「循環論法」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m ひらがなの「べ」→カタカナの「ベ」 |
+{{lang}} |
||
(14人の利用者による、間の14版が非表示) | |||
1行目:
'''循環論法'''
* ある命題の[[証明 (数学)|証明]]において、その命題を仮定した議論を用いること<ref name="hwp" />。証明すべき結論を前提として用いる論法<ref name="daijisen">大辞泉</ref>。
* ある用語の[[定義]]を与える表現の中にその用語自体が本質的に登場していること<ref name="hwp" />。
7行目:
単に循環論法と言っても、証明における循環論法と、定義における循環論法がある<ref name="hwp" />とされている。
証明における循環論法とは、ある命題の証明において、その命題自体を仮定した議論を用いることである<ref name="hwp" />。つまり循環論法においては論証されるべきことが論証の根拠とされる[[誤謬]]が犯される。どのような形式かと言うと、今、[[命題]]をPと表すとして、P<small>1</small>, P<small>2</small>… P<small>n</small>(nは自然数)がある時に、P<small>1</small>を証明するのにP<small>2</small>を用い、P<small>2</small>を証明するのにP<small>3</small>を用い、といったように証明を進めて、P<small>n</small>を証明するのに(証明したと思いつつ)P<small>1</small>を使ってしまうような形式、論の進め方のことである<ref name="hwp" />。
ひとつの文章の中に循環論法が含まれている場合や、循環の鎖の個数が2 - 3個程度であると比較的容易に発見できるが、数百ページにもおよぶ書物にそれが埋め込まれて巨大な循環を作っていてそれがあるページにおさまっていなかったり、鎖の個数が多かったりすると、なかなか発見できないことがある。
ただし、説明の連鎖をマクロに見ると循環はもともと避け得ない。説明の連鎖のとり得る形としては、[[無限後退]]に陥るか、何ら説明も根拠付けもされない[[教条主義|ドグマ]]で終了するか、また全体として[[循環]]する構造を持つか以外、とり得る形はないだろうと考えられている。このことは[[ミュンヒハウゼンのトリレンマ]]と呼ばれている。
定義における循環論法とは、ある事柄の定義を与える文や表現の中に、その事柄自体が本質的に登場していることを言う<ref name="hwp" />。その形式とは、今、事柄をWと表すとし、W<small>1</small>, W<small>2</small>… W<small>n</small>があり、W<small>1</small>の定義する文(表現)の中に W<small>2</small>が現れ、W<small>2</small>の定義する文(表現)の中に W<small>3</small>が現れ、W<small>n</small>を定義する文の中にW<small>1</small>が現れるような形式、構造である<ref name="hwp" />。簡単な例を示せば「西とは東と反対の方角である」と定義しておき、かつ東について定義するとき「東とは西と反対の方角である」と定義する。すると定義が循環する。定義が循環した場合は'''定義文のみの知識では定義する事柄の絶対的な理解が出来ない'''ため、定義は不成立となる。<
有限の語彙の集合を用いて語彙全体を解説しようとする辞書や百科事典は、その構造上、定義されていない語を用いて定義を行うか、循環を含んだ定義を行うことが避け得ない。ここで挙げた東西の例のような循環の輪が狭い場合は既知の事柄が少なくなり有用ではないが、全体として循環の輪が大きければ、既知の事柄が多くなり有用となる。このように、循環の輪の中に既知の事柄が1つ以上あれば循環定義であっても有用となりうる。
{{See also|循環定義}}
== 循環論法の例 ==
まず分かりやすい例から挙げると、「『[[ハムレット]]』は名作である。なぜなら『ハムレット』は素晴らしい作品だからだ」といった言明は循環論法である<ref>小野田博一『論理的に話す方法: 説得力が倍増する実践トレーニング』PHP研究所、2005、pp.144-146</ref>。また、[[日本国憲法]]が日本の法体系における最高法規であるとする根拠が、[[日本国憲法第10章]]に記載されている事例も循環論法である。
定義における循環論法の例を挙げる。例えば、《[[知識]]》(知られていること)とは何か? に関して、古典的な[[認識論]]では「知識とは、正当づけられた真なる信念である」と定義されていたことはよく知られている(この定義自体は特には問題はない。)だが今、知識の定義として、この「正当づけられた真なる信念」を採用した状態で<ref name="hwp" />、「正当づけられた」という意味あるいは定義は何ですか?と問われた場合に、もしも「“正当づけられた” というのは証明や証拠が<u>知られている</u>ことだ」と答えてしまうと、この説明は循環論法に陥ってしまっていることになる<ref name="hwp" />。
29 ⟶ 30行目:
例えば循環論法に陥っていた有名な事例として、[[カール・マルクス|マルクス]]の主張した「[[労働価値説]]」がある。この説が循環論法に陥っているという問題点は、[[オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク|ベーム=バヴェルク]](1851-1914)によって指摘された。具体的に言うと、マルクスは『[[資本論]]』の第1巻で『商品の価格は投下労働量で定まる』と主張していたのだが、同書の第3巻1 - 3篇では『商品価格は商品の生産コストである「費用価格」に「平均利潤」を加えた「生産価格」で決まる』(結局、商品の価格は市場の需給で決まる)と主張しており、循環論法に陥っていた。ベーム=バヴェルクは単純労働と専門的労働の双方に必要とされる平均労働時間と商品価値がどのような関係にあるかを研究していたのだが、その中で、マルクスの主張した労働価値説が循環論法に陥っていることに気付き、論文「マルクスとその体系の終結」においてそれを指摘したのであった。
また [[ジョン・メイナード・ケインズ|ケインズ]]の利子論について「将来における利子率の上昇や低下の予想が現在の利子率を決めるという循環論法に陥っている可能性がある」といったことを[[デニス・ロバートソン|ロバ
グローバル経済でドルが基軸通貨として使われていることに関して、「人々がドルを貿易などに使うのは、ドルで米国のものを買うためではなく、“取引相手がドルなら受け取るから”という理由からであり、“他国がドルを基軸として使うから、自国もドルを基軸として使う”という循環論法によっている<ref>白春『現代資本主義入門』pp.110-112</ref>」と言われることもある。
<!--命題(AならばA)はつねに真なのだが、これだけで命題(A)自身が真であると<証明>されたわけではない。-->▼
▲<!--命題(AならばA)はつねに真なのだが、これだけで命題(A)自身が真であると<証明>されたわけではない。
<!--{{要出典範囲|しかし複雑に入り組んだ、あるいは非科学的な<証明>のなかには、往々にして循環論法が紛れ込んでいることがある。|date=2011-6}}-->
54 ⟶ 51行目:
|date=2011-6}}
-->
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
68 ⟶ 66行目:
*[[詭弁]]
*[[再帰的定義]]
*[[:en:Recursion (computer science)]] (再帰プログラミング。形式的には、「ある用語の[[定義]]を与える表現の中にその用語自体が登場」しており、一見すると循環定義そのもののような構造で書かれているが
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{DEFAULTSORT:しゆんかんろんほう}}
[[Category:形式的誤謬]]
[[Category:論理学]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:哲学的論理学]]
|