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| 生誕 = [[正嘉]]3年([[1259年]])
| 死没 = [[元亨]]3年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]([[1323年]][[5月13日]]))
| 改名 = 龍王丸(幼名)→基氏
| 別名 = 号:後国光寺
| 幕府 = [[鎌倉幕府]]
| 主君 = [[惟康親王]]
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== 概要 ==
『[[寛政重修諸家譜]]』の基氏に関する項目には元亨3年4月8日卒去、年63、法号・後国光寺殿傑信存英<ref group="注釈">父と同一の寺号のため、「'''後'''国光寺殿」と表記。</ref>ということ以外に記述がほとんど無い。しかし、父親である国氏については同譜の記述及びその元となったと考えられる『今川記』の記述において、国氏自身の事績とされる[[弘安]]年中の[[安達泰盛]]の乱([[霜月騒動]])の際の戦功が存在する。これについて、実は霜月騒動が弘安8年([[1285年]])の出来事で、国氏死去の弘安5年([[1282年]])の後に起きていることから、国氏の戦功記述は誤りとされている<ref group="注釈">このことには、父国氏とその嫡子基氏はともに同じ[[法号]]国光寺殿を有するために基氏の事績が父親の代のものとされた可能性もある。</ref>。すなわち、年代を考えれば霜月騒動終結後にこの戦功の恩賞として[[惟康親王]](第7代[[鎌倉将軍]]の源惟康)より遠江国引間荘([[静岡県]][[浜松市]])を与えられたのは基氏であったと推定される。
 
そして、この基氏の子ども達の代から遠江国を拠点とした今川氏一族の活躍と発展が顕著となる。例えば[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])[[中先代の乱]]に基氏の5人の男子のうち長男頼国は遠州[[小夜中山]]の戦いで敵将を討ち取る高名をしたが、この頼国を含め兄弟3名までが[[武蔵国]][[小手指原の戦い|小手指原]]([[埼玉県]][[所沢市]]小手指付近)の戦いや[[相模川]]の戦い等で戦死した。頼国の嫡男[[今川頼貞]]は丹後・但馬・因幡の守護に任命されている。