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|背番号=
|利き足=右足
|ユース年1= 1988-1990|ユースクラブ1= {{Flagicon|JPN}} [[静岡市立清水商業高等学校|清水商業高校]]
|年1=1991-19921997|クラブ1={{Flagicon|JPN}} [[日産自動車サッカー部|日産自動車]]/[[横浜F・マリノス|横浜マリノス]] | 出場1=9159|得点1=018
|年2=19921998-19971999|クラブ2={{Flagicon|JPN}} [[横浜京都サンガF・マリノス.C.|横浜マリノス京都パープルサンガ]] | 出場2=15029|得点2=181
|年3=1998-1999|クラブ3={{Flagicon|JPN}} [[都サンガF.C.ヴェルディ1969|京都パープヴェサンガディ川崎]] | 出場3=2927|得点3=1
|年4=19992000-2003|クラブ4={{Flagicon|JPN}} [[東京ヴェベガディ1969|ヴェルディ川崎タ仙台]] | 出場4=2765|得点4=13
|年5=2000-2003|クラブ5= [[ベガルタ仙台]]| 出場5=65|得点5=3
|通算出場=280|通算得点=23
|クラブ成績更新日=2007年10月10日
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| stats_update = {{dts|2020-07-19}}
}}
'''山田 隆裕'''(やまだ たかひろ、[[1972年]][[4月29日]] - )は、[[日本]]の元[[サッカー|サッカー選手]]、[[実業家]]。選手時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]](ウイング)、[[ミッドフィールダー|MF]](サイドハーフ)。元[[サッカー日本代表|日本代表]]
 
==・人物 ==
[[大阪府]][[高槻市]]で生まれる。小学校3年生の時、[[静岡県]][[清水市]](現在の[[静岡市]][[清水区]])に転居。転入した市立高部東小でサッカーに出会う。6年生の時に[[清水FC]]の一員として[[JFA 全日本U-12サッカー選手権大会|全日本少年サッカー大会]]に出場しベスト8進出。中学3年生の時には東海選抜に選出され、全日本選抜中学生サッカー大会で優勝を経験した。
 
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また高校2年次から[[U-20サッカー日本代表|日本ユース代表]]に選出されるなど、当時は同期のチームメイト[[名波浩]]よりも知名度は高く、将来も嘱望されていた。
 
高校卒業後の[[1991年]]に[[日本サッカーリーグ]]1部の[[日産自動車サッカー部]](現[[横浜F・マリノス]])に入部。日産でもスピードとドリブルを武器にサイドからのチャンスメイクで<ref>別冊サッカーマガジン秋季号 平成5年11月1日号 サッカーカタログ p.158 [[ベースボールマガジン社]]</ref>、早々にほぼレギュラーポジションを掴む活躍を見せ、[[木村和司]]がスタメンに居ない時は10番を与えられた。同年の[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]決勝・[[読売サッカークラブ|読売クラブ]]戦では途中出場からダメ押しプロ入り後の公式戦初ゴールとなったチームの4点目のゴールを決め優勝に貢献した<ref>[[サッカーマガジン]] 1992年3月号 no.395 p.5-11 壮絶120分日産延長のゴールラッシュで2年ぶり栄冠 [[ベースボールマガジン社]]</ref>(このゴールが公式戦初ゴールとなった。)
 
[[1992年]]には[[ハンス・オフト]]監督の指揮する[[サッカー日本代表|日本代表]]に選出。[[1993年Jリーグ開幕節]]は怪我で欠場した<ref name=victory/>。6月9日の清水戦ではJリーグ初ゴール<ref>{{cite news | url=https://data.j-league.or.jp/SFIX04/?player_id=164 | publisher =data.jleague | title =山田隆弘| accessdate =17 April 2020}}</ref> を含む2ゴールを決めた<ref>{{cite news | url=https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=86 | title =1993サントリーシリーズ8節| accessdate =17 April 2020}}</ref>。1995年には1stステージ優勝、年間では43試合7得点、[[Jリーグチャンピオンシップ]]第1戦では右サイドから入れたクロスのこぼれ球から[[ダビド・ビスコンティ|ビスコンティ]]の決勝ゴールが生まれた。第2戦でも勝利し、ヴェルディを破って優勝を果たした<ref name=snavi>{{Cite web|和書|url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201912090003-spnavi?p=2|title=早熟の天才・山田隆裕が輝いた時代 “史上最強”清水商から稼げるJリーグへ|publisher=SPORTSNAVI|date=2019-12-26|access-date=2023-303-22}}</ref>。Jリーグ黎明期から活躍し、甘いマスクで女性人気を獲得するなど若手スターであった<ref name=victory>{{cite web|url=https://victorysportsnews.com/articles/5413/original|title=山田隆裕|work=VICTORY|access-date=2023--3-22}}</ref>。その後、1997年の2ndステージから出場機会を減らし、1998年に[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]に移籍後、1999年は[[期限付き移籍]]により[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]でプレーし、移籍期間終了後は京都を退団<ref>{{Cite news |title=新入団選手と退団選手の移籍先 |newspaper=京都新聞 |publisher= |date=2000-03-16 |url=http://www.kyoto-np.co.jp/sanga/topics/iseki.html |accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20000620161315/http://www.kyoto-np.co.jp:80/sanga/topics/iseki.html |archivedate=2000-06-20}}</ref>。その後一度は引退したが、2000年、横浜M時代に指揮を受けた[[清水秀彦]]監督に誘われベガルタ仙台に加入<ref name="snavi" />、ここではチャンスメーカーとしてのプレーでJ1昇格に貢献した<ref name="snavi" />。仙台時代の応援歌の原曲は[[BOØWY]]の「Dreamin'」。[[2003年]]シーズン途中で現役引退した。J1では通算224試合20得点、J2では通算47試合出場3得点
 
しかし日本代表では出場機会に恵まれず、日本が初優勝した[[AFCアジアカップ1992|アジアカップ]]や[[1994 FIFAワールドカップ・アジア予選|W杯アジア1次予選]]にメンバーとして参加するも未出場。1993年、日本代表の控え選手たちで構成された日本選抜のメンバーとして香港遠征において、1月23日の[[サッカースイス代表|スイス]]戦では先発フル出場<ref>[[ストライカー (雑誌)|サッカーストライカー]] 1993年2月18日号 p.7-11 [[Gakken|学研]]</ref>、またアジア最終予選直前のスペイン遠征ではヘレス戦でもプレーした<ref>{{cite news | url=http://samuraiblue.jp/timeline/19930923/ | publisher =samuraiblue.jpl | title =ヘレスvs日本 1993年9月23日| accessdate =17 April 2020}}</ref>。10月にカタールのドーハで開催された94年米国W杯最終予選メンバーに選出されたが、「使ってもらえないし給料は減るから代表に行きたくない」と参加を辞退<ref name="postseven">{{Cite news |title=山田隆裕選手 J2のベガルタ仙台に移籍 |newspaper=京都新聞 |publisher= |date=2000-06014 |url=http://www.kyoto-np.co.jp:80/sanga/topics/0614yamada.html |accessdate=2017-10-30| |archiveurl=https://web.archive.org/web/20000711025415/http://www.kyoto-np.co.jp:80/sanga/topics/0614yamada.html |archivedate=2000-07-11}}</ref>。1994年の[[パウロ・ロベルト・ファルカン|ファルカン]]監督時代には、[[1994年アジア競技大会におけるサッカー競技|アジア大会]]のメンバーとして再び日本代表に参加したが、大会を通して出場機会は一度も訪れることはなかった。アジア大会の壮行試合として開催された、1994年9月27日の[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]戦が、唯一の[[国際Aマッチ]]出場となった。
 
その後1998年に[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]に移籍後、1999年は[[レンタル移籍|期限付き移籍]]により[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]でプレーし、移籍期間終了後は京都を退団<ref>{{Cite news |title=新入団選手と退団選手の移籍先 |newspaper=京都新聞 |publisher= |date=2000-03-16 |url=http://www.kyoto-np.co.jp/sanga/topics/iseki.html |accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20000620161315/http://www.kyoto-np.co.jp:80/sanga/topics/iseki.html |archivedate=2000-06-20}}</ref>。その後一度は引退したが、2000年、横浜M時代に指揮を受けた[[清水秀彦]]監督に誘われベガルタ仙台に加入<ref name="snavi" />、ここではチャンスメーカーとしてのプレーでJ1昇格に貢献した<ref name="snavi" />。仙台時代の応援歌の原曲は[[BOØWY]]の「Dreamin'」。[[2003年]]シーズン途中で現役引退した。J1では通算224試合20得点、J2では通算47試合出場3得点。
 
引退後は全国でサッカースクールや講演活動などを精力的に行う傍ら日本サッカー協会こころのプロジェクトで夢先生としても数多く登壇している。
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
==関連項目==
*[[横浜F・マリノスの選手一覧]]
*[[京都サンガF.C.の選手一覧]]
*[[東京ヴェルディ1969の選手一覧]]
*[[ベガルタ仙台の選手一覧]]
 
== 外部リンク ==
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}}
{{Normdaten}}
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{{デフォルトソート:やまた たかひろ}}
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[[Category:21世紀日本の実業家]]
[[Category:静岡市立清水商業高等学校出身の人物]]
[[Category:大阪府出身の人物スポーツ選手]]
[[Category:1972年生]]
[[Category:存命人物]]
 
 
{{Footybio-stub}}