「片岡松燕」の版間の差分
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| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 -->
| 出生地 = {{JPN}} [[兵庫県]][[神戸市]]
| 死没地 = {{JPN}} [[京都府]][[京都市]][[右京区]][[太秦]]
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 -->
| 身長 = 163.6cm
| 血液型 =
| 生年 = 1895
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| 没月 = 6
| 没日 = 10
| 職業 =
| ジャンル = [[歌舞伎]]、[[剣劇]]、[[劇映画]]([[時代劇]]、[[剣戟映画]]、[[サイレント映画]]、[[トーキー]])
| 活動期間 = 1900年 - 1938年
| 活動内容 =
| 配偶者 = 有
| 著名な家族 = [[尾上華丈]](実弟)<br />[[尾上松葉]](実弟)<br />[[片岡栄二郎]](甥)<br />[[島田秀雄]](甥)
| 事務所 =
| 公式サイト =
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| 備考 =
}}
'''片岡 松燕'''(かたおか しょうえん、[[1895年]][[2月15日]] - [[1943年]][[6月10日]])は、[[日本の男優一覧|日本の
== 来歴・人物 ==
[[1895年]](明治28年)[[2月15日]]、[[兵庫県]][[神戸市]]に生まれる、とされている<ref name="profile" /><ref name="名鑑" /><ref name="昭4" />。『現代俳優名鑑』([[揚幕社]])など一部の資料によれば、生年月日は上記の通りだが、出生地は[[大阪府]][[大阪市]][[南区 (大阪市)|南区]][[高津町 (大阪府)|高津町]]九番丁(現在の同市同区[[道頓堀]]1丁目、[[高津 (大阪市)|高津]]2・3丁目、[[日本橋 (大阪市)|日本橋]]1・2丁目の各一部)である旨が記されている<ref name="meikan" />。実父は歌舞伎など舞台の[[床山]]を職としていた。また、実弟は映画俳優[[尾上華丈]](本名嶋田喜一郎、1898年 - 1969年)、[[尾上松葉]](本名加藤淸、1909年 - 没年不詳)で、甥も同じく映画俳優[[片岡栄二郎]](本名嶋田助一郎、1918年 - 1983年)、[[島田秀雄]](生年不詳 - )であった。
1900年(明治33年)、満5歳の時に歌舞伎役者[[中村福圓 (初代)|初代中村福圓]]の門下となり、兵庫県神戸市にあった大黒座(後の[[八千代劇場]]、1882年 - 1960年、現存せず)での公演『[[佐倉宗吾]]』で[[實川正朝]]、[[市川團蔵 (7代目)|七代目市川團蔵]]
1920年(大正9年)、
1926年(大正15年)6月、会社側の了解を得て、日活を円満退社する<ref name="profile" /><ref name="昭4" />。同年10月8日、かつて[[東京府]][[豊多摩郡]][[大久保百人町]](現在の[[東京都]][[新宿区]][[百人町]])に映画撮影所を設けていた[[M・パテー商会]]、後に[[日活]]に統合されてから1915年(大正4年)に[[M・カシー商会]]を立ち上げた実業家[[梅屋庄吉]]の支援を得て、[[片岡松燕プロダクション]]を設立する<ref name="profile" /><ref name="昭4" /><ref>『日本映画事業総覧 昭和2年版』国際映画通信社、1927年、318頁。</ref>。大正時代最末期である同年12月10日、独立第一回作品となる[[高浜順]]監督映画『[[大望 (1926年の映画)|大望]]』を発表<ref name="profile" /><ref name="昭4" />。以後、翌1927年(昭和2年)までに全10本のサイレント映画を製作、松燕自身も女形兼男優として主演を務めたのち、同プロは間もなく解散
『現代俳優名鑑』など一部の資料によれば、大阪府大阪市南区高津町九番丁7番地(現在の同市同区道頓堀1丁目、高津2・3丁目、日本橋1・2丁目の各一部)から、東京府[[東京市]][[下谷区]][[中根岸町]]32番地(現在の東京都[[台東区]][[根岸 (台東区)|根岸]]3・4丁目)に住み、身長は5尺4寸(約163.6センチメートル)、体重は13貫(約48.8キログラム)、趣味は[[墨絵]]、[[三味線]]であり、嗜好物は[[鰻]]、[[中華料理]]、[[鮭]]、[[煙草]]である旨が記されている<ref name="meikan" /><ref name="名鑑" /><ref name="昭4" />。
解散後は実演に転向し、東京府東京市[[浅草区]](現在の[[東京都]][[台東区]])にあった[[宮戸座]](1887年 - 1937年、現存せず)など、関東・関西各座に出演していた<ref name="profile" /><ref name="昭4" /><ref name="東京">『東京新聞』昭和18年6月16日付、4頁。</ref>。が、この間も1937年(昭和12年)12月21日に公開された[[稲垣浩]]監督映画『[[飛竜の剣]]』をはじめ、同年12月31日に公開された[[マキノ正博]]監督映画『[[血煙高田の馬場]]』、翌1938年(昭和13年)3月1日に公開された[[辻吉郎]]監督映画『[[加賀百万石 (映画)|加賀百万石]]』と、かつて所属していた日活京都撮影所製作の[[トーキー]]に特別出演した記録が残っている<ref name="profile" /><ref name="昭4" />。
[[1943年]](昭和18年)[[6月10日]]、病気のため、[[京都府]][[京都市]][[右京区]][[太秦]]の自宅で死去した<ref name="profile" /><ref name="東京" />。満48歳没。
== おもなフィルモグラフィ ==
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*『[[渋川伴五郎 (1922年の映画)|渋川伴五郎]]』:監督[[築山光吉]]、製作日活京都撮影所、配給日活、1922年5月1日公開
*『[[実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻]]』:監督[[池田富保]]、製作日活京都撮影所、配給日活、1926年4月1日公開 - 神崎与五郎則休
*『[[大望 (映画)|大望]]』:監督[[高浜順]]、製作・配給[[片岡松燕プロダクション]]、1926年12月10日公開 - 矢部求女
* [[血煙高田の馬場]] 1937年 監督[[マキノ雅弘|マキノ正博]]・稲垣浩、主演阪東妻三郎 ※日活京都撮影所▼
*『[[恋の四千両]]』:監督[[横田豊秋]]、製作・配給片岡松燕プロダクション・[[森野五郎プロダクション]]、1927年7月1日公開
*『[[飛竜の剣]]』:監督[[稲垣浩]]、製作日活京都撮影所、配給日活、1937年12月21日公開 - 将軍綱吉
== 脚注 ==
==
* [[片岡仁左衛門 (12代目)]]
▲{{Reflist|2}}
* [[尾上松之助]]
* [[片岡長正]]
* [[牧野省三]]
* [[池田富保]]
* [[梅屋庄吉]]
* [[尾上華丈]]
* [[片岡栄二郎]]
* [[日活京都撮影所]]
* [[片岡松燕プロダクション]]
== 外部リンク ==
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