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{{otheruses|子ども向け教育番組|漫画『せさみ☆すとりーと』|まつもと泉}}
{{別人|中島厚志|中島篤志|中島厚}}
{{更新|date=2023年11月}}
{{Infobox 作家
{{Expand language
|name = 中島 敦<br />(なかじま あつし)
|langcode=en
|image = Atsushi Nakajima.jpg
|otherarticle=Sesame Street
|image_size = 200px
|date=2022-04-29
|caption = [[1936年]]3月
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|birth_date = [[1909年]][[5月5日]]
|no interwiki=
|birth_place = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[四谷区]]四谷箪笥町59番地(現:東京都[[新宿区]][[四谷三栄町]])
|death_date = {{死亡年月日と没年齢|1909|5|5|1942|12|4}}
|death_place = {{JPN}}・東京府東京市[[世田谷区]][[世田谷 (世田谷区)|世田谷]](現:東京都世田谷区世田谷一丁目32番18号)<!-- 昭38・7・9民事甲1974号において、「横書きの場合は」アラビア数字を用いて良いとある為表記上の問題はないが、こちらにおいては漢数字が丁目の正式表記かつ正式表記であれば字丁目との区別も付く為、アラビア数字にするメリットはないと判断 --><br />岡田病院(現:[[世田谷中央病院]])
|resting_place = [[多磨霊園]]
|occupation = [[小説家]]、[[教員]]
|language = [[日本語]]
|nationality = {{JPN}}
|education = [[学士(文学)|文学士]]
|alma_mater = [[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]][[国文科]]
|period = [[1934年]] - [[1942年]]
|genre = [[小説]]
|subject = 中国古代武人の苦難と運命<br />戦時下の知識人の孤独と苦悩<br />芸術家の自我と悲劇<br />存在の[[形而上学]]的不安<br />[[哲学]]的懐疑<br />世界のきびしい悪意
|movement =
|notable_works = 『[[山月記]]』(1942年)<br />『[[文字禍]]』(1942年)<br />『[[光と風と夢]]』(1942年)<br />『[[名人伝]]』(1942年)<br />『[[弟子 (小説)|弟子]]』(1943年)<br />『[[李陵 (小説)|李陵]]』(1943年)
|awards = 第3回[[毎日出版文化賞]](1949年)
|debut_works = 『古譚』(山月記、[[文字禍]])(1942年)
|spouse = 橋本タカ
|partner =
|children = 長男・桓(たけし)<br />長女・正子(生後3日目に死亡)<br />次男・格(のぼる)
|relations = [[中島撫山|中島慶太郎]](祖父)<br />中島田人(父)、チヨ(生母)<br />中島靖、[[中島斗南|端]]、[[中島竦|竦]]、翊、開蔵(伯父)<br />中島比多吉(叔父)<br />ふみ、志津(伯母)<br />うら(叔母)<br />澄子(異母妹)、[[折原一]](甥)<br />桜庭幸雄(異父弟)
|influences = 中国古典・歴史書、[[カフカ]]<br />[[デイヴィッド・ガーネット|ガーネット]]、[[デーヴィッド・ハーバート・ローレンス|D・H・ローレンス]]<br />[[オルダス・ハクスリー]]、[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]<br />[[プラトン]]、[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]<br />[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]、[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン|スティーヴンソン]]<br />[[アナトール・フランス]]<br />[[エドガー・アラン・ポー|ポー]]、[[ボードレール]]、[[オスカー・ワイルド|ワイルド]]<br />[[万葉集]]、[[枕草子]]<br />[[正岡子規]]、[[上田敏]]、[[泉鏡花]]<br />[[森鷗外]]、[[永井荷風]]、[[井伏鱒二]]<br />[[谷崎潤一郎]]、[[芥川龍之介]]<br />[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]]<br />[[大久保康雄]]、[[土方久功]]
|influenced = [[北方謙三]]、[[阿刀田高]]、[[日野啓三]]
|signature =
|website =
<!--|footnotes = -->
}}
{{基礎情報 テレビ番組
'''中島 敦'''(なかじま あつし、[[1909年]]〈[[明治]]42年〉[[5月5日]] - [[1942年]]〈[[昭和]]17年〉[[12月4日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。代表作は『[[山月記]]』『[[光と風と夢]]』『[[弟子 (小説)|弟子]]』『[[李陵 (小説)|李陵]]』など<ref name="senuma">[[瀬沼茂樹]]「解説」({{Harvnb|李陵|2003|pp=207-215}})</ref><ref name="higami">[[氷上英廣]]「解説」({{Harvnb|山月記|1994|pp=401-419}})</ref><ref name="hino">[[日野啓三]]「文学という恩寵」({{Harvnb|ちくま3|1993|pp=461-472}})</ref>{{Sfn|勝又|2009|pp=38-43}}。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]、[[東京大学#沿革|東京帝国大学]]を卒業後、[[横浜学園高等学校|横浜高等女学校]]の教員勤務のかたわら小説執筆を続け、[[パラオ]][[南洋庁]]の[[官吏]](教科書編修書記)を経て専業作家になるも、同1942年(昭和17年)中に持病の[[気管支喘息|喘息]]悪化のため33歳で病没<ref name="nenpu-s">「年譜」({{Harvnb|李陵|2003|pp=216-218}})</ref><ref name="nenpu-chi">「中島敦年譜」({{Harvnb|ちくま3|1993|pp=445-459}})</ref>。死後に出版された全集は[[毎日出版文化賞]]を受賞した<ref name="nenpu-chi"/>{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。
| 番組名 = セサミストリート
| 画像 = [[ファイル:Sesame Street sign.svg|200px]]
| 画像説明 =
| ジャンル = [[子供番組]]、[[教育放送|教育]]<br>[[スケッチ・コメディー]]、[[人形劇]]
| 放送時間 =
| 放送分 = (1969年 - 2015年)60分<br/>(2014年 - )30
| 放送枠 =
| 放送期間 = [[1969年]][[11月10日]] -
| 放送回数 = シーズン51 全4701回<ref group="注釈">実際の回数は全4401回</ref>(●年●月現在{{いつ|date=2022年6月}})
| 放送国 = {{USA}}
| 制作 = チルドレンズ・テレビジョン・ワークショップ(1969年 - 2000年)<br>[[セサミワークショップ]](2000年 - )
| 放送局 = {{USA}}:<br /> NET(1969年 - 1970年)<br />[[公共放送サービス|PBS]](1970年 - )<br />[[HBO]](2016年 - 2020年)<br />[[HBO Max]](2020年 - )
| 企画 =
| 製作総指揮 = デヴィッド・コネル(1969年 - 1972年)<br/>ジョン・ストーン(1972年 - 1978年)<br/>アル・ヒスロップ(1978年 - 1980年)<br/>ドロシー・シンガー(1980年 - 1993年)<br/>マイケル・ローマン(1993年 - 2002年)<br/>ドクター・レイウィス・バースティーン(2003年 - 2005年)<br/>キャロライン・パレンテ(2006年 - 2017年)<br/>ブラウン・ジョンソン(2017年 - 2019年)<br/>ベンジャミン・レハマン(2019年 - )
| 監督 =
| 演出 =
| 原案 = ジョーン・ガンツ・クーニー<br/>ロイド・モリセット
| 構成 = ジョン・ストーン(1969年 - 1979年)<br/>ジェフ・モス(1970年 - 1974年)<br/>ノーマン・スティールズ(1974年 - 1975年、1979年 - 1997年)<br/>ルー・バーガー(1996年 - 2008年)<br/>トニー・ディセーナ(2002年)<br/>ジュディー・フロイドバーグ(2002年)<br/>ベリンダ・ワード(2008年)<br/>ジョーイ・マッツァリーノ (2009年 - 2016年)<br/>ケン・スカボロウ(2017年 - )
| プロデューサー =
| 出演者 =
| ナレーター =
| 音声 = 英語
| 字幕 =
| データ放送 =
| OPテーマ = 『[[セサミストリートのテーマ]]』
| EDテーマ =
| 時代設定 =
| 外部リンク = https://www.sesamestreet.org/
| 外部リンク名 = 公式サイト(英語)
| 特記事項 =
}}
『'''セサミストリート'''』({{lang|en|''Sesame Street''}})は、[[アメリカ合衆国]]の[[非営利団体]][[セサミワークショップ]]が制作する子ども向け[[教育番組|テレビ教育番組]]。[[1969年]]の[[:en:National Educational Television|NET]]([[公共放送サービス|PBS]]の前身<ref>{{citation|url=https://www.imdb.com/title/tt0063951/companycredits|title=Sesame Street (1969– ) Company Credits|publisher=[[インターネット・ムービー・データベース|IMDb]]}}</ref>)での放送開始以来<ref name=":1">[https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/focus/794.html [メディアフォーカス]米,PBSの『セサミストリート』,大手番組事業者HBOで放送へ『放送研究と調査』2015年10月([[NHK放送文化研究所]])2024年8月6日閲覧</ref>、世界150以上の国と地域で放送・展開されている。この番組は、[[情操教育]]が基本となっている<ref>{{Cite book |和書 |author=乾直明 |title=ザッツTVグラフィティ ~外国テレビ映画35年のすべて~ |publisher=[[フィルムアート社]] |date=1988年9月25日 |page=149 |isbn=4845988747}}</ref>。
 
== あらすじ ==
その短い生涯に残した著作は、中国古典の歴史世界を題材にした作品や、南島から材を得た作品、古代伝説の体裁をとった奇譚・寓意物、自身の身辺を題材にした[[私小説]]的なものなど、未完作も含めわずか20篇たらずであったが<ref name="senuma"/><ref name="kaidai1">勝又浩「解題」({{Harvnb|ちくま1|1993|pp=477-488}})</ref><ref name="kaidai2">勝又浩「解題」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=547-560}})</ref><ref name="kaidai3">勝又浩「解題」({{Harvnb|ちくま3|1993|pp=473-485}})</ref>{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}、漢文調に基づいた硬質な文章の中に美しく響く叙情詩的な一節が印象的で、冷厳な自己解析や存在の哲学的な懐疑に裏打ちされた芸術性の高い作品として評価されている<ref name="senuma"/><ref name="higami"/><ref name="hino"/>。
「セサミストリート」とは、番組の舞台となっている[[ニューヨーク市]][[マンハッタン]]にあるとされる架空の通りの名である。[[千夜一夜物語|アラビアンナイト]](千夜一夜物語)の『[[アリババと40人の盗賊]]』の中に出てくる[[呪文]]「[[開けゴマ]](open sesame)」からきており、「宝物が隠されている洞窟が『開けゴマ』の呪文によって開いたように、この番組によって子どもたちに新しい世界や知識の扉をひらいてほしい」という願いが込められているとされる<ref>Gikow, Louise A. (2009). ''Sesame Street: A Celebration—Forty Years of Life on the Street.'' New York: Black Dog & Leventhal Publishers. ISBN 978-1-57912-638-4, p. 30, {{cite news |title=Intentions Aren't Modest For New Children's Series |newspaper=Corpus Christi Caller-Times |date=June 8, 1969 |url=https://newspaperarchive.com/pdfviewertags.aspx/?img=100526734 |format=fee required |page=23G |last=Gysel |first=Dean}}</ref>。この通りの[[テラスハウス]]に住む人間やマペットたちの話を中心に、さまざまな就学前教育を目的としたコーナーが放送される。
 
== マペット ==
特に遺作となった『李陵』の評価は高く、死後に名声を上げた作品のひとつとして知られている{{Sfn|勝又|2004|pp=153-154}}{{Sfn|吉田|1984|pp=155-156}}<ref name="senuma"/>。また、『山月記』は雑誌『[[文學界]]』に掲載されたことで中島敦の名を初めて世間に知らしめた作品であり<ref name="senuma"/>、のちに新制高等学校の[[国語 (教科)|国語教科書]]に広く掲載され、多くの人々に読み継がれている{{Sfn|勝又|2004|pp=112-113}}。なお、自筆資料や遺品は[[神奈川近代文学館]]の「[[#神奈川近代文学館・中島敦文庫|中島敦文庫]]」に所蔵されている{{Sfn|川村|2009b|pp=14-15}}{{Sfn|宝島社|2009}}{{R|生誕100年|特別展2019}}。
番組が子どもたちに、親近感を持ってもらえるような工夫の一つに、番組のシンボルキャラクターである'''ビッグバード'''をはじめ、多くの'''マペット'''([[操り人形]])および[[マペットキャラクター]]が登場しているのが挙げられる。この番組から生まれたマペットは、個性豊かなキャラクターで世界中の多くの子ども達に愛されている。番組に登場するマペットは、おもに人間型、動物型、モンスター型とがある。マペットの[[操演]]者(マペティア)は同時に[[声優]]も担当し、ときには[[アドリブ]]も繰り出すことがある。
 
マペットのデザインは[[ジム・ヘンソン]]が手がけていた。なおマペットとは、「[[マリオネット]]」と「[[パペット]]」を組み合わせた、ヘンソンの造語である。マペットには2人以上の操演によって滑らかな動きをしているものがあるが、これはヘンソンが来日した際に鑑賞した[[文楽]]がヒントになっている。ヘンソンは生前、番組内でアーニー、カーミットなどの操演・声を担当していた。
{{TOC limit|3}}
 
その他、マペットが出演するテレビ番組に[[マペット放送局]]があり、劇場版もある。ヘンソンの作り出したマペット第一号である[[カーミット]]は、どちらにも出演している。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[1909年]](明治42年)5月5日に、[[東京府]][[東京市]][[四谷区]]四谷箪笥町59番地(現・東京都[[新宿区]][[四谷三栄町]]{{Sfn|勝又|2004|p=8}})で、父・中島{{ruby|田人|たびと}}と、母・チヨの長男として生まれた<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi">[[鷺只雄]]「作家案内――中島敦」({{Harvnb|光と風・講談|1992|pp=223-242}})</ref>。この地は母の実家の岡崎家であった{{Sfn|勝又|2004|p=3}}。
 
== 登場するマペットと登場する人物 ==
父・田人は、[[儒学者]]・[[中島撫山]](中島慶太郎)の六男で、[[漢学]]の教育を父兄から受けた影響により旧制中学校の漢学教員となり、敦が誕生した34歳当時は[[千葉県]][[海上郡]][[銚子町]](現・[[銚子市]])の中学校に勤務していた{{Sfn|勝又|2004|pp=5-12}}<ref name="nenpu-chi"/>。母・チヨは[[東京女子師範学校]]出身の元小学校教員で、前年[[1908年]](明治41年)に2人は結婚した(婚姻届は1908年12月21日)<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。チヨは頭脳明晰で才気あふれる女性であった<ref name="sakka-sagi"/>。
詳細は「[[セサミストリートに登場するマペット]]」「[[セサミストリートの登場人物]]」「[[セサミストリートに登場するアニメキャラクター]]」をそれぞれ参照。
 
== 評価 ==
しかしながら、チヨは家庭的でなかったともいわれ、敦が1歳前の生後9か月のときに両親は別居(事実上の離婚)となり(正式な離婚届は4年後の1914年2月18日)、2歳のときから父の郷里の[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[久喜市#旧久喜町|久喜町]]大字久喜新(現・埼玉県久喜市<!-- 現在の町名が分かる場合記載 -->)に引き取られ、祖母や伯母、従姉たちに育てられた<ref name="yayoi">吉村彌生「中島家の人々」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=166-168}})</ref><ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。
アメリカ本土での評価は高く、単なる子ども向けの教育番組にとどまらず、有名ミュージシャンが手がけた良質な音楽や、古い映画・テレビ番組のパロディなどもあるため、大人のファンも多い。[[カーペンターズ]]の『[[シング (セサミストリートの曲)|シング]]』など、番組発のヒット曲も存在する。
 
[[1971年]]に、[[日本放送協会|NHK]]が制定した教育番組の賞である第7回[[日本賞]]グランプリを受賞している<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修室|title=NHK年鑑'72|date=1972|publisher=日本放送出版協会|pages=96}}</ref>。[[デイタイム・エミー賞]]も2009年までに122個受賞している。「最も人気のある子ども向け教育番組」として[[ギネス世界記録|ギネスブック]]にも登録されている。日本の子ども番組『[[ひらけ!ポンキッキ]]』と『[[カリキュラマシーン]]』は、当番組をモデルに制作された。
祖父・中島撫山は敦が引き取られる2か月前に亡くなっていたものの、家には撫山や綽軒(異祖母の伯父)の遺した漢籍が多くあり、同じく漢学者の伯父の[[中島竦|中島玉振]]や、同居していた[[中島端|中島斗南]]の存在を通し、敦もまた儒学や漢文の影響を受けた{{Sfn|勝又|2004|pp=5-12}}<ref name="jikan1">[[村山吉廣]]「家系・教養――『家学』を中心に」({{Harvnb|クロノ|1992|pp=9-19}})</ref>(''節「[[#家族・親族|家族・親族]]」も参照'')。
 
[[中国中央電視台]](CCTV)やNHKの協力のもと、[[中華人民共和国|中国]]や日本の[[平安神宮]]などアジア各国で[[ロケーション撮影]]を行った回もある。
5歳となる年に父が紺家カツと再婚したのに伴い、6歳になる[[1915年]](大正4年)の3月から[[奈良県]]郡山町(現・[[大和郡山市]])で父と継母と暮らすこととなった{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。翌[[1916年]](大正5年)4月から郡山男子[[尋常小学校]]に入学した敦は、小学校3年生の9歳のときに教師の父の転勤により、奈良県から[[静岡県]]の浜松西小学校へ、さらに5年生の11歳のときには、当時[[日本統治時代の朝鮮|日本の植民地であった朝鮮]]の[[京城府]]龍山公立尋常小学校へと転校をするなど、各地を転々とする幼少年時代を過ごした{{R|nenpu-chi|annai}}<ref name="sakka-sagi"/>。
 
ワンポイントで有名俳優・歌手が出ることがあり、それが一つのステータスにもなっている。
そうした子供時代の目まぐるしい環境の変化から、一般の人々が口にする「故郷」という懐かしみの感覚(愛郷心)が、敦にはよく分からなかった<ref name="okuni">「お国自慢」(学苑 1937年7月・第9号)。{{Harvnb|ちくま3|1993|pp=364}}</ref><ref name="nenpu-chi"/>{{Sfn|森田|1995|pp=19-25}}。また、継母のカツは敦に厳しく、庭の木に縛りつけられて父に解いてもらったこともあるとされる<ref name="taka">中島タカ「思い出すことなど」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=153-165}})</ref>{{Sfn|森田|1995|pp=19-25}}。敦はのちに友人に「自分をいじめる時、その母がヒステリーで滅茶苦茶になるのをみるのが辛かった。その人間喪失ぶりをみるのが、こたえた」と漏らしたこともあったという{{Sfn|森田|1995|pp=19-25}}
 
ジョー・ラポーゾ、ジョン・ストーン、ブルース・ハートが制作したテーマソング「[[セサミストリートのテーマ]]」(セサミストリートのうた)は1994年以後、日本の高等学校の音楽教科書に何度か掲載されている<ref>『歌い継がれる名曲案内 音楽教科書掲載作品10000』([[日外アソシエイツ]]、2011年)371頁、555頁、826頁。ISBN 978-4816922916</ref>。
そうしたこともあってか、郡山小学校のころ無口だったという同級生の証言もあるが<ref name="yamada">山田光夫「70年前の『中島敦』」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=176-178}})</ref>{{Sfn|森田|1995|pp=19-25}}、子供のころから当時珍しかった近眼の眼鏡をかけていた敦は国語・作文をはじめ成績が総じて良く、才気煥発な様子であった<ref name="fujita">藤田敦男「浜松西小学時代の中島君」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=182-184}})</ref><ref name="yamaz">山崎良幸「中島君を憶う」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=184-190}})</ref>{{Sfn|森田|1995|pp=19-25}}。ただ浜松西小学校のころは身体が弱く、体操の時間は教室で休むことが多かったという<ref name="fujita"/>{{Sfn|森田|1995|pp=19-25}}。
{{Quotation|中島君は体が弱く、私も足が悪いため、週二、三回あった体操の時間は、ほとんど教室の中で二人だけ、好き勝手なことをやっていました。(中略)とにかく中島君は[[神童]]そのもので、答えは明快、国語、作文は特によく出来たと思います。級長をしていたのではと考えますが、銀縁に眼鏡をかけ、[[カスリ]]の着物を着ていたのが印象として残っています。|藤田敦男「浜松西小学時代の中島君」<ref name="fujita"/>}}
 
== 日本におけるキャラクター商品の販売・権利の管理等について ==
近眼になったのは、家にあった多くの漢籍などを読んでいたためで、強度の近視で読書を禁じられていたにもかかわらず、薄暗い物置でさらに隠れて読んで度が進んだと、友人に話していた<ref name="sugihara">杉原忠彦「三角地のことなど」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=192-194}})</ref>。
[[1989年]]に[[ソニー・クリエイティブプロダクツ]]が日本におけるライセンサーとなり、キャラクター商品の販売が開始された<ref>電通キャラクター・ビジネス研究会(編)『キャラクター・ビジネス―親しみと共感のマーケティング』([[電通]]、1994年)202頁。ISBN 488553058X(ISBN 978-4885530586)</ref><ref name="asahi_890208">「セサミ・ストリート」のキャラクター商品発売へ ソニー」『[[朝日新聞]]』1989年2月8日付東京朝刊11頁</ref>が、NHK版の終了とともに権利を解消する。
 
2003年、[[アサツー ディ・ケイ]]や[[ウィーヴ]]など数社が、日本における商品化およびプロモーション事業のマスターライセンスを取得した<ref>日本国内における「セサミ ストリート」の商品化およびプロモーション事業に関するお知らせ、アサツー ディ・ケイ(2003年11月27日)</ref>。
また、小学校4年のころの担任教師から執拗に繰り返し聞かされた太陽系や地球絶滅の運命と存在の無意味さに、敦はショックを受けた<ref name="roushitsu">「狼疾記」(1936年11月、1938年-1939年執筆)。{{Harvnb|ちくま2|1993|pp=229-266}}</ref><ref name="senuma" />{{Sfn|福永|2009|pp=93-101}}{{Sfn|森田|1995|pp=19-25}}。
{{Quotation|地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。所が、そのあとでは太陽までも消えて了うという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星共が廻っているだけになって了う。それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分達は何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙は此の儘に続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分達の生れて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、何のために自分は生れて来たんだ? それから暫く、彼は――十一歳の三造は、神経衰弱のようになって了った。|中島敦「狼疾記」<ref name="roushitsu"/>}}
爾来あらゆる生の虚無と[[形而上学]]的な不安が敦の内面に巣食うようになり、のちの中島文学の主題形成に影響を与えていくことになる<ref name="senuma" />{{Sfn|福永|2009|pp=93-101}}(''節「[[#形而上学的な思索|形而上学的な思索]]」も参照'')。
 
2004年、アサツー ディ・ケイ、ウィーヴ、[[日本経済社]]、[[テレビ東京ブロードバンド]]、[[オデッセイコミュニケーション]]の5社が出資し、日本における『セサミストリート』の権利の管理などを行う企業「セサミストリート パートナーズ ジャパン」(SSPJ)を設立<ref>世界で最も有名な教育プログラム セサミストリートの新しい国内事業展開 セサミストリート パートナーズ ジャパン設立、アサツー ディ・ケイ(2004年3月29日)</ref><ref>{{PDF|[http://www.txbb.jp/release/pdf/040329_001.pdf セサミストリートパートナーズ ジャパン設立] テレビ東京ブロードバンド(2004年3月29日)}}</ref><ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/198279/2/ 2-2 NHKが放送終了、テレ東で放送開始したのはナゼ!? 新生セサミストリートの裏事情[子育て事情]][[All About]](2004年11月27日)</ref>。同年、[[サンリオ]]が日本での商品化におけるサブライセンスを取得し、キャラクター商品の企画を開始した<ref>{{PDF|[https://www.sanrio.co.jp/rs/corporate/ir/result/detail/45hosoku_2_1.pdf 新しいビジネスモデルの具現化]、サンリオ、2005年5月30日}}</ref><ref>[https://www.sanrio.co.jp/corporate/release/detail/363 【ニュースレター】サンリオ創業50周年 × セサミストリート放送開始40周年記念 ハローキティとセサミストリート コラボ商品発売] サンリオ(2010年9月10日)</ref>{{Refnest|group="注釈"|なお、サンリオは1989年にもライセンス契約獲得に名乗りを上げたが、ソニー・クリエイティブプロダクツに敗れた経緯がある<ref name="asahi_890208" />。}}。
=== 朝鮮での少年時代 ===
[[1922年]](大正11年)3月に京城府龍山公立尋常小学校卒業後は、難関の公立[[ソウル高等学校|京城中学校]]にトップで入学した{{R|nenpu-chi|annai}}<ref name="arai">洗春海「龍山小学校からのこと」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=191-192}})</ref><ref name="sakka-sagi"/>。父の再婚や転校、[[外地]]へ移転など様々な環境の激変化にもかかわらず、成績は常に優秀であった<ref name="sakka-sagi"/>。京城中学時代の同級生には、 のちに小説家となる[[湯浅克衛]]や、湯浅と回覧雑誌を始めていた小山政憲がいた<ref name="nenpu-chi"/><ref name="koya">小山政憲「『校友会雑誌』その他のこと」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=198-200}})</ref>。
 
2009年、2010年3月31日をもってSSPJが解散すると発表<ref>セサミストリート日本語公式サイトリニューアルのおしらせ、セサミストリート日本語公式サイト(2009年10月01日)</ref>。
敦は中学のころは湯浅や小山のような文学青年とはあまり付き合わず、普通の友人と様々なスポーツを楽しみ親しく交遊していたが、このころからすでに英文学の本などを鉄道図書館で借りて読んでおり<ref name="yamaz"/>、家の蔵書の『[[徒然草]]』や『[[十八史略]]』を面白いからと家に遊びにきた友人にも勧めていた<ref name="sugihara"/>。友人の記憶によれば、京城中学の校友会雑誌に敦の漢詩や作文、[[ボードレール]]の訳詩が載ったこともあるという<ref name="koya"/><ref name="fukuda">福田志朗「『校友会雑誌』のことなど」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=201-202}})</ref>{{Sfn|森田|1995|pp=25-33}}。
 
2021年7月1日、ソニー・クリエイティブプロダクツが日本における『セサミストリート』のライセンシングエージェント契約を締結したと発表された<ref name="scp_2021">{{Cite web|和書|date=2021-07-01|url=http://www.scp.co.jp/biz/release/news.html?code=yFMXoW5TQb&news_code=0256756 |title=セサミワークショップが「セサミストリート」の 日本におけるライセンシングエージェントとして 株式会社ソニー・クリエイティブプロダクツと契約 |publisher=[[ソニー・クリエイティブプロダクツ]] |accessdate=2021-07-01}}</ref>。同社が米国セサミワークショップと契約を締結するのは17年ぶりで、商品化や店頭販促でのキャラクターの使用<ref name="scp_2021" />のほか、将来的には、[[日本語]][[吹き替え]](吹替)も含む日本オリジナル版を再度作るために、[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上波放送]]や有料配信、子供教育に向けたゲームソフトを開発することを検討している<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210701-OYT1T50186/ ソニー、「セサミストリート」の国内使用権取得…新番組やゲーム開発も検討] [[読売新聞オンライン]](2021年7月1日)2024年8月6日閲覧</ref>。
また湯浅の回想によると、3年のとき湯浅が数学の授業中に急進的な総合雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』を読んでいたときと、4年のとき寄宿舎の机の中の『[[痴人の愛]]』([[谷崎潤一郎]])が摘発されたときの2度、級長の敦が職員室で直談判して強く弁護し、湯浅の停学処分が免れたというエピソードもある{{Sfn|小谷|2019|pp=9-12}}<ref name="wata1-6">「北方行 6」({{Harvnb|渡邊|2005|pp=46-54}})</ref>{{Sfn|森田|1995|pp=25-33}}。
 
== NHKでのテレビ放送 ==
小学校時代と同様に中学時代も、敦はきわめて優秀で開校以来の秀才といわれていた{{Sfn|勝又|2004|pp=8-9}}<ref name="inamo">稲本晃「秀才中島敦君」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=196-198}})</ref><ref name="junko">田中順子「浜松のことなど」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=181-182}})</ref><ref name="sakka-sagi"/>。異母妹を背負って子守りをしながら中学1年ですでに[[四書五経]]を読破するなど多くの和漢書を読み、英語や数理学科の成績もよかった<ref name="inamo"/><ref name="koya"/>{{Sfn|森田|1995|pp=25-33}}。だが、いわゆるガリ勉タイプではなく、いつ試験勉強しているのか分らない様子で<ref name="inamo"/><ref name="yamaz"/>、時には友達を誘い授業をサボって裏山に登り、城壁を越えて外の世界を散策していたという<ref name="yamaz"/>。そんな敦は友人達から「トンさん」という愛称で呼ばれていた<ref name="fukuda"/>。
日本では[[日本賞]]受賞を契機に、賞を設けたNHKが[[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]](現・Eテレ)で英語教育番組として英語オリジナル版(以下「オリジナル版」)を放送した。最初から最後まで吹き替えも[[字幕]]も全くなしの全編英語放送は極めて異例であり、2025年現在でも地上波に限れば歴史上、他に例がない。
 
レギュラー放送開始前、[[1971年]]7月21日から8月31日までの午前9時 - 10時・午後1時 - 2時(再放送)に、夏休みスペシャルとして初放送<ref>{{Cite journal|和書|title=NHK夏のテレビ・ラジオクラブ|journal=放送教育|volume=26|issue=4|publisher=日本放送教育協会|date=1971-07-01|pages=74|id={{NDLJP|2341323/38}}}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=新作紹介 教育放送 NHK番組紹介 NET番組紹介|journal=視聴覚教育|volume=25|issue=7|publisher=日本映画教育協会|date=1971-07-01|pages=138 - 139|id={{NDLJP|6068201/72}}}}</ref>。同年12月25日から12月31日まで冬休みスペシャルとして、1972年1月1日から1月7日までお正月休みとして放送し<ref>{{Cite journal|和書|title=教育・放送 日本賞にセサミストリート|journal=放送教育|volume=26|issue=9|publisher=日本放送教育協会|date=1971-12-01|pages=16 - 17|id={{NDLJP|2341328/9}}}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=<セサミ・ストリート>と幼児教育 / 西本三十二|journal=放送教育|volume=26|issue=9|publisher=日本放送教育協会|date=1971-12-01|pages=24 - 25|id={{NDLJP|2341328/13}}}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=私の見た<セサミ・ストリート> / 鈴木博|journal=放送教育|volume=26|issue=9|publisher=日本放送教育協会|date=1971-12-01|pages=26 - 27|id={{NDLJP|2341328/14}}}}</ref>、[[1972年]]4月9日(シーズン2 第131話)よりオリジナル版のレギュラー放送が開始された<ref>{{NHKアーカイブス|A197204091900001300200|セサミストリート<新番組>「アーニーの背くらべ」ビッグ・バードの歌「だれでも失敗する」}}</ref>。その後[[1982年]]4月4日の放送をもって約5年間中断し、[[1987年]]1月10日から[[1989年]]4月8日までは[[NHK衛星第2テレビジョン|BS2]]で放送され、1987年7月12日からは1989年4月8日までは[[NHK衛星第1テレビジョン|BS1]]でも放送されたが、同年6月17日から1990年3月10日までBS2、1988年4月10日からは教育テレビに戻っている。[[1990年]]10月5日から[[1998年]]4月4日まで[[視覚障害者]]向けに[[音声多重放送|副音声]]による[[解説放送]]が実施されるようになった。その解説放送では、今回お送りする内容をオープニングで紹介し、セサミストリートの仲間たちをナレーションが実況している様子がみられたほか、一部のコーナーで吹き替えのような演技を見せる場面もあった。
そうした学業の優秀さや活発さと並行し、小学4年のときから始まった世界の無意味さの感覚につながる「存在の不確かさ」という不安も多感な中学時代からつきまとうようになり、「字」という存在や自分の父親という1人の男の存在など、周囲の事物のその必然性・偶然性について思い巡らすことも多かった<ref name="roushitsu"/>。
{{Quotation|丁度、字というものは、ヘンだと思い始めると、――その字を一部分一部分に分解しながら、一体此の字はこれで正しいのかと考え出すと、次第にそれが怪しくなって来て、段々と、其の[[必然性]]が失われて行くと感じられるように、彼の周囲のものは気を付けて見れば見る程、不確かな存在に思われてならなかった。|中島敦「狼疾記」<ref name="roushitsu"/>}}
 
オリジナル版では58分位の尺があり<ref group="注釈">1980年代の放送から3分位削られ、HBOの放送になってからは26分位の30分番組になっている。</ref>NHKではそのまま放送していたが、1997年4月6日の放送からは55分までの放送になりコーナー等の一部がカット及び差し替えられた<ref group="注釈">NHK版[[エルモズワールド]](落合が担当)については34本が製作された("ボール"(第3786話)から"眠り"(第3983話)まで)。その後の未放送エピソード(ペンギン、馬、バイオリンほか)も存在する。</ref>。2001年4月7日から放送終了までは『[[セサミえいごワールド]]』の放送の関係で、40分→35分の尺になった。
この京城中学時代の14歳のときに、最初の継母カツが異母妹を産んで数日後に死去したため、15歳のとき父は大阪出身の新たな継母・飯尾コウを迎えた(正式な入籍は翌年6月)<ref name="nenpu-s"/><ref name="sakka-sagi"/>。こうして幼少年時代に2人の継母と暮らした敦だったが、父や継母たちとの折り合いは良くはなかった<ref name="pool">「プウルの傍で」(1932年8月頃執筆)。{{Harvnb|ちくま3|1993|pp=271-297}}</ref>{{Sfn|村山|2002|pp=96-107}}{{Sfn|勝又|2004|pp=13-21}}<ref name="sakka-sagi"/>。
 
日本語吹き替え版では当初は1998年4月5日<ref name="nhk-dub">{{Cite web|和書|date=2003-12-09 |url=http://www.nhk.or.jp/sesame/history/h_index.html |title=セサミストリ-ト』が2か国語放送になりました! |publisher=日本放送協会 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20031209150818/http://www.nhk.or.jp/sesame/history/h_index.html
新しい継母を迎えたころ、敦は彼女や父に対して反抗的で父から殴打されたこともあった<ref name="pool"/><ref name="jikan1"/>。敦はなんでも理詰めで解釈し頑ななところがあった<ref name="pool"/><ref name="jikan1"/>。異母妹の澄子によると、「(兄は)会話をしていても相手が受け答えにもたもたしていると、すぐかんしゃくを起し、一度言ったことを二度言わせたり聞き返したりすると、ひどく怒った」という<ref name="jikan1"/>。
|archivedate=2003-12-09 |url-status=dead|url-status-date=2021-06 |accessdate=2021-06-22}}</ref>から放送される予定だったが、『[[選抜高等学校野球大会|第70回記念 選抜高校野球大会]]』<ref>{{NHKアーカイブス|A199804051800001300200|第70回記念 選抜高校野球大会}}</ref>を急遽放送することになったため、翌週の4月11日に放送を開始<ref>{{NHKアーカイブス|A199804110740001300200|セサミストリートート}}</ref>。この日から[[2か国語放送]]を実施したことにより、ビッグバードなどの登場キャラクターの声が日本語でも聞けるようになった<ref name="nhk-dub" />。それ以前もスペシャルのみ吹替版を制作する事があった。NHKにおいてのレギュラー吹き替え版はシーズン28 第3526話「[[ママの入院]](Maria goes to the hospital Part 1)」からシーズン33 第4030話「オスカーとドライブに行こう(Oscar's Road Trip)」まで、全293話(6シーズン分)が製作された。歌が入るときは日本語で歌うときがあるが、一部の歌によっては英語のままで、日本語字幕が入ることもあったり入らないこともあったが、数字と文字のコーナーでも同様だった<ref name="nhk-dub" />。NHK版独自としてサニーデイ・クラブ『今月のうた』と視聴者のためのイラストコーナーも存在した。
{{Quotation|三造は彼を生んだ女を知らなかった。第一の継母は、彼の小学校の終り頃に、生れたばかりの女の児を残して死んだ。十七になったその年の春、第二の継母が彼のところに来た。はじめ三造はその女に対して、妙な不安と物珍しさとを感じていた。が、やがて、その女の大阪弁を、また、若く作っているために、なおさら目立つ、その容貌の醜くさを烈しく憎みはじめた。そして、彼の父が、彼なぞにはついぞ見せたこともない笑顔をその新しい母に向って見せることのために、彼は同じく、その父をも蔑み憎んだ。|中島敦「プウルの傍で」<ref name="pool"/>}}
 
なお、放送開始当初から長らく、英語のセリフを理解できるように、セリフを翻訳した番組テキストが[[日本放送出版協会|NHK出版]]から発行されていたが、2か国語放送への移行と同時に終了している。
父や継母との距離感で孤独にさいなまれていた敦の心を癒すものは、飼い猫だけだった<ref name="pool"/>{{Sfn|村山|2002|pp=96-107}}。生母のいない淋しさから敦はその黒猫をとても可愛がり寝るときもいつも抱いていたので、猫の方も犬のように懐いて敦が京城中学から戻ってくるのを家の門のところで待っていたという<ref name="pool"/>{{Sfn|村山|2002|pp=96-107}}。
 
制作プロダクションであるセサミワークショップが幼児向け教育番組としての日本版の共同制作を要望したことに対し、NHK側はアメリカ制作のオリジナル版の放送を継続したいということで折り合いがつかなくなり<ref>{{Cite web|date=2004-03-09|url=http://www.asahi.com/culture/update/0309/001.html|title=英語版「セサミ」、33年で幕 NHKが吹き替え案断る|publisher=[[朝日新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040402050649/http://www.asahi.com/culture/update/0309/001.html|archivedate=2004-04-02|url-status=dead|url-status-date=2022-03-10|accessdate=2022-03-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2004-03-09 |url=https://www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-040309-0017.html |title=NHK「セサミストリート」4・3で終了 |publisher=[[日刊スポーツ]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040309125029/http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-040309-0017.html
当時京城で近隣にいた親族によると、のちの敦の喘息の一因には猫の毛を常に吸い込んでいたことがあるのではないかとしている<ref name="junko"/>{{Sfn|村山|2002|pp=96-107}}。そうした生母を知らない淋しさ、「母」という存在の希薄さが、のちの中島文学の形成にも影を落としていくことになる<ref name="annai">[[木村一信]]「作家案内」({{Harvnb|斗南先生|1997|pp=295-307}})</ref><ref name="sakka-sagi"/>(''節「[[#「母」の不在|「母」の不在]]」も参照'')。
|archivedate=2004-03-09 |url-status=dead|url-status-date=2019-05 |accessdate=2019-05-21}}</ref>、[[2004年]][[4月3日]]のシーズン33 第4026話「亀のシーモア(A turtle wanders into Big Bird's nest)」をもってNHKでの放送を終了した<ref>{{NHKアーカイブス|A200404030740001300200|セサミストリート <終> 「亀のシーモア」}}</ref>。
 
=== NHK版の放映終了後 ===
[[1925年]](大正14年)の16歳のとき、父親が[[関東庁]]立[[大連市|大連]]中学の勤務となり、父が後妻コウと大連に引っ越し、京城に居残った敦が伯母・志津(京城女学校に勤務)の家に移り住んでいた間は少しグレていた様子で成績が落ちたこともあった<ref name="nenpu-chi"/><ref name="nagane">長根翠「兄貴分として」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=204-206}})</ref><ref name="pool"/>。このころ、ある級友に頼まれ彼の試験答案を代筆したことが発覚し、謹慎処分を受けたこともあった<ref name="nenpu-chi"/><ref name="takahashi">高橋務「カンニング事件のこと」({{Harvnb|田鍋|1989|p=203}})</ref>。
2018年2月11日には『[[バリバラ〜障害者情報バラエティー〜]]』<ref group="注釈">[[NHK大阪放送局]]の制作。</ref>でマペットのジュリアが紹介され、彼女が初登場したエピソードの一部(シーズン47 第4715話)も放送された<ref group="注釈">当初は歌詞字幕だったが、後にYouTubeで完全な日本語版音声になった。</ref>。
 
2020年5月17日には『[[セサミストリート: エルモのおうちで遊ぼう|エルモのおうちで遊ぼう]](Elmo's Playdate)』(同年4月14日にPBS Kidsおよび[[HBO]]、[[ターナー・ネットワーク・テレビジョン|TNT]]、[[カートゥーン ネットワーク]]などの[[ワーナーメディア]]が所有している全チャンネルで同時放送)が日曜19時00分から24分枠で放送された<ref group="注釈">本来この枠にて放送している『[[もっと!まじめにふまじめ かいけつゾロリ]]』が[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]流行に伴い放送延期されたことを受けての代替措置。</ref><ref>{{Cite web|title=Lin-Manuel Miranda and Anne Hathaway get us to Sesame Street in coronavirus special|url=https://www.cnn.com/2020/04/14/health/sesame-street-coronavirus-trnd-wellness/index.html|website=CNN|accessdate=2020-05-12|first=Ryan|last=Prior|publisher=|date=2020-04-15}}</ref><ref name=":0" />。NHKにてセサミワークショップ制作の番組が放送されるのは、2004年9月の『[[タイニープラネット]]』放送終了以来16年ぶりとなる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=NHKで16年ぶり『セサミストリート』Eテレで5・17放送|url=https://www.oricon.co.jp/news/2161943/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2020-05-12|publisher=|date=2020-05-12}}</ref>。
[[1926年]](大正15年)には、コウが産んだ三つ子の異母弟妹のうち2人の弟が同年中に亡くなる出来事もあった<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。授業中に机の蔭で何か他の本を読んでいることが度々あった敦ではあったが、それを見た教師が敦に問題の解答を指名しても、正確な答えが返ってくるため叱ることができなかったという<ref name="yamaz"/><ref name="sugihara"/>。4年の秋の模擬試験では国漢・数学・英語、各200点×3の600満点中、敦は英語の単語一つ間違えただけで598点をとった<ref name="sugihara"/>。
 
2022年4月4日、『[[グレーテルのかまど]]』でセサミストリートとの[[コラボレーション]]を行い、クッキーモンスターが同番組に登場した<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=セサミストリートの新たなコラボに注目!「THE FIRST TAKE」では日向坂46と共演 |url=https://www.walkerplus.com/article/1078779/ |website=ウォーカープラス(Walkerplus) |accessdate=2022-04-06 |date=2022-04-04 |author=東京ウォーカー(全国版)}}</ref>。同年11月にも『[[ひろがれ!いろとりどり|あおきいろ]]』でセサミストリートとのコラボレーションを行い、セサミストリートのキャラクターが[[YOASOBI]] with [[ミドリーズ]]と共演している<ref>{{Cite web |title=YOASOBI、「ツバメ」の英語バージョン「The Swallow」を配信開始 |url=https://www.thefirsttimes.jp/news/0000206426/ |website=THE FIRST TIMES |access-date=2022-11-20 |date=2022-11-03}}</ref>。
龍山小学校・京城中学時代を通して、中島敦は合わせて5年半を[[朝鮮半島]]で暮らした<ref name="nenpu-chi"/>{{Sfn|小谷|2019|p=9-15}}。初期の習作「[[巡査の居る風景]]」や「[[虎狩]]」における[[植民地]]時代の朝鮮像や朝鮮人の描写は、その後に得た朝鮮に関する広い社会知識によるところが大きいものの、この頃の朝鮮での経験をベースにしたものであるとされる<ref name="sagi1">「初期の習作――豊饒な可能性 一」(国文学論考 1989年3月・第25号)。{{Harvnb|鷺|1990|pp=43-46}}</ref><ref name="sagi5">「初期の習作――豊饒な可能性 五」(国文学論考 1989年3月・第25号)。{{Harvnb|鷺|1990|pp=63-67}}</ref>{{Sfn|川村|2009a|pp=57-66}}{{Sfn|小谷|2019|pp=9-28}}(''節「[[#植民地への視線|植民地への視線]]」も参照'')。
 
2023年、[[国際連合]]が制定している「[[世界こどもの日]]」(11月20日)に合わせて、同年6月から『あおきいろ 1分版』でセサミストリートとのコラボレーションを行い、エルモ、クッキーモンスター、ジュリアが聞き手となり、『[[いないいないばあっ!|いないないばあっ!]]』の[[ワンワン (いないいないばあっ!)|ワンワン]]や『[[ストレッチマン|ストレッチマン ゴールド]]』のストレッチマンレジェンドなどといった、Eテレの人気番組出演者と共演した<ref>{{Cite web|和書|title=セサミストリート&Eテレのキャラから子どもたちにメッセージ『あおきいろ 1分版』スタート |url=https://www.oricon.co.jp/news/2280743/full/ |website=[[オリコン|ORICON NEWS]] |access-date=2023-05-29 |date=2023-05-29}}</ref>。
=== 東京での学生時代 ===
[[1926年]](大正15年)3月、通常は5年間通う[[旧制中学校]]を4年で修了し、入学試験に成績3番で合格した敦は[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]文科甲類に4月から入学する{{R|日本近代文学館1977|磯田ほか編1988}}<ref name="inamo"/><ref name="sakka-sagi"/>。京城中学時代の友人によると、第一高等学校入学のお祝いとして大臣か大政治家になることを期待すると敦に手紙を送ると、そのようなものは偉いとは思わないし、なろうとも思っていないという主旨の返信が来たという<ref name="yamaz"/>。
 
2023年11月、啓発キャンペーン「スゴEフェス」の一環として、『[[おかあさんといっしょ]]』でセサミストリートとのコラボレーションを行い、エルモ・ジュリア・クッキーモンスターが同番組に登場した。また、同月25日には『スゴEフェス2023生放送スペシャル!』にも前記3キャラクターが共同パートナーとして出演した<ref>{{Cite web |title=おかあさんといっしょ:「セサミストリート」とコラボ実現 エルモ、ジュリア、クッキーモンスター登場 「スゴEフェス」開幕 |url=https://mantan-web.jp/article/20231112dog00m200027000c.html |website=MANTANWEB(まんたんウェブ) |date=2023-11-13 |access-date=2023-11-13}}</ref>。
一高入学後は寮に入り、のちに[[ニーチェ]]研究者となる[[氷上英廣]]と知り合うきっかけとなった<ref name="nenpu-chi"/><ref name="hide">氷上英廣「中島のこと」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=206-208}})</ref>。氷上によれば、敦に[[カフカ]]を奨めたのは氷上であったとされるが<ref name="hide"/>、その逆であるという説もある<ref name="sakka-sagi"/>{{Efn|一高で敦の1級下だった湯浅隆宗の「ハンスとフランツ」によれば、氷上が敦に奨めたのではなくて、その逆であるという<ref name="sakka-sagi"/>。}}。[[1927年]](昭和2年)の春には伊豆下田を旅し、耽美的な習作「下田の女」の題材となった{{R|磯田ほか編1988}}<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>{{Efn|伊豆下田に誘われたきっかけは、前年発表された[[川端康成]]の『[[伊豆の踊子]]』ではないかと推察されている<ref name="sakka-sagi"/>。}}。
 
=== 日本語吹替版を担当した声優 ===
夏休みに父のいる[[大連市|大連]]に帰省中[[肋膜炎]]に罹ったため1年間休学となった{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。このときの療養生活中に「病気になった時のこと」という習作断片が書かれた<ref name="nenpu-chi"/>。『校友会雑誌』に投稿した「下田の女」は11月に掲載され{{R|日本近代文学館1977|磯田ほか編1988}}<ref name="sakka-sagi"/>、これが活字となった初めての作品となった<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。
{| class="wikitable"
!colspan="2"| NHK教育テレビ版
|-
! テレビスペシャル版 !! レギュラー吹替版
|-
! 1988/05/05 - 1997/12/23 !! 1998/04/11 - 2004/04/03
|-
| [[三ツ矢雄二]]<br />[[水島裕 (声優)|水島裕]]<br />[[上田敏也]]<br />[[大竹宏]]<br />[[玄田哲章]]<br />[[江原正士]]<br />[[青野武]]<br />[[高木渉]]<br />[[山寺宏一]]<br />[[辻村真人]]<br />[[大塚芳忠]]<br/>[[小林修 (声優)|小林修]]<br />[[中尾隆聖]]<br />[[龍田直樹]]<br />[[富山敬]]<br />[[金尾哲夫]]<br />[[鳥海勝美]]<br />[[チョー (俳優)|長島雄一]]<br />[[野沢雅子]]<br />[[小宮和枝]]<br />[[吉田理保子]]<br />[[榊原良子]]<br />[[木藤聡子]]<br />[[神代知衣]]<br />[[さとうあい]]<br />[[一柳みる]]<br />[[井上喜久子]]<br />[[滝沢久美子]]<br />他 || [[落合弘治]]<br />[[真殿光昭]]<br />[[大川透]]<br />[[玄田哲章]]<br />[[田原アルノ]]<br />[[保志総一朗]]<br />[[中庸助]]<br />[[乃村健次]]<br />[[青木誠 (声優)|青木誠]]<br />[[うえだゆうじ]]<br />[[乃村健次]]<br />[[玉川砂記子|玉川紗己子]]<ref name="katari" group="注釈">吹き替え版を担当する前は語り手も担当していた、玉川の場合は後年の方である。</ref><br />[[堀越真己]]<br />[[亀井芳子]]<br />[[滝沢ロコ]]<br />[[小林優子]]<br />[[はやみけい]]<br />[[帆世雄一]]<br />他
|}
 
=== 放送時間 ===
19歳となる[[1928年]](昭和3年)4月に寮を出て、伯父・関翊一家が暮らす[[渋谷町 (東京府)|渋谷町]][[道玄坂]]上の広い敷地内の弁護士・岡本武尚邸([[岡本貫一]]の養子<ref name="nagoya"> [https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-5234 岡本武尚](『人事興信録』データベース、名古屋大学)</ref>)の別棟に寄寓した<ref name="okamoto">岡本登志「中島敦さんとのこと」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=209-210}})</ref><ref name="ayako">荘島褧子「敦と私」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=173-176}})</ref>。その岡本家の文学好きの息子・武夫(一高で[[高見順]]の同級生)と親交を結んだ縁で、のちに英米文学の翻訳者となる[[田中西二郎]]と知り合った<ref name="nenpu-chi"/>{{Sfn|岡谷|2009|pp=25-29}}<ref name="okamoto"/><ref name="ayako"/>。
NHK教育テレビの放送時間。一部の回によっては[[高校野球]]や夏休みの影響で再放送されないこともあった<ref group="注釈">一部地域でも再放送がなかったり、放送時間が異なったりしたこともあった。</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!rowspan=2|年度!!colspan=2|放送時間([[日本標準時|日本時間]])
|-
!本放送!!再放送
|-
!1972
|日曜日 19:00 - 20:00(60分)
|(放送無し)
|-
!1973 - 1974
|土曜日 15:00 - 16:00(60分)
|日曜日 19:00 - 20:00(60分)
|-
!1975
|日曜日 09:30 - 10:30(60分)
|(放送無し)
|-
!1976 - 1980
|日曜日 10:00 - 11:00(60分)
|日曜日 19:00 - 20:00(60分)
|-
!1981
|日曜日 19:00 - 20:00(60分)
|rowspan=2|(放送無し)
|-
!1988
|rowspan=2|日曜日 17:00 - 18:00(60分)
|-
!1989
|土曜日 12:30 - 13:30(60分)
|-
!1990 - 1991
|金曜日 18:00 - 19:00(60分)
|日曜日 17:00 - 18:00(60分)
|-
!1992
|土曜日 18:00 - 19:00(60分)
|rowspan=2|土曜日 08:00 - 09:00(60分)<ref group="注釈">1992年度は本放送の翌週に放送</ref>
|-
!1993 - 1996
|日曜日 18:00 - 19:00(60分)
|-
!1997 - 1998
|日曜日 18:00 - 18:55(55分)
|土曜日 07:40 - 08:35(55分)
|-
!1999 - 2002
|土曜日 07:35 - 08:30(55分)
|土曜日 16:00 - 16:55(55分)
|-
!2003
|土曜日 07:40 - 08:30(50分)
|土曜日 16:00 - 16:50(50分)
|}
 
== 各話リスト ==
また、同じく岡本邸に寄寓していた[[日本女子大学]]に通う2人の従妹・{{ruby|褧子|あやこ}}と美恵子(叔父・比多吉の娘)のうち、敦は2歳年下の褧子(英文科)と特に親しくなり、彼女の[[卒業論文]](テーマは[[ユージン・オニール]])作成の手伝いをしたりした<ref name="ayako"/><ref name="nenpu-chi"/>。この年も『校友会雑誌』に「ある生活」「喧嘩」が掲載された<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。
[[セサミストリートのエピソード一覧]]を参照。
 
== 主題歌 ==
[[1929年]](昭和4年)4月に[[文芸部]]委員となり『校友会雑誌』編集に参加する{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。この年の夏に岡本邸を出て、[[芝 (東京都港区)|芝]]の[[同潤会アパート]]に移った<ref name="nenpu-chi"/>。6月には『校友会雑誌』に「[[巡査の居る風景]]」「蕨・竹・老人」を「短篇二つ」として発表した<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。秋には氷上英廣、[[吉田精一]]、[[釘本久春]]らとともに季刊同人誌『しむぽしおん』(翌年夏まで4冊発行)を創刊するが、敦はこの同人誌に一度も執筆せず、翌1月『校友会雑誌』の方に「D市七月叙景(一)」を発表した<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。
; 『[[セサミストリートのテーマ]]』
* 作詞:ジョー・ラポーゾ、ジョン・ストーン、ブルース・ハート
* 作曲:ジョー・ラポーゾ
* 歌:THE KIDS(英語オリジナル版) / 公表されず不明(日本語版)
: テストショー版ではボブ・マクグラスが歌い、シーズン1以降は子供達が歌っている(吹き替え版は不明)。
: [[オープニング]]・[[エンディング]]映像・歌唱担当も何度か変更されており、シーズン1の[[主題歌]]が本編終盤で使用される事もあった(吹き替えの際も英語主題歌のまま使用)。
: この曲のフルバージョンは1970年にアメリカで「レコードバージョン」として発売され、後にアルバムCD『プラチナム・オールタイム・フェイバリッツ」』に収録されている。
: NHKの放送では、レコードバージョンをエンディングとして使用したこともあり、シーズン1の主題歌をエンディングとして使用していたこともある。
: 解説放送時代では英語字幕を表記した時期があり、吹き替え版開始当初では英語のままだったが、1999年度から日本語主題歌になり<ref name="nhk-dub" />、エルモたちの声などは全て吹替になった、少なくとも3バージョンは存在する。
: 第3851話「エルモのダンス」では、オープニングの途中でバレエの衣装を着たゾーイが道路に割り込むシーンがある。
: 第3916話「ベビーベアの誕生日」と第3952話「[[今日は歌の日]]」では、セサミストリートの住人たちがフルバージョンで歌われており、番組の最後でも歌われた。吹替版歌詞はテレビ東京版と違って「魔法の絨毯」以降も訳されている。
 
=== スタッフ ===
第一高等学校を卒業後、[[1930年]](昭和5年)4月に[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]]国文学科に入学する。友人らは英語力の高い敦は英文科に進むものだと思っていたため、国文学科を選んだことに驚いたという<ref name="nenpu-chi"/>{{Sfn|森田|1995|pp=42-43}}。この年の3月には、三つ子の生き残りだった異母妹・睦子が4歳で病死し、6月には、敦の才能を一番買っていた伯父・斗南が亡くなった<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。伯父の死を看取ったことで、狷介で彷徨的だった伯父と類似する自身の気質を分析する手記的作品「[[斗南先生]]」が、のちに書かれることになる<ref name="sakka-sagi"/>。
* 制作:[[セサミワークショップ]]
 
=== 日本語版スタッフ ===
大学時代には、文学発表活動への関与はあまりなく、友人・釘本久春の紹介で英国大使館駐在サッチャー海軍主計少佐の日本語教師を10月から約1年間務めながら、ダンスホールや麻雀荘に入り浸る生活を送り、乗馬にも凝っていた<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。
==== 日本語解説版 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 語り
| [[鈴木弘子]](1990年度 - 1995年度)<ref>[https://www.kenproduction.co.jp/talent/52 賢プロダクションによるプロフィール]</ref><br/>[[玉川砂記子|玉川紗己子]](1996年度 - 1997年度)<ref>{{Cite book |和書 |author=小川ぴい |title=こだわり声優事典'97 |page=87-88 |publisher=[[徳間書店]] |year=1997 |isbn=4-19-720012-9}}</ref><ref name="katari" group="注釈" />
|-
! 台本
| 城啓介→滝沢ふじお
|-
! 演出
| 河村常平、[[加藤敏 (音響監督)|加藤敏]]<br/>[[向山宏志]]、麦島哲也
|}
 
==== 日本語吹き替え版 ====
[[1931年]](昭和6年)の夏休みには[[天野宗歩]]の全棋譜(『将棋精選』)を読み上げ友人を驚かせたり、同年3月に麻雀荘(一高時代の寮友・伊庭一雄の姉の経営する店)で知り合った同年齢の店員・橋本タカ(故郷は[[愛知県]])に会いに行く旅費稼ぎのため、下宿に友人らを集めレコードの売り立て会を開いたりしたこともあった<ref name="nenpu-chi"/>。またこの夏には、浅草レビュー小屋の踊り子たちを組織して[[台湾]]興行を計画していたとも伝えられる<ref name="sakka-sagi"/>{{Sfn|勝又|2004|pp=10-11}}。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!colspan="9"| NHK教育⇒NHK Eテレ版
|-
!rowspan="2"| 種類 !!rowspan="2"| レギュラー版<br />(1998年4月 - 2004年4月) !!colspan="7"| スペシャル版
|-
! [[美術館へ行こう〜メトロポリタン美術館のセサミストリート〜|美術館へ行こう]] !! [[ビッグバード 中国への旅]] !! [[セサミストリート: 世界の国からハッピーニューイヤー|世界の国からハッピーニューイヤー]] !! [[セントラルパークでシング・シング・シング]] !! [[セサミストリート危機一髪]] !! [[エルモのクリスマス]] !! [[セサミストリート: エルモのおうちで遊ぼう|エルモのおうちで遊ぼう]]<ref group="注釈">吹き替え版スタッフはYouTube版と同じ</ref>
|-
! 翻訳・訳詞
| 埜畑みづき<ref name="翻訳と演出">[https://web.archive.org/web/20190331053203/https://www.fukikaeru.com/?p=11089 『LIFE!/ライフ[ザ・シネマ新録版]』 演出家・清水洋史さん&翻訳家・埜畑みづきさん&堀内賢雄さんインタビュー]</ref><ref>『日本音声制作者名鑑 2004』([[小学館]])286頁 ISBN 4-09-526301-6</ref><br />桜井裕子<ref>『日本音声制作者名鑑 2004』(小学館)283頁 ISBN 4-09-526301-6</ref><br />片岡由紀子<br/>野口尊子<ref>『日本音声制作者名鑑 2004』(小学館)285頁 ISBN 4-09-526301-6)</ref><br/>鎌田郁子<ref>『日本音声制作者名鑑 2004』(小学館)282頁 ISBN 4-09-526301-6</ref>|| 滝沢ふじお<br />[[山川啓介]] || 滝沢ふじお ||colspan="4"| 野口尊子 || [[いずみつかさ]]
|-
! 演出
| [[清水洋史]]<ref name="翻訳と演出"/><br/>佐々木由香<br/>[[麦島哲也]]<ref>『日本音声制作者名鑑 2004』(小学館)298頁 ISBN 4-09-526301-6</ref>|| - || - || ? || [[加藤敏 (音響監督)|加藤敏]] || 河村常平 || ? || [[平野智子]]
|-
! 録音
| 高橋昭雄→柳川久子 || - || - || ? || 橋本二三郎 || 室克巳 || ? || 戸島聡
|-
! 効果
| 桜井俊哉 || - || - || ? ||colspan="2"| 遠藤尭雄 || ? || -
|-
! プロデューサー
| - || - || - || - || - || - || - || 長岡学
|-
! 日本語版制作
|colspan="7"| NHK<br />NHKインターナショナル<br />[[東北新社]]<ref name="翻訳と演出"/><br />[[ソニー・クリエイティブプロダクツ]] || [[恵比寿・エコー劇場|スタジオ・エコー]]
|}
 
== テレビ東京での放送 ==
文学活動を休止していたようにみえるこの時期ではあったが、一方で、[[永井荷風]]、[[谷崎潤一郎]]、[[正岡子規]]、[[上田敏]]、[[森鷗外]]らのほぼ全作品を読むなど読書にも熱中した<ref name="sakka-sagi"/>。そして[[エドガー・アラン・ポー|ポー]]や[[ボードレール]]、[[オスカー・ワイルド|ワイルド]]など欧州の[[耽美派]]を概観しつつ近代日本で[[自然主義文学|自然主義]]派に対抗していた耽美派の谷崎を論じた「耽美派の研究」と題する卒業論文に備えた<ref name="wata1">「北方行」({{Harvnb|渡邊|2005|pp=5-54}})</ref>{{Sfn|勝又|2004|p=11}}<ref name="sakka-sagi"/>。
{{基礎情報 テレビ番組
|番組名=セサミストリート(テレビ東京版)
|ジャンル=[[子供向け番組]]
|放送時間=日曜日9:00 - 9:30
|放送分=30
|放送国={{JPN}}
|制作局=[[テレビ東京]]
|演出=[[松木創]]、[[岡田倫太郎]]、[[植田泰史]]ほか
|プロデューサー=[[紅谷佳和]]、青木俊志(テレビ東京)<br />高橋知子、近藤孝子
|出演者=[[松本健太]](エルモ)<br />[[水城レナ]](ティーナ&ピエール)<br />[[鶴岡聡]](ビッグバード)<br />[[菊地慧]](クッキーモンスター)<br />[[戸田ダリオ]]<br />[[太田在]]<br />ほか
|放送期間=2004年10月10日 - 2007年9月30日
|放送回数=全153
|音声= [[2か国語放送|二ヶ国語放送]](主:日本語 / 副:英語)
|字幕= [[字幕放送]]
|OPテーマ=「サニー・デイズ」
|EDテーマ=[[#テレビ東京版主題歌]]を参照
<!-- これがないとセサミ英語公式サイトリンクが置かれてしまう -->
|外部リンク=
|特記事項=[[BSテレビ東京|BSジャパン]]は水曜日18:00 - 18:30に遅れネット
}}
NHK版の終了から半年後、[[テレビ東京]]系列で日米共同制作による日本版セサミストリートが[[2004年]]10月10日から放送開始された。BSジャパン(3日遅れ、現・[[BSテレビ東京|BSテレ東]])、[[アニマックス]](2005年1月から土曜8時00分 - 8時30分に放送<ref>[http://web.archive.org/web/20041213193847/http://www.animax.co.jp/program/program.php3?naiyo=m_sesamestreet セサミストリート](アニマックス、2004年12月13日保存、2025年2月25日閲覧)</ref>)でも時差放送されていた。
 
日本で制作されたマペット劇が中心で、「心、自我、感情表現」や「自然、環境」をメインに取り扱っていた。日本のセサミストリートにはコンビニがあり、ストリート以外でも「セサミの森」という場所が登場した。アメリカなどで制作されたライブラリ映像も合わせて放送したり、「イングリッシュ on ストリート」という英語を教えるコーナーも登場した。キャラクターの声はNHK版から刷新されたほか、番組内では日本だけのオリジナルキャラクターが登場した。
1931年(昭和6年)10月には、大連の中学校を退職した父親が東京に戻ったため、[[荏原郡]][[駒沢町]]大字上馬の借家で父と継母コウと同居するようになった<ref name="nenpu-chi"/>。[[1932年]](昭和7年)には、前年知り合った橋本タカとの結婚(入籍)を考えるようになった<ref name="nenpu-chi"/>。しかし、タカの叔母の反対や中島家の反対もあり、しばらく辛抱強い説得が続いた<ref name="sakka-sagi"/>。そして父から正式な結婚は大学卒業後にしろと言われため、この時点では婚姻届は出してはいない<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。
 
2005年10月3日 - 2005年12月23日にかけて、平日帯番組として、早朝6:40 - 6:45に5分間番組の『'''プチプチ!セサミストリート'''』も放送された(2006年1月9日 - 2006年3月31日までは再放送)。
この年の8月、就職の相談をするため[[旅順口区|旅順]]にいる[[関東庁]]外事課長の叔父・[[中島比多吉]]を訪ねるかたわら、大連などの南満州、[[天津市|天津]]、北平([[北京市|北京]])などの北支(中国北部)を旅行し、久しぶりに母校の京城中学にも立ち寄った<ref name="nenpu-chi"/><ref name="pool"/><ref name="kaidai3"/><ref name="sakka-sagi"/>{{Sfn|川村|2009a|pp=93-97}}。中国を舞台にした未完の長編草稿「北方行」の執筆準備(現地取材)は、このころに行われていたのではないかと推察されている{{Sfn|小谷|2019|pp=18-19}}{{Sfn|川村|2009a|pp=93-97}}<ref name="nenpu-chi"/>。
 
第76話(2006年4月2日)から番組がリニューアルされ、グローリーとメグが日本オリジナルキャラクターとして新たに加わった。出演者にコミュニティーセンターのおじさんとして、[[戸田ダリオ]]がヒューマンキャラクター(出演者)として加わった。さらに、英語コンテンツの充実が図られた。第102話(2006年10月1日)から国際性をはぐくむをテーマにリニューアルを行ったことに伴い、マペットが一般家庭を訪問するコーナーが追加された。[[エルモズワールド]]を、一部日本で撮影されたものを加えるなど、再構成したものを放送するようになった。
=== 横浜での教員時代 ===
中島敦は当時の就職難に苦しみ、前節で述べたように、卒業前の1932年(昭和7年)夏には[[満州国]]高級官僚の叔父・比多吉に就職の斡旋を依頼するなどしていた{{Sfn|勝又|2004|pp=27-29}}<ref name="sakka-sagi"/>。同年秋には[[朝日新聞社]]の入社試験を受けたが二次試験の身体検査で落ちた<ref name="sakka-sagi"/>。結局、翌[[1933年]](昭和8年)4月、祖父の門下生だった田沼勝之助が理事を務める横浜高等女学校(現・[[横浜学園高等学校]])での教員の職を得て、横浜市[[中区 (横浜市)|中区]]のアパートで単身暮らしとなった<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。
 
2007年9月30日をもってテレビ東京系列での放送を終了した。この枠での3年間の放送は子供向け番組枠になった2002年7月以降の番組としては最長記録。
敦は中島一族の親戚中でも一番の秀才として知れ渡っていたため、一高、帝大出の彼が一介の女学校教師となったことを意外に思った従甥もいた<ref name="koushin">中島甲臣「敦さんについて、など」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=168-169}})</ref>{{Sfn|森田|1995|pp=64-65}}。しかし、当時は大変な就職難で、帝大の同級生38名中、まともに就職が決まった者は敦を含めて3名だけで、まだ恵まれている方だった<ref name="guchi">山口正「大学同級生として」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=208-209}})</ref><ref name="nenpu-chi"/>。
 
=== 日本版パペティア ===
敦の担当科目は国語・英語(および、のちにこれに加えて歴史・地理)で、週23時間の授業を受け持ち{{Sfn|勝又|2004|pp=29-31}}、初任給は60円だった<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。同じ教師陣には、[[岩田一男]](英語学)、安田秀文(国文学)、平野宣紀(国文学)、[[山下陸奥]](国文学)、山口比男(地理学)、杉本長重(国文学)、吉村陸勝(数学)、[[渡辺はま子]](音楽)、野田蘭洞(書道)など、優秀な人材が多かった<ref name="iiduka">飯塚充昭「横浜高女同僚として」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=214-215}})</ref><ref name="yasu">安田秀文「中島さんと一緒に勤めて」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=215-217}})</ref><ref name="sakka-sagi"/>{{Sfn|村山|2002|pp=107-115}}{{Sfn|森田|1995|pp=65-69}}。直接教えた生徒の中には、後に女優となる[[原節子]]もいた<ref>織井優佳 (2020年6月3日). “[https://www.asahi.com/articles/ASN6273TRN5XULOB00M.html 神奈川)原節子を教えた中島敦先生 記録見つかる]”. ''朝日新聞デジタル''. 2020年11月7日閲覧。</ref>。
* エルモ:[[松本健太]]
* ティーナ:[[水城レナ]]
* ピエール:水城レナ
* ビッグバード:[[鶴岡聡]]
* クッキーモンスター:[[菊地慧]]
* モジャボ:[[田中英樹]]
* アーサー:[[竹田佳央里]]
* グローリー:竹田佳央里
* メグ:井口綾子
* ライトハンド&サポート:<!-- {{要曖昧さ回避|date=2022年6月|title=キャラクター名でもない}}[[リンダ| -->Linda、[[浅野孝彦]]、井口綾子
 
=== 日本版出演者 ===
女学校教員となったこの年の12月11日には橋本タカと結婚(正式入籍)した<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。タカは4月に郷里の[[愛知県]][[碧海郡]]で長男・{{ruby|桓|たけし}}を産んでいたが、敦は仕送りだけで面会に来なかったため、たまりかねて赤ん坊を連れて11月に上京し、東京市[[杉並区]]の佐々木方に下宿した<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。敦は教師時代も多趣味な生活を送り、また生徒や同僚からもかなりの人気があった{{Sfn|勝又|2004|pp=29-31}}{{Sfn|村山|2002|pp=107-115}}。[[山岳部]]生徒の引率で、[[箱根外輪山]]や[[北アルプス]]に登ったり、同僚らと三国峠、[[法師温泉]]などにキャンプに行ったりしたこともあった<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。
* コミュニティーセンターのおじさん:[[戸田ダリオ]]
* コンビニのお兄さん:[[Hiro-a-key|HIRO(Hiro-a-key)]]
* コンビニのお姉さん:[[太田在]]
* 森のおばあさん:[[森澤早苗]]
* アイちゃん:[[小泉奈々]]
* スグル:[[中嶋和也]]
* 順子:[[黒沢ともよ]]
* [[坂本たかや]]
* [[長田奈麻]]
* [[中山雅史]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/224908/ |title=中山雅史選手、セサミストリートに出演! |publisher=[[All About]] |date=2006-07-20 |accessdate=2021-02-10 }}</ref>
* タロー・クワガタ:[[湯澤幸一郎]]
* サンバ隊:大道寺栄、ダミオン・ゴメス・デソウザ、翁長みどり
* サンバダンサー:ヴァレリア・ジェニファー
* 水晶の妖精:美和・ガードナー
 
=== テレビ東京版主題歌 ===
大学院(1年間で中退)や教師時代に「斗南先生」「北方行」「虎狩」などの作品を執筆しており{{Sfn|勝又|2004|p=30}}<ref name="nenpu-chi"/>、[[1934年]](昭和9年)7月に、「虎狩」を『[[中央公論]]』新人号に応募して、選外佳作10編中に入った{{R|磯田ほか編1988}}<ref name="sakka-sagi"/>。敦はこの結果を[[氷上英廣]]に伝え、「虎狩、又してもだめなり。(中略)なまじっか、そんなところに出ないほうがよかったのに。すこしいやになる」と、なまじっか佳作に名を連ねていることを悔しがり応募したことを後悔している<ref>「書簡I――41氷上英廣宛 昭和9年7月17日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=355-356}})</ref>{{Sfn|森田|1995|p=70}}{{Efn|この「又してもだめなり」という語から、「虎狩」がこれ以前の別の応募でも落選していたのか、あるいは、「斗南先生」を何かに応募していたのではないかと推察されている<ref name="kaidai1"/>。}}。
* オープニングテーマ
** 「サニー・デイズ(セサミストリートのテーマ)」[[東京少年少女合唱隊]]<ref group="注釈">YouTube版ではテレビ東京で放送された時の歌詞をアビーとジュリアが歌っている。</ref>(第76話(2006年4月2日) - 第153話(2007年9月30日))
: 第1話(2004年10月10日)から第75話(2006年3月26日)まではアメリカ版のテーマソング<ref group="注釈">アメリカ版セサミストリートではシーズン1からシーズン23まで使用された。なお、2005年に発売されたビデオ(イングリッシュONセサミストリートなど)からは既にこの日本語版主題歌が使われている。</ref>を流用している。
: 映像は4種類ある。
:*「未確認」(2004年10月~2005年3月)
:*「エルモ、おうちの窓を開ける」(2005年4月~9月)<ref group="注釈">Youtubeのアメリカ公式では、冒頭に流れる「虹」のシーンがカットされている。</ref>
:*「ビッグバード、おもちゃのボートを子供たちにプレゼント」(2005年10月~2006年3月)
:*「エルモと仲間たちのダンス」(日本語版主題歌、2006年4月~2007年9月)
* エンディングテーマ
** 「A Kiss From The Sun」[[大貫妙子]](第1話(2004年10月10日) - 第75話(2006年3月26日))
** 「[[4つのL|I Will Be With You]]」[[平原綾香]](第76話(2006年4月2日) - 第101話(2006年9月24日))
** 「サニー・デイズ(インストゥルメンタル・ヴァージョン)」(第102話(2006年10月1日) - 第153話(2007年9月30日))
** 「Sing」(エルモと仲間たち、作詞・作曲:ラポソ・ジョセフ・ジー、訳詞:星加ルミ子、編曲:佐藤秦将、ビデオソフトのみ)
 
=== テレビ東京版スタッフ ===
この25歳のころ、自分の作家としての才能に自信をなくしていた敦は、失意の中、明るいチンドン屋が通り過ぎる夜の酒場の街を歩いていたこともあった<ref name="danpen9">「断片9」。{{Harvnb|ちくま3|1993|pp=407-409}})</ref>{{Sfn|森田|1995|pp=42-51}}。
* 脚本:[[吉田裕一]]
{{Quotation|才能のない私は<br />才能のないことを悲しみながら<br />頭をたれて<br />明るい街をのそのそと歩いていた。<br />
* プロデューサー:[[高橋知子]]、[[近藤孝子]]、[[紅谷佳和]]、[[青木俊志]]
私はもう二十五だ。私は何かにならねばならぬ。<br />ところで、一体私に何ができる。<br />
* 演出:[[松木創]]、[[岡田倫太郎]]、[[植田泰史]]
うわべばかりの豪語はもうあきあきだ。<br />なかみのない、ボヘミアニズムも、こりごりだ。<br />人に笑われまいとするきがねも、もう沢山だ。<br />
* パペット制作:{{仮リンク|ジム・ヘンソン・スタジオ|en|Jim Henson Studios}}
感心したものには、大人しく帽子をぬげ、<br />自信ありげなかおをするのは止めろ。<br />自信も何もないくせに。<br />だが、それは結局、<br />自分の無能を人に示すことになる。<br />何ということだ、何と情けないことだ。一体。<br />才能がないということは、<br />才能のない男が裸にならねばならぬということは、|中島敦「断片9」<ref name="danpen9"/>}}
* ラングラー:玉木暢子、吉澤亜由美、加藤知子、佐藤澄絵
* 美術協力:[[フジアール]]
* 技術協力:[[レモンスタジオ]]
* タイトルバック:西村了、鈴木真、菊間潤子
* 日本語版主題歌訳詞:武田浩
* 本編作曲・編曲・主題歌編曲:有澤考紀
* エンディングイラスト:前田尚志
* 制作:テレビ東京、[[セサミワークショップ]]、[[日本アドシステムズ|NAS]]、[[共同テレビジョン]]
 
=== エピソードリスト ===
[[1935年]](昭和10年)4月に[[釘本久春]]を介して、京城中学の1年後輩の三好四郎と知り合った<ref name="miyo">三好四郎「中島敦先輩とのこと」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=210-213}})</ref><ref name="nenpu-chi"/>。なんとか中島敦を世に出したいと願う釘本や三好の勧めで、翌[[1936年]](昭和11年)6月に、三好から[[鎌倉]]に住む[[深田久弥]]を紹介された敦は、以後毎週土曜日に深田の自宅を訪ね、作品評を乞うようになった{{Sfn|森田|1995|pp=87-91}}<ref name="miyo"/><ref name="sakka-sagi"/>。三好と深田は同じ町内に住み、ともに[[大佛次郎]]の世話をしていた写真同好会「写友会」に入っていた仲であった<ref name="miyo"/>。深田は敦より6歳年上で、同じ一高、東大出身者だった<ref name="sakka-sagi"/>{{Sfn|森田|1995|pp=87-91}}。
 
{| class="wikitable"
教師時代の1935年(昭和10年)には、[[デイヴィッド・ガーネット|ガーネット]]、[[列子]]、[[荘子]]などを、1936年(昭和11年)には[[アナトール・フランス]]、[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]]、[[カフカ]]、[[オルダス・ハクスリー]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[アンリ・フレデリック・アミエル|アミエル]]、[[韓非子]]、[[王維]]、[[高青邱]]などを読んだ<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。また横浜高女の雑誌部が発行していた学内誌『学苑』の編集人となっていた敦は、そこに短い雑文などを寄稿した<ref name="yasu"/><ref name="nenpu-chi"/>。
|-
 
!話数
このころに自我の追求や存在の形而上学的不安をテーマにした「[[狼疾記]]」「かめれおん日記」(「過去帳」2篇)を起筆し、第1稿を脱稿していたが、「狼疾記」は「北方行」(未完の長編)の草稿から転写・再構成された短編で、その後[[1938年]](昭和13年)から[[1939年]](昭和14年)にかけて完成する<ref name="nenpu-chi"/><ref name="kaidai2"/>。
!サブタイトル<ref>http://web.archive.org/web/20060214050814/http://www.animax.co.jp:80/program/s/search.php?s=%A5%BB%A5%B5%A5%DF%A5%B9%A5%C8%A5%EA%A1%BC%A5%C8</ref><ref>http://web.archive.org/web/20060507064932/http://www.animax.co.jp:80/program/s/search.php?s=%A5%BB%A5%B5%A5%DF%A5%B9%A5%C8%A5%EA%A1%BC%A5%C8</ref><ref>http://web.archive.org/web/20060826025356/http://www.animax.co.jp:80/program/s/search.php?s=%A5%BB%A5%B5%A5%DF%A5%B9%A5%C8%A5%EA%A1%BC%A5%C8</ref>
 
!放送日
また、1936年(昭和11年)の[[小笠原諸島]]や中国の旅行の際、旅日記的に和歌を詠んだが、その後も音楽会の感想メモも三十一文字の形式で書き留めた<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。[[1937年]](昭和12年)の冬にも即興的な身辺雑記のさまざまな500首あまりの感興を「和歌でない歌」として綴った<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>{{Sfn|矢川|2009|pp=143-149}}。
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| 1 || ナゾのともだちがやってくる! || '''2004年'''<br/>10月10日
これらの歌では比較的すらすらと自己表白が可能なことに気づかされた敦が、散文では表現のジレンマに陥り行きづまりがちだった表白がある種の定型や枠づけの中で自在になるということを悟り、のちの外在的な枠づけの形式(先在する古典物語を利用すること)のヒントや啓示になったのではないかという推察もある{{Sfn|矢川|2009|pp=143-149}}<ref name="roushi"/>。
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| 2 || たいへんだぁ! || 10月17日
1937年(昭和12年)の1月には早産で誕生した長女・正子がすぐに亡くなってしまうという出来事もあった<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。以前にも幼い異母弟妹らの夭折を見てきた中島だったが、実子を亡くすという体験もまた、存在の不確かさや運命との対決など中島作品に顕著なテーマに影響をもたらす要因の一つとなる<ref name="sagi-I">「中島敦――そのエスキス」([[浅井清也]]編『研究資料現代日本文学22 小説・戯曲II』[[明治書院]]、1980年9月に原題「中島敦」として収録)。{{Harvnb|鷺|1990|pp=72-77}}</ref><ref name="sakka-sagi"/>(''節「[[#概括|概括]]」も参照'')。
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| 3 || もりへいってみよう! || 10月24日
さらに[[1940年]](昭和15年)には[[アッシリア]]や古代[[エジプト]]の歴史を勉強し[[プラトン]]のほぼ全著作を読んでいた<ref name="nenpu-s"/>。その後、直接的な私小説の形式から、作品舞台を遠い過去の時代に設定し、自身のテーマを客観視する手法を確立する「[[文字禍]]」「狐憑」「木乃伊」「[[山月記]]」の「古潭」4篇が1940年(昭和15年)4月までに執筆されていく<ref name="nenpu-chi"/><ref name="kaidai1"/><ref name="chihei1-2"/><ref name="sakka-sagi"/>。
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| 4 || かみかざりはどこに!? || 10月31日
しかし[[1939年]](昭和14年)ごろから発作が激しくなっていた[[喘息]]の悪化で教師を続けることが困難となり<ref name="sho84">「書簡I――84 中島田人宛 昭和16年2月26日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=380-382}})</ref><ref name="sho85">「書簡I――85 中島田人宛 昭和16年3月4日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=382-385}})</ref><ref name="sho86">「書簡I――86 氷上英廣宛 昭和16年4月1日」({{Harvnb|ちくま2|1993|p=385}})</ref>、1940年(昭和15年)暮れごろから週1、2回の勤務となっていたため、[[1941年]](昭和16年)3月末をもって休職となった<ref name="nenpu-s"/><ref name="sakka-sagi"/>。
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| 5 || でっかいプレゼント || 11月7日
冬になると発作がひどくなる敦は釘本久春の勧めもあり、「役人になるのは、少しいや」だったが身体にいいだろうという思いと「生活のため」もあり、常夏の南洋に移ることを決めた<ref>「書簡I――90 田中西二郎宛 昭和16年5月31日」({{Harvnb|ちくま2|1993|p=386}})</ref><ref>「書簡I――92 氷上英廣宛 昭和16年6月4日」({{Harvnb|ちくま2|1993|p=387}})</ref><ref>「書簡I――94 深田久弥宛(名刺に書置き) 昭和16年6月?日」({{Harvnb|ちくま2|1993|p=388}})</ref>{{Sfn|森田|1995|p=85}}<ref name="wata">「南洋行」({{Harvnb|渡邊|2005|pp=138-155}})</ref>。この頃、「僕の[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]にする意気込」で、[[孫悟空]]や[[猪八戒]]の登場する作品「[[わが西遊記|悟浄出世]]」の執筆を始めていた<ref name="sho88">「書簡I――88 田中西二郎宛 昭和16年5月8日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=385-386}})</ref>。
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{{Quotation|世界が[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]を知らなかったとしたら、それは世界の不幸であって、スピノザの不幸ではない、という考え方は痩我慢だと思いますか? とにかく、僕は、そんな積りでもって、西遊記(孫悟空や八戒の出てくる)を書いています、僕のファウストにする意気込なり。|中島敦「田中西二郎宛の葉書」(昭和16年5月8日)<ref name="sho88"/>}}
| 6 || はっぱさん おちないで! || 11月14日
 
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釘本の斡旋で[[南洋庁]]の国語編修書記の就職が正式に決まった敦は、1941年(昭和16年)6月28日に[[横浜港]]から[[パラオ]]に出発するが{{R|日本近代文学館1977|nenpu-chi}}<ref name="sakka-sagi"/>、父への置手紙には、少し気が進まないといった内容も書き残していた<ref name="sho99">「書簡I――99 中島田人宛 昭和16年6月28日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=389-392}})</ref><ref name="wata"/>。
| 7 || かみかざりはどこに!? || 11月21日
 
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=== パラオ南洋庁時代 ===
| 8 || オバケがでたぞう! || 11月28日
[[画像:Koror in the Japanese Period.JPG|thumb|日本統治時代のパラオ]]
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中島敦は転地療養を兼ねてパラオ・コロール町([[コロール島]]の[[コロール (都市)|コロール]])の南洋庁の編修書記に任じられ、現地の教科書作成業務に携わりながら「[[環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―]]」や「南島譚」の題材を得るが、7月末から9月初めころまで[[アメーバ赤痢]]や[[デング熱]]にもみまわれ、下痢や高熱、身体中痒くなるなど、執筆活動や勤務が難しい状態にあった<ref>「書簡I――124 川口直江宛 昭和16年8月25日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=406-407}})</ref><ref name="sho127">「書簡I――127 中島たか宛 昭和16年9月2日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=410-416}})</ref><ref name="chukai">[[飯倉照平]]「註――環礁」({{Harvnb|山月記|1994|pp=387-394}})</ref>{{R|annai|nenpu-chi}}<ref name="sakka-sagi"/>。
| 9 || てぃーなのあかちゃん || 12月5日
 
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南洋庁では職員らとそりが合わず孤立したものの、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]彫刻科出身の[[土方久功]]や熱帯生物研究所の若い学者ら(大平辰秋など)、竹内虎三というヤルート支庁の役人とは親しかった<ref name="sho145">「書簡I――145 中島たか宛 昭和16年10月1日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=439-444}})</ref>{{Sfn|岡谷|2009|pp=25-29}}<ref name="keiko">土方敬子「土方に聞いた敦チャンのこと」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=231-232}})</ref>。敦のことを「トンちゃん」と呼んでいた土方は<ref name="keiko"/>、自身の旅行日記や、それを素材とする「南方離島記」の草稿を敦に見せたり、南洋群島を一周する出張旅行にも同行したりした<ref name="shim">{{Harvnb|清水|2017}}</ref><ref name="sakka-sagi"/>。
| 10 || たからのちずでだいぼうけん!! || 12月12日
 
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パラオに出発する前、[[深田久弥]]に「古譚」や「ツシタラの死」などいくつかの原稿を出発前に託していた敦は{{Sfn|村山|2002|pp=123-124}}<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>、深田が自分の作品を推薦して文芸誌に掲載してくれることを期待し、各島への出張のときは父と妻に細々とした日程を手紙に書き送っていたが、深田からはいっこうに何の連絡もなく、家族から送付してもらった文芸誌にも自分の作品が載る気配はなく失望していた{{Sfn|森田|1995|pp=112-116}}。
| 11 || サンタクロースにあいたい || 12月19日
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| 12 || としわすれ!!セサミうたがっせん || 12月26日
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| 13 || エルモのゆうびんやさん! || '''2005年'''<br/>1月9日
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| 14 || ゆきのまほう!? || 1月16日
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| 15 || セイデンキってなあに? || 1月23日
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| 16 || エルモのおおまちがい || 1月30日
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| 17 || エルモのたんじょうび || 2月6日
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| 18 || ナゾのななつどうぐ || 2月13日
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| 19 || ダンス・ダンス・ダンス || 2月20日
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| 20 || はるをさがせ! || 2月27日
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| 21 || ハーモニカの少年 || 3月6日
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| 22 || しろいタンポポ || 3月13日
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| 23 || みんなでエルモダンス! || 3月20日
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| 24 || しんたいそうにちょうせん! || 3月27日
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| 25 || みんなで歌おう! || class="episode-table-color"| 4月3日
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| 26 || おともだちになろう || class="episode-table-color"| 4月10日
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| 27 || セサミのもりの大きな木 || class="episode-table-color"| 4月17日
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| 28 || モジャボにライバル出現 || class="episode-table-color"| 4月24日
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| 29 || ビッグバードとTシャツ || class="episode-table-color"| 5月1日
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| 30 || お兄さんの大ピンチ! || class="episode-table-color"| 5月8日
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| 31 || セサミ運動会! || class="episode-table-color"| 5月15日
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| 32 || 宝の地図み~つけた! || class="episode-table-color"| 5月22日
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!colspan="3"| 第33話から第54話までのタイトルは不明
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| 55 || ありがとうエルモより || 10月30日
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!colspan="3"| 第56話から第57話までのタイトルは不明
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| 58 || アーサー自慢の絵 || 11月20日
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| 59 || こちらセサミ放送局 || 11月27日
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!colspan="3"| 第60話から第68話までのタイトルは不明
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| 69 || かわいそうな手袋 || '''2006年'''<br/>2月12日
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| 70 || 順番守ろうよ! || 2月19日
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!colspan="3"| 第71話および第72話のタイトルは不明
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| 73 || くるまをつくろう! || ?
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| 74 || おいしいお花? || ?
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| 75? || うれしいプレゼント || 3月19日
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!colspan="3"| 第76話から第84話までのタイトルは不明
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| 85 || 雨に踊れば… || ?
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| 86 || 紙ひこうきを作ろう || ?
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| 87 || ストリート忍者参上! || ?
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!colspan="3"| 第88話から第148話までのタイトルは不明
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| 149 || エルモとしょうぼうし || 2007年<br/>9月2日
|-
| 150 || エルモとペンギン || 9月9日
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| 151 || いろいろな家族 || 9月16日
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| 152 || エルモとむし大集合 || 9月23日
|-
| 153 || はやいおそい || 9月30日
|}
 
=== 日本版制作にあたって ===
そのため、パラオ滞在末期の11月9日には、妻タカに向け、「オレが死んだら」、深田に預けた原稿をほかの原稿と一緒にしまっておき、桓(長男)が成人して文学を愛好するようなら渡してほしい、という主旨の手紙をしたためることになる<ref name="sho153">「書簡I――153 中島たか宛 昭和16年11月9日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=468-474}})</ref>{{Sfn|森田|1995|pp=112-116}}。一方、深田は敦が旅立ってから半年後になってから、ようやく中島の原稿に目を通し、その内容に「歎息に似た感歎の声」をもらした{{sfn|森田|1995|pp=121-122}}。託された4篇からなる「古譚」の原稿を深田は『[[文學界]]』に推薦し、その中から編集者の[[河上徹太郎]]が2篇(「[[山月記]]」「[[文字禍]]」)の掲載を決めた<ref name="sakka-sagi"/>。
日本版の制作にあたっては、「セサミストリートアドバイザーボード」が組織され、日本の子どもたちの直面する諸問題をリアルタイムに把握し、番組のカリキュラム作りに反映している。アドバイザーには、[[放送大学]]教授永野重史、国際幼児教育学会会長で[[筑波大学]]名誉教授の松原達哉、[[文部科学省]]幹部でデザイナーの[[季里|松浦季里]]、[[筑波大学附属小学校]]元副校長の清水尭などが名を連ねた。
 
=== 放送事故 ===
喘息快癒を期待してパラオに赴任した敦だったが、雨の多いパラオではかえって喘息がひどくなった<ref name="sho171">「書簡I――171 中島たか宛 昭和17年1月9日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=495-497}})</ref>{{Sfn|森田|1995|p=103}}。また、現地の島民たちに十分な住居と食べ物を与えることが次第にできなくなりつつある時勢の中、新しい教科書ばかり作ることの無意味さが判った敦は、自然と共存しながら暮らしている島民を慮って、「なまじつか教育をほどこすことが土人達を不幸にするかも知れない」と感じ教科書編纂の仕事にも熱意をなくしていった<ref name="sho153"/><ref name="sho164">「書簡I――164 中島たか宛 昭和16年12月2日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=488-491}})</ref>{{sfn|森田|1995|pp=109-112}}。
2006年3月19日放送分にて、数字を英語で教えるアニメーションコーナーで一つの数字につき1秒間に12回の光の点滅(通称「[[パカパカ]]」)を使い、『アニメーション等の映像手法に関するガイドライン』の「光の点滅は1秒間に3回を超えて使用してはならない」との規定に抵触していたことが発覚した。
 
当時の報道によると、同番組を視聴して体調不良になった視聴者は出ていないとのことだったが、テレビ東京は同番組を録画したビデオ・DVDの視聴を避けるようにと注意を呼びかけた<ref>{{cite web|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/kaisha/pdf/1198162582.pdf|format=PDF|title=「アニメーション等の映像手法に関するガイドライン」逸脱について|publisher=テレビ東京|date=2006-03-22|accessdate=2024-12-16}}</ref><ref group="注釈">なお、テレビ東京系のアニメーションで光の点滅が問題になった前例であり、『アニメーション等の映像手法に関するガイドライン』の策定の原因となった事件に[[ポケモンショック]]がある。</ref>。
日本でしか味わえないもの(天ぷら、そば、四季折々の食べ物)がパラオでは食べられないわびしさや、妻や2人の子供(桓と格)が恋しいこともあったが<ref>「書簡I――128 川口直江宛 昭和16年9月13日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=416-417}})</ref><ref name="sho146">「書簡I――146 中島たか宛 昭和16年10月5日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=444-446}})</ref><ref name="sho137">「書簡I――137 中島たか宛 昭和16年9月21日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=427-430}})</ref><ref name="sho171"/>、何よりも、文化人・教養人にとっては「精神的には完全な島流し」のような生活が耐えがたく<ref name="sho164"/>{{Sfn|森田|1995|pp=104-105}}、あまりに息苦しい暑さで頭の働きが鈍くなり小説が書けず、「身体も頭脳も駄目になって了う」熱帯の地には長く居られないことも帰国したい大きな理由の一つであった<ref name="sho153"/><ref name="sho152">「書簡I――152 中島田人宛 昭和16年11月6日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=466-467}})</ref><ref name="sho164"/>{{Sfn|森田|1995|pp=104-105}}。
 
=== CSテレビ局での放送(テレビ東京版) ===
そのため敦は12月31日、心臓性喘息のため激務に適さないと記して東京出張所勤務を希望することを課長に申し出て<ref name="nenpu-chi"/>{{sfn|森田|1995|p=115}}、翌年[[1942年]](昭和17年)3月4日、土方久功とともに東京に向かう船に乗った<ref name="nenpu-chi"/>{{sfn|森田|1995|p=120}}。
当番組の中のひとつのコーナーだった『[[エルモズワールド]]』は後に単独番組となり、[[アニマックス]](2004年11月1日からアニメっこMAXで放送<ref>スカイパーフェクTV!ガイド 2004年11月号 100頁(ANIMATION PROGRAM NAVIGATION(アニメ番組紹介項目の左側)、発行元:東京ニュース通信社)</ref>)や[[ディズニーチャンネル]]で放送された。『エルモズワールド』とは、日本でも人気の高い、赤いふさふさの毛と大きな目が特徴のエルモが、毎回決めたテーマに沿って、靴の履き方や手の洗い方、歯の磨き方など、身近なものについて、テレビの前の子どもたちと一緒に楽しみながら学んでいく、知育性豊かな番組である。
 
=== 帰京後、没後U-NEXTでの配信 ===
セサミワークショップと[[U-NEXT]]が日本国内の独占配信契約を締結したことに伴い、2021年11月12日午後12時からセサミストリートを含む25作品の全214話のテレビ番組と読み聞かせ動画と10冊分の電子書籍を独自配信を始めた<ref name="U-NEXT">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2213381/full/|title=U-NEXT、『セサミストリート』の日本独占配信契約締結 パートナーシップに基づき共同制作も予定|website=oricon|date=2021-11-11|accessdate=2021-11-14}}</ref>。
帰国の約1か月前、1942年(昭和17年)2月号の『[[文學界]]』に、「[[山月記]]」と「[[文字禍]]」が「古譚」と題して掲載され、「日本の[[アナトール・フランス]]」「[[芥川龍之介]]の再来」などと言われていた<ref name="sakka-sagi"/>{{Sfn|勝又|2004|pp=71-72}}。[[深田久弥]]は掲載を知らせる手紙を送ったが、同年3月17日にパラオより帰国した敦が『文學界』掲載のことを知ったのは、東京に戻ったあとであった{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=41}}<ref name="nenpu-chi"/>。
今後は追加エピソードも配信するほか、共同制作にも取り組み、コンセプト・世界観を拡大し、子ども等の可能性を広げ様々な取り組みにおいてパートナーシップを築き上げ、『学べるU-NEXT』を開始させキッズジャンルを強化するという<ref name="U-NEXT"/>。なお、シーズン50から日本語吹き替え版とオリジナル英語版が配信されており、声優やスタッフはYouTube版と同じ<ref name="U-NEXT"/>。
 
日本語版スタッフ・キャストのクレジットは映像からは無く、U-NEXTの作品ページで表記される。
深田は、自分が原稿に目を通す時期が半年遅れたために「俊英な才能が文壇に芽を出す時期を私がおくらせたとも言える」と自責の念にかられた{{sfn|森田|1995|pp=121-122}}。一高・帝大時代と敦のことを知っていた同学校出身者の[[中村光夫]]は「山月記」と「文字禍」を目にし、多くの友人達が学生時代の青春の夢をなくした中で「ひとり黙々と十年の間執拗に昔のままの清純さで文学の夢を育んで来た」敦の心情に思いを馳せつつ励ますような作品評を書いた{{sfn|森田|1995|pp=123}}。
 
=== 日本語版スタッフ ===
帰国後の敦は[[気管支喘息|喘息]]と[[気管支炎|気管支カタル]]で、父親と妻子の住む[[世田谷]]の家で療養することとなった<ref name="sho179">「書簡I――179 小宮山静宛 昭和17年5月22日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=509-510}})</ref>{{Sfn|森田|1995|p=122}}。当時の世田谷は周囲に田畑が広がり、冷たいおろし風が吹く喘息持ちにはよくない土地で、敦は住み慣れた横浜への転居を希望したが実現しなかった<ref>「書簡I――182 鈴木美江子宛 昭和17年7月3日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=511-512}})</ref>{{sfn|森田|1995|pp=129-131}}。
* 翻訳:いずみつかさ
* 演出:[[平野智子]]<ref>{{cite twitter|number=1459258973576581121|title=平野智子 公式Twitter|user=chiko_mypace|accessdate=2021-11-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211112203737/https://twitter.com/chiko_mypace/status/1459258973576581121 |archivedate=2021-11-12}}</ref>
* 録音制作:[[スタジオ・エコー]]
* その他のスタッフ:長岡学
 
== ビデオ・DVD ==
続いて、[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン|R.L.スティーブンソン]]を主人公にした長編「ツシタラの死」が編集者の要請で「[[光と風と夢]]――五河荘日記抄」と題名変更し短縮した上で『文學界』5月号に発表されると、昭和17年度上半期の[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となった<ref name="sakka-sagi"/>{{Sfn|勝又|2004|pp=71-72}}。同作品は[[石塚友二]]([[横光利一]]の弟子)の「松風」とともに最後まで選考で争ったが、[[室生犀星]]と[[川端康成]]の2人の選考委員が高く評価したのみで、ほかの選考委員の[[宇野浩二]]などからの支持が得られず落選した(石塚の作品も)<ref name="akuta">「川端康成の爆発」({{Harvnb|鵜飼|2015|pp=149-157}})</ref>{{Sfn|勝又|2004|pp=71-72}}<ref name="sakka-sagi"/>。
=== アメリカ版 ===
 
発売当初は字幕版がプレイブック付属で発売されていたが、「ザ・ベスト・オブ・エルモ」からは吹き替え版が導入された。2009年6月に「クックブック」と「ビジッツ・ドクター」を発売して以降は吹き替え版が作られていない。
とはいえ「光と風と夢」の掲載後すぐに、[[筑摩書房]]、[[中央公論社]]、今日の問題社の3社から中島の作品集を出版したいという申し出があった<ref name="kaidai2"/>。5月、小康状態になった敦の元へ、筑摩書房の[[古田晁]]、中央公論社の[[杉森久英]]の訪問があり、作品集の出版が決まった(中央公論社には第三創作集(「[[弟子 (小説)|弟子]]」を含む予定で)の約束をする)<ref name="sugimori">杉森久英「中島さんに会った時のこと」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=229-231}})</ref>{{sfn|森田|1995|p=128}}<ref name="nenpu-chi"/><ref name="kaidai2"/>。7月15日に第一創作集『光と風と夢』が出版され、その印税で妻子に着物や帯留めなどを買って、妻の郷里を訪ねた<ref name="nenpu-chi"/><ref name="taka"/>。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
 
作家として立つことを決意した敦は、8月に南洋庁に辞表を提出し(9月に正式辞令が下り)、専業作家生活に入った<ref name="nenpu-chi"/><ref name="mondai">{{Harvnb|橋本|2006}}</ref><ref name="sakka-sagi"/>。10月末ころまでには「李陵」の原稿(題名は決っていない)を書き上げた<ref name="sakka-sagi"/>。
 
11月には、パラオを題材にした作品などを含む第二創作集『南島譚』が出版されるも、同月に持病の[[気管支喘息]]悪化と服薬の影響で心臓もかなり衰弱し、世田谷の岡田医院に入院し{{sfn|森田|1995|p=134}}{{Sfn|村山|2002|pp=128-139}}、12月4日の午前6時に同院で死去した{{R|nenpu-s|nenpu-chi}}<ref name="sakka-sagi"/>。33歳没<ref name="sakka-sagi"/>{{R|磯田ほか編1988|大塚2015}}。専業作家となってからわずか3ヶ月であった。
 
涙をためながら「書きたい、書きたい」「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい」と言ったのが最期の言葉だったと伝えられている{{Sfn|勝又|2004|p=74}}{{Sfn|村山|2002|pp=128-139}}<ref name="sakka-sagi"/>。12月4日は奇しくもスティーヴンソンが[[サモア]]に埋葬された日であったという{{sfn|森田|1995|p=136}}。中島家は神道であったため<ref name="anino"/>、6日の午後2時から神式の葬儀が行われ、[[多摩墓地]]に埋葬された<ref name="nenpu-chi"/>。なお、敦は亡くなる前に戸籍を祖父の郷里の埼玉県久喜市に移していた<ref name="jikan1"/>。
 
未発表であった「[[名人伝]]」「弟子」などの作品は遺作として没後に発表され、「[[李陵 (小説)|李陵]]」は1943年(昭和18年)7月号の『文學界』に掲載された<ref name="nenpu-s"/>。敦の死の後、夫人から手渡された題名の定まっていない遺作原稿(「李陵」)を読了した時、深田は「あたりがシーンとしたくらい感動」したという{{sfn|森田|1995|pp=136-137}}。
 
死後に出版された全3巻の『中島敦全集』は[[1948年]](昭和23年)10月から[[1949年]](昭和24年)6月にかけて[[筑摩書房]]から刊行され、[[毎日出版文化賞]]を受賞した{{Sfn|川村|2009a|p=341}}{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}<ref name="nenpu-chi"/>。
 
== 人物 ==
=== 人柄 ===
中島敦は、[[横浜学園高等学校|横浜高等女学校]]に赴任し1年4組(66人)の担任となり、以後、同級を4年まで受け持ったが<ref name="nenpu-chi"/>、横浜高女教員時代の敦は「[[ラムネ (清涼飲料)|ラムネ]]の[[瓶]]」で作ったような厚い眼鏡をかけ、長髪を[[七三分け]]にしていた{{sfn|森田|1995|pp=67-68}}。七の前髪が眼鏡の前に垂れてくると頭を振って髪を跳ね上げるのが独特の仕草だった{{sfn|森田|1995|pp=67-68}}。教員時代は髪の毛は長めで、持病のため喉にタオルや包帯を巻いていたという<ref name="sadanaga">定永静「優しかった先生」({{Harvnb|田鍋|1989|p=220}})</ref><ref name="kaneko">金子いく子「担任だった中島敦先生」({{Harvnb|田鍋|1989|p=221}})</ref>。
 
小柄で細身だったが明朗快活で、職員室でもよく通る大きな声で話し、内容も当意即妙でウィットがあった{{sfn|森田|1995|pp=67-68}}{{Sfn|村山|2002|pp=107-115}}。なおかつ礼儀正しく律儀で、細かい気遣いもできる人物だったという{{sfn|森田|1995|pp=67-68}}。よく響く笑い声は少し気障っぽく歌舞伎役者のように「ワッハッハ」という笑い方だったという{{sfn|森田|1995|pp=67-68}}。同僚から「トンちゃん」という愛称で呼ばれていた{{Sfn|村山|2002|pp=107-115}}。
 
作文の評点は厳しかったが授業は楽しいと、生徒たちからも人気があった{{sfn|森田|1995|pp=67-68}}。歌舞伎では贔屓の[[市村羽左衛門]]や[[市川左団次]]の台詞まわしを歯切れのよい巻舌で真似て、舞台の臨場感を出しながら『[[修禅寺物語]]』などを朗読していたという<ref name="fujinami">藤波登志子「雑誌部顧問だった先生」({{Harvnb|田鍋|1989|p=219}})</ref>。[[芥川龍之介]]のほとんどの作品、[[夏目漱石]]や[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]も朗読し、その爽やかな声にみな聞き惚れていたという<ref name="kaneko"/>。中島の授業の際にはファンの女性徒たちが常に教卓に中島の好きな真紅のバラの花を飾っていたという<ref name="kaneko"/>{{Sfn|勝又|2004|pp=30-31}}。
 
中島の文筆活動を助けて「虎狩」「斗南先生」「山月記」など清書していた雑誌部員の生徒もいて、[[オルダス・ハクスリー]]の翻訳の原稿清書なども、その鈴木美江子という親しい教え子に依頼していた(鈴木美江子は結婚後、飯島姓となった)<ref name="iijima">飯島美江子「清書を手伝ったことなど」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=222-224}})</ref><ref name="nenpu-chi"/>{{Sfn|村山|2002|p=117}}。第一創作集『[[光と風と夢]]』が出版された1942年(昭和17年)7月には病身ながらも、初担任した4組卒業生らのクラス会(横浜[[伊勢佐木町]]の森永パーラーにて)に出席し、終始にこやかに南洋の話などをしていたという<ref name="soiri">鼠入陽子「思い出すこと」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=232-233}})</ref><ref name="nenpu-chi"/>。
 
中島の教師時代の同僚によると、中島のアパートには生徒の姉だと行っていた人たちがよく訪ねて来たり、中島と一緒に外出したりしていたという<ref name="yasu"/>。[[川村湊]]は、中島と関係のある女学生がいたのではないかと推測している{{Sfn|川村|2009b|p=9-10}}。京城中学時代や結婚前にも、敦が京城の財閥令嬢や、従妹・褧子、従姪・長根翠、その他の女性と親しく交際していたことも、褧子本人や妻タカ、友人らの証言から垣間見られる<ref name="fukuda"/><ref name="taka"/><ref name="ayako"/><ref name="anino"/>。
 
中島の文学には、多くの近代作家がしばしば描く恋愛や男女関係をテーマにした作品が皆無であるが、中島自身の実生活では複数の女性との付き合いが結構あり<ref name="kukan6">勝又浩「中島文学と女性」({{Harvnb|クロノ|1992|pp=110-118}})</ref><ref name="shima1-9-11">「繰り返される転校と、成長する虎」「一高生から帝大生へ」「中島敦の二つの顔」({{Harvnb|島内|2009|pp=28-39}})</ref>、深田久弥の妻・北畠八穂は直接敦にそうした女性関係について忠告したことがあるという<ref name="kitaba">北畠八穂「土曜日の先生のこと」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=224-225}})</ref><ref name="shima1-9-11"/>。[[島内景二]]によれば、教師を辞めてパラオに行った理由の中には、女性関係のもつれを整理することも入っていたとのではないかという推察もあり<ref name="shima1-9-11"/>、友人の氷上英廣によると、パラオから帰国した年(中島敦が亡くなる年)には女性問題が解決したとされる<ref name="hide"/>。
 
妻タカによると、敦は非常に時間に厳しく、少しでも遅れると叱られたという<ref name="taka"/>。食べ物は西瓜やキュウリが苦手で、柿が好物だったとされる<ref name="taka"/>。子供の頃の思い出として、継母カツから十分なおやつをもらえず、キャラメル1粒だけだったことや、郡山時代に厳しい折檻を受けたことを妻タカに語りつつ、「どんなにひどい親でも実の母が欲しい」と言ったという<ref name="taka"/>{{Sfn|村山|2002|pp=96-107}}。そうした思い出話を南洋から妻に出した手紙は、女々しいものとして中島自身が死の4か月前の8月に整理し、その他のノート類や褧子などからもらった手紙類と一緒に焼却してしまったという<ref name="taka"/>。
 
自身の身体が丈夫でなかったからか、2人の子供たちの健康を祈り、「頭なんか、ニブイ方がいい。ただ丈夫でスナオな人間になってくれ」という願いを持っていた<ref name="sho146"/>。また一方で、普通の役人や会社員で終る人間ならそれはそれでいいが、もし学問や芸術を求道する人間だった場合には「たとへ餓死しようとも、自分の志す道から外れて、よその道に入るやうなことは、させ度くない」として、南洋の役人になった自身が味わったような情けない思いはさせたくないと考えていた<ref name="sho153"/>
 
=== 趣味 ===
多趣味であり、教員時代には旅行・山登り・音楽鑑賞・園芸・[[ラテン語]]の学習などさまざまなことを行っていた{{Sfn|勝又|2004|pp=30-31}}<ref name="nenpu-chi"/>。[[シモン・ゴールドベルク]]や[[ジャック・ティボー]]などのさまざまな演奏会を聴きに行っており<ref name="nenpu-chi"/>、[[気管支喘息|喘息]]の発作が酷くなってきた1939年(昭和14年)ごろからは[[天文学]]にも親しみ、[[相撲]]にも興味を持って[[星取表]]を作るなどしていた<ref name="nenpu-s"/><ref name="nenpu-chi"/>。
 
旅行では1936年(昭和11年)には[[小笠原諸島|小笠原]]や中国([[上海]]、[[杭州]]、[[蘇州]]など)のほかにも、伯父・[[中島竦]](玉振)のお供で、[[地獄谷]]{{要曖昧さ回避|date=2023年8月}}や[[志賀高原]]にも旅している<ref name="nenpu-chi"/>。学生時代には、浅草レビュー小屋の踊り子らを組織して[[台湾]]興行を計画したという話も伝えられ<ref name="sakka-sagi"/>{{Sfn|勝又|2004|pp=10-11}}、行動的な一面も垣間見られる{{Sfn|勝又|2004|pp=30-31}}。
 
== 作風 ==
=== 概括 ===
中島文学の作風には、幼児期における生母との別れ、2人の継母との不仲や死別、幼い異母弟妹らの夭折、父親の転勤に伴う度重なる転校などの多感な時期の複雑な家庭環境や転地がもたらした故郷喪失感、少年期に植民地朝鮮で感得した不条理な人間関係、青年期に発症した喘息の持病、中島の才能を最も愛した伯父・中島斗南との死別や生まれたばかりの長女の死、宿痾からくる自身の短命の予感、漢学者の家系、といった様々な要素が絡み合い複雑な影響を与えている<ref name="sagi-I"/><ref name="sakka-sagi"/>。
 
こうした諸要素によってもたらされた屈折した精神構造をもつ中島の作品世界における人間認識の深さ、運命との対決の主題などの特質は、人生経験を積むごとにとぎすまされ、試行錯誤を経た後期の作品では、実在の人物や中国古典の客観世界を借用することで自己の主題を客観的形象化するという作品造型の手法に発展していった<ref name="sagi-I"/><ref name="sakka-sagi"/>。
 
日本近代文学研究家の[[鷺只雄]]は、そうした経緯をもつ中島文学の特色を、「作品はいずれも自我や人間存在の不条理を追究し、殊に中国古代やオリエント・南洋等、根源的・始原的状況において生のありようを追究するところ」にあるとし、「文体は古典的な格調をもち、その文学は今日現実的な課題を豊かにはらんでいる」と概括している<ref name="sagi-I"/>。
 
=== 中国古典からの影響 ===
[[画像:Half Portraits of the Great Sage and Virtuous Men of Old - Zhong You Zilu (仲由 子路).jpg|thumb|孔子の弟子の[[子路|仲由子路]]。中島敦の『[[弟子 (小説)|弟子]]』は、子路と孔子の関係性を描いた作品{{Sfn|勝又|2004|pp=172-176}}。]]
中島敦は[[漢文]]古典に対する素養が深く、漢文的な硬質な文体を特徴とするとともに、中国古典を下敷きとして自らの小説を創作した作家であるというのが第一の側面としてある{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}<ref name="higami"/>。そのため、同じように古典を素材にして小説を書いた[[森鷗外]]・[[芥川龍之介]]の流れを汲んでいる知識人・文人的な作家と一般的にはとらえられている面がある{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}。
 
しかしながら、中島と芥川の違いとしては、中島には芥川のような[[シニシズム]]で脚色する傾向はなく、たとえば『[[弟子 (小説)|弟子]]』では子路の人物や性行を愛して描き出している点にある<ref name="senuma"/>。なお、この子路の純粋な没利害性や、己の信念に準じた性格のモデルは、伯父の中島斗南だということがしばしば指摘されている<ref name="reirei">{{Harvnb|郭玲玲|2015}}</ref>。
 
中国古典を下敷きにした『[[山月記]]』『弟子』『[[李陵 (小説)|李陵]]』などは中島敦の作品の代表的なものとして認知度が高く{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}、その中でも、『李陵』が中島文学の中のもっとも優れた作品であると評価される傾向がある{{Sfn|勝又|2004|pp=153-154}}{{Sfn|吉田|1984|pp=155-156}}<ref name="higami"/>。こうした素直に漢文の教養を活かした創作にいたるまでは、反発や試行錯誤があり<ref name="higami"/>、古典を踏まえて作品を作るという手法が取り入れられ、またその文体が成立したのは『古譚』4篇からとみられる<ref name="sagi-I"/>{{Sfn|小沢|2009|p=140}}。
 
それ以前の未完の長編『北方行』は当時の現代中国を描こうとしたものであり{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}、自己検証をテーマにした[[私小説]]としての性格を持ったものだった{{Sfn|勝又|2009|pp=40-43}}<ref name="kaidai1"/><ref name="kaidai3"/>。『北方行』の執筆を断念し、その草稿をほかの作品に転用した後、中島は直接的な私小説の手法ではなく、遠い過去の時代を舞台にした『古譚』4篇などや<ref name="chihei1-2">「新しき地平1・2」({{Harvnb|渡邊|2005|pp=95-117}})</ref>、『弟子』『李陵』のような、歴史上の人物を通して人間を描く方法をとるようになっていった{{Sfn|勝又|2009|pp=40-43}}。そして、それらの運命的な人物たちに自身の内面性や死を投影させた<ref name="hino"/><ref name="sagi-I"/><ref name="sakka-sagi"/>。
 
東洋の古典だけでなく、中島は[[D・H・ロレンス]]や[[フランツ・カフカ]]、[[オルダス・ハクスリー]]、[[ニーチェ]]などのさまざまな西欧文学や哲学書も愛読し、それらから人間の実存的解釈や審美的感覚の基礎を得ている<ref name="senuma"/>。カフカや[[デイヴィッド・ガーネット]]の作品にみられる変身譚は、『山月記』の題材「[[人虎伝]]」選びの過程に影響を与えたと見られる<ref name="senuma"/>。また、原作「人虎伝」の因果応報とは異なる、芸術家の純粋な内因性を虎への変身の原因とし、芸術家としての自己の心情を投影させた独自の小説として肉付けしている<ref name="senuma"/>。
 
同じく中国古典に材をとった『古俗』の1篇である『[[牛人]]』では、牛のように醜く、得体の知れない不気味な笑みを浮かべるわが子・豎牛に見つめられながら餓死していく政治家・叔孫豹の運命を描き、その牛男の豎牛を「世界のきびしい悪意」として象徴させた作品となっている{{Sfn|武田|2009|pp=86-92}}。[[武田泰淳]]は、この「世界のきびしい悪意」に対する叔孫豹のへりくだった「懼れ(おそれ)」が、中島文学の全作品に底流している暗い色調をなすものとし、『[[光と風と夢]]』や『弟子』『李陵』にまで引きずられているとしている{{Sfn|武田|2009|pp=86-92}}。またこの悪意への「懼れ」が私小説的な『過去帳』2篇(『狼疾記』『かめれおん日記』)での見事な自己告白を可能にし、さらに中島が中国古代史実に吸い寄せられたのもこの「懼れ」だとしている{{Sfn|武田|2009|pp=86-92}}。
 
=== 形而上学的な思索 ===
中国古典を題材にした『山月記』などにも私小説的な面があり、虎に変身する李徴は中島自身の投影だとたびたび指摘されているが{{Sfn|川村|2009b|pp=8-9}}<ref name="senuma"/>、その作風に至る以前の、「三造」という現実の中島本人と同じ設定の主人公が登場する私小説作品群は、自我がテーマになっているものが多く、宇宙の虚無や存在の不確かさの観念にとりつかれて、そこから生まれる[[形而上学]]的不安を対象化し[[哲学]]的懐疑を深める思索が見られる<ref name="senuma"/>{{Sfn|福永|2009|pp=93-101}}。
 
その代表的な『過去帳』の1篇『[[狼疾記]]』では、11歳のころに担任教師からいつかは太陽が冷えて地球が滅亡する運命や、存在の無意味さの話を執拗に聞かされてから、しばらく神経衰弱になってしまい世界の虚無に戸惑った原体験が綴られ、さらにその自我の不安や不確かさを掘り下げた1篇『かめれおん日記』も女学校という社会における教師の「三造」の自己検証がテーマとなっている<ref name="kaidai1"/>{{Sfn|福永|2009|pp=93-101}}。
 
また『狼疾記』には、『北方行』の原稿からの転用・流用が多くある<ref name="kaidai2"/>。未完で放棄された長編『北方行』では、自身を投影させた主人公「黒木三造」と「折毛伝吉」という2人の人物に自己の内面表白をさせ、その描写にかなりの量を費やされてしまっているが<ref name="wata1"/>、それは大きな社会や歴史の中での自己検証であり、当時の戦争や革命運動、民族や国家、言語や文化、芸術や愛・性にまでわたって人間をとらえていこうとした未完の意欲作であったとされる<ref name="kaidai1"/><ref name="kaidai3"/><ref name="wata1"/>。
 
青木純一は、『李陵』を書かせた筆力で、もし『北方行』が完成されていたならば、西欧化した日本人の自意識の地獄を、アジアを背景に摘出した作品という意味で、[[横光利一]]の『[[上海 (小説)|上海]]』に拮抗する唯一の作品になっていた可能性があるとしている{{Sfn|青木|2009|pp=44-49}}。なお、『北方行』の原稿はそのほかにも、『かめれおん日記』『光と風と夢』『山月記』にも部分的に転用されている<ref name="kaidai3"/>。
 
『狼疾記』の線上にある形而上学的・哲学的な思索は、未完の『[[わが西遊記]]』の中の2篇(悟浄出世、悟浄歎異)にも見られ、[[ピュロン]]を思わせる[[懐疑主義|懐疑派]]に設定している主人公の[[沙悟浄]]の懐疑や<ref name="higami"/>、『古譚』の1篇『[[文字禍]]』での、「文字」が意味のない単なる線の交錯に見えてくるという博士の懐疑につながっている<ref name="higami"/>。そしてそうした懐疑から独特のユーモアやアイロニーが発せられているのが、中島の作品の特徴や魅力でもある<ref name="higami"/>{{Sfn|開高|2009|pp=78-80}}。
 
その『わが西遊記』などは、既存の古典作品の設定や登場人物を利用しつつ、私小説の「三造」物の形而上学的・哲学的な自我の不安のテーマを俯瞰的な形で客観視・劇画化したものであるが<ref name="roushi">「狼疾」({{Harvnb|渡邊|2005|pp=55-94}})</ref><ref name="chihei1-2"/>、こうした試みが中島の小説手法として確立されたのが、作品舞台の時代を遠い過去や歴史に設定した『文字禍』を含む『古譚』4篇からであった<ref name="chihei1-2"/>。
 
=== 植民地への視線 ===
中島敦は朝鮮・満州・南洋と多くの日本の[[外地]]を訪れており、朝鮮や満州での[[植民地]]体験や当時の政情・社会的状況を取り入れた作品が一高時代の習作や未完の『北方行』などに見受けられる{{Sfn|川村|2009b|pp=4-8}}{{Sfn|小谷|2019|pp=9-28}}。中島はイデオロギー的な作家ではなく左翼的志向は見出せないが{{Sfn|森田|1995|pp=39-41}}、朝鮮人が日本人から受ける差別の悲哀や民族の嘆きに目を向けた[[新感覚派]]タッチの習作『[[巡査の居る風景]]』や、[[1927年]](昭和2年)7月の[[大連市|大連]]の3つの対照的な叙景(辞任内定の[[満鉄]]総裁、夏休み中の下級満鉄社員の家族、失業中の中国人労働者・[[苦力]])をオムニバス式に描いた未完の習作『D市七月叙景(一)』がある{{Sfn|川村|2009b|pp=4-8}}<ref name="wata1"/>。
 
それらには冷静な目で現実をとらえようとする態度がみられ{{Sfn|森田|1995|pp=39-41}}、『D市七月叙景(一)』では、3つの階層の人物像と彼らに内在する存在の不安をそれぞれの植民地生活者のアイデンティティー喪失感として描き出そうとしている<ref name="jikan2">[[田中益三]]「遍歴・異郷」({{Harvnb|クロノ|1992|pp=20-35}})</ref>。朝鮮人自身の矜持の感覚にも触れている私小説的な『虎狩』では、小学校・中学校時代の同級生で[[朝鮮貴族]]の子弟の多面性や複雑な感情を観察して描き出している{{Sfn|小谷|2019|pp=21-24}}。
 
京城中学は、朝鮮人でも地主や上流階級の子弟が通っていた学校であったため、一般的な風俗や習慣を深くは描けなかったとされるものの{{Sfn|川村|2009b|pp=4-8}}、『巡査のいる風景』などはその時代への鋭い問題意識の見られる作品だとされている<ref name="wata1"/>。また、少年時代の植民地での不合理な人間洞察は、「存在の不条理性」という中島の中核的な想念の要因の一つにもなったとみられ<ref name="sakka-sagi"/><ref name="sagi5">「初期の習作――豊饒な可能性 五」(国文学論考 1989年3月・第25号)。{{Harvnb|鷺|1990|pp=63-67}}</ref>、その点で同じく多感な時期に植民地体験のある[[安部公房]]や[[埴谷雄高]]といった、不条理性を文学テーマとした作家と通底する部分があると鷺只雄はみている<ref name="sakka-sagi"/>。
 
当時の中国を舞台にした『北方行』には「[[張作霖爆殺事件]]」後の中国の政治抗争過程が詳しく綴られており{{Sfn|小谷|2019|pp=13-14}}、そうした同時代の近現代史の政治的事件の忠実を散りばめながら、東西の異文化が交錯する中国情勢を俯瞰し国際関係を描きうる特殊な才能が中島にはあったと[[三浦雅士]]はみている<ref name="wata1"/>。そして、自身の自己表白の吐露ばかりが肥大化し未完のまま放棄された『北方行』は短編『[[狼疾記]]』に転じ、内面自我(狼疾)のテーマに絞られ、それを追究していくことになるが<ref name="wata1"/>、前項でも述べたように『北方行』は大きなテーマを目睹し、当時の戦争や革命運動、民族・国家を取り混ぜつつ複雑な社会や歴史の中での自己や人間群像を描こうとしていたとみられる<ref name="kaidai3"/><ref name="wata1"/>{{Efn|ちなみに、自身の内面自我(狼疾)の主題に集中した『狼疾記』の完成に没頭した以後もなお、中島が『北方行』に戻ることがなかった点に関しては、[[渡邊一民]]は、[[湯浅克衛]]の「カンナニ」が『文学評論』1935年4月号に掲載された際、[[三・一運動|万歳事件]]を扱った部分が[[検閲]]で削除されたという附記を、おそらく中島が読んでいたからではないかと推察し<ref name="wata1"/>、[[川村湊]]は、大きな歴史的な現実と、一種の越境的ファミリーロマンスを結びつけ合わせるだけの力量が中島にはなかったのではないかとしている{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}。}}。
 
中島は非政治的な人間であったともいわれるが<ref name="nobu2-2-11">{{Harvnb|マッカーシー・深山|2009| pp=112-115}}</ref>、[[川村湊]]は、未完の長編『北方行』の草稿や、私記『[[斗南先生]]』の作品内容から、[[列強]](英仏独露)による中国分割の危機に警鐘を鳴らし対岸の火事ではないと唱えていた伯父・[[中島斗南]]や、満州政府にいた叔父・中島比多吉の影響を受け、中島が当時の中国の政治問題に彼ら同様コミットしようとしていたのではないかと指摘している{{Sfn|川村|2009a|pp=109-124}}{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}。また陳愛香は、中島が初期の朝鮮物で描いた日本自身の中の内部批判要素を経て、伯父・斗南の論旨を「正鵠を得ている」とし[[大東亜共栄圏]]の理想(民族共同の共同主義、各民族の独自性を承認する[[多元主義]])に共鳴するまでの軌跡には、近代西欧的な支配主義への批判的思考が貫かれているとしている<ref name="aika">{{Harvnb|陳|2004}}</ref>。
 
同じ植民地でも一見平穏だった南洋の島々の体験からは、『巡査の居る風景』や『北方行』のような現地の歴史的な問題意識を照らし出したものは特に見られず{{Sfn|小谷|2019|pp=205-209}}<ref name="wata"/>、南島の現地人の分かりにくさや異文化に注目したものが主で{{Sfn|小谷|2019|pp=205-209}}<ref name="jikan4">木村一信「南洋行」({{Harvnb|クロノ|1992|pp=47-57}})</ref>、不可解な存在をあるがままに受け入れ、強いて解を求めない新たな視座が垣間見られる<ref name="jikan4"/><ref name="annai"/>。また、現地の子供が日の丸を掲げて[[愛国行進曲]]を歌っているさまを微笑ましいものと見て[[皇民化教育|皇民教育]]そのものは否定していないが<ref name="jikan4"/><ref name="fubutsu">「風物抄」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=91-112}})</ref><ref name="aika"/>、滞在時の日記や書簡中には、自然に暮らしている原住民に近代的文明教育を施すことへの疑問などが記され<ref name="sho153"/><ref name="sho164"/><ref name="wata"/><ref name="aika"/>、画一化するのではなく彼らの個性の差異を尊重したい民族協同的な思考が見受けられる<ref name="fubutsu"/><ref name="aika"/>。
 
[[小谷汪之]]によれば、朝鮮人の人間像については複雑・重層的に描写される一方で、南洋の現地人の描写は月並みで表層的なものに留まっているとされる{{Sfn|小谷|2019|pp=205-209}}。その理由について小谷は、朝鮮物については生の体験をそのまま描いたのではなく、帰国後に取り入れた様々な知識の中で経験を文脈づけて成形したものであるのに対し、南洋滞在時の日記・書簡、随想は単にそのときの体験をそのまま書いたものにすぎないという相違があったからだとし{{Sfn|小谷|2019|pp=205-209}}、もしそれらを反芻し発酵させる十分な時間があったなら歴史的な広がりや奥行きのある植民地としての南洋作品が書かれたのではないかと考察している{{Sfn|小谷|2019|pp=205-209}}。
 
なお、中島は南洋滞在後半の12月に日米開戦となった[[太平洋戦争]]については、開戦直後の各所の日本の勝利の知らせには「いよいよ来るべきものが来た」と「我が海軍機」「日本の海軍機」のすばらしさを称えて喜びつつも<ref>「日記――昭和16年12月8日-10日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=298-299}})</ref><ref name="sho166">「書簡I――166 中島たか宛 昭和16年12月14日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=495-497}})</ref>{{Sfn|小谷|2019|p=178}}、それ以前(10月)に視察していた[[トラック諸島]]夏島では現地民が戦争準備のため過酷な労働に従事させられている姿に同情し、「土民」を使いつぶして構わないような「為政者」の方針には否定的な考えを持っていた<ref name="sho152"/>{{Sfn|小谷|2019|p=173-176}}<ref name="wata"/>{{sfn|森田|1995|pp=109-112}}。
 
中島には戦争に対する相反する感情(自国への忠誠心と戦禍による喪失感)が共存していた様子がみられ<ref name="nobu2-2-3">{{Harvnb|マッカーシー・深山|2009| pp=87-89}}</ref>、[[木村一信]]によれば、「中島は、戦争に対しては当時の一般の受けとめ方とほとんど同じようなとらえ方をしていた」にすぎず、反戦も非戦も唱えていなかったとされる<ref name="jidai7">[[花田俊典]]「中島敦の〈語り〉、共謀のシステム」({{Harvnb|クロノ|1992|pp=229-240}})</ref>。異母妹・澄子の回想によれば、敦は真珠湾攻撃などの戦果には喜びつつも、戦争遂行には疑問を持っていた節もあるとされ、妻タカが「戦争遂行への決意らしいこと」を述べた時にそれを「きっぱり否定した」ともされる<ref name="anino">折原澄子「兄のこと」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=225-228}})</ref>{{Sfn|小谷|2019|pp=205-209}}。
 
戦争と文学作品は別のものだという態度を表明していた中島は、文学者の学問や知識による文化啓蒙運動も、文学の戦争協力も、文学の純粋性を損なうものとして否定し<ref name="tako">「章魚の木の下で」(1942年11月執筆){{Harvnb|ちくま3|1993|pp=125-128}}</ref><ref name="jidai7"/><ref name="nobu2-2-11"/>、文学が何らかの「ポスター的実用」(政治的な効用のようなもの)に供すること自体に反対する主義だということを遺作の随筆「章魚の木の下で」で書いている<ref name="tako"/><ref name="nobu2-2-11"/>。こうした中島の非政治的な態度について、オクナ―深山信子は、戦時中に沈黙を守っていた[[谷崎潤一郎]]や[[永井荷風]]にも共通する審美的なものとし<ref name="nobu2-2-11"/>、[[花田俊典]]は、目下の戦争自体は受認し戦う時は兵士として戦うとながらも、文学が便乗文学・御用文学に堕することを批判した[[坂口安吾]]や[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]の態度と共通するものだとしている<ref name="jidai7"/>。
 
別の側面から戦争の影響をみると、[[ミクロネシア]]で触れた太平洋戦争の影は、中島が「運命」と呼んだ「非条理な力を具現化したもの」でもあったため、彼の文学テーマ「人間の生の意味」「我とは何か」が戦争以前の『[[狼疾記]]』などのような形而上的な問いだけではなく、より直接的なリアルなものとして深まる転換点になったとオクナ―深山信子は指摘している<ref name="nobu2-2-7-8">{{Harvnb|マッカーシー・深山|2009|pp=97-102}}</ref><ref name="nobu2-2-11"/>。
 
戦争による「死と破壊」が間近になることで、中島が「一個の人間の生のむなしさ」と、「むなしいにもかかわらずに存在する美」との相互対照を感得したことが、『弟子』『李陵』などの、非条理な運命に対峙した人間の「存在の不確かさを認めざるをえない悲劇的な感覚」が満ちた後期の作品から看取され<ref name="nobu2-2-11"/>、戦争勃発により深まった世界観が、『弟子』『李陵』の登場人物たちのような「自分に与えられた生をいかに生きるか」を問い「自らの生の意義を定めていく」という[[実存主義]]的人間観の作品に生かされることになった<ref name="nobu2-2-7-8"/><ref name="nobu2-2-11"/>。
 
=== 南洋・南方への志向 ===
パラオ南洋庁に赴任した時の見聞や、現地で行動をともにした[[土方久功]]からの伝聞など、ミクロネシア諸島を題材にした『[[環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―]]』や民間伝承から材を得た『南島譚』といった、いわゆる南島物の作品群が生まれたが、それらは未開の土地のさまざまな人や風物を中島独特の感覚と思考で描いたものとなっている<ref name="higami"/>。
 
パラオ行きは友人の[[釘本久春]]からの斡旋という偶然的なもので、出発時前後に逡巡する気持ちもあったが<ref name="wata"/>、中島の蔵書には[[ゴーギャン]]の[[タヒチ]]紀行『ノア・ノア』があり、中島の歌稿「和歌ではない歌」の中にも、「ある時はゴーガンの如逞ましき野生のいのちに触ればやと思ふ」という歌があるため、何らか南島への誘われる意識や原始的なものへの関心があったと[[岡谷公二]]は指摘し、中島が以前に友人の[[田中西二郎]]から[[大久保康雄]]の小説を含む本を送られ、南洋群島を舞台にした大久保の短編(「孤独の海」などの南洋短編と推察)を読んでいた事実にも触れている<ref name="sho145"/>{{Sfn|岡谷|2009|pp=25-29}}。
 
また、『環礁』の中の1篇「真昼」では、昼の静寂の中、旅立つ前の「期待」や「新しい・きびしいものへの翹望」と反する「無為と倦怠」を感じ、自分がヨーロッパ・近代の「蒼ざめた殻」をくっつけた目で風景を見ていることを自問自答しており<ref name="higami"/>、『寂しい島』では子供が5歳の女の子しかいなくなった島で人類滅亡と天体の虚無を想起し、『狼疾記』の宇宙的なテーマが引き継がれている面もみられる<ref name="wata"/>。
 
中島の南方への志向は、パラオ赴任の5年前(1936年)の[[小笠原諸島]]の旅がきっかけで<ref name="higami"/>、旅の後に歌稿の「小笠原紀行」で100首あまりの小笠原の自然風景を綴った歌を詠んでいる<ref name="higami"/>。この「小笠原紀行」で形成された南洋のイメージや原風景、南洋への志向から「ツシタラの死」(『[[光と風と夢]]』)の原稿がパラオ出発前にはでき上がっていた<ref name="higami"/><ref name="kaidai1"/>。中島は「我の意識」への疑問という「狼疾」(自我追及に執着する傾向)に悩まされていたため、「無文字」的な未開の世界への憧れにも似たものが、彼を南方へ向わせたのではないかと見られている<ref name="kawa-hika">川村湊「解説――ツンタラ・アツシの物語」({{Harvnb|光と風・講談|1992|pp=211-222}})</ref>。
 
ミクロネシアの南島物を書く前の『光と風と夢』は、自身と同じく肺病を患っていた[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]を主人公に彼の晩年の[[サモア]]島での暮らしを描いたものである<ref name="sakami"> [[酒見賢一]]「"文学"から自由な作家」({{Harvnb|ちくま3|1993|pp=467-475}}</ref><ref name="chihei3">「新しき地平3」{{Harvnb|渡邊|2005|pp=117-136}}</ref>。中島はスティーヴンソンに自身を投影させ、「小説」が書物の中で最上のものであると言い切り、「何と云はれようとも、俺は俺の行き方を固執して俺の物語を書くだけのことだ」と作家としての強い自負の内面が語られ<ref name="sakami"/><ref name="chihei3"/>、「魅力に富んだ怪奇な物語の構成」と「巧みな話法」を持つ新たな作品への意欲が含意されている<ref name="chihei3"/>。
 
また作中ではサモアを植民地にしている白人たちの西欧式支配構造の横暴や傲岸さも描かれ、スティーヴンソンの理想郷とする新しい生活の目標として、「白人文明を以て一の大なる偏見と見做し、教育なき・力溢るる人々と共に闊歩し、明るい'''風と光と'''の中で…」といった[[ウォルト・ホイットマン]]に関わる句も掲げられているが<ref name="chihei3"/>、「ツシタラの死」から題名を変更するにあたり、この句の中の語と重なる「'''風と光と'''夢」を経てから「光と風と夢」に落ち着いたという{{Sfn|村山|2002|pp=128-131}}。
 
その『光と風と夢』に描かれている西欧近代文明批判的なものには、日本自体の植民地政策に対する批判的なものも含まれているとする[[小森陽一]]の見方もあるが、中島が作中で「理想的な植民地」を夢見ていることも指摘されている<ref name="aika"/><ref name="keen">「23 戦争文学――大東亜戦争の文学(1941~45年)」({{Harvnb|キーン現代5|2012|pp=143-153}})</ref>。[[ドナルド・キーン]]は、中島がスティーヴンソンの口を借りて(スティーヴンソンが言ってもいないことも付加し)、自身の「反白人感情」や「[[大東亜戦争]]の理想」を語らせていることが『光と風と夢』の際立った特徴だとし<ref name="keen"/><ref name="aika"/>、中島の「反西洋感情」は、中島が東洋的な真髄を描いた古代中国を舞台にした作品と一対を成しているとしている<ref name="keen"/>。
 
=== 「母」の不在 ===
中島敦の文学の形成には、幼い時の生母との別れや、2人の継母との良好でなかった母子関係が少なからず影を落とし、中島文学に執拗に現れている「存在の不確かさ」へのこだわりや「己れ」を追求し彷徨する底には、そうした存在基盤としての「母なるもの」(無条件に安心し寄りかかれるもの)の欠如感も関係しているのではないかとされている<ref name="annai"/><ref name="jidai4">[[山下真史]]「中島の〈青春〉」({{Harvnb|クロノ|1992|pp=202-210}})</ref>。
 
形而上学的な不安をテーマにした『狼疾記』の元草稿の『北方行』の方には、「母親を知らぬ少年」「継母」を持つ少年、「僕あ、オフクロを知らないんでね」という記述や、「彼に、ある一つのもの、一つの根元的なものが欠けてゐるのは明らかなんだ」という記述があるが、それを突き詰めようとしないところで中絶してしまっている<ref name="jidai4"/>。また、小説として完成していたにもかかわらず発表しなかった習作『プウルの傍で』でも、自身の投影である悩める三造は生母を知らず、そのことが深く影を落としている作品となっている<ref name="jidai4"/>。
 
山下真史は、それらの習作では、生母を知らないということが、世界に対する不信感を募らせて「存在の不確かさ」の観念を生じさせたことが暗示されながらも、それを十全に告白できないもどかしさの上に成り立っているとしている<ref name="jidai4"/>。そうした、生母のことを真正面から語ることを禁忌として作家的出発をした中島の傾向は、[[芥川龍之介]]が狂気の母を語ることを自ら禁じて作家的出発をしたことと共通するものが見られるとされる<ref name="jidai4"/>。
 
== 評価・影響・受容 ==
=== 評価 ===
死の10か月前、初めて公の文芸雑誌に『[[山月記]]』と『[[文字禍]]』が発表された際には、「[[芥川龍之介]]の再来」という評判もあり<ref name="sakka-sagi"/>、その3か月後に発表された『[[光と風と夢]]』は第15回[[芥川賞]]候補となった<ref name="akuta"/><ref name="wata5-1">「華々しき登場」({{Harvnb|渡邊|2005|pp=157-159}})</ref>。選考は[[室生犀星]]と[[川端康成]]、[[久米正雄]]の好意的評価で、同候補の[[石塚友二]]『松風』次ぐ2番人気となり、ともに最後まで選考に残ったものの、ほかの選考委員([[滝井孝作]]、[[小島政二郎]]、[[宇野浩二]]ら)の低評価により受賞作にはならなかった(この回は受賞作なしであった)<ref name="akuta"/><ref name="wata5-1"/><ref name="sagi-III-ken">「中島敦研究史」({{Harvnb|鷺|1990|pp=350-368}})</ref>。
 
川端康成は中島や石塚が受賞とならなかったことに不満を爆発させ、「前にも賞を休んだ例はあるが、今度ほどそれを遺憾に思ったことはないようである」「右の二篇(『松風』と『光と風と夢』)が芥川賞に価いしないとは、私には信じられない」とコメントを寄せた<ref name="akuta"/><ref name="kaidai1"/>{{sfn|森田|1995|pp=126-128}}。のちに[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]は、「こうした新しい形式の文学を受け入れる地盤が当時の文壇にはまだなかったのだ」と語っている<ref name="kaidai1">勝又浩「解題」({{Harvnb|ちくま1|1993|pp=477-488}})</ref>。
 
中島敦の文学的評価は、[[1942年]](昭和17年)に33歳の短い生涯を終えたあと、遺作の『[[李陵 (小説)|李陵]]』などが掲載されるにつれ高まり、戦後の[[1948年]](昭和23年)に『中島敦全集』全3巻が[[筑摩書房]]から刊行され{{Sfn|川村|2009a|p=341}}<ref name="nenpu-s"/>、翌年1949年(昭和24年)には[[毎日出版文化賞]]を受賞する{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。
 
毎日出版文化賞受賞にあたり、選考委員の[[吉川幸次郎]]・[[桑原武夫]]は、『李陵』や『山月記』の名を挙げつつ、中島の文学について芥川龍之介の亜流であるというこれまでの評価を否定し、その透明性・美しさを高く評価する書評を寄せた{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。プロとしての実質的な専業作家活動は死没する前の1年間にすぎなかったが、中島は「昭和十年代文学の旗手」と評価され、日本文学史上にその名を刻んだ{{Sfn|村山|2002|pp=5-6}}。
 
作家論的には、[[ドナルド・キーン]]が自著の日本文学史の中で、作品数の少ない中島が時代を超えてもなお日本人に高く評価されているのは、その作品の根底に東洋思想の「理想」が潜んでいるからだとし<ref name="keen"/>、中島作品に対する高評価は、日本人の中に「中国の古典に対する郷愁」や、かつて[[日清戦争]]時の明治の日本人が「自分達が古代中国の栄光の真の後継者であると自負していた」時の東洋的理想への郷愁が、根強く現代まで存在し続けていることを示しているとみている<ref name="keen"/>。
 
[[三島由紀夫]]は、中島敦を、[[牧野信一]]、[[梶井基次郎]]とともに、「夜空に尾を引いて没した星のやうに、純粋な、コンパクトな、硬い、個性的独創的な、それ自体十分一ヶの小宇宙を成し得る作品群を残したことで、いつまでも人々の記憶に、鮮烈な残像を留めている」作家と評価し<ref name="sakkaron">「解説 牧野信一」(『日本の文学34 [[内田百閒]]・[[牧野信一]]・[[稲垣足穂]]』中央公論社、1970年6月)。{{Harvnb|作家論|1974|pp=74-77}}、{{Harvnb|三島36巻|2003|pp=169-172}}に所収</ref>、量だけの玉石混淆の膨大な全集を残す作家よりも、中島らのように1・2冊の純粋な全集だけ残して早世した作家の方が幸せに思えるとしている<ref name="sakkaron"/>。
 
研究面では、[[中村光夫]]が初めて中島敦を総合的に論じており、「青春と教養――中島敦について」として雑誌『[[批評 (第二次)|批評]]』(1944年3月・4月合併号)に掲載された{{Sfn|木村|1983|pp=276-279}}<ref name="sagi-III-ken"/>。[[武田泰淳]]「作家の狼疾――中島敦『わが西遊記』を読む」(『中国文学』1948年1月・2月合併号)とあわせて、中島敦研究に大きな影響を与え、研究史上の基本文献であるとされている{{Sfn|木村|1983|pp=276-279}}。
 
=== 社会への影響 ===
戦後まもない頃から[[2020年代]]現在にいたるまで、中島敦の『[[山月記]]』(あるいは、『[[弟子 (小説)|弟子]]』や『[[李陵 (小説)|李陵]]』)は高校の国語教科書の定番教材として受容され続け、「国民文学」ともいえる位置づけとなっている{{Sfn|川村|2009a|pp=7-10}}。
 
初めて中島作品が「小説」教材として教科書に採用されたのは[[1950年]](昭和25年)の『山月記』であるが、抄録という形で、すでに戦後の混乱期の[[国定教科書]]『中等国語』([[漢文]]や[[漢詩]]、中国をテーマにした散文を収集したもので、編纂の中心者は[[石森延男]])において、『弟子』が[[孔子]]に関する補助教材として採用されていた{{Sfn|佐野|2013|p=33-41}}{{Sfn|川村|2009a|pp=10-14}}。この『弟子』の教科書採用が、のちの『山月記』の検定教科書での採用のきっかけのひとつになったとされる{{Sfn|佐野|2013|p=33-41}}{{Sfn|川村|2009a|pp=14-15}}。また、中島敦の大学時代の友人であった[[釘本久春]]が文部省に勤めており、釘本の推薦もあったとされる<ref name="yamashita">{{Harvnb|山下|2018}}</ref>{{Sfn|川村|2009a|pp=10-14}}。
 
前述したように中島没後に全集が[[毎日出版文化賞]]を受賞した{{Sfn|川村|2009a|p=341}}{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。当時の同賞は用紙不足からくる「良書主義」「悪書追放運動」の一環として行われており、この受賞により『中島敦全集』は「良書」の代表として社会に受け入れられることとなった{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。そして、この毎日出版文化賞受賞の影響を受け、翌年の1950年(昭和25年)の検定教科書のひとつに『山月記』が初めて教材として採用されることとなる{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。1951年(昭和26年)には別の2社の教科書も『山月記』を取り入れ、さらに1952年(昭和27年)には[[実教出版]]の教科書が『李陵』の一部を『司馬遷』と題して収録し、『弟子』『李陵』『山月記』の3作品の教科書での掲載数が増加していった{{Sfn|川村|2009a|pp=10-14}}。
 
昭和二十六年度版[[学習指導要領]]では、高校生の読書能力を高めるための「読書指導」の重要性が強調されており、『山月記』はそのための理想的な教材として受け入れられた{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。他方で、中島の作品は旧来の[[儒学]]思想・漢文の保守的な伝統を引き継ぐものであるとも見られていた{{Sfn|川村|2009a|pp=14-16}}。そのため、民主教育の立場に立つ人々や、国語教育の新しいあり方を探ろうとしていた[[柳田国男]]・[[時枝誠記]]などの一部の教科書編者は教科書採用に肯定的ではなかった{{Sfn|川村|2009a|pp=14-16}}。だが[[GHQ]]関係者は、欧米における[[ラテン語]]の位置づけとみなして、漢文の存続には理解があったとされる{{Sfn|川村|2009a|pp=14-16}}。
 
その後も『山月記』は教科書に掲載され続け、高校国語教科書においてもっとも多く採録された作品となり「国民教材」となった{{Sfn|佐野|2013|pp=11-12}}。そして、教育現場では『山月記』を通して生き方を反省するという道徳的な点に指導内容の重きが置かれるようになり、この点が文学研究者たちの批判を招いた{{Sfn|佐野|2013|pp=11-12}}。[[川村湊]]は、このように中島敦作品が教科書に掲載されつづけているのは、中島敦の作品に思い入れのある教師が多く、また教科書を通して中島敦の作品に触れた人々からも支持を受けているからだと述べている{{Sfn|川村|2009b|pp=14-15}}。
 
=== 諸作品への影響===
[[北方謙三]]は『[[三国志]]』や『[[水滸伝]]』などを題材にした小説を書いているが、中島敦の『李陵』からきわめて大きな影響を受けているという{{Sfn|川村|2009b|pp=14-15}}。[[阿刀田高]]は中島敦の作品のうち、特に短編の『[[文字禍]]』と『狐憑』に強い影響を受け、これらの小説を模倣して自身の作品を執筆したと述べている{{Sfn|阿刀田|2000|pp=209-211}}。
 
また、2005年(平成17年)に[[新潮社]]から刊行された[[辻原登]]の『枯葉の中の青い炎』には<ref>[[辻原登]]『枯葉の中の青い炎』 新潮社、2005年、ISBN 4104563021。</ref>、表題作中に「ナカジマ」という南洋庁の役人が登場している{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=72}}。その他、[[森見登美彦]]、[[万城目学]]、[[円城塔]]といった作家が中島敦の作品を意識した小説を書いている{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=72}}。
 
2013年(平成25年)から漫画雑誌「[[ヤングエース]]」で連載されている漫画作品『[[文豪ストレイドッグス]]』には、中島をモデルとした同名のキャラクター「{{仮リンク|文豪ストレイドッグス#登場人物|label=中島敦|en|Atsushi Nakajima (Bungo Stray Dogs)|preserve=1}}」が主人公として登場する{{R|佐柄2016}}{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|pp=74-75}}。作中では、主人公の中島が扱う異能力「月下獣」は『山月記』から着想を得て設定されたものとなっており{{R|佐柄2016}}、また『光と風と夢』から引用した文章を主人公の中島が読み上げるシーンが登場するなど{{R|P+D}}、所々にモデルの中島を想起させる内容が取り入れられている。同作の読者がこれをきっかけとして中島の作品に触れるケースも見られており{{R|加藤2019}}、[[神奈川近代文学館]]では中島の文学世界を受容した作品として紹介されている{{R|アニメージュ2019}}。
 
== 家族・親族 ==
=== 中島家・漢学の系譜 ===
中島家の遠祖は古く[[尾張国|尾張]][[中島郡]]を領した[[中島氏#尾張(中島)|中島氏]]であるとされる<ref name="jikan1"/>。その後は京都に移りやがて江戸に来住してから、代々、[[日本橋区|日本橋]]新乗物町(現在の東京都中央区[[日本橋堀留町]])で[[駕籠]]を製造販売する[[商家]]となった{{Sfn|西原|2004|p=103}}<ref name="jikan1"/>。中島家累代の墓は[[台東区]][[元浅草]]四丁目の光明寺にある<ref name="jikan1"/>。
 
中島敦の祖父の中島家第12代当主・[[中島撫山|中島慶太郎]](号は撫山)は家業を嫌い、14歳のときに[[儒学者]]・[[亀田鵬斎]]の孫弟子として鵬斎の子の[[亀田綾瀬]]の門下となり<ref name="higami"/><ref name="jikan1"/>、綾瀬没後はその後継者の[[亀田鶯谷]]に師事した{{Sfn|村山|2002|pp=13-15}}<ref name="jikan1"/>。のちに[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[久喜市#旧久喜町|久喜町]](現・[[久喜市]])に[[漢学]]塾「{{ruby|幸魂|こうこん}}教舎」を開いた{{Sfn|西原|2004|pp=103-104}}<ref name="jikan1"/>。撫山には先妻との間に第13代当主の長男・靖(号は{{ruby|綽軒|しゃくけん}})がおり、亀田鶯谷門下だった綽軒も栃木に「{{ruby|明誼|めいぎ}}学舎」を開いた漢学者であったが、父に先立ち54歳で亡くなった{{Sfn|川村|2009a|pp=109-124}}{{Sfn|村山|2002|pp=57-60}}<ref name="jikan1"/>。
 
中島敦の私記『[[斗南先生]]』で活写されている伯父・中島端(号は斗南)は、撫山と後妻との息子で実際には撫山の次男となるが、[[戸籍謄本]]上は撫山の長男として記載されている<ref name="kakei">「中島敦家系図」({{Harvnb|ちくま3|1993|p=443}})</ref>。斗南も亀田鶯谷のもとで漢学を学び、[[宮内翁助]]とともに私立中等教育機関「明倫館」の創設に携わったほか、中国問題に関する評論などを著した{{Sfn|村山|2002|pp=60-70}}。斗南の下の伯父・[[中島竦]](号は玉振)も漢学者で、[[善隣書院]]でモンゴル語・中国語を教授しつつ、中国古代文字の[[甲骨文字]]などの研究を行った人物であった{{Sfn|村山|2002|pp=70-80}}。
 
ほかに関{{ruby|翊|たすく}}・山本開蔵・中島{{ruby|比多吉|ひたき}}などの伯父・叔父がおり、みな漢学の素養を持って世に出ている{{Sfn|村山|2002|pp=80-90}}{{Sfn|西原|2004|pp=103-105}}。中島家では成人すると男子は「立」偏の一文字を名前とする習慣があったが、四男の開蔵からは墨守されなくなり、五男の田人からは[[万葉仮名]]風の[[大和言葉]]になった{{Sfn|村山|2002|pp=87-90}}{{Sfn|川村|2009a|pp=109-124}}。中島家の漢学の系譜は[[村山吉廣]]により調査され、『評伝・中島敦 家学からの視点』([[中央公論新社]]、2002年)としてまとめている{{Sfn|西原|2004}}{{Sfn|村山|2002|pp=9-90}}。
 
=== 主要な家族・親族 ===
以下、その他の家族・親族も含め主要な人物を列記する。基本情報や生年没年月日の出典は<ref name="kakei"/><ref name="nenpu-chi"/>{{Sfn|村山|2002|pp=8-90}}<ref name="chiyo">桜庭幸雄「母千代について」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=170-171}})</ref><ref name="jikan1"/>。
; 祖父・[[中島撫山|中島慶太郎]](中島撫山)
:[[1829年]]5月14日([[文政]]12年4月12日)生 - [[1911年]]([[明治]]44年)6月24日没
:中島家第12代当主<ref name="kakei"/>。[[亀田鵬斎]]門下の五俊秀と称され、[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[久喜市#旧久喜町|久喜町]]に開いた漢学塾「幸魂教舎」の門弟は千数百人にのぼる<ref name="nenpu-chi"/>。慶太郎の父は、中島清右衛門(良雅)<ref name="kakei"/>。異母弟には画家の中島杉陰がいる{{Sfn|村山|2002|pp=55-56}}<ref name="yayoi"/>。
:先妻・紀玖との間に、長男・靖(号は綽軒)を儲け、紀玖が[[安政の大地震]]で死去した後は、後妻・きく(よし)との間に、六男四女(ふみ、端蔵、辣之助、美都、若之助、開蔵、志津、田人、比多吉、うら)を儲けた(美都は早世){{Sfn|村山|2002|p=8}}<ref name="kakei"/>。撫山の墓は[[神道|神式]]で埼玉県久喜市の[[光明寺 (久喜市)|光明寺]]にある<ref name="jikan1"/>。
:後妻・きく(敦の祖母)は、[[須坂市|須坂]]の士族・亀田氏の出自。「よし」という名前だったが、結婚後「きく」と呼ばれた{{Sfn|村山|2002|p=60}}。撫山が亡くなった後は、このきくが幼い孫・敦の訓育を担った<ref name="jikan1"/>。この家には、先妻・紀玖の長男・靖(綽軒)の娘たち(敦の従姉ら)も住んでいた<ref name="yayoi"/><ref name="morihiko">塚本盛彦「敦のこと」({{Harvnb|田鍋|1989|pp=171-172}})</ref>。
; 父・中島田人
:[[1874年]](明治7年)5月5日生 - [[1945年]](昭和20年)3月9日没
:慶太郎ときくの五男(慶太郎にとっては六男)<ref name="kakei"/>。
:父や兄(端や竦)のもと「幸魂教舎」で学び、1902年(明治35年)5月に[[文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験|検定試験]](漢文科)に合格し漢文科教員の免許を取得した後、兄たちの関わった「明倫館」をはじめ複数の学校で教員を務めた{{Sfn|村山|2002|pp=91-95}}<ref name="nenpu-chi"/>。田人自身は息子の敦に漢文を教えてはいなかった{{Sfn|村山|2002|pp=91-95}}。
:チヨと離婚した後は、実科女学校で裁縫教師をしていた紺家カツと再婚<ref name="sakka-sagi"/>。カツの死去後は、大阪出身で幼稚園の教師をしていた飯尾コウと再婚した<ref name="taka"/><ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。カツは[[けち|しまり屋]]で<ref name="morihiko"/><ref name="taka"/>、コウは浪費家だったという<ref name="taka"/><ref name="danpen2">「断片2」。{{Harvnb|ちくま3|1993|pp=376-379}})</ref>。敦はコウのことを物質崇拝の「縁なき衆生」と軽蔑していた<ref name="danpen2"/>。
:敦の多感なころは父子の折り合いもよくなかったとされ<ref name="pool"/>{{Sfn|村山|2002|pp=96-107}}、2人目の継母コウがやって来た当初、父に反抗的な態度をとってひどく殴られたことなどが習作草稿の「プールの傍で」で描かれている<ref name="pool"/>{{Sfn|村山|2002|pp=96-107}}。当時の敦の同級生・小山政憲も「中島君の家庭的な不幸は誰でもよく知っていた」と語っている<ref name="koya"/>{{Sfn|村山|2002|pp=96-107}}。
:しかしながら、コウの死去後、敦の病没の直前には漢籍について家で話すなど関係が改善していたという{{Sfn|村山|2002|pp=91-95}}。田人は敦に他人行儀な接し方をしていたが、敦が自慢の種で他の者にはいつも「敦は、敦は」と子煩悩な面を見せていた{{Sfn|村山|2002|pp=91-95}}。敦の死後はすっかり意気消沈し、吾子を失った悲しみの歌を残している{{Sfn|村山|2002|pp=91-95}}。
; 母・チヨ
:[[1885年]](明治18年)11月23日生 - [[1921年]](大正10年)7月3日没
:旧姓名は岡崎千代子。実家は[[東京市]][[四谷区]]箪笥町で、岡崎勝太郎、きの夫妻の長女として生まれた<ref name="chiyo"/><ref name="nenpu-chi"/>。岡崎家は、元は小さな[[旗本]]だったという<ref name="anino"/>。チヨは元小学校教員の大変な才女で、敦の優秀さは中島の家系のみではないとも言われている{{Sfn|村山|2002|pp=91-95}}。敦を背中に背負ったまま義父・撫山の漢籍の素読を聞いていたという話も残っている<ref name="nagane"/>。
:田人との離婚の原因は家事が不得手だったからとも<ref name="nagane"/>{{Sfn|村山|2002|p=96}}、チヨに不貞があったからとも言われる{{Sfn|村山|2002|p=96}}。離婚後も復縁を望み、田人も許していたが、敦の伯母・志津や伯父・斗南の反対で叶わなかった<ref name="taka"/><ref name="ayako"/>{{Sfn|森田|1995|p=18}}。のちに桜庭進平と再婚し幸雄を儲ける<ref name="kakei"/><ref name="chiyo"/>。
:敦12歳の年、敦の写真を抱いて病死したという<ref name="chiyo"/><ref name="taka"/>。その写真は、敦の従兄・盛彦(叔母・うらの息子)が撮ったもので、チヨが病気になった時に頼まれて送ったという<ref name="morihiko"/>。母・きのの家(四谷区[[左門町]])で亡くなったチヨの墓は港区の[[高徳寺 (東京都港区)|高徳寺]]にある<ref name="chiyo"/>。
:敦の6歳年下の異父弟にあたる桜庭幸雄は[[詩人]]で、NHKを定年退職後、若いころから書き溜めていた作品を纏めた詩集3冊や俳句集を出版した<ref name="chiyo"/>{{Sfn|川村|2009a|pp=313-333}}<ref>武内雷龍『夏雲』(海象社、2012年5月)</ref>。幸雄の次男の顔は敦に似ているという<ref name="chiyo"/>。
; 異母妹・澄子
:[[1923年]](大正12年)3月11日生 - 2021年(令和3年)12月15日没<ref>[https://twitter.com/1orihara/status/1472085793162534913 折原一のTwitter(2021年12月18日)]</ref>
:父・田人と継母・カツの長女。カツは澄子を産んで間もなく肺炎で亡くなったため、当時京城にいた敦の従姉・婉(綽軒の長女)がしばらく世話をし、その後に伯母・志津が来て澄子が歩き始めるまで世話をしたという<ref name="junko"/><ref name="nagane"/>。
:[[共立女子大学|共立女子専門学校]]を卒業し、長く高校の家庭科の先生として務めた<ref name="anino"/>。折原氏と結婚し、{{ruby|一|いち}}を儲ける。敦の甥に当たる、この[[折原一]]は小説家である{{R|川村2009}}<ref name="kakei"/>。澄子は兄・敦の死後に、回想文として「兄と私」(1976年の筑摩書房版『中島敦全集 第一巻』月報1)や{{Sfn|村山|2002|pp=91-95}}、「兄のこと」(1989年の田鍋幸信著『中島敦・光と影』)<ref name="anino"/>、「兄敦の思い出」(2009年久喜・中島敦の会『中島敦と私――中島敦生誕100年記念』)を記している{{R|久喜2009}}。
;伯父・靖(中島綽軒)
:[[1852年]]10月27日([[嘉永]]5年9月14日)生 - [[1906年]](明治39年)6月19日没
:慶太郎と紀玖の長男で中島家の第13代当主<ref name="kakei"/>。結婚し一男五女(婉、賾臣、那都、春中、緒留、彌生)を儲ける<ref name="kakei"/>。
:敦は浜松や京城にいたころ、近所にいた綽軒の長女・婉(敦の従姉)の一家と交流し、婉の二女の長根翠(敦の3歳下)や、翠の友人・藤井とし子と親しくしていた<ref name="nagane"/>。敦が京城[[龍山区 (ソウル特別市)|龍山地区]]の青葉町の長屋で伯母・志津と住んでいたころは、婉一家も同じ長屋にいた<ref name="nagane"/>。藤井とし子は結婚後に猪原とし子となり、1979年(昭和54年)に出版した随筆集『あかしや』の中で「中島敦さんの事」という随想文を掲載している<ref name="nagane"/>。
:綽軒の孫に当たる中島家第15代当主の{{ruby|甲臣|さきおみ}}(14代当主の{{ruby|賾臣|もとおみ}}の息子)は[[北海道大学]]を卒業し北大で数学の教授を務めた<ref name="koushin"/>。定年退職後は[[北海道武蔵女子短期大学]]に移り、1988年(昭和63年)に「中島敦・覚え書――行為と思索」という論文を発表した<ref name="koushin"/>。
; 伯母・ふみ
:[[1857年]]6月19日([[安政]]4年5月28日)生 - [[1943年]](昭和18年)2月18日没
:慶太郎ときくの長女<ref name="kakei"/>。「婦美」とも書く{{Sfn|村山|2002|p=60}}。医師の河野氏と結婚し一男をもうける{{Sfn|村山|2002|p=87}}。夫と死別し、[[九州大学]]医学部に進学した長男も[[敗血症]]でなくなったため、久喜市の実家で暮らしていた<ref name="yayoi"/>。
:幼かった敦はこの伯母に育てられた<ref name="sho171"/>。敦は自身が亡くなる1942年(昭和17年)にも「河野の伯母」と呼んで慕い、「本当に良い伯母様だったなあ」と会いたがっていた<ref name="sho171"/>。
; 伯父・端(中島斗南)
:[[1859年]]2月28日(安政6年1月26日)生 - [[1930年]](昭和5年)6月13日没
:幼名は{{ruby|端蔵|たんぞう}}。慶太郎ときくの長男(慶太郎にとっては次男)<ref name="kakei"/>。生涯独身<ref name="tonan">「斗南先生」(1933年9月執筆)。{{Harvnb|ちくま1|1993|pp=51-88}}</ref>{{Sfn|川村|2009a|pp=109-124}}。俊才ながらも奇人的な人となりは敦の私記作品『[[斗南先生]]』で描かれている<ref name="higami"/>。外交問題を研究するため中国大陸にもしばしば単独で渡り、[[羅振玉]]や汪康年らと意見交換などしていた{{Sfn|村山|2002|pp=60-70}}。
:『支那分割の運命』という「我に後来[[白人]]を[[東亜]]より駆逐せんの絶大理想あり」「我は進んで支那民族分割の運命を挽回せんのみ。四万々生霊を水火塗炭の中に救はんのみ」と述べている著書を1912年10月に[[政教社]]から刊行<ref name="tonan"/><ref name="kaidai1"/>{{Sfn|村山|2002|pp=60-70}}。死後は、遺稿詩文集『斗南存稾』が弟伯父・[[中島竦]]の編纂で文求堂書店から1932年10月1日に刊行された<ref name="tonan"/><ref name="kaidai1"/>。漢詩文のほか、30歳のときには小説も書き、「肌香夢史(はだかむし)」という筆名で『野路乃村雨』という作品を出版したこともあった{{Sfn|村山|2002|pp=156-165}}{{Efn|斗南の小説『野路乃村雨』は、[[保安条例]]に反対し皇居外3里の地に追放された病弱の青年を主人公にしたもので、有為の青年が悲運に陥る内容となっている{{Sfn|村山|2002|pp=156-165}}。}}。
:成人した男兄弟の中、斗南だけが久喜市の実家に残っていたため、幼い頃に預けられた敦の面倒を見て、敦のことを甥の中で一番気に入り信頼・期待していた<ref name="tonan"/>{{Sfn|川村|2009b|pp=4-10}}<ref name="goto2">{{Harvnb|後藤|2006}}</ref>。敦は多くの親戚からこの斗南伯父の気質に似ていると言われ、特に年上の従姉妹から「やかまの伯父」(斗南はやかましいため、甥姪たちからそう呼ばれていた)のようにならなければいいが、と会うたびに言われていた<ref name="tonan"/>。
; 伯父・[[中島竦|竦]](中島玉振)
:[[1861年]]6月29日([[文久]]元年5月22日)生 - [[1940年]](昭和15年)6月11日没
:幼名は{{ruby|辣之助|しょうのすけ}}。慶太郎ときくの次男(慶太郎にとっては三男)<ref name="kakei"/>。生涯独身。甥姪たちから「お髭の伯父」と呼ばれ、中島斗南とは違った趣を持つ人物として『斗南先生』の中で少し描かれるが、「(2人の伯父は)共に[[童貞]]にだけしか見られない浄らかさを持って」と書かれている<ref name="tonan"/>。
:髪を[[源義経|牛若丸]]のように結い、二[[尺]](60センチ)近くの長い白髯をたくわえていた物静かな人物<ref name="tonan"/>。敦はこの玉振伯父と親しく、将棋を指すために伯父の家に数日間滞在することもあったという{{Sfn|勝又|2004|pp=7-8}}。敦の次男・{{ruby|格|のぼる}}の名付け親も竦であった{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
; 伯父・翊(関翊)
:[[1866年]]1月21日([[慶応]]元年12月5日)生 - [[1953年]](昭和28年)8月18日没
:「たすく」と読む。幼名は若之助。慶太郎ときくの三男(慶太郎にとっては四男)<ref name="kakei"/>。師範学校を卒業後し小学校教師を経て、[[プロテスタント]]派の[[牧師]]となった{{Sfn|村山|2002|pp=80-84}}。旧[[幕臣]]・関巳吉の娘(次女)と結婚し養子縁組で「関」姓となり二男(正献、正通)を儲ける<ref name="kakei"/>{{Sfn|村山|2002|pp=80-84}}。関翊は『斗南先生』の中で「渋谷の伯父」として出てくる<ref name="tonan"/>。
:関翊の一家は渋谷の岡本武尚邸([[岡本貫一]]邸内の分家)に一緒に住んでいた<ref name="okamoto"/>。岡本武尚の母・育子(岡本貫一の妻)が元々関家の2人姉妹の長女(関巳吉の長女)だったため親戚関係があった<ref name="okamoto"/><ref name="nagoya"/>。
; 伯父・開蔵(山本開蔵)
:[[1868年]]3月8日(明治元年2月15日)生 - [[1958年]](昭和33年)4月18日没
:慶太郎ときくの四男(慶太郎にとっては五男)。3歳のときに久喜市の山本家の養子となった。[[帝国大学工科大学]]を卒業後[[海軍省]]に入り、のちに技術中将となった{{Sfn|村山|2002|pp=84-86}}。結婚し二男五女(操子、愛子、順子、洸、淑子、泱、紀子)を儲ける<ref name="kakei"/>。
:開蔵は『斗南先生』の中で「洗足の伯父」として登場し<ref name="tonan"/>、「圭吉」として名前が出てくる同学年の従兄は開蔵の次男・{{ruby|決|ひろし}}のことだという<ref name="gunji">[[郡司勝義]]「解題」(『中島敦全集第1巻』筑摩書房、1976年3月)</ref>。開蔵は皮膚癌で亡くなったとされる<ref name="taka"/>。
; 伯母・志津
:[[1871年]]5月28日(明治4年4月10日)生 - 1958年(昭和33年)8月20日没
:慶太郎ときくの次女。[[浦和高等学校 (旧制)|浦和高等女学校]]の国語教師として勤務した<ref name="anino"/>{{Sfn|村山|2002|p=87}}。1度結婚したが1日だけで帰ってきて以来独身<ref name="anino"/>。1925年(大正14年)ごろは京城女学校に勤務<ref name="nenpu-chi"/>。
:敦の1人目の継母・カツが亡くなり、赤ん坊の澄子の世話のため京城に来て、その後[[淑明女子大学校|淑明高女]]に勤務したが、そこで志津に対する排斥運動が起ったという<ref name="nagane"/><ref name="anino"/><ref name="junko"/>。敦は京城中学時代、父の大連転勤の際、京城に住む志津の家(長屋)に寄寓したことがある<ref name="nenpu-chi"/>。
:敦は志津を「浦和の伯母」と呼び、志津に借りているお金を毎月50円ずつ返済していることが1941年(昭和16年)の父への書簡に記されている<ref name="sho99"/>。これは、2人目の継母コウが浪費し呉服店などの支払いを滞らせていたため、敦が工面し伯母から借りたものだったという<ref name="taka"/>。
; 叔父・比多吉
:[[1876年]](明治9年)11月23日生 - [[1948年]](昭和23年)12月4日没
:「ひたき」と読む。慶太郎ときくの六男(慶太郎にとっては七男)。結婚し二男五女(褧子、美恵子、美奈子、元夫、吉夫、都佐子、文子)を儲ける<ref name="kakei"/>。[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]支那語科を卒業し、[[早稲田大学]]の講師となったあと清国保定府の警務学堂に招聘され中国大陸に渡った{{Sfn|村山|2002|pp=87-90}}。
:[[日露戦争]]では特別任務班の一員として奉天北方虎石台附近の鉄道爆破に参加し満州総司令部付に出世した{{Sfn|村山|2002|pp=87-90}}。のち陸軍で中国語の翻訳・通訳を担当し、[[満州国|満州]]政府では中枢官僚として勤務{{Sfn|村山|2002|pp=87-90}}。皇帝[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]の側近となり溥儀の日本訪問にも同行した{{Sfn|村山|2002|pp=87-90}}。1932年(昭和7年)ごろには[[旅順口区|旅順]]にいた<ref name="nenpu-chi"/>{{Sfn|村山|2002|pp=87-90}}。
:敦は、比多吉の長女で2歳年下の褧子と親しく、はっきり結婚の約束はしていなかったが互いに愛情を持っていた<ref name="ayako"/><ref name="nenpu-chi"/>。比多吉の縁故で敦も教員退職後の就職先として満州に行く話もあったが、寒地での勤務に耐えられそうにないと敦は断っている<ref name="sho84"/><ref name="sho85"/>{{Sfn|村山|2002|pp=87-90}}。比多吉は晩年に[[結核]]になったという<ref name="taka"/>。
;叔母・うら
:[[1880年]](明治13年)11月8日生 - [[1981年]](昭和56年)3月24日没
:慶太郎ときくの三女。久喜近在の[[東村 (埼玉県)|東村]](現・[[加須市]])の地主の塚本氏と結婚し一男(盛彦)を儲ける<ref name="kakei"/>{{Sfn|村山|2002|p=90}}。夫は息子が3歳の時に死亡<ref name="morihiko"/>。姑や小姑と不仲で月に一度は息子を連れ久喜市に帰っていた<ref name="yayoi"/>。亡夫の弟との再婚を勧められ断髪して拒否したという<ref name="yayoi"/>。
:敦より6歳年上の従兄の盛彦は、敦が父(田人)のいる朝鮮に渡る際に1人では不安とのことで、夏休みを利用し敦に付き添った<ref name="morihiko"/>。敦が幼いころは久喜市の家でよく遊び、田人と敦と一緒に[[上野動物園]]に行った時には、敦の実母・チヨとその母に会ったことがある<ref name="morihiko"/><ref name="nagane"/>。盛彦がカメラ好きだったことから、チヨは自身の死期が迫ってきた時期に、敦の写真を送ってくれと盛彦に依頼した<ref name="morihiko"/>。盛彦は1931年(昭和6年)から30年間ほどNHKに勤務した<ref name="morihiko"/>。
; 妻・タカ
:[[1909年]](明治42年)11月11日生 - [[1984年]](昭和59年)10月2日没
:旧姓は橋本。郷里は[[愛知県]][[碧海郡]][[依佐美村]]字高棚新池。農業の父・橋本辰次郎の三女<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。叔母に育てられ、高等小学校を卒業後は、従兄の和田義次(叔母の息子)を頼って15歳で上京<ref name="sakka-sagi"/>。[[麻雀荘]]で店員をしていた22歳のときに、同い年で[[東京大学|東京帝国大学]]在学中の敦と出会い、その1週間後に敦にいきなり抱かれ結婚を申し込まれた<ref name="taka"/>{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。
:しかし敦は当時タカの同僚・パン子とも交際し、タカも従兄・義次との縁談があった<ref name="taka"/>{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。敦は義次宛てに、タカを与えてほしいと長文の手紙を出し懇願するが、タカの叔母(義次の母親)はこの手紙を持って久喜の中島本家に押しかけて300円を受け取った{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}<ref name="sakka-sagi"/>。敦の父・田人や中島家も学生結婚に反対した{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}<ref name="sakka-sagi"/>。そのためタカはいったん実家の愛知県に戻って敦の卒業を待つが、その間タカは敦の子を身ごもり、その地で長男・桓を出産{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。
:その後タカは子連れで上京するが、横浜高女の教員になっていた敦は「東京へくること。勿論よい。が横浜はよそう」と同居を拒否<ref>「書簡I――39 橋本たか宛 昭和8年10月?日」({{Harvnb|ちくま2|1993|p=354}})</ref>{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。タカは桓をかかえ、[[堀ノ内 (杉並区)|杉並堀之内]]、[[自由が丘|自由ヶ丘]]、[[緑が丘 (目黒区)|緑ヶ丘]]と東京の[[下宿]]を転々とする生活を送り、上京してから1年半後、ようやく敦は横浜市中区[[本郷 (横浜市)|本郷町]]で妻子と同居を始めた{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}<ref name="taka"/>。敦がタカを拒否した理由は定かではないが、[[森田誠吾]]は敦にほかの女性(従妹)との付き合いがあったことをあげ{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。タカの回想文の中にも敦が従妹や女性徒などに好意を持っていたことや、晩年に中島が彼女らの手紙を整理して焼いたことが書かれている<ref name="taka"/>。
:タカは敦との間に、桓(1933年4月28日生 - )、正子(1937年1月11日生 - 同年1月13日没)、格(1940年1月31日生 - )の二男一女を儲けるが正子は夭折<ref name="nenpu-chi"/>。長男・桓の命名は「勇ましく、強いこと」の意味を込め、「[[桓武天皇]]」の「桓」の字から敦自身が付けた<ref name="sho31">「書簡I――31橋本たか宛 昭和8年4月29日」({{Harvnb|ちくま2|1993|p=349}})</ref>。次男・格の命名は伯父の[[中島竦|玉振]]が付けた<ref name="nenpu-chi"/>。
:タカも敦の死後に回想文「思い出すことなど」を書いている<ref name="taka"/>{{Sfn|村山|2002|pp=96-100,128-139}}。敦の友人らによると、タカは世話女房の母性的な女性だったという{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。
; 長男・桓
:1933年(昭和8年)4月28日生 -
:[[文治堂書店]]版の『中島敦全集』の編集委員に参加している。
 
== 略年譜 ==
* [[1909年]][[5月5日]] - [[東京市]][[四谷区]]箪笥町59番地(現・東京都[[新宿区]][[四谷三栄町]])に、父・中島田人、母・チヨの長男として生誕{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}} <ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1910年]](1歳) - 2月の父母の離婚により(正式な届出は1914年2月)、父と別れてしばらく母のもとで養育される<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1911年]](2歳)
** 6月24日 - 父方の祖父・[[中島撫山]](慶太郎)が逝去(享年83)<ref name="nenpu-chi"/>。
** 8月 - 父の郷里の[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[久喜市#旧久喜町|久喜町]]大字久喜新469番地1(現・埼玉県久喜市)に住む祖母、伯母たちのもとに引き取られる(5歳まで養育){{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1914年]](5歳) - 父親が2月に、実科女学校で裁縫教師をしていた紺家カツと再婚{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sakka-sagi"/>。
* [[1915年]](6歳)
** 3月 - 父のいる[[奈良県]][[生駒郡]][[大和郡山市|郡山町]]に引き取られる{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
* [[1916年]](7歳)
** 4月 - 奈良県郡山男子尋常小学校に入学{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。学年末に優秀賞を授与される<ref name="nenpu-chi"/>。この好成績は小学校在学中ずっと維持<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1918年]](9歳)
** 7月 - 5月の父親の転勤により、第3学年1学期修了と同時に[[静岡県]][[浜松市]]に移り、県立浜松西尋常小学校に転入{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1920年]](11歳)
** 9月 - 父親の転勤により[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]][[京城府|京城]]に移り、第5学年2学期から京城府龍山公立尋常小学校に転入{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1922年]](13歳)
** 4月 - 朝鮮京城府公立京城中学校に入学<ref name="nenpu-chi"/>。同級に[[湯浅克衛]]、小山政憲がいた<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1923年]](14歳)
** 3月 - 異母妹・澄子が11日に出生{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。その5日後の16日に継母カツ死去{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1924年]](15歳)
** 4月 - 父親が飯尾コウと再婚(入籍は翌年6月){{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1925年]](16歳)
** 10月 - 父親が[[関東庁]]立[[大連市|大連]]中学の勤務となり、敦は伯母・志津(京城女学校に勤務)の家に移り住む<ref name="nenpu-chi"/>。この年の初夏、[[満州国|満州]]に修学旅行<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1926年]](17歳)
** 1月 - 三つ子の異母弟妹(敬・敏・睦子)が誕生<ref name="nenpu-s"/><ref name="nenpu-chi"/>。しかしながら、同年8月に敬、10月に敏が相次ぎ死去<ref name="nenpu-chi"/>。
** 4月 - [[京城中学校]]4年を修了したあと、敦は東京市に移り[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]文科甲類に入学{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-s"/>。寄宿舎和寮5番に入る<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1927年]](18歳)
** 4月 - 春に伊豆下田に旅行。寄宿舎明寮6番に移り隣室の[[氷上英廣]]と知り合う<ref name="nenpu-chi"/>。
** 8月 - 大連に帰省中に肋膜炎に罹り、そのまま満鉄病院に入院し、1年間休学となる{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。その間、[[別府市|別府]]の満鉄療養所に移り、その後[[千葉県]]の[[保田駅 (千葉県)|保田]]あたりに転地療養<ref name="nenpu-chi"/>。
** 11月 - 『校友会雑誌』に投稿した「下田の女」が掲載される<ref name="nenpu-s"/><ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1928年]](19歳)
**4月 - 寮を出て、伯父・関翊(若之助)の知り合いの[[渋谷町 (東京府)|渋谷町]]の弁護士・岡本武尚邸([[岡本貫一]]邸内)に寄寓し、そこの息子・武夫を通じて[[田中西二郎]]と知り合う<ref name="nenpu-chi"/><ref name="ayako"/>。
** 11月 - 『校友会雑誌』に「ある生活」「喧嘩」が掲載される<ref name="nenpu-s"/><ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1929年]](20歳)
** 4月 - 文芸部委員となり『校友会雑誌』編集に参加。この年の夏に岡本邸を出て、[[芝 (東京都港区)|芝]]の[[同潤会アパート]]に移る<ref name="nenpu-chi"/>。
** 6月 - 『校友会雑誌』に「蕨・竹・老人」「[[巡査の居る風景]]―一九二三年の一つのスケッチ」を「短篇二つ」として発表<ref name="nenpu-chi"/>。
**秋 - 氷上英廣、[[吉田精一]]、[[釘本久春]]らとともに季刊同人誌『しむぽしおん』(翌年夏まで4冊発行)をおこす<ref name="nenpu-s"/><ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1930年]](21歳)
** 1月 - 『校友会雑誌』に「D市七月叙景(1)」を発表<ref name="nenpu-chi"/>。
** 3月 - 第一高等学校を卒業。9日に三つ子の妹・睦子が大連で病死(享年4)<ref name="nenpu-chi"/>。
** 4月 - [[東京大学|東京帝国大学]][[日本文学|国文学]]科に入学{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。
** 6月13日 - 伯父・中島端(斗南先生)が山本開蔵(5番目の伯父)宅で逝去(享年78)<ref name="nenpu-chi"/>。この年、[[本郷区]]西片町の第一・三陽館に移る<ref name="nenpu-chi"/>。このころから夏休みを中心に、[[永井荷風]]や[[谷崎潤一郎]]の全作品を読む{{Sfn|勝又|2004|p=10}}<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1931年]](22歳)
** 3月 - 麻雀荘で働いていた橋本タカと初めて会う。父・田人が中島家の家督相続人となる<ref name="nenpu-chi"/>。
** 10月 - 大連の中学校を退職した父親が東京に戻ったため、[[荏原郡]][[駒沢町]]大字上馬の借家で父母と同居する<ref name="nenpu-chi"/>。この年から翌春にかけ、卒論準備として[[上田敏]]、森鷗外、[[正岡子規]]の全集を読む<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1932年]](23歳)
** 春 - 橋本タカとの結婚話が固まる<ref name="nenpu-chi"/>。
** 8月 - [[旅順口区|旅順]]にいる叔父の中島比多吉を頼り、南満州・中国北部を旅行<ref name="nenpu-chi"/>。習作「プウルの傍で」の題材となる<ref name="kaidai3"/>。
** 秋 - [[朝日新聞社]]の入社試験を受けるが第2次の身体検査で不合格となる<ref name="nenpu-chi"/>。11月に[[卒業論文]]「[[耽美派]]の研究」を書き上げ提出{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。この年、「療養所にて」という短編を試みるが完成しなかったとされる<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1933年]](24歳)
** 1月 - 祖父・撫山の著書『演孔堂詩文』(私家版、1931年刊) と、伯父・斗南の遺稿詩文集『斗南存稾』([[中島竦]]編纂、文求堂書店、1932年10月刊)を東京帝国大学附属図書館に寄贈<ref name="nenpu-chi"/>。
** 3月 - 東京帝国大学文学部国文科を卒業{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。
** 4月 - 同大学大学院に進む{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。研究テーマは「森鷗外の研究」{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。同月、私立横浜高等女学校(現:[[横浜学園高等学校]])に[[国語 (教科)|国語]]と[[英語 (教科)|英語]]の教師として赴任し{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>、横浜市[[中区 (横浜市)|中区]][[長者町 (横浜市)|長者町]]のモンアパートに単身で移る(5月からは[[山下町 (横浜市)|山下町]]へ移る)<ref name="nenpu-chi"/>。父母は[[世田谷区]][[世田谷 (世田谷区)|世田谷]]1-124に転居<ref name="nenpu-chi"/>。
** 4月28日 - 長男・{{ruby|桓|たけし}}が橋本タカの郷里・愛知県[[碧海郡]][[依佐美村]]で出生(届出は12月){{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。命名は「[[桓武天皇]]」の「桓」の字と同じで中島自身が付けた<ref name="sho31"/>。
** 6月 - 3年前逝去した伯父・中島端を題材にした「斗南先生」を脱稿<ref name="nenpu-chi"/>。このころから「北方行」が執筆開始。秋には文芸研究会創設に参画<ref name="nenpu-chi"/>。
** 8月 - [[沢村寅二郎]]教授の下訳として、[[デーヴィッド・ハーバート・ローレンス|D・H・ローレンス]]の『息子と恋人たち』を木村行雄らと分担翻訳する(刊行はならず)<ref name="nenpu-chi"/>。
** 12月11日 - 橋本タカと入籍{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。11月には妻子が上京し、[[杉並区]][[堀ノ内 (杉並区)|堀ノ内]]の佐々木方に住まわせる<ref name="nenpu-chi"/>。
[[画像:Nakajima Atsushi 1934-02 (1) sa.jpg|thumb|1934年2月に撮影された中島敦]]
* [[1934年]](25歳)
** 3月 - 大学院を中退{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。中区柏葉の市営アパートに移る<ref name="nenpu-chi"/>。
** 7月 - 雑誌『[[中央公論]]』の懸賞募集に応募した「虎狩」が選外佳作と発表される<ref name="nenpu-chi"/>。
** 9月 - 激しい喘息発作により生命の危機にさらされる{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1935年]](26歳)
** 4月 - 釘本久春を介して、京城中学の1年後輩の三好四郎と知り合う<ref name="nenpu-chi"/>。
** 6月 - 横浜市[[中区 (横浜市)|中区]][[本郷町 (横浜市)|本郷町]]3丁目247番地<!-- 漢数字としないのは字丁目であるため -->の借家に初めて一家を構え、妻子と同居する<ref name="nenpu-chi"/>。この年、[[ラテン語]]、[[ギリシャ語]]を独習し、同僚らと[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]『[[パンセ]]』の講読会を持つ<ref name="nenpu-chi"/>。[[デイヴィッド・ガーネット|ガーネット]]、[[列子]]、[[荘子]]などを読む<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1936年]](27歳)
** 3月 - [[小笠原諸島|小笠原]]に旅行<ref name="nenpu-chi"/>。歌稿「小笠原紀行」の原形や「ツシタラの死」(光と風と夢)の背景地のヒントになる<ref name="nenpu-chi"/><ref name="higami"/>。
** 4月 - 25日に継母コウが死去。このころ、ピアノやヴァイオリンなどのさまざまな演奏会([[シモン・ゴールドベルク]]や[[ジャック・ティボー]]など)を聴きに行き<ref name="nenpu-chi"/>、歌稿「Mes Virtuoses(My Virtuosi)」の原形となる<ref name="nenpu-chi"/>。
** 6月 - 釘本久春、三好四郎の尽力により[[深田久弥]]と知り合い鎌倉の深田宅を訪問する<ref name="nenpu-chi"/>。同月には、第一回修養会で「支那の話」を全校生徒に講演<ref name="nenpu-chi"/>。
** 8月 - 三好四郎と中国([[上海]]、[[杭州]]、[[蘇州]]など)に旅行<ref name="nenpu-s"/><ref name="nenpu-chi"/>。歌稿「朱塔」の原形となる<ref name="nenpu-chi"/>。この年、[[アナトール・フランス]]、[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]]、[[カフカ]]、[[オルダス・ハクスリー]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]などを読む<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1937年]](28歳)
** 1月 - 長女・正子が11日に出生するが、13日に[[Wikt:夭折|夭折]]{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。
** 11月から12月にかけて歌稿となる「和歌でない歌」などを含めた和歌500首を作る<ref name="nenpu-s"/><ref name="nenpu-chi"/>。この年、知友の出征などが続く中、草花づくりに熱中する<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1939年]](30歳)
** 7月 - [[オルダス・ハクスリー]]の「スピノザの虫」を翻訳<ref name="nenpu-s"/><ref name="nenpu-chi"/>。この年から喘息の発作がさらに激しくなり、その間に[[漢詩]]などを作る<ref name="nenpu-chi"/>。横浜では小菅医院に通院していた<ref name="taka"/>。
* [[1940年]](31歳)
** 1月31日 - 次男・格(のぼる)が出生{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。命名は伯父・[[中島竦]]<ref name="nenpu-chi"/>。この頃から、[[アッシリア]]や古代[[エジプト]]の歴史を勉強し[[プラトン]]のほぼ全著作を読む<ref name="nenpu-s"/>。
** 6月11日 - 伯父・中島竦が逝去(享年79)<ref name="nenpu-chi"/>。夏ごろ、[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン|スティーヴンソン]]の作品や伝記を読む。この年も喘息の発作がますますひどくなり、暮れごろから週1、2回の勤務となる<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1941年]](32歳)
** 3月 - 転地療養と文学に専念するため横浜高女を休職{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。学校からの要請により代わりに父・中島田人が勤務<ref name="nenpu-chi"/>。
** 6月 - 釘本久春の斡旋で5月末に[[南洋庁]]の就職話が持ち上がり正式に確定。国語教科書の編修書記として[[パラオ]]に赴任決定{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。これに伴い横浜高等女学校は辞職{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。タカと子供たちは世田谷に住む田人の家に移る{{sfn|森田|1995|p=94}}。赴任前、[[深田久弥]]に「ツシタラの死」(のちの「光と風と夢」)、「古譚」などの原稿を預け{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>、祖父・撫山没後30年祭のため埼玉県久喜の中島家に行く<ref name="nenpu-chi"/>。
** 7月 - パラオ着<ref name="nenpu-chi"/>。植民地用の国語教科書作成の準備・調査に携わるが、[[アメーバ赤痢]]に罹る<ref name="nenpu-chi"/>。
** 8月 - 下旬から9月初めまで[[デング熱]]に罹る<ref name="nenpu-chi"/>。
** 9月-11月 - 近隣諸島をめぐり公学校を訪問する第1回長期出張旅行<ref name="nenpu-chi"/>。
** 11月-12月 - 第2回長期出張旅行<ref name="nenpu-chi"/>。この間、11月19日に「高等学校高等科教員無試験検定合格」の教員免許状(国語)が下りる<ref name="nenpu-chi"/>。12月8日に日米開戦のラジオ放送を聴く<ref name="nenpu-chi"/>。喘息発作のため激務に適しないとして「内地勤務」を希望する申告書を31日に提出<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1942年]](33歳)
** 1月 - 同月から2月にかけ、[[土方久功]]とともにパラオ本島一周の第3回長期出張旅行<ref name="nenpu-chi"/>。
** 2月 - 「古譚」の名で「[[山月記]]」と「[[文字禍]]」の2篇が『[[文學界]]』に掲載される{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
** 3月 - 東京出張の許可が出て、土方久功とともに帰国{{sfn|森田|1995|p=120}}<ref name="nenpu-chi"/>。妻子の待つ世田谷の父・田人の家に戻り療養するも、気候激変で激しい喘息と気管支カタルを発し、同区の岡田医院(現・世田谷中央病院)で診察治療を受ける{{sfn|森田|1995|p=122}}<ref name="nenpu-chi"/>。
** 5月 - 「[[光と風と夢]]――五河荘日記抄」を『文學界』に発表、第15回(昭和17年度上半期)[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となる{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-chi"/>。同月、「悟浄出世」を完成させ、「弟子」を執筆<ref name="nenpu-chi"/>。[[筑摩書房]]の[[古田晁]]、[[中央公論社]]の[[杉森久英]]が来訪し、作品集出版の勧めを受ける<ref name="nenpu-chi"/><ref name="sugimori"/>。この月、健康のために横浜へ帰り住むべく知友に家探しを依頼<ref name="nenpu-chi"/>。
** 7月 - 7日に第一創作集『光と風と夢』を筑摩書房より刊行<ref name="nenpu-chi"/><ref>{{NCID|BA44738108}}</ref>。
** 8月 - 南洋庁に辞表を提出(南洋庁から正式に辞令が下ったのは9月7日付)<ref name="mondai"/><ref name="nenpu-chi"/>。専業作家生活に入る<ref name="nenpu-chi"/>。
** 9月 - 第二創作集のための原稿を出版社(今日の問題社)に渡す。
** 10月 - 「李陵」「名人伝」を執筆<ref name="nenpu-chi"/>。
**11月 - 15日に第二創作集『南島譚』を今日の問題社より刊行。同時期、心臓の衰弱が激しくなり世田谷の岡田医院に入院{{sfn|森田|1995|p=158}}<ref name="nenpu-chi"/>。
** [[12月4日]] - 気管支喘息で午前6時に死去<ref name="nenpu-chi"/>。{{没年齢|1909|5|5|1942|12|4}}。6日の午後2時から神式の葬儀、[[多摩墓地]]に埋葬される<ref name="nenpu-chi"/>。「[[名人伝]]」が『文庫』に掲載<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1943年]]
** 1月 - 遺稿のエッセイ「章魚の木の下で」が『新創作』に掲載<ref name="nenpu-chi"/>。
** 2月 - 遺作の「[[弟子 (小説)|弟子]]」が『[[中央公論]]』に掲載<ref name="nenpu-chi"/>。
** 7月 - 深田久弥の命名による遺作「[[李陵 (小説)|李陵]]」が『文學界』に掲載<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1944年]]
** 8月 - 盧錫台による中国語訳で[[上海]]の太平出版公司から『李陵』が刊行<ref name="nenpu-chi"/>。
* [[1949年]] - 『中島敦全集』(筑摩書房出版)が第3回[[毎日出版文化賞]]を受賞<ref name="nenpu-chi"/>。
* 1993年 -
** 1月 - 元日に、当時の日本における著作権法下で作者の没50年が経過し、作者の[[著作権]]が消滅し[[パブリックドメイン]]となった。
 
== 作品一覧 ==
:現在、作品は日本国内において著作権法の保護期間が50年だった時代に著者の没50年が経過し、パブリックドメインとなっている。
::''個別の作品記事については、「[[かめれおん日記]]」、「[[狼疾記]]」、「[[山月記]]」、「[[文字禍]]」、「[[わが西遊記]]」(悟浄出世、悟浄歎異―沙門悟浄の手記―)、「[[環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―]]」、「[[牛人]]」、「[[名人伝]]」、「[[弟子 (小説)|弟子]]」、および「[[李陵 (小説)|李陵]]」も参照''<!--[[Template:See also]]の書式を参考にしました。-->
 
以下に記す表において、基本情報の出典は<ref name="nenpu-s"/><ref name="senuma"/><ref name="hatsu">「初出一覧」({{Harvnb|山月記|1994|p=421}})</ref><ref name="higami"/><ref name="kaidai1">勝又浩「解題」({{Harvnb|ちくま1|1993|pp=477-488}})</ref><ref name="kaidai2">勝又浩「解題」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=547-560}})</ref><ref name="kaidai3">勝又浩「解題」({{Harvnb|ちくま3|1993|pp=473-485}})</ref><ref name="annai"/><ref name="nenpu-chi"/>{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=21}}。
{|class="wikitable"
|+中島敦の作品一覧
!総称!!作品名!!脱稿・初出年月!!style="width:40%"|説明・備考
|-
! 邦題タイトル !! 原題タイトル !! 販売形式 !! 発売日<br>{{Flagicon|USA}} !! 発売日<br>{{Flagicon|JPN}} !! 販売元<br>{{Flagicon|JPN}}
! rowspan="2" |
| align="center" |[[斗南先生]]||[[1933年]]9月16日脱稿||中島敦自身を投影した「三造」の目を通して伯父・中島端について記録した作品。<br />もう一人の伯父・[[中島竦]]のことにも触れられている<ref name="higami" />。
|-
| セサミストリートのクリスマス || Christmas Eve on Sesame Street ||rowspan="21"| 英語教材ビデオ || '''1987年'''<br>([[ランダムハウス]]版)<br />'''1995年'''<br>(ソニー版)<br /> || '''1989年'''<br />10月21日 ||rowspan="24"| [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]
|align="center"|[[虎狩]]||[[1934年]]2月頃脱稿||京城中学校の生徒である「私」が、[[両班]]出身の朝鮮人同級生に誘われて虎狩りに行く{{Sfn|小谷|2019|pp=21-24}}。<br />1934年7月に『中央公論』の懸賞に応募し選外佳作となった作品<ref name="nenpu-s"/><ref name="kaidai1"/>{{Efn|当選作は[[島木健作]]「盲目」、[[丹羽文雄]]「贅肉」などだった<ref name="kaidai1"/>。}}。
|-
| 1巻 "はじめましてABC" || Learning About Letters || '''1986年''' || '''1998年'''<br>12月2日
! rowspan="2" |過去帳
| align="center" |[[かめれおん日記]] ||[[1936年]]12月26日第1稿脱稿<br />[[1938年]]-1939年完成稿執筆||教師の「私」が生徒から預かった[[カメレオン]]を飼育しつつ様々に想起する作品{{Efn|「狼疾記」と共に1940年に雑誌『形成』(古今書院)に掲載する話もあったが実現ならず<ref name="nenpu-chi"/>。}}。
|-
| 2巻 "かぞえてみよう123" || Count it Higher: Great Music Videos from Sesame Street || '''1988年''' || '''1995年'''<br>4月21日
|align="center"|[[狼疾記]]||1936年11月10日第1稿脱稿<br />1938年-1939年完成稿執筆||「三造」を主人公にした形而上学的な不安や宇宙の虚無を題材にした作品。<br />未完の習作「北方行」の一部を転用している<ref name="kaidai2">勝又浩「解題」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=547-560}})</ref>。
|-
| 3巻 "読めるよ 言えるよ!" || Getting Ready to Read || '''1986年''' || '''1998年'''<br>12月2日
! rowspan="4" |古譚
| align="center" |狐憑||[[1941年]]4月頃脱稿||紀元前8世紀ごろの未開人種[[スキタイ]]の部落を舞台にした作品。<br />何かが憑依したかのように様々な面白い話を物語り聴衆を虜にする1人の村人が長老に煙たがられ、その憑きものが落ちたとたん部落にとって有害無益の存在として処刑され皆に食われてしまう話。<br />[[詩人]](芸術家)の存在と社会との関係性を寓意した作品<ref name="sekine">{{Harvnb|関根|2016}}</ref>。
|-
| 4巻 "いっしょにあそぼう" || Play-Along Games and Songs || '''1986年''' || '''1998年'''<br>12月2日
|align="center"|木乃伊||同上||紀元前525年のエジプトを舞台にした作品。<br />古い地下室でミイラの顔を凝視するうち、それが自身の前世だと悟ったペルシャ将士が過去世、そのまた前々世の想念を思い出し、合わせ鏡のように無限で不気味な記憶の連続に囚われ発狂する話。<br />自意識の呪縛が描かれ、自己の対象化を身体というモチーフによって試みる中島敦の独自性が現れている作品の一つ<ref name="sekine"/>。
|-
| 5巻 "じぶんのことしってる?" || I'm Glad I'm Me || '''1986年''' || '''1998年'''<br>1月1日
|align="center"|[[山月記]]||1941年4月頃脱稿<br />1942年2月『[[文學界]]』掲載|| 唐代の小説『[[人虎伝]]』を基に、詩人になれなかった男が虎に変身してしまう姿を描く<ref name="senuma" />。
|-
| 6巻 "よくねむれるおはなし" || Bedtime Stories and Songs || '''1986年''' || '''1995年'''<br>4月21日
|align="center"|[[文字禍]]||同上||[[アッシリヤ]]の博士が大王に命じられて「文字の霊」を探すという内容である{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=44}}。
|-
| 7巻 "げんきに学校いくよ! || Getting Ready for School || '''1987年''' || '''1998年'''<br>1月1日
!
| align="center" |[[光と風と夢]]||1941年1月末までに脱稿<br />1942年5月『文學界』掲載||イギリスの作家、[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]の[[サモア]]での晩年の暮らしを題材とする{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=46}}。<br />第15回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補作{{Sfn|勝又|2004|pp=71-72}}。<br />初出時は副題付きで「光と風と夢{{small|――五河荘日記抄}}」。原題は「ツシタラの死{{small|――五河荘日記抄}}」<ref name="kaidai1" />{{Efn|『文學界』編集部からの要請で変更した<ref name="kaidai1"/>。}}
|-
| 8巻 "えいごでさんすう" || Learning to Add and Subtract || '''1987年''' || '''1998年'''<br>12月2日
! rowspan="2" |[[わが西遊記]]
| align="center" |悟浄出世||1941年5月から執筆開始<br />1942年5月頃脱稿|| 執筆中、「[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]や[[ツァラトゥストラはこう言った|ツァラトゥストラ]]など、余り立派すぎる見本が目の前にあるので、却って巧く行きません」と語り、「僕のファウストにする」という意気込みで書かれたもの<ref name="kaidai2" />。
|-
| 9巻 "みんなでうたおう!" || Sesame Street Sing-Along || '''1987年''' || '''1998年'''<br>1月1日
|align="center"|悟浄歎異<br />{{small|―沙門悟浄の手記―}}||[[1939年]]1月15日原形脱稿<br />(原稿33枚中32枚目まで)<br />のち日付に赤の抹消線||「悟浄出世」と同様、未完作「わが西遊記」の中の一篇。こちらは結末部に当たる<ref name="kaidai2"/>。
|-
| 10巻 "おはなしきかせて" || Big Bird's Story Time || '''1987年''' || '''1998年'''<br>12月2日
! rowspan="3" |南島譚
| align="center" |幸福||1942年8月中には完成||パラオにいる長老とその下男を主人公にした作品で、現実世界の幸福・不幸が夢の中で逆転する話。<br />オルワンガル島の古伝説という体裁になっているが基は『[[列子]]』が題材となっている<ref name="sasaki">{{Harvnb|佐々木|1970}}</ref>。
|-
| 11巻 "カウントダウン・ショー" || Count it Higher || '''1988年''' || '''1998年'''<br>12月2日
| align="center" |夫婦|| rowspan="2" |同上||パラオのガクウオ部落に住む夫婦の愛憎をめぐる作品。<br />島に伝わる神話と伝説が基になっている<ref name="sasaki" />。
|-
| 12巻 "アルファベット・ゲーム" || The Alphabet Game || '''1988年''' || '''1995年'''<br>4月21日
| align="center" |雞||パラオの民俗を研究している「私」を主人公にした作品。<br />[[土方久功]]の日記が基になっている<ref name="sasaki" />。
|-
| 13巻 "なかよしアーニーとバート" || The Best of Ernie and Bert || '''1988年''' || '''1998年'''<br>1月1日
! rowspan="6" |[[環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―|環礁]]
| align="center" |寂しい島||1942年8月中には完成||パラオ島の印象などを記した作品。
|-
| 14巻 "パーティーにあつまれ!" || Big Bird's Favorite Party Games || '''1988年''' || '''1998年'''<br>12月2日
| align="center" |夾竹桃の家の女|| rowspan="5" |同上||上半身裸体で赤ん坊を抱いていた艶っぽい島民の女について記した作品。
|-
| みんなでダンス! || Dance Along! || '''1990年''' || '''1990年'''<br>11月1日
| align="center" |ナポレオン||不良少年ナポレオンについて記した作品。
|-
| モンスター・ベスト・イレブン || Monster Hits! || '''1990年''' || '''1990年'''<br>11月1日
| align="center" |真昼||ミクロネシアにおける文明人の自分の目線について思いを巡らす随想的作品。
|-
| ロックンロールショウ || Rock & Roll! || '''1990年''' || '''1990年'''<br>11月1日
| align="center" |マリヤン||島民の女マリヤンについて記した小説的な作品。
|-
| ハチャメチャ・ソング || Sing Yourself Silly! || '''1990年''' || '''1990年'''<br>11月1日
| align="center" |風物抄 || [[コスラエ州|クサイ]]、[[ヤルート]]、[[ポナペ]]、[[チューク諸島|トラック]]、[[ロタ島|ロタ]]、[[サイパン]]の見聞録。
|-
| セサミストリートの病院見学 || Sesame street: Visits Hospital || '''1990年''' || '''1991年'''<br>2月27日
! rowspan="2" |古俗
| align="center" |[[盈虚]]||1941年4月頃脱稿と推察<br />1942年7月『政界往来』掲載||『[[春秋左氏伝]]』を素材に、[[衛]]の[[荘公蒯聵|壮公]]の破滅を描く{{Sfn|西谷|1977|pp=28-33}}。<br />初出時の原題は「或る古代人の半生」<ref name="kaidai2" />。
|-
| セサミストリートの消防署見学 || Sesame Street Visits Firehouse || '''1991年''' || '''1991年'''<br>2月27日
|align="center"|[[牛人]]||同上||『春秋左氏伝』を素材に、[[魯]]の[[大夫]]・叔孫豹の餓死を描いた作品。<br />「盈虚」「牛人」2篇からなる「古俗」は、元々は「古譚」4篇と同じ系列で「古譚」6篇だったのではないかと推察されている<ref name="kaidai2"/>{{Efn|[[深田久弥]]の回想文中に「古譚六篇」という言い方がなされ、編集者(今日の問題社の)がこの「盈虚」「牛人」2篇を「古譚」と呼んでいたことから<ref name="kaidai2"/>。}}。
|-
| エルモのみんなでなかよく || Kids' Guide to Life:Learning to Share ||rowspan="3"| 吹替版ビデオ || '''1996年''' || '''1998年'''<br />10月21日
! rowspan="4" |
| align="center" |[[名人伝]]||1942年9月以降執筆<br />1942年12月『文庫』掲載||『[[列子]]』の記事を基に、射術の名人が[[老荘思想|老荘]]的な理想の境地に達するさまを描く<ref name="senuma" />。[[遺作|絶筆]]<ref name="senuma" />。
|-
| ザ・ベスト・オブ・エルモ || The Best of Elmo || '''1994年'''<br />8月17日 || '''1999年'''<br />4月21日
|align="center"|[[弟子 (小説)|弟子]]||1942年6月24日脱稿<br />1943年2月『[[中央公論]]』掲載||[[子路]]が孔子に弟子入りし、政変で劇的な死を遂げるまでの30年間の師弟関係を描いた作品<ref name="senuma"/>。没後発表作。
|-
| ザ・ベスト・オブ・カーミット || The Best of Kermit on Sesame Street || '''1998年'''<br />9月1日 || '''1999年'''<br />4月21日
|align="center"|[[李陵 (小説)|李陵]]||1942年10月脱稿<br />[[1943年]]7月『文學界』掲載||『[[漢書]]』の列伝を素材に、匈奴と戦い捕虜となった[[李陵]]や、彼を擁護した[[司馬遷]]の運命が描かれる<ref name="senuma" />。没後発表作で、[[深田久弥]]が遺稿に最も無難な題名を選び、「李陵」と命名した<ref name="kaidai3"/>。中島自身が書き残したメモには「漠北悲歌」の語があるが、その字を消してある部分も同時に見えるため断定しにくく、無難な「李陵」となったのではないかとされている<ref name="kaidai3"/>。<br />初出や初単行本では、挿入部2か所の原稿脱落があり。完全翻刻のものは[[文治堂書店]]版の全集からとなる<ref name="kaidai3"/>。また、2012年からは山下真史や村田秀明によって、敦自身が書籍化した場合の本文が検討され、註釈付きで書籍化され注目を集めた{{R|梅本2013|林2014}}。
|-
| だいすきなえいごのうた || Kids' Favorite Songs ||rowspan="3"| 英語教材DVD || '''1999年''' || '''2005年'''<br>6月24日 ||rowspan="2"| [[インターチャネル]]
|align="center"|[[章魚の木の下で]]||1942年11月執筆と推察<br />1943年1月『新創作』掲載||パラオの南洋群島で暮らしていた時に感じた戦争と文学についての短い感想文(随筆)。没後発表作。
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| だいすきなえいごのうた2 || Kids' Favorite Songs 2 || '''2001年''' || '''2005年'''<br>10月19日
|-
| セサミストリート: ドゥー・ジー・アルファベット || Do the Alphabet || '''1996年''' <br />3月18日 || '''2009年'''<br>3月18日 ||rowspan="6"| [[日本コロムビア]]
|-
| [[セサミストリート: エルモサイズ]] || Elmocize ||rowspan="5"| 吹替版DVD || '''1996年''' <br />3月18日 || '''2009年'''<br>3月18日
|-
| セサミストリート: 123 いっしょにかぞえよう || 123 Count with Me || '''1997年''' || '''2006年'''<br>3月15日
|-
| セサミストリート: あの歌の名前はなーにー? || What's the Name of That Song? || '''2004年'''<br>4月6日 || '''2006年'''<br>8月25日
|-
| セサミストリート: エルモズ・マジック・クックブック || Elmo's Magic Cookbook || '''2001年''' || '''2009年'''<br>6月24日
|-
| セサミストリート: エルモ・ビジッツ・ドクター || Elmo Visits the Doctor || '''2005年''' || '''2009年'''<br>6月24日
|-
|rowspan="2"| セサミストリート ザ・ムービー: おうちに帰ろう、ビッグバード! ||rowspan="2"| Sesame Street Presents: Follow That Bird || 英語教材VHS || '''1986年'''<br/>(VHS、LD)<hr/>'''1993年'''<br/>(VHS<ref group="注釈">ワーナー・ブラザース ファミリーエンターテイメントで1993年に3回、1999年に2回発売</ref>)|| 未発売 || -
|-
| 英語教材DVD || '''2002年'''<br/>(DVD)<hr/>'''2009年'''<br/>(25周年DVD)<hr/>'''2014年'''<br/>(DVD)||'''2009年'''<br/>4月8日 || [[ワーナー・ホーム・ビデオ]]
|}
 
=== 日本版 ===
{| class="wikitable"
! 商品名 !! 販売形式 !! 発売日 !! 販売元
! 種目 !! 作品名 !! 脱稿・初出年月 !! style="width:40%" |説明・備考
|-
| セサミストリート: エルモのたんじょうび ||rowspan="3"| DVD || '''2005年'''<br>4月20日 ||rowspan="14"| [[ポニーキャニオン]]
! rowspan="6" |習作I<br />(学生時)
| align="center" |下田の女||1927年11月<br />『校友会雑誌』第313号掲載||同年春に旅した伊豆下田の体験を基にした作品<ref name="kaidai1" />。
|-
| セサミストリート:イングリッシュ ON ストリート Yummy! ヤミー!編 || '''2005年'''<br>2月16日
|align="center"|ある生活||1928年11月<br />『校友会雑誌』第319号掲載||元来は「女」「喧嘩」と併せた3篇として投稿された。だが「女」は編集委員から難点があるとして棄てられ、「ある生活」「喧嘩」だけが掲載された<ref name="kaidai1"/>。
|-
|rowspan="2"| セサミストリート:イングリッシュ ON ストリート Let’s Play! あそぼうよ!編 ||rowspan="2"| '''2005年'''<br>5月18日
|align="center"|喧嘩||同上||同上
|-
| VHS
|align="center"|蕨・竹・老人||1929年6月<br />『校友会雑誌』第322号掲載||「巡査の居る風景」と併せて2篇として投稿<ref name="kaidai1"/>。
|-
| セサミストリート:イングリッシュ ON ストリート I did it! やっとできた!編 ||rowspan="3"| DVD || '''2005年'''<br>7月20日
|align="center"|[[巡査の居る風景]]||同上||副題の付いた正式タイトルは「巡査の居る風景{{small|――1923年の一つのスケッチ――}}」。<br />この作品のみだと「左翼のように思われる」ため、毒消しとして「蕨・竹・老人」と併せて投稿された<ref name="kaidai1"/>。
|-
| セサミストリート: みんなでエルモダンス! || '''2005年'''<br>8月26日
|align="center"|D市七月叙景(一)||1930年1月<br />『校友会雑誌』第325号掲載||(二)(三)と書き継ぐ予定であったが、未完に終わった<ref name="kaidai1"/>。
|-
| セサミストリート しあわせならてをたたこう 〜どうよう・あそびうたいっぱい〜 ||rowspan="2"| '''2005年'''<br>9月21日
! rowspan="3" |習作II
| align="center" |[[北方行]]||1933年頃-1937年執筆(未完)<br />[[1948年]]5月<br />『表現』第2・春季号掲載(抜粋){{Efn|『表現』は[[角川書店]]の季刊雑誌<ref name="nenpu-chi"/>。}}|| 大学生の「黒木三造」が1930年代の中国を旅する{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=21}}。
|-
| セサミストリート HA♪HA♪HA セサミのなかまとうたおう!あそぼう! || VHS
|align="center"|プウルの傍で||1932年8月頃執筆||主人公「三造」が満州旅行の帰途、8年ぶりに母校の京城の中学校を訪れ、その光景から昔の思春期を思い出す作品。
|-
| HA♪HA♪HA セサミストリート キャラクターソング ||rowspan="6"| DVD || '''2005年'''<br>3月16日
|align="center"|無題||1935年3月以降執筆||「無題」と題された日常混沌の雑然とした教員生活を描いた作品で、「かめれおん日記」の前駆的なもの<ref name="kaidai3"/>。
|-
| セサミストリート: エルモといろえんぴつ || '''2006年'''<br>1月27日
! rowspan="9" |歌稿 その他
| align="center" |[[和歌でない歌]]||1937年11月・12月執筆<br />[[1947年]]4月<br />『藝術』第3号掲載(抜粋){{Efn|「石とならまほしき夜の歌」から6首、「また同じき夜によめる歌」、「夢」から7首が掲載された<ref name="kaidai1"/>。『藝術』は八雲書店の季刊雑誌<ref name="kaidai1"/>。}}|| [[和歌集|歌集]]。「遍歴」「憐れみ讚ふるの歌」「石とならまほしき夜の歌 八首」「また同じき夜によめる歌 二首」「夢」「夢さめて再び眠られぬ時よめる歌」「放歌」からなる。
|-
| もっと! セサミストリート エルモとお友だち ||rowspan="2"| '''2006年'''<br>7月19日
|align="center"|河馬||1937年11月・12月執筆||歌集。「河馬の歌」「狸」「黒豹」「マント狒」「白熊」「眠り獅子の歌」「仔獅子」「駱駝」などからなる。
|-
| もっと! セサミストリート たのしくえいご! 〜apple/shoes/foot/banana〜
|align="center"|Miscellany||同上||歌集。「理髪店の歌」「チンドン屋の歌」「聘珍楼の歌」「夜と林檎の歌」「真珠の歌」などからなる。
|-
| もっと! セサミストリート たのしくえいご! 〜telephone/nose/grass/handkerchief〜 || '''2006年'''<br>8月25日
|align="center"|霧・ワルツ・ぎんがみ<br />{{small|―秋冷羌笛賦―}}||1937年11月・12月執筆<br />1947年4月<br />『藝術』第3号掲載(抜粋){{Efn|「街頭スケッチ」から7首が掲載された<ref name="kaidai1"/>。}}||歌集。「踊り子の歌」「ひげ・いてふの歌」「街頭スケッチ」などからなる。
|-
| もっと! セサミストリート たのしくえいご! 〜pencil/mouth/umblella/airplane〜 || '''2006年'''<br>9月20日
|align="center"|Mes Virtuoses<br />(My Virtuosi)||1936年以降-<br />1937年11月・12月執筆||歌集。「シャリアーピンを聴く」「トレパク(死の舞踏) ムッソルグスキイ」「ハイフェッツを聴く」などからなる。
|}
 
== 音楽CD ==
{| class="wikitable"
! 商品名 !! 販売形式 !! 発売日<br>{{Flagicon|JPN}} !! 販売元
|-
| セサミストリート・イン・ハーモニー || 洋楽オムニバスCD || 1990年10月25日 || [[ワーナーミュージック・ジャパン]]
|align="center"|朱塔||1936年8月以降-<br />1937年11月・12月執筆||歌集。「杭州の歌」「蘇州の歌」などからなる。<br />1936年8月の中国旅行の風景を基にした歌。
|-
| セサミ・ストリート アルファベットアルバム AからZまでソング ||rowspan="15"| 英語教材ミュージックCD || 1991年4月25日 ||rowspan="15"| [[ソニー・ミュージックレコーズ]]
|align="center"|小笠原紀行 ||1936年3月以降-<br />1937年11月・12月執筆||歌集。100首余りの歌からなる。<br />1936年3月の小笠原旅行の風景を基にした歌。
|-
| SESAME STREET SERIES / いちにちの時間わり〜朝から晩までソング || 1991年4月25日
|align="center"|漢詩||1939年頃執筆||25の[[漢詩]]。
|-
| かぞえまショウ〜1から10までソング〜 || 1991年4月25日<hr/>1997年10月22日<hr/>1999年4月21日
|align="center"|訳詩|| ||清の時代の詩人や、[[トーマス・ムーア (詩人)|トーマス・ムーア]](1779-1852年)の詩の訳詩。
|-
| セサミストリートのうた || 1991年7月1日
! rowspan="6" |雑纂
| align="center" |文芸部部史||1930年9月『向陵誌』掲載||『向陵誌』は第一高等学校の寮誌<ref name="kaidai3" />。
|-
| SESAME STREET / セサミ・ディスコ || 1991年11月1日
|align="center"|新古今集と藤原良経|| ||大学時代のレポートの下書きと推察されている<ref name="kaidai3"/>。
|-
| セサミストリート・フィーバー || 1991年11月1日
|align="center"|鏡花氏の文章||1933年7月『学苑』第1号掲載||[[泉鏡花]]の作品を読むことを生徒に勧めている文。<br />『学苑』は横浜高等女学校の学内誌で中島敦が編集発行人となっている<ref name="kaidai3"/>。<br />他、タイトルのない雑記には『学苑』の編輯後記などがある。
|-
| セサミストリート ザ・ベスト・オブ・ビッグバード || 1992年4月22日
|align="center"|十年||1934年3月『学苑』第2号掲載|| 将来フランスに行きたいと思っていた16歳のころの思い出を綴った文。
|-
| セサミストリート ザ・ベスト・オブ・クッキーモンスター || 1992年4月22日
|align="center"|どのスポーツが好きか||1936年7月『学苑』第7号掲載||中学2年のころに野球をやっていたことや、その他スポーツについて一言書いた短文。
|-
| セサミストリート ザ・ベスト・オブ・オスカー || 1992年11月21日
|align="center"|お国自慢||1937年7月『学苑』第9号掲載||各地を転々として育ったため、人々の言う「故郷」という言葉が持つ感覚が自分には分からないと述べた短文。
|-
| セサミストリート ザ・ベスト・オブ・グローバー || 1992年11月21日
! rowspan="2" |草稿
| align="center" |セトナ皇子(仮題)|| rowspan="2" | ||題名は文治堂の全集編集者によって仮に付けられたもの。<br />「古譚」系統の草稿と推察されている<ref name="kaidai3" />。
|-
| セサミストリート ザ・ベスト・オブ・ザ・カウント || 1992年11月21日
| align="center" |妖氛録||[[巫臣]]の妻となった[[夏姫]]の物語。<br />「古俗」系統の草稿と推察されている<ref name="kaidai3" />。
|-
| セサミストリート ザ・ベスト・オブ・バート || 1992年11月21日
!論文
| align="center" |耽美派の研究||1932年11月脱稿・提出||大学卒業論文。卒業は1933年3月。
|-
| セサミストリート エルモのうた || 1997年7月1日<hr/>1999年4月21日
! rowspan="4" |翻訳
| align="center" |パスカル<br />([[オルダス・ハクスリー]]作)||1938年8月9日翻訳脱稿|| rowspan="4" |
|-
| セサミストリート セサミストリート ベスト・ヒット・アルバム〜人気いっぱいソング〜 || 1999年4月21日
| align="center" |スピノザの虫<br />(オルダス・ハクスリー作)||1939年7月翻訳
|-
| セサミストリートのクリスマス || 1997年10月22日
| align="center" |クラックストン家の人々<br />(オルダス・ハクスリー作)||1939年頃翻訳(未完)
|-
| HAHAHA! セサミストリートキャラクターソング ||rowspan="3"| 日本版キャラクターソング || 2005年03月16日 ||rowspan="2"| [[ティー ワイ エンタテインメント|アイシーアベニュー音楽出版]]
| align="center" |罪・苦痛・希望・及び<br />真実の道についての考察<br />([[フランツ・カフカ]]作)||
|}-
| セサミストリート キャラクターソングアルバム あつまれ!セサミストリート || 2005年12月14日
 
== 刊行書籍など ==
=== 単行本 ===
{|class="wikitable"
|+単行本
!書籍名!!出版社!!出版年月!!Ncid !!style="width:35%"|収録作品
|-
| セサミストリート キャクターソングアルバム I will be with you 〜いつもそばに〜 || 2006年6月30日 ||rowspan="2"| [[ティー ワイ エンタテインメント|インデックス・ミュージック]]
|align="center"|第一創作集<br />『光と風と夢』||[[筑摩書房]]||1942年7月15日||{{NCID|BA44738108}}。||「古譚」(狐憑、木乃伊、[[山月記]]、[[文字禍]])、「[[斗南先生]]」、「[[虎狩]]」、「[[光と風と夢]]」
|-
| セサミストリート THE BEST OF ELMO〜ベスト・オブ・エルモ〜 ||rowspan="2"| 英語教材ミュージックCD || 2006年5月17日
|align="center"|第二創作集<br />『南島譚』<br />(新鋭文学選集2) ||今日の問題社||1942年11月15日||{{NCID|BA69658009}}。||「南島譚」(幸福、夫婦、雞)、「[[環礁 (紀行)|環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―]]」(寂しい島、夾竹桃の家の女、ナポレオン、真昼、マリヤン、風物抄)、「[[わが西遊記]]」([[わが西遊記|悟浄出世]]、[[わが西遊記|悟浄歎異―沙門悟浄の手記―]])、「古俗」([[盈虚]]、[[牛人]])、「過去帳」([[かめれおん日記]]、[[狼疾記]])、「[[名人伝]]」
|-
| セサミストリート プラチナム・オールタイム・フェイバリッツ || 2009年3月18日 || [[日本コロムビア]]
|align="center"|『李陵』||小山書店||1946年2月10日||{{NCID|BN11436604}}。||「李陵」、「弟子」
|-
| 僕たちの街/Sunny Day || [[YUKA]]によるシングル・ソング || 2013年2月27日 || [[エイベックス・エンタテインメント|エイベックス・インフィニティ]]
|align="center"|『わが西遊記』||京北書房||1947年9月||{{NCID|BA69612110}}。||「悟浄出世」、ほか4篇
|-
| セサミストリート Let’s Enjoy! ハロウィン・パーティー || 英語教材ミュージックCD || 2013年9月25日 || [[キングレコード]]
|align="center"|『李陵』<br />原稿復刻版<br />(手稿の複製)||[[文治堂書店]]||1980年11月||{{NCID|BN05292204}}。||「李陵」(清書原稿)、「李陵」(草稿)、「章魚木の下で」(清書原稿)<br />[[氷上英廣]]、[[中村光夫]]の寄稿文もあり。
|}
 
=== 全集スピンオフ作品 ===
* Play with Me Sesame
* [[筑摩書房]]版『中島敦全集』
: バート、アーニー、グローバー、プレーリー・ドーンが主演の子供向け番組。「Play with Me」は「いっしょにあそぼう」という意味で、視聴者と一緒にアヒルくんゲームを手伝ったりする。
**全3巻、1948年10月5日 - 1949年6月10日刊 {{NCID|BN04708577}}(第3回[[毎日出版文化賞]]受賞{{Sfn|川村|2009a|p=341}}{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}})
* Sesame Beginnings
**全3巻、1976年3月15日 - 9月30日刊 {{NCID|BN00960949}}
: 2歳から5歳までを対象にした子供向け番組。主におかあさんが子供に読み聞かせをするという内容である。エルモは赤ちゃんとして登場する。
**全3巻・別巻1冊、2001年10月10日 - 2002年5月20日刊 {{NCID|BA54121705}}
* [[バートとアーニーのだいぼうけん]](Bert and Ernie's Great Adventures)
* [[文治堂書店]]版『中島敦全集』 ※「李陵」の完全翻刻版が収録
: アーニーとバートがさまざまな大冒険に出るというアニメ作品。
**全4巻・補巻1冊、1959年6月25日 - 1961年4月15日刊 {{NCID|BN08357543}}
* [[グローバル・グローバー]](Global Glover)
**改訂第2版・1963年1月刊 {{NCID|BN11560760}}
: グローバーが世界各国の旅に出るというショートコーナー、日本では独立番組として2011年1月17日から[[ディズニー・チャンネル]]で放送された。
;文庫全集
* The Not-Too-Late Show with Elmo
* [[ちくま文庫]]版『中島敦全集』
: 深夜のトーク番組で、[[2020年]]5月27日にHBOmaxにて配信された。
**全3巻、1993年1月・3月・5月 {{NCID|BN09199379}}
* The Furchester Hotel
: [[イギリス]](英国)の子供向け番組、[[英国放送協会|BBC]]のCBeebiesにて放送された。
* エルモとタンゴの不思議なミステリー
: アメリカでは2022年にHBOMaxで配信され、日本でもU-NEXTで配信されている。
* くるみ割り人形
: アメリカでは2022年にHBOMaxで配信され、日本でもU-NEXTで配信されている。
* エルモのあたらしいこいぬ(Elmo Friends Forever)
: アメリカでは2021年にHBOMaxで配信され、日本では2022年からU-NEXTで配信されている。
* メカビルダーズ(MECHA BUILDERS)
: アメリカでは2020年から[[カートゥーンネットワーク]]の[[カートゥニート]]で放送され、日本では2022年8月26日から[[U-NEXT]]で配信されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001073.000031998.html|title=エルモたちが巨大なロボットに変身⁉アメリカで話題沸騰中のセサミワークショップの新作『セサミストリート・メカビルダーズ』をU-NEXTで独占配信決定!思わず歌いたくなるオープニング映像も公開に|publisher= PR TIMES|date=2022-07-26|accessdate=2023-05-17}}</ref>。
== 主に放送されたセグメント ==
これは日本で放送されたセグメントの一部を抜枠したもの。
* [[エルモズワールド]](Elmo's World)
: アメリカで1998年から放送されているコーナー。エルモが子供たちに向けて帽子のことや靴のことを学んだりする番組。
* ヒーローガイ(Hero Guy)
: 2001年から2004年まで放送されたコーナー(日本では2002年から放送された)。ベビーベアが空想に描いたキャラクターを主人公とした作品。テリーも何回か登場した。
* アーニーが教えてあげる(Ernie's Show and Tell)
: 2001年から放送されたコーナー。子供たちがゲストとして登場し、アーニーが進行していた。
* アーニーをさがせ!(Journey to Ernie)
: 2002年から放送されたコーナー。ビッグバードがいろんな街(アニメ映像)などでアーニーを探すという内容だった。[[ウォーリーをさがせ!]]みたいなものである。
* モンスタークラブハウス(Monster Club House)
: 2002年から(日本では2003年から2004年まで)放送されたコーナー。ムーバー(シーズン33からグーゲル)、メル、ナーフ、グルーグル(シーズン33からフィービー)の4人がクラブハウスの中で何か楽しいことをするという内容だった。ホラティオ・ザ・エレファントも度々だが登場していたことがある。
 
=== 文庫本映画作品 ===
* {{仮リンク|セサミストリート ザ・ムービー: おうちに帰ろう、ビッグバード!|label=おうちに帰ろう、ビッグバード!|en|Sesame Street Presents: Follow That Bird}}(Sesame Street Presents: Follow That Bird)
刊行年月は原則初版のみ記載。
: [[1985年]]8月2日に公開された長編映画、日本では[[ビデオスルー|DVDスルー]]で[[2009年]]4月8日に発売された。
==== 新潮文庫(新潮社) ====
* [[エルモと毛布の大冒険]](The Adventures of Elmo in Grouchland)
*『光と風と夢・李陵』(1951年10月){{NCID|BN10486855}}
: [[1999年]]10月1日に公開された長編映画、日本では2000年7月29日に公開された。
**解説:[[氷上英廣]]
* セサミストリート(原題・邦題未定)配給:[[ワーナーブラザース]]
*『李陵・山月記』(1969年9月){{NCID|BN05129699}}
: [[2022年]]1月14日公開の映画(日本での公開は未定)。
**解説:[[瀬沼茂樹]]
: アメリカでは[[2021年]]1月15日<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.cinemacafe.net/article/2019/03/13/60686.html |title=映画版「セサミストリート」と「トムとジェリー」の全米公開日が決定! |publisher=シネマカフェ|accessdate=2020-11-09}} </ref>に公開される予定だったが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行_(2019年-)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行]]の影響で同年6月4日に変更されるも<ref> {{Cite web|和書|url= https://twitter.com/eigahiho/status/1151253182162489345 |title=『セサミストリート』映画化の全米公開日が、2021年1月15日から同年6月4日に延期! |publisher=[[映画秘宝]]|accessdate=2020-11-09}} </ref>、2022年1月14日に再延期されている<ref> {{Cite web|和書|url=https://twitter.com/eigahiho/status/1205249125010137089 |title=アン・ハサウェイ主演による『セサミストリート』映画が延期。|publisher=映画秘宝|accessdate=2021-03-09}} </ref>。
**改版1989年6月以降には年譜あり<ref>{{NCID|BN06143072}}、{{NCID|BB24172205}}、{{NCID|BA68348414}}</ref>。
 
== ドキュメンタリー作品 ==
==== 角川文庫(角川書店) ====
* [[ストリートギャング セサミストリートにたどり着くまで]](監督:[[マリリン・アグレロ]])
*『李陵・弟子・名人伝』(1952年2月){{NCID|BN06436456}}
: 2021年4月23日に[[サンダンス映画祭]]で公開されたドキュメンタリー映画、同年5月7日にはHBO Maxで配信された。日本では2023年9月23日から2024年6月22日まで[[Netflix]]で配信され、2024年6月23日から「ストリートギャング セサミストリートが誕生するまで」というタイトルでU-NEXTで配信されている([https://www.video.unext.jp/title/SID0102981 参照])。このタイトルの由来はジャーナリストで作家のマイケル・デイビスが書いた実話の本『{{仮リンク|Street Gang: The Complete History of Sesame Street|en|Street Gang}}』から来ている。日本語音声・字幕あり。Netflix配信時では日本語版スタッフ・キャストが無かったが、U-NEXT配信時に初めて付いた。
**解説:[[武田泰淳]]
* Through Our Eyes 小さな瞳に映る世界
*『光と風と夢 他二篇』(1956年){{NCID|BA44419143}}
: 2021年7月21日にHBO maxで配信された短編ドキュメンタリー、日本でも[[U-NEXT]]で配信されている([https://video.unext.jp/title/SID0065298 参照])<ref name="U-NEXT"/>。
**解説:[[深田久弥]]
*改版『李陵・山月記・弟子・名人伝』(1968年9月){{NCID|BA70007416}}
**解説増補:氷上英廣、武田泰淳(全6篇、再改版1989年)
*『李陵・山月記』(2019年3月){{NCID|BB28203129}}
**※[[角川つばさ文庫]]、絵:Tobi
*『文字禍・牛人』(2020年11月)、ISBN 9784041109021
**解説:[[池澤夏樹]](全6篇)
 
== テレビ以外の日本でのメディア展開 ==
==== 旺文社文庫(旺文社) ====
=== インターネットコンテンツ ===
*『李陵・弟子・山月記 他二篇』(1967年1月){{NCID|BN12792987}}
* 2003年11月からインターネット・サービス・プロバイダの[[DION]]では、教育コンテンツとして「セサミBB」を提供していたが、2006年9月30日にサービスが終了となった。
**解説:氷上英廣、[[井上靖]]、[[岩田一男]]
* [[テレビ東京ブロードバンド]]によるセサミストリートの公式モバイルサイト<!-- が、現在も各キャリア毎に提供されている。 -->
* 2009年10月から、以前からあったPC版の公式サイトの運営主体が、米国のセサミワークショップ(エージェント:株式会社ウィーヴ)に引き継がれている。内容も一新され、米国のサイトへのリード役と日本独自の情報発信の二つの役割を担っている。
* [[定額制動画配信サービス]]の[[Hulu]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]グループ)でも2014年6月からの一時期、本番組(英語版のみ)と「エルモズワールド」(英語版・日本語吹替版)の一部シーズンを配信していたことがある<ref>{{Cite web|和書|title=Huluにセサミストリートがやってくる! 6月26日から日本初登場のシーズンを配信開始|url=https://news.hulu.jp/sesamestreet/|date=2014-06-26|accessdate=2020-05-18|publisher=|website=HJホールディングス}}</ref>。
* 2015年に、[[YouTube]]に[https://www.youtube.com/channel/UCEQUPKIGWd9gCitecH1S_fA/featured Sesame Street Japan]を開設した。配信内容は、主に英語版の字幕版・吹き替え版<ref group="注釈">YouTube版の日本語吹き替えでは、大半がNHK(USJ)版とテレビ東京版とDVD版の声優が担当している。</ref>のほかに新作、セサミストリート:ELMO IN JAPANを投稿している。
* 2021年11月にU-NEXTが本番組の日本独占配信契約を締結。同月12日からテレビ番組や読み聞かせ動画、電子書籍の配信を開始することを発表した([[#U-NEXTでの配信]]を参照のこと)<ref>{{Cite web|和書|title=U-NEXT、セサミストリートの日本独占配信契約を締結--キッズ領域リニューアルへ|url=https://japan.cnet.com/article/35179347/|website=CNET Japan|date=2021-11-11|accessdate=2021-11-11}}</ref>。
* 2022年4月にYouTubeにて公開された「[[THE FIRST TAKE]]」において、[[日向坂46]]とのコラボレーションを行い、同メンバーの3人([[加藤史帆]]・[[上村ひなの]]・[[髙橋未来虹]])がエルモ、ジュリア、クッキーモンスターと共演した<ref name=":4" />。
 
== テーマパーク ==
==== 講談社文芸文庫ほか ====
=== アメリカ合衆国 ===
*『山月記・弟子・李陵 ほか三編』(1972年4月){{NCID|BA3249897X}}
1980年7月に[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]に「セサミプレイス」を開園。さらに2019年3月、テレビシリーズ50周年を記念して、[[フロリダ州]]にある[[シーワールド]]・オーランド内に「セサミストリートランド」をオープンした。
**解説:[[高橋英夫]]([[講談社文庫]])
*『光と風と夢・わが西遊記』(1992年12月)ISBN 4061962043
**解説:[[川村湊]]。作家案内:[[鷺只雄]]
*『斗南先生・南島譚』(1997年3月)ISBN 4061975609
**解説:[[勝又浩]]。作家案内:[[木村一信]]
*『中国小説集』(2007年6月)ISBN 9784270101032
**※[[武田ランダムハウスジャパン|ランダムハウス講談社]]文庫
 
=== 日本 ===
==== ちくま文庫(筑摩書房) ====
[[東京都]][[あきる野市]]に「[[東京セサミプレイス]]」(1990年10月1日開園)という、セサミストリートをテーマにした[[テーマパーク]]があった([[東京サマーランド]]・東京ムツゴロウ動物王国に隣接)が2006年12月31日に閉園した。
*『中島敦 1909 – 1942』〈[[ちくま日本文学全集]] 036〉(1992年7月) ISBN 4480102361
**解説:池澤夏樹
*『中島敦 1909-1942 [[ちくま日本文学]] 012』(2008年3月)ISBN 9784480425126
**解説:池澤夏樹
*『山月記・名人伝 ほか』〈教科書で読む名作〉(2016年12月)ISBN 9784480434128
 
[[大阪市]]にある[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]](USJ)では「[[セサミストリート 4-D ムービーマジック]]」があり、セサミストリートのキャラクターたちによる園内随所でのライブショーやウォークアラウンドも盛んに行われている<ref group="注釈">アトラクションやショーにおけるキャラクターの声は、NHK版の声優が担当。</ref>。2011年3月31日に10周年を迎えたユニバーサル・スタジオ・ジャパンでは、14番のシアターにて、「セサミストリートのハッピーサプライズ」のショーが行われていた(2011年2月28日 - 2012年2月26日)。
==== 集英社文庫(集英社) ====
*『山月記・李陵』(1993年4月){{NCID|BN14394668}}
**解説:[[新保祐司]]。中島敦の肖像あり。
 
== セサミストリートマーケット ==
==== 岩波文庫(岩波書店) ====
日本において、公式のグッズ販売や飲食をセサミストリートマーケットとして事業展開している<ref>[https://sesamestreetmarket.jp/brand/Page/about.aspx セサミストリートマーケット公式サイト](2024年8月6日閲覧)</ref>。オンライン通販のほか、実店舗「セサミストリートマーケット」を、東京の[[池袋]]地区にある[[サンシャインシティ]]内で2023年11月30日にオープンした<ref>[世界エンタメ事情]「セサミストリート」東京・池袋に複合店 物販やカフェ、世界観を体験『[[日経MJ]]』2023年12月12月15日アジア・グローバル面</ref>。
*『山月記・李陵 他九篇』(1994年7月){{NCID|BN11077727}}
**解説:氷上英廣
**同ワイド版は2003年2月
 
== 打ち切り騒動と放送局移管 ==
==== 中公文庫(中央公論新社) ====
=== 補助金減額・中止騒動 ===
*『南洋通信』(2001年9月){{NCID|BA5393324X}}
制作局であるPBS([[公共放送サービス]])は[[公共放送]]ではあるが、日本のNHKやイギリスのBBCなどとは異なり、視聴者に[[受信料]]の支払いを求めない代わりに[[アメリカ合衆国連邦政府]]や各州政府による補助金、民間からの寄付金などによって賄われている。この為、議会議員の中から政府補助金の減額または取り止めを示唆する発言が行われる事もあり、結果的に本番組を巻き込む騒動に発展する事が度々発生している<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=「セサミストリートを守れ」 米大統領選を前にワシントンでデモ行進|url=https://www.cnn.co.jp/business/35024006.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2021-11-23|date=2012-11-05}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|title=CPAC president said PBS should be defunded for 'Sesame Street' having an Asian-American muppet|url=https://www.businessinsider.com/cpac-head-wants-defund-pbs-sesame-street-asian-american-muppet-2021-11|website=Business Insider|accessdate=2021-11-21|first=Tom|last=Porter|date=2021-11-17}}</ref>。
**解説:[[佐々木譲]]
**増補新版は2019年7月、ISBN 9784122067561
 
2012年10月に行われた[[2012年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選挙]]前のテレビ討論で[[共和党 (アメリカ合衆国)|共和党]]の[[ミット・ロムニー]]候補がPBSへの補助金打ち切り政策の一例として「人気キャラクターの『ビッグバード』は好きだが、中国から借りた金([[財政赤字]])を増やしてまで国が支援すべきではない」と番組終了を匂わす発言をしたため、[[デモ活動|抗議デモ]]まで発生した<ref name=":3" /><ref>{{Cite web|和書|title=「セサミストリート」ビッグバードがクビ?米大統領候補ロムニー氏の発言が話題に|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0046605|website=シネマトゥデイ|accessdate=2021-11-23|date=2012-10-05}}</ref>。この発言に[[民主党 (アメリカ合衆国)|民主党]]が、ロムニーはウォール街の富裕層を優遇する姿勢だという概要の[[ネガティブ・キャンペーン]]CMを放送、これに対し共和党は「大統領は国民でなく、ビッグバードを助けるのに躍起になっている」と弁解している<ref>{{Cite web|和書|title=米大統領選オバマ勝利!ロムニー口撃のこのCMが効いた?|url=https://www.j-cast.com/tv/2012/11/07153020.html|website=J-CASTテレビウォッチ|date=2012-11-07|accessdate=2021-11-23}}</ref>。
==== 文春文庫(文藝春秋社) ====
*『李陵・山月記』(2013年7月){{NCID|BB13078034}}
 
2021年11月、セサミワークショップは番組初の[[アジア系アメリカ人]]マペットとして、[[韓国系アメリカ人]]の新キャラクターであるジヨンが同月放送の特別番組にて登場することを発表した<ref>{{Cite web|和書|title=「セサミストリート」に初のアジア系マペット。大坂なおみさんも登場し、人種差別を考える|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/sesame-street-debuts-ji-young_jp_619309ade4b05e93cbb40a79|website=ハフポスト|date=2021-11-16|accessdate=2021-11-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=セサミストリートに韓国系の新キャラクター、感謝祭の特別番組で登場へ|url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35179517.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2021-11-21|date=2021-11-16}}</ref>。これに対し、一部の保守系有力者が不満を示し、「公営放送PBSは正気ではない。我々はPBSに対する資金支援を中止すべき」との旨を[[Twitter]]に投稿したことが報じられた<ref name=":2" /><ref>{{Cite web|和書|title=子供番組の韓国系キャラクター登場に米国保守派議員「正気か」|url=https://web.archive.org/web/20211118121049/https://japanese.joins.com/JArticle/284944?sectcode=A00&servcode=A00|website=中央日報|accessdate=2021-11-21|date=2021-11-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「セサミストリート」初の韓国系キャラクターに…「正気か」と米保守系有力者が不快感|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/11/18/2021111880194.html|website=[[朝鮮日報]]日本語版|accessdate=2021-11-21|date=2021-11-18}}</ref>。
==== 上記以外の他社 ====
*『李陵』([[社会思想社]]/[[現代教養文庫]]、1953年4月){{NCID|BN12191025}}
*『李陵 山月記 ほか五編』([[小学館文庫]]、2000年3月){{NCID|BA48141129}}。
*『山月記・李陵』(舵社/デカ文字文庫、2006年3月){{NCID|BA77092843}}
 
=== 音声・映像HBOへの移管 ===
PBSからの協賛金が減らされていることに加え、インターネット動画配信サービスの普及に伴い、番組DVDや[[ビデオグラム|ビデオソフト]]などの売上も落ちていることから、2015年秋からタイム・ワーナー(現・ワーナーメディア)系列の有料ケーブルチャンネル「[[HBO]]」で本番組の新作を優先的に放送することになった<ref name=":1" />。この合意に伴う制作資金の確保により、制作本数が増加したり、スピンオフシリーズの制作やインターネット上でのオンライン事業などといった新たなビジネスの展開でできるようになった<ref name=":1" />。その一方で、有料チャンネルHBOを契約できない世帯にいる子どもへの選別の問題が生じた。これについては、HBOでの新作独占放映権が消滅する9か月後に、PBSが遅れネットすることで解決した<ref name=":1" />。しかし、資金を出すHBOが番組に干渉して、これまでの制作手法や内容が変わる可能性も指摘されている<ref name=":1" />。さらに、PBSは重要番組を手放すことにより、公共放送における責任を放棄しているとの批判の声も残る<ref name=":1" />。
* 『山月記・名人伝・牛人』 [[江守徹]] 朗読、[[新潮社]]〈新潮[[カセットテープ|カセットブック]] 〉、1988年/新潮CD、1997年、ISBN 410-8310039
* 『李陵』 [[日下武史]] 朗読、新潮社〈新潮カセットブック〉、1993年/新潮CD、2005年、ISBN 410-8301765
* 『山月記』 [[小野大輔]] 朗読、[[海王社]]文庫、2014年、ISBN 479-6405763 - 朗読CD
*: ''個別作品の朗読作品については、『[[山月記#朗読CD]]』など個別記事を参照。''
* 『敦 山月記・名人伝』 [[野村萬斎]] 構成・出演、[[WOWOW]]、2006年、{{Asin|B000GFM80O}} - [[DVD]]{{Efn|『敦 山月記・名人伝』は[[世田谷パブリックシアター]]で2005年に公開され、構成・演出・出演を務めた[[野村萬斎]]は朝日舞台芸術賞(舞台芸術賞)と[[紀伊国屋演劇賞]](第40回個人賞)を受賞した<ref>”[https://www.asahi.com/shimbun/award/stage/05.html 第5回(2005年)受賞者(敬称略)]”. ''朝日舞台芸術賞''. [[朝日新聞社]]. 2020年11月7日閲覧。</ref><ref>“[https://www.kinokuniya.co.jp/c/label/award/31.html 第31回~]”. ''[[紀伊國屋演劇賞]]''. [[紀伊国屋書店]]. 2020年11月7日閲覧。</ref>。}}
 
== その他 ==
== 資料保存活動・企画展 ==
当番組で使われている数字・アルファベットの書式は[[Futura]]が多く使われているが、数字の「1」は上部のひげ飾りの部分が省略され小文字の「l」とほぼ似ている。「4」は斜線部と縦棒がつながっていない形になっている。
=== 神奈川近代文学館・中島敦文庫 ===
[[画像:Kanabun 20191019.jpg|thumb|2019年の中島敦展開催中の[[神奈川近代文学館]]]]
[[神奈川近代文学館]]には1992年に中島家から寄贈された資料による「中島敦文庫」が設けられている{{R|没後60年}}{{Sfn|宝島社|2009}}。同館で下記も発行<ref>“[https://www.kanabun.or.jp/webshop/1679/ 中島敦文庫直筆資料画像データベース]”. ''刊行物一覧''. 神奈川近代文学館. 2019年10月21日閲覧。</ref>
* 『中島敦文庫直筆資料画像データベース』([[DVD]])[[神奈川近代文学館]]、2009年、ISBN 9784862713278
:「中島敦文庫」では、中島の自筆資料のみならず、[[パラオ]]に赴いた際の[[トランク (鞄)]]など物品も所蔵されている{{R|特別展2019}}。かつては[[日本大学法学部・大学院法学研究科及び新聞学研究科|日本大学法学部]]も「中島敦文庫」を設けており{{R|日大文庫}}、2006年に同館は、旧・蔵書も日本大学から引き取った{{R|生誕100年}}。ほぼ全ての中島敦の原稿・遺品などを収蔵した同館は「中島敦研究のメッカ」であるとされている{{Sfn|川村|2009b|pp=14-15}}。
 
2018年11月16日、日本の[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]から洋楽のクリスマスソングを収録した[[コンピレーション・アルバム]]である『ワンダフル・クリスマス』(規格品番:PROT-1238)が[[タワーレコード]]限定で発売され、そのジャケットデザインに『セサミストリート』のマペットキャラクター(イラスト)が起用された<ref name="tower">[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000274.000025445.html タワレコのクリスマス、今年はセサミストリートとコラボが決定。11/16~「クリスマスキャンペーン2018」スタート!] [[PRTIMES]]/タワーレコード(2018年11月2日)2024年8月6日閲覧</ref>。なお、ジャケットにマペットキャラクターが描かれているが、アルバムに『セサミストリート』およびマペット関連の曲は一切収録されていない<ref name="tower" />。同アルバムは2020年11月13日に同品番で再発売されているが、再発売盤はジャケットデザインが変更されており、マペットキャラクターは起用されていない<ref>[https://tower.jp/item/4819300/%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%EF%BC%9C%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E9%99%90%E5%AE%9A%EF%BC%9E ワンダフル・クリスマス<タワーレコード限定>]TOWER RECORDS ONLINE(2023年2月26日閲覧)</ref>。
:なお同館で、没後50年<ref name="sakka-sagi"/>、没後60年{{R|没後60年}}、生誕100年{{R|生誕100年}}、生誕110年{{R|加藤2019|桂2019}}に企画展を開催した。
* 『没後五〇年 中島敦展 一閃の光芒』 [[神奈川近代文学館]]、1992年9月。{{NCID|BN08477024}}
* 『中島敦展 魅せられた旅人の短い生涯』 神奈川近代文学館・展覧会図録、2019年9月。{{R|図録2019}}
 
2019年に番組開始50年になるのを記念して、同年5月にニューヨーク市内の通りに「セサミストリート」が実際に命名された<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3663406.html|title=「セサミストリート」50周年、NYにあの通りが…|accessdate=2019-05-02|publisher=TBSテレビ(2019年5月2日作成)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190505080131/http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3663406.html|archivedate=2019-05-05}}</ref>。HBOが制作している人気[[テレビドラマ|ドラマ番組]]との[[コラボレーション]]も行い、エルモが『[[ゲーム・オブ・スローンズ]]』に、クッキーモンスターが『[[ウエストワールド (テレビドラマ)|ウエストワールド]]』にそれぞれゲスト出演している動画が公開された<ref>{{Cite web|和書|title=海外ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』:セサミストリートのエルモと共演|url=https://kaigai-drama-board.com/posts/19744|website=海外ドラマboard|accessdate=2020-05-18|publisher=|date=2019-04-19}}</ref>。
といった刊行物も発行した{{R|刊行物}}。
 
2023年10月30日、ハリウッド・レポーターは、セサミストリートが長年の「雑誌」フォーマットを廃止し、11分のストーリーセグメントを2つと新しいアニメーションシリーズ「Tales from 123」と組み合わせた、より物語的なフォーマットを選択すると報じた。
なお[[漫画]]作品のような[[サブカルチャー]]とコラボレーションした企画が[[文学館]]で行われるようになっており{{R|高知2018|加藤2019}}、神奈川近代文学館でも2019年の企画展で前述の『[[文豪ストレイドッグス]]』とのコラボレーション企画を実施した{{Sfn|神奈川近代文学館|2019}}{{R|加藤2019}}。
 
=== 中島敦の会 ===
「中島敦の会」は、中島がかつて勤務していた横浜高等女学校(現・[[横浜学園高等学校]])の教え子たちを中心に発足した会である<ref name="kaneko"/><ref name="soiri"/>。毎年、命日の12月4日近くの日曜日に会合を開いて、講演会などを催し、年に1回、会報も発行した<ref name="kaneko"/><ref name="soiri"/>。彼女たちが存命中には教え子の鼠入陽子(旧姓・山田)や金子いく子がおもに代表世話人をしていた<ref name="kaneko"/><ref name="soiri"/>。
 
2017年現在は、事務局は横浜学園高等学校(横浜学園)に置かれ{{R|田沼1992|没後75年}}、横浜学園理事長の田沼智明{{Sfn|西原|2004|p=105}}や田沼光明{{R|没後75年}}が会長を務めている。同会は1992年(平成4年)9月27日に[[ホテルニューグランド]]のペリー来航の間において「没後50年 中島敦を偲ぶ会」を開催しており<ref name="sakka-sagi"/>、[[陳舜臣]]、[[白川静]]、[[佐藤全弘]]を推薦人として[[酒見賢一]]に「没後五十年中島敦記念賞」を授与した{{R|勝又1992}}。中島敦の会主催の記念朗読会もあり、児玉朗かたりよみ「悟浄出世」、古屋和子ひとり語り「[[文字禍]]」「幸福」、そして[[観世栄夫]]演出による第一回は豊竹呂太夫の「[[山月記]]」、豊竹咲太夫「[[名人伝]]」、第二回は観世栄夫・[[野村万作]]・[[野村万之丞 (5世)| 野村万之丞]]「李陵」の朗読が開催された<ref name="sakka-sagi"/>。
 
また、同会は神奈川近代文学館の企画展も後援し{{R|特別展2019}}、同館で没後75年のイベントも主催した{{R|没後75年}}。生誕100年の2009年(平成21年)には『山月記』や『名人伝』を舞台化した[[野村萬斎]]<ref>[[野村萬斎]] 構成・出演『敦 山月記・名人伝』([[DVD]]) [[WOWOW]]、2006年、{{Asin|B000GFM80O}}。</ref>を招いての朗読会も開催している{{R|朗読会2009}}。
 
なお、研究者の[[村山吉廣]]も中島敦の会に参加しており{{Sfn|西原|2004|p=105}}、同会が発行する以下の研究書は神奈川近代文学館で販売されている{{R|中央大学2018}}。
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|山下・村田|2012}} |reference=山下真史、村田秀明『中島敦「李陵・司馬遷」定本篇・図版篇』、中島敦の会 発行、神奈川近代文学館 発売、2012年11月、{{NCID|BB11149211}}{{R|梅本2013}}。}}
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|山下・村田|2018}} |reference=山下真史、村田秀明『中島敦「李陵・司馬遷」註釈篇』、中島敦の会 発行、神奈川近代文学館 発売、2018年11月{{R|中央大学2018}}。}}
 
=== 記念碑 ===
* 元町幼稚園 - [[1975年]](昭和50年)12月7日、中島敦文学碑が横浜学園付属元町幼稚園の園庭に建立された{{Sfn|高橋ほか編|2002|p=511}}。元町幼稚園がある場所には、中島敦が勤務していた[[横浜学園高等学校|横浜高等女学校]]があった{{Sfn|神奈川近代文学館|1992|p=2}}。発起人は、中島の横浜高等女学校時代の教え子や同僚{{Sfn|高橋ほか編|2002|p=511}}。中島の筆跡で{{R|田井編2016}}、『[[山月記]]』の冒頭が刻まれている(原稿が行方不明のため『弟子』の原稿から集字した){{Sfn|高橋ほか編|2002|p=511}}{{Sfn|村山|2002|pp=128-139}}。[[File:Monument of Atsushi Nakajima.jpg|thumb|元町幼稚園の中島敦の文学碑]]
 
* [[横浜外国人墓地]] - [[1989年]]に記念碑(歌碑)が中島敦の会、横浜ペンクラブによって建立{{Sfn|神奈川近代文学館|1992|p=2}}<ref>二松学舎大学文学部国文学科編『神奈川 文学散歩』 [[新典社]]、2013年、115-116頁。</ref>。この外人墓地が『[[かめれおん日記]]』の中に登場し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.welcome.city.yokohama.jp/ja/otona/archive/archive07.html |title=名作の中のヨコハマ。|publisher =横浜観光コンベンション・ビューロー |accessdate=2019-10-06}}</ref>、その場面で詠んだ歌が石碑にも記されている{{R|田井編2016}}{{Sfn|村山|2002|pp=128-139}}。[[横浜高等女学校]]時代の散歩コースとなっていた{{Sfn|神奈川近代文学館|1992|p=2}}。墓地内は通常は非公開{{R|田井編2016}}。
 
* 中島敦ゆかりの地記念碑 - [[埼玉県]][[久喜市]]にある{{R|ゆかりの地}}。祖父、[[中島撫山]]の家があり、中島敦は2歳から6歳をここで過ごした{{R|ゆかりの地}}。なお、久喜市には「久喜・中島敦の会」があり、生誕100年を記念して『中島敦と私』を出版している{{R|久喜2009}}。
 
== 関連文献 ==
{{See also|#参考文献}}
=== 評伝・年譜 ===
* 中村光夫・氷上英廣編 『中島敦研究』 筑摩書房、1978年、{{NCID|BN00245375}}
* 田鍋幸信 編著『中島敦・光と影』 新有堂、1989年、ISBN 4880330132 - 関係者・親族に取材した聞き書き。
* 斎藤勝『中島敦書誌 近代文学書誌大系』 和泉書院、1997年、ISBN 4870888688
* [[村山吉廣]]『評伝・中島敦―家学からの視点』 [[中央公論新社]]、2002年、ISBN 978-4120033179
* [[島内景二]]『中島敦「山月記伝説」の真実』 文春新書、2009年、ISBN 9784166607204
 
=== 作品論 ===
* [[佐々木充]]『中島敦の文学』 [[おうふう|桜楓社]]、1973年
* [[浜川勝彦]]『中島敦の作品研究』 [[明治書院]]、1976年
* [[鷺只雄]]『中島敦論――「狼疾」の方法』 有精堂出版、1990年、ISBN 978-4640309112
* [[進藤純孝]]『山月記の叫び』 [[六興出版]]、1992年
* [[勝又浩]]・[[木村一信]]編『中島敦―昭和作家のクロノトポス』 双文社出版、1992年、ISBN 978-4881643808
* 村田秀明『中島敦「李陵」の創造』 明治書院、1999年、ISBN 462543081X
* 村田秀明『中島敦「弟子」の創造』 明治書院、2002年、ISBN 4625433169
* [[渡辺一民]]『中島敦論』 [[みすず書房]]、2005年、ISBN 4622071355
* [[川村湊]]『狼疾正伝―中島敦の文学と生涯』 [[河出書房新社]]、2009年。ISBN 9784309019215
*『[[KAWADE道の手帖]] 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 河出書房新社、2009年
 
=== その他 ===
* 山口比男『汐汲坂―中島敦との六年』 えつ出版、1993年5月、{{NCID|BN11349306}}
* 『中島敦 父から子への南洋だより』 [[川村湊]]編、[[集英社]]、2002年、ISBN 4087753158
* [[三浦雅士]]『出生の秘密』 講談社 2005年、ISBN 406213005X - 中島の短編『狼疾記』と『悟浄出世』、未完長編『北方行』を2章を費やし論じる。
* [[岡谷公二]]『南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦』 [[冨山房]]インターナショナル、2007年、ISBN 9784902385519
* 『パラオ ふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・[[土方久功]]展』 [[世田谷美術館]]、2007年、{{NCID|BA83882319}}
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|宝島社|2009}} |reference=『端正・格調高い文章を味わう 中島 敦』 [[宝島社]]〈[[別冊宝島]] 1625〉、2009年、ISBN 978-4-7966-7036-4。}}- 生誕100年特別企画{{R|宝島サイト}}
* 山下真史『中島敦とその時代』 双文社出版、2009年、ISBN 9784881645925
* [[小谷野敦]]『中島敦殺人事件』 論創社、2009年、ISBN 9784846009083
* [[久世番子]]『よちよち文藝部』 [[文藝春秋]]、2012年、ISBN 9784163757506
* 武内雷龍『夏雲―『山月記』中島敦と、その母』 海象社、2012年5月、ISBN 9784907717315
* 石井要『中島敦 意識のゆらぎから複数の世界へ』ひつじ書房、2024年5月、ISBN 978-4-8234-1226-4
 
== 関連人物 ==
;[[田中西二郎]]
:英米文学の翻訳者。中島が第一高等学校時代、伯父・関翊一家が暮らしていた渋谷の岡本武尚邸の別棟に寄寓した時に岡本家の武夫(一高で[[高見順]]と同級)と仲良くなった縁で、田中西二郎と知り合い生涯にわたって親交を結んだ<ref name="nenpu-chi"/>{{Sfn|岡谷|2009|pp=25-29}}<ref name="okamoto"/>。田中から送られた本(中島は『妙齢』と言っていた)の中にあった[[大久保康雄]]の南洋小説を読んでいた中島は、パラオ南洋庁赴任中の[[ヤルート]]島で意気投合した竹内虎三という役人から、南洋を訪れた大久保を一昨年(1939年頃)[[マーシャル諸島]]に案内した話を聞くという奇遇を体験した<ref name="sho145"/>{{Sfn|岡谷|2009|pp=25-29}}。中島はその時点で知っていた大久保の短編(のち『孤独の海』所収)を参考に南洋作品を書いたのではないかと推察されている{{Sfn|岡谷|2009|pp=25-29}}。田中は中島としばしば書簡を交わしていたが、中島死後に追想文などは寄せてはいない{{Sfn|岡谷|2009|pp=25-29}}。
;[[中村光夫]]
:文芸評論家。中村光夫は第一高等学校時代の1年後輩で、文科丙類(フランス語)にいた。その後、中島と同じ東京帝国大学に進んだ中村は法学部に入学後、仏文科に入学し直した<ref name="shima4-5">「中村光夫への嫉妬」({{Harvnb|島内|2009|pp=124-131}})</ref>。中村は大学時代の中島について、「氏はその頃無数に出てゐた同人雑誌のどれにもあまり関係せず、また小説なども書かなかつたらしい。その頃僕等の使つた言葉で云へば、氏は『文学をやめて』ゐた」と語っている{{Sfn|森田|1995|pp=42-51}}。中島の教員時代、中村の評論が新聞で取り上げられて高評価されたとき、中島は同僚の山口比男に「君、彼らほどの才能でも、努力すれば、これ位にはなれるんだ」と口惜しそうに言ったという<ref>山口比男『汐汲坂――中島敦との六年』(えつ出版、1993年5月)</ref><ref name="shima4-5"/>{{Sfn|森田|1995|pp=69-70}}。
;[[土方久功]]
:彫刻家・画家・民俗学者。中島がパラオ南洋庁に赴任した際に知り合い意気投合した。土方久功は両親の死亡などで東京を離れ1929年(昭和4年)からパラオ南洋庁の嘱託として木工・図工教員の職につきながら島々の遺物や土器を調査し、南洋民俗学の第一人者となった{{Sfn|森田|1995|pp=106-109}}。土方久功の親戚には[[築地小劇場]]を[[小山内薫]]とともに建設した演出家の[[土方与志]]がいる。久功は築地小劇場の開場の際にシンボルマークの葡萄の房をデザインした{{Sfn|森田|1995|pp=106-109}}。与志の祖父・[[土方久元]]の弟が久功の父親という関係(与志は、久功の伯父の孫)であるが与志は久功より年長で、中島は父への手紙で久功のことを「土方与志氏の弟」と紹介していた<ref name="sho125">「書簡I――125 中島田人宛 昭和16年8月25日」({{Harvnb|ちくま2|1993|pp=408-410}})</ref>。中島同様に甘党で、パンやミルク、紅茶やビスケットが好物であったという<ref name="sho153"/>{{Sfn|森田|1995|pp=106-109}}。土方は中島が南洋の暑さと湿気で喘息が辛そうだった様子を回想している{{Sfn|森田|1995|pp=112-116}}。
;[[森敦]]
:小説家。中島敦が京城中学校4年のとき、森敦が2年生に在学していた{{Sfn|森田|1995|pp=14-15}}。乾物屋の倅だった森敦は、卒業後は山口高等学校に進学しようとかと思っていたが、自分の同じ名の「敦」という4年生が第一高等学校文科甲類に3番で合格したというニュースを地元の新聞『京城日報』で知り、自分も一高合格を目指そうと一念発起したという<ref name="moriatsu">[[森敦]]『文壇意外史』(朝日新聞社、1974年)</ref>{{Sfn|森田|1995|pp=14-15}}。そして、東京に帰国した中島に意見を求める手紙を出すと、一高を勧める親切な返信があったという<ref name="moriatsu"/>{{Sfn|森田|1995|pp=14-15}}。
;[[湯浅克衛]]
:小説家。京城中学校時代の同級生。当時、湯浅の父親は朝鮮の警察署に勤務し、一家は[[水原市|水原]]に住んでいた{{Sfn|小谷|2019|pp=9-12}}。そのため、湯浅の綽名は「水原豚」(スイゲン・ピッグ)だった{{Sfn|小谷|2019|pp=9-12}}{{Sfn|森田|1995|pp=25-33}}。湯浅の回想「敦と私」(ツシタラ 第三輯 1960年6月)の中で、自身が数学の授業中に急進的な総合雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』を読んで停学を言い渡された際、級長の中島敦が教員室に飛び込んできて、「水原豚を処罰してはいけません。『改造』を読んでいたからと云って処罰したら、天下の京中の名誉にかかわります」と仲裁してくれたおかげで、停学処分が免れて図書館監禁という軽い罰で済んだ話を語っている{{Sfn|小谷|2019|pp=9-12}}<ref name="wata1-6"/>{{Sfn|森田|1995|pp=25-33}}。京城中学校以後は2人の間に交流はなかったという<ref name="wata1-6"/>。湯浅は1934年(昭和9年)に、朝鮮貴族邸の請願巡査の息子(12歳の日本人少年)と、その邸の門番の娘・カンナニ(14歳の朝鮮人少女)の純愛を描いた植民地小説「カンナニ」を『改造』懸賞小説に応募し佳作となったが、雑誌側が検閲をおそれ、後半を削除した上で翌年の『文学評論』に掲載された<ref name="wata1-6"/>。戦後湯浅に会った同級生によると、中島の話となったとき湯浅は、「もっと早く俺のところに来ておれば」と言っていたという<ref name="yamaz"/>。
 
== 脚注 ==
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{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|refs=2}}
<!--
<ref name="磯田ほか編1988">[[磯田光一]]ほか編『新潮日本文学辞典』 新潮社、1988年1月、908-909頁、ISBN 4107302083。</ref>
<references group="episode"/>-->
<ref name="日本近代文学館1977">日本近代文学館、小田切進 編『日本近代文学大事典 第二巻』 講談社、1977年、495-497頁、{{NCID|BN00742846}}。</ref>
<ref name="大塚2015">大塚英良『文学者掃苔録図書館』[[原書房]]、2015年7月、165頁、ISBN 9784562051878。</ref>
<ref name="川村2009">[[川村湊]] (2009年2月).“[https://imidas.jp/genre/detail/L-103-0035.html 作家の家系]”. ''情報・知識&オピニオン imidas''. [[集英社]]. 2019年10月19日閲覧。</ref>
<ref name="ゆかりの地">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/kanko_tokusan/a100040030.html |title=中島敦ゆかりの地 |publisher =[[久喜市]] |accessdate=2019-10-06}}</ref>
<ref name="佐柄2016">佐柄みずき『文豪ストレイドッグス公式国語便覧』 [[KADOKAWA]]、2016年、8-9頁、ISBN 9784046017727。</ref>
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<ref name="久喜2009">久喜・中島敦の会 編『[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I004923610-00 中島敦と私 ― 中島敦生誕100年記念 ―]』 久喜・中島敦の会、2009年5月。“[http://www.vocal-mari.jp/anakajima100.html 中島敦生誕100年 | 中島敦と私]”. 米田まり公式ページ. 2019年11月29日閲覧。</ref>
<ref name="宝島サイト">“[https://tkj.jp/book/?cd=20162501&p_bn= 別冊宝島1625 端正・格調高い文章を味わう 中島 敦]”. ''別冊宝島''. 宝島社. 2019年10月19日閲覧。</ref>
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<ref name="日大文庫">『[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I004891748-00 中島敦文庫目録 : 日本大学法学部所蔵]』 日本大学法学部図書館、1980年。</ref>
<ref name="中央大学2018">“[https://www.chuo-u.ac.jp/academics/faculties/letters/major/jpn_lit/news/2018/11/16108/ 【新刊案内】文学部教授 山下真史 共著『中島敦『李陵・司馬遷』注解篇』]”. ''国文学専攻新着ニュース'' (2018年11月19日) 2019年10月22日閲覧。</ref>
<ref name="特別展2019">“[https://www.kanabun.or.jp/exhibition/10222/ 特別展「中島敦展――魅せられた旅人の短い生涯」]”. ''展覧会''. 神奈川近代文学館. 2019年10月21日閲覧。</ref>
<ref name="田沼1992">田沼智明「かもめの便り 中島敦の会」『神奈川近代文学館機関紙』第38号、1992年10月15日発行。</ref>
<ref name="勝又1992">勝又浩「没後五十年の中島敦」『文學界』1992年12月号。</ref>
<ref name="朗読会2009">“[http://rodoku.info/entry.php?id=118 中島敦生誕100年記念特別朗読会 狂言師、敦「わが西遊記―悟浄出世・歎異―」を語り読む。]”. ''朗読暦''. 2019年10月22日閲覧。“[https://yan.yafjp.org/event/event_7119 中島敦生誕百年記念特別朗読会「狂言師、敦を語り読む。」わが西遊記?悟浄出世・悟浄歎異?]”. ''ヨコハマ・アートナビ''. [[横浜市芸術文化振興財団]]. 2019年10月22日閲覧。</ref>
<ref name="梅本2013">梅本宣之「[https://doi.org/10.19018/nihonkindaibungaku.89.0_310 中島敦の会発行, 山下真史・村田秀明校訂・注釈・編集・解題, 『中島敦「李陵・司馬遷」』, 二〇一二年一一月一五日, 県立神奈川近代文学館, 定本篇 一〇三頁, 図版篇 九三頁, 二三八〇円+税]」『日本近代文学』第89巻、2013年、310頁。</ref>
<ref name="林2014">林廣親「[https://doi.org/10.19018/nihonkindaibungaku.90.0_217 今期の収穫 : 読んで気持ち良い論文あれやこれや(学界時評)]」『日本近代文学』第90巻、2014年、217-220頁。</ref>
<ref name="加藤2019">加藤聖子 (2019年10月17日).“中島敦、短くも波乱の生涯 生誕110年 横浜で特別展”([https://www.sankei.com/article/20191017-QXFIOBKHZ5LWTIJG3RDAEVDDOU/ 1頁]、[https://www.sankei.com/article/20191017-QXFIOBKHZ5LWTIJG3RDAEVDDOU/2/ 2頁]”). ''産経ニュース''. 2019年10月20日閲覧。</ref>
<ref name="高知2018">「[https://www.kochi-bungaku.com/wp-content/uploads/2016/09/da05376b8a60da5a88051824e22d3d39.pdf 江戸川乱歩の華麗な本棚 文豪ストレイドッグス×高知県立文学館]」『高知県立文学館ニュース藤並の森』第83号、2018年11月、2頁。岡崎順子「[https://www.kochi-bungaku.com/wp-content/uploads/2016/09/da05376b8a60da5a88051824e22d3d39.pdf 館長室から 文学と漫画]」『高知県立文学館ニュース藤並の森』第83号、2018年11月、7頁。ほか1頁、8頁。</ref>
<ref name="刊行物">“[https://www.kanabun.or.jp/webshop/#record-webshop 刊行物]”. 神奈川近代文学館. 2019年10月20日閲覧。</ref>
<ref name="桂2019">桂星子“[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50617890U9A001C1000000/ 世界文学としての中島敦 生誕110年で文学展]”. ''日本経済新聞'' (2019年10月10日) 2019年10月22日閲覧。</ref>
<ref name="P+D">“[https://pdmagazine.jp/people/bungo-stray-dogs/ 「文豪ストレイドッグス」に登場する小説家たちの素顔]”. ''P+D MAGAZINE'' [[小学館]]. 2019年10月22日閲覧。</ref>
<ref name="アニメージュ2019">アニメージュプラス編集部 (2019年9月14日).“[https://animageplus.jp/articles/detail/28163 『文スト』が「中島敦展―魅せられた旅人の短い生涯」とコラボ!]”. 2019年10月22日閲覧。</ref>
}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書 |author=中島敦 |date=1993-01 |title=中島敦全集1 |publisher=筑摩書房 |series=[[ちくま文庫]] |isbn=978-4480027511 |ref={{Harvid|ちくま1|1993}}}}
* {{Citation|和書 |author=中島敦 |date=1993-03 |title=中島敦全集2 |publisher=筑摩書房 |series=ちくま文庫 |isbn=978-4480027528 |ref={{Harvid|ちくま2|1993}}}}
* {{Citation|和書 |author=中島敦 |date=1993-05 |title=中島敦全集3 |publisher=筑摩書房|series=ちくま文庫 |isbn=978-4480027535 |ref={{Harvid|ちくま3|1993}}}}
* {{Citation|和書|author=中島敦|date=1992-12 |title=光と風と夢・わが西遊記|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社文芸文庫]]|isbn=978-4061962040 |ref={{Harvid|光と風・講談|1992}}}}
* {{Citation|和書 |author=中島敦 |date=1997-03 |title=斗南先生・南島譚 |publisher=講談社|series=講談社文芸文庫 |isbn=978-4061975606 |ref={{Harvid|斗南先生|1997}}}}
* {{Citation|和書 |author=中島敦 |date=1994-07 |title=山月記・李陵 他九篇 |publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波文庫]] |isbn= 978-4003114513 |ref={{Harvid|山月記|1994}}}}
* {{Citation|和書 |author=中島敦 |date=再改版2003年12月 |title=李陵・山月記 |publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮文庫]] |isbn=978-4101077017 |ref={{Harvid|李陵|2003}}}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|高橋ほか編|2002}} |reference=『中島敦全集 別巻』 [[高橋英夫 (評論家)|高橋英夫]]・勝又浩ほか編、筑摩書房、増訂版2002年。ISBN 4480738142。}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}} |reference=「中島敦略年譜」『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 [[河出書房新社]]、2009年。ISBN 978-4309740232。|pages=189-191}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|阿刀田|2000}} |reference=[[阿刀田高]]「中島敦・奇妙な味の短篇」[[日本ペンクラブ]]編『作家が語る作家』 講談社、2000年。ISBN 978-4062103862。}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|青木|2009}} |reference=青木純一「生に対する自意識の功罪について」『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 河出書房新社、2009年。ISBN 978-4309740232。}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|岡谷|2009}} |reference=[[岡谷公二]]「中島敦 南洋行の背景」『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 河出書房新社、2009年。ISBN 978-4309740232。}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|小沢|2009}} |reference=小沢秋広「「問い」の変位、「なぜ」から「どのように」『文字禍』を中心に」『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 河出書房新社、2009年。ISBN 978-4309740232。}}
*{{Citation|和書|author=[[鵜飼哲夫]]|date=2015-06|title=芥川賞の謎を解く <small>全選評完全読破</small>|publisher=[[文藝春秋]]|series=[[文春新書]] 1028 |isbn=978-4166610280 |ref={{Harvid|鵜飼|2015}}}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|開高|2009}} |reference=[[開高健]]「ケチくさくない作品」『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 河出書房新社、2009年。ISBN 978-4309740232。}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|勝又|2004}} |reference=[[勝又浩]]『中島敦の遍歴』 筑摩書房、2004年。ISBN 4480823565。}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|勝又|2009}} |reference=勝又浩「「天」をもった文学者」『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 河出書房新社、2009年。ISBN 978-4309740232。}}
* {{Citation|和書 |editor1=勝又浩 |editor2=[[木村一信]] |date=1992-11 |title=中島敦 |series=昭和作家のクロノトポス |publisher=双文社出版 |isbn=978-4881643808 |ref={{Harvid|クロノ|1992}}}}
* {{Cite journal|和書 |author=郭玲玲 |title=中島敦『弟子論』 : 己を堅持する子路像の成立をめぐって |journal=東アジア研究 |issn=1347-9415 |publisher=[[山口大学]]大学院東アジア研究科 |year=2015 |month=mar |issue=13 |pages=25-43 |naid=120005595998 |url=http://www.lib.yamaguchi-u.ac.jp/yunoca/handle/D300013000003 |ref={{Harvid|郭玲玲|2015}}}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|川村|2009a}} |reference=[[川村湊]]『狼疾正伝 中島敦の文学と生涯』 河出書房新社、2009年。ISBN 9784309019215。川村2009a。}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|川村|2009b}} |reference=川村湊「中島敦入門 帝国に抗する力を表現した作家」『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 河出書房新社、2009年。ISBN 978-4309740232。川村2009b。}}
* {{Cite book|和書 |author=小谷汪之|authorlink=小谷汪之 |year=2019 |title=中島敦の朝鮮と南洋 二つの植民地体験 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4000283861 |ref={{Sfnref|小谷|2019}}|}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|木村|1983}} |reference=[[木村一信]]「中島敦」近代作家研究事典刊行会編『近代作家研究事典』 [[桜楓社]]、1983年。}}
*{{Citation|和書|author=後藤延子 |date=2006-03 |title=中島端『支那分割の運命』とその周辺(2)―アジア主義者の選択 |journal=人文科学論集 人間情報学科編 |issue=40 |volume= |pages=123-145 |publisher=[[信州大学]]人文学部 |naid=110004786201 |ref={{Harvid|後藤|2006}}}}
* {{Citation|和書 |author=[[鷺只雄]] |date=1990-05 |title=中島敦論――「狼疾」の方法 |publisher=有精堂出版 |isbn=978-4640309112 |ref={{Harvid|鷺|1990}}}}
* {{Cite journal|和書 |author=佐々木充 |title=中島敦〈南島譚〉について |journal=[[帯広大谷短期大学]]紀要 |issn=0286-7354 |publisher=帯広大谷短期大学 |year=1970 |volume=7 |pages=35-45 |naid=110000996550 |doi=10.20682/oojc.7.0_35 |url=https://doi.org/10.20682/oojc.7.0_35 |ref={{Harvid|佐々木|1970}}}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|佐野|2013}} |reference=佐野幹『「山月記」はなぜ国民教材となったのか』[[大修館書店]]、2013年。ISBN 978-4469222326。}}
* {{Citation|和書|author=[[島内景二]] |date=2009-10 |title=中島敦「山月記伝説」の真実 |publisher=文藝春秋|series=文春新書 720|isbn=978-4166607204 |ref={{Harvid|島内|2009}}}}主に評伝
* {{Citation|和書 |author=清水久夫 |date=2017-03 |title=中島敦『南島譚』とその素材としての「土方久功日記」|journal=[[跡見学園女子大学]]文学部紀要 |issue=52 |pages=83-104 |publisher=跡見学園女子大学 |naid=120006402862 |url=http://id.nii.ac.jp/1612/00000815/ |ref={{Harvid|清水|2017}}}}
* {{Cite journal|和書 |author=関根久美子 |title=中島敦「古譚」論:束縛する〈身体〉による脱出の可能性 |journal=[[上越教育大学]]国語研究 |issn=0913-5189 |publisher=上越教育大学国語教育学会 |year=2016 |month=feb |issue=30 |pages=12-22 |naid=120005960922 |url=https://hdl.handle.net/10513/00007230 |ref={{Harvid|関根|2016}}}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|武田|2009}} |reference=[[武田泰淳]]「作家の狼疾――中島敦『わが西遊記』をよむ」『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 河出書房新社、2009年。ISBN 978-4309740232。}}
* {{Citation|和書 |author=田鍋幸信 編著|date=1989-03 |title=中島敦・光と影 |publisher=新有堂 |isbn=4880330132 |ref={{Harvid|田鍋|1989}}}}
* {{Cite journal|和書 |author=陳愛華 |title=南島憧憬の行方 : 中島敦におけるアンチ〈近代〉の思考 |journal=[[広島大学]]大学院教育学研究科紀要. 第二部文化教育開発関連領域 |issn=1346-5554 |publisher=広島大学大学院教育学研究科 |year=2004 |issue=53 |pages=281-290 |naid=110004667348 |doi=10.15027/18278 |url=https://doi.org/10.15027/18278 |ref={{Harvid|陳|2004}}}}
* {{Cite journal|和書 |author=西谷博之 |title=中島敦「盈虚」 と「牛人」の世界 |journal=比較文学 |issn=0440-8039 |publisher=日本比較文学会 |year=1977 |volume=20 |issue=0 |pages=28-37 |naid=130005699930 |doi=10.20613/hikaku.20.0_28 |url=https://doi.org/10.20613/hikaku.20.0_28 |ref={{SfnRef|西谷|1977}}}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|西原|2004}} |reference=[[西原大輔]]「[https://doi.org/10.20613/hikaku.46.0_103 書評 村山吉廣著 『評伝・中島敦―家学からの視点』]」『比較文学』第46巻、2004年、103-106頁。}}
*{{Cite journal|和書 |author=橋本正志 |title=旧南洋群島における国語読本第5次編纂の諸問題――その未完の実務的要因を中心に |journal=立命館文學 |issn=0287-7015 |publisher=[[立命館大学]]人文学会 |year=2006 |month=mar |issue=594 |pages=1208-1200 |naid=40007264642 |url=https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/594PDF/hasimoto.pdf |format=PDF |accessdate=2018-11-29| ref={{Harvid|橋本|2006}}}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|福永|2009}} |reference=[[福永武彦]]「中島敦、その世界の見取図」『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 河出書房新社、2009年。ISBN 978-4309740232。}}
* {{Citation|和書 |author1=[[ポール・マッカーシー]] | author2=オクナー深山信子|date=2009-12 |title=世界文学のなかの中島敦 |publisher=[[せりか書房]] |isbn=978-4796702935 |ref={{Harvid|マッカーシー・深山|2009}}}}
* {{Citation|和書 |author=[[三島由紀夫]] |date=1974-06 |title=作家論 |publisher=[[中公文庫]] |isbn=978-4122001084 |ref={{Harvid|作家論|1974}}}}初版([[中央公論新社|中央公論社]])は1970年10月 {{NCID|BN0507664X}}。新装改版は2016年5月
* {{Citation|和書 |author=三島由紀夫 |date=2003-11 |title=決定版 三島由紀夫全集第36巻 評論11 |publisher=新潮社 |isbn=978-4-10-642576-9 |ref={{Harvid|三島36巻|2003}}}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|村山|2002}} |reference=[[村山吉廣]]『評伝・中島敦―家学からの視点』中央公論新社、2002年。{{ISBN2|978-4120033179}}。}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|矢川|2009}} |reference=[[矢川澄子]]「中島敦における歌のわかれ」『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 河出書房新社、2009年。ISBN 978-4309740232。}}
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|吉田|1984}} |reference=[[吉田精一]]『現代日本文学史 第二版』筑摩書房、1984年。ISBN 978-4480820013。}}
* {{Cite journal|和書 |author=山下真史 |title=中島敦「山月記」を読む |journal=文学部紀要 言語・文学・文化 |issn=0529-6803 |publisher=[[中央大学]]文学部 |year=2018 |month=feb |issue=121 |pages=119-138 |naid=120006640913 |url=http://id.nii.ac.jp/1648/00009037/ |ref={{Harvid|山下|2018}}}}
* {{Citation|和書 |author=[[森田誠吾]] |year=1995 |title=中島敦 |publisher=文藝春秋|series=[[文春文庫]] |isbn=4167324040 |ref={{sfnref|森田|1995}}}}
* {{Citation|和書 |author=[[渡邊一民]] |date=2005-03 |title=中島敦論 |publisher=[[みすず書房]] |isbn=978-4622071358 |ref={{Harvid|渡邊|2005}}}}
*{{Citation|和書|author=[[ドナルド・キーン]]|translator=[[角地幸男]] |date=2012-03|title=日本文学史――近代・現代篇 五|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|isbn=978-4122056220 |ref={{Harvid|キーン現代5|2012}}}} 原版(『日本文学の歴史 14――近代・現代篇 5』中央公論社)は1996年7月。ISBN 978-4124032338
* {{Wikicite |ref={{Sfnref|神奈川近代文学館|1992}} |reference=『没後五〇年 中島敦展 一閃の光芒』 [[神奈川近代文学館]]、1992年9月。{{NCID|BN08477024}}。}}
* {{Cite book|和書|author=神奈川文学振興会編|title=中島敦展 ― 魅せられた旅人の短い生涯 |publisher=神奈川近代文学館|pages=|year=2019-09|isbn=|ref={{sfnref|図録|2019}}}}
 
== 関連項目 ==
* [[セサミストリートに登場するマペット]]
 
* [[日本セサミストリート小説家エピソード一覧]]
* 教育番組
** [[ジ・エレクトリック・カンパニー|英語とあそぼう エレクトリック・カンパニー]] :かつて日本で放送していた、セサミワークショップ制作のテレビ番組。
** [[セサミえいごワールド]]:日本ではセサミストリートのコーナーで放送、ティンゴを真殿光昭が演じた。
** [[ライオンたちとイングリッシュ]]:この番組でビッグバードとアーニーとバートが[[カメオ出演]]。
* ショートコーナー
** [[エルモズワールド]]:セサミストリートのコーナーで放送、後に独立。
** [[バートとアーニーのだいぼうけん]]:バートとアーニーが大活躍するショートアニメ。
* [[123 Slaughter Me Street]]:この番組のパロディであるゲーム。
 
== 外部リンク ==
=== 英語 ===
{{Commonscat|Atsushi Nakajima}}
* [https://www.sesameworkshop.org/ Sesame Workshop]{{en icon}}
{{wikiquote|中島敦}}
* [https://www.sesamestreet.org/ Sesame Street]{{en icon}}
{{Wikisource author|wslanguage=ja}}
* {{YouTube channel|SesameStreet|SESAME STREET}}
* {{青空文庫著作者|119|中島 敦}}
* [https://www.mockofun.com/template/sesame-street-sign-template/ Sesame Street Sign Template]
* {{WAP|pid=997741|url=www.city.kuki.lg.jp/info/koubunsyo/tenji/no4/|title=『第4回企画展 図録 中島敦とその家系』(旧久喜市公文書館ホームページ)|date=2010-03-11}}
* [https://muppet.fandom.com/wiki/Muppet_Wiki マペットWiki]{{en icon}}:たくさんいる各マペットを紹介しているWikiサイト
* {{WAP|pid=997741|url=www.city.kuki.lg.jp/info/koubunsyo/tenji/no10/|title=『第10回企画展 図録 中島敦の『斗南先生』・実話』(旧久喜市公文書館ホームページ)|date=2010-03-11}}
** [https://muppet.fandom.com/wiki/Category:Sesame_Street_Episode_Guide 各回のストーリー・スキット紹介]{{en icon}}:1969年の初回放送やテスト放送も紹介。
* [https://www.saitama-bungakukan.org/?page_id=135 中島 敦(なかじま あつし)] - [[さいたま文学館]]
* [http://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/kanko_tokusan/a100040030.html 中島敦ゆかりの地] - [[久喜市|久喜市ホームページ]]
* [https://michimana.web.fc2.com/nakajima/kai_katsudou.html 中島敦の部屋 <中島敦の会 今までの活動>] - 中島敦の会
* [https://www.kanabun.or.jp/nakajima/ 県立神奈川近代文学館所蔵 中島敦直筆資料デジタルアーカイブ]
 
=== 日本語 ===
{{中島敦}}
* [https://www.sesamestreetjapan.org/ Sesame Street Japan]
{{Normdaten}}
* {{Twitter|sesamejapan|セサミストリート公式}}
{{Good article}}
* {{Facebook|SesameStreetJapan|セサミストリート}}
* {{Instagram|sesamestreetjapan|セサミストリート公式}}
* {{YouTube|c=UCEQUPKIGWd9gCitecH1S_fA|セサミストリート日本公式}}
* [https://www.usj.co.jp/web/ja/jp/attractions/sesame-street-4-d-movie-magic/ USJ セサミストリート 4-D ムービーマジック]
* [https://web.archive.org/web/19980529185600/http://www.nhk.or.jp/sesame/index.html NHKの番組ホームページ(1998年のウェブアーカイブ)]
* {{NHK放送史|D0009020010_00000|セサミストリート}}
* [https://video.unext.jp/browse/feature/FET0010223 U-NEXT「セサミストリート」](字幕・吹替(一部を除く) 動画は{{要購読}})
 
{{前後番組
|放送局 = [[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]
|放送枠 = 日曜日 19:00 - 20:00
|番組名 = セサミストリート<br />(1972年4月9日 - 1973年4月1日)
|前番組 = [[現代の科学]]<br />(1971年4月11日 - 1972年4月2日)
|次番組 = セサミストリート(再放送)<br />(1973年4月8日 - 1975年4月6日)
|2番組名 = セサミストリート<br />(1981年4月12日 - 1982年4月4日)
|2前番組 = セサミストリート(再放送)<br />(1976年4月11日 - 1981年4月5日)
|2次番組 = [[スペイン語講座]](再放送)<br />(1982年4月11日 - 1984年4月1日)<br />※19:00 - 19:30<hr />[[フランス語講座]](再放送)<br />(1982年4月11日 - 1984年4月1日)<br />※19:30 - 20:00
|3放送局 = NHK教育テレビ
|3放送枠 = 土曜日 15:00 - 16:00
|3番組名 = セサミストリート<br />(1973年4月7日 - 1975年4月5日)
|3前番組 = [[若い広場]](再放送)<br />(1967年4月8日 - 1973年3月31日)
|3次番組 = [[あすの村づくり]](再放送)<br />(1975年4月12日 - 1976年3月20日)
|4放送局 = NHK教育テレビ
|4放送枠 = 日曜日 9:30 - 10:00
|4番組名 = セサミストリート<br />(1975年4月13日 - 1976年3月28日)
|4前番組 = [[テレビスポーツ教室]]<br />(1973年4月8日 - 1975年4月6日)<br />【土曜日 18:00 - 19:00に移動】
|4次番組 = テレビスポーツ教室(再放送)<br />(1976年4月11日 - 1981年3月22日)<br />※9:00 - 10:00
|5放送局 = NHK教育テレビ
|5放送枠 = 日曜日 10:00 - 10:30
|5番組名 = セサミストリート<br />(1975年4月13日 - 1981年4月5日)
|5前番組 = テレビスポーツ教室<br />(1973年4月8日 - 1975年4月6日)<br />【土曜日 18:00 - 19:00に移動】
|5次番組 = テレビスポーツ教室(再放送)<br />(1981年4月12日 - 1982年4月4日)
|6放送局 = NHK教育テレビ
|6放送枠 = 日曜日 10:30 - 11:00
|6番組名 = セサミストリート<br />(1976年4月11日 - 1981年4月5日)
|6前番組 = [[福祉の時代]]<br />(1975年4月13日 - 1976年4月4日)<br />【土曜日 12:30 - 13:00に移動】
|6次番組 = テレビスポーツ教室(再放送)<br />(1981年4月12日 - 1982年4月4日)
}}<!--『読売新聞』(縮刷・関東版) 1967年(昭和42年)4月8日 - 1984年(昭和59年)4月1日、テレビ欄から-->
 
{{center|'''※1982年度から1987年度まではNHK教育テレビでの放送無し'''}}
 
{{前後番組
|放送局 = NHK教育テレビ
|放送枠 = 日曜日 17:00 - 18:00
|番組名 = セサミストリート<br />(1988年4月10日 - 1990年4月1日)
|前番組 = [[お元気ですか (テレビ番組) |お元気ですか]](再放送)<br />(1985年4月7日 - 1988年4月3日)<br />※17:00 - 17:30<hr />[[ビジネスウィークリー]]<br />(1986年4月13日 - 1988年4月3日)<br />※17:30 - 18:40
|次番組 = セサミストリート(再放送)<br />(1990年4月8日 - 1992年4月5日)
|2放送局 = NHK教育テレビ
|2放送枠 = 金曜日 18:00 - 19:00
|2番組名 = セサミストリート<br />(1990年4月6日 - 1992年4月3日)
|2前番組 = [[油絵入門II]]<br />(1989年10月6日 - 1990年3月30日)<br />※18:00 - 18:30<hr />[[英語会話I]](再放送)<br />(1984年4月6日 - 1990年3月30日)<br />※18:30 - 19:00
|2次番組 = [[6時だ!ETV]](金曜日)<br />(1992年4月10日 - 1993年4月2日)<br />※18:00 - 18:25<hr />[[国際宇宙年]]<br />(1992年4月10日 - 6月12日)<br />※18:25 - 18:30<hr />[[中学生日記]](再放送)<br />(1992年4月10日 - 1993年4月2日)<br />※18:30 - 19:00
|3放送局 = NHK教育テレビ
|3放送枠 = 土曜日 18:00 - 19:00
|3番組名 = セサミストリート<br />(1992年4月11日 - 1993年4月3日)<br />【当番組のみ『6時だ!ETV』枠】
|3前番組 = [[産業情報|産業情報'92]]<br />(1991年4月6日 - 1992年4月4日)<br />【日曜日 17:00 - 18:00に移動】
|3次番組 = [[海外ドキュメンタリー]]<br />(1993年4月10日 - 1995年4月1日)<br />※18:00 - 18:45<hr />[[みんなのうた]]<br />(1993年4月10日 - 1994年4月2日)<br />※18:45 - 18:50<hr />[[アンニョンハシムニカ・ハングル講座]](再放送)<br />(1993年4月10日 - 1995年4月1日)<br />※18:50 - 19:10
|4放送局 = NHK教育テレビ
|4放送枠 = 日曜日 18:00 - 18:55
|4番組名 = セサミストリート<br />(1993年4月11日 - 1999年4月4日)
|4前番組 = 6時だ!ETV(日曜日)<br />(1992年4月12日 - 1993年4月4日)<br />※18:00 - 18:45<hr />[[名曲アルバム|名曲アルバム選]](5分×3)<br />(1992年4月12日 - 1993年4月4日)<br />※18:45 - 19:00
|4次番組 = [[大草原の小さな家 (テレビドラマ)|大草原の小さな家]]<br />(1999年4月11日 - 10月3日)<br />※18:00 - 18:45<hr />[[やってみようなんでも実験]]<br />(1999年4月11日 - 2000年3月19日)<br />※18:45 - 19:10
|5放送局 = NHK教育テレビ
|5放送枠 = 日曜日 18:55 - 19:00
|5番組名 = セサミストリート<br />(1993年4月11日 - 1997年3月30日)<br />【5分縮小して継続】
|5前番組 = 名曲アルバム選(5分×3)<br />(1992年4月12日 - 1993年4月4日)<br />※18:45 - 19:00
|5次番組 = 名曲アルバム<br />(1997年4月6日 - 1999年4月4日)
|6放送局 = NHK教育テレビ
|6放送枠 = 土曜日 7:35 - 7:40
|6番組名 = セサミストリート<br />(1999年4月10日 - 2003年4月5日)<br />【5分縮小して継続】
|6前番組 = [[日本の伝統芸能 (NHK)|日本の伝統芸能]]<br />(1998年4月11日 - 1999年4月3日)<br />※7:10 - 7:40<br />【土曜日 12:00 - 12:30に移動】
|6次番組 = [[NHK俳句|NHK俳壇]]<br />(2003年4月12日 - 2004年4月3日)<br />※7:10 - 7:40<br />【日曜日 8:00 - 8:30から移動】
|7放送局 = NHK教育テレビ
|7放送枠 = 土曜日 7:40 - 8:30
|7番組名 = セサミストリート<br />(1999年4月10日 - 2004年4月3日)
|7前番組 = セサミストリート(再放送)<br />(1997年4月12日 - 1999年4月3日)<br />※7:40 - 8:35
|7次番組 = [[NHK短歌|NHK歌壇]]<br />(2004年4月10日 - 2005年4月2日)<br />※7:30 - 8:00<br />【50分繰り下げて継続】<hr />NHK俳壇<br />(2004年4月10日 - 2005年4月2日)<br />※8:00 - 8:30<br />【50分繰り下げて継続】
}}<!--『読売新聞』(縮刷・関東版) 1985年(昭和60年)4月7日 - 2005年(平成17年)4月2日、テレビ欄から-->
 
{{前後番組
|放送局 = [[テレビ東京]]系
|放送枠 = [[テレビ東京系列日曜朝のアニメ・子供向け番組ゾーン|日曜日 9:00 - 9:30]]
|番組名 = セサミストリート(日本版)
|前番組 = [[ズッコケ三人組|それいけ!ズッコケ三人組]]
|次番組 = [[ぷるるんっ!しずくちゃん|ぷるるんっ!しずくちゃん あはっ☆]]<br/>※土曜日9:30から移動・改題
|2放送局 = テレビ東京系
|2放送枠 = 月曜日 - 金曜日 6:40 - 6:45
|2番組名 = プチプチ!セサミストリート<br/>プチプチ!セサミストリート(再放送)
|2前番組 = [[みどりのくにのこえだちゃん]]
|2次番組 = [[アニ☆研]]
|3放送局 = [[BSジャパン]]
|3放送枠 = 水曜日 18:00 - 18:30
|3番組名 = セサミストリート
|3前番組 = 究極!!にっぽんの職人<br />※17:25 - 18:25<hr />[[陸奥圓明流外伝 修羅の刻]]<br />※18:25 - 18:55
|3次番組 = [[ネイチャーランド]]
}}
 
{{セサミストリート}}
{{DEFAULTSORT:なかしま あつし}}
{{Eテレキッズ}}
[[Category:中島敦|*]]
{{Normdaten}}
[[Category:20世紀日本の小説家]]
{{デフォルトソート:せさみすとりいと}}
[[Category:日本の短編小説作家]]
[[Category:南洋庁の人物セサミストリート|*]]
[[Category:東京大学出身の人物公共放送サービス]]
[[Category:旧制第一高等学校出身アメリカ合衆国人物テレビ番組]]
[[Category:東京都区部出身1972年人物テレビ番組 (日本)]]
[[Category:1909年生NHK教育テレビジョンの子供向け番組]]
[[Category:1942年没NHK教育テレビジョンの人形劇]]
[[Category:多磨霊園に埋葬されている人物2004年のテレビ番組 (日本)]]
[[Category:テレビ東京の教養番組]]
[[Category:テレビ東京の子供向け番組]]
[[Category:人形劇番組]]
[[Category:ニューヨーク市を舞台とした作品]]
[[Category:幼稚園 (雑誌)]]
[[Category:テレビ東京の番組の歴史]]
[[Category:PBS Kids]]
[[Category:U-NEXT]]