「自然法」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク |
m 外部リンクの修正 (iss.ndl.go.jp) (Botによる編集) |
||
(14人の利用者による、間の24版が非表示) | |||
11行目:
他方で、[[19世紀]]以降の近代法学の[[実定法主義]]([[法実証主義]])においては、考察の対象外とされた<ref name="kotobank"/>。また英米を中心に、[[古典的自由主義]]、[[保守主義]]、[[功利主義]]、[[プラグマティズム]]といった対抗的思潮が提示・醸成された。
(近代)自然法思想は、その性格上、[[理性主義]]や規範論・[[義務論]]、そして[[平等主義]]・[[社会自由主義]]([[リベラル]])(更には[[社会主義]]・[[共産主義]])等と相性が良く、[[自然権]]([[人権]])思想を調整・補完する役割として主張されることが多い<ref>[https://kotobank.jp/word/自然権-73573 自然権] - [[コトバンク]]</ref>。したがって、これらに対立する思想・思潮とは、直接的・間接的に対立することになる。
; 内容の変質
なお、[[プラトン]]や[[アリストテレス]]等による、古代ギリシアにおける自然法・倫理・政治思想は、『[[国家 (対話篇)|国家]]』『[[ティマイオス]]』や『[[ニコマコス倫理学]]』等に述べられているように、また[[哲学]](philo-sophia/愛-知)という営みの原義からも分かるように、「知の徳性(知性)」を特別に重視しており、それを高めて「[[善のイデア]]・[[最高善]]」([[デミウルゴス]]・[[不動の動者]])を頂点とする「イデア的・神的な自然秩序」を把握しつつ、人間として可能な限りの[[幸福]]を享受すること(全国民に享受させること)、という明確な究極目的([[目的論]])の下に構築されており、その他の実践的な徳性としての[[中庸 (ギリシア哲学)|中庸]]や、市民間の平等([[高貴な嘘]])等は、その善という究極目的へと共に向かうポリス共同体を成立・維持させるための手段・方便に過ぎない<ref name="kotobank"/>。
それに対して、(古代ローマの[[万民法]]や、知性よりも[[信仰]]を重視する中世の[[キリスト教神学]]を経由した後の)近世・近代における自然法思想・倫理・政治思想では、「(元来、自然権・自由を等しく保有する)個人間の同等性・公平性・平等性の尊重([[黄金律]])」(としての自然権(人権)思想・自由主義・平等主義・個人主義)それ自体が、絶対的な原則かつ目的と化しており、プラトン・アリストテレス的な究極目的(「善なる世界の根源・究極」への知的・実践的な到達)が抜け落ち、古代ギリシア・ローマの民主思想や万民法思想的な(古代ギリシアで言えば「ノモス」的な)政治的要求が、自然法として扱われるようになっているという「内容的変質」が生じている点に注意が必要である<ref name="kotobank"/>。
== 歴史 ==
=== 古代 ===
[[古代ギリシア]]においては、社会的な[[実定法]]・[[慣習]]としての「[[ノモス]]」({{lang-el-short|νόμος}})と対比される形で、自然本性としての「[[ピュシス]]」({{lang-el-short|φύσις}})として、自然法が主張された<ref name="kotobank">[https://kotobank.jp/word/自然法-73628 自然法とは] - [[コトバンク]]</ref>。神話的な時代においては、それは[[テミス]]や[[ディケー]]といった女神に象徴される「自然の秩序・掟」として表現されたが、[[オルペウス教]]・[[ピタゴラス派]]・[[エレア派]]等に影響を受けた[[プラトン]]([[アカデメイア派]])は、それを[[善のイデア]](創造主
[[古代ローマ]]においては、領土の拡大に伴って、ローマ市民のみに適用される[[市民法]]({{lang-la-short|ius civile}})と対比される、万人に等しく適用される[[万民法]]({{lang-la-short|ius gentium}})が整備されるようになり、2世紀の法学者[[ガイウス (法学者)|ガイウス]]が『[[法学提要]]』の冒頭で指摘しているように、この万民法は当時から既に自然法の一種の反映・現れと見做されていた<ref>[https://kotobank.jp/word/万民法-118693 万民法とは] - [[コトバンク]]</ref><ref>
=== 中世 ===
35 ⟶ 40行目:
[[15世紀]]から[[17世紀]]にかけての、[[大航海時代]]による欧州域外での[[植民地主義|植民地]]・[[通商]]の拡大、[[宗教改革]]、それらに絡んだ[[紛争]]・[[戦争]]・[[革命]]の発生、更には[[ルネサンス]]・[[科学革命]]と[[理性主義]]の台頭といった、目まぐるしい環境変化により、中世のようにキリスト教(カトリック)やその神の概念・権威が共通基盤として機能しなくなったことで、(古代ギリシアや領土拡大期の古代ローマのように)再び自然法(や万民法、あるいは[[自然状態]]・[[自然権]]、及び[[理性]])が、思想的共通基盤として注目・言及・称揚されるようになった。
トマスの自然法・万民法思想を、[[スペイン]]の法学者である[[フランシスコ・デ・ビトリア|ビトリア]]や[[フランシスコ・スアレス|スアレス]]等を経由して継承した[[オランダ]]の法学者[[グローティウス]]は、『[[自由海論]]』『[[戦争と平和の法]]』などで、[[航行]]・[[通商]]・[[戦争]]といった国際関係に関して、自然法や万民法(的慣行・[[慣習法]])を絡めつつ、あるべき国際的な法秩序を主張したことで、「[[国際法]]の父」と評されるようになった<ref>
他方で、国内で[[清教徒革命]]・[[名誉革命]]といった[[市民革命]]が生じた[[イギリス]]では、[[ホッブズ]]や[[ジョン・ロック]]によって、国内秩序・統治のあり方について、自然法(や自然状態・自然権・[[社会契約]])を絡めた主張が為され、[[近代国家]]・[[近代社会]]のあり方を巡る近代政治思想の嚆矢となった。
41 ⟶ 46行目:
彼らの自然法思想は、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]や[[カント]]等へと引き継がれて補強されつつ、人類が近代国家・近代社会へと移行していく上での礎となった。
その後の自然法思想やそれに類する[[倫理学]]・[[道徳哲学]]・[[政治哲学]]は、[[ヘーゲル]]、[[カール・マルクス|マルクス]]等を経由しつつ、[[20世紀]]の[[大陸哲学]]や[[分析哲学]]、いわゆる[[現代哲学]]へと継承され、[[東西冷戦]]を背景に多様な議論が行われた。
しかし元来、「公平さ」を主張するだけの抽象的規範としての性格が強い近代の自然法思想は、特に[[20世紀]]以降、価値観とシステムの多様化・複雑化が進む近代社会において、具体的な必要性(政治的・経済的・社会的な要請・需要)の受け皿として肥大化し続ける[[自然権]]([[人権]])思想、[[実定法]]、各種の[[事業]]・[[産業]]と[[統計]][[データ解析]]等とは対照的に、具体性・実用性に乏しく、用途も主張する場も限られるため、社会的影響力が失われてきている<ref name="kotobank"/>。
==== ホッブズの自然法 ====
[[トーマス・ホッブズ|ホッブズ]]は、『[[リヴァイアサン (ホッブズ)|リヴァイアサン]]』第13章〜第15章の叙述において、「理性によって要請・把握される人倫・普遍的規範」としての「自然法」({{lang-la-short|lex naturalis}})と、「各人の自己裁量権(自由)」としての「自然権」({{lang-la-short|ius naturale}})を、対立的に扱う。
そして、各人の「自然権(自由)」行使の相互干渉・衝突によって生じる「[[万人の万人に対する闘争]]」としての「自然状態」から脱却すべく、理性によって要請・把握される「自然法」として、
68 ⟶ 75行目:
* 総じて言えば「[[黄金律|己の欲せざる所は人に施すなかれ(黄金律)]]」
といった内容を挙げつつ、自然権を譲渡し合う社会契約による国家([[コモンウェルス]])と秩序・平和の形成を説いている。
==== ロックの自然法 ====
[[ジョン・ロック|ロック]]は、『[[統治二論]]』第二論において、自然法の内容を具体的には述べないものの、それを(公平さとしての)理性(的思考)と同一視し、自然状態においてもそれは機能しており、各人はその自然法(理性)の範囲内で、思うままに自己の身体や所有物を処する自由(としての自然権)を、平等に保有・行使していると主張する(第2章)。
また、そのような自然状態では、各人が自然法を執行する権利(自然法の侵犯者を処罰する権利)も有する(第2章)。
しかし、自然状態では、大部分の者は公正の厳格な遵守者ではなく、特に、
* 恒常的・公知な「制定法」
* 衆知の公正な「裁判官」
* 判決の「執行権力」
が欠如しているがゆえに、生命・自由・財産といったプロパティ(固有権・所有権・財産権)の享受といった自然権の保証(自然法の執行)が不安定・不確実なので、その「プロパティ(固有権・所有権・財産権)の保全」を目的として、人は自然状態を放棄し、共同して統治権力・政治的共同体を形成したり、そこへと参画するのだと主張する(第9章)。
また、その統治権力に関しては、[[立法権|立法権力]]と[[行政権|執行権力]]の分離が主張される(第12章)。
そして、その「プロパティ(固有権・所有権・財産権)の保全」という目的、自然法を侵す支配者に対しては、抵抗することが許される([[抵抗権]])とも主張される(第18章-第19章)。
このように、自然法の達成・強化のための社会契約の議論では、ホッブズは「生命・平和」をその主たる目的とする素朴なものだったのが、ロックでは生命・自由・財産などをひっくるめた「プロパティ(固有権・所有権・財産権)」が目的となり、[[権力分立]]や、[[抵抗権]]も明記されるなど、近代政治思想・近代社会思想としてだいぶ洗練されてきている。
==== ルソーの自然法 ====
{{詳細記事|一般意志}}
[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]においては、「社会的な公平さ」としての自然法は、「[[一般意志]]([[普遍意志]])」という概念に置き換えられている<ref>[https://kotobank.jp/word/一般意志-31526 一般意志とは] - [[コトバンク]]</ref>。
ルソーの[[社会契約論|社会契約]]において説かれる「一般意志(普遍意志)」は、個別的な私利私欲の志向としての「特殊意志」や、その合成・総和としての「全体意志」とは異なり、常に「公平・公益」を法・社会へと強制することが期待される。
==== カントの自然法 ====
{{詳細記事|道徳法則}}
[[カント]]においては、「社会的な公平さ」としての自然法は、「[[道徳法則]]」という概念に置き換えられている。
カントの[[実践理性批判|実践理性]]を巡る議論においては、「常に普遍的法則に妥当する形で意志・行為せよ」という[[定言命法]]で成り立つ[[道徳法則]]によって、理性的存在者が互いの人格を目的として尊重し合って結合する、[[目的の国]]が主張される<ref>[https://kotobank.jp/word/目的の国-397559 目的の国] - [[コトバンク]]</ref>。
== 定義 ==
83 ⟶ 121行目:
==== 法源としての神 ====
[[神]]が人間の[[自然本性]]の作り手として想定されるとき、自然法の究極の法源は[[神]]となる。このことは[[理性]]にもあてはまり、[[神]]が人間に[[理性]]を与えたことが強調されるときは、合理的な法としての自然法の究極な[[法源]]もまた[[神]]となる。この傾向は特に[[キリスト教]]の[[自然法論]]において顕著である。例えば、[[アウグスティヌス]]にとって、自然法の[[法源]]は[[神]]の[[理性]]ないし[[意思]]であった<ref>Augustinus. ''Contra Faustum''. lib.22. §.27.</ref><ref>{{Cite book|author=Deane, Herbert A
==== 法源としての自然 ====
89 ⟶ 127行目:
{{quotation|
自然法とは、[[自然]]が全ての動物に教えた[[法 (法学)|法]]である。なぜなら、この[[法 (法学)|法]]は、人類のみに固有のものではなく、陸海に生きる全ての動物および空中の鳥類にも共通しているからである。雌雄の結合、すなわち人類におけるいわゆる婚姻は、実際にこの[[法 (法学)|法]]にもとづく。子供の出生や養育もそうである。なぜなら、私が認めるところによれば、動物一般が、たとえ野獣であっても、自然法の知識を与えられているからである。|『学説彙纂』第1巻第1章第1法文第3項<ref>訳出にあたっては、({{Cite book|和書|author=Justinian I, Emperor of the East; 春木, 一郎
}}
95 ⟶ 133行目:
=== 自然法の認識原理 ===
自然法の[[法源]]が[[制定法]]や[[判例法]]でない以上、その[[認識]]手段が常に問題となる。基本的に、自然法の認識原理は、その法源の種類にかかわらず理性であると言われる。すなわち、自然法が超自然的な存在によって作られたものであろうとなかろうと、それを発見するのは人間の理性である。[[理性]]が人間の[[自然本性]]である以上、合理的思考は自然法の認識にとって不可欠となる。[[ストア派]]にとって倫理学は論理学と自然学の上に成り立つものであり、密接不可分である<ref>{{Cite book|和書|author=Long, A. A.;
{{quotation|
[[義務]]は次のように定義される。「生における整合的なことで、それが実行されたときに合理的に説明されることである」。これとは反対のことは[[義務]]に反することである。これは、非[[ロゴス]]的な[[動物]]にも及ぶ。なぜなら、それらも、それ自身の[[自然本性]]と整合的な何らかの働きをしているからである。[[理性]]的な動物の場合は、次のように説明される。「生における整合的なこと」。|ストバイオス『抜粋集』第2巻7-8
}}
105 ⟶ 143行目:
== 自然法とその他の法との関係 ==
=== 慣習法との関係 ===
既に初期[[ストア派]]の[[クリュシッポス]]が、[[ノモス]](慣習)と[[ピュシス]](自然本性)を対置し、後者を前者に優位させる
{{quotation|
次はもっとも愚かな見解である。すなわち、国民の習慣や[[法 (法学)|法]]によって定められていることはすべて正しいと考えることである。[[僭主]]の[[法 (法学)|法]]でも正しいのか。…(中略)…人間の共同体を一つに結びつけている正しさは一つであり、それを定めたのは一つの[[法 (法学)|法]]であり、この[[法 (法学)|法]]は命じたり禁じたりする正しい[[理性]]だからである。この[[法 (法学)|法]]を知らないひとは、この[[法 (法学)|法]]の書かれているところがどこかにあろうとなかろうと、不正な人である。|キケロ『法律について』第1巻42
}}
128 ⟶ 166行目:
{{reflist|2}}
<!--{{ISBN|date=February 2008}}-->
==参考文献==
{{Cite book|和書|author=中川純男, 山口義久 |title=クリュシッポス『初期ストア派断片集4』(共訳) |publisher=京都大学学術出版会 |year=2005 |url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1130282272105186560 |ISBN=4876981582 |id={{全国書誌番号|20752279}} |pages=162-163 |ref={{harvid|『初期ストア派断片集4』}}}}
==関連項目==
135 ⟶ 175行目:
== 外部リンク ==
{{ウィキポータルリンク|哲学}}▼
{{ウィキポータルリンク|法学}}▼
* {{IEP|natlaw|Natural Law}}
* {{Kotobank}}
▲{{ウィキポータルリンク|哲学}}
▲{{ウィキポータルリンク|法学}}
{{自然法論のテンプレート}}
|