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==沿革==
===陸軍黎明期の経理部門===
[[1868年]](明治元年)旧暦1月、明治新政府の中に軍事を管掌する海陸軍科が設けられ、翌月には軍防事務局と改称した<ref name="hensen">
[[File:Mitsuaki Tanaka.jpg|190px|thumb|初代陸軍省会計局長 [[田中光顕]](後年の肖像)]]
[[1872年]](明治5年)旧暦2月、兵部省を廃し[[陸軍省]]が設置され、組織の構成はそれまでの兵部省陸軍部を引き継いだ<ref name="hensen" />。[[1873年]](明治6年)3月、陸軍省の機構が卿官房と7つの局に改組され、'''陸軍省第五局'''が会計・経理部門とされた<ref name="hensen" />。[[1879年]](明治12年)10月、陸軍職制(太政官達第39号)、陸軍省条例(陸軍省達乙第72号)、陸軍会計部条例(陸軍省達乙第77号)がそれぞれ制定され、陸軍の諸制度が整えられて従来の第五局は'''陸軍省会計局'''となった<ref name="hensen" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C09060330600|明治12年 規則條例(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C04028702400|明治12年「大日記本省達書 10月達乙 陸軍省総務局」(防衛省防衛研究所)}}</ref>。このころ会計局と各地の[[鎮台]]勤務などを合わせた陸軍経理官の人員は169名まで増加し、[[1884年]](明治17年)には278名まで規模が拡大した<ref name="#1"/>。
[[大日本帝国海軍|海軍]]では明治初頭から会計教育機関を設置し、のちに[[海軍経理学校]]となったが、陸軍ではまだ正規の補充教育機関は作られなかった。そのかわり明治10年代の初めより会計実務の処理能力向上のための集合教育や私的な研修が続行されていた。著名なものとしては監督会や、[[川口武定]]陸軍二等監督の私邸で行われた夜間講習会の'''川流舎'''などがあったものの
なお陸軍経理官の階級は各兵科と異なり、[[1886年]](明治19年)の陸軍武官官等表改正([[勅令]]第4号)では次のようになっていた(1886年3月時点)<ref>{{アジア歴史資料センター|A03020000800|御署名原本・明治十九年・勅令第四号・陸軍武官官等表改正}}</ref>。
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: 下士<ref group="*">陸軍では1931年11月の陸軍武官官等表中改正(勅令第270号)まで「下士」、それ以降で「下士官」の呼称が使用された。</ref>: 陸軍一等書記([[曹長]]相当) 陸軍二等書記([[軍曹]]相当<ref group="*">1884年5月の陸軍武官官等表中下士之部改正(達乙第32号)により陸軍各兵科には「軍曹」の階級名がなくなり、かわりに「一等軍曹」の階級が1899年12月の陸軍武官官等表中改正(勅令第411号)施行まで使用されたが、記事中では便宜上「軍曹」とする。</ref>) 陸軍三等書記([[伍長]]相当<ref group="*">1884年5月の陸軍武官官等表中下士之部改正(達乙第32号)により陸軍各兵科には「伍長」の階級名がなくなり、かわりに「二等軍曹」の階級が1899年12月の陸軍武官官等表中改正(勅令第411号)施行まで使用されたが、記事中では便宜上「伍長」とする。</ref>)
}}
===陸軍軍吏学舎での教育===
[[1886年]]([[明治]]19年)8月、陸軍軍吏学舎条例(陸軍省令乙第116号)にもとづき'''陸軍軍吏学舎'''が設立された<ref>{{アジア歴史資料センター|C09050132600|明治19年 陸軍省達 省令乙 省令 陸達 7月より(防衛省防衛研究所)}}</ref>。条例の第1条で軍吏学舎は「陸軍省会計局の管理に属し、学生を召集<ref group="*">この場合の「召集」とは[[召集#軍事における召集|在郷軍人を軍隊に召致すること]]ではなく、すでに軍務についている軍人を特別教育のため指名することである。以下同じ。</ref>しこれに要用なる学術を教授し軍吏部士官と為るべき者を養成する所」と定められた。学舎の編制は陸軍会計局長に属する一等または二等監督の舎長以下、三等監督、監督補あるいは一等、二等軍吏からなる教官8名、軍属の助教4名、書記2名の計15名と学生が当初の定員であった。初代舎長は陸軍省会計局第二課長であった川口武定二等監督が補職された<ref>{{アジア歴史資料センター|C09060064600|明治19年後半年分 日報 官房.省内各局.砲工兵両会議.各監軍部.憲兵・参謀・屯田兵本部(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref name="#2"/><ref name="#4">『陸軍経理学校沿革略史』3頁</ref>。
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===陸軍経理学校の設立===
[[1890年]](明治23年)11月、陸軍経理学校条例(勅令第265号)の施行により'''陸軍経理学校'''が設立された<ref>{{アジア歴史資料センター|A03020086600|御署名原本・明治二十三年・勅令第二百六十五号・陸軍経理学校条例}}</ref>。学校条例第1条で陸軍経理学校は「陸軍監督および陸軍軍吏を養成する所」と定められた。学校の編制は陸軍省会計局長に隷する校長の下に幹事が置かれ<ref group="*">陸軍の学校における幹事とは事実上の副校長である。</ref>、さらに教官その他と学生からなる。学校条例第4条で校長の階級は一等監督、幹事は監督補、教官は二等または三等監督、監督補、一等または二等軍吏、および文官の教授と定められた。初代校長は欧州視察を終えた陸軍軍吏学舎の初代舎長、川口武定一等監督である
[[File:Takesada Kawaguchi.jpg|200px|thumb|初代陸軍経理学校長 [[川口武定]](後年の肖像)]]
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[[1897年]](明治30年)8月末、陸軍経理学校条例中改正(勅令第299号)により、監督学生は40歳以下の年齢制限を設け、憲兵科を除く各兵科中尉と二等軍吏は実役停年1年以上から志願可能とした。軍吏学生には32歳以下の年齢制限を設けた<ref>{{アジア歴史資料センター|A03020304100|御署名原本・明治三十年・勅令第二百九十九号・陸軍経理学校条例中加除}}</ref>。
===学校を“若松台”へ移転===
[[1898年]](明治31年)11月、学校施設のうち生徒舎を[[東京市]][[牛込区]][[河田町]]の[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]分校跡に移転した<ref>生徒舎移転 [{{NDLDC|2947901/5}} 『官報』第4611号、1898年11月11日]</ref>。翌年11月、本校を生徒舎構内へ仮移転し<ref name="#5">{{アジア歴史資料センター|C07041559000|参大日記 明治32年11月(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>陸軍経理学校仮移転 [{{NDLDC|2948218/3}} 『官報』第4928号、1899年12月4日]</ref>、[[1900年]](明治33年)3月、新築中の校舎落成を待って陸軍経理学校は正式に牛込区河田町へ移転した<ref name="#5"/><ref>『陸軍経理学校沿革略史』40頁</ref>。学校の公式な住所は河田町であったが隣地である若松町の名がよく知られ、陸軍士官学校が通称'''市谷台'''と呼ばれることにならい、陸軍経理学校は'''若松台'''とも呼ばれた<ref name="#6">{{harvnb|『陸軍経理部』|p=253
[[1899年]](明治32年)12月、陸軍武官官等表中改正(勅令第411号)が施行された<ref>{{アジア歴史資料センター|A03020421600|御署名原本・明治三十二年・勅令第四百十一号・陸軍武官官等表中改正}}</ref>。この改正で、一等から三等までの書記であった軍吏部下士の階級名が一等から三等までの'''計手'''に変更された。また憲兵科を除く各兵科の特業下士であった縫工長、縫工下長と、靴工長、靴工下長は廃止され、軍吏部下士に一等から三等までの'''縫工長'''、および一等から三等までの'''靴工長'''が新設された。
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条例改正によって陸軍経理学校は卒業者のうち優秀な者を選抜し'''員外学生'''として帝国大学に入学させ、必要な学科を研究させることが可能となった。また補充上の必要により「当分のうち」として同校に'''監督講習生'''を置くことも定められた。監督講習生は各兵科の現役士官の志願者で試験に合格した者(陸軍大学校卒業者は試験免除)、または現役陸軍軍吏のうち選抜され試験に合格した者が採用される。監督講習生の修学期間は約6か月である。
将来の陸軍高級経理官とするため陸軍部外の高等教育機関から監督候補生を採用した試みは、帝国大学出身者によって占められている[[大蔵省]]など他省庁の官僚にならったものと論評されるが
===陸軍主計候補生の教育===
[[1903年]](明治36年)12月、陸軍武官官等表中改正(勅令第182号)が施行された<ref>{{アジア歴史資料センター|A03020573500|御署名原本・明治三十六年・勅令第百八十二号・陸軍武官官等表中改正}}</ref>。この改正により従来の将官相当官であった監督総監、監督監がそれぞれ'''主計総監'''、'''主計監'''となり、上長官の一等から三等までの監督が一等から三等までの'''主計正'''に階級名が変更された。また士官の一等から三等までの監督補と一等から三等までの軍吏が、一等から三等までの'''主計'''に統一された。
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学校条例改正第21条では学生卒業者のうち優秀者は陸軍大臣の命により員外学生として「帝国大学に入学せしめ必要なる科学を研究せしむる」ことも可能とされた。また今回の改正でも附則として「当分のうち」'''主計講習生'''を置くことが定められた。主計講習生は現役上等計手から選抜された者が採用され、修学期間は約6か月である。同年12月、上等計手44名が陸軍経理学校に入校した<ref>講習生入校 [{{NDLDC|2949449/3}} 『官報』第6140号、1903年12月18日]</ref><ref>『陸軍経理学校沿革略史』51頁</ref>。
[[1905年]](明治38年)9月、主計候補生第1期の生徒79名が陸軍経理学校に入校した<ref>生徒入校及同異動 [{{NDLDC|2949991/6}} 『官報』第6658号、1905年9月7日]</ref>。主計候補生制度は、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]で教育を行う各兵科<ref group="*">憲兵科を除く、歩兵科、騎兵科、砲兵科、工兵科、輜重兵科。</ref>の'''士官候補生'''制度に準じたものである。それまで経理士官の補充は、兵科将校から転科、准士官または下士の進級、陸軍外の高等教育卒業者より採用と多様であったが、いずれも一長一短があり完全ではなかった。さらに当時の陸軍において多元補充は団結を阻害するとの思潮があり、兵科将校が士官候補生のみによる一元補充であることにならって抜本的な制度改革が実行された
以後、陸軍主計候補生の制度は順調に発展し、陸軍経理学校は経済的負担のない官費学校として陸軍士官学校など<ref group="*">ほかに[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]、[[海軍機関学校]]、1907年設置の[[海軍経理学校]]などがある。</ref>と同様に旧制中学校卒業後の進路選択肢に加わった。主計候補生には素質、能力ともに優秀な者が集まり、初期の出身者は[[大正]]時代には経理部の中堅となり、進級を続けて昭和時代になると指導的な位置に立つ高級経理官も輩出する陸軍経理の中心的な存在となった
[[1911年]](明治44年)10月、従来の陸軍補充条例を廃し陸軍補充令(勅令第270号)が施行された<ref>{{アジア歴史資料センター|A03020915300|御署名原本・明治四十四年・勅令第二百七十号・陸軍補充令制定陸軍補充条例、明治三十年勅令第九十四号(陸軍憲兵科予備役士官補充ノ件)、同三十七年同百十号(陸軍経理部士官及下士特別補充ノ件)、同第百三十四号(戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル予備役後備役憲兵科士官准士官下士上等兵補充ノ件)、同第二百一号(経理部士官及予備役後備役憲兵下士補充ニ関スル件)廃止}}</ref>。令第16条で陸軍部外から主計候補生を志願する者は中学校または同等以上学校の卒業成績が優秀な場合、召募の学科試験を免除されるようになった。同じ第16条では陸軍部内の採用範囲を「現役下士中、中学校卒業以上の学力を有し、品行方正、志操確実なる者」と、従来の経理部下士のみから各兵科の下士にまで広げた。令第19条では下士より主計候補生に採用された者も採用と同時に一等卒として陸軍部外からの採用者とともに歩兵連隊で約9か月間勤務し、軍事学を修得することに改められた。また令第20条で主計候補生の階級が従来は歩兵伍長であったものが三等計手に、陸軍経理学校入校時において歩兵軍曹であったものが二等計手に改められた。
===軍縮による教育の転換===
[[1918年]](大正7年)11月、[[第一次世界大戦]]が終了すると世界的に軍縮の風潮が広まり、余剰の兵科将校を経理部に転科させて吸収する必要が生じた<ref group="*">[[日露戦争]]期に陸軍士官学校では将校需要増に備え大量の生徒を採用した。結果として1905年3月卒業の士官候補生第17期は363名、同年11月卒業の第18期が920名、1907年5月卒業の第19期が1068名の卒業者を出しており、その多くが大正期でも現役の兵科将校として勤務していた。『陸軍士官学校要覧』11頁</ref>。このため表面上の理由を主計候補生出身者は軍事的素養に乏しく上級経理官には不適であるとして、新制度への移行が計画された
[[1920年]](大正9年)8月、陸軍補充令中改正(勅令第244号)が施行され<ref>{{アジア歴史資料センター|A03021258200|御署名原本・大正九年・勅令第二百四十四号・陸軍補充令中改正}}</ref>、改正令第15条で経理部現役士官の補充は憲兵科を除く各兵科現役士官のうち陸軍経理学校を卒業した者、または憲兵科を除く各兵科と経理部の准士官および下士のうち三等主計に任じられる資格を持つ者と定められた。
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高等科学生のうち'''経理部士官候補者'''とは「身体強健、勤務精励、将来発達の見込みあり」と認められる憲兵科を除く各兵科の大尉、中尉、少尉のうち経理部士官を志願し連隊長に選抜されたのち試験に合格した者、すなわち兵科からの転科志願者である。普通科学生の'''三等主計候補者'''とは「身体強健、人格成績ともに優秀かつ家庭良好なる」憲兵科を除く各兵科の准士官、曹長、および経理部の准士官、一等計手、一等縫工長、一等靴工長のうち経理部士官を志願し連隊長または所管経理部長に選抜され試験に合格した者で、各兵科の[[陸軍少尉候補者|'''少尉候補者''']]に相当する。高等科・普通科ともに学生は校外に居住する。高等科学生のうち成績優秀な者は、卒業の際に員外学生としてさらに1年間在学するか[[大学令]]による大学で必要な研究を続行することが可能とされた。
[[1922年]](大正11年)5月、第16期の77名が陸軍経理学校を卒業退校したのを最後に、陸軍主計候補生制度は廃止となった
===再び大学出身者を採用===
[[1926年]](大正15年)7月、陸軍補充令中改正(勅令第260号)が施行された<ref>{{アジア歴史資料センター|A03021617600|御署名原本・大正十五年・勅令第二六〇号・陸軍補充令中改正}}</ref>。この改正によって経理部現役士官の補充は、従来の経理部士官候補者(兵科将校からの転科志願者)、三等主計候補者(准士官、下士からの志願者)に加え、陸軍部外から直接'''見習主計'''を採用し二等主計とすることが定められた。見習主計の有資格者は次のとおりである<ref group="*">陸軍主計候補生制度が廃止されているため、1926年7月時点では陸軍経理学校を卒業したのちに見習主計となる者は存在しない。</ref>。
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甲種学生のうち「陸軍参謀条例第3条第2号に該当する者」とは「学識、才能、卓越せる将校にして参謀総長の適任と認むる者」である<ref>{{アジア歴史資料センター|A03020331900|御署名原本・明治三十一年・勅令第二十号・陸軍参謀条例制定参謀職制廃止}}</ref>。成績優秀な甲種学生は卒業の際に員外学生としてさらに1年間在学するか、大学令による大学で必要な研究を続行することが可能とされた。
乙種学生の「陸軍補充令第23条の規定に基づき任官した二等主計」とは、上述した大学卒業者から直接に見習主計に採用され二等主計となった者のことである。大学出身の経理官は軍人らしさがなく異色の存在だったが、後年の戦争が総力戦になると法律や経済の知識も必要とされ、陸軍部外との連携においても大学出身者の活躍の場が多くなった
===軍備拡張期の経理教育===
[[1931年]](昭和6年)9月に勃発した[[満州事変]]以後、陸軍は軍容を拡充する方針へ再転換し兵科将校には不足が生じるようになった。このため経理部士官に転科する者は減少した
学校令改正による陸軍経理学校の被教育者は次のとおり(1934年4月時点)。
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学生は校外に、生徒は校内に居住し、修学に要する兵器、被服、図書、器具、消耗品等は貸付または支給を受ける。甲種および乙種学生の成績優秀者は、卒業の際に陸軍経理学校員外学生としてさらに1年間在学するか大学令による大学で必要な研究を続行することが可能とされた。
経理部士官候補生の制度は、軍縮期に廃止された主計候補生制度の事実上の復活である
[[学校法人青山学院|青山学院専門部]]を卒業し幹部候補生から予備役将校となった評論家の[[山本七平]]は戦後、『週刊朝日』誌上で{{Bquote|私たちのころは陸軍経理学校というと一番尊敬しましたね、競争率は六十倍ぐらいでしょう。これは秀才だという意識がありましたよ。}}と回想している<ref name="#6"/>。
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* 商業学校・工業学校(建築・土木・応用化学・染色・紡績)・農業学校(農産製造)の卒業者。
上の条件を満たし、かつ最終学歴の学校教練検定に合格している者に限られる<ref>{{アジア歴史資料センター|A03022181500|御署名原本・昭和十三年・勅令第一三七号・陸軍補充令中改正}}</ref>。幹部候補生はまず所属部隊で基本教育を受けたのち、予備役将校に適すると認められ'''経理部甲種幹部候補生'''に選抜されると主計軍曹の階級で陸軍経理学校に入校した。幹部候補生教育開始当初は陸軍経理学校に幹部候補生隊を設置せず、幹部候補生は下士官候補者隊で起居し訓育が行われた<ref>{{アジア歴史資料センター|C01001717800|永存書類 甲輯 第4類 第1冊 昭和14年(防衛省防衛研究所)}}</ref>。なお前述した1939年8月の学校令中改正に先立つ1938年(昭和13年)1月、甲種幹部候補生教育を各所属部隊で終えた予備役経理部見習士官187名が陸軍経理学校へ入校し、試験的に集団教育を実施している<ref>{{アジア歴史資料センター|C01004471200|密大日記 第7冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)}}</ref>
===太平洋戦争下の教育===
[[1941年]](昭和16年)12月、日本は米英など連合国に対して全面的な戦争を開始し、日中戦争は[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])へと拡大した。翌[[1942年]](昭和17年)3月、人員が増大した陸軍経理学校は[[東京府]][[北多摩郡]][[小平市|小平村]]に移転した<ref>彙報 陸軍経理学校移転 [{{NDLDC|2961067/40}} 『官報』第4565号、1942年3月31日]</ref>。同村の学校用地は30万[[坪]]の広さがあったとされる<ref name="#7">{{harvnb|『陸軍経理部』|p=333
1942年4月、陸軍武官官等表ノ件中改正(勅令第297号)が施行された<ref>{{アジア歴史資料センター|A03022719700|御署名原本・昭和十七年・勅令第二九七号・昭和十五年勅令第五百八十号陸軍武官官等表ノ件中改正ノ件}}</ref>。この改正で文官(いわゆる軍属)であった建築関係の事務に従事する陸軍技師<ref group="*">陸軍技師(りくぐんぎし)は陸軍に属し技術関係の職に従事する、将校と同等の高等文官である。『防衛研究所紀要』第8巻第2号72頁</ref>および陸軍技手<ref group="*">陸軍技手(りくぐんぎしゅ)は陸軍に属し技術関係の職に従事する判任文官。下士官(判任武官)と同等である。技師との聞き間違いを避けるため、技手を「ぎて」と[[重箱読み]]する場合がある。『防衛研究所紀要』第8巻第2号72頁</ref>が武官の'''建技将校'''および'''建技下士官'''となった。また従来の縫工准士官、縫工下士官と装工准士官、装工下士官は統合され、'''経技准士官'''、'''経技下士官'''になった<ref>{{アジア歴史資料センター|A03010029300|昭和十五年勅令第五百八十号陸軍武官官等表ノ件中ヲ改正ス・(陸軍法務官並ニ建築関係ノ技師ヲ武官トスル為及衛生将校等ノ最高官等ヲ少佐マテ進メル為)}}</ref>。
陸軍武官官等表ノ件中改正による陸軍経理官の階級は次のとおりである(1942年4月時点)。
[[File:OYAMA Reiji 1944.JPG|thumb|
{{Quotation|
:; 経理部
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沿革のとおり陸軍経理学校は約55年の歴史において教育体系と教育対象が何度となく変更され、教育内容もそれに応じて多様であった。その中より資料で確認できる明治後期と昭和10年代初期の教育内容、および昭和10年代中期の甲種幹部候補生教育の3例を後述する。
陸軍経理学校における教育指針は、陸軍軍吏学舎長を務めたのち欧州を視察した川口武定が[[普墺戦争]]の敗戦国[[オーストリア]]の戦訓を参考に決定したとする論評がある
軍人としての経理官教育の一方で、法律や経済、あるいは建築などの専門学科においては優秀な文官教授が選ばれた。法学は[[一木喜徳郎]]、[[清水澄]]、[[杉村章三郎]]、[[我妻栄]]、[[有賀長雄]]、[[高橋作衛]]、経済学は[[天野為之]]、[[高野岩三郎]]、[[河津暹]]、建築学の[[三橋四郎]]、[[内田祥三]]など一流の学者が若松台の教壇に立っている
===明治後期の教育内容===
1905年(明治38年)5月制定された陸軍経理学校教育綱領の内容を明治期の陸軍経理学校教育における教育の一例(1905年5月時点)として以下に記す<ref>陸軍経理学校教育綱領 [{{NDLDC|813426/84}} 『陸軍経理学校沿革略史』13-16頁]</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C06084055100|明治39年乾「貮大日記5月」(防衛省防衛研究所)}}</ref>。
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: 優等の卒業者で員外学生となった者はさらに高等の学術を専攻する。
===昭和中期の教育内容===
[[1936年]](昭和11年)4月、陸軍経理学校教育綱領および陸軍経理学校教則の改正がされた<ref>{{アジア歴史資料センター|C01006001400|永存書類甲輯 第4類 第1冊 昭和11年(防衛省防衛研究所)陸密綴 昭和20年(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C01006002100|永存書類甲輯 第4類 第1冊 昭和11年(防衛省防衛研究所)}}</ref>
*; 甲種学生教育
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:: 1.作戦給養 2.経理(一般経理・被服経理・糧秣経理・営繕経理・兵器経理)3.戦術 4.軍制 5.給養地理 6.戦史および給養史(戦史・給養史)
::; 一般諸学科
:: 1.法律および行政学(憲法および行政法・国際法・民
::; 術科
:: 1.剣術 2.馬術
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::; 訓育
:: 1.精神訓話 2.野営演習 3.満鮮旅行 4.終日教練 5.服務提要 6.軍隊教育令 7.典令範<ref group="*">典令範(てんれいはん)とは、陸軍の基本的教本である「操典」「教令」「教範」の総称。『日本陸海軍総合辞典』720頁</ref> 8.馬学 9.校内教練 10.武技(剣術・体操・馬術)11.内務指導および検査
===幹部候補生の教育内容===
幹部候補生の教育を陸軍経理学校で行ったのは[[1938年]](昭和13年)1月以降である。同年4月、経理部幹部候補生教則が制定され<ref>{{アジア歴史資料センター|C01001593800|永存書類甲輯 第4類 第1冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C01005073400|昭和13年「來翰綴(陸普) 第1部」(防衛省防衛研究所)}}</ref>、同年9月には陸軍経理学校経理部幹部候補生教則が制定された<ref>{{アジア歴史資料センター|C01001596200|永存書類甲輯 第4類 第1冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)}}</ref>
教育は、その期間を前期、中期、後期に分け、さらに中期は第1期から第4期まで細分される。前期修了後に幹部候補生は予備役将校となる甲種と予備役下士官となる乙種に区分され、陸軍経理学校には'''経理部甲種幹部候補生'''('''主計'''・'''建築'''・'''衣糧''')のみが入校し、中期第2期および中期第3期の間の教育を受ける(1938年9月時点)。
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==各地の“陸軍経理学校” ==
{{See also|陸軍予備士官学校_(日本)#陸軍予備士官学校に準ずる組織}}
[[1937年]](昭和12年)7月に始まった日中戦争から[[1941年]](昭和16年)12月開戦の太平洋戦争へと続く戦時下で大量に必要とされた陸軍の下級将校は、その大部分を主として甲種幹部候補生から補充していた。そのため幹部候補生の人員数は士官候補生その他と比較して圧倒的に多く、陸軍経理学校での集合教育を原則としていた経理部甲種幹部候補生であっても<ref group="*">甲種幹部候補生から経理部将校となった者の総数は約1万2千名。{{harv|『陸軍経理部』|p=256
新京陸軍経理学校と通称されるのは正確には[[1940年]](昭和15年)7月、[[満州国]][[新京|新京特別市]]に置かれた「関東軍経理部下士官候補者隊」(満州815部隊、または徳13923部隊)で、下士官候補者だけでなく[[関東軍]]隷下部隊からの経理部甲種幹部候補生も集合させて教育を開始したものである<ref>{{アジア歴史資料センター|C12122425300|陸軍北方部隊略歴(その1)関東直轄部隊(1頁~180頁)第1方面軍(191頁~420頁)(防衛省防衛研究所)}}</ref>。名称と被教育者に齟齬があった同部隊は1943年(昭和18年)8月、「関東軍経理部幹部教育隊」と改称改編した。部隊の所在地は新京市児玉公園<ref group="*">西公園を児玉公園に改名、現在の[[長春市]]勝利公園。</ref>、のちに新京郊外の[[緑園区|緑園]]に移転した
北京陸軍経理学校は[[北支那方面軍]]経理部の下士官候補者隊(北支甲1871部隊)であり、南京陸軍経理学校は[[中支那方面軍]]主計下士官候補者隊(通称「成賢部隊」)、昭南陸軍経理学校は当時[[昭南特別市]]と日本が呼んだ[[シンガポール]]に置かれた同様の部隊である
== 歴代校長 ==
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* 大内球三郎 主計少将:1937年(昭和12年)8月2日 - 1939年(昭和14年)8月1日
* 大城戸仁輔 主計中将:1939年(昭和14年)8月1日 - 1941年(昭和16年)11月30日
* [[迫栄吉]] 主計中将:1941年(昭和16年)12月1日 - 1945年(昭和20年)4月6日
* [[森田親三]] 主計中将:1945年(昭和20年)4月7日 -1945年(昭和20年)7月4日
* 古野好武 主計中将:1945年(昭和20年)7月5日 -
== 候補生卒業者 ==
陸軍経理学校卒業者のうち主計候補生と経理部士官候補生のみ各期の卒業者数と、著名な卒業者を以下に記す
=== 主計候補生 ===
* '''第1期主計候補生''' 1905年(明治38年)9月1日入校 - 1907年(明治40年)5月24日卒業、76名
*: 主計中将 石川半三郎(優等卒業) 主計中将 鈴木熊太郎(優等卒業) 主計中将 矢部潤二 主計少将 [[秋沢穂]]
* '''第2期主計候補生''' 1906年(明治39年)9月1日入校 - 1908年(明治41年)5月20日卒業、76名<ref>『陸軍理学校沿革略史』62頁</ref>
*: 主計中将 [[鹿野澄]](優等卒業) 主計中将 古野好武(優等卒業) 主計中将 大内球三郎 主計中将 [[山本昇 (陸軍軍人)|山本昇]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=630}}{{sfn|『陸軍経理部』|p=631}}
* '''第3期主計候補生''' 1907年(明治40年)9月1日入校 - 1909年(明治42年)5月24日卒業、38名
*: 主計中将 山本瑛一 主計中将 大城戸仁輔 主計中将 市川乙 主計少将 桂巽(優等卒業)
* '''第4期主計候補生''' 1908年(明治41年)9月1日入校 - 1910年(明治43年)5月24日卒業、59名
*: 主計中将 [[迫栄吉]] 主計中将 [[西原貢]] 主計少将 [[青木諭吉]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=631}}
* '''第5期主計候補生''' 1909年(明治42年)9月1日入校 - 1911年(明治44年)5月16日卒業、55名
*: 主計中将 栗原保正 主計中将 [[清水菊三]] 主計中将 前川敬悦 主計少将 [[谷端直]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=632}}
* '''第6期主計候補生''' 1910年(明治43年)9月1日入校 - 1912年(明治45年)5月18日卒業、56名<ref group="*">うち1名は7月15日卒業。</ref>
*: 主計中将 大塚彪雄(優等卒業) 主計中将 [[森武夫 (陸軍軍人)|森武夫]]<ref>彙報 学生生徒退校 [{{NDLDC|2952031/4}} 『官報』第8674号、1912年5月21日]</ref><ref>彙報 生徒退校 [{{NDLDC|2952080/3}} 『官報』第8723号、1912年7月17日]</ref> 主計中将 [[佐藤勇助]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=633}}
* '''第7期主計候補生''' 1911年(明治44年)9月1日入校 - 1913年(大正2年)5月19日卒業、44名
*: 主計中将 [[多田勉吉]](優等卒業) 主計中将 [[和住吉三郎]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=634}}
* '''第8期主計候補生''' 1912年(大正元年)9月1日入校 - 1914年(大正3年)5月21日卒業、52名
*: 主計中将 [[矢代藤一]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=635}} 主計中将 [[吉野繁 (陸軍軍人)|吉野繁]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=635}} 主計少将 [[明石猛繁]](戦病死)
* '''第9期主計候補生''' 1913年(大正2年)9月1日入校 - 1915年(大正4年)5月19日卒業、55名
*: 主計中将 [[森田親三]](優等卒業) 主計中将 井上議作(優等卒業、榎尾議作名義)<ref>彙報 学生生徒卒業 [{{NDLDC|2952950/5}} 『官報』第843号、1915年5月26日]</ref> 主計中将 [[市村善蔵]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=635}} 主計少将 [[山本省三 (陸軍軍人)|山本省三]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=635}} 主計少将 [[生地竹之助]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=635}}
* '''第10期主計候補生''' 1914年(大正3年)9月1日入校 - 1916年(大正5年)5月20日卒業、48名
*: 主計少将 滝川保之助(優等卒業) 主計少将 藤原藤治郎(優等卒業)<ref>彙報 学生生徒卒業 [{{NDLDC|2953251/5}} 『官報』第1141号、1916年5月23日]</ref> 主計少将 [[木村陽治郎]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=636}}} 主計少将 [[太田輝]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=636}}}
* '''第11期主計候補生''' 1915年(大正4年)9月1日入校 - 1917年(大正6年)5月18日卒業、42名
*: 主計少将 [[池本信巳]](優等卒業){{sfn|『陸軍経理部』|p=636}} 主計少将 [[住谷悌]]<ref>彙報 学生生徒卒業 [{{NDLDC|2953551/4}} 『官報』第1438号、1917年5月19日]</ref>
* '''第12期主計候補生''' 1916年(大正5年)9月1日入校 - 1918年(大正7年)5月20日卒業、50名
*: 主計少将 [[川島四郎]] 主計少将 [[松本健一 (陸軍軍人)|松本健一]]{{sfn|『陸軍経理部』|p=637}} 主計大佐 [[新庄健吉]]<ref>彙報 学生生徒卒業 [{{NDLDC|2953852/6}} 『官報』第1739号、1918年5月22日]</ref>
* '''第13期主計候補生''' 1916年(大正6年)9月1日入校 - 1919年(大正8年)5月13日卒業、49名
*: 主計少将 [[岡田酉次]]<ref>彙報 学生生徒卒業 [{{NDLDC|2954146/7}} 『官報』第2032号、1919年5月15日]</ref>
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* '''第16期主計候補生''' 1919年(大正9年)9月1日入校 - 1922年(大正11年)5月1日卒業、77名
*: 主計大佐 吉川仲三郎(黒崎仲三郎名義)<ref>彙報 学生卒業 [{{NDLDC|2955042/18}} 『官報』第2925号、1922年5月5日]</ref>
=== 経理部士官候補生 ===
* '''第1期経理部士官候補生''' 1936年(昭和11年)4月4日予科入校 - 1939年(昭和14年)9月23日本科卒業、26名
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[秦郁彦]]
* {{Cite book|和書|author=柴田隆一
* 清水亮太郎「[https://researchmap.jp/read0144714/misc/34037854 陸軍経理部と満洲事変]」[[防衛省]][[防衛研究所]]ブリーフィング・メモ、2017年。▼
▲* 清水亮太郎「陸軍経理部と満洲事変」[[防衛省]][[防衛研究所]]ブリーフィング・メモ、2017年。
* 氏家康裕「旧日本軍における文官等の任用について」『防衛研究所紀要』第8巻第2号、[[防衛研究所]]、2006年。
* [[内閣法制局|法制局]]編[{{NDLDC|787889}} 『法規提要 明治20年編』下巻]、1887年。([[国立国会図書館]]デジタル化資料)
* 陸軍経理学校[{{NDLDC|813426}} 『陸軍経理学校沿革略史』]、1911年。(国立国会図書館デジタル化資料)
* 三英堂編集部編[{{NDLDC|920958}} 『陸海軍人立身案内』]、1915年。(国立国会図書館デジタル化資料)
* 陸軍士官学校編[{{NDLDC|1449389}} 『陸軍士官学校要覧』]、1933年。(国立国会図書館デジタル化資料)
* 帝国在郷軍人会本部編[{{NDLDC|1459673}} 『陸軍軍人志願者の手引』]、1942年。(国立国会図書館デジタル化資料)
==関連文献==
* {{Cite journal|和書|author=小野亘 |date=2013-03 |url=https://doi.org/10.15057/25659 |title=一橋大学「戦前期アジア諸国写真コレクション」について |journal=一橋大学附属図書館研究開発室年報 |ISSN=2187-6754 |publisher=一橋大学附属図書館研究開発室 |volume=1 |pages=61-77 |doi=10.15057/25659 |naid=120005253163 |hdl=10086/25659 |CRID=1390853649796272000 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
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