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|name= 神の抵抗軍 <br />{{lang|sq|'''the Lord's Resistance Army'''}}
|war= {{仮リンク|ウガンダ・ブッシュ戦争|en|Ugandan Bush War|label=ウガンダ内戦}}、[[第二次コンゴ戦争]]他
|image= [[Image:Flag
|caption=
|leaders= [[ジョゼフ・コニー]]
|ideology=十戒とアチョリの伝統に基づく国家建設
|clans=アチョリ
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== 概要 ==
[[1987年]]に[[ジョゼフ・コニー]]によって結成された。主に[[コンゴ民主共和国]]東部、[[ウガンダ]]の北部地域と[[南スーダン]]の一部で活動して
== 歴史 ==
{{main|[[:en:Lord's Resistance Army insurgency]]}}
=== 背景 ===
1986年1月[[アチョリ]]出身の[[ティトー・オケロ]]大統領が南西部を支持基盤とする[[ヨウェリ・ムセベニ]]の[[国民抵抗軍]]
=== 初期 ===
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|place=[[ウガンダ]]北部,[[南部スーダン]],[[コンゴ民主共和国]]北東部
|result=進行中
|combatant1={{Flagicon|Uganda}} [[国民抵抗軍]]<
{{Flagicon|Uganda}} {{仮リンク|ウガンダ人民国防軍|en|Uganda People's Defence Force}}<
[[アロー・ボーイズ]]<br />[[スーダン人民解放軍|南スーダン自治政府軍]]<small>(SPLA)</small>
|combatant2={{仮リンク|聖霊運動 (ウガンダ)|en|Holy Spirit Movement|label=聖霊運動}}<
{{仮リンク|ウガンダ人民民主軍|en|Uganda People's Democratic Army}}<
[[ファイル:Flag
|commander1=[[ヨウェリ・ムセベニ|ヨウェリ・ムセヴェニ]]<
|commander2=[[アリス・アウマ]]<
|strength1=
|strength2=
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|notes=
}}
{{main|[[:en:Lord's Resistance Army insurgency (1987–94)]]}}
1987年1月、ジョゼフ・コニーは、[[アリス・アウマ]]の{{仮リンク|聖霊運動 (ウガンダ)|en|Holy Spirit Movement|label=聖霊運動}} (HSM)に連なる霊媒として現れた。コニーは、元{{仮リンク|ウガンダ人民民主軍|en|Uganda People's Democratic Army}} (UPDA) 司令官{{仮リンク|オドン・ラテク|en|Odong Latek}}から
[[1991年]]3月に、ウガンダ政府による「北部作戦」が開始された。
この北部作戦の失敗の後、ビゴンベ大臣は、LRAと政府の代表の間で初の対面の交渉を始めた。LRAは戦闘員の恩赦を求め、彼らは降伏しないが「帰郷する」意思があると述べた。
=== 国際紛争化 ===
{{main|[[:en:Lord's Resistance Army insurgency (1994–2002)]]|[[:en:Lord's Resistance Army insurgency (2002–05)]]|[[:en:2006–08 Juba talks]]}}
1994年[[2月6日]]にムセヴェニが最後通告を発して2週間後に、LRAの兵士が北部国境を越え、スーダン(当時)の南部において「スーダン
[[1995年]]4月には、Atiakで大虐殺が起きた[[:en:Atiak massacre]]。
1996年から始められた政府の「保護村」の創設で、特に住民が「保護キャンプ」の中でさえLRAに攻撃され続けるようになり、多くのアチョリが政府への敵対的な態度を深めた。キャンプは混雑し不衛生で生活するには惨めな場所である<ref name=miserable_camps>Dolan, Chris. [http://www.acord.org.uk/r-pubs-Cope%20Working%20Paper%2033.PDF What do you remember? A rough guide to the war in Northern Uganda 1986-2000] (PDF), COPE Working Paper No. 33, 2000, p. 19, and Weeks, Willard. [http://www.db.idpproject.org/Sites/IdpProjectDb/idpSurvey.nsf/wViewCountries/B77144C5987AE5D6C1256B8F0040C5C9/$file/Weeks+march+2002.pdf Pushing the Envelope: Moving Beyond 'Protected Villages' in Northern Uganda] (PDF), for [[国際連合人道問題調整事務所|UNOCHA]] Kampala, March 2002, p. 4</ref>。一方で1997年にスーダンの[[民族イスラム戦線]]政権は、強硬な姿勢を後退させ始めた。▼
LRAによる大虐殺のうち、最も有名なものは、[[1996年]]に139人の女生徒が誘拐された{{仮リンク|アボケの誘拐|en|Aboke abductions}}である。
=== 戦争犯罪 ===▼
[[ファイル:Labujecamp1.jpg|thumb|キトゥグム近郊のラブジェ[[国内避難民]] (IDP) キャンプ ([[アメリカ合衆国国際開発庁|USAID]])]]▼
[[画像:Uganda night commuters - full room.jpg|thumb|神の抵抗軍による拉致を避けるため、子供たちは毎晩、教会、病院、駅などに集まり、そこで眠って翌日に自宅へ帰るという生活を続けている。]]▼
[[国際刑事裁判所]]の引用する情報によると、1980年代後半からの内戦でLRAによって拉致された子供は20,000人以上にのぼり、LRAの戦闘員の85%は11歳から15歳の拉致されてきた子供たちである。彼らは、反政府運動への加入の儀式として行われる殺人・手足の切断を含む非人道的行為、重労働や略奪、放火、市民の殺害、子供の拉致などを強いられている。女の子の場合はLRA指導者の使用人として扱われ、長時間にわたる家事労働を強いられたり、性的に搾取されて、望まない妊娠や性病感染の危険にさらされている。この様子はドキュメンタリー映画『[[インビジブル・チルドレン]]』で扱われた。▼
▲1996年から
ウガンダのムセヴェニ大統領は、このような事態に終止符を打つため、LRAの幹部を処罰すべく、2003年12月に国際刑事裁判所の検察官に事態を付託、捜査を要請した。これを受け、国際刑事裁判所の主任検察官は2004年1月29日、予備捜査を開始することを発表、2004年6月23日に公式に捜査を開始したと発表した。2005年10月5日、国際刑事裁判所は、ジョセフ・コニーを含む5人のLRA幹部の国際逮捕状を発行した。▼
{{節スタブ}}
=== ガランバ攻勢 ===▼
声明によれば、スーダン国境沿いにあるファラジェで25、26の両日、教会などがLRA部隊に襲われ、約150人が死亡。このほか、少なくとも4地域でも同様の襲撃があり、計336人が殺害された。避難民は6500人に上り、拉致された子供もいるという。▼
{{main|{{仮リンク|ガランバ攻勢 (2008年 - 2009年)|en|2008–09 Garamba offensive|label=ガランバ攻勢}}|[[:en:2008 Christmas massacres]]|{{仮リンク|マコンボ虐殺|en|Makombo massacre}}}}▼
第二次コンゴ戦争以降、ウガンダとコンゴ民主共和国の政府間
2010年3月27日国際人権団体の[[ヒューマン・ライツ・ウオッチ]]は、2009年末、少なくとも民間人321人を殺害、女性ら250人を拉致したと発表<ref>{{Cite web|url=http://www.cnn.co.jp/world/CNN201003280018.html|title= 住民321人を殺害、250人拉致 コンゴの反政府武装組織|date=2010年3月28日|publisher=CNN.co.jp|accessdate=2010-03-29}}{{リンク切れ|date=2010年5月}}</ref>。連れ去られた者には少なくとも子供80人が含まれる。報告書によると、この虐殺が起きたのは昨年12月14日から同17日までで、少なくとも10カ所の村落を襲撃。[[斧]]や[[なた]]、大型の木製棒などで惨殺したとの事。犠牲者には3歳の女児もいる。▼
2009年、[[コンゴ民主共和国]][[東部州 (コンゴ)]][[:en:Haut-Uele District]]の{{仮リンク|マコンボ|en|Makombo}}で、LRAによる{{仮リンク|マコンボ虐殺|en|Makombo massacre}}(12月14日 - 12月17日)が起こった。
アメリカは、2011年10月には約100名の戦闘部隊をウガンダに派遣した後、南スーダンや中央アフリカ、コンゴ民主共和国の賛同を得ながら各国に展開し、LRAの指導者や幹部の捕捉を支援すると表明している<ref>{{Cite news
同時に、コンゴ民主共和国北東部に展開する国連平和維持軍約1000人による住民保護は不十分な態勢にあると指摘している。同国政府は「神の抵抗軍は国内の治安維持で重大な脅威でない」と主張していた。▼
|url=http://www.cnn.co.jp/world/30004280.html |title=ウガンダに米軍兵士を派遣、武装勢力指導者の捕そく支援|publisher=CNN.co.jp|date=2011-10-15|archiveurl=|archivedate=}}{{リンク切れ|date=2017年11月}}</ref>。
▲=== ガランバ攻勢 ===
▲{{main|{{仮リンク|ガランバ攻勢 (2008年 - 2009年)|en|2008–09 Garamba offensive|label=ガランバ攻勢}}}}
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120514012442/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120513/mds12051323580000-n1.htm
|archivedate=2012-05-14
}}</ref>。▼
▲第二次コンゴ戦争以降ウガンダとコンゴの政府間の関係は険悪化していたが、2008年12月には、コンゴ民主軍、ウガンダ軍、南スーダン自治政府軍(現・南スーダン軍)共同のLRA掃討作戦「ライトニング・サンダー」([[2008年]][[12月14日]] - [[2009年]][[3月15日]])が行われた。<ref>[http://www.anzen.mofa.go.jp/info/info4_T.asp?id=093 海外安全ホームページ]、日本国外務省、2009年12月末現在。</ref>。この作戦にはアメリカも支援を行った。アメリカは、その後、2009年にLRA非武装・北ウガンダ再建法案を可決。2011年10月には、約100名の戦闘部隊をウガンダに派遣した後、南スーダンや中央アフリカ、コンゴ民主共和国の賛同を得ながら各国に展開し、指導者や幹部の捕捉を支援すると表明している<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/30004280.html ウガンダに米軍兵士を派遣、武装勢力指導者の捕そく支援(CNN.co.jp.2011.10.15)2011年10月閲覧]</ref>。
▲[[ファイル:Labujecamp1.jpg|thumb|キトゥグム近郊のラブジェ[[国内避難民]] (IDP) キャンプ ([[アメリカ合衆国国際開発庁|USAID]])]]
▲[[画像:Uganda night commuters - full room.jpg|thumb|神の抵抗軍による拉致を避けるため、子供たちは毎晩、教会、病院、駅などに集まり、そこで眠って翌日に自宅へ帰るという生活を続けている。]]
▲[[国際刑事裁判所]]
▲2012年5月13日、ウガンダ軍は掃討作戦の中で、神の抵抗軍の5人の最高幹部の1人であるアチェラム司令官を拘束した<ref>{{Cite news
▲ | url = http://sankei.jp.msn.com/world/news/120513/mds12051323580000-n1.htm
▲ウガンダのムセヴェニ大統領は、このような事態に終止符を打つため、LRAの幹部を処罰すべく、2003年12月に国際刑事裁判所の検察官に事態を付託し、捜査を要請した。これを受け、国際刑事裁判所の主任検察官は2004年1月29日、予備捜査を開始することを発表、2004年6月23日に公式に捜査を開始したと発表した。2005年10月5日、国際刑事裁判所は、ジョセフ・コニーを含む5人のLRA幹部の国際逮捕状を発行した。
▲ | title = 「神の抵抗軍」幹部を拘束 ウガンダ軍
▲ | newspaper = 産経新聞
▲2008年12月30日、キリスト教系国際慈善団体カリタス(本部[[ヴァチカン]])は、LRAがその前週のクリスマス期間中に、コンゴ民主共和国(旧ザイール)北部で住民約480人を殺害したとする声明を出した。この声明によれば、スーダン国境沿いにあるファラジェで25、26の両日、教会などがLRA部隊に襲われ、約150人が死亡
▲ | date = 2012-05-13
▲ }}</ref>。
▲2010年3月27日、国際人権団体の[[ヒューマン・ライツ・ウオッチ]]は、2009年末、LRAが少なくとも民間人321人を殺害、女性ら250人を拉致したとする報告書を発表した<ref>{{Cite web|url=http://www.cnn.co.jp/world/CNN201003280018.html|title= 住民321人を殺害、250人拉致 コンゴの反政府武装組織|date=2010年3月28日|publisher=CNN.co.jp|accessdate=2010-03-29
▲同時に、コンゴ民主共和国北東部に展開する国連平和維持軍約
2015年1月、ウガンダ軍は、国際刑事裁判所が逮捕状を出している幹部の1人、ドミニク・オングウェンが中央アフリカ国内で投降し、拘束していることを発表した<ref>{{Cite news
|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3035921|title=「神の抵抗軍」幹部を米軍が拘束、ウガンダ軍発表|work=AFPBBNews|publisher=フランス通信社|date=2015-01-08|accessdate=2015-01-11}}</ref>。
2021年2月4日、オランダ・ハーグの国際刑事裁判所は、ドミニク・オングウェン被告に対し殺人や拷問、奴隷行為、レイプ、強制妊娠などの戦争犯罪で有罪の判決を言い渡した。最大30年の禁錮刑が言い渡される見込みである<ref>{{Cite web |date=2021-02-07 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35166137.html |title=ウガンダ「神の抵抗軍」幹部に有罪判決、遺族「生涯刑務所に」 |publisher=CNN |accessdate=2021-02-06}}</ref>。
== 画像 ==
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== 脚註 ==
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かみのていこうくん}}▼
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▲{{DEFAULTSORT:かみのていこうくん}}
[[Category:ウガンダの軍事]]
[[Category:南スーダンの軍事]]
[[Category:南スーダンの組織]]
[[Category:コンゴ民主共和国の軍事]]
[[Category:アメリカ合衆国によりテロリスト認定された組織]]
[[Category:公安調査庁の国際テロリズム要覧で言及されたテロ組織]]
[[Category:ゲリラ組織]]
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