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{{Otheruses|プロ野球選手|同名の文化環境学者|松田清 (文化環境学者)}}
{{Infobox baseball player
|選手名 = 松田 清
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|写真のコメント =
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[東京府]][[東京市]](現・[[東京都]])[[渋谷区]][[初台]]
|生年月日 = [[1930年]][[12月11日]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1930|12|11|2007|2|18}}
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* [[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]] (1973 - 1977)
}}
'''松田 清'''(まつだ きよし、[[1930年]][[12月11日]] - [[2007年]][[2月18日]])は、[[東京府]][[東京市]](現・[[東京都]])[[渋谷区]][[初台]]出身の
== 経歴 ==
=== 現役時代 ===
[[明治大学付属中野中学校・高等学校|中野高校]]在学中の{{by|1949年}}夏、[[読売ジャイアンツ]]にテスト生として入団。
入団後は[[肩]]の故障のため[[一塁手]]に転向していたが、2年目の{{by|1950年}}夏、[[読売ジャイアンツ (ファーム)|二軍]]の[[東北地方|東北]]・[[北海道]]遠征のある試合で[[岩下守道]]が連投で疲労困憊し[[ストライク (野球)|ストライク]]が入らず、見かねた松田は[[宇野光雄]][[二軍監督]]に[[リリーフ]]を申し出て好投。松田の活躍によりこの遠征で巨人は7戦全勝の好成績を挙げ、松田も秋口に一軍に昇格。3試合で13回2/3を投げ10失点したが、自責点は僅か2点に抑える。[[10月24日]]の[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]戦(中津市営)で初先発登板を果たし、[[11月4日]]の[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄]]戦([[後楽園球場|後楽園]])で[[金田正一]]と投げ合い初勝利を挙げている。
退団後は[[関西テレビ放送|関西テレビ]][[野球解説者|解説者]]({{by|1962年}} - {{by|1972年}})を経て、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]で二軍投手コーチ({{by|1973年}} - {{by|1975年}})・一軍投手コーチ({{by|1976年}} - {{by|1977年}})・スコアラー({{by|1978年}})を務めた<ref name="jin" />。南海退団後はサラリーマン生活を経て、[[1985年]]から[[大阪府]][[八尾市]]にて「松田野球塾」を開設し、後進の指導に当たる。同塾からは[[杉本正志]]([[広島東洋カープ|広島]]・[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]・[[オリックス・バファローズ|オリックス]])・広政秀之([[大阪近鉄バファローズ|近鉄]])・[[村田正幸]]([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]])など何人かのプロ野球選手を輩出している<ref name="jin" />。▼
大きく割れる[[カーブ (球種)|カーブ]]と[[藤本英雄]]から伝授された[[スライダー (球種)|スライダー]]を武器に、3年目の{{by|1951年}}から実力が開花。[[5月23日]]の[[広島東洋カープ|広島]]戦(後楽園)で5勝目を挙げて以降は連勝街道を邁進し、[[10月4日]]の対[[中日ドラゴンズ|名古屋]]戦([[鳴海球場|鳴海]])で1シーズン連勝の[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]記録となる19連勝を達成<ref name="jin">『プロ野球人名事典 1999』456ページ</ref>。生きるため、家族を養うために夢中で投げたのが連勝を生んだ<ref name="ハングリー野球">[[朝日新聞]]縮刷版p505 昭和53年6月15日朝刊21面「'''白球山脈②この人も ボークに阻まれた甲子園'''」</ref>。[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]](防御率2.01)、[[最高勝率 (野球)|最高勝率]](23勝3敗、勝率.885)、[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]のタイトルを獲得。
2007年2月18日に大阪府[[羽曳野市]]の自宅にて[[虚血性心疾患]]により死去<ref>[http://sougi.bestnet.ne.jp/php/funeral_jump.php?select_year=2007&select_month=2&type=FP&start_id=4&rcv_funeral_id=zYd14QlcUuqb33/ZT4CSWYK3=0pb5 著名人の訃報]</ref>。享年78(満76歳没)。▼
{{by|1952年}}は[[3月22日]]の国鉄戦(後楽園)に勝利し、当時のプロ野球記録である20連勝まで記録を伸ばす<ref name="jin" />。20連勝の記録は{{by|1957年}}に[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]の[[稲尾和久]]がタイ記録で並んだのち、{{by|2013年}}に[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]の[[田中将大]]がほぼ半世紀ぶりに記録を更新(最終的にレギュラーシーズン28連勝)するが、いまだにセ・リーグ記録となっている。しかし、松田は年間を通じて前年ほどの活躍はできず、13勝7敗・防御率3.17に留まる。
{{by|1953年}}以降は登板試合数が激減して、{{by|1955年}}までの3年間勝ち星から見放された。特に故障したわけではなかったが、後年本人が語ったところでは、直球の球威を増そうと練習したところ、球が速くなった代わりに、カーブが悪くなってしまったという<ref>[https://web.archive.org/web/20130826130158/http://weblog.hochi.co.jp/hiruma/2013/08/post-0cf4.html 蛭間豊章記者のBaseball inside 第741回「「無名」から這い上がった2人の20連勝投手」2013年8月10日]</ref>。また、真面目すぎる性格のため、一つ負けてしまったことでジレンマに陥ってしまったのでは、との声もある<ref>『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』73ページ</ref>。
{{by|1956年}}に二軍時代から松田を可愛がっていた<ref>『巨人軍の男たち』129ページ</ref>宇野が国鉄の監督に就任すると、松田も国鉄に移籍。同年2勝を挙げた後に外野手へ転向し、{{by|1957年}}から{{by|1960年}}頃まで毎年100試合以上出場するなど、外野の準レギュラー格として活躍。古巣・巨人戦でもよく打ったが<ref name="G70" />、{{by|1961年}}に現役を引退。
=== 引退後 ===
引退後は[[関西テレビ放送|関西テレビ]]解説者({{by|1962年}} - {{by|1972年}})となる。評論家時代には[[オリックス・バファローズ|阪急]]の[[戸田善紀]]に「腐ったらいかんで」と言葉をかけ、その言葉を胸に戸田は奮起して主戦投手になるまでに成長した<ref>[https://web.archive.org/web/20130515203544/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1205/kiji/K20120511003229120.html 【5月11日】1976年(昭51) 打撃投手だった遅咲き右腕 戸田善紀 ノーヒットノーラン]</ref>。
1973年に[[野村克也]]に招聘され、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]で[[福岡ソフトバンクホークス (ファーム)|二軍]]投手コーチ({{by|1973年}} - {{by|1975年}})・一軍投手コーチ({{by|1976年}} - {{by|1977年}})を務める<ref name="ハングリー野球" />。南海コーチ時代は[[藤田学 (野球)|藤田学]]に牽制球や守りを含めたマウンド捌き、投手としての精神面の教育を万全に行った<ref>[[週刊ベースボール]]1977年5月9日号「'''人物スポット<井本隆(近)、藤田学(南)、今井雄太郎(急)> 飛び出したパ・リーグの3強を支える頼もしきホープたち'''」p118~123</ref>。1977年限りで野村克也の監督解任に伴ってコーチを下り、{{by|1978年}}はスコアラーを務める<ref name="jin" />。スコアラー転身後も「'''ハングリー野球'''」を示すために若手選手と走った<ref name="ハングリー野球" />。
▲南海退団後は[[
▲{{by|2007年}}2月18日に大阪府[[羽曳野市]]の自宅にて[[虚血性心疾患]]により死去<ref>[http://sougi.bestnet.ne.jp/php/funeral_jump.php?select_year=2007&select_month=2&type=FP&start_id=4&rcv_funeral_id=zYd14QlcUuqb33/ZT4CSWYK3=0pb5 著名人の訃報]</ref>。享年78(満76歳没)。
== 選手としての特徴 ==
球威自体で打者を押さえつけるタイプではなかったが球質は重く<ref name="G70">『ジャイアンツ栄光の70年』46頁</ref>、大小2種類のカーブと、1951年の春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]で習得した鋭く切れるドロップを武器とした<ref name="k127">『巨人軍の男たち』127ページ</ref>。特にカーブのコントロールは抜群で、分かっていても打てなかったという<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20130430_185709.html?DETAIL NEWSポストセブン「金田正一「ワシが新人王をとられた相手」と松田清忘れられぬ」2013年4月30日]</ref>。また、投球のリズムが良く、[[野手]]から非常に守りやすいとの声があった<ref name="k127" />。
== 詳細情報 ==
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=== タイトル ===
* [[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]:1回 (1951年
* [[最高勝率 (野球)|最高勝率]]:1回 (1951年
=== 表彰 ===
* [[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]] (1951年
=== 記録 ===
* 20連勝 (1951年 - 1952年) ※セ・リーグ記録
* 同一シーズン19連勝 (1951年) ※セ・リーグ記録
* 勝率.885(1951年) ※セ・リーグ歴代2位<ref>https://npb.jp/bis/history/ssp_pct.html</ref>
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回 (1952年)
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== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
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* 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』[[恒文社]]、1976年
* 森岡浩 編著『プロ野球人名事典 1999』[[日外アソシエーツ]]、1999年
*『ジャイアンツ栄光の70年』[[ベースボールマガジン社]]、2004年
== 関連項目 ==
* [[東京都出身の人物一覧]]▼
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]]
* [[東京ヤクルトスワローズの選手一覧]]
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[[Category:東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:最優秀防御率 (NPB)]]
[[Category:最高勝率 (野球)]]
[[Category:セントラル・リーグ最優秀新人 (NPB)]]
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]
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[[Category:福岡ソフトバンクホークス関連人物]]
[[Category:野球解説者]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1930年生]]
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