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{{出典の明記|date=2025年3月}}
[[File:Yoshidashofuan33.jpg|thumb|吉田生風庵 露地]]
{{建築物
'''吉田生風庵'''(よしだしょうふうあん)は、愛知県名古屋市中区新栄にある茶家の庵号。吉田家は、5代吉田堯文まで4人が表千家宗匠を務めた茶家である。吉田堯文は学問的な茶道の研究に先鞭をつけた茶人であり、昭和の表千家を代表する文筆者として活躍した。昭和45年の堯文亡き後は50年以上、吉田家からの表千家宗匠は不在である。
|名称 = 吉田生風庵
 
|画像 = Yoshidashofuan33.jpg
吉田会としての活動は存続し、カルチャー教室を担当しているのは、早死した6代吉田舜二の妻のり子。
|画像サイズ = 250px
|画像説明 = 吉田生風庵 露地
|用途 = [[茶室]]
|所在地郵便番号 = 460-0007
|所在地 = [[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[新栄町 (名古屋市)|新栄]]1丁目24-9
|緯度度 = 35|緯度分 = 9|緯度秒 = 54.1|N(北緯)及びS(南緯) = N
|経度度 = 136|経度分 = 55|経度秒 = 0.8|E(東経)及びW(西経) = E
|地図国コード = JP-23
|座標右上表示 = Yes
|位置図種類 = Nagoya
|文化財 =
|指定・登録等日 =
|備考 =
}}
'''吉田生風庵'''(よしだしょうふうあん)は、[[愛知県]][[名古屋市]]の[[表千家]]流茶家及びその[[茶室]]の名称。
 
== 来歴 ==
茶家としての吉田家のはじまりは[[江戸時代]]末期、初代である。初代吉田紹和が[[茶の湯]]を好み、15歳の時に茶道修業のため上洛表千家流[[堀内家]]の堀内不識斎に師事した。その後、不識斎の紹介で表千家10代[[家元]]吸江斎のもとへ入門し、表千家の宗匠となった。名古屋へ帰郷した後は、[[尾張藩]][[家老]][[石河氏]]や[[専修寺]]大門主に茶の湯をもって仕えた{{要出典|date=2023年7月}}。以吉田家当主は紹和の建てた[[茶室]]の庵号「生風庵」を継承し、名古屋の表千家流宗匠家として、吉田生風庵の当主は代々表千家不審庵家元[[千宗左]]のもとで内弟子「玄関」として修業し、皆伝をされる習わしであている。
吉田家は[[三河]]の出生であり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[今川氏|今川家]]に仕えて戦時は陣中の幕を、平時は殿中の飾りつけを司っていたと伝わる{{要出典|date=2023年7月}}。[[桶狭間の戦い]]に従軍した際に負傷し、以後は名古屋の[[橘 (名古屋市)|橘町]]にて商いを始めたという。屋号は今川家に仕官していた時の仕事に因み「幕屋」とした{{要出典|date=2023年7月}}。
 
4代吉田紹清が名古屋市[[昭和区]][[菊園町]]に建てた三畳台目の茶室「生風庵」は、紹清の没後に名古屋市へ寄付された。その後、名古屋市から姉妹都市である[[米国]][[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス|ロサンゼルス市]]に贈与され、同市ワットルズ・パーク内の日本庭園に移築された。その際、茶室名は「光風庵」に改められた。
茶家としての吉田家のはじまりは[[江戸時代]]末期である。初代吉田紹和が[[茶の湯]]を好み、15歳の時に茶道修業のため上洛、表千家流[[堀内家]]の堀内不識斎に師事した。その後、不識斎の紹介で表千家10代[[家元]]吸江斎のもとへ入門し、表千家の宗匠となった。名古屋へ帰郷した後は、[[尾張藩]][[家老]][[石河氏]]や[[専修寺]]大門主に茶の湯をもって仕えた{{要出典|date=2023年7月}}。以後、吉田家当主は紹和の建てた[[茶室]]の庵号「生風庵」を継承し、名古屋の表千家流宗匠家として、吉田生風庵の当主は代々表千家不審庵家元[[千宗左]]のもとで内弟子「玄関」として修業し、皆伝をされる習わしである。
 
5代吉田紹村(堯文)の時、名古屋市[[中区 (名古屋市)|中区]]瓦町に居を移した。紹村は茶人として活動する一方で、茶道文化の学術的研究にも尽力し、一般向けの茶道教本である『表千家流点前』など、数多くの著作を残した。
また、吉田家は、表千家不審庵一門の名古屋の菓子舗でもあり、名古屋の主だった茶菓子店に助言して茶菓子を作らせ、初釜や茶会、[[大徳寺]]や[[豊川稲荷]]の献茶の際の茶菓子を供したことがある。
 
近年、[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]が初代紹和へ宛てた、作庭に感謝する礼状が発見された。これにより、紹和が陸軍から依頼を受け、[[名古屋城]]の「三之丸庭園」及び「南御庭」の作庭を指揮していたことが判明した。これらの庭には、江戸時代初期に造られた「二之丸庭園」にあった巨石が転用されたとみられる<ref>{{Cite news |和書 |title= |newspaper=[[中日新聞]] |date=2025-03-21 |edition=日刊・市民版 |page=14}}</ref>。
第4代吉田紹清は、名古屋市[[昭和区]][[菊園町]]にあった茶室生風庵を、[[米国]][[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]の[[ハリウッド]]ワルツパークの日本庭園に寄付した。
 
吉田家歴代
第5代吉田紹村は[[愛知県]]名古屋市[[中区 (名古屋市)|中区]]瓦町に居を移した。吉田堯文は、茶の湯文化の研究者として学問的な茶道の研究に先鞭をつけ、表千家で初めて一般向けの点前教本を著した宗匠であり、昭和の表千家を代表する文筆者として活躍した。
* 初代 吉田掃雪斎紹和
* 2代 吉田雪庭耕々斎紹敬
* 3代 吉田香穂(宗匠ではない)
* 4代 吉田紹清不知斎紹清
* 5代 吉田堯文暁々斎紹村
* 6代 吉田舜二
* 7代 吉田周一郎(表千家 玄関)
 
== 吉田堯文(吉田紹村) ==
堯文の時代から、吉田家は毎年1月6日に初釜、5月と11月に名古屋の[[八勝館]]で生風大会を催している。また、7月には[[名古屋国際ホテル]]で納涼茶会も行っていた。
生風庵5代吉田堯文(紹村)は、明治41年、愛知県名古屋市生まれ。吉田家4代吉田紹清の長男。[[愛知県立旭丘高等学校|旧制愛知一中]]、[[第八高等学校 (旧制)|第八高等学校]]を経て、昭和6年[[京都帝国大学]][[文学部]]国文科卒業。在学中から表千家12代家元・惺斎千宗左茶を学び、のち13代即中斎千宗左に弟子入りして、茶道の探究に努めた。恩賜京都博物館(現[[京都国立博物館]])鑑査員を経て、昭和41年(1966年)父の死に伴い、表千家吉田家5代目を継ぎ、昭和44年紹村と号した。戦前雑誌「わび」茶人として編集みならず、文筆家としても熱心従事活動し昭和26年前述の『表千家流点前』のほら個人誌「生風」を刊行。学問的な茶道の研究に先鞭をつけ「、『茶道全集」(』(全15巻)の編集や、七事式の研究点前をまとめた『千家七事式』の執筆など著書も多く、茶道に関する書籍学問的研究刊行尽くした。昭和45年(1970年)9月17日携わり死去。享年61。吉田堯高弟・牧宗千が代稽古を務め、堯文亡き後面から、吉田会の初釜、八勝館や名古屋国際ホテルの会では、牧宗千が堯妻・吉田伊予子振興に力支えて水屋を仕切った注いだ。昭和45年、没
 
=== 著書 ===
堯文の息子である6代吉田舜二は、宗匠になる前に40代で死去した。そのため、5代吉田堯文が昭和45年に亡き後は50年以上も、吉田家からの表千家宗匠は不在である。
* 『表千家流点前(正篇)』(茶道文庫1) 河原書店、2000年改訂 ISBN {{ISBN2|978-4761100018}}
 
* 『表千家流点前(続篇)』(茶道文庫21)河原書店、1985年改訂 ISBN {{ISBN2|978-4761100216}}
=== 歴代 ===
* 『千家七事式』(茶道文庫14) 河原書店、1988年改訂 ISBN {{ISBN2|978-4761100148}}
*初代 吉田掃雪、方園斎紹和
*2代 吉田雪庭、耕々斎紹敬
*3代 吉田香穂(宗匠ではない)
*4代 吉田紹清、不知斎紹清
*5代 吉田堯文、暁々斎紹村
*6代 吉田舜二(宗匠になる前に死去)
*7代 吉田周一郎(表千家 玄関)
 
==吉田堯文(吉田紹村)==
本名:吉田堯文(よしだ たかふみ、明治41年(1908年)9月20日 - 昭和45年(1970年)9月17日)、通称:ヨシダギョウブン。5代吉田紹村(ジョウソン)。妻は吉田伊予子。
 
愛知県名古屋市生まれ。吉田家4代目吉田紹清の長男。[[愛知県立旭丘高等学校|旧制愛知一中]]、[[第八高等学校 (旧制)|第八高等学校]]を経て、昭和6年[[京都帝国大学]][[文学部]]国文科卒業。在学中から表千家12代惺斎千宗左に茶を学び、のち13代即中斎千宗左に弟子入りして、茶道の探究に努めた。恩賜京都博物館(現[[京都国立博物館]])鑑査員を経て、昭和41年(1966年)父の死に伴い、表千家吉田家5代目を継ぎ、昭和44年紹村と号した。戦前雑誌「わび」の編集に従事、昭和26年から個人誌「生風」を刊行。学問的な茶道の研究に先鞭をつけ「茶道全集」(全15巻)の編集や、七事式の研究をまとめた「七事式」など著書も多く、茶道の学問的研究に尽くした。昭和45年(1970年)9月17日、死去。享年61。吉田堯文の高弟・牧宗千が代稽古を務め、堯文亡き後も、吉田会の初釜、八勝館や名古屋国際ホテルの茶会では、牧宗千が堯文の妻・吉田伊予子を支えて水屋を仕切った。
 
===著書===
*『表千家流点前(正篇)』(茶道文庫1) 河原書店、2000年改訂 ISBN 978-4761100018
*『表千家流点前(続篇)』(茶道文庫21)河原書店、1985年改訂 ISBN 978-4761100216
*『千家七事式』(茶道文庫14) 河原書店、1988年改訂 ISBN 978-4761100148
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[表千家]]
* [[堀内家]]
 
== 外部リンク ==
{{Osm box|w|816835719}}
*[https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%94%B0%20%E5%A0%AF%E6%96%87-1658388 コトバンク 吉田堯文]
* {{Kotobank|吉田堯文|2=20世紀日本人名事典}}
 
* {{Kotobank|吉田尭文|2=デジタル版 日本人名大辞典+Plus}}
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{{Japan-culture-stub}}
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[[Category:茶道流派]]
[[Category:名古屋市の文化]]
[[Category:新栄]]