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'''青木 湯之助'''(あおき ゆのすけ、[[明治]]39年([[1906年]]) - [[昭和]]54年([[1979年]])[[12月27日]]
== 経歴 ==
洋食屋「紅花」の客であった日系二世の商社社長・前岡正美との交流をきっかけに、1955年以降、4回に亘り渡米<ref> 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.3 </ref>。
[[1961年]](昭和39年)、妻かつ、3人の息子達らと共に力を合わせ、「BENIHANA OF TOKYO」第1号店をニューヨークのマンハッタン西56丁目に開業する。精進料理屋「バンブーハウス」を5,000ドルで買い取り、大改装した上での新装オープンだった。内装材には日本から運んだ合掌造りの梁や柱を使った<ref> 『見ろ!痛快に!儲ける!』 P.87 </ref>。続いて第2号店を東56丁目に<ref> 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.170 </ref>、第3号店をシカゴに開店<ref>『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.195 </ref>。その後、西海岸へ次々と店舗を出店していく<ref>『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.224 </ref>。
[[1971年]]、「BENIHANA OF TOKYO」とは別業態の「GASHO OF JAPAN」を四男である青木四郎と開業<ref> 『見ろ!痛快に!儲ける!』 P.174 </ref>。
[[1979年]](昭和54年)12月27日3時40分、死去。享年73。
== 芸歴 ==
* 昭和12年([[1937年]])1月14日
== 著書 ==
*『東京で儲けた私』([[1957年]]、学風書院)
*『千客万来』([[1959年]]、日本の百人全集第9巻、東京学風書院)
*『ニューヨークで儲ける私 ― レストラン主人の欧米見聞記』([[1960年]]、学風書院)
*『私なら知恵で売る ― ベニハナ集団の勇気の物語』(1969年、日本経営出版社)
*『見ろ!痛快に!儲ける!俺はアメリカで大暴れ』(
*『水商売の天才戦術 ― コーヒーとステーキで儲けろ!』([[1978年]]、ベストセラーシリーズ、ワニの本、KKベストセラーズ)
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
*[[紅花 (飲食業)|紅花]]
▲*[[w:Benihana|Benihana]]
*[[和歌山県出身の人物一覧]]
== 外部リンク ==
{{DEFAULTSORT:あおきゆのすけ}}▼
*[http://www.benihana.jp/ 紅花]
{{Normdaten}}
▲{{DEFAULTSORT:あおき ゆのすけ}}
[[Category:20世紀日本の実業家]]
[[Category:20世紀日本の男優]]
[[Category:20世紀日本のダンサー]]
[[Category:和歌山県出身の人物]]
[[Category:1906年生]]
[[Category:1979年没]]
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