削除された内容 追加された内容
ギャラリー: より良い画像= JapaneseTroopsBataan1942.jpg
編集の要約なし
 
(24人の利用者による、間の37版が非表示)
1行目:
{{Redirect|戦旗|3=戦旗 (雑誌)}}[[File:Bataillon de la garde autrichienne.jpg|thumb|right|200px|[[2007年]]の[[パリ祭]](7月14日)において[[シャンゼリゼ通り]]を軍旗を先頭に行進する各国軍の隊列。[[オーストリアの軍事|オーストリア軍]]]]
[[File:Garde nationale bulgare.jpg|thumb|200px|同上。手前は[[ブルガリア軍]]、奥は[[スペイン軍]]([[スペイン外人部隊]])]]
 
8行目:
軍旗は、[[指揮官]]・部隊長の所在を明示する目的や、軍隊・部隊の精神的支柱として古くから用いられており、一例として[[古代ローマ]]([[ローマ軍]])の各[[ローマ軍団|軍団]]は固有の軍旗を有していた。世界において軍旗はその軍隊の象徴であると同時に、その国の[[国旗]]に準じ[[国家]]等を表す重要な存在である。
 
多くの国の軍隊において、軍旗は程度の差はあれど神聖視される存在であり、原則として再交付は許されず、戦闘において敵軍の軍旗は[[鹵獲]]するべき対象となった。また、敵軍に軍旗を奪われることは大変な恥辱とされ、軍旗は命を賭して守護すべきものであると考えられる傾向があった。特に軍旗が畏敬されていた軍隊としては、[[近世]]および[[近代]]の[[フランス軍]]・[[赤軍|ソ連赤軍]]・[[大日本帝国陸軍]]などがあった。また、[[プロイセン]]以降の歴代[[ドイツ軍]]では、主に新兵が軍旗に対して宣誓を行い国家等に対し忠誠を誓う「[[忠誠宣誓 (ドイツ)|忠誠宣誓]](軍旗宣誓)」が、ほか[[17世紀]]以降の[[イギリス軍]]では[[近衛兵 (イギリス)|近衛師団]]隷下の各連隊が軍旗を先頭に分列行進を行い、[[英連邦王国|英国王]]の閲兵を受ける「[[軍旗敬礼分列式]]」<ref>[http://ukinjapan.fco.gov.uk/ja/visiting-the-uk/about-uk/royal-family/trooping-the-colour 軍旗敬礼分列式(Trooping the Colour)とは何ですか? 駐日英国大使館]</ref>という軍旗をメインに用いた伝統的な儀式が[[現代]]に至るまで行われている。
 
かつては[[演習|演習地]]や[[戦場]]において、部隊長(連隊長)のあるところには常に軍旗(連隊旗)が掲げられ、部隊拠点の所在を明示していたが、[[戦術]]の変化や[[兵器]]および[[通信機器]]の進歩により意味を失った。また連隊長や[[司令部|連隊本部]]の所在を敵に示してしまい攻撃の格好の標的となること、上述の事情から軍旗の死守に拘泥することで臨機応変な戦闘行動や俯瞰的な作戦指揮を阻害すること、そして万一奪取されるなどの事態が起きた場合に[[軍人|将兵]]の[[士気]]に関わることなどから、[[列強|列強各国]]の[[戦闘教義]]が進化した[[第二次世界大戦]]以降は概ね戦場に掲げられることは少なくなっている。現代では単に軍隊・部隊のシンボルとして、[[パレード]]([[観兵式]]・[[観閲式]])や[[栄誉礼]]などの儀式(式典)・行事のみで使用されることが多い。
19行目:
 
== 歴史 ==
少なくとも[[青銅器時代]]以降には、軍隊を示す[[紋章]](フィールドサイン)が戦争で使用されていた。フィールドサインとしての旗の使用は、中国やインドあたりのアジアの鉄器時代に登場したのが明らかになっている<ref name = "EB1">flag. (2008). Encyclopædia Britannica. Chicago: Encyclopædia Britannica.</ref>。
 
それ以外の地域で旗が使用される前は、[[ローマ軍]]の[[ウェクシルム]]のように、棒の先端に垂幕をたらした[[:en:Vexilloidヴェクシロイド]]や、像を取り付けた棒(シグナム、signum、持ち手は{{仮リンク|シグニフェル|en|Signifer}}と呼ばれ、更に掲げる物によってイーグルスタンダード(アクィラ)持ちは[[アクィリフェル]]、皇帝のイメージとなる物を掲げた[[:en:Imaginifer|Imaginifer]]、龍の飾りを掲げた[[:en:Draconarius|Draconarius]]等が居た)が使用された。
 
軍旗の使用は中世の頃に一般的になり、盾の上に示された紋章を補完するものとして紋章と共に発展した。また像に関しては、中世の騎士は[[兜]]の上に取り付けることもあった。
32行目:
[[大日本帝国陸軍]]は、[[日本の歴史|日本史上]]において先駆けて'''[[旭日旗]]'''を考案・採用し、「'''軍旗'''(旧称・'''陸軍御国旗''')」として制定した。意匠は[[国旗]]である[[日本の国旗|日章旗]]に準じ[[日章]]は中心に位置し、十六条の[[太陽光|光線]](旭光)を放つ。なお、[[大日本帝国海軍|海軍]]はその陸軍に遅れること19年後の[[1889年]](明治22年)、(陸軍の)「軍旗(陸軍御国旗)」に倣い旭日旗を「[[軍艦旗]]」として制定した(日章位置は旗竿側に寄る)。
 
「軍旗」および「軍旗の意匠の旭日旗」は、[[五芒星]](五光星)や[[サクラ|桜星]]([[桜|桜花]])とともに、明治最初期から「'''帝国陸軍の象徴'''」として国民に広く知られており、[[戦争画]]・[[写真]]、[[軍歌]]、[[メディア (媒体)|メディア]]([[新聞]]・[[ラジオ放送]]・[[ニュース映画]]など)、兵営公開イベントを兼ねた[[軍旗祭]]などを通して一般市民からも親しまれていた存在であった([[#軍旗の意匠]])。 
 
なお、制式・正式の名称は「軍旗」であるが「'''連隊旗'''('''聯隊旗''')」の通称・呼称も採用当時から多々使用されている。
47行目:
=== 軍旗の歴史 ===
* [[1870年]][[6月13日]](明治3年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - 陸軍国旗章並諸旗章及兵部省幕提灯ノ印ヲ定ム([[太政官布告]]第355号)により「'''陸軍御国旗'''(''陸軍御國旗'')」が各「[[大隊]]旗」とともに定められる。
** この陸軍御国旗は、縦4[[尺]]4[[寸]](約1.33[[メートル|m]])で横5尺(約1.51m)の房なし十六条旭日旗である。なお、この旗の制定当時は[[御親兵]]が正式に発足する以前であり、考案は[[兵部省 (明治時代)|兵部省]]による。
* [[1874年]](明治7年)1月23日 - 初めて軍旗が[[近衛歩兵第1連隊]]および[[近衛歩兵第2連隊]]に対し、[[明治天皇]]親臨のもと[[日比谷公園|日比谷操練所]]にて親授された。
** 親授に際して、近衛歩兵第1連隊は明治天皇より「''近衛歩兵第一連隊編制成ルヲ告ク 仍テ今軍旗一旒ヲ授ク 汝軍人等協力同心シテ益々武威ヲ発揚シ以テ国家ヲ保護セヨ''」の[[勅語]]を賜り、連隊長[[野崎貞澄]][[中佐|陸軍歩兵中佐]]は「''敬デ明勅ヲ奉ズ 臣等死力ヲ竭シ誓テ国家ヲ保護セム''」と奉答した。
* [[1879年]](明治12年)12月2日 - 「太政官布告第130号」により、[[歩兵連隊]]・[[騎兵連隊]]・[[砲兵|砲兵連隊]]の「'''軍旗'''」が定められる。
** この[[歩兵]]連隊軍旗は縦2尺6寸4分(約0.8m)で横3尺(約0.91m)、[[騎兵]]・[[砲兵]]連隊軍旗は縦横2尺1寸(約0.64m)で、旗の四方は[[金色|金]][[金銀糸|モール]]([[黄色|黄]]線)で縁取られた[[紫色|紫]]房の十六条旭日旗である。また、旗面の竿側下角部には連隊名を記入する白抜きの部分があり、付属となる旗竿(きかん)は[[樫]]の4段巻き[[黒色|黒]][[漆]]仕上げ、竿頭(かんとう)には金色金属製の[[菊花紋章]]が付される。
** なお、騎兵・砲兵連隊は「軍旗」制定時にはまだ大隊であり[[編成 (軍事)|編成]]されていなかったため、授与されていない(当時はまだ大隊[[編制]])。
* [[1885年]](明治18年)1月10日 - 太政官布告により砲兵連隊軍旗が廃止される一方、後備歩兵連隊軍旗も制定される。
** 後備歩兵連隊軍旗は[[赤色|赤]]房である以外は常備歩兵連隊軍旗と変らない。
72行目:
旗手(連隊旗手)は、新任の少尉(稀に[[中尉]])の中の成績最優秀者が1年間交代で務め、連隊本部附であった。旗手の要件は品行方正・成績優秀・眉目秀麗・長身であることが求められ、また暗黙の要件として[[童貞]]で、悪所通いをしない高潔な人物が選ばれた。旗手は日常の勤務においては、連隊副官の秘書のような形で、連隊本部の事務処理に当たった。さらに軍旗には誘導[[将校]]と数名の軍旗[[衛兵]]が付され、また戦場では軍旗を守護するために1個[[中隊]]が編成されるが、これは本部中隊たる予備兵力として運用された<ref>[[衛戍地]]においては軍旗は基本的に連隊長室に安置される。</ref>。観兵式などにおける分列式において、連隊が『[[陸軍分列行進曲]](観兵式分列行進曲)』および『観兵式行進曲』<ref>乗馬部隊・[[機甲部隊]]・機械化部隊・[[陸軍飛行戦隊|航空部隊]]等用の[[ギャロップ]]。</ref>にのせて分列行進する際は、軍旗(旗手・衛兵)を先頭に連隊長以下連隊将兵がこれに続いた。軍旗は決して後退しないとの建前から、軍旗を反転させる際の号令としては「回れ右」は用いられず、「右向け右」を二回繰り返すとされた。
 
[[File:Gunki.jpg|170px|thumb|right|歴戦の証として旗の部分が失われ、周囲の房だけ残った[[騎兵連隊#日本陸軍騎兵連隊|騎兵第16連隊]](騎兵第十六聯隊)の軍旗(1933年)]]
軍旗は完全に失われない限り再授与されることはなかったため、[[佐賀の乱]]、[[神風連の乱]]、[[秋月の乱]]、[[萩の乱]]、西南戦争、[[日清戦争]]、[[義和団の乱|北清事変]]、[[日露戦争]]、[[第一次世界大戦]]([[日独戦争]])、[[シベリア出兵]]、[[満州事変]]、[[第一次上海事変]]、[[日中戦争]]([[支那事変]])、[[張鼓峰事件]]、[[ノモンハン事件]]、[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]]/[[大東亜戦争]])などを経た歴史の古い連隊の軍旗は、旗部分が殆どなくなり房だけとなった物がきわめて多かった。これらの軍旗は激戦を戦い抜いてきた連隊の栄光の象徴として大変な名誉とされており、[[1886年]](明治19年)に原[[詩]]が発表され、[[1891年]](明治24年)に曲がつけられた軍歌『[[敵は幾万]]』の第2番では「''風に閃く連隊旗 記紋は昇る朝日子よ 旗は飛びくる弾丸に 破るることこそ誉れなれ''」と謳われている。しかし旗だけが損耗して房が残る点については、[[胡桃沢耕史]]は人為的にひそかに手が加えられていたとする証言を聞いたことを軍隊時代の体験記である『黒パン俘虜記』に記しており、また連隊の将校が在隊記念として旗片を隠れて失敬することもあった。平時においても演習時に軍旗が損傷することも少なくなく、これら損傷記録は各軍旗とともにあった公式文書である「軍旗損傷誌」や「軍旗日誌」、軍関係者や民間向けに頒布される冊子や軍旗縮図に絵入りで記されていた。行軍時には無駄な汚損を防ぐため、筒状の布袋(覆い)を被せ保護する。
 
中でも、神風連の乱にて旧・[[熊本藩]]反乱士族の攻撃を受けた[[歩兵第13連隊]]では、[[佐竹広明]]陸軍中尉が陸軍御国旗を体に巻きつけ死守したため旗が[[血]]に染まり、また、日露戦争の[[沙河会戦]]・三塊石山の夜襲[[白兵戦]]において、[[歩兵第39連隊]]の軍旗は旗手2名が戦死した際にその血を受けたため、これらは「''血染めの軍旗''(血染めの連隊旗)」と謳われよりいっそう尊崇された。
 
なお、[[軍縮]]([[宇垣軍縮]])などにより連隊が廃止される際は軍旗は奉還(返納)される。これは[[編制]]の改編でも同様であり、[[1940年]](昭和15年)頃末から順次実施された一部の既存騎兵連隊の[[捜索連隊]]([[機動]][[斥候|戦闘斥候]]部隊)への改組では、(捜索連隊の)[[編成]]に際して軍旗は奉還されている(全ての騎兵連隊が改編されたわけではなく、儀仗部隊を兼ねている[[近衛師団]]の[[近衛騎兵連隊]]や、[[騎兵連隊#日本陸軍騎兵連隊|騎兵第26連隊]]など数個連隊は終戦時まで存続している)。
 
戦時の報道写真においては、[[防諜]]上の理由から画面に写った軍旗は[[検閲]]の対象に含まれた。また、軍旗は戦闘において連隊が壊滅間際・[[玉砕]]直前(連隊の最期)になった際は連隊長や旗手の手により奉焼(丁重に焼く)された([[#軍旗の奉焼等]])。第二次大戦終戦時には各連隊に対し陸軍大臣より奉焼命令が出され、軍旗奉焼式を経てごく一部を除き全てが焼失し、灰や燃え残った旗・竿頭破片も土中に埋没ないし河川に流され処理された。これは天皇の分身である軍旗を敵の手に渡すことを避けたためである。一方で、極少数であるが現存する軍旗や小片が存在している([[#現存する軍旗]])
107行目:
[[歩兵第321連隊]](1945年7月23日親授)では軍旗の喪失を惜しんだ連隊長・[[後藤四郎]]陸軍中佐の考えにより、旗竿のみを収めた奉安箱を奉焼。旗と竿頭は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]統治下を経て日本の[[主権]]回復に至るまで[[神道天行居]]という団体の施設に隠し通したため、これがほぼ完全な姿で現存する唯一の軍旗となっている。これは旗竿を復元したうえで[[靖国神社]]に[[奉納]]され、[[遊就館]]の特別陳列室に展示されている。
 
このほかにも一部の連隊では奉焼を経て残った破片や灰、もしくは奉燃を免れた一部が連隊将兵の手により持ち帰られている。

* [[歩兵第57連隊]]・[[歩兵第86連隊]]・[[歩兵第143連隊]]などの物は靖国神社に奉納され遊就館の第15展示室に収蔵。
* 歩兵第39連隊では血染めの旗片を分割して持ち帰り、同連隊の慰霊碑内に納め更にその一部は[[姫路駐屯地]]館を経て遊就館に収蔵。([[歩兵第39連隊#血染めの軍旗]]を参照)
* [[歩兵第63連隊]]の破片は[[出雲駐屯地]]資料室に収蔵。
* [[歩兵第70連隊]]では連隊長・[[石川粂吉]]陸軍大佐の「連隊長は軍旗とともにある」という信念により竿頭と房の一部および軍旗日誌を主権回復に至るまで保管、現在は[[丹波篠山市]]の戦没者慰霊施設(遺芳殿・遺芳館)に収蔵されている
* [[歩兵第14連隊]]では奉焼式に参加した将校[[准士官]]以上および、各中隊の[[下士官]]・[[兵 (日本軍)|兵]]代表の全員に対し切り分けた房を配布、また一部の青年将校が埋没された竿頭の破片を掘り起こし保管している。
 
=== ギャラリー ===
<gallery>
File:Battle of Taharazaka.JPG|西南戦争([[西南戦争#田原坂・吉次峠戦い激闘|田原坂の戦い]])における陸軍御国旗([[小林永濯]]画)
File:ShiroyamaBattle.jpg|西南戦争([[西南戦争#城山・重富・紫原の戦い|城山の戦い]])における陸軍御国旗
File:16126.d.1(46)-Long live the Great Japanese Empire! Our army's victorious attack on Seonghwan.jpg|日清戦争([[成歓の戦い]])における軍旗。なお、日清戦争当時は既に「軍旗」に置き換わっているが、この浮世絵では旧制式である「陸軍御国旗」が描かれている([[水野年方]]画)
144 ⟶ 150行目:
『[[陸軍礼式令]]』(昭和15年1月25日[[軍令|軍令陸]]第3号)によると、第4章に軍旗に関する敬礼が定められている。
; 軍旗の敬礼
: 軍旗は、天皇に対するときおよび拝神の場合に限り敬礼を行うものとされ、連隊旗手、軍旗衛兵ならびに軍旗中隊および誘導将校、護衛[[下士官]]ならびに軍旗誘導部隊は、軍旗の敬礼を行う場合に限り敬礼を行うものとされた。
; 軍旗に対する敬礼
: 抜刀将校や武装下士官兵の軍旗に対する敬礼は天皇に対する敬礼に同じであり、抜刀将校は刀の礼、武装下士官兵は[[捧銃]]・捧刀の礼を行う。室内においては、拝礼する。軍旗に行き遇いまたはその傍を通過する者は、行進間においては停止し、乗馬者は乗馬のまま、乗車者は乗車のまま軍旗に面して敬礼を行う。
150 ⟶ 156行目:
 
=== 軍旗の奉焼等 ===
1945年(昭和20年)[[8月24日]]、[[下村定]]陸相は翌[[8月25日]]から[[8月31日]]までの間に軍旗を奉焼するように特別命令を通達。内地で179旒、外地で265旒が対象となった<ref>{{Cite book |和書 |author=日置英剛 |title=年表 太平洋戦争全史 |publisher=国書刊行会 |year=2005-10-31 |page=741 |isbn=978-4-336-04719-9 }}</ref>。侍従武官府には[[第36軍 (日本軍)|第36軍]]より隷下の各軍旗を宮中に奉還したいとの申し出があったことから、侍従武官府がこれを受取り同年8月31日までに東京補給廠にて奉焼した<ref>{{Cite book |和書 |author=宮内庁 |title=昭和天皇実録第九 |publisher=東京書籍 |year=2016-09-29 |page=795 |isbn=978-4-487-74409-1}}</ref>。これ以前の奉焼事例は以下の通り。
* 近衛後備歩兵第1連隊(1904年6月15日に奉焼。翌年6月28日に再授与)
** 日露戦争下の1904年(明治37年)6月15日、[[常陸丸事件]]で[[ロシア軍|ロシア帝国軍]]に鹵獲されることを防ぐために連隊長・[[須知源次郎]]陸軍歩兵中佐は軍旗を奉焼させ、次いで自決した。同年6月28日に「曩ニ近衛後備歩兵第一聯隊ニ授与シタル軍旗[[玄界灘]]ニ於テ聯隊長戦死ノ際焼棄セシニ由リ更ニ此軍旗一旒ヲ授ク」という[[勅語]]とともに再授与された。
* [[歩兵第49連隊]](1906年10月2日に失火により焼失。同年12月14日に再授与)
** [[大韓帝国|北韓]]警備に当たっていた1906年(明治39年)10月2日、火災によって連隊長室ともに焼失する。[[旅団長]]は5日、連隊長・'''太田朗'''陸軍歩兵中佐および連隊旗手は軽謹慎30日、連隊長代理および[[週番]][[司令]]は軽謹慎25日、連隊附少佐および連隊[[副官]]は軽謹慎20日の処分を受けた。なお、軽謹慎処分は懲罰処分であって、[[軍法会議]]にかけられたわけではない。同年12月14日に「曩ニ歩兵第四十九聯隊ニ授与シタル軍旗ハ不慮ノ災ニ罹リ亡失セシニヨリ更ニ此軍旗一旒ヲ授ク」という勅語とともに再授与される。
* [[歩兵第64連隊]](1939年8月29日に奉焼)
** [[ノモンハン事件]]下の1939年(昭和14年)8月29日、ソ連軍に包囲され脱出が困難となったため、連隊長・[[山県武光]]陸軍歩兵大佐は軍旗を奉焼させ、次いで自決した。
* [[歩兵第71連隊]](1939年8月30日に奉焼)
** ノモンハン事件下の1939年8月30日、ソ連軍に包囲され脱出が困難となったため奉焼した。連隊長は先に[[戦死]]していた。
161 ⟶ 168行目:
** 1942年(昭和17年)11月16日、[[パラオ]]沖で[[アメリカ海軍]][[潜水艦]]の[[雷撃]]により輸送船とともに海没する。連隊長の再三の再交付申請も、[[大本営]][[参謀]]・[[辻政信]]により、連隊解散、激戦地への所属兵員の配置が懲罰的に行われ再交付されなかった。帝国陸軍史上前代未聞の軍旗海没事例であった。
* [[歩兵第28連隊]](1942年8月21日に奉焼)
** [[ガダルカナル島の戦い]]下の1942年8月21日午後3時、[[ガダルカナル島]]で奉焼。連隊長・[[一木清直]]陸軍大佐は[[自殺|自決]](日本側の[[戦闘詳報]])。その後、証言により軍旗は埋没処理と判明している。
* [[歩兵第29連隊]](1942年10月・1945年9月)
** ガダルカナル島の戦い下の1942年10月頃、埋没処理を行う。連隊長・[[古宮正次郎]]陸軍大佐は自決。連隊再建後の1944年1月31日に再授与、終戦時は[[仏印]]のビエンホア付近で奉焼。
173 ⟶ 180行目:
** サイパンの戦い下の1944年7月4日、サイパン島で奉焼。連隊長は[[小川雪松]]陸軍大佐。
* [[歩兵第38連隊]](1944年7月21日に奉焼)
** [[グアムの戦い (1944年)|グアムの戦い]]下の1944年7月21日夜、[[グアム島]]で奉焼。連隊長・[[末長常太郎]]陸軍大佐以下[[玉砕]]した。
* [[歩兵第18連隊]](1944年7月25日夜に奉焼)
** グアムの戦い下の1944年7月25日夜、グアム島で奉焼。連隊長・[[大橋彦四郎]]陸軍大佐以下玉砕した。
202 ⟶ 209行目:
* [[歩兵第113連隊]](1944年9月)
**諸説ある
**1.7日夕方  大尉が最後の切込みの際に襷掛けにした。(上等兵が目撃した。)
**2.7日  大尉が横股陣地の中で奉焼した。
**3.6日夜  大尉の腹に巻き、紋章は音部山と西山の間に埋めた。(大尉から中尉が聞いた)
 
*[[歩兵第148連隊]](1944年9月11日9時奉焼)
**騰越の戦いにて玉砕直前に『涙とともに奉焼』
 
*[[歩兵第55連隊]](1945年8月22日16時、奉焼)
**師団からの命令にて[[パアン]]の農業振興会の庭にて、近隣に駐屯している兵士が集まった中、旗手がガソリンをかけた。併せて御紋章も粉砕し[[サルウィン川]]深くへ沈めた。
 
=== 難を逃れた軍旗 ===
214 ⟶ 224行目:
* [[歩兵第115連隊]]
** [[ビスマルク海海戦]]で輸送船が撃沈されるが、2名が軍旗を守って30日以上海上を漂流したのち帰還した。
* [[歩兵第57連隊]]
** レイテ島から帰国。靖国神社に保管。
* [[歩兵第321連隊]]
** 靖国神社に保管。
 
== 陸上自衛隊 ==
219 ⟶ 233行目:
[[File:Flag of the Japan Self-Defense Forces.svg|thumb|right|250px|自衛隊旗]]
[[File:Flag of JSDF(20070408).jpg|thumb|right|250px|自衛隊旗(連隊旗)。中隊旗([[砲兵|特科]])が「立て銃」の要領で地面で支えられているのに対して、自衛隊旗は捧持されたまま]]
[[File:Flag of NPR Regiment.svg|thumb|250px|[[警察予備隊#編成(1950年12月以降)|警察予備隊普通科第1連隊]]の連隊旗]]
[[File:1st Regiment of NPR.JPG|thumb|right|250px|[[日章旗]]と連隊旗を前に行進する警察予備隊普通科第1連隊]]
{{see also|自衛隊の旗}}
 
「[[軍隊]]」ではないとされる[[陸上自衛隊]]において、「軍旗」に相当するものは'''自衛隊旗'''(じえいたいき)である。意匠は八条の'''旭日旗'''で、旗地の彩色は白色、日章および光線の彩色は[[紅色]]、縁の彩色は金色とされている。縦87.5 [[センチメートル|cm]]、横は108.9 [[センチメートル|cm]]、日章は直径41.5cm5 cm。旗の生地はあや錦織。連隊名は旗竿に付されている[[銘板]]に記入される。
 
[[自衛隊法]](昭和29年6月9日[[法律]]第165号)第4条により[[内閣総理大臣]]<ref>連隊編成の式典では[[防衛大臣]](旧・[[防衛庁長官]])から授与されることが多い。</ref>は自衛隊旗を交付し、[[自衛隊法施行令]](昭和29年6月30日[[政令]]第179号)第1条の2第1項により[[日本の連隊#陸上自衛隊|陸上自衛隊の連隊]]にのみ交付されることとなっているため、「'''連隊旗'''」の通称・呼称も多々使用されている。
 
なお、陸上自衛隊の前身である[[警察予備隊]]および[[保安隊]]にも連隊旗が制定されていたが、旧軍との関連性を排する意図から旭日旗の意匠は用いられておらず(これは[[海上自衛隊]]の前身である[[警備隊 (保安庁)|警備隊]]の警備隊旗も同様)、旗地の彩色は連隊職種を示す色(普通科は赤、特科は黄)とし、中央には警察予備隊の[[帽章]]であった「[[旭日章 (警察章)|旭日章]]に[[鳩]]」が意匠として配置されたものであった。旗竿には菊紋ではなく[[桜|桜花]]が用いられた。警察予備隊の連隊旗は[[警察予備隊令]](昭和25年8月10日、{{Wikisource-inline|警察予備隊令}})により警察予備隊が発足した翌[[1951年]](昭和26年)に制定され、旗のサイズは帝国陸軍の軍旗(連隊旗)にほぼ準じた縦80cm80 cm、横100cm100 cmのもので、「旭日章に鳩」の意匠の下に白字で連隊番号が記入されていた。[[保安庁法]](昭和27年7月13日)により保安隊への改編が行われると、旗のサイズが現在の自衛隊旗と同じ縦87.5cm5 cm、横108.9cm9 cmとなり、連隊番号は帝国陸軍と同じく旗の左下に白布に黒字で記入される形に変更された。これらの連隊旗は昭和29年の自衛隊の発足とともに廃止され、先述の旭日旗を意匠とする自衛隊旗となった<ref>[http://j-flags-java.jimdo.com/日本の旗/軍旗-自衛隊旗/ 軍旗・自衛隊旗 - 日本旗章学協会]</ref>。
 
=== 自衛隊旗の扱い ===
陸上自衛隊には連隊以外にも、[[群 (軍事)|群]]旗・大隊旗・[[中隊]]旗(甲)および中隊旗(乙)に隊旗が授与されるが、次のような差異・特異点がある。
# 法律の正条に規定されている(他の隊旗は[[訓令]]<ref>「自衛隊の旗に関する訓令」(昭和47年3月14日防衛庁訓令第3号)</ref>に規定されている)。
# 内閣総理大臣から授与される(他の隊旗については特別な規定はない)<ref>ただし、政治的に重要視される状況下での授与式を除いては防衛大臣や政務官、陸上幕僚長および方面総監が代理人として授与する</ref>。
# 旭日旗である(他の隊旗の意匠は[[帽章]])。
# 恒久的・伝統的な部隊単位である連隊にのみ授与される。
# 旗手には主に防大卒の[[少尉|3等陸尉]]が充てられる(国旗および他の隊旗の旗手は、主に各部隊の訓練[[准尉]]又は訓練[[陸曹]]等)。
# 一度使用された連隊旗は当該部隊が廃止後別の部隊に授与されることなく広報館等に展示されるか保管される<ref>ただし、師団隷下から旅団・混成団等の隷下に再編成される場合は、形式上一度返納後に翌日旗本体を再交付の関係から新品に交換の上、編成完結式時に連隊旗として再交付される場合もある。付属品等は破損・汚損が無ければ基本的に返納時のまま再交付の際に再利用される。事後経年劣化等汚損や破損が見られる場合等やむを得ない場合は旗のみ再交付される事もある。破棄は基本的に行われず旗本体と付属品とを単体毎分割し所在していた駐屯地の記念館・顕彰室・資料館等にて厳重保管される事が多い。また、連隊廃止後に当該部隊の一部をもって同種の部隊が再編制されている場合、当該部隊が独自に顕彰室や顕彰コーナー等を設けて歴史紹介を兼ねて展示している場合もある(9([[第9普通科連隊|9連隊]]の後身である[[第26普通科連隊|26連隊]]4中隊など)</ref>。
# 部隊旗および帝国陸軍の軍旗と違い、旗に部隊名は直接記載されない<ref>ただし付属品には部隊名が記されており、それで連隊名が判別できる</ref>
 
自衛隊旗を含む隊旗については
245 ⟶ 261行目:
 
=== 自衛隊旗の意匠 ===
[[File:Land And Naval Battle of Hakodate Nishiki-e by Nagashima Mosai.JPGpng|thumb|right|300px|『箱館大戦争之図』]]
陸上自衛隊の自衛隊旗は帝国陸軍時代の軍旗の意匠をベースとしているものの、光線を十六条から八条に変更するなど差異がある。しかし、八条旭日旗の意匠自体は十六条旭日旗と同時代の頃から存在しており、例として明治時代初期に[[歌川芳虎]]により描かれた[[箱館戦争]]を描いた錦絵、『箱館大戦争之図』や『時明治元戊辰ノ夏旧幕ノ勇臣等東台ノ戦争破レ奥州ヘ脱走ナシ夫ヨリ函館ヘ押渡再松前城ニ於テ合戦ノ図』<ref>[{{NDLDC|1307325}} 『時明治元戊辰ノ夏旧幕ノ勇臣等東台ノ戦争破レ奥州ヘ脱走ナシ夫ヨリ函館ヘ押渡再松前城ニ於テ合戦ノ図』 国立国会図書館]</ref>では、新政府軍(官軍)が自衛隊旗の意匠とほぼ同じ八条旭日旗を掲げ、旧幕府軍と戦闘を行っている場面が描画されている。
 
253 ⟶ 269行目:
<gallery>
File:Flag of JSDF (Construction sheet).svg|自衛隊旗の規格
File:Flags of JGSDF and JMSDF with Tokutaro Kimura Defense Agency 1954.jpgpng|1954年、同年に制定された自衛隊旗(左。右は自衛艦旗)と初代防衛庁長官[[木村篤太郎]](中央)
File:89式装甲戦闘車 H22観閲式13 06 038 R 装備 150.jpg|自衛隊旗
File:JGSDF Type73 (new) Kogata Truck (12th Br.) &Flag of JSDF.jpg|[[第6地対艦ミサイル連隊]]の自衛隊旗。観閲部隊指揮官と同じ車両にある自衛隊旗。部隊指揮官の所在を明らかにする機能の反映
266 ⟶ 282行目:
</gallery>
 
==中国大陸の旗==
== ドイツ軍(1918 - 1945年) ==
* {{ill2|牙旗|zh|牙旗}}
[[File:Flag of Weimar Republic (war).svg|thumb|225px|共和国軍の軍旗(1921年 - 1935年)]]
* [[白旄]] - 古代中国で大将が指揮をするのに用いた[[ヤク]]の尾の毛が竿の先端に付いた旗印
[[file:Heeresfahne Infanterie.svg|thumb|250px|ドイツ陸軍の歩兵連隊軍旗・連隊旗 (Truppenfahne)]]
* 清時代の百科事典『[[古今図書集成]]』にある旗
[[file:War Ensign of Germany 1938-1945.svg|thumb|250px|ドイツ軍旗 (Reichskriegsflagge 1938 - 1945)。海軍の軍艦旗としても用いられていた]]
<div class="overflowbugy" style="height:300px;overflow:auto;">
ドイツ語では日本語の旗に対応する単語が大きく分けて2つある。掲揚台からスルスルと掲揚される旗は''[[:de:Flagge|Flagge]]''、旗竿に固定される旗は''[[:de:Fahne|Fahne]]''と称す。また、Fahneの中でも''[[:de:Standarte|Standarte]]''と称される十字型の旗竿から吊るされる小さな四方形の旗も存在する。当項では第一次大戦から第二次大戦期における、ドイツの軍隊および[[準軍事組織]]の軍旗・連隊旗等の変遷について述べる。
<{{gallery>
 
| title = 『[[古今図書集成]]』
[[ヴェルサイユ条約]]により10万人の兵力を制限された[[ヴァイマル共和政]]下の[[ヴァイマル共和国軍|ドイツ国軍]]は、[[1933年]]の[[アドルフ・ヒトラー]]の政権獲得とともに大きく変化する。[[1935年]]にヴェルサイユ条約を破棄し、再軍備が宣言され[[ドイツ国防軍]]となると、旧軍の連隊旗が式典に登場することを許され、さらに1936年から順次新しい連隊旗が授与された。これは'''[[:de:Truppenfahne|Truppenfahne]]''' (125cm×125cm) と呼ばれ、各[[兵科]]毎に色([[兵科色]])と意匠が異なる。連隊名は旗の下端の旗竿に巻き付けられたリング (Battalion ring) に刻印されている。また、それと同じ兵科色と意匠でスワローテールの小振り (75cm×51cm) の連隊旗も作られた。[[ドイツ陸軍 (国防軍)|陸軍]]のみならず、[[ドイツ海軍|海軍]]や[[ドイツ空軍|空軍]]、[[突撃隊]]・[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]・[[武装親衛隊]] ('''[[:de:Truppenfahne (Waffen-SS)|Truppenfahne (Waffen-SS)]]''') にも連隊旗に相当する旗があった。
| width = 120
 
| lines = 4
ドイツではプロイセンの時代より[[忠誠宣誓 (ドイツ)|忠誠宣誓]]([[:de:Fahneneid|Fahneneid]]) に連隊旗が用いられている。新兵は左手を連隊旗に触れながら、右手を挙げ、人差し指と中指を立てて宣誓文を復唱する。第二次大戦もなかばを過ぎると、敵に鹵獲される連隊旗も多くなったことにより、1944年9月16日には連隊旗をすべて[[ベルリン]]に回収する命令が出され、忠誠宣誓は連隊旗ではなくドイツ軍旗 ('''[[:de:Reichskriegsflagge|Reichskriegsflagge]]''') を用いるように変更された。
| File:Imperial Encyclopaedia - Military Administration - pic156 - 旂圖.svg | 龍旂
 
| File:Imperial Encyclopaedia - Military Administration - pic159 - 旟圖.svg | 鳥旟
=== ギャラリー ===
| File:Imperial Encyclopaedia - Military Administration - pic162 - 龍旃圖.svg | 龍旃
<gallery>
| File:Imperial Encyclopaedia - Military Administration - pic163 - 翿旌圖.svg | 翿旌
File:LSSAH Bataillon.svg|[[第1SS装甲師団|ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー]] (LSSAH) のFahne(隊旗)
| File:Imperial Encyclopaedia - Manufacture - pic0115 - 黃麾圖.svg | 黃麾<ref>《通典》:「黃帝振兵,設五旗五麾。」則黃麾製自有熊始也。</ref>
File:LSSS AH V1.svg|LSSAHのStandarte(1933年 - 1940年)
| File:Imperial Encyclopaedia - Manufacture - pic0118 - 傳教旛圖.svg | 傳教旛<ref>《開元禮義纂》:「若行幸征討,軍機有速,教令之所不及,但相去三隊,置旛以傳教,謂之傳教旛。」</ref>
File:LSSS AH.svg|LSSAHのStandarte(1940年 - 1945年)
| File:Imperial Encyclopaedia - Manufacture - pic0122 - 皂纛圖.svg | 皂纛<ref>《唐六典》:「後魏有纛頭,每天子行幸,大軍征伐,則建於旗上。」蓋即古旄頭之遺制也。</ref>
</gallery>
| File:Imperial Encyclopaedia - Manufacture - pic0125 - 北斗旗圖.svg | 北斗旗<ref>《禮記·曲禮》:「招搖在上,急繕其怒。」鄭氏註:「招搖星在北斗杓端,主指者。畫招搖星於旌旗上,以起勁軍之威怒,象天帝也。」</ref>
| File:Imperial Encyclopaedia - Manufacture - pic0132 - 元武旗圖.svg | 元武旗<ref>《曲禮》:「行前朱雀而後元武,左青龍而右白虎。」《義疏》:「四者,四方宿名也。蓋古者君行師從,故畫此四者於旌旗,以為前後左右之兵陳也。」</ref>
| File:Imperial Encyclopaedia - Manufacture - pic0143 - 熊旗圖.svg | 熊旗<ref>《周禮冬官·輈人》:「熊旗六斿,以象伐也。」注:「熊虎為旗,師都之所建也。」</ref>
}}</div>
* [[八旗]] - 清代。
 
== 脚注 ==
287 ⟶ 308行目:
 
== 文献 ==
* 柘植 久慶: 『ヒトラー時代のデザイン』、小学館、ISBN 4-09-402605-3、2000年
* John R. Angolla and Adolf Schlicht. 1987. ''Uniforms & Traditions of the German Army 1933-1945 Vol.3'' R.James Bender Publications, ISBN 0-912138-37-8.
* Wise, T. 1977. ''Military Flags of the World, 1618-1900.'' New York: Arco.
296 ⟶ 316行目:
* [[:en:Heraldic flag]]([[紋章旗]])
* [[ブンチューク]] - [[東亜]]、[[中東]]、[[東欧]]でフィールドサインとして使用された物
* [[黒旗 (イスラム教)]]
* [[白旄]] - 古代中国で大将が指揮をするのに用いた[[ヤク]]の尾の毛が竿の先端に付いた旗印
* {{仮リンク|カーヴェの旗|en|Derafsh Kaviani}}
* [[幡]] - 古代インドの軍旗が由来の仏教の荘厳具。
* {{ill2|幢|en|Dhvaja}}(ドバジャ) - 日本語で、軍の指揮に用いる旗の意。また英語版には、インドの叙事詩『マハーバーラタ』の戦士が掲げた紋章についての一覧がある。
* [[王旗]]([[:en:Royal standard|Royal standard]])
**[[オリフラム]] - ラテン語で「黄金の炎」の意、中世フランス王国の王旗(軍旗)
* [[救世軍]] - [[プロテスタント]]([[メソジスト]])系[[キリスト教会]]。軍旗があり、入信希望者が入信する「入隊式」や、[[葬儀]]などに用いられる。
* [[紋章官]] - 中世ヨーロッパにおいて、紋章から相手や自軍の情報がわかるため、戦争に同行して自軍や敵軍の状況を把握して報告する仕事を行った。
;日本における歴史上の軍旗、関連物
* [[幟]] - 室町時代の軍旗