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[[File:畫麗珠萃秀 Gathering Gems of Beauty (漢蔡文姬) 2.jpg|thumb|250px|漢蔡文姫(『畫麗珠萃秀』)]]
{{記事名の制約|title=蔡琰}}
[[image:Cai Wenji.png|thumb|蔡琰]]
{{Portal|文学}}
'''蔡 琰'''(さい えん、[[177年]]([[熹平]]6年)? - [[249年]]([[嘉平]]元年)?[[#没年|後述]]))は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての[[詩人]]。[[字]]は'''昭姫'''であるが、後に'''文姫'''と書かれるようになった([[#字の異同|後述]])。[[エン州|兗州]][[陳留郡]][[杞県|圉県]]の出身。父は[[蔡邕]]。甥あるいは子に[[羊コ|羊祜]]<ref>陳仲奇『蔡琰晩年事跡献疑』(『文学遺産』1984年第4期)記載</ref>。才女の誉高く、博学かつ弁術に巧みで音律に通じ、数奇な運命を辿った
 
才女の誉高く、博学かつ弁術に巧みで音律に通じ、数奇な運命を辿った。『[[百美新詠図伝]]』によると、中国歴朝で最も名高い美人百人に選ばれている<ref>[[大喬]]、[[小喬]]、[[甘夫人|甘皇后]]、[[孫夫人]]、[[潘淑|潘夫人]]、鄧夫人([[孫和]]の寵姫)、薛夜来([[魏 (三国)|魏]]の宮人)、莫瓊樹(魏の宮人)と共に[[三国時代 (中国)|三国時代]]の美人として挙げられている。</ref>。
 
==生涯==
[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[范曄]]編纂の『[[後漢書]]』[[列女伝]]は次のように記す。蔡琰は河東郡の衛仲道の妻となる<ref>魏[[丁廙]]作『蔡伯喈女賦』では婚姻時16歳、明[[張瑞図]]編『日記故事大全』巻2では15歳</ref>が、早くに先立たれたため婚家に留まらず実家に帰った。[[興平 (漢)|興平]]年間([[194年]]-[[195年]])、[[董卓]]の残党によって乱が起こると、蔡琰は[[匈奴]]の騎馬兵に拉致され、[[南匈奴]]の[[左賢王]]([[去卑]]か。異説に[[劉豹 (匈奴)|劉豹]]に側室)のもして留め置かれた<ref>『[[晋書]]』劉元海載記に「於扶羅死,弟呼廚泉立,以於扶羅子豹為左賢王,即元海之父也」とあるが、『[[三国志]]』[[鄧艾]]伝では劉豹は右賢王と記されている。『[[後漢書]]』[[列女伝]]では「興平中,天下喪乱,文姫為胡騎所獲,没於南匈奴左賢王,在胡中十二年,生二子」と書かれているのみで、この左賢王が必ずしも劉豹を指しているとは限らない。『[[後漢書]]』[[献帝 (漢)|献帝]]紀では、[[興平 (漢)|興平]]二年の南匈奴左賢王を[[去卑]]と記す。興平年間の動静が明らかでない劉豹に対し、[[献帝 (漢)|献帝]]の東遷に随行した記述のある去卑を、蔡琰を捕らえた「左(右)賢王」に比定する説が有力である(戴君仁「蔡琰悲憤詩考証」〈1952〉他)。</ref>。匈奴に12年住む間に劉豹、胡人とあいだに子を2人もうけた<ref>子の父には、南匈奴の部伍の者(戴君仁 1952ほか)あるいは左賢王(郭沫若 1959ほか)の両説がある。</ref>。[[建安 (漢)|建安]]12年([[207年]])、父と親交のあった[[曹操]]は蔡邕の後継ぎがいないことを惜しみ、匈奴に金や宝玉を支払って蔡琰を帰国させた。帰国時に実の子を匈奴に残しており、子との別離に際しの苦痛を詩述べた。帰国後、曹操の配慮で同郷出身の屯田都尉董祀に嫁いだ。その董祀が法を犯し死罪になるところであったが、蔡琰は曹操を説得して処刑を取り止めさせた。のちに曹操の要求で失われた父の蔵書400編余りを復元した際、誤字脱字は一字もなかった。
 
===没年===
[[File:美人百態畫譜之蔡文姬(Cai Wen Ji).png|thumb|200px|蔡文姫(『美人百態畫譜』)]]
蔡邕の蔵書復元後の消息は『後漢書』に載らないが、『[[晋書]]』[[羊徽瑜|景献羊皇后]]伝および羊祜伝には羊衜に嫁いだ蔡邕の娘の記録が残る。この蔡邕の娘が蔡琰か蔡琰の姉妹か言及されていない。陳仲奇は『蔡琰晩年事跡献疑』において『晋書』に記載される蔡邕の娘が蔡琰である可能性を指摘する。その場合の蔡琰の没年は'''249年'''だと述べている<ref>『晋書』巻34羊祜伝には[[夏侯覇]]が嘉平元年(249年)に亡命した後、母と羊発が亡くなったと記載</ref>。一方、清代の『新泰県誌』には、羊祜の母である文姫の蔡貞姫なる人物が記載される<ref>[https://commons.m.wikimedia.org/w/index.php?title=File%3AHarvard_drs_48499627_%E6%96%B0%E6%B3%B0%E7%B8%A3%E5%BF%97_v.4%E5%8D%B7%E5%8D%81%E4%BA%94--%E5%8D%81%E4%B8%83.pdf&page=47 File:Harvard drs 48499627 新泰縣志 v.4卷十五--十七.pdf]</ref> 。こ人物を蔡琰の姉妹とする見方があるが、蔡琰との関係は一切不詳である。また「貞姫」はか字あるいは号(称号)かなどれるかでない
 
また、[[1992年]]に中国人民銀行より発行された蔡文姫銀貨には、生没年を「公元約177-'''254年'''」と書かれている。なお、この銀貨は中国傑出歴史人物紀念幣の第9組めの記念硬貨に属し、同組には100元金貨の[[則天武后]]、その他5元銀貨の[[鄭成功]][[睿智蕭皇后|蕭綽]]・[[王昭君]]・[[花木蘭]]がある。
 
===字の異同===
[[File:古今百美圖之文姬(One hundred beauties Wenji).png|thumb|240px|蔡文姫(『古今百美図』)]]
蔡琰の字は『後漢書』では「文姫」であと書かれるが、『後漢書』の注釈にある『列女後傳』では「昭姫」であと記録される。このような漢字の違いは[[前漢]]の[[王昭君]]にも見られ、例えば[[西晋]]の[[石崇]]が彼女を題材として作った[[辞 (文体)|辞]]のタイトルは『王明君辞』となっていである。これらの原因[[西晋]]の成立後に皇位を贈られた[[司馬昭]]の「昭」を[[避諱]]した結果せいだと推察。晋代に成立した蔡琰の伝記は『後漢書』、『[[芸文類聚]]』、『[[太平御覧]]』等に収録されたため、避諱後の字である文姫が後世に広く伝わった
晋代に成立したであろう蔡琰の伝記(『蔡琰別傳』)は『後漢書』を筆頭に『[[芸文類聚]]』、『[[太平御覧]]』等に収録されたため、避諱後の字である文姫が後世に広く伝わった。
 
===琴を弁じる===
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===書の伝道師===
[[唐]]の[[張彦遠]]の『法書要録』中にある「伝授筆法人名」<ref>{{cite wikisource | title=法書要録 (四庫全書本) | chapter=卷01#傳授筆法人名 | wslanguage=zh | quote=蔡邕受於神人而傳之崔瑗及女文姬文姬傳之鍾繇鍾繇傳之衛夫人衛夫人傳之王羲之王羲之傳之王獻之……}} 蔡邕は[[神人 (曖昧さ回避)|神人]]より受けて、崔瑗及び女文姬に之を伝へ、文姬は鍾繇に之を伝へ、鍾繇は衛夫人に之を伝へ、衛夫人は王羲之に之を伝へ、王羲之は[[王献之]]に之を伝へ、……</ref>に次の記述がある。蔡邕の筆法は[[中国の書家一覧#崔エン (書家)|崔瑗]]と蔡琰に伝わり、蔡琰が[[鍾繇]]に伝えた。鍾繇の筆法は[[中国の書家一覧#衛鑠|衛夫人]]に伝わり、衛夫人が弟子の[[王羲之]]に伝えていき、その後の多くの能書家に伝わった。
 
===羊祜を養育===
甥の羊祜は十五歳のときに父を失ったため、伯母の琰は彼を引き取り氏に養育され、羊祜は孝行者として評判となった。蔡は彼を称えて、「羊祜はまるで[[顔回]]のようだ。成長すれば[[諸葛亮|諸葛孔明]]にも次ぐ人間になるだろう」と言っていた(『太平御覧』巻五一三引く三十国春秋<ref>维基文库[https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%BE%A1%E8%A6%BD_(%E5%9B%9B%E9%83%A8%E5%8F%A2%E5%88%8A%E6%9C%AC)/%E5%8D%B7%E4%B9%8B%E4%BA%94%E7%99%BE%E4%B8%80%E5%8D%81%E4%B8%89 太平御覽(四部叢刊本)卷513宗親部三]</ref>)。後に彼は敵将の陸抗に[[楽毅]]、諸葛亮といえども彼以上ではあるまいと評される将軍へと成長した(『晋書』羊祜伝)<ref>『ビジュアル三国志3000人』 | 世界文化社 渡邉義浩著</ref>。この蔡氏は出自の記録がなく、蔡琰かその親類か同姓の他人かは不明
 
==その他==
[[image:Cai Wenji.png|thumb|200px|蔡琰『歴朝名媛詩詞』より]]
[[陝西省]][[西安市]][[藍田県]]三里鎮蔡王村に陵墓がある。省級文物保護単位。[[1991年]]には付近に記念館が建てられた。
 
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蔡琰の人生を題材にした作品には、[[北京市|北京]]の[[頤和園]]の長廊に描かれた『文姫帰漢図』がある。他に蔡琰を主人公とした[[戯曲]]が多数作られており、[[元 (王朝)|元]]の金志甫の『蔡琰還漢』や[[明]]の陳与郊の『文姫入塞』、[[曹雪芹]]の祖父[[曹寅]]の『続琵琶』、[[郭沫若]]の『蔡文姫』などがある。
 
[[水星]]と[[金星]]には彼女の名がついた[[クレーター]] (CaiTs'ai WenjiWen-chiとCaiwenji、蔡文姫) がある。
 
==蔡琰を題材とした作品==
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[[Category:2世紀の女性著作家]]
[[Category:3世紀の女性著作家]]
[[Category:漢代の人物]]
[[Category:三国志の登場人物]]
[[Category:中国の女性詩人]]
[[Category:三国志後漢献帝期登場人物]]
[[Category:漢代の人物]]
[[Category:開封出身の人物]]
[[Category:177年生]]