託すという大川の肝煎りプロジェクトだったため<ref name="映画時報196403"/><ref name="産経19950318">{{cite news |author = |title =【戦後史開封】(290) チャンバラ映画(5) 時代劇撤退次々去った東映スター |newspaper=産業経済新聞 |publisher=産業経済新聞社 |date=1995-3-18 |page= 朝刊特集}}</ref>、岡田には直接の指揮権が移譲された<ref name="映画時報196405"/><ref name="映画時報197304">{{Cite journal|和書 |author = |title = 日本映画界の巻返しと前進 各社各様の経営戦略を探る 映画界の若獅子に試練の波 東映、岡田体制の確立急ぐ |journal = 映画時報 |issue = 1973年4月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 12-14 }}</ref>。またこの人事で東映創立以来の[[満洲映画協会|満映閥]]、[[東急グループ|東急閥]]などが脇に回され<ref name="映画時報196405"/>、さらに1964年9月30日、東映が[[東急グループ]]から離脱し<ref name="映画時報196411"/>{{Sfn|クロニクル東映2|1991|p=36}}<ref name="映画時報196412">{{Cite journal|和書 |author = |title = 座談会新しき企業路線に適した明日を背負う人々を探る企業役員構成を一新した東映大川社長、陣頭指揮の新体制 |journal = 映画時報 |issue = 1964年12月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 12-16 }}</ref>、同日付けで[[東急グループ|東急]]から[[人事#異動|出向]]していた東急系の[[役員 (会社)|役員]]、[[五島昇]]非常勤取締役を始め、小滝顕忠、山崎季四郎、伊勢憲三郎の他、伊藤義、吉田信、薦野直実、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]代表・石原春夫ら、重鎮幹部がごっそり辞職した<ref name="映画時報196411"/>{{Sfn|クロニクル東映2|1991|p=36}}<ref name="映画時報196412"/>。これにより大川の御意見番はいなくなり{{Sfn|私の東映30年|1991|pp=139-147}}、岡田にとっては兄貴分の五島とは表立って付き合えなくなったが<ref>{{Cite journal|和書 |author = | title = 五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終 | journal = [[経済界 (出版社) |経済界]] |issue = 1980年3月21日号 |publisher = 経済界 | pages = 18 - 21 }}</ref>、上がかなり減って、思い切って腕を振れるようになった<ref name="映画時報196411"/>{{Sfn|私の東映30年|1991|pp=139-147}}<ref name="映画時報196412"/>。
 
=== キャスティング ===
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=== 撮影記録 ===
1964年11月10日[[撮影#動画映像撮影について|クランクアップ]]<ref>{{Cite news |title = 製作界近況|date = 1964年12月5日 |newspaper = 週刊映画プレス |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 2 }}</ref>。
 
== 評価と影響 ==
=== 東映時代劇の終焉 ===
岡田茂は、早くから時代劇中心の東映京都を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考えていた<ref name="産経19950318"/>{{Sfn|クロニクル東映2|1991|p=5}}{{Sfn|悔いなきわが映画人生|2001|pp=133}}{{Sfn|日本映画は生きている|2010|pp=269}}<ref name="キネ旬19690602">{{Cite journal | 和書 | author = | issue = 1969年6月下旬号 | title = 〔トップに聞く〕 岡田茂常務 東映映画のエネルギーを語る | journal = キネマ旬報 | page = 127 }}</ref>。当時の東映京都は、[[第二東映]]の失敗で余剰人員が膨らんでいた{{Sfn|クロニクル東映2|1991|p=5}}<ref name="映芸266">{{cite journal|和書|title=全面特集 日本映画この生きている10年史 '60の豚は'70の狼になるか 『やくざ襲撃前夜のゴールデンエージ?』 文・[[中島貞夫]] |journal = [[映画芸術]] |issue = 1969年10月号 No266 |pages = 43-45 }}</ref><ref name="キネ旬19870301">{{Cite journal|和書 |author = 脇田巧彦・川端晴男・斎藤明・[[黒井和男]] | title = 映画・トピック・ジャーナルワイド版 特別ゲスト岡田茂 映連会長、東映社長、そしてプロデューサーとして | journal = キネマ旬報 |issue = 1987年3月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 95 }}</ref><ref name="秘宝201107">{{Cite journal | 和書 | author = | title = <small>東映不良性感度路線の父</small> 岡田茂逝去 | journal = [[映画秘宝]] | volume = 2011年7月号 | publisher = [[洋泉社]] | page= 52 }}</ref>。1964年1月に東映京都所長に復帰するや、赴任早々「時代劇は一切止める」と宣言し大騒動になった<ref name="キネ旬19690602"/><ref name="avjournal199512">{{Cite journal|和書 |title =トップ戦後50年東映・岡田茂会長インタビュー『おもしろおかしく生きて勲二等瑞宝』 |journal = AVジャーナル |issue = 1995年12月号 |publisher = 文化通信社 |pages = 27 }}</ref>。時代劇を切り捨て、[[ヤクザ映画#東映任侠路線|任侠映画]]主体に切り換えるには大変な出血を必要としたが{{Sfn|私の東映30年|1991|pp=139-147}}<ref name="キネ旬19690602"/>{{Sfn|悔いなきわが映画人生|2001|pp=147-152}} 、岡田は断々乎とこれを実行した{{Sfn|私の東映30年|1991|pp=139-147}} <ref name="産経19950318"/>{{Sfn|日本映画は生きている|2010|pp=269}}{{Sfn|日本の映画人|2007|p=122}}<ref>{{Cite journal|和書|author=|title=追悼特集 プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・[[高崎俊夫]]|journal=東映キネマ旬報 2011年夏号 vol.17|issue=2011年8月1日|publisher=[[東映ビデオ]]|pages=2-5}}[http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3156&syosekino=7158 あかんやつら――東映京都撮影所血風録 | 春日太一 | 評者 鈴木毅鈴木毅(進駸堂書店中久喜本店)]、[https://www.facebook.com/note.php?note_id=333844493296879 『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)]{{Cite book |和書 | author = [[金田信一郎]] | year = 2006 | title = テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史 | chapter = 岡田茂・東映相談役インタビュー | publisher = [[日経BP社]] | isbn=4-8222-0158-9 | pages = 211-215 }}([https://megalodon.jp/2014-0618-1041-32/business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した](Internet Archive)</ref>。岡田は任侠路線を敷く布石を置きながら{{Sfn|私の東映30年|1991|pp=139-147}}{{Sfn|日本映画は生きている|2010|pp=269}}、時代劇の復活にも努力したが<ref name="映芸266"/>{{Sfn|あかんやつら|2013|pp=191-229}}、作品の評価とは関係なく、興行的には凡打が続き{{Sfn|私の東映30年|1991|pp=139-147}}、本作『徳川家康』も亦所期の数字にまで達するに至らず{{Sfn|私の東映30年|1991|pp=139-147}}{{Sfn|あかんやつら|2013|pp=191-229}}、時代劇の打ち切りを決断した{{Sfn|日本映画は生きている|2010|pp=269}}{{Sfn|あかんやつら|2013|pp=191-229}}。本作と『[[飢餓海峡#映像化・舞台化|飢餓海峡]]』、1965年4月10日公開の『[[冷飯とおさんとちゃん]]』と<ref name="映画時報196508">{{Cite journal|和書 |author = |title = 匿名座談会 如何にしてこの危機を乗り切るか 経営者は頂上作戦に大童わ 五社長も危機突破に陣頭指揮 東映王国も"新体制確立運動"展開 |journal = 映画時報 |issue = 1965年8月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 15-17 }}</ref>、1965年度大作が相次いで不入りに終わり<ref name="映画時報196508"/>、岡田は時代劇からの撤退を宣言{{Sfn|あかんやつら|2013|pp=208-209 }}{{Sfn|仁義なき日本沈没|2012|pp=102-107}}<ref name="週刊明星790513">{{Cite journal | 和書 | author = 由原木七郎 | date = 1979年5月13日号 | title = 由原木七郎の日本映画スケッチ(82) (秘)エピソードでつづるあの男優この女優 萬屋錦之介 その四 東映"城"との対決| journal = [[週刊明星]] | publisher = [[集英社]] | pages = 168-167 }}</ref>。1965年に予定されていた時代劇は大半を製作中止にし<ref name="映画時報196508"/>{{Sfn|あかんやつら|2013|pp=208-209 }}{{Sfn|仁義なき日本沈没|2012|pp=102-107}}<ref name="週刊明星790513"/>、この煽りで本作も1本で打ち切りとなった。東映の財産である時代劇はテレビに徐々に移して行き{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=564}}、テレビ時代劇を映画と並ぶ事業の柱とする素地を作り{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=564}}<ref name="朝日20110517">{{cite news |author = 浜田奈美 |title=『映画は商品』持論貫く 岡田茂・東映名誉会長 |newspaper=朝日新聞 |publisher=朝日新聞社 |date=2011-5-17 |page= 1}}</ref>、映画ではテレビでは出来ない"不良性感度"を推進し<ref name="秘宝201107"/>{{Sfn|悔いなきわが映画人生|2001|pp=147-152}}{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=564}}<ref name="朝日20110517"/>、[[アンビバレンス|アンビヴァレンツ]]な方向性を明確に打ち出していく<ref name="秘宝201107"/>{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=564}}。岡田が東映京都に復帰する前年1963年には、東映京都は全て時代劇を54本も製作したが{{Sfn|悔いなきわが映画人生|2001|pp=399-412}}、1964年は時代劇27本{{Sfn|悔いなきわが映画人生|2001|pp=399-412}}、1965年の時代劇製作は14本に減らし{{Sfn|悔いなきわが映画人生|2001|pp=399-412}}、1966年正月映画には東映創立以来初めて時代劇を外した{{Sfn|私の東映30年|1991|pp=139-147}}。合理化の荒治療が一応の目途がついたのは1965年暮れで<ref name="avjournal199512"/>、正統的な時代劇製作は1966年からは目立って減り{{Sfn|悔いなきわが映画人生|2001|pp=399-412}}、1967年が3本{{Sfn|悔いなきわが映画人生|2001|pp=399-412}}、1968年は0になった{{Sfn|悔いなきわが映画人生|2001|pp=399-412}}。
 
岡田は振り返って「時代の流れの変化でダメになったものを如何に切り捨てるか、切り変えて時代の流れに即したものを生み出してゆけるか。東映が今日まで生きのびて来られたのは、時代劇がダメになって、誰もなかなか止め切れん時、僕が今までの功労者を全員切ったからです。凄い反撥抵抗があったが時代劇の製作を止めた。次の10年、全盛を誇った任侠映画、寿命盡きて止める時も同じシンドイ思いをしたんだが止めた」などと述べている<ref>{{Cite journal|和書 |title =東映・岡田茂会長インタビュー『製作配給の赤字をどう止めるか』 |journal = AVジャーナル |issue = 1994年1月号 |publisher = 文化通信社 |pages = 27-28 }}</ref>。
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== ネット配信 ==
「東映オンデマンド」サービス開始を記念して、[[YouTube]]の「[[東映時代劇YouTube]]」で、[[2023年]][[1月6日]]16:00([[日本標準時|JST]])から同年[[1月13日|同月13日]](JST)まで無料配信が行われている
 
== 脚注 ==
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* {{Cite book |和書 |author = 春日太一 |title=あかんやつら 東映京都撮影所血風録 |publisher=[[文藝春秋]] |year = 2013 |id= ISBN 9784163768106 |ref ={{SfnRef|あかんやつら|2013}}}}
* {{Cite book | 和書 | title = 東映の軌跡 | editor = 東映株式会社総務部社史編纂 | publisher = [[東映|東映株式会社]] | year = 2016 |ref ={{SfnRef|東映の軌跡|2016}}}}
 
== 関連項目 ==
; 北大路欣也が徳川家康を演じた作品
:* [[戦国最後の勝利者!徳川家康|徳川家康 戦国最後の勝利者]]
:* [[江〜姫たちの戦国〜]]
 
== 外部リンク ==
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* {{Kinejun title|21541|徳川家康}}
* {{Allcinema title|141429|徳川家康}}
 
== 関連項目 ==
; 北大路欣也が徳川家康を演じた作品
:* [[戦国最後の勝利者!徳川家康|徳川家康 戦国最後の勝利者]]
:* [[江〜姫たちの戦国〜]]
 
{{伊藤大輔の監督作品}}
 
{{Movie-stub}}
 
{{DEFAULTSORT:とくかわいえやす えいか1965}}
[[Category:1965年の映画]]
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[[Category:日本の戦国時代を舞台とした映画作品]]
[[Category:山岡荘八]]
[[Category:萬屋錦之介]]
[[Category:田村高廣]]
[[Category:徳川家康を題材とした作品]]
[[Category:日本の小説を原作とする映画]]