「信濃村上氏」の版間の差分
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=== 信濃との関係 ===
[[藤原宗忠]]の『[[中右記]]』によると、仲宗は息子たちと共に[[白河天皇|白河上皇]]に仕えていたが、[[寛治]]8年([[1094年]])8月17日、嫡男
*父の仲宗 [[周防国]]に配流
*弟の[[源顕清|顕清]] [[越前国]]に配流
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=== 村上姓の由来 ===
村上姓の由来については、信濃国更級郡村上郷の地名からとされる。盛清や顕清から村上姓となったとする説の根拠であり、その父仲宗からの姓だとしても、上皇への呪詛が発覚する前に仲宗は信濃に所領を有しており、それが村上郷だったのではないかとされる。これは、越
源頼清からとする説では、[[村上天皇]]の第四皇子[[為平親王]]が村上姓を賜り、その子[[源憲定]](村上憲定)の娘婿に源頼清がなったことが由来とされる。ただし、この説は十分な確証を得られていない。
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== 南北朝時代 ==
=== 南北朝争乱と村上氏 ===
[[足利尊氏]]が天皇に謀反を起こすと、朝廷は東海・東山両道に官軍を発向し、村上
惣領家である信濃村上氏は次第に[[北朝 (日本)|北朝]]方に近い位置に移動していったが、村上氏がすべて北朝方であったわけではなかった。前述の村上義光、義隆父子の系統である村上義光の子で義隆の弟、もしくは義隆の子とされる[[村上義武]]、その子、[[村上義弘 (武将)|村上義弘]]は[[南朝 (日本)|南朝]]方について活動していた。{{要出典範囲|date=2017年6月|それが村上水軍と後に言われる勢力である}}。
[[伊予国]]を中心に[[瀬戸内海]]に活動した村上氏は、源仲宗の時代に、伊予守になった伯父、源頼義に従って伊予に下向した時期があり、後に、前述の白河上皇呪詛の事件があり、どちらも瀬戸内海に面している周防、
この時期の村上氏は、信濃では北朝方、瀬戸内海では南朝方として活動していたことになる。畿内では[[村上貞頼]]が[[正平 (日本)|正平]]10年([[1355年]])に[[平等院]]の末寺善縁寺の下司職を務め、その子孫の[[村上正貞]]が幕府の推挙で鎌倉府の寺奉行を務めている。
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== 信濃村上氏の後裔となる氏族 ==
[[屋代氏]](矢代氏)、平地氏、滝沢氏、東条氏、[[室賀氏]]、[[雨宮氏]]、[[清野氏]]、安川氏、波多氏、[[百瀬|百瀬氏]]、上条氏、下条氏、飯田氏、島本氏、福沢氏、[[出浦氏]]、小野澤氏、力石氏、[[山田氏]]、平屋氏、今里氏、[[二柳氏]]、[[夏目氏]]、小野氏、岡田氏、[[古池氏]]([[小池氏]])、[[小泉氏]]、三川氏、牧島氏、吉田氏、安藤氏、上野氏、西川氏、林氏、[[栗田氏]]、千田氏、[[山浦氏]]、吾妻氏、[[倉科氏]]、[[塚田氏]]、[[福島氏]]など。
== 系譜 ==
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[[山浦上杉家]]へ
== 脚注 ==
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