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[[荒武氏]]は伊東家中でも伊東氏の日向下向時に被官化した、「[[西都市|都於郡]]四天衆」といわれる地侍の家系である。戦国期には奉行や代官を多く輩出したが、とりわけ三省は文武両道の臣として名高く、[[伊東尹祐]]の信任を受けて重用された。歌道にも達し、京から下向した[[飛鳥井雅康]](二楽軒)と詠み交わした和歌が残る。
 
主に[[都城盆地|庄内]][[北郷氏]]との合戦で活躍し、[[永正]]17年([[1520年]])には前線の[[都城市|勝岡城]]主を拝命する。[[大永]]6年([[1526年]])、[[相良氏|肥後相良氏]]に犬童氏の乱が起こると出陣して鎮圧に貢献した。また、[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])、主君・[[伊東祐充]]の死去に伴い、尹祐の弟・[[伊東祐武|祐武]]が反乱を起こし、家中を牛耳っていた家老・[[福永祐炳]]ら福永一族の4人を自害に追い込み[[都於郡城]]を占拠すると、三省は祐充の弟・[[伊東義祐|祐清(義祐)]]を擁立し、祐武の軍勢を破って自害に追い込んだ。
 
翌天文3年(1534([[1534]][[高城 (新納院)|新納院高城]]の戦いで米良一揆との激戦の末に戦死した。
 
{{DEFAULTSORT:あらたけ さんせい}}