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|支流=
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'''比企氏'''(ひきし)は、[[藤原氏]]の流れをくむ日本の[[豪族]]・[[武家]]。[[平安時代]]
一族は[[族誅#日本|族滅]]したため詳細な
== 出自 ==
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比企氏は、[[河内源氏]]嫡流が在京中の頃から[[近習]]していたと考えられている。[[永暦]]元年([[1160年]])に、[[平治の乱]]で敗れた[[源頼朝]]が京から[[伊豆国]]に配流されると頼朝の[[乳母]]である[[比企尼]]は、夫の[[比企掃部允]]と共に京から[[東国]]に移った<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=鎌倉幕府と東国|year=2006|publisher=続群書類従完成会|page=31 - 32|author=岡田清一|isbn=9784797107456}}</ref>。掃部允は武蔵国比企郡に[[請所]]を置き、夫妻は頼朝に尽くした<ref name=":0" />。
比企尼の養子である[[比企能員]]は、頼朝が挙兵すると、頼朝に従って[[治承・寿永の乱|源平合戦]]を戦い、戦功を挙げた<ref name=":0" />。
[[建久]]2年([[1191年]])以前には、比企氏が[[北陸道]]の[[守護]]を務めていたが、一時停止される。しかし、その後は、比企氏の同族とみられる大田朝季が[[越中国]]守護となっている<ref>{{Cite book|和書|title=世界大百科事典|year=1988|publisher=平凡社|page=越中国}}</ref>。
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能員の娘、[[若狭局]]は、2代将軍[[源頼家]]の妻となる<ref name=":0" />。[[建久]]9年([[1198年]])に、若狭局は長男・[[一幡]]を出産した<ref name=":1" />。比企氏はこれ以降、将軍外戚として権勢を強めた<ref name=":0" />。
しかし、勢力を伸ばした比企氏は、[[北条氏]]と対立することになる。『[[吾妻鏡]]』によれば、[[建仁]]3年([[1203年]])に頼家が病に倒れると、頼家の長男・一幡を擁する比企氏と頼家の弟・[[源実朝|千幡]]を擁する北条氏との間で後継者争いが起こった。一幡と千幡の分割相続と決定すると、それに不満を抱いた能員は北条氏征伐を図った。しかし、それを知った[[北条時政]]は能員を自邸に呼び出して謀殺し、比企一族のいる一幡の小御所を攻撃した。一方、『[[愚管抄]]』によると、病に倒れた頼家が後を全て一幡に譲ろうとしたため、比企氏の全盛時代になることを恐れた時政が、能員を呼び出して
乱の翌日、比企能員の妻妾([[渋河兼忠]]の娘か)とその2歳の男子が和田義盛に預けられ、後に安房国に流刑になった{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。『吾妻鑑』に見える比企氏の記事はこれが最後(讃岐局にまつわる怪異譚を除く)である{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。
江戸時代成立の『[[新編鎌倉志]]』によると、鎌倉に[[妙本寺]]の前身となる竹御所法華堂を建立したのは「比企判官能員が末子」[[比企能本|比企大学三郎能本]]である{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。比企能本は、安房国に流された男子に比定される{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。能本は
比企能本に子孫があったかは不明である{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。鎌倉時代初期の御家人間抗争で同様に敗れた[[梶原氏]]が武家としての命脈を保ったのに対し、比企氏は「比企の乱」にともなって事実上族滅した{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。
== 一族 ==
* [[比企掃部允]]…比企尼の
* [[比企尼]]…頼朝乳母。流人となった頼朝を20年間支援し続けた。夫の死後、
** [[丹後内侍]]…比企尼長女。[[惟宗広言]]室、のち[[安達盛長]]室。子に[[島津忠久]]、[[安達景盛]]、[[安達時長]]、[[源範頼]]室など。
** [[河越尼]]…比企尼次女。[[河越重頼]]室。[[源頼家|頼家]]
** [[比企尼の三女|三女]]…[[伊東祐清]]室、のち[[平賀義信]]室。頼家乳母。子に[[平賀朝雅]]。
* [[比企能員]]…比企尼の甥。
** [[若狭局]]…能員娘、頼家側室。[[一幡]]母。比企能員の変で死亡(『[[愚管抄]]』では生死不明)。
** [[比企余一兵衛尉]]…能員嫡男。比企能員の変で死亡。
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=== 旗本比企家 ===
江戸幕府に仕えた旗本に、比企能員の子孫を称する比企氏がある<ref name="kanseifu1125_kokumin861-862"/>。『寛政重修諸家譜』がその家伝として載せるところによれば、比企能員には遺腹の子があり、比企の岩殿観音堂([[正法寺 (東松山市)|正法寺]])の別当が養育して成長し、のちに[[順徳天皇]]に仕えて越後に移った<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。以後14代を重ねたが、この間の系譜を失っており不明という<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。「比企系図」によれば、比企能員の子・[[比企時員]]の遺腹の子(比企次郎員茂{{sfn|磯貝富士男|2014|pp=24-25}})が
[[室町時代]]後期、比企義次(左馬助)は[[鎌倉公方]]に仕え<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>、その子の比企政員(左馬助)は関東の上杉家に仕えた<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>
政員の子・[[比企則員]](左馬助)は
徳川家康はあるとき比企政員のことを思い出し、[[春日景定]]・[[春日家吉|家吉]]父子や[[松野助正]](いずれも北条旧臣)にその子孫について尋ねたが、このとき春日・松野からの推挙はなかったという<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。慶長16年(1611年)、則員の子・比企義久(次左衛門)は遠江国浜松で自ら名乗り出、徳川家に仕えることとなった<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。また、則員も
家康は比企家の由緒にかんがみ、比企義久に対して比企郡で知行地を与える意向を示したが、義久の病気や家康の死去が重なって実現しなかったという<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。義久の子・比企重員(次兵衛・藤左衛門)は寛永2年(1625年)より徳川秀忠に仕えて大番を務め、最終的に武蔵国内で400石を知行した<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。重員の子・比企久員(藤十郎・次左衛門)は大番組頭を務めて蔵米200俵が加賜された<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。久員の子・[[比企藤十郎]](諱は稚久という<ref name="musashi189_ndl102_michisaku"/>)も大番を務めたが、元禄9年(1696年)に[[生類憐みの令]]に抵触した{{efn|『寛政譜』では「かねて殺生を禁ぜられしに是を犯せしことありし」とある<ref name="kanseifu1125_kokumin863"/
中山の金剛寺には、「比企系図」が伝えられているほか<ref name="chocotabi-saitama_kamakura13"/>、則員から久員まで4代(則員が比企家15代目とされている)の墓がある<ref name="chocotabi-saitama_kamakura13"/><ref name="higashimatsuyama-kanko_kongouji"/>。『寛政譜』によれば、この比企家の家紋は「丸に割菱」とある<ref name="kanseifu1125_kokumin863"/>。▼
=== その他 ===
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|author=比企理恵|website=比企理恵オフィシャルブログ|date=2010-02-10|accessdate=2024-08-09}}</ref>。
==
*[[宗悟寺]](埼玉県東松山市大谷)には「比企一族顕彰碑」が建立されている<ref name="tokyo-np20230902">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/274458 |title=鎌倉時代以来820年ぶりの「和解」 戦った北条氏と比企氏 東松山で歴史研究家ら握手 |publisher=東京新聞 |date=2023-09-02 |accessdate=2023-09-09}}</ref>。比企能員の変から820年目の[[2023年]]([[令和]]5年)9月2日には比企氏を供養する法要が営まれた<ref name="tokyo-np20230902" />。
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*[[大東文化大学]]東松山キャンパス(埼玉県東松山市岩殿)内には「比企太神」と記された小祠がある{{sfn|磯貝富士男|2014|pp=19-20}}<ref>{{cite web|和書|url=https://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/soshiki/23/1853.html|title=大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連する高坂地区の紹介|publisher=東松山市|accessdate=2024-08-09}}</ref>。この地域には、比企一族と結びつけられていた「判官塚」と呼ばれる塚があり、信仰の対象となっていたが<ref name="musashi191_ndl27_hanganzuka"/>{{sfn|磯貝富士男|2014|pp=19-20, 27-28}}、1983年にキャンパス造営工事に伴い現在地に遷座したものという{{sfn|磯貝富士男|2014|pp=30-31, 49}}。
== 備考 ==
*『寛政譜』には上記の比企家(比企則員の家)以外に、「比企」を名字とする旗本の家が2家掲載されているが、比企能員の一族とは無関係であるか、関係を記していない。
*[[太田亮]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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<ref name="musashi188_ndl88_toshiro">『新編武蔵風土記稿』巻之一百八十八・比企郡之三・下伊草村「旧家者藤四郎」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/764005/1/88 内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之188』88/113コマ]。</ref>
<ref name="musashi189_ndl00_michisaku">『新編武蔵風土記稿』巻之一百八十九・比企郡之四・中山村「旧家者比企道作」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/764005/1/100 内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之188』100/113コマ]。</ref>
<ref name="musashi189_ndl01-102_michisaku">『新編武蔵風土記稿』巻之一百八十九・比企郡之四・中山村「旧家者比企道作」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/764005/1/101 内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之
<ref name="musashi189_ndl102_michisaku">『新編武蔵風土記稿』巻之一百八十九・比企郡之四・中山村「旧家者比企道作」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/764005/1/102 内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之
<ref name="musashi191_ndl27_hanganzuka">『新編武蔵風土記稿』巻之一百九十一・比企郡之六・岩殿村「判官塚」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/764006/1/27 内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之191』27/112コマ]。</ref>
}}
== 参考文献 ==
*{{citation|和書|author=細川重男|authorlink=細川重男|title=鎌倉幕府抗争史 御家人間抗争の二十七年|publisher=光文社|series=光文社新書|year=2022|ref=harv}}
*{{citation|和書|author=太田亮|authorlink=太田亮|title=姓氏家系大辞典 第5巻|publisher=国民社|year=1942-1944|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1123956/|ref={{SfnRef|『姓氏家系大辞典 第5巻』}}}}
*{{citation|和書|author=磯貝富士男|title=岩殿・南新井の「堀カネノ池」と「判官塚」|journal=人文科学|publisher= 大東文化大学人文科学研究所|issue=19|year=2014|url=https://opac.daito.ac.jp/repo/repository/daito/4512/|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[比企能員の変]]
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