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{{Notice|[[ノート:中東戦域 (第一次世界大戦)]]の「戦域」に関する議論に続いて、[[プロジェクト‐ノート:軍事史]]で問題提起されています(2025年2月)。}}
{{Battlebox|
{{Infobox military conflict
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|conflict=[[第一次世界大戦]]の中東戦域
|partof=[[Category:中東戦域 (第一次世界大戦)]]
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|caption = [[1915年]]4月 ガリポリ戦役
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|combatant1= [[Image:Flag of the United Kingdom.svg|25px]][[イギリス]]<br/>{{Flagicon|RUS1883}}[[ロシア帝国]]<br/>[[Image:Flag of France.svg|22px]][[フランス第3共和制|フランス]]<br/>
|result=[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の勝利
|combatant2={{OTT}}<br/>[[Image:Flag of the German Empire.svg|21px]][[ドイツ帝国|ドイツ]]<br/>
* [[ムドロス休戦協定]]
* [[オスマン帝国]]の崩壊
* 中東での新たな国家の基盤が生まれる
* [[ブレスト=リトフスク条約]]、{{仮リンク|バトゥム条約|en|Treaty of Batum}}、[[セーヴル条約]]
|territory={{仮リンク|オスマン帝国の分割|en|Partitioning of the Ottoman Empire}}
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{{Flagicon|GBR}} [[イギリス帝国]]
* {{AUS}}
* {{CAN1868}}
* {{Flagicon|IND1858}} [[イギリス領インド帝国]]
* {{flagicon image|Flag of the Dominion of Newfoundland.svg}} [[ニューファンドランド (ドミニオン)|ニューファンドランド]]
* {{NZL}}
* {{ZAF1912}}
* {{Flagicon|GBR}} [[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]
{{RUS1883}}<br />
{{Flagicon|FRA}} [[フランス第三共和政|フランス]]
* {{仮リンク|フランス・アルメニア軍団|en|French Armenian Legion}}
* [[フランス領西アフリカ]]
* [[フランス領赤道アフリカ]]
{{Flagicon|ARM}} [[アルメニア第一共和国|アルメニア]]<br />
{{Flagicon|AZE}} [[アゼルバイジャン民主共和国|アゼルバイジャン]]<br />
{{ITA1861}}<br />
{{flagicon image|Flag of Hejaz 1920.svg}} [[ヒジャーズ王国]]<br />
{{flagicon image|Flag of Asir.png}} {{仮リンク|アシール王国|en|Idrisid Emirate of Asir}}<br />
{{flagicon image|Flag of the Second Saudi State.svg}} [[ナジュド及びハッサ王国]]<br />
{{flagicon image|Flag of Kuwait (1915–1956).svg}} [[クウェート]]<ref name="Slot 2005 406">{{Harvnb|Slot|2005|p=406}}</ref><ref name="Slot2005p407">{{Harvnb|Slot|2005|p=407}}</ref><ref name="Slot 2005 409">{{Harvnb|Slot|2005|p=409}}</ref>
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{{OTT}}<br />
{{DEU1871}}<br />
{{AUT1867}}<ref>[http://www.sacktrick.com/igu/germancolonialuniforms/austrian%20ottoman%20fronts.htm Austro-Hungarian Army in the Ottoman Empire 1914–1918] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080618180128/http://www.sacktrick.com/igu/germancolonialuniforms/austrian%20ottoman%20fronts.htm |date=2008年6月18日 }}</ref><ref>{{cite book |last=Jung |first=Peter |title=Austro-Hungarian Forces in World War I |___location=Oxford |publisher=Osprey |year=2003 |page=47 |isbn=1841765945 }}</ref> <br />
{{flagicon image|Flag of the Emirate of Ha'il.svg}} [[ジャバル・シャンマル王国]]
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|strength1={{Flagicon|GBR}}: 2,550,000<ref name="kate">{{cite book |first=Kate |last=Fleet |first2=Suraiya |last2=Faroqhi |first3=Reşat |last3=Kasaba |title=The Cambridge History of Turkey: Turkey in the Modern World |___location= |publisher=Cambridge University Press |year=2006 |isbn=0521620961 |url=https://books.google.com/books?id=iOoGH4GckQgC&pg=PA93 |page=94 }}</ref><br />{{Flagicon|RUS1883}}: 1,000,000<ref name="erickson2007">{{cite book |first=Edward J. |last=Erickson |title=Ottoman Army Effectiveness in World War I: a comparative study |___location= |publisher=Taylor & Francis |year=2007 |isbn=0-415-77099-8 |page=154 }}</ref><br />{{Flagicon|FRA}}: 数十万<ref name="erickson2007"/><br />{{Flagicon|ARM}}: 数十万<ref name="erickson2007"/><br />{{Flagicon|ITA1861}}: 70,000<ref name="kate"/><br />'''合計:''' 3,620,000+
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|strength2={{flagicon|Ottoman Empire}}: 2,800,000 (徴兵した兵士含めて),<ref name="broadberry">{{cite book |first=S. N. |last=Broadberry |first2=Mark |last2=Harrison |title=The Economics Of World War I |___location= |publisher=Cambridge University Press |year=2005 |isbn=0521852129 |url=https://books.google.com/books?id=rpBbX3kdnhgC&pg=PA117 |page=117 }}</ref> (最大で800,000)<ref name="broadberry"/><ref>Gerd Krumeich: ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg'', UTB, 2008, ISBN 3825283968, [https://books.google.com/books?id=52ID61vtVE4C&pg=PA761 page 761] {{de icon}}.</ref><br />{{Flagicon|DEU1871}}: 2,100,000 (1916年8月), 20,000 (1918年)<ref name="broadberry"/><br />[[File:Flag of the Emirate of Ha'il.svg|border|20px]]:9,000 (1918年)<ref>{{cite book |first=Joseph |last=Kostiner |year=1993 |title=The Making of Saudi Arabia, 1916–1936: From Chieftaincy to Monarchical State |___location= |publisher=Oxford University Press |isbn=0195360702 |url=https://books.google.com/books?id=l7-RZx_QIOsC&pg=PA28 |page=28 }}</ref>
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[[ムドロス休戦協定]]の時点で全オスマン軍の兵数は323,000。<ref name="Late Ottoman Empire page 181">A Brief History of the Late Ottoman Empire, M. Sükrü Hanioglu, page 181, 2010</ref>
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全戦線での兵士数は2,002,000だった。<ref name="Late Ottoman Empire page 181"/>
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|casualties1= 死傷・捕虜・行方不明 1,000,000 – 1,500,000 {{Citation needed|date=October 2014}}
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|casualties2= 死傷・捕虜・行方不明 1,500,000(243,598の戦死者含む)<ref name="Er211">''Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War'' By Huseyin (FRW) Kivrikoglu, Edward J. Erickson, Greenwood Publishing Group, 2001, ISBN 0313315167, [https://books.google.com/books?id=XUlsP0YuI1AC&pg=PA211&dq=ottoman+army+243598+killed&hl=de&sa=X&ei=DoHXT9LpOOb_4QTT8J2sAw&ved=0CEsQ6AEwBA#v=onepage&q=%22includes%20died%20of%20wounds%22&f=false page 211].</ref>
 
|notes= 合計 民間人を含むと5,000,000。<ref name="100years">James L.Gelvin "The Israel-Palestine Conflict: One Hundred Years of War " Publisher: Cambridge University Press ISBN 978-0-521-61804-5 Page 77</ref> オスマン帝国の具体的な死傷者の内訳は、{{仮リンク|第一次世界大戦のオスマン帝国の死傷者|en|Ottoman casualties of World War I}}を参照。
'''中東戦域'''(ちゅうとうせんいき)または'''中東戦線'''(ちゅうとうせんせん)とは、[[第一次世界大戦]]中、[[ガリポリの戦い|ガリポリ]]、[[コーカサス戦線 (第一次世界大戦)|コーカサス]]、[[シナイ・パレスチナ戦線 (第一次世界大戦)|シナイ・パレスチナ]]、[[メソポタミア戦線 (第一次世界大戦)|メソポタミア]]、[[ペルシア戦線 (第一次世界大戦)|ペルシア]]など、中東地域で展開された連合軍と中央同盟軍の戦いの行われた戦線の総称。
|}}
'''中東戦域'''(ちゅうとうせんいき)または'''中東戦線'''(ちゅうとうせんせん)とは、[[第一次世界大戦]]中、[[ガリポリの戦い|ガリポリ]]、[[{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus (第一次世界大戦)Campaign|label=コーカサス]]}}[[{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and (第一次世界大戦)Palestine Campaign|label=シナイ・パレスチナ]]}}[[メソポタミア{{仮リンク|ペルシャ戦線 (第一次世界大戦)|en|Persian campaign (World War I)|label=ペルシア}}、{{仮リンク|メソポタミア]]、[[ペルシア戦線|en|Mesopotamian (第一次世界大戦)campaign|ペルシlabel=メソポタミ]]}}など、中東地域で展開された[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]][[中央同盟国]]の戦いの行われた戦線の総称。
 
==背景==
[[オスマン帝国]]は第一次世界大戦勃発当初においては親独的[[中立]]にあった。しかし、[[オスマン債務管理局]]で生まれた[[ドイツ帝国]]強制な経済関係がさ財政援助を受け密接となり、ついに大戦参加を決心した。オスマン軍は[[1914年]][[10月29日]][[クリミア半島]]を砲撃して[[ロシア帝国]]との国交を断絶。[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、[[フランス第三共和政|フランス]]はオスマンに対し抗議したが無視された。そのため英仏もまたオスマンに対し敵対行動を執るに至った。
 
オスマン軍は[[1914年]][[10月29日]][[クリミア半島]]を砲撃してロシアとの国交を断絶。[[イギリス]]、[[フランス]]はオスマンに対し抗議したが無視される。そのため英仏もまたオスマンに対して敵対行動を執るにいたった。
 
==1914年==
[[File:Turkish columns marching out to drill, 1914.JPG|left|thumb|200px|1914年 戦地へと行軍する訓練を終えたばかりのオスマン軍新兵。]]
===コーフカス===
11月2日、開戦と同時に露カフロシア帝国コース軍はオスマ{{仮リ[[ク|第3軍 (オスマン帝国)|en|Third Army (Ottoman Empire)|label=オスマン第3軍]]}}の根拠地である[[エルズルム]]へと進撃した。国境付近で薄いながらも騎兵幕を展開していたオスマン軍はすぐにこれを知ることができた。{{仮リンク|第11軍団 (オスマン帝国)|en|XI Corps (Ottoman Empire)|label=オスマン第11軍団}}は反撃し、さらに{{仮リンク|第9軍団 (オスマン帝国)|en|IX Corps (Ottoman Empire)|label=オスマン第9軍団}}も加わってゆっくりと北進していった。11月の終わりまでに戦線は国境からエルズルムに向かって25キロメートルの地点で膠着した。ロシア軍の損害は約7千で、オスマン軍は約1万3千失った<ref>オスマン軍の損害のうち2千8百は脱走者。これには2人のアルメニア人士官を含んでいる。</ref>。
 
12月8日、第3軍に活を入れるため参謀本部員の[[ハーフズ・ハック・パシャ|ハーフズ・ハック・ベイ]]大佐が第3軍副参謀長として[[トラブゾン]]へと到着した。ハック大佐は第3軍参謀長でドイツ人のグーゼ(Guse)中佐へ攻勢計画を策定するよう個人的に指示を与えた。グーゼ中佐は作戦計画を立てたが、あまりに雄大な作戦のため第3軍司令官[[ハサン・イッゼト・パシャ]]は難色を示し、隷下の第9軍団長[[{{仮リンク|アフメト・フェヴズィ・ビグ|en|Ahmet Fevzi Big|label=アフメト・フェヴズィ]]}}准将も不安を漏らした。この案は、1個軍団で前線のロシア軍を拘束し、2個軍団でもって左翼からロシア軍の背後に回り込むというものである。12月12日、参謀総長[[エンヴェル・パシャ]]がエルズルムへ到着し、この大規模攻勢作戦の実行を決断した。第9及び{{仮リンク|第10軍団 (オスマン帝国)|en|X Corps (Ottoman Empire)|label=第10軍団}}長は作戦の成功に疑問を漏らして更迭された。
 
12月22日オスマン第3軍は攻勢を開始した。ロシア側<ref>開戦以来カフカスのロシア軍はCount{{仮リンク|コーカサス総督府 (1801–1917)|en|Caucasus Viceroyalty (1801–1917)|label=コーカサス総督}}{{仮リンク|イラリオン・ヴォロンツォフ=ダシュコフ|en|Illarion Ivanovich Vorontsov-Dashkov}}が指揮官であったが、軍人というより行政官であったので、A.Z.Myshlayevskiが代理を務めていた。しかし彼も実戦派というより研究者肌で、指揮官には不適格だった。ただ参謀長の[[ニコライ・ユデーニチ]]は定見のある前線将校だった。</ref>はこんなにもれほど早く攻勢に出るとは予想だにしていなかったが、前線から野戦司令部に届く報告はオスマン軍の攻撃を示していた。作戦2日目、オスマン軍最左翼の第10軍団は[[オルトゥ]]を占領してさらに前進、左翼第9軍団は24日までに[[サルカムシュ]]の郊外に達し、25日夜にはサルカムシュの旧市街に到達した。28日には第10軍団はセリムに歩を進め、サルカムシュと[[カルス (都市)|カルス]]とをつなぐ道路を封鎖した。ここまで順調な滑り出しを見せたオスマン軍の攻勢であったが、急激な天候の悪化とロシア軍の反撃によって急速に衰えてくる。12月の終わりごろのオスマン第10軍団の記録によると、雪が1.5メートルにまで達し、気温はマイナス26度にまで下がったという<ref>Erickson(2001),p.58。第9及び第10軍団が通った山間部では、さらに気温がマイナス40度にまで下がった。</ref>。
 
オスマン軍右翼第11軍団の前線のロシア軍への締め付けは十分ではなく、多数のロシア軍将兵がサルカムシュ防衛のため後退していった。露カフカス軍司令官代理は情勢を悲観して前線より退避したが、参謀長でこのときロシア第2カフカス軍団を指揮していたニコライ・ユデーニチはあくまでもサルカムシュ固守を決断、現地で指導するとともに部隊をサルカムシュに差し向けるよう指示した。オスマン第9軍団はサルカムシュ占領に手間取り、第10軍団は北方より応援に来たロシア援軍部隊に側面を晒されて苦戦した。エルヴェル・パシャは督戦するも戦況進展せず、1月4日を境にして攻守逆転した。強烈なロシア軍の圧迫に堪えかねてオスマン第9及び第10軍団は後退し始める。さらに第10軍団司令部が襲撃されて司令官及び参謀長が捕虜となる惨状を照らし、1月7日オスマン軍は全面退却に移った。
 
サルカムシュ会戦と呼ばれる戦いはロシア軍の勝利で終わり、ロシアのユデーニチはロシア・カフカス軍野戦司令官へと昇進した。本会戦によってオスマン軍は兵約5万人を失い<ref>Erickson(2001),p.60。これはトルコ公刊戦史による数字である。内訳は2万3千が戦死、1万が病院死、7千が捕虜となり、負傷者1万人。英語圏では一般的に戦死9万、捕虜4万から5万と記載されてきた。Cornish(2006),p85ではオスマン軍の損害は7万5千に達し、火砲の大部分を失ったと書かれている。</ref>、ロシア軍は2万8千もの損害を出した<ref>Cornish(2006),p85。死者1万6千人と負傷者及び戦病者(主に凍傷)1万2千人。</ref>。
 
==1915年==
===コーフカス===
前年のオスマン軍の大敗北により戦力バランスが大きく崩れていたがロシア軍は[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]が忙しく、またオスマン軍が[[イスタンブ]]方面から増援を呼び寄せたことにより戦力相拮抗することとなった。秋には新しいロシア軍前線指揮官[[ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)|ニコライ・ニコラーエヴィチ大公]]が就任し、両軍対峙のままこの年を終えた。
 
===ダーダネルス===
[[File:Mustafa Kemal during the Gallipoli Campaign.jpg|thumb|250px|1915年 [[ガリポリ半島]]での[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]と兵士たち。]]
{{main|ガリポリの戦い}}
東部戦線で独墺軍に相対するロシア軍はカフカカサ戦役方面を負担に感じており、イギリスにこの圧力を和らげてもらえるよう要請した。イギリス側はこれに応えるため海軍による[[ダーダネルス海峡]]強行突破が計画された。イギリス政府は[[イスタンブル|コンスタンティノープル]]を目標として{{仮リンク|[[ガリポリ半島|en|Gallipoli}}]]攻撃を決定、2月を期し海軍による攻撃を準備した。
 
一方、オスマン側では1914年8月の動員よりガリポリ半島には最精鋭が配置され、[[バルカン戦争]]の戦闘経験者が優先的に配属された。半島防衛にはバルカン戦争で勇名をはせた[[メフメト・エサト・ビュルカト|エサド・パシャ]]指揮下の第3軍団が置かれ、集中の遅いオスマン軍の中では異例ともいえる予定通りの22日で動員を完結した。チャナッカレ地域全体は[[ジェヴァト・チョバンル|ジェヴァト・ベイ]]指揮下のチャナッカレ要塞地区司令部が統括し、対上陸戦訓練にいそしんだ。11月3日のイギリス海軍による襲撃はダーダネルス海峡の重要さをオスマン軍に認識させ、ドイツ軍砲兵部隊を含む多数の火砲が運び込まれた。1915年2月19日、英仏連合艦隊は[[ゲリボル|ガリポリ]]半島南端及び対岸砲に対して砲撃。ついで25日に第2回攻撃、3月より断続的に攻撃した。3月18日に攻撃は最高潮に達したが英仏艦隊は戦艦3隻沈没を含む大損害をこうむって失敗し、これにより陸軍による上陸作戦計画に移った。
 
4月25日、英仏連合軍はチャナッカレ地域において強行上陸を開始、キリディ・バヒル要塞占領を目的とし、一部をもってサロスおよびアジア側クム・カレに牽制上陸、主力をもってアルブルヌ(アンザック入り江)およびガリポリ半島南端に上陸した。オスマン軍はチャナッカレ地域に新たに[[オットー・リーマン・フォン・ザンデルス|ザンデルス・パシャ]]指揮下の[[第5軍 (オスマン帝国)|第5軍]]をすえて連合軍を迎え撃った。アルブルヌ方面では[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル・ベイ]]指揮下の第19師団が果敢な攻撃によって[[アンザック]]を橋頭堡に閉じ込めることに成功し、半島南端方面ではハリル・サーミ・ベイ指揮下の第9師団が英第29師団の進出をなんとか食い止めた。これよりガリポリでの戦いは西部戦線にも似た陣地戦の様相を呈し、夏季に行われたクリティア (キルテ)攻防戦は人命ばかりが失われた。
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===メソポタミア===
[[File:Mesopotamian campaign 6th Army Siege of Kut.png|left|thumb|250px|1915年12月 [[クートの戦い]]での塹壕。]]
ペルシャ湾の石油利権の保護を名目として、イギリス軍はメソポタミアへと進攻した。1914年11月6日、インド兵を主体とした1師団が[[シャットゥルアラブ川]]河口ファオに上陸([[アル=ファオ上陸戦]])。微弱なオスマン軍部隊を撃退して、1914年11月23日[[バスラ]]を占領した。1915年3月ジョン・ニクソン大将がインドから増援の1コ師団を率いて着任し、メソポタミアにおける全英軍を指揮した。
 
イラク(メソポタミア)には戦前、オスマン軍4コ師団が駐屯していたが、1914年8月の動員開始とともに3コ師団が転出。うち、1コ師団が呼び戻されて、2コ師団が主力となっていた。1915年4月15日、イラク地区司令部司令官兼バスラ県知事の[[{{仮リンク|スュレイマン・アスケリー・ベイ]] ([[:|en:Süleyman Askerî Bey|Süleyman Askerî Bey]])}}中佐指揮下のオスマン軍約1万2千は、バスラ奪還のため攻撃したが撃退された。自軍のあまりの不甲斐ない戦いぶりに憤激したスュレイマン・アリケリーは自決し、オスマン軍は代わりに[[ヌーレッディン・パシャ|ヌーレッディン・ベイ]] ([[:en:Nureddin Pasha|Nureddin Bey]])大佐をしてイラク地区司令部司令官に命じた。
 
5月24日、第12インド師団は[[ナーシリーヤ]]を占領。同28日には第6プーナ師団がアマラを占領し、オスマン軍前衛部隊を北方に駆逐した。10月、第6プーナ師団長{{仮リンク|チャールズ・タウンゼンド (1861-1924)|en|Charles Vere Ferrers Townshend|label=チャールズ・タウンゼンド}}将軍は[[クート・エル・アマラ]] (クート)を占領。バグダードを目指してなおも前進し、前面に防御線を張るオスマン軍との間でセルマン・パーク会戦(クテシフォンの戦い)が行われた。3コ師団もの増援を受けたヌーレッディンは陣地を守りきり、逆に第6プーナ師団はクートに向かって敗走した。タウンゼンはクート固守を決意して篭城し、追撃するオスマン軍はこれを包囲した。
 
===シナイ及びパレスチナ===
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==1916年==
===コーフカス===
1月中旬からロシア軍は攻勢を開始し、2月18日には[[エルズルム]]の要塞を攻略した。オスマン軍は急遽増援を差し向けて何度も回復攻撃を行ったがすべて撃退され、7月下旬には[[エルズィジャ]]もロシア軍に占領されてしまった。
 
===メソポタミア===
[[File:Mesopotamian campaign staff of 6th Army.png|thumb|250px|1916年 {{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}でのオスマン軍参謀本部。]]
メソポタミアでは、前年よりオスマン包囲軍1万4千~5千、篭城軍1万3千によるクート攻囲戦が続いていた。ヌーレッディンは当初急襲によってクートを奪取しようとしたが失敗し、正攻法に切り替えた。英軍はエイルマー将軍に歩兵3個旅団と騎兵1個旅団をもってクート救出に赴かせた。1月、ヌーレッディンはコーフカス戦線に転出して[[ハリル・クート|ハリル・ベイ]]大佐がこれに代わる。エイルマーは何度も解囲攻撃を行ったが、クート前面のオスマン軍陣地を抜くことができなかった。4月29日、篭城4ヶ月の末ついにクートは陥落。劣勢な包囲軍が優勢なる救出部隊を阻止して篭城部隊を降伏せしめたクッテル・アマラ攻囲戦は、オスマン軍戦史を飾る戦いとなった<ref>樋口正治(1940),p.168</ref>。
{{main|クートの戦い}}
 
4月18日にバグダード総督兼[[第6軍 (オスマン帝国)|第6軍]]司令官でドイツ人の[[コルマール・フォン・デア・ゴルツ]]将軍の死去に伴い、24日、[[ハリル・クート|ハリル・ベイ]]はパシャ(将軍){{仮リンク|ミールリヴァー|en|Mirliva}}に昇進してバグダード総督に任命された。
 
クートでの失敗に懲りた英軍は司令官をモードに代えて戦力の充実に努め、積極的行動に出ることなく年末を迎えた。一方、オスマン軍は戦力不足にもかかわらず一部部隊を引き抜かれた上、{{仮リンク|ペルシア戦役|en|Persian Campaign|label=ペルシア出兵}}によって兵を酷使する羽目になった。
 
===シナイ及びパレスチナ===
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==1917年==
===コーフカス===
1916-17年冬、両陣営とも休止状態となっていた。春になってもこの状態は続き、5月にいたりロシア軍は[[ロシア革命|革命]]の余波を受けて全く戦意喪失。ロシア軍はムシュへの局地的な撤退をした。ロシア軍にとって幸運なことに、カフカスのオスマン第2軍、第3軍は過去の作戦によって痛めつけられており、これを追撃する能力はなかった。結局、1917年の終わりまで大規模な戦闘は行われず、オスマン軍の大規模攻勢もなかった。
 
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===シナイ及びパレスチナ===
[[File:Capture of Jerusalem 1917d.jpg|thumb|300px|{{仮リンク|エルサレムの戦い (1917年)|en|Battle of Jerusalem (1917)}}での[[イギリス軍]]砲兵。]]
イギリス軍は1916年12月より攻撃前進を起こし、翌年1月8日[[ラファフ|ラファ]]を占領。さらにエル・アリシュ占領し、[[シナイ半島]]からオスマン軍は駆逐された。勢いに乗るイギリス軍は3月に要衝[[ガザ]]に攻撃を敢行した。イギリス軍はガザをほとんど包囲したにもかかわらず深く塹壕にこもるオスマン軍部隊を抜くことができず、オスマン第4軍の2個師団による反撃によって撃退されてしまった。4月、若干の増援を受けたイギリス軍は再度ガザを攻撃した。しかしオスマン軍も増援を受けており、陣地もさらに深くしていた。イギリス軍は少数の戦車も投入するもついにガザをも攻略することは叶わなかった。この失敗を受けて英エジプト遠征軍司令官はマレイから[[エドムンド・アレンビー]]([[:en:Edmund Allenby, 1st Viscount Allenby|en]])に代わった。
 
アレンビーは本国に大規模な増援を要求し、大量の兵員・火砲の増加、後方体制の充実がなされた。これに加えてアレンビーは下がっていた士気を立て直しつつ遠征軍に西部戦線方式を導入し、歩兵・砲兵戦術の改善、重砲兵を統括する砲兵群の創設などの改革を断行して戦闘有効性を大幅に上げた。一方オスマン軍サイドでは、ヨーロッパに派遣していた部隊を撤収させてこれを基に電撃軍集団<ref>電撃軍集団はパレスチナ方面とメソポタミア方面を統括。</ref>とその隷下の第7軍を新編成した。エンヴェルの構想では、電撃軍集団をメソポタミアに投入してバグダード攻勢を行うつもりだったが、周囲の猛反対にあったうえ軍集団司令官に就任した[[エーリヒ・フォン・ファルケンハイン|フォン・ファルケンハイン]]にも反対されたため、危険度の高いガザ-[[ベエルシェバ]]線に配置された。また、パレスチナに元々いた第4軍のうちガザ方面の前線に配置されていた部隊を第8軍として新たに編成した。
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==1918年==
[[File:Turkish trenches at Dead Sea2.jpg|thumb|300px|1918年 [[死海]]の海岸に沿って掘られたオスマン軍の塹壕。]]
 
===コーフカス===
前年より休戦状態となっていたがロシア軍が逐次解隊するに及びオスマン軍は活動を開始し、[[アルメニア]]地方を回復。ついで南部カフカス地方を席巻した。9月中旬、オスマン軍はドイツの要求により石油産地の[[バクー]]を占領。しかしながら休戦条約が成立すると暫時国内に撤退した。
 
===メソポタミア===
この方面のオスマン軍は戦線崩壊危機にあった。5月、夏季のため両軍は[[キルクーク]]付近でにらみ合いとなった。7月[[アリ・イフサン・サービス|アリ・イフサン・パシャ]]が昇進して第6軍司令官となり、ハリル・パシャは[[東部軍集団 (オスマン帝国)|東部軍集団]]司令官に転出した。
 
10月23日、第6軍隷下のティグリス集団 (第2、第14歩兵師団)は、{{仮リンク|イスマイル・ハック・ベイ|en|İsmail Hakkı Bey}}大佐の指揮で攻勢転移したが、オスマン軍の10倍以上の兵力を擁したイギリス軍は、[[アッシュール|カラト・シャルカト]](現在の{{仮リンク|アル・シャルカト|en|Al-Shirqat District|label=アル・シャルカト}}で包囲殲滅しようと行動に出て激戦となった。7日間の戦闘の後オスマン軍は辛うじて包囲網から脱したが、降服し ({{仮リンク|シャルカトの戦い|en|Battle of Sharqat}})、兵8千砲57門を失が失われた<ref>樋口正治(1940),p.88</ref>。ムドロス講和条約調印時には英軍はハムマム・アリにいたがさらに前進し、11月4日、[[モスル]]に入城して戦闘を終了した。
 
===シナイ及びパレスチナ===
イギリス軍は春季に小規模攻勢を行ったが、オスマン軍に撃退された。イギリス軍はさらに攻勢を準備していたが、ドイツ軍の春季大攻勢により兵員、物資が西部戦線に移送されて実行できなくなった。インド兵による増援を受けた英エジプト遠征軍は、西部戦線の戦訓をもとに猛訓練をなし行った。8月に入り、遠征軍司令官アレンビーは新攻勢を企図。アラブ反乱軍と英空軍によってオスマン軍の通信網をマヒさせ、1コ軍団が主攻、もう1コ軍団が陽動を担当し、突破口から乗馬軍団が敵中深く進撃する計画だった。戦力は総勢15万、歩兵5万6千、騎兵1万千、火砲552門にも達していた。
 
オスマン側では、新たにリーマン・ザンデルスが電撃軍集団司令官となった。1918年8月時点では、総勢10万を超え、うち歩兵4万を擁していた。アレンビーはオスマン軍の戦力を歩兵3万2千、騎兵3千、火砲370門と推定している<ref>Falls(1930),p.452</ref>。ザンデルスの手記よれば、支給品不足で脱走者が多発するほど軍集団は物資不足に悩まされていた<ref>Sanders(1920),p.270、「脱走者の数は最近数週間で危険なまでに増えた。第8軍では、8月15日から9月14日までに1100人を数えている。捕まえられたときのお決まりの弁明は、食事が十分ではない、下着がないか履物がない、服がぼろぼろ、である」</ref>。
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{{main|メギッドの戦い}}
 
英軍はさらに前進して[[ダマスス]]を占領して、10月24日には[[アレッポ]]を、10月26日には[[バグダード鉄道]]の分岐点であるムスリーミイェを占領した。
 
===終戦===
[[File:British occupation troops marching in Beyoglu.jpg|thumb|連合国による{{仮リンク|イスタンブール占領|en|occupation of Constantinople}}]]
バルカン半島のサロニカ戦線が崩壊し、ブルガリアは休戦条約を締結。トラキアに殺到してくるであろう連合軍の対応のために、首都方面に回すべき戦略予備はオスマン軍には最早なかった。1918年10月30日、[[レムノス島]]ムドロスにおいてオスマン帝国は'''[[ムドロス休戦協定]]'''を締結し、ここに中東戦線は幕を閉じた。
 
==脚注==
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[[Category:中東戦域 (第一次世界大戦)|*]]
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