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北畠顕家の位署と花押
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| 子 = '''[[北畠顕成]]'''、[[北畠師顕]]、女子([[安藤貞季|安東貞季]]室)、[[村上師清]]?
| 特記事項 =
| 花押 = 北畠顕家の位署と花押.jpg
}}
 
'''北畠 顕家'''(きたばたけ あきいえ)は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[南朝 (日本)|南朝]][[公卿]]・[[武将]]。『[[神皇正統記]]』を著した[[准三后]][[北畠親房]]の[[長男]]。主著に『[[北畠顕家上奏文]]』。[[南朝 (日本)|南朝]][[従二位]][[権中納言]]兼[[陸奥大介]][[鎮守府将軍|鎮守府大将軍]]、[[贈位|贈]][[従一位]][[右大臣]]。
 
[[後醍醐天皇]]側近「[[後の三房]]」のひとり北畠親房の子として、前例のない数え14歳(満12歳)で[[参議]]{{efn|正確には平安時代に[[藤原頼長]]の子供である[[藤原師長]]が数え14歳で参議に任ぜられている。但し師長は摂関家であり、村上源氏でも庶流であった顕家の任官は異例のものであった。}}に任じられて[[公卿]]に登り、[[建武の新政]]では、義良親王(後の[[後村上天皇]])を奉じて[[陸奥国]]に下向した([[陸奥将軍府]])。のち[[足利尊氏]]との戦い[[建武の乱]]が起こると、西上し、第一次京都合戦で[[新田義貞]]や[[楠木正成]]らと協力してこれを京で破り、[[九州]]に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して[[南北朝時代 (日本)|南北朝の内乱]]が開始するにおよび、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。[[青野原の戦い]]で幕将[[土岐頼遠]]を破るが、義貞との連携に失敗し直進を遮られたため、転進。[[伊勢国|伊勢]]経由で迂回して[[大和国|大和]]などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に[[和泉国]][[堺浦]]・石津に追い詰められ、[[石津の戦い]]で奮戦の末に幕府[[執事 (室町幕府)|執事]][[高師直]]の軍に討ち取られて戦死した。享年数え21歳(21(満20歳)。
 
後醍醐天皇の御前で、眉目秀麗な[[北斉]]の皇族武将[[高長恭]]に扮して『[[蘭陵王 (雅楽)|陵王]]』を舞ったなどの芸能関係の逸話もある。
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元弘元年(1331年)3月、後醍醐天皇が[[西園寺公宗]]の北山第に行幸した際、顕家もこれに供し、「[[陵王]]」を舞った<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。『増鏡』では、このとき帝も笛を吹き、顕家が舞い終えたのち、前関白である[[二条道平]]が自身の紅梅の上着、二藍の衣を褒美として与えたという{{efn|『増鏡』では、「其の程、上も御引直衣にて、倚子に著かせ給ひて、御笛吹かせ給ふ。常より異に雲井をひびかす様也。宰相の中将顕家、陵王の入綾をいみじう尽くしてまかづるを、召し返して、前の関白殿御衣取りてかづけ給ふ。紅梅の表着・二藍の衣なり」とこのときの様子が記されている。}}。
 
このように、顕家は史上最年少で参議に任じられるなど先例のない昇進を示し、父親房同様に順調に出世をしていった{{efn|「元徳二年(1330年)13歳で左中弁となる新例をひらき、翌年参議で左近衛中将を兼ね、空前の昇進を示した」<ref>河出書房新社『日本歴史大辞典』</ref>}}。これは[[北畠家]]が即位前の邦仁王のころより代々[[大覚寺統]]と深い関係にあったからであると考えられる<ref>本郷和人「天皇の思想: 闘う貴族北畠親房の思惑」2010年 山川出版社</ref>。
 
=== 陸奥への下向と統治 ===
[[File:Emperor Godaigo by Monkan-bō Kōshin.jpg|thumb|230px|後醍醐天皇像([[清浄光寺]]蔵)]]
[[元弘]]3年/[[正慶]]2年([[1333年]])5月、[[新田義貞]]が鎌倉幕府を滅ぼしたのち、顕家は親房とともに開始された[[建武の新政]]を補佐していた<ref>『大日本史料』6編1冊99頁「公卿補任」元弘三年六月十二日</ref><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。同年8月5日、顕家は[[従三位]][[陸奥国司|陸奥守]]となる<ref>『大日本史料』6編1冊170頁「公卿補任」</ref><ref name="日本の歴史学講座HP">{{Cite web |和書|url=http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake20.html |title=日本の歴史学講座HP内北畠氏総合年表 |archiveurl=https://archive.ph/fR7T9 |archivedate=2014-07-05 |accessdate=2021-04-05}}</ref><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
10月10日正三位に叙任され<ref>『大日本史料』6編1冊242頁</ref>、10月20日後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの[[後村上天皇]])を奉じ、父とともに陸奥へ下向した<ref>『大日本史料』6編1冊249頁「神皇正統記」</ref><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。11月29日、陸奥国の[[多賀城]]([[宮城県]][[多賀城市]])に到着し、[[東北地方]]の統治を始める<ref>『大日本史料』6編1冊250頁「相顕抄」</ref><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
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翌建武3年([[1336年]])1月2日、顕家軍は鎌倉を攻め、[[足利義詮]]・[[桃井直常]]の軍勢を破り、鎌倉を占領した<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。翌日、[[佐竹貞義]]が顕家の追撃に向かったため、顕家は鎌倉を出て進撃を開始した。その後、1月6日には遠江に到着し、12日に近江愛知川に到着した<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
なお、顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmにおよぶ長距離を僅か半月で駆けており、その後も渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の[[中国大返し]]を遥かに越える日本屈指の強行軍である。
 
その後、顕家軍は[[琵琶湖]]を一日かけて渡り、翌13日に坂本で新田義貞・[[楠木正成]]と合流し、顕家は彼らと軍議を開いた<ref>『大日本史料』6編2冊978頁-</ref>。なお、顕家は坂本の行宮に伺候し、後醍醐帝に謁見した<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
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[[延元]]2年/建武4年([[1337年]])1月、父の北畠親房から[[伊勢国|伊勢]]へ来援する文書が送られた<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。同月8日、顕家は国府を[[霊山 (福島県)|霊山]]([[福島県]][[伊達市 (福島県)|伊達市]]および[[相馬市]])の[[霊山城]]に移した<ref>『大日本史料』6編4冊37頁</ref><ref name="日本の歴史学講座HP" /><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
同じころ、[[後醍醐天皇]]からも前年12月に送られた京都奪還の綸旨が届き<ref>『大日本史料』6編3冊934頁「白河文書」</ref>、勅命を受けた顕家は25日に奉答書を送った<ref>『大日本史料』6編4冊57頁</ref><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。その中で顕家は、「霊山城が敵に囲まれており、なおかつ奥州が安定してないので、すぐに上洛はできない。[[脇屋義助]]と連絡を取り合っている」と返答している。
 
8月11日、顕家は[[後村上天皇|義良親王]]を奉じて霊山城を発ち、上洛するために再び南下した<ref>『大日本史料』6編4冊352頁</ref><ref name="日本の歴史学講座HP" /><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。軍記物『太平記』では、このときの軍勢は奥州54郡から招集され、その兵数は10万余騎であったと描かれた。
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=== 畿内における戦い ===
[[File:Ashikaga Takauji Jōdo-ji.jpg|thumb|230px|足利尊氏像( [[浄土寺]]蔵)]]
2月4日、尊氏の命により、[[高師泰]]・[[高師冬|師冬]]・[[細川頼春]]・[[佐々木氏頼]]・[[佐々木道誉|高氏]]らが顕家軍討伐のため京を進撃した。2月14日および16日、顕家は北朝軍と伊勢国雲出川および櫛田川で戦ったが、決着はつかなかった<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
2月21日、顕家は辰市および三条口って[[大和]]を占領するが、28日に[[般若坂の戦い]]で激戦の末に北朝方の桃井直常に敗れた<ref name="#2"/><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。そのため、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った。
 
一方、[[河内国]]に退いた顕家は、[[伊達行朝]]、[[田村輝定]]らとともに戦力再建を図った。顕家は摂津国[[天王寺]]に軍を集結、3月8日に[[天王寺の戦い]]で勝利した<ref>『大日本史料』6編4冊737頁</ref><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
だが、3月13日に奥州軍は北朝方と再び天王寺、阿倍野および河内片野(片埜・古名、交野とも)で戦い、翌14日に天王寺で敗れた。3月15日に顕家軍は渡辺の戦いで勝利したものの、翌16日に阿倍野で戦い敗れ、和泉国に転戦した<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" /><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。3月21日、軍を立て直した高師直はこれを追撃し南へと向かった<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
3月22日、南朝は九州の[[阿蘇惟時]]に出兵を要請し、顕家を救援するように命じている<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。だが、惟時は出兵せず、4月27日に南朝は惟時に再度出兵を命じている<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
5月6日、奥州軍は和泉堺浦の町屋を焼き、5月8日には和泉坂本郷並びに観音寺に城槨を構え<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" /><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />、翌9日には奥州軍は熊取、佐野、長滝の各地に進撃し、北朝方の[[細川顕氏]]・[[日根野盛治]]・[[田代基綱]]ら現地の北朝方勢力と交戦を続けた<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" /><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
この間、5月10日 に顕家は東国経営の上奏文を草した<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。5月15日には再び後醍醐天皇に諫奏文を上奏した(『[[北畠顕家上奏文]]』)<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
=== 最期 ===
顕家軍は和泉で奮戦していたが、これに対して顕家討伐に向かった高師直は、[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]に天王寺から堺浦に向かって出撃した。
 
[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]、堺浦で両軍は激突した([[石津の戦い]])<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" /><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。顕家軍は善戦したものの連戦の疲労に加えて、北朝方についた[[瀬戸内海]][[水軍]]の支援攻撃を受けて苦境に立たされる。そのうえ、予定していた味方の援軍到着遅延も相まって、この戦いでは劣勢に回り全軍は潰走した。
 
その後、顕家は廻り等二百騎とともに石津で北朝方に包囲された。残り少ない顕家軍は決死の戦いを挑み尚も奮戦したが、顕家は[[落馬]]し、ついに討ち取られた。享年21。顕家の他、彼に随行していた[[名和義高]]・[[南部師行]]らも戦死した。
 
== 死後 ==
顕家の死によって南朝は、同年閏7月の義貞の死と相まって大打撃を受けた。その一方で、北朝方の[[室町幕府]]は中央のみならず顕家の根拠地であった[[陸奥国|奥州]]においても有利な戦いを進めていくことになった。
 
顕家の死後、6月21日に[[日野資朝]]の娘である妻は河内国[[観心寺]]で尼となり、その菩提を弔い続けた。閏7月26日に弟の[[北畠顕信]]は南朝方によって鎮守府将軍に任命され、9月に[[伊勢国|伊勢]][[国司]]の[[北畠顕能]]を残し、義良親王を奉じて親房らとともに陸奥へ向かった。だが、船団はその途中に暴風雨に巻き込まれ、顕信は義良親王とともに伊勢へ戻ったが、親房は常陸にたどり着き、北朝方と戦った([[常陸合戦 (南北朝時代)|常陸合戦]])。しかし、興国4年/康永2年([[1343年]])11月、親房は常陸を捨て吉野へと向かった。
 
一方、伊勢に戻った顕信は翌年に再び陸奥へと向かい、顕家が拠点としていた霊山城を中心に活動した。だが、[[正平 (日本)|正平]]2年/[[貞和]]3年([[1347年]])霊山城が落城するなど、南朝勢力は次第に逼迫していく。[[観応の擾乱]]によって起こった北朝側奥州管領の対立に乗じて[[多賀城|多賀国府]]を一時占拠するものの翌年には奪いされ、南朝勢力の回復には至らなかった。
 
嫡男である[[北畠顕成|顕成]]は、顕家の子ということもあって南朝からは相当厚遇されたとされるが、出家して『太平記』の一部を執筆・校閲をしたとも、奥州にとどまり[[浪岡北畠氏]]の祖となった{{efn|浪岡氏については、顕家の弟[[北畠顕信|顕信]]の孫にあたる[[北畠親能]]の子孫とする説など諸説ある。}}とも、九州に下向して懐良親王に従軍したとも<ref>『北畠准后伝』・『南朝編年記略』</ref>され、事跡が明確でない。一方、次男である[[北畠師顕|師顕]]の系統は[[時岡氏]]となったという。
 
[[文化 (元号)|文化]]14年([[1817年]])、[[松平定信]]が顕家慰霊するために霊山に霊山碑を建てた。
 
[[File:Abeno-jinja-haiden1.jpg|thumb|right|250px|顕家が祀られている[[阿部野神社]]]]
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文武両道ともに優れた人物で、公家でありながらも武将として、足利尊氏といった当時の武家らと互角に渡り合えるほどの卓越した手腕と戦略眼を持ち合わせていた。また、若年ながらも奥州の結城・伊達といった諸勢力を従わせるほどの政治手腕も持ち合わせた。南朝軍総大将の新田義貞と同様、後醍醐天皇から期待された存在であった。また、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の大名[[武田信玄]]よりも先に「[[風林火山]]」の旗印を用いたとされる。
 
容姿については凛々しい美青年であったと後世に伝わるが、これは{{誰範囲2|脚色された部分が強いとされる。|date=2024年7月}}

顕家の容姿に関する当時の記録では、『舞御覧記』の元弘元年に顕家が後醍醐帝の北山第行幸に供して陵王を舞った際の記録がある。これには顕家の容姿に関して、「形もいたいけして、けなりげに見え給いに(幼くてかわいらしく、態度は堂々としている)」とある。
 
== 評価 ==
[[海上知明]](NPO法人孫子経営塾理事)は北畠顕家を遠征と進軍の速度という観点から偉大な名将と絶賛している。有史以来、遠征は補給を無視できず長くは続かなかった。しかし顕家は補給を遠征地で現地調達しながら進軍するという方法をとったため足利残党に背後を襲われても瓦解しなかった。さらに進軍スピードは豊臣秀吉の中国大返しより速い1日50km、しかも中国大返しと違って敵地を進軍しながらの速度であった{{sfn|海上知明著『戦略で読み解く日本合戦史』(PHP新書)}}。
 
== 北畠顕家上奏文<span id="顕家諫奏文"></span>==
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== 墓所・神社・銅像 ==
[[ファイル:Den Kitabatake Akiie bochi.jpg|thumb|200px|伝 北畠顕家 墓]]
* [[堺市]][[西区 (堺市)|西区]]の[[紀州街道]]と[[石津川]]の交差する場所に架かる太陽橋の南詰めには、顕家が戦死したとされる場所と伝えられており、現在は[[南部師行]]と共に供養塔が建てられている<ref>{{Cite web |和書|url=https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/077.html |
title=第77話 北畠顕家 |publisher=公益財団法人 関西・大阪21世紀協会 |archiveurl=https://archive.ph/k4ekZ |archivedate=2021-04-05 |accessdate=2021-04-05}}</ref>。
* [[大阪市]][[阿倍野区]]の北畠公園内に顕家のものと伝えられる墓がある。ただし、『[[太平記]]』などの伝承に基づき、死後およそ400年後の[[享保]]年間に[[並川誠所]]の提唱によって立てられたものである<ref>北畠公園内「北畠顕家公由緒記」</ref>。
* 阿倍野区にある[[阿部野神社]]は顕家を祀っている。ここには顕家の銅像がある。この銅像はNHK大河ドラマ「太平記」が放映されたことを記念して1991年に建立されたもので、除幕式には親房・顕家親子を演じた近藤正臣・後藤久美子も列席した。
* 顕家が陸奥国府を築いた霊山には[[霊山神社]]が建てられ、顕家親子らを祀っている。ここにも顕家の銅像がある。{{clear}}
 
== 官歴 ==
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!事柄
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[元応]]3年
| style="white-space:nowrap;" |[[1321年]]
| style="white-space:nowrap;" |[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]
|[[従五位下]]に叙位(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0080 『大日本史料』6編4冊820–821頁].</ref>。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[元亨]]2年
| style="white-space:nowrap;" |[[1322年]]
| style="white-space:nowrap;" |1月5日
|従五位上に昇叙(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |元亨4年
| style="white-space:nowrap;" |[[1324年]]
| style="white-space:nowrap;" |[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]
|[[正五位下]]に昇叙(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[正中 (日本)|正中]]2年
| style="white-space:nowrap;" |[[1325年]]
| style="white-space:nowrap;" |[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]
|[[侍従]]に任官(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
|rowspan="2"|正中3年
|rowspan="2"|[[1326年]]
| style="white-space:nowrap;" |1月5日
|[[従四位下]]に昇叙し(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />、侍従如元。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]
|[[右近衛少将]]に転任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[嘉暦]]2年
| style="white-space:nowrap;" |[[1327年]]
| style="white-space:nowrap;" |[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]
|従四位上に昇叙し、[[武蔵国司|武蔵介]]を兼任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。右近衛少将如元。
|-
|rowspan="4"|嘉暦3年
|rowspan="4"|[[1328年]]
| style="white-space:nowrap;" |1月5日
|[[正四位下]]に昇叙し(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />、右近衛少将・武蔵介如元。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]
|[[少納言]]に転任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]
|左近衛少将に遷任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。少納言・武蔵介如元。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]
|[[中宮職|中宮権亮]]を兼任、少納言を去る(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
|rowspan="2"|[[元徳]]2年
|rowspan="2"|[[1330年]]
| style="white-space:nowrap;" |[[4月6日 (旧暦)|4月6日]]
|[[弁官|権左中弁]]に遷任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。中宮権亮如元。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]
|左中弁に遷任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。中宮権亮如元。
|-
|rowspan="4"|元徳3年
|rowspan="4"|[[1331年]]
| style="white-space:nowrap;" |1月5日
|正四位上に昇叙(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]
|[[参議]]に転任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]
|[[蔵人頭]]を経ずして左近衛中将を兼任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]
|参議・左近衛中将を辞し、[[従三位]]に昇叙(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[元弘]]2年/[[正慶]]元年
| style="white-space:nowrap;" |[[1332年]]
| style="white-space:nowrap;" |[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]
|参議に還任、左近衛中将を兼任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
|rowspan="5"|元弘3年/正慶2年
|rowspan="5"|[[1333年]]
| style="white-space:nowrap;" |[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]
|[[弾正台 #弾正台(律令制)|弾正大弼]]を兼任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]
|[[陸奥守]]を兼任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]
|弾正大弼を止む(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]
|[[正三位]]に昇叙し(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />、参議・陸奥守如元。
|-
| style="white-space:nowrap;" |月日不詳
|右近衛中将を兼任{{要出典|date=2019年11月}}。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[建武 (日本)|建武]]元年
| style="white-space:nowrap;" |[[1334年]]
| style="white-space:nowrap;" |[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]
|[[従二位]]に昇叙(勲功賞)、その身任国に在り(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />、参議・右近衛中将・陸奥守如元。
|-
|rowspan="2"|建武2年
|rowspan="2"|[[1335年]]
| style="white-space:nowrap;" |月日不詳
|陸奥権守に遷任、陸奥守を去る{{要出典|date=2019年11月}}。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]
|[[鎮守府将軍]]を兼任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
|rowspan="6"|[[延元]]元年/建武3年
|rowspan="6"|[[1336年]]
| style="white-space:nowrap;" |[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]
|[[検非違使|検非違使別当]]に補任し、[[右衛門督]]を兼任(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。ついで翌5日に大将軍の号を賜わる{{要出典|date=2019年11月}}。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]
|陸奥権守を去るか?(同日、義良親王の三品[[陸奥国司|陸奥太守]]叙任により){{要出典|date=2019年11月}}
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]
|[[権中納言]]に転任、検非違使別当・右衛門督如元(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]
|陸奥大介に任ぜられる{{要出典|date=2019年11月}}。
|-
| style="white-space:nowrap;" |月日不詳
|検非違使別当・右衛門督を辞す(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />。
|-
| style="white-space:nowrap;" |12月
|12月
|[[北朝 (日本)|北朝]]から解官(『公卿補任』)<ref name="dainihon-shiryo-kugyo-bunin" />{{efn|[[南朝 (日本)|南朝]]に参候したため。}}。
|-
| style="white-space:nowrap;" |延元3年/[[暦応]]元年
| style="white-space:nowrap;" |[[1338年]]
| style="white-space:nowrap;" |[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]
|([[石津の戦い]]で戦死。享年21。法名は長興寺道音{{要出典|date=2019年11月}})
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* 妻:[[日野資朝]]女{{efn|name="hagi-no-tsubone"}}(? - 1341?)
** 男子:[[北畠顕成]](1335 - 1386/1402) - 子孫は[[浪岡氏]]
** 女子:[[安藤貞季|安東貞季]]妻<ref name="san" /> - 暦応2年([[1338年]])より[[結城親朝]]に養育される。暦応43年([[1340年]])北畠親房は顕信に預けるため護送の方法を結城親朝と協議したという<ref>『大日本史料』6編6冊778頁</ref>。以降不明。
** 男子?:[[北畠師顕]]<ref name="san">『系図纂要』による。</ref> - 子孫は時岡氏
 
== 顕家を題材とした関連作品 ==
;小説
* [[北方謙三]] 『破軍の星』([[集英社]]、単行本: [[1990年]]、ISBN 9784087727654、文庫版: [[1993年]]、ISBN 978-4087480948)
* [[桑原敏真]] 『北畠顕家―足利尊氏が最も恐れた人物』([[文芸社]]、単行本: [[2003年]]、ISBN 978-4835546629)
;テレビドラマ
* 『[[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]]』([[1991年]] NHK[[大河ドラマ]])演:[[後藤久美子]]
;舞台
*  桜嵐記([[宝塚歌劇]]) (2021年、演:[[夢奈瑠音]])
 
== 脚注 ==
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* [[北畠親房]]
* [[公家大将]]
* [[北畠]] 大阪市阿倍野区の町名。
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