ページ「茂木史朗」と「雪風 (駆逐艦)」の間の差分
(ページ間の差分)
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
タグ: コメントアウト |
||
1行目:
{{Pathnav|陽炎型駆逐艦|frame=1}}
{{Infobox 艦艇
|名称 = 雪風/丹陽
|画像 = Yukikaze_2.jpg
|画像説明 = 昭和14年([[1939年]])12月の撮影
|運用者 = {{flag|Empire of Japan}}→{{ROC}}
|建造所 = [[佐世保海軍工廠]]
|種別 = [[駆逐艦]]
|クラス = [[陽炎型駆逐艦]]
|計画 = [[③計画]]
|起工 = [[1938年]][[8月2日]]
|進水 = [[1939年]][[3月24日]]
|就役 = [[1940年]][[1月20日]]
|除籍 =
|最後 = [[1947年]][[7月6日]]に[[戦利艦|賠償艦]]として[[中華民国]]へ引き渡し、「丹陽」に改名<br />[[1969年]]夏、台風により破損
[[1971年]]冬、解体(1970年初頭に解体完了という説もあり)
|愛称=「奇跡の駆逐艦」、「超機敏艦」、「幸運艦」など
|基準排水量 = 2,033[[トン]]
|全長 = 118.5[[メートル]]
|全幅 = 10.8メートル
|吃水 = 3.8メートル
|ボイラー = [[艦本式ボイラー|ロ号艦本式缶]]3基
|主機 = [[艦本式タービン|艦本式衝動タービン]]2基2軸、52,000[[馬力]]
|最大速力 = 35.5[[ノット]]
|航続距離 = 18ノット/5,000[[海里]]
|乗員 = 兵員239人
|兵装 = '''新造時'''<br />[[50口径三年式12.7センチ砲|50口径三年式12.7cm連装砲]]:3基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|九六式25mm連装機銃]]:2基<br />九二式61cm四連装[[魚雷発射管]]:2基<br />([[酸素魚雷|九三式魚雷]]16本)<br />九四式爆雷投射機:1基<br />爆雷投下台:6基<br />[[爆雷]]:18乃至36個<br />'''終戦時'''<br />[[50口径三年式12.7センチ砲|50口径三年式12.7cm連装砲]]:2基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|九六式25mm3連装機銃]]:4基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|九六式25mm連装機銃]]:1基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|九六式25mm単装機銃]]:14基<br />九二式61cm四連装[[魚雷発射管]]:2基<br />([[酸素魚雷|九三式魚雷]]16本)<br />九四式爆雷投射機:1基<br />爆雷投下軌条:2基<br />'''第一次改修'''<br />[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|八九式12.7センチ連装高角砲]]:1基<br />[[六五口径九八式一〇糎高角砲|九八式10センチ高角砲]]:2基<br />[[九六式二十五粍高角機銃]]:8基<br />'''第二次改修'''<br />[[Mk 12 5インチ砲|38口径5インチ単装両用砲]]: 3基<br />[[Mk 33 3インチ砲|50口径7.6センチ単装両用砲]]:2基<br />[[ボフォース 40mm機関砲|ボフォース40ミリ連装機銃]]4基8門(後にボフォース40ミリ単装機銃10基10門に増強)<br />爆雷投下軌条
|ソナー = [[九三式水中探信儀|九三式探信儀]]<br />[[九三式水中聴音機]]
}}
'''雪風'''(ゆきかぜ)は、[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]<ref name="S14達10号">[[#1月(昭和14年達完)]]p.41『達第十号 艦艇製造費ヲ以テ昭和十二年度及昭和十三年度ニ於テ建造ニ着手ノ敷設艦一隻、砲艦一隻、驅逐艦一隻及潜水艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十四年一月二十日 海軍大臣米内光政|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 敷設艦 初鷹(ハツタカ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 砲艦 伏見(フシミ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 雪風(ユキカゼ)|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第十五潜水艦』</ref>。[[陽炎型駆逐艦]](一等駆逐艦)の8番艦<ref name="艦艇類別p.8">[[#昭和16年12月31日現在艦艇類別等級]]p.8『驅逐艦|一等|陽炎型|陽炎、不知火、黒潮、親潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、濱風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風、秋雲』</ref>。
==
[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])当時の主力駆逐艦であった甲型駆逐艦(陽炎型駆逐艦、[[夕雲型駆逐艦]])38隻の中で、雪風は唯一終戦まで生き残った艦である。日本海軍の駆逐艦は激戦地に投入され非常に損耗率が高かったが、雪風は第16駆逐隊や第17駆逐隊の姉妹艦(初風、天津風、時津風、浦風、磯風、浜風、谷風)、第27駆逐隊の[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]等と共にスラバヤ沖海戦から[[坊ノ岬沖海戦]](戦艦大和特攻)まで16回以上の主要な作戦に参加した。その中でも雪風は戦果を上げつつ一度も大きな損傷を受ける事なく終戦を迎え'''奇跡の駆逐艦'''と呼ばれた。戦中より雪風のその幸運ぶりは広く知られ、'''呉の雪風、佐世保の[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]'''と謳われた<ref>[[#帝国海軍の最後]]p.128</ref>。
終戦後、雪風は日本海軍解体に伴い除籍後[[中華民国]]に賠償艦として引き渡され'''丹陽'''と改名、同国海軍の主力艦として活躍した{{Sfn|建艦秘話|1965|p=61b}}。[[台湾]]において1971年(昭和46年) 12月に解体されたとされるがはっきりとした解体年は不明。
== 戦歴 ==
=== 太平洋戦争以前 ===
雪風は陽炎型8番艦([[③計画]]の仮称艦名第24号艦)として[[佐世保工廠]]で建造された。
[[1938年]](昭和13年)[[8月2日]]に起工<ref name="艦船要目20">[[#昭和16年6月30日現在艦船要目公表範囲]]p.20『艦名:雪風|艦種:一等駆逐艦|(性能略)|製造所:佐世保工廠|起工年月日13-8-2|進水年月日14-3-24|竣工年月日15-1-20|(兵装略)』</ref>。
[[1939年]](昭和14年)[[1月24日]]、雪風(ユキカゼ)と命名された<ref name="S14達10号" />。佐世保海軍工廠で建造された陽炎型駆逐艦は、8番艦の雪風と12番艦の[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]のみである<ref>[[#昭和16年6月30日現在艦船要目公表範囲]]p.20『艦名:磯風|艦種:一等駆逐艦|(性能略)|製造所:佐世保工廠|起工年月日13-11-25|進水年月日14-6-19|竣工年月日15-11-30|(兵装略)』</ref><ref>[[#日本海軍艦艇写真集17駆逐艦]]110頁</ref>{{Sfn|建艦秘話|1965|pp=61a-62|ps=甲型駆逐艦雪風・磯風について}}。
特筆すべき事故・遅延・計画変更もなく、雪風の建造は順調に進んだ{{Sfn|建艦秘話|1965|p=61b}}。[[3月24日]]、雪風は進水<ref name="艦船要目20" />。雪風進水式は一般に公開され、約1万人の観衆が参列した{{Sfn|建艦秘話|1965|p=61b}}。佐世保鎮守府司令長官[[中村亀三郎]]中将は「雪風の夜こそねらはん時なれや いさを立てよと船おろしする」という[[和歌]]を贈った{{Sfn|建艦秘話|1965|p=62}}。
[[1940年]](昭和15年)[[1月20日]]、雪風は竣工した<ref>[[#特保艇現状調書(1月分)]]p.5</ref><ref name="艦船要目20" />。
竣工後は[[呉鎮守府]]に所属し<ref>[[#艦艇特務艦艇籍一覧表]]p.2</ref>、陽炎型3番艦[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]、陽炎型7番艦[[初風 (駆逐艦)|初風]]と第16駆逐隊を編制した<ref>[[#日本海軍艦艇写真集17駆逐艦]]100頁</ref><ref>[[#編制(昭和15年6月5日現在)]]p.2『驅逐隊編制|第十六駆逐隊|<初風、>雪風、黒潮』</ref>。同年10月11日、16駆(雪風、初風、黒潮)は[[紀元二千六百年記念行事]]に伴う[[紀元二千六百年特別観艦式]]に参加した<ref>[[#紀元二千六百年特別観艦式・第二章]]p.14、[[#紀元二千六百年特別観艦式・第三章]]p.1</ref>。
10月26日に陽炎型9番艦[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]が第16駆逐隊に編入、11月15日に黒潮が第15駆逐隊に転出すると<ref>[[#編制(昭和15年12月25日現在)]]p.1</ref>、代替として陽炎型10番艦[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]が12月15日に加わった。開戦直前の第16駆逐隊は雪風、時津風、初風、天津風の陽炎型駆逐艦4隻で構成されており<ref>[[#編制(昭和16年12月31日現在)]]p.2</ref>、雪風と時津風が第一小隊、天津風と初風が第二小隊という編制であった<ref name="戦隊行動調書35">[[#戦隊行動調書]]pp.35-36</ref>。司令駆逐艦は雪風<ref name="戦隊行動調書35"/>。また第16駆逐隊は第8駆逐隊、第15駆逐隊、第18駆逐隊と共に[[第二水雷戦隊]](旗艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]])に所属していた<ref name="戦隊行動調書35"/>。加えて、第16駆逐隊、第24駆逐隊と共に、軽巡[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]を旗艦とする第四急襲隊を形成していた<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]20頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]9頁</ref>。
===
開戦時の雪風駆逐艦長は[[飛田健二郎]]中佐であった。雪風の初陣は[[1941年]](昭和16年)[[12月12日]]、[[フィリピン]]の[[レガスピ (フィリピン)|レガスピ]]に対する上陸支援であった<ref name="a">[[#雪風ハ沈マズ新装]]21-22頁</ref>。第16駆逐隊第二小隊(天津風、初風)は、神通と共に空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]航空隊支援のため別行動であった。その後[[12月24日]]には[[ラモン湾]]上陸支援に参加し、[[P-40 (航空機)|P-40ウォーホーク戦闘機]]の機銃掃射で重油タンクが損傷、軽傷者6名が出た。魚雷発射管にも被弾したが爆発はしなかった<ref name="b">[[#不沈艦生涯(新版)]]23頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]30頁</ref><ref name="#1">[[#雪風手記]]143頁</ref>。12月27日、ミンダナオ島のダバオで[[工作艦]][[明石 (工作艦)|明石]]にて修理を受けた<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]31頁</ref>。29日パラオに帰投<ref name="#1"/>。1月4日、第16駆逐隊第一小隊は[[ダバオ]]に進出し第16駆逐隊第二小隊と合流する<ref name="#1"/>も[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]の空襲を受け[[妙高型重巡洋艦|重巡洋艦]][[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]が損傷するが、雪風は飛田艦長の判断により爆撃回避に成功した<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]33頁</ref>。
[[1942年]](昭和17年)[[1月9日]]、第五戦隊司令官[[高木武雄]]少将指揮する東方攻略部隊に所属し、第二護衛隊(第二水雷戦隊)としてダバオ湾を出撃した<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]35頁</ref>。[[1月11日]]には[[マナド|メナド]]攻略作戦の一環であるケマ上陸支援に参加<ref name="c">[[#雪風ハ沈マズ新装]]36-37頁</ref>、[[1月24日|24日]][[ケンダリー]]<ref name="d">[[#雪風ハ沈マズ新装]]43頁</ref>、[[1月31日|31日]][[アンボン]]<ref name="e">[[#雪風ハ沈マズ新装]]44頁</ref>、[[2月20日]][[チモール島]]の各上陸作戦支援<ref name="f">[[#雪風ハ沈マズ新装]]49頁</ref>に従事した。
{{main|スラバヤ沖海戦}}
[[ファイル:Main-qimg-f51910e7737193012e8ec7d3e428a428.jpg|サムネイル|1940年4月、台湾に停泊中の第2水雷小隊。雪風(左)と[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]](右)は、第25駆逐戦隊([[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]から撮影、[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]、[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]の艦首が見える)から離れた港内に停泊しているのが見える。]]
[[2月27日]]からは初の海戦となる[[スラバヤ沖海戦]]に参加し、海戦後、漂流中の約40名の[[デ・ロイテル (軽巡洋艦・初代)|デ・ロイテル]]などの乗組員を救助した<ref name="g">[[#不沈艦生涯(新版)]]37-38頁</ref><ref>[[#雪風手記]]155頁</ref>。
3月3日、スラバヤ北方海域で米潜水艦[[パーチ (SS-176)|パーチ]]への共同攻撃に参加しパーチを自沈せしめた<ref name="h">[[#不沈艦生涯(新版)]]39頁</ref>。
{{main|西部ニューギニア戡定作戦}}
3月15日に雪風や水上機母艦[[千歳 (空母)|千歳]]、軽巡洋艦[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、駆逐艦時津風などからなるN攻略部隊が編成され、同部隊は3月末から[[西部ニューギニア戡定作戦]]に従事した<ref>戦史叢書第54巻 南西方面海軍作戦―第二段作戦以降―、32-33ページ</ref>。雪風は29日から31日にかけて[[第一号型哨戒艇|第2号哨戒艇]](旧[[峯風型駆逐艦]][[灘風 (駆逐艦)|灘風]])、 [[第三十一号型哨戒艇|第39号哨戒艇]](旧樅型駆逐艦[[蓼 (駆逐艦)|蓼]])と共に[[セラム島]]北岸のブラ攻略作戦に参加<ref name="ia">[[#S1611一号哨戒艇戦時日誌(4)]]p.4、p.22-23</ref>。4月1日よりニューギニア島への攻略作戦が開始されると、雪風は千歳、鬼怒らと共に1日には同島のファクファク攻略作戦<ref name="ib">[[#S1611一号哨戒艇戦時日誌(5)]]p.4、p.22-23</ref>、続いて4日にはソロン攻略作戦<ref name="ic">[[#S1611一号哨戒艇戦時日誌(5)]]p.42</ref>で陸戦隊の揚陸を支援して作戦を成功に導いた。6日に時津風や[[第一号型哨戒艇|第1号哨戒艇]](旧[[峯風型駆逐艦]][[島風 (峯風型駆逐艦)|島風]])らとも合流し、N攻略部隊のほぼ全艦艇で[[ハルマヘラ島]](ジャイロロ島)方面の攻略に向かう。7日に同島西海岸沖の[[テルナテ島|テルナテ]] <ref name="id">[[#S1611一号哨戒艇戦時日誌(5)]]p.21、p.43-44</ref>、翌8日にはジャイロロの攻略を行い<ref name="ie">[[#S1611一号哨戒艇戦時日誌(5)]]p.22、p.43-44</ref>、ハルマヘラ島を占領。10日には再びニューギニア島の[[マノクワリ]]に対し上陸作戦を行い、これらの地域に駐留していた連合軍を降伏させた。この作戦中、マノクワリ攻略(4月12日)において、陸軍の上陸部隊が輸送船の漂流により到着が遅れたため<ref>[[#S1611一号哨戒艇戦時日誌(5)]]p.29</ref>、緊急に雪風、時津風の乗組員が上陸部隊を結成してマノクワリを占領した<ref name="j">[[#雪風ハ沈マズ新装]]109-113頁</ref>。17日から18日までセルイ島掃討作戦<ref name="ja">[[#S1611一号哨戒艇戦時日誌(5)]]p.33-34、p.46</ref>、19日から20日はサルミ掃討作戦に参加<ref name="jb">[[#S1611一号哨戒艇戦時日誌(5)]]p.35</ref>。4月20日までにN作戦は成功裏に終了した。
4月23日、明石を護衛してアンボンを出港し<ref name="k">[[#S1703二水戦戦時日誌(4)]]p.23-24</ref>、4月30日に日本本土[[呉港|呉軍港]]に戻った<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]113頁、[[#不沈艦生涯(新版)]]41頁</ref>。5月22日、日栄丸、あけぼの丸を護衛して日本を出発、[[サイパン]]へ進出した<ref name="l">[[#S1705二水戦戦時日誌(1)]]p.35</ref>。日栄丸の護衛は元々別の駆逐艦が行う予定だったが、5月19日、連合艦隊司令部からサイパン方面で潜水艦の被害が急増し危険であるとの伝達を受け、雪風、時津風に護衛担当が変更された<ref>[[#S1703二水戦戦時日誌(5)]]p.29-30</ref>。出発当日に初風も加わり<ref>[[#S1703二水戦戦時日誌(5)]]p.32-33</ref>、船団は5月26日、無事にサイパンへ到着、護衛任務は成功した。
[[ファイル:2600 anniversary Japanese fleet review.png|サムネイル|1940 年 10 月 11 日、横浜沖に停泊した[[初風 (駆逐艦)|初風]]、雪風、黒潮]]
6月の[[ミッドウェー海戦]]には第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将指揮する[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]攻略部隊の一員として参加した。輸送船団の護衛として防空戦にあたるものの、南雲機動部隊主力空母4隻([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]])の喪失により撤退する<ref name="m">[[#雪風ハ沈マズ新装]]115-130頁</ref>。雪風の乗組員は炎上する赤城を視認している<ref>[[#豊田全集6巻]]361頁</ref>。
雪風ら第16駆逐隊は第18駆逐隊(霞、霰、陽炎、不知火)と共に神通以下第二水雷戦隊として行動し、それぞれ6月13-15日トラック泊地滞在、20-21日横須賀へ着いた<ref name="n">[[#S1706二水線戦時日誌]]p.19</ref><ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]28頁『MI作戦参加部隊の一部トラック、グァムへの引揚げ』</ref>。以後、横須賀にて修理整備作業に従事<ref>[[#S1706二水線戦時日誌]]p.16</ref>。駆逐艦長は[[菅間良吉]]中佐に変わる<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]48頁</ref>。7月14日、大規模な艦隊再編制により雪風以下第16駆逐隊は第十戦隊に所属することになった<ref name="o">[[#戦隊行動調書]]pp.10, 35-36</ref><ref>[[#S1705二水戦戦時日誌(1)]]p.52、[[#S1705二水戦戦時日誌(2)]]p.2</ref>。[[飛鷹型航空母艦|隼鷹型航空母艦]]2番艦[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]の訓練の随伴任務と一度のサイパン方面護衛任務についたのち、第16駆逐隊の僚艦時津風と共に輸送船南海丸を護衛を命じられた。南方へ航海中、途中で[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]旗艦・[[高雄型重巡洋艦|重巡洋艦]][[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]](第八艦隊司令長官[[三川軍一]]中将座乗)と合同<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]p.43『7月29日1306 直衛(1D/9dg)ハ1D/16dg(雪風、時津風)ト交代、1D/9dgハ反転横須賀ニ向フ』</ref>。鳥海護衛任務を第9駆逐隊([[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]])と交替し、7月30日(一部著作では7月26日<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]48頁、[[#一海軍士官]]74-75頁</ref>)、ラバウルへ到着した<ref name="p">[[#S1709八艦隊日誌(1)]]p.44『7月30日1500鳥海雪風時津風ヲ率ヒ「ラバウル」着|1600将旗ヲ鳥海ヨリ陸上庁舎ニ移揚』</ref><ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]71頁『内南洋部隊の兵力部署及び第八艦隊司令部の進出』</ref>。既に雪風と時津風は重巡洋艦[[最上 (重巡洋艦)|最上]](ミッドウェー海戦で大破)の本土回航護衛部隊に指定されており、輸送・護衛任務完了後トラック泊地に向かった<ref>[[#S1707七戦隊日誌(1)]]p.31『18日2000第二艦隊参謀長→第三艦隊司令長官/連合艦隊信令第68号ニ依ル最上ノ護衛ハ第16駆逐隊(天津風、初風欠)ニ命ゼラレタル所、同隊ハ目下「ラボール」ニ向ケ南海丸護衛中ニシテ7月25日頃同地着ノ予定ニ付含ミ置カレ度』』</ref>。トラック到着後、最上と明石を護衛して8月5日正午トラック泊地を出発、各艦は8月11-12日に佐世保・呉へ到着した<ref name="q">[[#S1707七戦隊日誌(1)]]p.38『22日1630第四通信隊司令→各隊/最上機密第159番電 発最上艦長(電番号最上) 22日応急修理完成 第16駆逐隊来着後出港ノ予定』</ref><ref name="qa">[[#S1707七戦隊日誌(3)]]p.35『(二)第二小隊(最上) 8月5日応急修理完成1200佐世保ニ向ケ「トラック」発 8月11日0900佐世保着修理ニ従事』</ref><ref name="qb">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]74頁『MI作戦損傷艦の応急修理終えての内地回航』</ref>。この護衛作戦中に、アメリカ軍は[[ウォッチタワー作戦]]を発動して[[ガダルカナル島]]及び[[フロリダ諸島]]に上陸、[[ガダルカナル島の戦い]]が始まった。第16駆逐隊は8月8-9日の[[第一次ソロモン海戦]]に参加できなかった<ref>[[#一海軍士官]]77頁</ref>。
=== ソロモン海での戦い ===
9月4日、[[大鷹型航空母艦]]2番艦[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]を護衛して横須賀を出港<ref name="r">[[#不沈艦生涯(新版)]]50頁</ref>、トラックに進出した<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]137頁、[[#一海軍士官]]79頁</ref>。[[サボ島沖海戦]]の翌日[[10月12日]]、雪風は第16駆逐隊の僚艦天津風と共に[[ネンドー島|ヌデニ島]]のグラシオサ湾([[サンタクルーズ諸島]])を偵察、砲撃した<ref name="s">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]181頁『高速船団による陸軍増援部隊の「ガ」島上陸』</ref>。ヌデニ島はアメリカ軍の飛行艇基地などがあり、9月11日以来日本軍は潜水艦や駆逐艦によって三度に渡って砲撃を加えていた<ref>[[#雪風手記]]178頁</ref>。
{{main|南太平洋海戦}}
雪風ら第16駆逐隊の4隻は、[[10月21日]]、[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊(南雲機動部隊)]]を護衛してサンタクルーズ海域に進出。[[10月26日]]からの南太平洋海戦には第一航空戦隊の[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]、第七戦隊の熊野、第4駆逐隊の[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]、第17駆逐隊の[[浜風 (駆逐艦)|浜風]]、第61駆逐隊の[[照月 (駆逐艦)|照月]]らと共に参加した。当初、雪風は第三艦隊旗艦の翔鶴の直衛だったが<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]139頁、[[#雪風手記]]298頁</ref>、21日から26日にかけて機動部隊が南下、北上を繰り返す間に艦隊の陣形は変更され、24日には翔鶴の無電代理を行った第4駆逐隊の嵐<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]142頁</ref>が翔鶴の直衛兼通信担当に、雪風は空母瑞鶴の護衛になっている<ref name="t">[[#連合艦隊栄光]]234頁、[[#よもやま物語]]151頁、[[#雪風手記]]313頁、326頁</ref>。26日、連合軍空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]及び[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]の艦載機の空襲を受けた。当初瑞鶴はスコールに隠れて敵が来なかったため、雪風は翔鶴の護衛に加わり対空戦闘を行った<ref name="ta">[[#雪風ハ沈マズ新装]]149-151頁</ref>。翔鶴、瑞鳳が被弾により撤退した後は瑞鶴を護衛してアメリカ軍機と交戦した。この後、瑞鶴に収容された瑞鳳艦載機搭乗員は「失礼ながら高みの見物しかできなかったが、見事な戦闘だった」と瑞鶴、雪風の戦いを振り返っている<ref>[[#瑞鳳生涯]]107頁</ref>。戦闘後は味方機の収容に当った。日没後、雪風と瑞鶴は敵に発見される危険を冒しながら探照灯により空母の位置まで味方機を誘導し、海面に不時着した機の搭乗員を救助した<ref>[[#よもやま物語]]154-155頁</ref>。この一連の功績により、海戦後、[[山本五十六]]連合艦隊司令長官より感状を授与されている<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]153頁</ref>。戦闘後、第16駆逐隊や第17駆逐隊の姉妹艦は損傷艦の護衛任務に従事して内地へ帰投、トラック泊地に残る第16駆逐隊は雪風と天津風の2隻となった<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]211-212頁『支援部隊トラック帰投及びその一部の内地回航』</ref>。
{{main|第三次ソロモン海戦}}
11月、ガダルカナル島の戦局は日本軍不利に傾いていた。日本海軍連合艦隊司令部は第十一戦隊(司令官[[阿部弘毅]]中将)の[[金剛型戦艦]]2隻([[比叡 (戦艦)|比叡]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]])によるガダルカナル島[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]砲撃を行うことを決定した。雪風は第16駆逐隊の僚艦天津風、第十戦隊旗艦長良、第61駆逐隊の照月、第6駆逐隊の暁、雷、電、第四水雷戦隊旗艦朝雲、第2駆逐隊の村雨、五月雨、夕立、春雨、第27駆逐隊の時雨、白露、夕暮らと共に飛行場砲撃を行う挺身艦隊に編入され、ガダルカナル島に進出した<ref name="u">[[#戦隊行動調書]]p.13</ref>。第十戦隊の任務は、第十一戦隊直衛ならびに敵警戒艦艇の排除であった<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.5『主要任務:直衛.敵軽快艦艇撃攘』</ref>。アメリカ軍も日本軍を迎撃すべく集結し、両軍の間で[[第三次ソロモン海戦]]が発生した。[[11月12日]]深夜から[[11月13日]]未明にかけての第三次ソロモン海戦第一次夜戦は予期せぬ夜間艦隊戦となり、大混戦となる。斉藤通信士(雪風艦橋勤務)によれば、激しい撃ち合いは一瞬で終わり、魚雷を発射したかも定かではないという<ref>[[#海軍艦隊勤務]]195頁、[[#一海軍士官]]84頁</ref>。この戦闘で、第16駆逐隊からは天津風が大破(缶室浸水、戦死45名・負傷25名、速力16ノット)という被害を出した<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]pp.51-52『17日0910第16dg司令→各隊/天津風戦闘概報(略)(ハ)戦死傷者:戦死砲術長以下45名(司令部附森中尉 谷風乗組兵2名ヲ含ム) 重傷下士官兵25名』</ref>。雪風も友軍艦艇の誤射により若干の浸水が発生した<ref>[[#雪風手記]]342頁。砲弾の弾底に佐世保鎮守府の刻印があった。</ref>。アメリカ軍に対しては、00時15分に巡洋艦に対し照射砲撃、00時25分にマハン型駆逐艦に対し照射攻撃、『何れも撃沈確実と認む』と報告した<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.23『13日0230第16dg司令→各隊/戦闘速報 雪風0015長良砲撃敵巡ニ対シ3800米ニテ照射砲撃命中弾多数大破大火災右ニ大傾斜セシム 0025敵駆逐艦(マハン型)ニ対シ3000米ニテ照射砲銃撃命中弾多数大破大火災 何レモ撃沈確実ト認ム 我戦闘航海支障ナシ』</ref>。実際のアメリカ軍被害とは異なるものの、雪風は防空巡洋艦1隻(長良、春雨と共同)・駆逐艦1隻(長良と共同)を撃沈したと認定された<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]pp.54-55『五.戦果+挺身攻撃隊総合戦果(略)防空巡洋艦ト認メラルルモノ2隻撃沈(内一隻轟沈):夕立ニ依リ1隻、長良.雪風.春雨ニ依リ1隻|駆逐艦3隻撃沈:照月ニ依リ1隻、長良.雪風ニ依リ1隻.朝雲ニ依リ1隻』</ref>
アメリカ側の調査によると、この海戦で雪風は駆逐艦[[カッシング (DD-376)|USSカッシング(DD-376)]](春雨と共同)と駆逐艦[[ラフィー (DD-459)|USSラフィー(DD-459)]](比叡と共同)を撃沈したとされる。カッシングは雪風と春雨の攻撃により航行能力と砲の機能を失い激しく炎上した後に沈没。ラフィーには雪風の12.7cm砲弾が3発、比叡の35.6cm砲弾が2発命中。さらに雪風の魚雷1本がラフィーの艦尾に命中。ラフィーのファン部分とプロペラは吹き飛ばされ、竜骨も折れて動力を喪失。大火災が発生して艦尾弾薬庫の爆発により沈没したとある<ref>{{Cite web |url=http://www.combinedfleet.com/yukika_t.htm |title=IJN Yukikaze: Tabular Record of Movement |access-date=20 April 2025}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.navweaps.com/index_oob/OOB_WWII_Pacific/OOB_WWII_First_Guadalcanal.php |title=First Battle of Guadalcanal |access-date=20 April 2025}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://taskforce67.tripod.com/cdd10.htm |website=taskforce67.tripod.com |access-date=2025-04-21 |title=ACTION REPORT - Commander Destroyer Division Ten (Commanding Officer, USS CUSHING)}}</ref>。
第一次夜戦終了後、雪風は操舵不能となった挺身攻撃隊旗艦[[比叡 (戦艦)|比叡]]を駆逐艦照月、第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)と共に護衛せよとの命令を受けた。なお、挺身攻撃隊の指揮権を継承した第十戦隊司令官(旗艦長良に乗艦)が比叡の護衛を命じたのは照月、時雨、白露、夕暮の4隻である<ref>[[#叢書83ガ島戦]]pp.370</ref>。戦場離脱を命じられ一隻で航行中だった雪風はその途中で長良と遭遇、手旗信号によって比叡が航行不能に陥り火災発生中であると伝えられると、比叡の救援に急行した。長良は破損により艦が傾斜した状態であったため、海域を離脱した<ref>[[#よもやま物語]]159頁</ref>。比叡の救援に向かう途中、被害箇所(医務室)の修理を行った際弾丸の破片が見つかったが、弾底部に佐世保軍需部の印があった事から味方の誤射であったと判った。雪風砲術科の兵は「比叡の副砲の弾だろう」と推測している<ref>[[#よもやま物語]]160頁</ref>。
午前4時20分、雪風は最も早く比叡の元に到着した<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]pp.14,25</ref>。午前5時5分、日の出と共に制空権を握るアメリカ軍の空襲が始まる<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]pp.172</ref>。午前6時、4隻の駆逐艦(照月、時雨、白露、夕暮)が到着し、護衛駆逐艦は5隻になった<ref>[[#叢書83ガ島戦]]pp.372</ref>。比叡は通信能力を喪失していたため、第十一戦隊司令部は最初に現場海域に到着した雪風<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.25『13日0430第16dg司令→各隊/雪風比叡(サボ島北東5浬)ヲ救助中上空直衛機ノ派遣ヲ乞フ 附近ニハ雪風一隻ノミ』</ref>への移乗を決定<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.5『0420救援ノ為雪風現場着 当時比叡ハ手旗信号ノ外通信不能ニシテ他隊トノ連絡現場ノ指揮統制不如意ナリシヲ以テ0615本職比叡ヨリ雪風ニ移乗セリ』</ref>。午前6時15分、比叡に乗艦していた阿部中将らが移乗し、雪風は戦隊旗艦となった<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]pp.170、[[#11戦隊詳報(4)]]p.43『13日0550比叡ヨリ雪風ニ移乗』</ref>。この時、戦艦用の大きな中将旗をマストに掲げた為に敵機の目標となったとある<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]172-173頁、[[#一海軍士官]]86頁</ref>。至近弾によって汽缶に亀裂が入り発電機も故障した雪風は最大速力発揮不可能となり、爆弾の破片を頭部に受けた白戸水雷長が重体となった。時雨以下各艦も損害が累加していった<ref>[[#雪風手記]]p.327-328、[[#11戦隊詳報(5)]]p.17『当時27dg雪風等ハ銃爆撃ニ依リ相当ノ被害アリテ雪風ノ如キハ至近弾ノ為タルビン及発電機ノ一部ニ故障ヲ生ジ戦闘航海ニ支障アリ』</ref>。比叡にも複数の爆弾と魚雷が命中し舵復旧の見通しも立たず、曳航するはずだった霧島も退避したため、司令部は救援の見込みがなくなった比叡の処分を命じた。雪風は比叡乗組員の救助を行い<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.36『13日1300雪風司令官→各艦/総短艇ヲ卸シ比叡人員ヲ救助セヨ』</ref>、阿部司令官は第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)に魚雷2本の用意を命じ、比叡の雷撃処分を命じた<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.36『13日1307雪風司令官→各艦/比叡処分ノ為各艦魚雷2本ノ用意シヲケ』- p.40『13日1550第11S司令官→27dg/27駆逐隊司令ハ比叡ニ対シ雷撃処分セヨ』</ref>。だが、山本連合艦隊司令長官より処分中止の命令があり<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.40『13日1631『13日1638GF長官→各隊/GF機密第131442番電(14時42分発信) 比叡処分スルナ』</ref>、第27駆逐隊の司令駆逐艦時雨に中止命令が出た<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.40『1631第11S司令官→時雨/処分待テ』</ref>。一方で、第十一戦隊司令部と連合艦隊司令部との間では、比叡の処分を巡ってやりとりがあった<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.42『13日第11司令官→GF長官/比叡ハ被雷ノ為四軸使用且浸水並ニ傾斜増大シツツアリ揚錨機室浸水使用不能状況ニ鑑ミ駆逐艦ニ依ル曳航ハ不可能ト認メタルルニ付処分致度重ネテ配慮ヲ乞フ』</ref>。その後、ヘンダーソン飛行場砲撃を企図する第七戦隊(指揮官[[西村祥治]]少将/[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]])との同士討ちをさけるため一旦避退を決定<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.18『当日8F兵力ニ依ル「ガ」島攻撃アリテ2200頃現場附近ヲ南下スルノ通報ニ接シアリタルヲ以テ彼我混淆ヲ避クル為一時「サボ」島ノ西方視界外ニ行動中…』</ref>。雪風以下各艦は比叡を残して現場海域を離れた。深夜、連合艦隊より比叡の状況を確認せよとの命令がありサボ島海域に戻り30分ほど捜索するが、比叡を発見できず、第十一戦隊は「比叡は沈没した」と判断してソロモン海を離れた<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.18『GF長官ヨリ比叡ノ人員収容ノ上離脱スベキ旨電令アリ依テ人員収容後ノ比叡ノ状況確認ノ為之ニ近接2300現場着約30分間ニ亘リ附近ヲ捜索セルモ遂ニ比叡ヲ発見セズ(中略)同艦ハ沈没セルモノト推定シ2330捜索ヲ止メ前進部隊ニ合同スル如ク行動ス』</ref>。雪風戦闘概報によれば、比叡護衛中における被害は以下の通り<ref name="ua">[[#11戦隊詳報(5)]]pp.46-47『11月14日第16dg→各隊・各司令官/16dg機密第140800番電』</ref>。
{{Quotation|一.12日夜戦後13日0400より1700迄(照月.二十七駆0600合同)比叡の護衛に従事す。其の間約1時間間隔にて十数回に亘り敵雷爆機戦闘機水偵及B17延機数100機以上の執拗なる雷爆撃銃撃を受けたるも(不明)協同戦果撃墜せし敵機3機以上。<br>二.爆撃至近弾並に機銃掃射に依り、探照燈・2番砲塔左砲使用不能、一号発電機被弾の為不具合、船体数ヶ所に小破口小浸水、其の他全力発揮に支障なし。重傷兵1、軽傷准士官以上1・兵3。<br>三.消耗弾数(残弾)主砲374(526)、機銃1150(5098)。収容せる比叡の乗員准士官以上(司令官艦長を含む)29名・下士官兵283名、准士官1・下士官1・兵1収容後絶命。}}
なお、[[吉田俊雄]](元軍令部参謀で、第3次ソロモン海戦には参加していない)などの一部著作では、比叡は雪風により雷撃処分されたとしている。だが[[戦闘詳報]]や雪風乗員の証言には魚雷発射の記録はなく、雷撃処分を命じられたのは前述のとおり第27駆逐隊の時雨、白露、夕暮であり雪風には下されていない<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.17『1600人員ノ収容ヲ終リ将ニ27dgヲシテ処分セシメントスルトキ…』</ref>。雪風では比叡護衛中の空襲によって白戸水雷長が頭部を負傷し重体であり、雷撃処分指令を受理できる状況ではなかった<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]p.178、[[#雪風手記]]p.327-328</ref>(白戸大尉は開戦以来雪風の水雷長を務めたが、この負傷により退艦。頭部弾片の摘出はできず、戦後まもなく逝去<ref>[[#雪風手記]]334頁</ref>)。
比叡艦長の[[西田正雄]]大佐は、第三次ソロモン海戦から一週間後に作成した[[戦闘詳報]]の草稿の中で「雪風に収容された後、GF司令部から「比叡の処分待て」の命令があり、それならば比叡に帰還すべきと申し出たが許されず、遂に比叡をそのままにして海域を離れた」と記し、比叡の雷撃処分が実行されていないと証言している<ref>[[#悲劇の艦長]]p.188-194</ref>。当時の雪風水雷員兼暗号担当は連合艦隊からの命令により比叡処分は中止となったと述べている<ref>[[#よもやま物語]]163頁</ref>他、この時比叡を護衛していた照月主計長も駆逐艦による雷撃処分は中止されたと証言している<ref>[[#海軍主計大尉]]103頁</ref>。比叡の雷撃処分は「比叡の[[キングストン弁]]は開放されていなかった」と言う吉田俊雄の疑念に基づく考察だったが<ref>[[#吉田比叡新装]]p.305</ref>、比叡発令所所長の柚木哲や<ref>[[#豊田撃沈]]p.179-180</ref>、比叡砲塔長の安田喜一郎が自沈のため比叡の注水弁が開かれたと言う証言を残している<ref>[https://yamato-museum.com/note/vol-47%e3%80%80%e6%af%94%e5%8f%a1%e7%99%ba%e8%a6%8b/ 大和ミュージアム 館長ノートvol.47 比叡発見]</ref>。吉田俊雄も後年の著書で「比叡はキングストン弁開放による自沈」と記し「雪風が雷撃処分を行った」とする自らの見解を翻している<ref>[[#日本帝国海軍はなぜ敗れたか]]pp.292</ref>。
比叡沈没後、雪風以下損傷艦は第三次ソロモン海戦第二夜戦に参加できずトラック泊地へ向かった。18日にトラック泊地帰投後、十一戦隊司令部は雪風から戦艦[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]に移乗して同隊解隊手続きに入った<ref>[[#11戦隊詳報(4)]]p.45『18日0700トラック帰着 陸奥ニ移乗 自18日至30日トラックニ在リテ解隊準備事務ニ従事』</ref>。雪風は工作艦明石から修理を受けた<ref>[[#海軍艦隊勤務]]196頁、[[#一海軍士官]]88頁</ref>。12月9-10日、雪風は初雪と共に空母[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]を護衛して内地に到着した<ref name="v">[[#S1712佐伯防備隊日誌(1)]]p.39『12月9日1820呉防戦司令官(略)一.飛鷹雪風初雪10日1000沖ノ島着北上ノ予定/二.10日0800迄ニ第二哨戒配備Aトナセ』</ref>。天津風も12月20日に呉軍港に帰還した。
1943年(昭和18年)1月10日、第16駆逐隊の初風がガダルカナル島輸送作戦でアメリカ軍魚雷艇と交戦し大破、長期修理となった。1月19日、雪風は[[大和型戦艦]]2番艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]、第一航空戦隊の空母瑞鶴、瑞鳳、軽巡洋艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]、第十駆逐隊の[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]]と共に内地発<ref name="w">[[#第50航空戦隊日誌昭和18年1月〜(令達)]]p.4</ref><ref name="wa">[[#S1801二水戦日誌(1)]]p.20『18日 一.神通「トラック」ニ向ケ呉発(回航中3F長官ノ指揮ヲ受ケ瑞鶴瑞鳳武蔵10dg雪風ト同行)]</ref>、[[1月23日]]トラックに到着した<ref>[[#海軍艦隊勤務]]196頁、[[#一海軍士官]]89頁</ref>。雪風は第十駆逐隊と共に南東方面部隊に編入され、さらに外洋部隊(第八艦隊)に編入となり、ラバウルへ向かう<ref>[[#一海軍士官]]90頁</ref>。この航海の途中、米潜水艦に撃沈された海軍徴傭船[[平洋丸]]の短火艇が漂流している所を発見し、艇に乗っていた生存者50名を救助した<ref>[[#よもやま物語]]166-167頁</ref>。救助した中に南方慰問団の団員が含まれており、この年の[[2月20日]]、この慰問団がトラック泊地入港中の[[大和 (戦艦)|大和]]艦内で演芸会を開催した際、雪風乗員は招待を受けている<ref>[[#よもやま物語]]178-179頁</ref>。
=== 第十六駆逐隊 ===
[[1943年]](昭和18年)[[2月1日]]より3回におよぶ[[ガダルカナル島]]撤収作戦([[ケ号作戦]])に参加、大成功を収めた<ref name="x">[[#海軍艦隊勤務]]197頁</ref>。第一次作戦では巻雲が沈没、[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]が大破した。第二次作戦では舞風が大破し、江風と黒潮が損傷した<ref name="y">[[#雪風ハ沈マズ新装]]198頁</ref>。第三次作戦では磯風が大破した<ref name="z">[[#雪風ハ沈マズ新装]]201頁</ref>。駆逐艦が次々と損傷する激しい任務を雪風は無傷で完遂した<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]206頁</ref>。
最終の第三次作戦を前に、この作戦を直接指揮した第八艦隊司令部は駆逐艦の出撃を渋っている<ref>[[#ガタルカナル三巻]]676-678頁</ref>。二回の撤収で既にアメリカ軍に作戦が見破られたとの懸念に加え、連合艦隊は駆逐艦の喪失激減に悩んでおり、第八艦隊司令部は、第三次作戦は方式を変更し、駆逐艦ではなく[[大発動艇|大発]]などの舟艇により島伝いに脱出させようとの意見を出した。これに対し陸軍側は、田沼参謀次長、第十七軍の宮崎参謀長らが海軍の作戦会議に出席し、舟艇による脱出は成功の可能性が下がるとして駆逐艦の出撃を要請<ref>[[#連合艦隊栄光]]247-248頁</ref>。議論が平行線を辿った時、雪風の菅間艦長と浜風の上井艦長から「予定通り駆逐艦でやるべき」との発言があり、臨席していた駆逐艦長全員もこれに賛同し、第三次作戦も駆逐艦隊で行う事が決定した<ref>[[#雪風手記]]330頁、[[#連合艦隊栄光]]248-249頁</ref>。南東方面艦隊司令部は参加する駆逐艦の四分の一(五隻)沈没、四分の一損傷の合計十隻の損害を予想したが、はるかに少ない損害でガダルカナル島撤収作戦は予想以上の戦果をあげた<ref name="za">[[#雪風ハ沈マズ新装]]208頁</ref>。
2月末、雪風は第16駆逐隊の僚艦時津風と共に第三水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(旗艦白雪に乗艦)の指揮下に入り、第11駆逐隊の白雪、第8駆逐隊の朝潮、荒潮、第9駆逐隊の朝雲、第19駆逐隊の浦波、敷波と共に輸送船団8隻を護衛して[[ラエ]]へ向かった。3月2-3日、アメリカ軍・オーストラリア連合軍機の空襲([[反跳爆撃]])によって輸送船団が全滅し、3000人が戦死する[[ビスマルク海海戦]]が発生した<ref name="aa">[[#S1709八艦隊日誌(6)]]p.30『3sd司令官、11dg(白雪)、8dg(荒潮、朝潮)、9dg(朝雲)、16dg(時津風、雪風)、19dg(浦波、敷波)、神愛、帝洋、愛洋、旭盛、大井川、太明、「海トラ」1、野島』</ref>。3月2日の空襲の際、旭盛丸が沈没すると、雪風、朝雲は旭盛丸に乗っていた陸軍第58師団兵918名を救助し、一旦船団を離れ目的地のラエに急行する。雪風に乗せていた第51師団師団長以下司令部30名と共に無事揚陸させた<ref>[[#S1709八艦隊日誌(6)]]p.30、[[#雪風ハ沈マズ新装]]212頁</ref>。雪風と朝雲は翌3日早朝、輸送船団に復帰するが、この日も連合軍爆撃隊の空襲を受け輸送船団は全滅、護衛の駆逐艦も半数(8隻中4隻)が撃沈された<ref>[[#S1709八艦隊日誌(6)]]p.31『被害 輸送船7(含野島)、朝霧、時津風、白雪、荒潮』</ref>。雪風は時津風乗員を収容した後(時津風は3月4日、日本軍航空隊およびアメリカ軍航空隊の爆撃で沈没)、朝雲、敷波、浦波と共に戦場を一度は離脱。浦波と救援に駆け付けた初雪に救助した兵を移乗させた後、深夜、朝雲、敷波と共に再び戦闘海域に戻ると、漂流中の荒潮を発見し生存者100名を救助した<ref>[[#S1709八艦隊日誌(6)]]p.31、[[#雪風ハ沈マズ新装]]212-220頁</ref>。
[[3月4日]]、雪風はカビエン寄港の後5日ラバウルに到着する。救助した兵を病院船まで送ると、6日朝に工作艦山彦丸に横付けして艦の整備を始めたが[[3月5日]]の [[ビラ・スタンモーア夜戦]]で沈没した2隻の駆逐艦([[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]])に代わりコロンバンカラ方面への輸送任務に出撃するよう命令を受けたため同日午後整備を中止<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]221-223頁</ref>。3月7日早朝、雪風はラバウルを出発し、[[3月8日]]、朝雲、[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]]、浦波、敷波と共にコロンバンガラ島輸送作戦を実施する<ref name="ab">[[#S1709八艦隊日誌(6)]]p.28『9dg(朝雲)、16dg(雪風)、長月|3-8|(長月30屯其ノ他50屯)ヲ「コロンバンガラ」ニ揚陸ス』-『九駆(朝雲)一六駆(雪風)長月|3-13|「コロンバンガラ」輸送ヲ実施ス(略)』</ref><ref name="叢書ガ島撤収後77">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]77-78頁『その他の三月中の中部ソロモン方面輸送』</ref>。13日、今度は朝雲、長月と3隻でコロンバンガラ島輸送に従事する<ref name="叢書ガ島撤収後77"/>。この時、3月5日のビラ・スタンモーア夜戦で撃沈された村雨と峯雲の生存者(第2駆逐隊司令と[[種子島洋二]]村雨艦長含む)を収容し、ショートランド泊地へ送り届けた。その後、約2か月間ソロモン海域で輸送任務に従事した。
この頃、第16駆逐隊で無事に行動していたのは雪風だけで、天津風は修理の後に南東方面部隊に編入、初風は7月まで修理を行っていた。4月2日から3日にかけて雪風は天霧、望月と共に[[サンタイサベル島]]レカタ基地への輸送任務に従事。3月29日の天霧らの輸送分と併せて兵員300名、弾薬、糧食など250トンを同基地へ運んだ<ref name="ac">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]132頁『中部ソロモン方面増援輸送』、[[#雪風ハ沈マズ新装]]226頁</ref>。同3日、レカタを出発するとブインで第38号哨戒艇と合流後、亜豊丸、宝運丸、厚丸を護衛してラバウルへ向かった。5日ラバウル着<ref name="ad">[[#よもやま物語]]188-189頁</ref>。10日には雪風、五月雨、夕雲、秋雲によるニューギニア島フィンシュハーフェンの輸送任務が実行される。雪風と五月雨はニューブリテン島南側航路でフィンシュハーフェンを目指したが、途中で偵察隊に発見されたためラバウルへ帰投。同島北側航路でフィンシュハーフェンへ向かった夕雲、秋雲はニューブリテン島ツルブへ目的地を変更した<ref name="af">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]133-135頁『中部ソロモン方面増援輸送』、[[#よもやま物語]]189-190頁</ref>。12日、雪風と五月雨はニューブリテン島北側を通って再びフィンシュハーフェンへ向かったがツルブへ目的地を変更し、13日に兵員、物資を揚陸した<ref name="ag">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]133頁『中部ソロモン方面増援輸送』、[[#よもやま物語]]190-191頁</ref>。18日、水上機母艦神川丸をトラックまで護衛。21日にトラック到着<ref name="ah">[[#よもやま物語]]191頁</ref>。4月27日、第16駆逐隊司令が荘司大佐から島居大佐に交代となり、雪風に着任した<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]229頁</ref>。
1943年(昭和18年)5月、[[アリューシャン列島]][[アッツ島]]にアメリカ軍が上陸して[[アリューシャン方面の戦い]]が不利になったため、トラック泊地の連合艦隊主力艦艇は順次内地へ帰投する。
5月3日、雪風は第十戦隊の[[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]と共に第一航空戦隊の瑞鶴と瑞鳳を護衛してトラック泊地を出発<ref name="ai">[[#高松宮日記6巻]]223頁『○第三艦隊参謀長(一-一九三四)第一航空戦隊(翔鶴欠)、阿賀野、夕雲、秋雲、雪風、五-八頃各所属軍港着。翔鶴十八日、其他約二週間ノ予定ニテ整備ニ従事セシメラル』</ref>。5月8日に呉に到着した<ref>[[#S1805佐伯防備隊日誌(1)]]p.34『五月六日一三一七呉防戰司令官|五月六日一三三五 伯空司令 呉鎮長官 瑞鶴瑞鳳阿賀野雪風|電令作第一六五號 一.瑞鶴瑞鳳阿賀野雪風五月八日〇六〇〇沖ノ島入泊針路三二五度速力二〇節(以下略)』</ref>。
5月11日、[[大和 (戦艦)|大和]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]、[[雲鷹]]、[[沖鷹]]らの護衛のため大分沖に移動の後、12日、大和、榛名を護衛して呉に入港(雲鷹、沖鷹は長波らに護衛され横須賀に向かった)。ここで乗員に休暇が与えられる予定だったが、アリューシャン方面の戦局が予想以上に悪化したため、雪風にも第一航空戦隊護衛として出撃命令が下る<ref name="aj">[[#よもやま物語]]193頁</ref>。5月23日までに木更津沖に向かい、北方作戦出撃の準備を進めるが、29日にアッツ島陥落の報を受け出撃は中止<ref>[[#よもやま物語]]194頁</ref>。横須賀へ回航の後、[[6月1日]]に改装のため呉に入港した<ref name="雪風沈マズ新装230">[[#雪風ハ沈マズ新装]]230頁</ref>。呉での改装では25mm機銃の増設とともに、当時の最新兵器であった[[電波探知機|逆探]]が装備されている。
=== 昭和十八年中盤以降の行動 ===
[[ファイル:Yukikaze Rabaul.jpg|thumb|alt=Imperial thumb|300px|right|[[1943年]](昭和18年)7月中旬、ラバウル湾内にて給油艦[[鳴戸 (給油艦)|鳴戸]]から撮影された雪風。後方の2隻は同型の陽炎型駆逐艦(谷風、浜風)<ref>[[#真実の艦艇史]]90-91頁</ref>。]]
[[6月15日]]、前進部隊に編入された<ref>[[#S1805四水戦日誌(2)]]p.33『12日GF電令作第590号/一.6月15日附、3S7S(最上欠)16dg(雪風)浜風、谷風、時雨ヲAdBニ編入ス 二.右各隊艦及涼風、新月ハ6月16日以降成ルベク速ニ横須賀出撃 横鎮二特、第五・第二八防空隊ノ輸送ヲ実施スベシ』</ref>。[[6月16日]]、雪風は第三戦隊司令官[[栗田健男]]中将の指揮下、第三戦隊([[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]])、第七戦隊の[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、空母[[龍鳳 (空母)|龍鳳]]、[[大鷹 (空母)|大鷹]]、[[冲鷹 (空母)|冲鷹]]、軽巡洋艦五十鈴、第7駆逐隊の[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]、[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]、第27駆逐隊の時雨、夕暮、有明、第17駆逐隊の浜風、谷風、秋月型駆逐艦新月、夕雲型駆逐艦清波らと共に16日に横須賀を出港、南方へ進出した<ref name="ak">[[#S1805四水戦日誌(2)]]p.9『16日、27dg(白露欠)ハGF電令作第593号ニ依リ3S(指揮官)ノ指揮下ノ下ニ3S、7S(最上欠)、2sf(龍鳳)、五十鈴、雲鷹、冲鷹、7dg、16dg(雪風)、浜風、谷風、涼風、清波、新月等ト共ニ横須賀初、21日「トラック」着』</ref><ref>[[#S1704七戦隊日誌(7)]]p.5『(五)六月十五日前進部隊ニ編入セラレ六月十六日第三戰隊司令官指揮ノ下ニ第三戰隊第七戰隊(最上欠)第二航空戰隊(龍鳳)五十鈴雲鷹沖鷹第七駆逐隊第十六駆逐隊(雪風)第二十七駆逐隊(白露欠)浜風谷風涼風新月清波ト横須賀發二十一日「トラック」着』</ref><ref name="aka">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]341-342頁『飛鷹の損傷と第二航空戦隊等のトラック進出』</ref>。6月21日に到着後、雪風、浜風は第四水雷戦隊(旗艦長良)の指揮下に入り<ref>[[#S1805四水戦日誌(2)]]p.11『21日/16dg(雪風)浜風 4sdノ指揮下ニ入ル』</ref>、四水戦司令官の指揮下で[[ナウル|ナウル島]]への輸送任務を命じられる<ref name="al">[[#S1805四水戦日誌(2)]]pp.6-7『22日0405第二次輸送隊(4sd長良)16dg(雪風)』</ref><ref name="叢書(62)海軍369">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]369-370頁『横二特のナウル進出』</ref>。第一次輸送隊(浜風、谷風、第十四戦隊の那珂と五十鈴)は22日にトラックを発ち、25日ナウル島に到着。浜風のみ同地に残った<ref name="叢書(62)海軍369"/>。雪風は長良と共に第二次輸送隊として23日にトラックを出撃<ref>[[#S1805四水戦日誌(2)]]p.89</ref>。26日4時半頃にナウル島へ到着、輸送人員と物件を揚陸した。同日8時46分、雪風、長良は浜風と合流してナウル島を出発、トラックへの帰途に就く。同隊は10時20分頃に敵の大艇を発見するが、何事もなく遠ざかった<ref>[[#S1805四水戦日誌(2)]]p.81『一.麾下艦船部隊ノ行動』</ref><ref>[[#S1805四水戦日誌(2)]]p.90</ref>。27日、トラックへ向かう長良、雪風、浜風は、ナウルへ向かう時雨、駆潜艇28号、秋葉山丸とすれ違った<ref>[[#S1805四水戦日誌(2)]]p.90『一.0500長良雪風浜風ト時雨、秋葉山丸ch28右反航ニテ航過ス』</ref>。トラックに戻ると、ラバウルへ向かう重巡洋艦鳥海の護衛任務を命じられる<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]231頁</ref>。6月30日、雪風は第四水雷戦隊の指揮下を離れて外南洋部隊に属し<ref>[[#S1805四水戦日誌(2)]]p.11『30日/16dg(雪風)AdBヨリ除カレNTBに編入 4sdノ指揮ヲ離ル』</ref>、鳥海、谷風、雪風、涼風、浜風、江風(故障で引き返す)はラバウルへ向かった<ref name="am">[[#S1805四水戦日誌(2)]]p.76『30日1140/一.鳥海、16dg(雪風)24dg(涼風、江風)谷風ハ鳥海艦長之ヲ指揮シ急速「トラック」出撃「ラボール」ニ進出スベシ』</ref><ref name="ama">[[#雪風ハ沈マズ新装]]232頁</ref>。その後、ブインとラバウルを往復した。[[7月5日]]、浜風、谷風護衛の元にブインからラバウルへ回航中の給油艦[[鳴戸 (給油艦)|鳴戸]]を迎えるため、早朝2時に出港。同日正午頃、鳴戸、浜風、谷風と共にラバウルに帰投すると、直ぐに第十一戦隊航空司令部の人員150名と物件、大発一隻を輸送する新たな任務が命じられ、同日夕刻、鳥海、[[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]]と共にラバウルを出港。翌[[7月6日]]の正午頃、ブインに入泊し人員と物件を揚陸した<ref name="amb">[[#零戦虎鉄]]p.262</ref>。
7月5日、[[クラ湾夜戦]]で増援部隊指揮官[[秋山輝男]]第三水雷戦隊司令官が新月 (第三水雷戦隊旗艦)沈没時に戦死し、第三水雷戦隊司令部も全滅する。新たに鳥海艦長[[有賀幸作]]大佐が増援部隊指揮官に任命され、雪風は鳥海の代艦として、[[7月6日]]から[[7月9日|9日]]まで、わずか3日間だけであったが[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]][[旗艦]]を務めている(八艦隊長官[[鮫島具重]]中将の所在はブインの第一根拠地隊司令部)<ref>[[#高松宮日記6巻]]436頁『「雪風」ニ第八艦隊司令長官旗ヲ掲ゲ鳥海ハ増援部隊ニ入レ、第一根拠地隊司令部デ執務ス』</ref><ref>[[#雪風手記]]49頁</ref>。後任の第三水雷戦隊司令官[[伊集院松治]]少将(前職、戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]艦長)は7月7日附で任命され<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092100|昭和18年7月7日(発令7月7日付)海軍辞令公報(部内限)第1167号 p.4}}</ref>、7月10日に旗艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]に着任した。第三水雷戦隊の準備が整うまでの間、[[連合艦隊]]は[[第二水雷戦隊]](司令官[[伊崎俊二]]少将、旗艦神通)を増援部隊指揮官に任命し、南東方面部隊への作戦参加を命じる。7月9日、第八艦隊長官鮫島中将は鳥海に将旗を掲げ、鳥海、川内、警戒隊(雪風、夕暮、谷風、浜風)、輸送隊(皐月、三日月、松風、夕凪)から編成される水上部隊を率いてブーゲンビル島・ブインを出撃、コロンバンガラ島輸送には成功したが米艦隊と遭遇せず、水上戦闘は生起しなかった。警戒隊の雪風は夕暮と共にニュージョージア島ポリ岬のアメリカ軍に対して艦砲射撃を行った<ref name="an">[[#よもやま物語]]203頁</ref>。
{{main|コロンバンガラ島沖海戦}}
[[7月12日]]、雪風は増援部隊指揮官[[伊崎俊二]]第二水雷戦隊司令官(旗艦神通)指揮のもと、[[コロンバンガラ島]]守備隊への物資輸送に参加する<ref name="ao">[[#雪風ハ沈マズ新装]]246頁</ref>。[[7月12日]]夜、日本艦隊阻止のため出動したアメリカ・オーストラリア連合艦隊の第36.1任務群との間で[[コロンバンガラ島沖海戦]]が勃発した。雪風の逆探は夜間戦闘において有効に働いた<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]87頁、[[#雪風手記]]366頁</ref>。警戒隊は先頭から[[三日月 (睦月型駆逐艦)|三日月]]-神通-雪風-浜風-[[清波 (駆逐艦)|清波]]-夕暮という[[単縦陣]]を形成していた<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]246頁『コロンバンガラ沖夜戦合戦図』</ref>。戦闘序盤に敵軽巡1隻と旗艦神通が大破(後沈没)した後は、雪風が警戒隊の指揮を執り連合軍艦隊へ再攻撃をかける。雪風、浜風、清波、夕暮はスコールに紛れて敵駆逐艦隊の追跡を撒き、魚雷の次発装填を完了<ref>[[#撃沈戦記]]113頁</ref>。敵本隊への再突撃の際もスコールを利用して6.5千 - 7.4千mの距離まで接近(敵艦隊は接近する雪風らの存在はレーダーで確認できたが、敵味方の区別はつかなかった)、魚雷攻撃により連合国側の軽巡2隻大破、駆逐艦1隻撃沈・2隻大破の戦果を上げ、コロンバンガラ島への上陸作戦も成功した<ref name="aoa">[[#雪風ハ沈マズ新装]]258頁、[[#一海軍士官]]140-141頁、[[#雪風手記]]212頁、[[#新版武藏]]336頁</ref>。雪風は巡洋艦3隻撃沈を主張した<ref>[[#海軍艦隊勤務]]199頁、[[#一海軍士官]]142頁</ref>。戦争・兵器・船舶史家の[[木俣滋郎]]は神通を失った後の雪風らの反撃について「日本駆逐艦の攻撃は水際立っていた」と高く評価している<ref>[[#撃沈戦記]]115頁</ref>。この戦闘で中枢の巡洋艦が全て損傷した第36.1任務群は修理のため戦線に復帰する事ができず、以降のソロモン方面における作戦で戦力外となった。一方の日本海軍は第四水雷戦隊(司令官[[高間完]]少将、旗艦長良)を解隊し、高間少将を第二水雷戦隊司令官に任命<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092200|昭和18年7月20日(発令7月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1174号 p.6}}</ref>。駆逐艦時雨以下四水戦戦力と二水戦残存部隊を合流させ、二水戦を再建することになった。
[[7月18日]]より、雪風は重巡洋艦熊野、鈴谷、鳥海、水雷戦隊(軽巡川内、浜風、清波、夕暮)と共に夜戦部隊指揮官[[西村祥治]]第七戦隊司令官に率いられラバウルを出港、翌19日に輸送部隊(三日月、水無月、松風)と合流し、これを護衛してコロンバンガラ島へ輸送に向かった<ref name="ap">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]248頁</ref>。[[7月20日]]、輸送隊と分離して敵艦隊を索敵中だった雪風らの水雷戦隊はアメリカ軍機の夜間爆撃を受け、艦隊の右舷後方にいた夕暮に魚雷が命中、艦体切断により轟沈、熊野が魚雷1本命中という被害を受けた<ref name="apa">[[#S1806二水戦日誌(1)]]p.31、p.61、[[#S1704七戦隊日誌(7)]]p.30-32、p.46</ref>。夕暮の生存者の救助に向かった清波も2時間後の通信を最後に消息を絶ち、総員戦死と認定された<ref>[[#S1704七戦隊日誌(7)]]p.31、p.35、p.46</ref>。豊田穣の著書に「回頭によって艦隊の右舷先頭が雪風から夕暮に入れ替わった」と書かれているが<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]264-265頁</ref>、第七戦隊戦時日誌によれば、空襲時の右舷先頭は清波で、夕暮は右舷後方で魚雷を受けており、雪風と夕暮の位置の入れ替わりはなく、当時の記録と豊田の著書には矛盾がある<ref>[[#S1704七戦隊日誌(7)]]p.46</ref>。
また豊田によれば、当時雪風の水雷員だった大西喬兵曹の日記の中に「夕暮が雪風の身代わりになったと噂する雪風乗員もいた」の記述があったとされる。豊田が著書で引用した大西兵曹の日記は以下の通り。
{{Quotation|七月二十日 晴<br />悪夢のような一夜は明けたが、敵機は執拗に接触をつづけてはなれない。味方戦闘機がこれに向かってゆく。やはり「夕暮」と「清波」は消息を絶ってしまった。<br />「『雪風』の身代わりになったんだ」どこからともなくそう言う声が聞こえる。昨夜、反転して右側と左側が入れ代わったので、そういう見方も出てくるのであろう。「雪風」の幸運もいつまでつづくことか。<br />残るは「雪風」と「浜風」の二隻になってしまったが、輸送隊の「三日月」「松風」「水無月」が合同して、傷ついた「熊野」等の護衛に当たる。<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]265-266頁</ref>}}
しかし大西兵曹は豊田の著書の15年前に日記を基にした回想記を出版しているが、大西兵曹の同日の日記は以下の通りで、大西兵曹が聞いた同僚の声は豊田の著書で書かれた内容と異なっており、身代わりになったと噂する雪風乗員に関する記述はない。
{{Quotation|七月二十日 晴。<br />悪夢のような夜が明けても、敵機はしつように接触をつづけ離れない。味方戦闘機が、これに向かって飛んでゆく。矢張り夕暮の姿は探せど見当たらない。<br />「'''清波もおらんじゃないか'''」誰かの声で皆探せど、視内には発見されない。その後爆撃され沈没したのだろうか。一同沈痛な顔になる。<br />残るは雪風と浜風のみである。まもなく、輸送隊の駆逐艦三隻と合同し、熊野を護衛する。<ref>[[#零戦虎鉄]]p.270</ref>}}
豊田の著書(『雪風ハ沈マズ』、1983年1月初出)と同じ年にも大西兵曹は回想記を出版しているが(『艦隊ぐらしよもやま物語』1983年4月初出)、同著の昭和18年7月20日の記述でも大西兵曹が聞いた同僚の声は「清波もおらんじゃないかー」であり、15年前と変わっていない<ref>[[#よもやま物語]]211-213頁</ref>。
大西兵曹は戦後に雪風乗員らが編集した著書においても「空襲の直前に艦隊が一斉回頭し、艦隊の左右の列が入れ替わった事で雪風が命拾いをした」とする説<ref>[[#連合艦隊栄光]]264-266頁</ref>に対し、被弾沈没せずに済んだのは強運だったが、この夜は明け方まで雪風や味方艦隊は敵数十機による激しい空襲を受けており、雪風が難を逃れたのは一斉回頭のお陰であったかは判らないと述べている<ref>[[#雪風手記]]340-341頁</ref>。
[[7月23日]]、雪風、三日月、浜風はコロンバンガラ島への輸送を実施。初めてベララベラ島とガノンガ島間のウィルソン海峡を通過し、アメリカ軍魚雷艇12隻を撃退して揚陸に成功した<ref name="叢書ガ島撤収後249">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]254頁『外南洋部隊の作戦』</ref>。
[[7月25日]]、或いは[[7月26日]]正午、雪風は浜風と共に20日の夜間空襲で損傷した[[最上型重巡洋艦|重巡洋艦]]熊野と給油艦[[風早 (給油艦)|風早]]を護衛する任務を受けてラバウルを出発。[[7月27日]]の午前1時頃、雪風の見張り員が浮上航行中の米潜水艦{{Refnest|group="注釈"|米側資料によれば米潜水艦[[スキャンプ (潜水艦)|スキャンプ]]<ref>[[#SS-277, USS SCAMP]] p.58, pp.62-63</ref>。}}を発見。熊野と風早に変針するよう連絡すると、浜風と共に急速潜航した敵潜水艦に対し爆雷攻撃を行ったが、無線電話が積まれていなかった風早はそのまま進んでしまい、敵潜水艦の放った魚雷1本が命中。幸運にも浸水程度の微損で済んだため、4隻とも[[7月29日]]に目的地のトラックへ無事到着した。当時の雪風乗員は、無線機器も積まない特務艦艇を前線に送る司令部を「警戒に対する配慮が無さすぎる」と回想している<ref name="aq">[[#雪風ハ沈マズ新装]]269頁</ref><ref>[[#よもやま物語]]p.215-216</ref>。
[[8月28日]]、熊野の呉回航を護衛し、9月2日に内地へ帰還した<ref name="ar">[[#S1809佐伯防備隊日誌(2)]]pp.3-4『九月一日二一二九呉防戦司令官(宛略)電令作第三一九號中第一項ヲ左ノ通改ム 熊野雪風二日〇九〇〇北緯一三二度一五分東経一三二度八分(A点)ヲ経テ深島ニ向フ実速力十六節A点迄ノ航路二六七度』</ref><ref name="as">[[#雪風ハ沈マズ新装]]269頁、[[#一海軍士官]]145頁</ref>。呉で25mm機銃を増設すると、[[10月6日]]に空母龍鳳を護衛して出港し、19日シンガポールに到着した<ref name="at">[[#雪風手記]]49頁</ref>。往路だけで2回敵潜水艦と遭遇したが、雪風の迎撃により日本艦艇に被害は出ていない<ref>[[#連合艦隊栄光]]267-268頁</ref>。コバルト、ニッケル、ゴムなどの材料を搭載すると、[[10月25日]]に龍鳳を護衛してシンガポールを出発し、往路と同じ[[海南島]]の[[三亜市]]を経由して[[11月5日]]呉へ帰還した<ref name="au">[[#雪風手記]]216頁</ref>。当時、第27駆逐隊司令[[原為一]]大佐は[[11月2日]]深夜から3日未明のラバウル空襲の際、敵の空襲を予見し港外に仮泊して難を逃れた雪風の姿を見ている<ref>[[#帝国海軍の最後]]141頁</ref>が、雪風乗員の回想には、ラバウルで空襲を回避するため転錨したのは1943年3月の事との記述<ref>[[#よもやま物語]]183頁</ref>や、雪風を港外の入江に移して敵の空襲を避けたのは寺内艦長の時期だった(1943年12月に着任)との記述<ref>[[#雪風手記]]539頁</ref>があり、日時や場所については関係者間の記憶の錯綜が考えられる。
[[12月3日]]をもって、第16駆逐隊の雪風と天津風、[[千歳型航空母艦|軽空母]][[千歳 (空母)|千歳]]は[[海上護衛総司令部]](11月15日に設立)の指揮下に入った<ref>[[#50航空戦隊日誌昭和18年12月〜(令達)]]p.2および[[#S1812十戦隊日誌(1)]]p.16『12月3日2142GF長官 GF電令第845号/3F長官ハ千歳(艦攻六機を搭載)16dg(天津風、雪風)ヲシテ作戦ニ関シ海上護衛司令長官ノ指揮下ニ入ラシムベシ』</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(1)]]p.4『(イ)16dg(天津風雪風)三日附海上護衛總隊指揮官ノ作戰指揮下ニ入ラシメラル』</ref><ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]556頁『海上護衛総司令部の発足』</ref>。11月15日から12月14日(17日とも)、雪風、千歳、天津風は、靖国丸、[[伊良湖 (給糧艦)|伊良湖]]の輸送船2隻を護衛して日本-トラック泊地間を往復した<ref name="av">[[#不沈艦生涯(新版)]]91頁、[[#一海軍士官]]148頁</ref><ref name="ava">[[#50航空戦隊日誌昭和18年12月〜(令達)]]p.5『12月14日1115千歳艦長/千歳、靖国丸、伊良湖、16dg(雪風、天津風)横須賀着』</ref>。12月5日、トラック島付近で米潜水艦一隻撃沈の戦果を上げたと記録している<ref>[[#完伝列伝]]468頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]275頁</ref>。12月7日、トラック泊地で第16駆逐隊の司令駆逐艦が天津風より雪風に変更<ref name="aw">[[#S1812十戦隊日誌(1)]]p.45『七日(天候略)〇五〇〇天津風雪風千歳伊良湖ヲ護衛トラック発(略)〇五一〇司令駆逐艦ヲ天津風ヨリ雪風ニ変更ス』</ref>。14日、横須賀に到着した<ref>[[#S1812十戦隊日誌(1)]]p.47『一四(天候略)一一一五天津風雪風横須賀着(略)』</ref><ref name="S1812十戦隊(1)10">[[#S1812十戦隊日誌(1)]]p.10『(四)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。
12月17日、司令駆逐艦は天津風に復帰<ref>[[#S1812十戦隊日誌(1)]]p.31『一七 一三〇〇(司令)16dg|16dg機密第一七一三〇〇番電 司令駆逐艦ヲ天津風ニ復歸ス』</ref>。同日、呉に帰港<ref>[[#S1812十戦隊日誌(1)]]p.47『一七(天候略)(略)一七〇〇天津風雪風呉着|一三〇〇司令駆逐艦ヲ天津風ニ復歸ス』</ref><ref name="S1812十戦隊(1)10"/>。雪風艦では艦長が[[菅間良吉]]中佐から[[寺内正道]]少佐に交代となり<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]277頁</ref>、第16駆逐隊司令も島居大佐から[[吉川文二]]大佐に交代となった。この間、雪風では3度目の改装が行われた。2番主砲塔(艦尾側)を撤去して[[九六式二十五粍高角機銃]]3連装2基を設置するなど、[[九六式二十五粍高角機銃]](3連装、単装)がハリネズミのように増設され対空装備の強化が図られた<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]93頁</ref>。電探([[レーダー]])は前部マストに対水上用[[仮称二号電波探信儀二型|22号]]、後部マストに対空用[[三式一号電波探信儀三型|13号]]を装備した<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]276頁</ref>。
=== 昭和十九年初旬の行動 ===
1944年(昭和19年)1月4日、雪風は天津風、空母[[千歳 (空母)|千歳]]と共に[[海上護衛隊#第一海上護衛隊|第一海上護衛隊]]司令官の指揮下に入った<ref name="叢書(46)383">[[#叢書46海上護衛戦]]383-384頁『攻撃用空母をもってする護衛』</ref>。10-11日、第16駆逐隊の雪風、天津風は千歳と輸送船4隻を含むヒ三一船団(運航指揮官[[細谷資彦]]大佐)を護衛して北九州の門司を出発、シンガポールに向かった<ref name="叢書(46)383"/>。1月16日、雪風は浮上する米潜水艦を発見。すると天津風が米潜水艦の攻撃に向かい、雪風は船団護衛に戻った<ref>[[#一海軍士官]]149頁</ref>。直後、天津風が米潜水艦[[レッドフィン (潜水艦)|レッドフィン]]の雷撃で艦橋を含む艦前部を切断喪失して漂流、古川駆逐隊司令も戦死した<ref name="ax">[[#雪風ハ沈マズ新装]]283頁、[[#一海軍士官]]150頁</ref>。輸送船団はそれ以上の被害を受けることなく1月20日シンガポール到着。天津風は行方不明の後、1月23日に船体後部が漂流しているところを捜索機に発見され駆けつけた若竹型駆逐艦[[朝顔 (駆逐艦)|朝顔]]の曳航によりサイゴンに回航された<ref name="叢書(46)383"/>。1月25日、ヒ三二船団の輸送船6隻(御室山丸、[[建川丸]]、北陸丸、玄洋丸、[[黒潮丸 (タンカー)|黒潮丸]]、鮫島丸)を護衛してシンガポールを出撃、途中でマニラから来た海防艦[[三宅 (海防艦)|三宅]](天津風の代艦)が船団に合流する<ref name="ay">[[#三宅戦記]]39頁</ref>。2月1日、船団は米潜水艦[[ホエール (潜水艦)|ホエール]]の雷撃で撃沈された輸送船たるしま丸の生存者多数(救難用ハシケ乗船、漂流13日目)を発見、三宅は54名、雪風は57名を救助した<ref name="#2">[[#三宅戦記]]40頁</ref>。2月3日(4日とも)千歳は分離して佐世保入港、その他は門司に到着した<ref name="叢書(46)383"/><ref name="三宅戦記40">[[#三宅戦記]]40頁</ref>。雪風は三宅からたるしま丸の生存者を受け入れた<ref name="三宅戦記40"/>。2月5日、雪風と千歳は原隊に復帰している<ref name="叢書(46)383"/>。
[[2月13日]]、雪風は空母千歳によるサイパン島航空機輸送任務を護衛するため横須賀を出発。鹿児島で千歳、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]と合流後、26日にサイパン到着。続いて29日(1944年は閏年だった)、雪風と初霜は千歳を護衛して日本へ向けサイパンを発つ<ref name="az">[[#S1812十戦隊日誌(3)]]p24</ref>が、[[3月1日]]、安藝丸船団(安藝丸、[[S型貨物船|崎戸丸]]、東山丸。護衛駆逐艦朝霜、岸波、沖波)が米潜水艦の雷撃による被害を受けたとの連絡を受け千歳の護衛任務を中断。千歳と分離後、安藝丸船団の救助へ向かう<ref name="ba">[[#S1812十戦隊日誌(4)]]p18</ref>。4日、東山丸をグアムまで護衛すると、更に陸軍兵団を横須賀まで運ぶよう命令が追加される<ref name="bb">[[#S1812十戦隊日誌(4)]]p19</ref>。初霜、東山丸と共にサイパンへ向かい千歳と合流した後、陸軍兵団を乗せた雪風は千歳、東山丸を護衛して7日サイパンを出発、11日に横須賀に到着した<ref name="bc">[[#S1812十戦隊日誌(4)]]p37-39</ref>。
[[3月18日]]、横須賀から徳山沖へ回航後、19日に空母瑞鳳と合流、[[3月21日]]、神戸沖で駆逐艦山雲と合流し横須賀まで瑞鳳を護衛した<ref name="bd">[[#S1812十戦隊日誌(4)]]p41-42、[[#S1812第4駆日誌(3)]]pp.7-8『3月21日/春季皇靈祭に際し遥拝式施行 半舷湊川神社参拝 山雲雪風横須賀迄瑞鳳護衛』</ref>。横須賀到着後に館山へ移動した後<ref>[[#S1812第4駆日誌(3)]]pp.33『3月24日1150千歳艦長/本艦25日1500出港1830頃館山ニ仮泊ス。山雲雪風ハ便宜横須賀発 日没頃仮泊地ニ就ケ(錨地後送ス)』</ref>、今度は千歳を護衛して西日本へ向かった<ref name="be">[[#S1812第4駆日誌(3)]]pp.30-31『3月21日1632瑞鳳艦長/連合艦隊電令作第11号関連 山雲雪風ハ千歳内海回航時同艦艦長ノ指揮ヲ受ケ横須賀オリ紀伊水道迄之ガ警戒ニ任ズベシ。右任務終了後四日市<神戸に変更>ニ於テ燃料満載ン上龍鳳機密第161700番電ノ任務ニ応ズル如ク山雲ハ横須賀帰投、雪風ハ伊勢湾ニ於テ龍鳳ニ合同スベシ』</ref><ref name="bea">[[#S1812第4駆日誌(3)]]p.9『26日0245(山雲)館山発四日市に向フ/雪風ト共ニ千歳護衛/1740(山雲)千歳ノ護衛ヲ止メ四日市ニ向フ』</ref>。雪風は既に2隻の空母(瑞鳳、龍鳳)のサイパン・グアム輸送任務護衛艦に指定されており、[[伊良湖水道]]で龍鳳達と合流した<ref name="bf">[[#S1812第4駆日誌(3)]]p.35『3月27日1300雪風駆逐艦長→龍鳳艦長(瑞鳳-山雲-初霜)/本艦27日夕刻神戸初28日0700伊良湖水道着合同ノ予定』</ref>後、軽巡洋艦[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]、駆逐艦山雲、初霜と共に瑞鳳、龍鳳の護衛任務に就いた<ref name="bfa">[[#S1812第4駆日誌(3)]]p.10『能代、山雲、雪風、初霜にて瑞鳳、龍鳳をサイパン及グアムに護衛』</ref>。31日、輸送部隊から能代が分離してパラオへ向かい<ref>[[#S1812第4駆日誌(3)]]p.10『31日/能代解列パラオニ向フ』</ref>、[[4月1日]]には空母龍鳳と護衛の初霜が分離した<ref>[[#S1812第4駆日誌(4)]]p.3『4月1日/龍鳳 初霜解列 サイパンに向ふ』</ref>。4月2日、サイパンにて物資揚陸を行う<ref>[[#S1812第4駆日誌(4)]]p.11『4月1日0825四駆司令/(ロ)雪風ハ二日朝人員物件揚載「サイパン」ヘノ途上「ロタ」ニテ揚載ノ上三日ノ哨戒任務ニ就キ得ル如ク補給ヲ実施スベシ』</ref>。アメリカ軍機の空襲や大部隊接近の警報があったものの、各艦とも被害はなく、輸送任務は成功した。[[4月7日]]、呉に到着<ref name="bg">[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p52</ref>。入渠整備を行うが、新たな護衛任務のため工期を短縮して出渠<ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p42</ref>。4月21日、雪風は島風、早霜と共に戦艦大和、重巡洋艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]を護衛しリンガ泊地へ向かった。[[5月1日]]、リンガ泊地に到着<ref name="bh">[[#S1812第4駆日誌(4)]]p.19-21『4月19日 大和艦長→摩耶艦長 山雲早霜雪風島風駆逐艦長 豊後水道出撃時ノ直衛艦隊艦船番号直衛配備並ニ対潜掃蕩ニ関シ左ノ通リ定ム 一.艦船番号 島風(3) 雪風(4) 山雲(5) 早霜(6) (以下略)』-『4月22日1753大和艦長/明朝0400ニ到ラバ山雲ハ解列帰投セヨ』</ref><ref name="S1812十戦隊(6)10">[[#S1812十戦隊日誌(6)]]pp.10-11『(5)雪風 大和摩耶ノ警戒ニ任ジ一日「リンガ」着十日迄同方面ニ於テ訓練警戒待機ニ従事十一日「リンガ」発「タウイタウイ」ニ向ケ出撃前衛ノ警戒ニ任ズ十四日「タウイタウイ」泊地略掃ノ爲先行同日同地着掃海ヲ實施ス十六日第五戰隊ノ警戒ニ任ジツヽ「タラカン」ニ回航即日同地着燃料補給十八日「タラカン」発十九日「タウイタウイ」皈着…』</ref>。この頃、相次ぐ任務が重なった雪風の行動を連合艦隊司令部が把握できなくなり、新兵を送り込めなくなると言う珍事が発生している<ref>[[#雪風手記]]535-536頁</ref>。
=== 第十七駆逐隊 ===
開戦時4隻だった第16駆逐隊は、1944年(昭和19年)2月の段階で時津風と初風が沈没、天津風が大破修理中(予備艦指定)のため事実上雪風1隻となっていた。3月31日をもって同隊は解隊し、雪風は第十戦隊(旗艦[[阿賀野型軽巡洋艦|軽巡洋艦]][[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]])に所属する第17駆逐隊の5番艦に編入される<ref>[[#内令昭和19年3月(5)]]p.39『内令第五百十號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四駆逐隊ノ項中「野分、舞風、山雲」ヲ「野分、山雲、満潮」ニ改ム|第九駆逐隊ノ項ヲ削ル|第十六駆逐隊ノ項ヲ削ル|第十七駆逐隊ノ項中「濱風」ノ下ニ「、雪風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第十八駆逐隊/薄雲、霞、不知火|第二十二駆逐隊ノ項中「、文月」ヲ削ル|第二十四駆逐隊ノ項ヲ削ル』</ref>。第17駆逐隊は雪風と同じ[[陽炎型駆逐艦]]4隻([[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]])で編制され、[[真珠湾攻撃]]や[[ミッドウェー海戦]]を始め、常に最前線で活動している歴戦の駆逐艦戦隊だった<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]287頁</ref>。
第17駆逐隊は雪風の編入で一時期前例のない五隻編成の駆逐隊(通常は四隻で編成)となり、五番艦を示す艦船記号は定められていなかったため、雪風は便宜上五角の輪を煙突に記入した<ref>[[#雪風手記]]447頁</ref>。当時谷風に搭乗していた山田看護兵曹(谷風の沈没後は浜風に、更に後に雪風に異動)によれば、「三月二十日付で、第16駆逐隊の雪風が第17駆逐隊に編入され、過去に例のない五隻編成となった。艦マークも五番艦はどうなるのか、谷風乗組員の間では、『雪風は16駆で僚艦を全部食い尽くした』と、あまり歓迎されなかった」と、五隻編成に不満があった事が述べられている<ref>[[#雪風手記]]495頁</ref>{{Refnest|group="注釈"|この証言を「雪風が味方に死神と呼ばれた逸話」の根拠だと主張する意見が偶にあるが、出典である山田看護兵曹の手記には五隻編成に対する不満以外に雪風の編入を歓迎しなかった理由は記されていない<ref>[[#雪風手記]]495-503頁</ref>。}}。6月1日の時点で、第十戦隊(旗艦[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]])所属・第17駆逐隊は第一小隊(磯風/駆逐隊司令艦、浦風、谷風)と第二小隊(浜風、雪風)で編成されていた<ref>[[#S1906十戦隊日誌]]p.15</ref>。
同年5月、聯合艦隊主力は[[タウイタウイ]]泊地に進出、第17駆逐隊は同地で対潜哨戒任務にあたった<ref name="S1812十戦隊(6)10"/>。[[5月14日]]、寺内艦長が前年まで艦長職だった駆逐艦[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]が米潜水艦[[ボーンフィッシュ (SS-223)|ボーンフィッシュ]](''USS Bonefish, SS-223'')の雷撃で沈没、雪風は電の救助に向ったが電は既に沈没していた<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]103頁</ref>。5月16日、雪風と磯風は第五戦隊を護衛して[[タラカン島]]へ移動し、18日タウイタウイへ帰投<ref name="S1812十戦隊(6)9">[[#S1812十戦隊日誌(6)]]pp.9-10『(4)磯風(略)十六日五戰隊ノ警戒艦トシテ「タラカン」回航同地ニ於テ燃料補給ノ上十八日「タウイタウイ」皈投二十二日3sf警戒艦トシテ出動千歳雷撃ノ敵潜掃蕩ニ任ジ二十三日泊地ニ皈投二十五日ヨリ二十七日迄第一哨艦ノ任務ニ従事ス』</ref>。[[5月22日]]、第17駆逐隊の雪風、磯風、浦風は第三航空戦隊千歳の航空機訓練を護衛中<ref name="S1812十戦隊(6)9"/><ref name="S1812十戦隊(6)42">[[#S1812十戦隊日誌(6)]]pp.42-43『二二(天候略)〇一〇〇磯風雪風浦風泊地発(3sf警戒対潜掃蕩)/〇二三七朝雲泊地発(対潜掃蕩)/〇六〇七山雲泊地発二一〇〇着(対潜掃蕩)/二二一五雪風泊地着(入港時觸礁ス)』</ref>、僚艦と共に千歳を雷撃した(命中せず)敵潜水艦の掃討を実施する<ref>[[#S1812十戦隊日誌(6)]]p.32『二二 一六四五(長官)2F(宛略)一.山雲雪風32dg(浜波藤波)ハ便宜帰投セヨ/二.27dg(五月雨欠)浦風磯風朝雲ハ27dg司令指揮ノ下ニ千歳ヲ雷撃セル敵潜水艦ヲ引續キ掃蕩撃滅スベシ』</ref>。その帰路、タウイタウイ泊地湾口に入港する際、岩礁の位置を示す(機雷堰の端を示す<ref>[[#愛しの雪風]]100ページ</ref>)挂灯浮標が、出港した時は点滅していたが、強い潮流により流出していたため、雪風は触礁により推進器の先端(スクリュー)を破損<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]293-294頁</ref><ref>[[#証言田口]]81頁</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(6)]]pp.10-11『(5)雪風(略)二十二日3sfノ警戒艦トシテ出動中千歳雷撃ノ敵潜ヲ掃蕩後泊地皈投ノ際湾口ニテ触礁船体ノ一部ヲ損傷セリ爾後同方面ニアリテ修理並ニ訓練警戒待機ニ従事三十一日第三哨艦ノ配備ニ就ク』</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(6)]]p.33『二二雪風|二二 二一〇〇矢矧|我湾口ニテ觸礁セリ』</ref><ref name="S1812十戦隊(6)42"/>。最大発揮速力が28ノットに低下した<ref name="#3">[[#あ号作戦十戦隊詳報]]p.3</ref>。5月24日、第17駆逐隊司令駆逐艦は谷風から磯風に変更となる<ref>[[#S1812十戦隊日誌(6)]]p.34『二四(司令)17dg(宛略)一.司令駆逐艦ヲ磯風ニ変更セリ/二.當隊艦船番號ヲ左ノ通リ改ム 磯風浦風雪風浜風谷風』</ref>。雪風は[[大和型戦艦]]1番艦[[大和 (戦艦)|大和]]に横付けし、大和工作班の手で応急修理を行った<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]296頁、[[#証言田口]]82頁</ref>。ただし第十戦隊の記録によれば、雪風が横付したのは大和型2番艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]とある<ref>[[#S1812十戦隊日誌(6)]]p.43『二四(天候略)一一三五雪風泊地発一一五九武藏横附/一五四〇秋月一七一九若月一七三〇初月泊地着|司令駆逐艦谷風ヨリ磯風ニ変更17dg』</ref>。5月30日、武蔵(あるいは大和)から離れ<ref>[[#S1812十戦隊日誌(6)]]pp.43-44『二七(天候略)一二五七雪風武藏ヲ離シ確認運転/一七一四雪風武藏横附』-『三〇(天候略)雪風武藏ヲ離レ一四五〇泊地着』</ref>、翌日から泊地の哨戒任務に復帰する<ref name="bj">[[#S1812十戦隊日誌(6)]]p.44『三一(天候略)〇九四〇雪風泊地発一〇〇九哨区着』</ref>。だが全速力を出せない状態のため<ref name="#3"/>、翌月の[[マリアナ沖海戦]]には駆逐艦[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]等と共に第二補給部隊の護衛として参加した(浦風と秋月は6月17日に本隊復帰)<ref name="bk">[[#S1906第61駆詳報(3)]]pp.14, 18, 41</ref>。その後、タウイタウイ泊地ではアメリカ軍の潜水艦の活発な行動により次々に駆逐艦が撃沈されてしまった。第17駆逐隊では6月9日に磯風、島風、早霜と対潜哨戒任務中の谷風が米潜水艦ハーダーの雷撃で沈んだ。
{{main|マリアナ沖海戦}}
[[6月15日]]、雪風は浦風と共に第二補給部隊を護衛しギマラス泊地を出発、翌16日深夜、アメリカの潜水艦[[カヴァラ (潜水艦)|カヴァラ]](''USS Cavalla, SS-244'')の追跡を受けるが<ref name="bl">[[#玄洋丸]]p.39</ref>、雪風、浦風の迎撃によりこれを撤退させた<ref name="bm">[[#SS-244, USS CAVALLA]]pp.13-14</ref>。17日に卯月と合流(浦風、秋月が分離)、18日には第一補給部隊(響、[[速吸 (給油艦)|速吸]])等と合流した。
[[6月19日]]、日本海軍とアメリカ海軍空母機動部隊との間でマリアナ沖海戦が開始された。同日深夜、後方で待機中の雪風ら補給部隊に燃料補給のため前線へ進出せよとの命令が下る<ref>[[#玄洋丸]]p.39</ref>。20日朝、補給部隊は本隊、機動部隊と合流し、同日正午より洋上補給のため本隊の後尾に続航したが、13時20分から14時15分にかけて、敵の空襲警報を受けた本隊と機動部隊は補給を中止して撤退を開始。低速の油槽船(速吸、日栄丸、国洋丸、清洋丸、玄洋丸、あづさ丸)と、これを護衛する雪風ら駆逐艦隊(響、初霜、夕凪、栂、卯月)は置き去りとなった<ref name="bn">[[#玄洋丸]]p.40、p45-46、[[#日栄丸(3)]] p.8</ref>。玄洋丸の戦闘詳報によれば本隊から補給部隊に対し退避命令が出たのは15時45分になってからとある<ref name="#4">[[#玄洋丸]]p.40</ref>。
雪風ら補給部隊は油槽船の最大船速(15ノット)で本隊を追ったが、17時頃に水平線の向こうへ本隊の姿を見失う<ref name="#4"/>。17時40分頃、補給部隊は機動部隊から5万m後方に離された海域でアメリカ軍艦載機の空襲を受けた<ref>[[#玄洋丸]]p.39-43、[[#日栄丸(3)]] p.8-9、p.29-32、[[#瑞鳳生涯]]261-263頁</ref>。雪風は探照灯でアメリカ軍機搭乗員の目を眩ませる奇策を用い3機を撃墜<ref name="bna">[[#不沈艦生涯(新版)]]107-108頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]306-307頁</ref>。補給部隊からは速吸に爆弾が命中して火災発生(間もなく鎮火)、清洋丸に爆弾が命中して火災炎上、玄洋丸が至近弾により機関が停止する(軽傷2名のみ)被害が出た<ref name="br">[[#玄洋丸]]p.39-43、[[#日栄丸(3)]] p.8-9、p.29-32</ref>。清洋丸は航行不能の上、船体救助の見込みもなく、雪風により雷撃処分された<ref>[[#S1906第61駆詳報(3)]]p.54、[[#S1906十戦隊日誌]]p.11、[[#日栄丸(3)]] p.32</ref>。機関故障のみの玄洋丸は曳航が検討されたが、海域からの離脱が遅れ敵艦隊の追撃を受ける恐れがあったため、卯月により砲撃処分となった<ref>[[#S1906第61駆詳報(3)]]p.44、[[#玄洋丸]]p.53-54</ref>。雪風ら駆逐艦は残った6隻の油槽船を護衛して翌21日に本隊と合流。瑞鳳艦載機搭乗員の証言に「補給部隊のタンカーが今日も待っていてくれて誠に有難い」と記されている(但し時間の消費を恐れた艦隊司令部の判断により21日の味方への補給は断念された)<ref>[[#瑞鳳生涯]]267頁</ref>。マリアナ沖海戦は日本軍の完敗で終わり、雪風ら第二補給部隊は23日、ギマラスに回航した<ref>[[#日栄丸(3)]] p.33</ref>。
6月26日、給油艦部隊(速吸、日栄丸、梓丸)らの護衛中、ペピタン礁で座礁するが僚艦(響、夕凪、速吸)の支援により窮地を脱した<ref>[[#S1906十戦隊日誌]]p.11</ref>。但し、この座礁を記した第10戦隊の戦時日誌と第一補給部隊の戦闘詳報、給油船の戦時日誌、雪風乗員らの証言とでは、マリアナ沖海戦後の雪風と響、日栄丸、速吸らの航路や行動記録、補給船団と護衛駆逐艦隊の編成が合致しておらず(日栄丸、梓丸、国洋丸、興川丸、良榮丸の補給部隊は初霜、卯月、[[満珠 (海防艦)|満珠]]、22号海防艦が護衛し、速吸、旭邦丸の補給部隊の護衛は響、夕凪とあり、ふたつの船団は別々に行動しており、そのどちらにも雪風は含まれていない<ref>[[#日栄丸(4)]] p.7-8</ref>)、この座礁は5月22日の触礁の件が誤って記録されてしまった可能性がある。
[[6月28日]]、雪風は推進器修理のため単艦で日本に向け出発、[[7月3日]]、雪風は呉軍港に到着した<ref name="bs">[[#S1906十戦隊日誌]]p.11</ref>。この航海の途中、台湾沖で筏で漂流中の陸軍軍人や軍属約90名を発見し救助している<ref name="bsa">[[#雪風ハ沈マズ新装]]310-311頁、[[#雪風手記]]300頁、401-403頁、416-417頁</ref>。この時の漂流者の乗船が樽島丸(たるしま丸)であったとする記述が一部の乗員の回想録にあるが、たるしま丸は米潜水艦の攻撃により1月17日に沈没し、同じ頃、ヒ三二船団の護衛任務中だった雪風が海防艦三宅と共にたるしま丸の生存者を救助したとする記録もある<ref name="#2"/>。一方、第十戦隊の戦時日誌によればヒ三二船団の護衛に三宅は含まれていない<ref>[[#S1812十戦隊日誌(2)]]p31</ref>が、「(「たるしま丸」生存者の救助は)シンガポールからの復路(2月)だったと記憶していたが、マリアナ沖海戦後だったかもしれない」とする雪風乗員の証言もあり<ref>[[#雪風手記]]401-403頁</ref>、この時雪風が救った漂流者がどの船員であったか、或いは雪風がどの行動中にたるしま丸の生存者を救助したかについては諸説ある。
本土帰投後、雪風は[[因島]]ドッグでスクリューを交換して各部を修理すると再び対空兵装の強化を行い、25mm単装機銃10挺・13mm単装機銃4挺を増設した<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]313頁、[[#S1907十戦隊日誌(2)]]p.6</ref>。この頃、第二戦隊(司令官[[西村祥治]]少将)の[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]、[[山城 (戦艦)|山城]]が[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]](司令長官[[栗田健男]]中将)に編入されることになり、第17駆逐隊の雪風、磯風、浜風、浦風は扶桑、山城を護衛して9月22-23日に日本を出発<ref name="bt">[[#証言田口]]87頁、[[#S1907十戦隊日誌(3)]]pp.4-5</ref>、10月4日にリンガ泊地に到着した<ref name="bu">[[#不沈艦生涯(新版)]]111頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]316頁</ref>。10月20日以降の[[レイテ沖海戦]]における第17駆逐隊は第二艦隊第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)第2部隊(指揮官[[鈴木義尾]]少将、第三戦隊金剛、榛名、第七戦隊熊野、鈴谷、利根、筑摩、第十戦隊矢矧、浦風、雪風、浜風、磯風、野分、清霜)に所属し、第三戦隊(司令官[[鈴木義尾]]少将/兼第2部隊指揮官)の戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]の直衛として参加した<ref name="bv">[[#雪風ハ沈マズ新装]]321頁</ref>。雪風はターボ発電機の歯車が欠損し、出力の少ないディーゼル発電機のみで海戦に参加している<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]322頁、[[#雪風手記]]418-419頁</ref>。出撃前に、司令駆逐艦は磯風から浦風に変更されている。
{{main|レイテ沖海戦}}
10月22日、栗田艦隊はブルネイを出撃した。レイテ湾突入までに、米潜水艦の襲撃とアメリカ軍航空隊の猛攻により重巡2隻([[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]])沈没、重巡2隻([[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]])と駆逐艦2隻([[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]])戦場離脱、戦艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]航行不能《沈没》という被害を受けた。僚艦浜風は被弾して速力が低下し、清霜と共に武蔵の護衛として分離した<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]337頁</ref>。
10月25日、午前7時45分、栗田艦隊はアメリカ軍護衛空母部隊と遭遇する<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]346頁</ref>。この海戦で栗田艦隊将兵は、指揮官・参謀・将校・そして雪風問わず、全員が小型の米護衛空母を大型の正規空母と誤認した<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]368頁</ref>。日本戦艦部隊(大和、長門、金剛、榛名)が砲撃する最中、雪風ら第十戦隊はアメリカ艦隊に突撃した。
アメリカ軍駆逐艦三隻が栗田艦隊へ反撃に出て熊野を撃破したが第十戦隊は駆逐艦ホーエルを戦艦部隊との挟撃により撃沈、さらに矢矧と十七駆逐隊は駆逐艦[[ジョンストン (DD-557)|ジョンストン]](''USS Johnston, DD-557'') および護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツを撃沈した<ref name="bw"> [[#豊田全集6巻]]489-490頁</ref><ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]</ref>。
第十戦隊は敵空母部隊へ[[酸素魚雷]]20本以上(矢矧7本、雪風・浦風4本、野分不明、磯風のみ8本)を発射するが、10kmという遠距離雷撃であり、1本も命中しなかった<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]360頁、[[#証言田口]]p.93「会心の魚雷発射」</ref>。雪風側は「アメリカ軍正規空母1隻撃沈、新型空母1隻大火災、駆逐艦2隻撃破、主砲462発発射(残98発)、機銃1万発発射、魚雷4本発射(残12本)」と報告している<ref>[[#証言田口]]94頁、「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)」p.12、「捷号作戦戦時日誌(4)第10戦隊」p.48</ref>。本隊の合流命令に従いに転進した雪風は、沈没した米駆逐艦ジョンストンから脱出したアーネスト・E・エヴァンス艦長や乗組員を乗せた救命ボートの近くを通過した。雪風の寺内艦長は咄嗟にジョンストンに対し発砲した機銃手(照準調整のため2射したのみで命中せず)に向け「酷いことをするな」と怒鳴り、攻撃中止を命じたことが伝えられている<ref>[[#雪風手記]] 320頁、440頁</ref>。ジョンストンの乗組員は、当時の状況について「日本の一駆逐艦がすぐ近くを通過したが我らに危害を加える事はなかった。その駆逐艦の艦橋に立つ一人の将校が我らに敬礼するのを認めると、エヴァンス艦長は涙と共に答礼を返した」と、戦後米公刊誌に発表したとある<ref>[[#雪風手記]]440頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]376頁</ref>。
この後、雪風はアメリカ軍機の攻撃で航行不能となった重巡洋艦[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]の救援に向かうため栗田艦隊本隊を離れたが、旗艦大和のマストの先端が水平線下に隠れそうになるほど遠ざかった時、大和より「雪風は原隊に復帰し、野分は筑摩の救助に当たれ」との命令を受けて本隊に戻った{{Sfn|野分物語|2004|pp=269-271}}<ref name="bx">[[#証言田口]]96頁</ref>。姉妹艦[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]は沈没した筑摩乗組員を救助すると退避行動に移ったが、戦艦[[ニュージャージー (戦艦)|ニュージャージー]]を含むアメリカ艦隊に捕捉されて撃沈された{{Sfn|野分物語|2004|pp=305-306}}。野分は生存者なし、筑摩は水上偵察機搭乗員と砲塔員1名だけが生存者となった<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]p.396-400</ref>。
雪風は[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]と共に魚雷誘爆により航行不能となった[[最上型重巡洋艦|重巡洋艦]]鈴谷の救援に向かうが<ref>[[#S1910利根詳報(1)]]p.36</ref>、救助活動開始寸前に鈴谷は大爆発を起こし、間一髪で雪風は難を逃れた<ref name="bxa">[[#雪風手記]]511,522頁</ref>。雪風には鈴谷救援に向かう前に矢矧艦上の第十戦隊司令官から原隊復帰命令が出されていたため、雪風は十戦隊に合流<ref>[[#捷号詳報(2)第十戦隊]]p.56</ref>。鈴谷乗組員の大部分は沖波に救助されている<ref>[[#S士官の手記]]pp.18-19</ref>。
出力の少ないディーゼル発電機のみでレイテ沖海戦を戦い抜いた事について、寺内艦長は「あの海戦で心配したのは燃料の事だけ。敵機が攻撃した時だけ機関の出力を上げ全速力を超える。攻撃が終わったら中速くらいまで落として燃料を節約した」と述べた<ref>[[#完伝列伝]]474頁</ref>。雪風が長門から燃料補給を受けたのはレイテ沖海戦が終了し、ブルネイに帰還する前日(10月27日)であった<ref>[[#S1802第17駆日誌(4)]]p.11、p37</ref>。雪風機関科員は定期保守の間隔が短いディーゼル発電機(クランク・シャフト)の保守点検を戦場でも行い、三人の兵曹が手元に工具と消耗品を取り揃えて随時分解、修理作業を行った<ref>[[#雪風手記]]419頁</ref>。メインのターボ発電機は大和の金工場に修理を依頼したが復旧せず、そのまま呉に帰港した。呉では司令部の将校5、6名が雪風の電気室、補機室の検査に訪れディーゼル発電機のみで戦闘ができた事について確認調査を行っている<ref>[[#雪風手記]]419-420頁</ref>。
=== レイテ沖海戦後 ===
11月1日、ブルネイにて、雪風は僚艦の磯風へ25mm機銃弾1,500発を譲った<ref>[[#S1911第17駆日誌(1)]] pp.38</ref>。11月5日、ブルネイに向かう[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、[[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]の嚮導任務を命じられ、翌6日朝、浦風と共にブルネイを出港。昼11時40分頃、隼鷹、木曾らを護衛してブルネイに入港する<ref name="by">[[#S1911第17駆日誌(1)]] pp.3</ref>。11月8日には第一遊撃部隊(大和、長門、金剛、榛名、[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]、矢矧、第17駆逐隊)及び卯月、夕月と共に、マニラへ向かう隼鷹、利根、木曾の護衛を行う<ref name="bz">[[#S1911第17駆日誌(1)]] pp.4-5</ref>。8日3時頃、ブルネイを出港すると、9日午前、雪風を含む第一遊撃部隊はアメリカ軍の注意を引き付ける囮の役目を任され、隼鷹、利根、木曾、卯月、夕月と分離<ref>[[#S1911第17駆日誌(1)]] pp.16</ref><ref name="#5">[[#雪風手記]] pp.513</ref>。囮となった第一遊撃部隊は9日から10日にかけて数回転進を繰り返す。その間2度アメリカ軍の哨戒機と遭遇したが幸いにも敵の襲撃は受けなかった<ref name="#5"/>。隼鷹らは10日、無事にマニラへ到着し、雪風ら第一遊撃部隊も11日にブルネイに帰還した<ref>[[#S1911第17駆日誌(1)]] pp.17</ref>。
レイテ沖海戦後、日本軍艦隊の多くは日本へ撤退することになった。この間艦隊の編制がかわり、第十戦隊は解隊、第17駆逐隊は第二水雷戦隊所属となる<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]126頁</ref>。雪風は一時的に第17駆逐隊の司令駆逐艦となるが、空襲による戦死者水葬のため出港が遅れそうになり、司令駆逐艦は浦風に戻った。11月16日、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、軽巡矢矧の護衛としてブルネイ泊地を出港した<ref name="ca">[[#不沈艦生涯(新版)]]126頁</ref>。雪風らが出港する直前、アメリカ軍によるマニラ空襲を逃れた初霜、霞、朝霜がブルネイに入港してきたが、この時雪風は弾薬を消耗した初霜へ12.7cm主砲弾200発、25mm機銃弾9,000発、13mm機銃弾3,000発を渡した<ref>[[#S1911第17駆日誌(1)]] pp.22、pp.39-40</ref>。ブルネイから内地へ向かう途中、[[松型駆逐艦]]2隻が分離し、艦隊の護衛は第17駆逐隊の雪風、浦風、浜風、磯風のみとなった。[[11月21日]]、金剛と浦風が[[台湾]]沖で米潜水艦[[シーライオン (SS-315)|シーライオン]](''USS Sealion,SS-315'')の雷撃で撃沈される。浦風は[[谷井保]]駆逐隊司令以下全員が戦死した<ref name="cb">[[#不沈艦生涯(新版)]]127頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]384頁</ref>。雪風は大和、長門を護衛して緊急退避、浜風、磯風が金剛生存者の救助に従事する。11月24日に呉に到着し、第17駆逐隊の司令艦は浜風に変更となる。雪風は浜風、磯風と共に長門を護衛して[[横須賀港]]に向かい、11月25日、横須賀へ入港した<ref name="cc">[[#雪風ハ沈マズ新装]]384頁、[[#証言田口]]102頁</ref>。休む間もなく、雪風、浜風、磯風は折り返しで空母信濃を呉まで護衛する任務についた。信濃は[[大和型戦艦]]3番艦を空母に設計変更した七万トン級の大型空母だった。
{{main|信濃 (空母)}}
第17駆逐隊の雪風、浜風、磯風はレイテ沖海戦以来の連戦で、休養もなく兵が疲労困憊している上に、艦の水中探査機も損傷したままだった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]214頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]388頁</ref>。雪風の寺内艦長ら、第17駆逐隊の艦長たちは、米潜水艦の待ち伏せがある夜間の航行は避け、昼間に沿岸航行するよう信濃艦長[[阿部俊雄]]大佐に主張したが、昼間の敵機動部隊の空襲を警戒した阿部艦長に退けられ、夜の間に潜水艦の多い遠州灘南方を南寄りに航行する、薄暮出撃・外洋コースを取る事となった<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]387-388頁</ref>。当時信濃主計長であった鳴戸少佐の回想によると、信濃の航路を決定する会議の中、夜間・外洋航海ルートを取る策に対して信濃航海長兼任の中村副長、護衛の駆逐艦長たちは口々に異を唱え、特に雪風の寺内艦長が最も強硬に反対したとある<ref>[[#鳴戸 硯滴録]]139頁</ref>。[[11月28日]]、各艦は横須賀を出港。午後6時半に外洋に出ると、午後9時、信濃のレーダーが後方から追尾する船を感知した。雪風は信濃のレーダーが探知した不審な目標の捜索に向かったが、「味方識別に応ぜざるも、乾舷高く、漁船と思われる」と報告した<ref name="cd">[[#雪風ハ沈マズ新装]]389頁</ref>。[[豊田穣]]はこの漁船と思われた船影が信濃を浮上追跡中の米潜水艦[[アーチャーフィッシュ (潜水艦)|アーチャーフィッシュ]](''USS Archerfish, SS-311'')であった可能性が高いとし、その根拠として戦後アーチャーフィッシュのジョセフ・F・エンライト少佐/艦長に詳しく取材したと述べた<ref>[[#豊田 信濃生涯]]225頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]389頁</ref>。しかしアーチャーフィッシュのエンライト艦長の証言では、この時間帯におけるアーチャーフィッシュは信濃の後方ではなく前方を占位し、同一進路を前進していたとあり<ref>[[#エンライト 信濃!]]95頁</ref>、豊田の推測を否定するものとなっている。第17駆逐隊(浜風、雪風、磯風)と信濃は視認とレーダーでアーチャーフィッシュを発見、雪風も午後10時45分に浜風と共に潜水艦に向けて砲撃態勢をとったが、信濃艦長の阿部大佐は所在の暴露を恐れて発砲を認めていない<ref>[[#井上 磯風]]251-253頁</ref>。日付が代わり[[11月29日]]の午前2時、雪風の田口航海長は当直を交替した際、「右前方に浮上した潜水艦を発見。駆逐艦一隻を派遣して制圧させ、残りの船団は速力を上げて突破するのが良いと思うのだが、我らは一団となって回避中である。」との申し継ぎを受けた。このやり取りの際も阿部大佐はアーチャーフィッシュが浮上追跡していると思わず雪風を定位置に戻している<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]393頁、[[#愛しの雪風]]130頁</ref>。午前3時過ぎ、信濃はアーチャーフィッシュから4本の魚雷攻撃を受け午前11時頃に沈没した。
12月下旬、[[台湾]]方面への輸送船団「[[ヒ87船団]]」及び空母[[龍鳳 (空母)|龍鳳]]の護衛に雪風、浜風、磯風、時雨が指定され、出撃準備を行った。だが雪風は機関の故障により船団護衛に従事できず、呉に帰港した<ref name="ce">[[#S1911第17駆日誌(2)]]p.19</ref>。この輸送船団護衛中に時雨が米潜水艦の雷撃で沈没している。[[1945年]](昭和20年)1月以降、第17駆逐隊は[[大津島]]周辺で特攻兵器[[回天]]及び[[震洋]]の訓練に協力し、標的艦を務めた<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]134-135頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]402-403頁、{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/search/?keyword=%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6%E3%83%BB%E7%AC%AC%EF%BC%92%E6%B0%B4%E9%9B%B7%E6%88%A6%E9%9A%8A&ag=all&type=all&page=1_40|title=NHK戦争証言アーカイブス:第二水雷戦隊|accessdate=2018-11-04}}</ref>。[[3月19日]]の[[呉軍港空襲]]の際には多くの艦船が被害を受ける中、川原石の海岸近くでブイに繋留されたまま対空砲火でアメリカ軍機を2機(3機とも)撃墜した<ref name="cf">[[#雪風ハ沈マズ新装]]406-407頁</ref>。3月29日、戦艦大和と軽巡洋艦矢矧以下第二水雷戦隊各艦は周防灘に移動したが第7駆逐隊所属の[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]が触雷し脱落した<ref>[[#S2004二水戦詳報(1)]]p.55</ref>。
=== 坊ノ岬沖海戦 ===
{{main|坊ノ岬沖海戦}}
[[ファイル:Damaged Japanese battleship Yamato underway with a destroyer on 7 April 1945 (NH 62585).jpg|thumb|坊ノ岬沖海戦にて、浸水により艦が傾斜した大和(右)を護衛する雪風(左)。奥の航跡は冬月のもの<ref>[[#大和永遠なれ]]p.80</ref>。|250px]]
[[4月6日]]、戦艦大和の[[坊ノ岬沖海戦|沖縄水上特攻作戦]]に、雪風は第二水雷戦隊司令官[[古村啓蔵]]少将の指揮下、軽巡[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]、第17駆逐隊の磯風、浜風、第21駆逐隊の朝霜、霞、初霜、第41駆逐隊の冬月、涼月と共に日本を出撃した。特攻作戦に臨み雪風以外の各駆逐艦の第一煙突には菊水のマークが描かれた。雪風でも航海科の兵が同じようにマークを描こうとしたが、「ウチはいつも通りでいいんだ」と艦長命令により止められている。また家族への最後の手紙や、髪、爪などの遺品を残すことも禁止したとある<ref>[[#完伝列伝]]476-477頁</ref>。
[[4月7日]]正午過ぎよりアメリカ軍航空機約400機の猛攻を受け、午後2時23分に大和は沈没した。軽巡洋艦矢矧、駆逐艦浜風、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]が沈没、[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]が中破、[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]が大破した。雪風の寺内艦長は、艦橋に椅子を置いて天井の窓から首を出し、航海長の右肩を蹴ると面舵、左肩を蹴ると取舵という操舵方法でアメリカ軍機の攻撃を殆ど回避した<ref name="cg">[[#不沈艦生涯(新版)]]145頁</ref><ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]419頁</ref>。それでも魚雷1本が命中しかけたが、幸運にも艦底を通過している<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]430頁、[[#証言田口]]119頁</ref>。また食料庫にロケット弾が直撃したが、信管が作動せず不発だった<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]152頁</ref><ref>[[#雪風手記]]443-444頁</ref>。但し、このロケット弾の不発は後述する宮津湾の戦闘で同じ証言があり、記録が混同している可能性がある。機銃掃射と至近弾で3名が戦死・15名が負傷したが、艦の破損は機銃1基大破・主砲盤電路故障のみで、戦闘力に影響はない<ref>[[#S2004二水戦詳報(3)]]p.31</ref><ref>[[#図説太平洋海戦史第3巻]]243頁</ref>。雪風は対空砲火により米攻撃機を1機撃墜した<ref>[[#雪風手記]] 470-471頁、493頁</ref><ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]147頁</ref>。
大和沈没後も雪風の寺内艦長は沖縄への突入を諦めなかった。生存者の救助を始めようとした先任将校を「今回は決死の特攻作戦である。沖縄へ突入すれば救助した人たちの運命も同じだ。(生存者は)此処にいればまだ救助される機会に恵まれることもあろう。先ず本艦が戦闘力を遺憾なく発揮できる準備を整えよ」と諭して止めた<ref>[[#雪風手記]]444頁</ref><ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]150頁</ref>。
この時の寺内艦長は不退転の闘志で、先任将校に対し「救助するなら戦さの役に立ちそうな元気な奴を選べ。負傷者には見向きもするな」と厳命を下し、所在最高指揮官である第41駆逐隊司令[[吉田正義]]大佐に「如何せられるや」「速やかに行動を起こされたし」と沖縄突入の行動に入る様意見具申した<ref name="#6">[[#横井雪風(下)]]p.36</ref><ref>[[#雪風手記]]273頁、460頁</ref>。
しかし「一先ず溺者を救助せよ」との上級司令部の命令が下されると、「そうと決まれば最後の一人まで救え」と沈没艦救援作業に従事<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]151頁、[[#雪風手記]]472頁</ref>。雪風舷側からロープと縄梯子を垂らすだけでなく、内火艇まで動員してくまなく波間を探し求めて生存者を救助した<ref name="#6"/><ref>[[#能村慟哭新版]]p.115-116</ref>。
16時39分、連合艦隊司令部より第1遊撃部隊指揮官に対し、乗員救助の上、佐世保への帰投が命ぜられた(受信は17時50分)<ref>[[#S2004二水戦詳報(2)]]p.47</ref>。
寺内艦長の証言によれば、雪風を南進させつつ先任指揮官である冬月の吉田司令へ「いかがせらるるや」と信号を送ったが、冬月からの返信は「生存者を救助して再起を計らんとす」だった。出撃前夜に「[[嘉手納町|嘉手納]]湾に突入する」と全艦長の間で申し合わせていた通り{{Refnest|group="注釈"|出撃前夜の全艦長の申し合わせについて、磯風にも寺内艦長と同じ証言がある。磯風艦長が部下に語った所に拠ると「たとえ生存者があっても沈没艦へ救助の手は差し伸べず、敵の攻撃により一隻のみ残ったとしても作戦遂行のため沖縄へ突入せよと約束していた」と言う<ref>[[#海軍特年兵]]p.228-229</ref>。}}、寺内艦長はたとえ雪風一艦となっても沖縄へ突入する決意だったため、吉田司令の返信を聞きカッターを下そうとした先任将校を止めると、再度冬月へ「いかがせられるるや」「すみやかに行動を起こされたし」と促して尚も雪風を南進させた。その時連合艦隊司令部から「作戦中止。人員救助の上帰投すべし」の命令が下され、こうなっては従うしかないと、寺内艦長は早速海上に泳ぐ者を全力で救助に取り掛からせた。付近に敵潜水艦が潜んでおり、何時襲撃を受けるか判らない中で雪風を退避させず、内火艇、カッターとありとあらゆる小舟を動員し、数時間に亘ってくまなく波間を探し求めた<ref>[[#寺内雪風]]p.91</ref>。
雪風は14時50分から16時37分まで大和生存者の救助に当たった<ref>[[#S2004二水戦詳報(2)]]p.45</ref>。敵機の襲撃や敵潜水艦の存在が感知されたため艦を完全に停止できず、微速で進みながらの不自由な状況で<ref>[[#八杉 大和]]109頁</ref><ref>[[#日米調査大和]]318頁</ref><ref>[[#悲劇の提督]]269頁</ref>准士官以上12名、下士官兵93名の105名の将兵を救助した<ref>[[#特攻大和]]64頁</ref>。
小林健水兵長(前部主砲射撃指揮所){{Refnest|group="注釈"|小林健水兵長の「大和生存者を救助した」、「19時30分以降も長時間戦闘海域で救助活動を続けた」の証言<ref>[[#大和機銃員]] 82-84頁</ref>と、雪風の行動記録<ref>[[#S2004二水戦詳報(2)]] p.45、p.49-50</ref>が合致する(大和の救助に当ったもう一隻の冬月は19時2分に戦闘海域を離れている<ref>[[#S2004二水戦詳報(2)]] p.49</ref>)。}}ら雪風に救助された大和生存者たちは、雪風から2隻の内火艇が降ろされ、救助を切り上げる直前まで重傷を負って殆ど口と鼻だけ水面に出して浮いている兵や、体力を使い果たして動けない兵を拾い上げていたのを目撃している<ref>[[#大和機銃員]]p.82</ref><ref>[[#巨大戦艦大和]]p.200-201</ref>。
頭部に裂傷を負って漂流中に意識を失った能村大佐(大和副長)も雪風に救助された<ref>[[#能村慟哭新版]]p.115-117</ref>。国本中尉(副長補佐)によれば、生存者を呼び集めて副長ら負傷者を中心にした輪を作って救助を待った所、雪風がやって来て内火艇で負傷者の救助を始めたとある<ref>[[#日米調査大和]]p.316</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20150317044209/http://www.naniwa-navy.com/senki-1-sennsoutoseisyunn-kunimoto2.html 「戦争と我が青春」]なにわ会ホームページ</ref>。能村副長は襟章の判別が難しいくらい重油で汚れ、雪風の兵が懸命に気付けの張り手を与えても目を覚まさなかったが、[[佛坂泰治]]軍医長の治療を受け生還した<ref>[[#証言大和]]p.289</ref>。
佛坂軍医長は「戦場では前線に復帰させるのが第一だから、平時とは逆で症状が軽い者から治療するが、この時はそんな区別もできないもの凄い数の負傷者が雪風に救い上げられて、雪風に私一人だけの軍医では間に合わなかった」と回想している<ref>[[#証言大和]]p.288</ref>。
救助した大和の参謀に「敵の攻撃の危険がある。直ちに艦を動かせ」と催促されたが救助を継続したとの証言<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]151頁</ref><ref>[[#完伝列伝]]441-442頁</ref>と、これとは逆に日没寸前となり、敵潜水艦の活動が活発になる、他の艦の救助が残っている等の理由から救助を打ち切ろうとした際、大和の士官が「まだ多くの兵が泳いでいる」と中止を思い止まるよう詰め寄ったとの証言がある<ref>[[#巨大戦艦大和]]200-201頁</ref>が(無論時系列が異なるだけでどちらも事実の可能性はある)、どちらも寺内艦長は「本艦の指揮官は自分だ」と跳ね除けた。
雪風が大和生存者の救助に当たった時間帯は連合艦隊司令部から特攻作戦中止の命令が伝わっていなかったため、乗組員はまだ沖縄へ向かう意志が旺盛であった。雪風に救助され甲板に倒れ込んだ大和の高角砲員は、雪風乗組員に「まだこれから沖縄で一戦あるのに甘えるな」と怒鳴られ、自力で艦内まで走った。この渇入れがなかったら消耗した自分は助かった安堵でそのまま息を引き取ってしまったかもしれなかったと振り返り、「ありがとう、雪風」と感謝している<ref>[[#坪井大和]]275-276頁</ref>。
17時20分頃から矢矧の救助を開始し、准士官以上13名、下士官兵143名の156名を救助した<ref>[[#特攻大和]]65頁</ref>。古村司令官は初霜に救助され、初霜を第二水雷戦隊旗艦とした<ref>[[#S2004二水戦詳報(2)]]p.48『1700頃初霜矢矧乗員救助開始』-『1720初霜二水戦司令官救助、二水戦旗艦ヲ初霜ニ変更1YBノ指揮ヲ継承ス』</ref>。
夕刻、雪風は古村司令官移乗のため矢矧接舷中に被弾した磯風(第17駆逐隊司令艦)の救援に赴いた{{Sfn|建艦秘話|1965|p=62}}。第17駆逐隊は雪風による磯風の曳航準備を進め、初霜で指揮を執っていた古村司令官に許可を求めるが、初霜からの返答は磯風の自沈処理命令だった<ref>[[#S2004二水戦詳報(2)]]pp.51-52『1915将旗17dg→将旗2sd(信号)/我被曳航準備完成雪風ヲシテ曳航セシメラレ度』-『1925 2sd→17dg/曳航速力何節ノ見込ナリヤ』-『17dg→2sd/9節ノ見込、傾斜十度ニ復原シアリ』-『1939情況判断 曳航開始ヲ2100トシテ安全海域迄十二時間ヲ要ス、敵KdBノ空襲ニ対シ安全ナラズ敵潜ノ顧慮更ニ大トナリ|2sd→17dg(信号)先ノ命令通退去セヨ』</ref><ref>[[#S1911第17駆日誌(9)]]p.33『初霜→雪風072100/磯風ハ缶室ノ「コンアイ」弁ヲ開キ自沈セシメヨ』</ref>。雪風は第17駆逐隊司令官、磯風の前田実穂艦長以下、生存者326名を収容すると<ref>[[#雪風手記]]274頁</ref>、22時40分、初霜からの下令に従い磯風を砲雷撃により処分した<ref>[[#S2004二水戦詳報(2)]]p.53『2240 磯風、雪風ニテ砲撃処分沈没(30度46.5分128度92分東)』</ref><ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]435-437頁、[[#証言田口]]122頁</ref>。まず砲撃を行ったが方位盤の眼鏡と砲の軸線が狂っていたため命中せず、魚雷1本を発射するも、これも磯風の艦底を通過<ref>[[#愛しの雪風]]151-152ページ</ref>。そのため再び砲撃をおこない、魚雷に命中させることができて爆発後磯風は沈没した<ref>[[#愛しの雪風]]152ページ</ref>。これで5隻いた第17駆逐隊は雪風1隻を残すのみとなった<ref>[[#証言田口]]123頁</ref>。
雪風に救助された複数の大和生存者の証言によると、救助活動を終了して帰路へ就いた雪風はアメリカ海軍の潜水艦に狙われ、雷撃を受けたとある。魚雷を回避した後も追ってくる潜水艦を撒くため雪風は機関を停止、救助した兵たちにも「動かないように。音を立てないように」と注意して潜水艦をやり過ごした<ref>[[#巨大戦艦大和]]203-204頁</ref>。[[4月8日]]、雪風、初霜、冬月、涼月は佐世保に入港した。
[[4月10日]]、中華民国の[[廈門市]]で座礁し進退不能となった姉妹艦天津風が自沈、全19隻建造された陽炎型駆逐艦も雪風1隻となった。4月20日、初霜の艦上で[[第二水雷戦隊]]の解散式が行われた<ref>[[#S2004二水戦詳報(1)]]p.52『4月20日第二水雷戦隊戦時編制ヨリ除カレ1330将旗ヲ徹ス』</ref><ref>[[#S1911第17駆日誌(9)]]</ref>。同日附で第21駆逐隊の残存艦初霜が第17駆逐隊に編入された<ref>[[#内令昭和20年4月(3)]]p.33『内令第三三六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年四月二十日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「雪風」ノ下ニ「、初霜」ヲ加フ|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、」ヲ削ル』</ref>。
その後、第17駆逐隊の雪風、初霜は[[第三十一戦隊]](旗艦:[[花月 (駆逐艦)|花月]])に編入<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]156頁</ref>。5月15日、佐世保を出港して[[舞鶴港]]に回航したが6月になると舞鶴も空襲に襲われるようになり、6月15日、[[宮津湾]]に移動した<ref name="ch">[[#不沈艦生涯(新版)]]157頁</ref>。雪風と初霜は[[海軍砲術学校]]の練習艦となり、[[海上挺進部隊]]には編入されなかったが<ref>[[#戦史叢書93戦争最終期]]396頁</ref>、当時の艦長によると訓練艦としての業務はほとんど行わなかったという<ref>[[#豊田全集6巻]]536頁</ref>。7月末にはこの避難港もボーイング[[B-29 (航空機)|B-29爆撃機]]が投下した機雷で封鎖されてしまい、雪風と初霜は狭い湾内に閉じ込められた<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]439-440頁</ref><ref>[[#雪風手記]] p.387</ref>。
=== 最後の戦い ===
[[7月30日]]、アメリカ軍が舞鶴・宮津方面を空襲した。早朝5時に空襲警報が発令されると<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]p.440</ref>、上陸中だった兵も6時30分頃には全員帰艦。2、3日前から敵の動きについて情報があったため、在艦当直者で出動態勢と対空諸準備を完了していた雪風は敵来襲前に抜錨し航走を始めた<ref>[[#雪風手記]] p.388、p.462、p.552</ref>。朝食を終えて後片付けの時間的余裕まであったという証言もある<ref>[[#雪風手記]] p.388</ref>。<br>
空襲は早朝から夕方の5時過ぎまで断続的に10時間以上続き、雪風は狭い宮津湾内で回避行動、回避速度に極端な制限を受けつつも、低速で舵を一杯に取りながら対空戦闘を行った<ref>[[#雪風手記]] p.388-391、p.462-463、p.479</ref>。僚艦の[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]は湾外に出て戦おうとした所、湾口付近で機雷に触れて座礁・沈没<ref name="ci">[[#不沈艦生涯(新版)]]158頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]442頁、[[#証言田口]]127頁</ref>、[[伊根町|伊根]]漁港に停泊していた[[潜水母艦]][[長鯨 (潜水母艦)|長鯨]]も艦橋に直撃弾を受けて小破した<ref>[[#雪風手記]] p.280</ref>。雪風にはロケット弾1発が命中したが不発、機銃掃射で1名戦死・20名が重軽傷、アメリカ軍機1機を撃墜した<ref>[[#雪風手記]]391頁</ref>。<br>
宮津湾内に留まるのは危険であったため、同日夜、損傷した初霜から発光信号機のメーターを譲り受けた後、海中に設置された機雷群で封鎖された湾口を、水深の深い場所を選んで速力を上げて一気に突っ切り湾外に脱出。長鯨の停泊する伊根漁港まで無事移動すると、定置網や付近の山から伐採した樹木を利用して艦体を島の姿に擬装した<ref>[[#雪風手記]] p.391、p.422、p.463、p.524</ref>。不発のロケット弾が貫通した食糧庫が浸水して米や麦が発酵したが、擬装を手伝ってくれた伊根町の住民から「家畜の飼料にしたい」と要望を受けたため、譲渡している<ref>[[#雪風手記]] p.394</ref>。<br>
この日の戦闘が雪風としての最後の戦闘になり、[[8月15日]]の[[玉音放送]]を迎えた。同日附で第17駆逐隊は解隊され、雪風は第41駆逐隊に編入された<ref>[[#秘海軍公報昭和20年8月(2)]]p.28『内令第七三四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年八月十五日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項ヲ削ル 第四十一驅逐隊ノ項中「夏月」ノ下ニ「、雪風」ヲ加フ』</ref>。<br>
[[8月18日]]、宮津湾空襲で艦橋が破壊された長鯨を牽引して舞鶴に回航した際、雪風が触雷したが、幸運なことに機雷は後続の長鯨との距離約300mの中間の海中で遅れて爆発したため、両艦とも被害はなく無事だった<ref>[[#雪風手記]]395頁</ref>。この舞鶴への回航について[[伊藤正徳 (軍事評論家)|伊藤正徳]]は、「宮津湾空襲の後、舞鶴へ航海途中の雪風と初霜が回数機雷に触雷し、最初に触れた雪風は無事で済んだが、後で触れた初霜は轟沈した<ref>[[#連合艦隊栄光]]p.297-298</ref>」と著書に記したが、初霜は7月30日の宮津湾空襲で大破、擱座し、そのまま同湾で解体されているため矛盾する<ref>[[#われ初霜]]p.93</ref>。雪風に後続していた僚艦を初霜、後続の艦が轟沈したと記したのは伊藤の誤りで、実際は前述の通り僚艦は長鯨であり、雪風、長鯨とも被害は出ていない<ref>[[#雪風手記]]p.395</ref>。
雪風の武名は海軍内で有名であり、同様の幸運艦には'''呉の雪風 佐世保の時雨'''と謳われた[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]322-323頁、[[#帝国海軍の最後]]128、141頁</ref>、空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、重巡洋艦[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]、軽巡洋艦[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]もあったがいずれも終戦までに沈没している。大和沖縄特攻時の雪風の寺内艦長は雪風が生還した理由について、乗員が優秀であることと同時に「やはり運だろう」と述べている<ref>[[#雪風手記]]434頁</ref>。
== 終戦後 ==
[[8月26日]]に[[予備役#予備艦船|第一予備艦]]<ref>昭和20年8月26日付 海軍省内令第747号。[[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード C12070509200 で閲覧可能。</ref>、[[12月1日]]に[[第二復員省]]の[[復員輸送艦|特別輸送艦]]に指定され<ref>昭和20年12月1日付 [[第二復員省]]内令第6号。[[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード C12070534400 で閲覧可能。</ref>、終戦後は[[復員輸送艦]]となった。当初、電探や主砲塔は砲身を撤去したのみで装備されており、魚雷発射管跡に便乗者用仮設構造物を増設していた<ref name="日本海軍艦艇写真集17駆逐艦107">[[#日本海軍艦艇写真集17駆逐艦]]107頁</ref>。1945年末に旧舞鶴工廠で前後の砲塔を撤去し、便乗者用仮設ハウスを増設した<ref name="日本海軍艦艇写真集17駆逐艦107"/>。[[1946年]][[2月10日]]、改造工事が完成した雪風は、翌11日に舞鶴から佐世保を経由して中国[[汕頭市|汕頭]]へ向かう最初の引揚任務に出発した。以降この年の12月まで復員輸送任務に従事した<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]445頁、[[#雪風手記]]52-55頁</ref>。
丸腰となった雪風では、戦勝国の兵に物品を盗難されても何も言えない等の状況だった<ref name="#7">[[#雪風手記]]615頁</ref>。様々な事情を持つ兵が同乗したため、対立が生じる事もあった。またサイゴン及びバンコクへの往路では現地法廷へ向かう[[BC級戦犯]]を乗せていた<ref>[[#雪風手記]]613頁</ref>。
乗員は艦内慰安、士気高揚、知識思想の交換の一助を目的として「雪風新聞」を発行し、雪風賛歌等歌詞の募集とその当選発表、「酒保が高すぎる」との苦情に主計長が酒保現況について説明記事を掲載するなど自由闊達なコミュニケーションを行い、規律の維持を勧めて艦内の空気を良くした<ref>[[#雪風手記]]594-595頁</ref>。
久保木二等兵曹の回想によれば、無傷の雪風の姿を怪訝に思った引揚者に「お国が大変と言う時に、一体この艦はどこで何をしていたのか。今あちこち見回ったが、弾丸の跡一つ無いではないか。内地を出たのはこれが初めてだろう」と難詰されたこともあった。連合国軍からの命令によって復員輸送任務者は戦歴発表を禁止されていたため、開戦以来雪風の舵を取り続けた操舵長らは万感の心中を抑えて笑顔ですませていたと言う<ref>[[#横井雪風(下)]]p.40</ref><ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]p.164</ref>。復員船のなかには「鬼の○○、蛇の○○」と呼ばれる空母や駆逐艦の乗組員がいるなど多くは規律が悪かったが<ref>[[#雪風手記]]598頁、614頁</ref>雪風は規律が良く、乗員たちは引揚者を慰めようと有志らにより雪風楽団を結成し、「復員者歓迎雪風の歌」(作詞高橋榮主計長、作曲朝比奈秀夫操舵手)を演奏して復員兵や民間の引揚者の慰安を精力的に行った<ref>[[#雪風手記]]598頁、601-602頁、610頁</ref>。
復員輸送時代は[[天気予報|気象情報]]も航行しながら自船で予測するしかなかったため、[[台風]]の進路に直面する事も多かったとある<ref name="#7"/>。6月26日、雪風は寄港中の[[横須賀]]港にて、[[函館港|函館]]から[[浦賀]]まで曳航中だった[[第五青函丸#第六青函丸|第六青函丸]]が[[銚子]]沖で遭難したとの電報を受け緊急出動。時化により曳索が切断し、漂流中だった第六青函丸を発見すると、28日、一昼夜かけて浦賀まで曳航しその危機を救った<ref>[[#雪風手記]]587-588頁</ref>。
7月から10月にかけて[[満州]][[葫芦島]]からの復員輸送任務([[葫芦島在留日本人大送還]])に当った。同地からの引揚者の中に妊婦が乗艦しており雪風艦内で男子を出産している。当時の佐藤精七艦長が名付け親となり、博多に向かう雪風艦内で産まれた事から「博雪」と命名した。佐藤艦長は「彼の艦内での誕生こそは復員輸送中最大の慶事であった」と述べている<ref>[[#雪風手記]]570頁</ref>。この母子は20年後に艦長や緊急で産婆役を務めた琢磨軍医長らと再会した。琢磨軍医長が「外科医の僕が初めて出産取上げをして大汗をかいた」と振り返るなど旧交を温めた<ref>[[#雪風手記]]593-594頁</ref>。また、軍医長が乗艦していなかった引揚任務の際、看護兵曹と看護科の部下のふたりが、「雪子」と「波子」の女子2名を取上げたとある<ref>[[#雪風手記]]502頁、586頁</ref>。
1946年12月28日までに汕頭1回、ラバウル2回、ポートモレスビー1回、サイゴン及びバンコク2回、葫芦島5回、那覇4回の計15回の復員輸送任務を遂行し、1万3千人以上を故郷へ送り届けた<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]445頁</ref><ref>[[#雪風手記]]573頁</ref>。その中には後に漫画家として有名となる[[水木しげる]]もいた。
== 丹陽として ==
[[ファイル:接收日艦典禮圖片-接艦典禮會場鳥瞰.jpg|サムネイル|接一号の引き渡し(1947年7月6日、上海)]]
[[ファイル:接收日艦典禮圖片-升國旗.jpg|サムネイル|接一号の引き渡し(1947年7月6日、上海)]]
1946年12月30日、雪風は特別保管艦に指定され<ref>昭和21年12月30日付 復員庁第二復員局 復二第508号。アジア歴史資料センター C12070539800 レファレンスコード で閲覧可能。</ref>、[[戦利艦|戦時賠償艦]]として連合国へ引き渡される事となった<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]169頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]446頁</ref>。これに伴い仮設乗組施設等は撤去された<ref>[[#歴史群像vol.19陽炎型駆逐艦]]34頁雪風メモリアル</ref>。[[中華民国]]、[[イギリス]]、[[アメリカ]]、ソ連の四か国による賠償艦艇配分の会議に先立ち、残存する特別保管艦の視察点検が行わる事となったが、乗組員たちが最後まで入念に点検、整備を行っていた雪風は艦の状態が非常に良かった事から、海防艦[[四阪 (海防艦)|四阪]]([[日振型海防艦]])と共に視察を受けるモデルシップ(最優秀艦)に指定された<ref>[[#雪風手記]]55頁、[[#真実の艦艇史]]97頁</ref>。[[1947年]][[5月26日]]、芝浦で視察点検が行われ、雪風は「敗戦国の軍艦でもかくも見事に整備された艦を見た事が無い。まさに驚異である」と感嘆されるなど、立ち会った各国の高級軍人から高い評価を得ている<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]169-170頁、[[#真実の艦艇史]]97頁</ref>。[[6月18日]]から開かれた賠償艦艇配分会議の結果、雪風は駆逐艦6隻(松型駆逐艦楓、杉、[[橘型駆逐艦]][[初梅]]、蔦、峯風型駆逐艦[[波風 (駆逐艦)|波風]]、秋月型駆逐艦[[宵月 (駆逐艦)|宵月]])、海防艦17隻([[御蔵型海防艦]]四阪、[[屋代 (海防艦)|屋代]]、択捉型海防艦[[隠岐 (海防艦)|隠岐]]、[[対馬 (海防艦)|対馬]]、丙型海防艦、丁型海防艦)など計34隻と共に中華民国への引き渡しが決定した<ref>[[#真実の艦艇史]]97-98頁</ref>。
当時の[[中華民国海軍]]は日中戦争で壊滅した海軍の再建のためにイギリスから軽巡洋艦[[オーロラ (軽巡洋艦・2代)|オーロラ]](重慶に改称)や駆逐艦[[メンディップ (駆逐艦)|メンディップ]](霊甫に改称)を、アメリカから[[エヴァーツ級護衛駆逐艦]]及び[[キャノン級護衛駆逐艦]]数隻を貸与もしくは供与された他、日本から旧旗艦の[[逸仙]]を返還させるなどしていた<ref>[[#撃沈戦記(朝日ソノラマ)]]415頁</ref>。日本からの賠償艦艇も多くが再武装した上で中華民国海軍に編入されることとなった<ref name="#8">[[#真実の艦艇史]]99-100頁</ref>。
[[1947年]] [[7月1日]]、雪風は中華民国向けの賠償艦艇の第一陣7隻(楓、初梅、四阪、海防艦194号、海防艦67号、海防艦215号)と共に佐世保を出発し、[[7月3日]]、[[上海]]に到着。[[7月6日]]、上海の[[高昌廟]]で賠償艦艇の移行式が行われ、雪風ら8隻の艦艇は[[中華民国]]に引き渡された。旧日本艦艇には「接一号」から「接八号」と言う仮の艦名が与えられ、雪風は「接一号」と名付けられている<ref>[[#真実の艦艇史]]98-99頁</ref>。艦体、機関は勿論、兵器ではない煙草盆に至るまで整備が行き届いており「これが敗戦国の軍艦か」と中国将校を驚かせた<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]171頁</ref>。日本側乗組員は一人ずつ菓子と煙草を土産に貰って帰国した<ref>[[#雪風手記]]584頁</ref>。
[[1948年]][[5月1日]]付で正式に'''丹陽'''('''タンヤン'''DD-12)の艦名を与えられ他の日本製駆逐艦とともに[[:zh:陽字號驅逐艦|陽字号]]と呼ばれるグループを形成した。「丹陽」の名は都市の[[丹陽市]]から取ったとされる<ref>[[#真実の艦艇史]]99頁</ref>が、{{疑問点範囲|これを赤い夕陽または朝陽の意味が込められているのではないかと推測する者<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]447頁</ref>もいる|date=2021-7|talksection=「丹陽」の名前の由来は何か}}。当時、中国国内は第二次[[国共内戦]]の只中であった。日本から引き渡された艦艇の内、信陽(旧・初梅、DD-15)や恵安(旧・四阪)らは比較的早く再武装化されたが、丹陽は造船所の人手不足や[[中国共産党]]の妨害工作による整備能力の低下があったため再武装工事を行う事ができず、中国大陸における国共内戦中に就役できなかった<ref name="#8"/>。[[1949年]]5月に[[中国人民解放軍]]の上海解放作戦が始まると、上海に係留されていた丹陽ら未武装状態の艦艇は[[台湾]]の[[基隆]]に回航された<ref>[[#真実の艦艇史]]100頁</ref>。[[蔣介石]]総統が渡台した際には、その乗艦になったとされる。このときの丹陽の艦長はこの功績により数階級特進したという。また上海と台湾を三往復して[[故宮博物院]]の財宝を輸送したとされるが<ref name="#9">[[#雪風手記]]640頁</ref>、これらの財宝は戦車揚陸艦に載せて運んだという異説もある<ref>[[#撃沈戦記Ⅱ]]363頁</ref>。
この間、中華民国海軍は1949年の第二艦隊反乱事件などにより海軍艦艇の共産党軍への寝返りが相次ぎ、旗艦の[[オーロラ (軽巡洋艦・2代)|重慶]]や恵安、長治(旧[[宇治 (砲艦・2代)|宇治]])をはじめとする多数の艦艇を失うなどの大損害を受けた。残存艦艇は[[中華民国政府の台湾への移転|中華民国政府の移転]]に伴って台湾へ撤退したが、1953年の時点で実働状態にあったのは陽字号駆逐艦駆逐艦2隻(丹陽、信陽)、[[:zh:太字號驅逐艦|太字号駆逐艦]]6隻(エヴァーツ級護衛駆逐艦及びキャノン級護衛駆逐艦)、軽巡洋艦一隻([[逸仙]])、[[:zh:安字級巡防舰|安字級巡防艦]]多数(御蔵型海防艦屋代、択捉型海防艦対馬、丙型海防艦、丁型海防艦、元カナダ海軍の英国製[[キャッスル級コルベット]])、その他に砲艦咸寧(旧[[興津 (砲艦)|興津]])やLST揚陸艦、駆潜艇多数など。この他に日本から引き渡された賠償艦には当時の中華民国海軍艦艇としては最大の汾陽(旧[[宵月 (駆逐艦)|宵月]])などがあったが状態が悪かったため係留練習艦として利用された。
丹陽の全面的な修理と整備、再武装工事は[[1951年]]10月、台湾の[[左営]]で行われたとされる<ref>[[#雪風手記]]56頁、[[#真実の艦艇史]]100頁</ref>。再武装化に際し、日本から引き渡された艦艇には、戦後、[[中華民国国軍]]が旧日本海軍の小型艦艇から接収した兵装や、日本軍が中国本土、台湾島に残していった防空、防衛用の高角砲、機銃が再利用された。丹陽は[[九六式二十五粍高角機銃]]を始め、前部の1番砲塔に[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|八九式12.7センチ連装高角砲]]を、後部の2番、3番砲塔に[[六五口径九八式一〇糎高角砲|九八式10センチ高角砲]]を、それぞれ独自の箱型状の砲塔を付けて装備している(魚雷発射管は無し)<ref>[[#真実の艦艇史]]99-106頁</ref>。また[[22号電探]]が外され、マスト上部に舟艇用の[[SO (レーダー)|SO]]対水上レーダーのレドームが設置されたことが写真で確認できる<ref>{{cite web|url=http://homepage.ntu.edu.tw/~yingshao/dd12tanyang.htm|title=丹陽軍艦|accessdate=2020-09-12}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|一般に流通している模型などではマスト上部に[[SG (レーダー)|SG]]レーダーのそれのようなリフレクタアンテナをむき出しで設置した状態で再現されるが写真では確認できない。}}。公式試運転で27.5ノットを記録した<ref name="#10">[[#雪風手記]]56頁</ref>。
中華民国海軍の残存艦艇の中では最大最強の戦闘艦となった丹陽は同国海軍の第一艦隊に編入され、国共内戦で失われた軽巡洋艦重慶に代わって中華民国海軍[[旗艦]]に就任<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]176頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]448頁</ref> 。[[1953年]][[8月]]に中華民国海軍総司令[[馬紀壯]][[中将]]指揮の元で[[太昭]](旧アメリカ海軍[[キャノン級護衛駆逐艦]]「[[:en:USS Carter|カーター]]」、DE-26)、太湖(旧アメリカ海軍[[キャノン級護衛駆逐艦]]「[[:en:USS Breeman|ブリーマン]]」、DE-25)とともにフィリピンのマニラを訪問し<ref name="#11">[[#雪風手記]]636頁</ref>、フィリピン政府・駐比アメリカ軍や現地華僑の歓迎と[[ラモン・マグサイサイ|マグサイサイ]]比国防長官や[[レイモンド・スプルーアンス|スプルーアンス]]駐比米大使らの訪問を受けた<ref>{{cite web|url=https://blog.boxun.com/hero/xsj1/375_2.shtml|title=大陳撤退戰役前後憶往|accessdate=2019-01-28}}</ref>。後年もフィリピンやインドネシアで現地住民と華僑とのあいだで民族衝突事件がおきるとその都度現地に赴き華僑を収容保護していたとされる<ref name="#9"/>。
中華民国国軍は[[1949年]][[6月29日]]に大陸封鎖を宣告して以降、中国人民解放軍に物資を輸送している疑いのある船舶に臨検を実施し、これを没収する封鎖政策を進めた([[関閉政策]])。丹陽は中華民国海軍第一艦隊の主力としてエヴァーツ級護衛駆逐艦やキャノン級護衛駆逐艦とともに封鎖警戒の任務にあたり、[[1953年]][[10月4日]]、[[太倉]](旧アメリカ海軍[[キャノン級護衛駆逐艦]]「[[:en:USS Bostwick|ボストウィック]]」、DE-24)とともに上海に向けて重油を輸送中だった[[ポーランド]]のタンカーのプラカを拿捕<ref name="#12">[[#真実の艦艇史]]102頁</ref><ref>{{cite web|url=http://140.119.115.26/bitstream/140.119/49868/7/15300107.pdf|title=第四章 「解除中立」後的關閉政策 1953-1960|accessdate=2018-05-23}}</ref>、1954年4月初頭にチェコ船籍の貨物船ユリウス・フチーク号拿捕のために太平(旧アメリカ海軍[[エヴァーツ級護衛駆逐艦]]「[[デッカー (護衛駆逐艦)|デッカー]]」、DE-22)とともに出撃したが発見できず空振りに終わった。[[1954年]][[5月12日]]には同じく中国人民解放軍を支援した ポーランドのタンカーのグットワードを太倉、太湖とともに迎撃拿捕した<ref name="#14">[[#雪風手記]]57頁</ref><ref>{{cite web|url=http://140.119.115.26/bitstream/140.119/49868/7/15300107.pdf|title=第四章 「解除中立」後的關閉政策 1953-1960|accessdate=2018-05-23}}</ref>。[[1954年]][[6月23日]]にも[[ソビエト連邦]]油槽船トープスを拿捕し、乗組員を拘束。これは中華民国とソ連の間で外交問題に発展し一部の乗組員は1988年まで拘束された<ref name="#11"/>。
{{main|[[トープス号事件]]}}
この時期の中華民国の支配地域は台湾以外では浙江省の[[大陳列島]]や福建省の金門島ぐらいであり、丹陽も1954年に中国が大陳列島への侵攻([[台湾海峡危機|第一次台湾海峡危機]])を開始すると10月に孤立状態の大陳守備隊救援のために人民解放軍の橋頭保となっている周辺の島々へ艦砲射撃を行った<ref name="#10"/>(最終的に中華民国軍は[[大陳島撤退作戦|1955年2月に大陳列島から撤退]])。
当時の乗組員によると艦齢20年をこえた丹陽は28.8ノットを発揮するのが限度だったという<ref>[[#雪風手記]]634頁</ref>。1954年からはそれまでソ連製魚雷艇や日本製海防艦の類いしか持たなかった中国人民解放海軍がソ連から4隻の旧式駆逐艦を購入した上で[[鞍山級駆逐艦]]として配備した他、[[ウィスキー型潜水艦|ウィスキー型]]などの各種潜水艦をソ連から購入して配備し、[[リガ型フリゲート]]のノックダウン生産を開始した<ref>[[#平松1991]]26-33</ref><ref>{{cite web|url=http://www.zgjunshi.com/Article/Class38/Class49/Class50/200912/20091214103435.html|title=中国海军记忆:07型导弹驱逐舰|accessdate=2018-05-23}}</ref>一方、中華民国側も1954年12月の[[米華相互防衛条約]]の調印によりアメリカ海軍の空母[[エセックス (空母)|エセックス]]をはじめとする[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]の支援が受けられるようになった他、1954年2月にアメリカ海軍から洛陽(旧[[ベンソン級駆逐艦]]「[[ベンソン (駆逐艦)|ベンソン]]」、DD-14)や漢陽(旧ベンソン級駆逐艦「ヒラリー・P・ジョーンズ」、DD-15)が編入された。
[[ファイル:ROCS Dan Yang (DD-12).jpg|サムネイル|第二次改装後の丹陽]]
[[1955年]] <ref name="#14"/>、若しくは [[1956年]] <ref>[[#真実の艦艇史]]103頁</ref>、丹陽は弾薬補給の問題により旧日本海軍の武装からアメリカ海軍の武装に換装した。換装後は主砲砲塔をオープントップの[[Mk 12 5インチ砲|38口径5インチ単装両用砲]] 3基に変更、魚雷発射管の位置にオープントップの[[Mk 33 3インチ砲|50口径7.6センチ単装両用砲]]2基を搭載し、[[ボフォース 40mm機関砲|ボフォース40ミリ連装機銃]]4基8門(後にボフォース40ミリ単装機銃10基10門に増強)、爆雷投下軌条を装備となっている<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]176頁</ref>。艦橋下部が前に延長され、船首楼も第一煙突直前まで延長され、方位盤及び測距儀が撤去され探照灯が設置され、さらにマスト上部に[[CXAM#CXBD (SC)|SC対空レーダー]]が取り付けられるなど、上部構造の印象は雪風時代から大きく変わった<ref>[[#歴史群像vol.19陽炎型駆逐艦]]38頁「丹陽側面写真」</ref>。
装備を一新した丹陽はその後も[[1958年]]の八二三[[金門砲戦]]など中国人民解放軍との間で発生した幾度かの実戦に参加したとみられる<ref>[[#雪風手記]]56-57頁、[[#不沈艦生涯(新版)]]177頁、[[#真実の艦艇史]]103頁</ref>。[[1958年]][[9月3日]]の{{仮リンク|九二海戦|zh|九二海戰|label=料羅湾海戦(九二海戦)}}では中国人民解放軍の魚雷艇の攻撃で損傷した砲艦「沱江」(アメリカ製[[173フィート型駆潜艇]])の救援に当たり、無事基地に帰着。その功績により表彰を受けている<ref name="#14"/>。この年の末、丹陽はアメリカ製の旧式駆逐艦の南陽(旧[[グリーブス級駆逐艦|グリーブス級]]駆逐艦「プランケット」、DD-17)が中華民国海軍に編入された事に加えて老朽のため第一艦隊から除かれ<ref name="#15">[[#真実の艦艇史]]104頁</ref>、[[1959年]]から[[1964年]]は主に台湾海峡北区の巡羅支隊に配属となり、福建省の[[馬祖列島]]及び[[烏坵島]]において駐屯、防衛の他演習の任務に当った<ref name="#14"/>。それでも翌年の[[1959年]][[8月3日]]には章江、涪江、資江(いずれもアメリカ製[[173フィート型駆潜艇]])とともに[[中国人民解放軍海軍]]の[[コルベット]]2隻と交戦し、1隻撃沈、1隻撃破の戦果をあげた<ref name="#14"/><ref>{{cite web|url=https://nmda.teldap.tw/page_book01_01_dd12.htm|title=丹陽軍艦 丹陽沿革史|accessdate=2021-07-9}}</ref>。[[1964年]][[5月1日]]にも船団旗艦として5隻を連れて航行中、中国人民解放軍海軍の[[巡視艇]](Patrol Craft)8隻、[[貨物船]](PTC)4隻と遭遇、撃退したと伝えられる(敵船1隻を大破、2隻を小破)<ref name="#14"/>。
{{要出典範囲|1960年の[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]米大統領の訪台時には歓迎艦隊の旗艦としてアイゼンハワー大統領の座乗する重巡洋艦セントポールを迎えた他|date=2018年5月}}、[[1964年]]12月に行われた[[観艦式]]でも旗艦として雄姿を見せたが<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]449頁</ref>、機関の老朽化によって[[1965年]][[12月16日]]に退役。[[1966年]][[11月16日]]付で予備艦に編入され、 [[高雄]]の海軍軍官学校に繋留された状態で練習艦(停泊練習艦)として使用された<ref name="#15"/>。この頃になるとアメリカ海軍から[[フレッチャー級駆逐艦|フレッチャー級]]の引き渡しが始まっていた(1967年以降)他、4隻の鞍山級駆逐艦が主力だった人民解放海軍も新時代の兵器であるミサイル艇([[コマール型ミサイル艇|コマール型]]、[[オーサ型ミサイル艇|オーサ型]])や通常動力弾道ミサイル潜水艦([[ゴルフ型潜水艦|ゴルフ型]])を配備するようになっていた<ref>[[#平松1991]]46頁</ref><ref>{{cite web|url=http://russianships.info/eng/warfareboats/project_183r.htm|title=Small missile boat - Project 183R|accessdate=2018-05-23}}</ref>。[[1970年]]に正式に軍を除籍となり、翌年の[[1971年]][[12月31日]](後述する台湾側の発表によれば1970年前半)に解体が完了した<ref>[[#真実の艦艇史]]105頁</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jacar.go.jp/glossary/fukuin-hikiage/column/column2.html|title=コラムNo.2 【 戦時賠償艦 ~ふたたび外洋に向かった「軍艦」~ 】|work=[[アジア歴史資料センター]]|accessdate=2020-03-28}}</ref>。
旧乗員が中心となって1966年に結成された「雪風永久保存期成会」(会長:[[野村直邦]])や雪風返還運動議員連盟(会長:[[岸信介]])などの活動もあり、「最後の日本海軍艦艇」{{Refnest|group="注釈"|記述は出典のまま。正しくは最後の日本海軍艦艇は雪風ではなく、国内では[[松型駆逐艦|改丁型駆逐艦]]の[[わかば (護衛艦)|梨]]が海上自衛隊の護衛艦わかばとして<ref>[[#特型駆逐艦]]p.94</ref>、運送艦の[[宗谷 (船)|宗谷]]も[[海上保安庁]]で現役だった。賠償艦として海外に引渡された艦艇が在籍しており、中国へ引き渡された恵安(旧海防艦[[日振型海防艦|四阪]])は1990年まで現役だった<ref>[[#真実の艦艇史2]]p.139</ref>。}}の日本への返還が希望され、実現一歩手前までこぎつけたとも言われる<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]178-181頁</ref>。1967年には[[蒋経国]]国防部長に請願書が送られた<ref name="#17">[[#雪風手記]]33頁</ref>。
翌年には代議士の[[志賀健次郎]]が渡台して蒋経国に返還を打診した<ref name="#17"/>。
しかし艦艇研究家の田村俊夫が調査した所では、中華民国側は雪風を日本へ返還しない事を決めていたという<ref>[[#真実の艦艇史]]104-105頁</ref>。
その後の1970年6月20日に中華民国側から[[1969年]]の[[台風]]による浸水で損傷した為、[[1970年]]前半に解体が行われ、作業は完了したため部品は残っていないとの連絡があった{{Refnest|group="注釈"|前述の「[[1971年]][[12月31日]]に解体」の記録と矛盾し、後の部品の引き渡しや展示という事実とも矛盾する。}}<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]195頁</ref><ref name="名前なし_3-20231105133044">[[#雪風手記]]644頁</ref>。あまりに突然の連絡だったため、マスコミでは“生存説”が流れた<ref name="名前なし_4-20231105133044">[[#雪風手記]]90頁</ref>。1971年12月8日、横浜港において中華民国政府より舵輪と錨のみが返還された<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]203-204頁</ref>。[[田中内閣]]による[[日中国交正常化]]交渉とそれに伴う[[日台断交]]の約10ヶ月前だった。雪風の舵輪は[[江田島市#名所・旧跡|江田島]]の旧[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]・教育参考館に、錨はその庭に展示されている<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]450頁、[[#雪風手記]]12頁</ref>。また、雪風のスクリューは台湾の左営にある[[海軍軍官学校]]に展示されている<ref>[[#雪風手記]]356頁</ref>。
{{Quotation|戦後、彼女の日本への返還運動が起こり、結局里帰りは実現しなかったとはいえ、マスコミや政界も巻き込んだ大きな運動となった。それは彼女が地道に任務を果たし続けた姿が日本人の心の琴線に触れ、戦場をくぐり抜けて戦後も生き続けた姿が焼跡から復興した日本そのものの姿に重なるのかもしれない。<br>雪風は単なる幸運艦ではない。派手さはなくともやるべきことをやり遂げ、決して諦めないこと。人にも国にも必要なそんな彼女の精神を江田島の古びた錨は、現代のわれわれに訴えかけているのかもしれない<ref>雑誌丸 2005年3月号 91ページ</ref>。}}
雪風の艦名は、戦後初の国産[[護衛艦]]である「[[はるかぜ型護衛艦|はるかぜ型]]」の2番艦は「[[ゆきかぜ (護衛艦)|ゆきかぜ]]」と命名されるなど、[[海上自衛隊]]でも伝承されている。
<gallery widths="250px" heights="167px">
File:Yukikaze ikari 01.jpg|雪風の錨。
</gallery>
== 評価と逸話 ==
=== 評価 ===
:戦後、[[文藝春秋]]誌上にて[[三川軍一]]、[[淵田美津雄]]、[[千早正隆]]ら戦争体験者36名に日本海軍637隻から名艦ベスト5を選ぶ企画を行った所、雪風(11票)は大和(20票)、瑞鶴(12票)に続く3番目の投票数を得た<ref>[[#軍艦戦記]]p.111-155</ref>。この時の選考者は艦隊司令官から一兵卒までの元軍人、更に造船官や随伴報道員といった広い範囲から意見を募ったが、嘗て雪風に乗り組んだ関係者がいない中での高評価である。大和が当代希にみるスケールの大きな戦艦と優秀な設計、瑞鶴が優れた武勲と翔鶴型空母の設計の優秀さから名艦として評価され、雪風は「出撃いとまなく東奔西走し終戦まで生き長らえた名駆逐艦」([[青山光二]]元上等衛生兵、戦後は作家)<ref>[[#軍艦戦記]]p.120</ref>、「戦争中の最大の働き手であった駆逐艦の代表として最も相応しい艦」(千早正隆元連合艦隊参謀、戦史作家)<ref>[[#軍艦戦記]]p.126-127</ref>、「その活躍は航空母艦と同様に最も華々しく具体的なものではなかったか」([[森下泰]]元海軍主計大尉、戦後は参議院議員)<ref>[[#軍艦戦記]]p.138</ref>など、太平洋戦争中の働きと活躍を評価されている。
:軍事評論家の[[伊藤正徳 (軍事評論家)|伊藤正徳]]は著書「連合艦隊の栄光」において雪風を世界一の幸運艦として紹介し、「軍艦としての武運長久などの形容詞より、幸運(好運)という平凡な表現の中に雪風の偉大さを求めたい」と記した<ref name="#18">[[#連合艦隊栄光]]p.209</ref>。
:近現代史評論、戦史研究家の[[半藤一利]]は雪風を栄光の駆逐艦とする評価に否定的で、水雷戦を想定して製造されながら、船団護衛や船団代わりの輸送などの予想外の役割に死力を尽くして働かなければならなかった雪風は、近代戦の持つ過酷さに対する証人であり、悲劇の消耗品だったと記している<ref>[[#完伝列伝]]p.452-453</ref>。一方で半藤は雪風の経歴を多くの誌面を割いて記述するなど、艦や乗員たちの働きについては好意的であり、錨と舵輪のみが残された最後を「まことにさっぱりしていい。負け戦で何が記念か。「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」、雪風は真の船乗りらしくそれを示したのだろう」と締め括った<ref>[[#完伝列伝]]p.478</ref>。
:元海軍大尉で、作家、評論家の[[阿川弘之]]は雪風の歴代艦長の調査や取材を通じ、雪風は訓練がよく行き届いた艦であり、幸運艦と言ってもキューピットの気まぐれによるものというよりは、自ら助くるものを助くといった筋の通ったものの様だと雪風を評した<ref>[[#連合艦隊名リーダー]]p.311</ref>。[[天号作戦|天一号作戦]]で雪風と共に出撃した駆逐艦[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]の水測士の土橋久男元少尉が阿川の評価を裏付ける証言を残している。土橋元少尉は雪風と同じ戦隊で応急処置の訓練を行った事を回顧し、「訓練ではいつも雪風が群を抜いて早く正確に応急処置ができていた。日頃の訓練の成果が好運艦、強運艦を生んだのであって、単に偶然が好運艦を生んだのではないと感じた」と述べた<ref>[[#特攻大和]]p.246-247</ref>。砲術指導のため雪風に赴いた冬月乗組員は、雪風の艦内や部署が清潔であることに驚き、どこか違う雰囲気を感じたと回想している{{Sfn|最後の水兵|2014|p=43}}。
=== 史実に基づく逸話 ===
*戦争中から幸運艦として有名だった
:軍事記者として活動した伊藤正徳によれば雪風は太平洋戦争中から強運の艦として知られていたが、軍艦(駆逐艦)であるから武運艦、強運艦と呼ばれるのが普通であったとされ<ref name="#18"/>、冬月の土橋元少尉の証言の他<ref>[[#特攻大和]]p.247</ref>、雪風に救助された大和の元高角砲員の証言にも歴戦の強運艦として雪風を伝える記述がある<ref>[[#坪井大和]]p.275</ref>。コロンバンガラ島沖海戦で神通が沈没し、続いてアメリカ艦隊の砲撃が反転した雪風に集中すると、砲弾が雪風の艦尾すれすれに幾つも落下したが、海上に投げ出された神通の生存者たちは「雪風には幸運の女神が鎮座ましましていると、艦隊の誰もが信じていたから」と安心して見ていたと言う<ref>[[#福本雪風]]p.104-108 田中雄二郎(元神通乗組員、戦後は東京家具商)証言</ref>。
:雪風は強運艦であると同時に不沈艦、不死身の艦として味方の兵の間で有名であり、ラバウルやソロモン泊地では、同じく不沈艦として有名だった時雨と共に「呉の雪風、佐世保の時雨」と称えられた<ref>[[#帝国海軍の最後]]p.128</ref>。「雪風のペンキを剥がしてお守りにすれば霊験あらたかだ」と雪風にあやかる兵もいたとある<ref>[[#不沈艦生涯]]p.90</ref>。第27駆逐隊司令就任時に時雨で指揮を執った[[原為一]]元海軍大佐は「雪風と時雨は戦闘において武勲を争い、「よろずにおいて人に勝る心」をモットーとして互いに励み合った」と回想した<ref>[[#帝国海軍の最後]]p.141-142</ref>。
:他に雪風は超機敏艦<ref name="#19">[[#帝国海軍の最後]]p.141</ref><ref>[[#不沈艦生涯(新版)]]p.92</ref>、神宿る艦<ref>[[#証言大和]]p.246</ref>と称されたとする著書がある。これらは敵の襲撃を予見して常に艦を出撃できる体勢で待機させた飛田艦長<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]p.32-33</ref>や菅間艦長<ref name="#19"/>の逸話、雪風を退艦する際部下に「雪風は沈まない。雪風は武運の神が宿る艦だ」とする餞の言葉を送った菅間艦長の逸話<ref>[[#雪風手記]]p.317</ref>に由来する。
<!--
*[[タレント]][[榊原郁恵]]の父親、榊原善明(さかきばら・よしあき)が、終戦直後に復員輸送艦となった雪風に乗船していたという<ref>{{Cite news
| title = 女優・榊原郁恵さん 皆さんに愛される人間に
| newspaper = [[産經新聞]]
| date = 2017-02-22
| url = https://www.sankei.com/article/20170222-YQ2HUF3HGFNLPFF5XIH2FRCMZE/
| accessdate = 2025-07-12
}}</ref>。
(著名人の乗船情報とかならまだしも、父親とか、こんなことここに書く必要あるか)
-->
=== 裏付けがなく真偽が定かでない逸話 ===
*雪風は味方に死神と呼ばれ嫌われた
:円道祥之は「雪風の近くにいた艦は必ず沈没し多くの戦死者を出したため、雪風は味方の兵から死神、厄病神と嫌われたと言う」と記し<ref>[[#軍艦列伝]]p.347</ref>、有馬桓次郎も「激しい戦いの中でも雪風のみ無傷であったため味方から死神と言われた」とする逸話を著した<ref>[[#奮闘の航跡]]p.181</ref>。
:これとは逆に、雪風の近くにいた艦も無傷で帰還した記録や、雪風の僚艦の損害や戦死者が出なかった事を記した資料や著書が多く出されている。詳細と出典は戦歴の項、および後述の戦歴一覧を参照。軍事・戦史研究家らによる著書や戦史叢書などの研究資料、戦闘詳報や戦時日誌などの当時の記録資料では、雪風が出撃して味方に被害が出なかった任務の方が多く、「雪風の近くにいた艦は必ず沈没し多くの戦死者を出した」、「激しい戦いの中でも雪風のみ無傷であった」と言う逸話はこれらの資料と合致しない。
{{hidden begin
|title =雪風・丹陽の戦歴一覧。表示する場合は右の[表示]をクリック。
|titlestyle = background: lightgrey; text-align:center;
}}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
!№
!西暦
!月日
!作戦・任務
!所属部隊の編制・僚艦
!任務・戦闘の結果
!雪風の僚艦の損害
|-
|style="text-align: center;"|1
|[[1941年]]
|[[12月12日]]
|レガスピ上陸支援<ref name="a" />
|時津風、陸軍上陸船団4隻
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|2
|
|[[12月24日]]
|ラモン湾上陸支援<ref name="b" />
|時津風、長良、海風、山風、江風、涼風、掃海艇
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|3
|[[1942年]]
|[[1月11日]]
|ケマ上陸支援<ref name="c" />
|第1号、第2号哨戒艇、北陸丸、葛城丸
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|4
|
|[[1月24日]]
|ケンダリー上陸支援<ref name="d" />
|時津風、天津風、初風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|5
|
|[[1月31日]]
|アンボン上陸支援<ref name="e" />
|神通、時津風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|6
|
|[[2月20日]]
|チモール島上陸支援<ref name="f" />
|時津風、天津風、初風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|7
|
|[[2月27日]]
|[[スラバヤ沖海戦]] <ref name="g" />
|神通、時津風、天津風、初風
|日本軍勝利
|
|-
|style="text-align: center;"|8
|
|[[3月3日]]
|スラバヤ北方海域掃討任務<ref name="h" />
|神通、時津風、第7、第10駆逐隊
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|9
|
|[[3月29日]]
|セラム島ブラ攻略作戦<ref name="ia" />
|第2号哨戒艇、第39号哨戒艇
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|10
|
|[[4月1日]]
|ニューギニア島ファクファク攻略作戦<ref name="ib" />
|千歳、鬼怒、早鞆、初雁、友鶴、他
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|11
|
|[[4月4日]]
|ニューギニア島ソロン攻略作戦<ref name="ic" />
|千歳、鬼怒、早鞆、初雁、友鶴、他
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|12
|
|[[4月7日]]
|ハルマヘラ島テルナデ攻略作戦<ref name="id" />
|時津風、千歳、瑞穂、鬼怒、早鞆、初雁、第1号、第2号、第38号、第39号哨戒艇、特設船3隻
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|13
|
|[[4月8日]]
|ハルマヘラ島ジャイロロ攻略作戦<ref name="ie" />
|時津風、千歳、瑞穂、鬼怒、早鞆、初雁、第1号、第2号、第38号、第39号哨戒艇、特設船3隻
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|14
|
|[[4月12日]]
|ニューギニア島マノクワリ上陸支援<ref name="j" />
|時津風、千歳、瑞穂、鬼怒、早鞆、初雁、特設船1隻
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|15
|
|[[4月17日]]
|セルイ島掃討作戦<ref name="ja" />
|鬼怒、早鞆、初雁、友鶴、特設船1隻
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|16
|
|[[4月19日]]
|ニューギニア島サルミ掃討作戦<ref name="jb" />
|鬼怒、早鞆、初雁、友鶴、特設船1隻
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|17
|
|[[4月23日]]
|明石護衛・呉回航<ref name="k" />
|時津風、明石
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|18
|
|[[5月22日]]
|日栄丸、あけぼの丸護衛・サイパン進出<ref name="l" />
|時津風、初風、日栄丸、あけぼの丸
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|19
|
|[[6月6日]]
|[[ミッドウェー海戦]]・輸送船団護衛<ref name="m" />
|第二水雷戦隊、輸送船団14隻
|日本軍敗北
|海戦前日の空襲で輸送船一隻が小破
|-
|style="text-align: center;"|20
|
|[[6月15日]]
|神通護衛・横須賀回航<ref name="n" />
|神通、時津風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|21
|
|[[7月14日]]
|南海丸護衛・ラバウル進出<ref name="o" />
|時津風、南海丸
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|22
|
|[[7月29日]]
|鳥海護衛<ref name="p" />
|鳥海、時津風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|23
|
|[[8月5日]]
|最上、明石護衛・内地回航<ref name="q" /><ref name="qa" /><ref name="qb" />
|最上、時津風、明石
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|24
|
|[[9月4日]]
|雲鷹護衛・トラック島進出<ref name="r" />
|雲鷹、天津風、初風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|25
|
|[[10月12日]]
|ヌデニ島偵察<ref name="s" />
|天津風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|26
|
|[[10月21日]]
|[[南太平洋海戦]] <ref name="t" />
|翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、熊野、第4、第16、第17、第61駆逐隊
|日本軍勝利
|翔鶴中破、瑞鳳小破<ref name="ta" />
|-
|style="text-align: center;"|27
|
|[[11月12日]]
|[[第三次ソロモン海戦]]・第一夜戦<ref name="u" />
|挺身艦隊
|作戦失敗
|比叡、暁、夕立沈没、天津風、村雨、雷小破、この戦いでは雪風も小破した<ref name="ua" />
|-
|style="text-align: center;"|28
|
|[[12月9日]]
|飛鷹護衛・内地回航<ref name="v" />
|飛鷹、初雪
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|29
|[[1943年]]
|[[1月19日]]
|武蔵、第一航空戦隊護衛・トラック島進出<ref name="w" />
|武蔵、瑞鶴、瑞鳳、大淀、第10駆逐隊
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|30
|
|[[2月1日]]
|[[ケ号作戦]] (ガタルカナル島撤収作戦・第一次) <ref name="x" />
|駆逐艦隊20隻
|成功
|巻雲沈没、巻波小破<ref name="y" />
|-
|style="text-align: center;"|31
|
|[[2月4日]]
|[[ケ号作戦]] (ガタルカナル島撤収作戦・第二次) <ref name="x" />
|駆逐艦隊20隻
|成功
|舞風大破、黒潮、江風小破<ref name="y" />
|-
|style="text-align: center;"|32
|
|[[2月7日]]
|[[ケ号作戦]] (ガタルカナル島撤収作戦・第三次) <ref name="x" />
|駆逐艦隊16隻
|成功
|磯風大破<ref name="z" /> ケ号作戦における損害は予想より遥かに少なかったと評されている<ref name="za" />
|-
|style="text-align: center;"|33
|
|[[3月3日]]
|第八十一号ラエ輸送作戦([[ビスマルク海海戦]]) <ref name="aa" />
|時津風、白雪、朝潮、荒潮、敷波、浦波、朝雲、輸送船団8隻
|失敗
|時津風、白雪、朝潮、荒潮、輸送船8隻沈没
|-
|style="text-align: center;"|34
|
|[[3月8日]]
|コロンバンガラ島輸送任務<ref name="ab" /><ref name="叢書ガ島撤収後77" />
|朝雲、長月、浦波、敷波
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|35
|
|[[3月13日]]
|コロンバンガラ島輸送任務<ref name="叢書ガ島撤収後77" />
|朝雲、長月
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|36
|
|[[4月2日]]
|サンタイサベル島輸送作戦<ref name="ac" />
|天霧、望月
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|37
|
|[[4月3日]]
|亜豊丸、宝運丸、厚丸護衛・ラバウル進出<ref name="ad" />
|第38号哨戒艇、亜豊丸、宝運丸、厚丸
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|38
|
|[[4月10日]]
|フィッシュハーヘン輸送任務<ref name="af" />
|五月雨、秋雲、夕雲 (秋雲、夕雲とは途中で分離)
|失敗
|
|-
|style="text-align: center;"|39
|
|[[4月13日]]
|フィッシュハーヘン(ツルブ)輸送任務<ref name="ag" />
|五月雨
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|40
|
|[[4月18日]]
|神川丸護衛・トラック島進出<ref name="ah" />
|秋雲、夕雲、神川丸
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|41
|
|[[5月3日]]
|第一航空戦隊護衛・内地回航<ref name="ai" />
|瑞鶴、瑞鳳、阿賀野、秋雲、夕雲
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|42
|
|[[5月11日]]
|大和、榛名、雲鷹、沖鷹護衛<ref name="aj" />
|大和、妙高、榛名、雲鷹、沖鷹、夕暮、潮、長波、五月雨
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|43
|
|[[6月16日]]
|第三戦隊、第七戦隊護衛・トラック島進出<ref name="ak" /><ref name="aka" />
|金剛、榛名、熊野、鈴谷、龍鳳、大鷹、冲鷹、五十鈴、第7、第27、第17駆逐隊、新月、清波
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|44
|
|[[6月22日]]
|ナウル島輸送任務(第二次輸送隊) <ref name="al" /><ref name="叢書(62)海軍369" />
|長良、浜風(帰路合流)
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|45
|
|[[6月30日]]
|鳥海護衛・ラバウル進出<ref name="am" /><ref name="ama" />
|鳥海、谷風、涼風、江風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|46
|
|[[7月5日]]
|鳴戸護衛<ref name="amb" />
|浜風、谷風、鳴戸
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|47
|
|[[7月6日]]
|第十一戦隊航空司令部輸送任務・ブイン進出<ref name="amb" />
|鳥海、夕暮
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|48
|
|[[7月9日]]
|コロンバンガラ島輸送任務<ref name="an" />
|鳥海、川内、浜風、谷風、夕暮、皐月、三日月、松風、夕凪
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|49
|
|[[7月12日]]
|コロンバンガラ島輸送任務([[コロンバンガラ島沖海戦]]) <ref name="ao" /><ref name="aoa" />
|神通、浜風、三日月、清波、夕暮、皐月、水無月、松風、夕凪
|成功
|神通沈没<ref name="aoa" />
|-
|style="text-align: center;"|50
|
|[[7月18日]]
|コロンバンガラ島輸送任務<ref name="ap" />
|熊野、鈴谷、鳥海、川内、浜風、清波、夕暮、三日月、水無月、松風
|成功
|清波、夕暮沈没、熊野中破、水無月、松風小破<ref name="apa" />
|-
|style="text-align: center;"|51
|
|[[7月23日]]
|コロンバンガラ島輸送任務<ref name="叢書ガ島撤収後249"/>
|三日月、浜風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|52
|
|[[7月25日]]
|熊野、風早護衛・トラック島回航<ref name="aq" /><ref name="ar" />
|熊野、風早、浜風
|成功
|風早微損
|-
|style="text-align: center;"|53
|
|[[8月28日]]
|熊野護衛・呉回航<ref name="ar" /><ref name="as" />
|熊野、舞風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|54
|
|[[10月9日]]
|龍鳳護衛・シンガポール輸送任務<ref name="at" />
|龍鳳
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|55
|
|[[10月25日]]
|龍鳳護衛・内地回航<ref name="au" />
|龍鳳
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|56
|
|[[11月15日]]
|伊良湖、輸送船団護衛・トラック島進出<ref name="av" /><ref name="ava" />
|千歳、天津風、伊良湖、靖国丸、輸送船2隻
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|57
|
|[[12月7日]]
|伊良湖、輸送船団護衛・内地回航<ref name="aw" />
|千歳、天津風、伊良湖、靖国丸
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|58
|[[1944年]]
|[[1月10日]]
|ヒ三一船団護衛・シンガポール進出<ref name="叢書(46)383" />
|千歳、天津風、ヒ三一船団輸送船4隻
|成功
|天津風大破<ref name="ax" />
|-
|style="text-align: center;"|59
|
|[[1月25日]]
|ヒ三二船団護衛・内地回航<ref name="ay" />
|千歳、三宅、ヒ三二船団輸送船6隻
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|60
|
|[[2月13日]]
|千歳護衛・サイパン島航空機輸送任務<ref name="az" />
|千歳、初霜
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|61
|
|[[2月29日]]
|千歳護衛・内地回航<ref name="az" /><ref name="ba" />
|千歳、初霜
|任務中止
|
|-
|style="text-align: center;"|62
|
|[[3月1日]]
|安藝丸船団救助<ref name="bb" />
|初霜、東山丸
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|63
|
|[[3月7日]]
|千歳、東山丸護衛と陸軍兵団輸送任務・内地回航<ref name="bc" />
|千歳、初霜、東山丸
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|64
|
|[[3月19日]]
|瑞鳳護衛<ref name="bd" />
|瑞鳳、山雲
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|65
|
|[[3月24日]]
|千歳護衛<ref name="be" /><ref name="bea" />
|千歳、山雲
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|66
|
|[[3月27日]]
|瑞鳳、龍鳳、千歳護衛・サイパン・グアム輸送任務<ref name="bf" /><ref name="bfa" />
|瑞鳳、龍鳳、千歳、能代、山雲、初霜
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|67
|
|[[4月3日]]
|瑞鳳、龍鳳護衛・呉回航<ref name="bg" />
|瑞鳳、龍鳳、山雲
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|68
|
|[[4月21日]]
|大和、摩耶護衛・リンガ泊地進出<ref name="bh" /><ref name="S1812十戦隊(6)10" />
|大和、摩耶、島風、早霜
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|69
|
|[[5月16日]]
|第五戦隊護衛・タラカン島進出<ref name="S1812十戦隊(6)9" />
|妙高、羽黒、磯風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|70
|
|[[5月18日]]
|第五戦隊護衛・タウイタウイ泊地回航<ref name="S1812十戦隊(6)9" />
|妙高、羽黒、磯風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|71
|
|[[5月22日]]
|第三航空戦隊護衛・訓練随伴任務<ref name="S1812十戦隊(6)9" /><ref name="S1812十戦隊(6)42" />
|千歳、千代田、瑞鳳、磯風、浦風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|72
|
|[[6月1日]]
|タウイタウイ泊地哨戒任務<ref name="bj" />
|
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|73
|
|[[6月15日]]
|第二補給部隊護衛<ref name="bl" /><ref name="bm" />
|浦風、秋月、第二補給部隊
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|74
|
|[[6月19日]]
|[[マリアナ沖海戦]]・補給部隊護衛<ref name="bk" /><ref name="bn" />
|響、初霜、夕凪、卯月、栂、輸送船8隻
|日本軍敗北
|玄洋丸、清洋丸沈没(2艦とも自沈処理で玄洋丸は戦死者なし) 、速吸小破<ref name="br" />
|-
|style="text-align: center;"|75
|
|[[6月28日]]
|内地回航・漂流船救助<ref name="bs" /><ref name="bsa" />
|
|-
|
|-
|style="text-align: center;"|76
|
|[[9月22日]]
|山城、扶桑護衛・リンガ泊地進出<ref name="bt" /><ref name="bu" />
|山城、扶桑、磯風、浜風、浦風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|77
|
|[[10月22日]]
|[[レイテ沖海戦]] <ref name="bv" />
|第一遊撃部隊第二部隊
|日本軍敗北
|鈴谷、筑摩、野分沈没、熊野大破<ref name="bw" /><ref name="bx" /><ref name="bxa" />
|-
|style="text-align: center;"|78
|
|[[11月5日]]
|隼鷹、利根、木曾護衛・ブルネイ嚮導任務<ref name="by" />
|隼鷹、利根、木曾、浦風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|79
|
|[[11月8日]]
|隼鷹、利根、木曾護衛・マニラ湾進出<ref name="bz" />
|大和、長門、金剛、榛名、足柄、矢矧、第17駆逐隊、隼鷹、利根、木曾、卯月、夕月
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|80
|
|[[11月16日]]
|ブルネイ泊地空襲<ref name="ca" />
|
|-
|
|-
|style="text-align: center;"|81
|
|[[11月16日]]
|大和、長門、金剛護衛・内地回航<ref name="ca" />
|大和、長門、金剛、矢矧、磯風、浦風、浜風
|失敗
|金剛、浦風沈没<ref name="cb" />
|-
|style="text-align: center;"|82
|
|[[11月24日]]
|長門護衛<ref name="cc" />
|長門、磯風、浜風
|成功
|
|-
|style="text-align: center;"|83
|
|[[11月28日]]
|信濃護衛<ref name="cd" />
|信濃、磯風、浜風
|失敗
|信濃沈没
|-
|style="text-align: center;"|84
|
|[[12月28日]]
|龍鳳、ヒ八七船団護衛・台湾輸送任務<ref name="ce" />
|龍鳳、磯風、浜風、時雨、ヒ八七船団
|途中で離脱
|
|-
|style="text-align: center;"|85
|[[1945年]]
|[[3月19日]]
|呉軍港空襲<ref name="cf" />
|
|-
|
|-
|style="text-align: center;"|86
|
|[[4月7日]]
|[[坊ノ岬沖海戦]] <ref name="cg" />
|大和、矢矧、磯風、浜風、霞、朝霜、初霜、冬月、涼月
|失敗
|大和、矢矧、磯風、浜風、霞、朝霜沈没、涼月大破、冬月中破<ref name="cg" />
|-
|style="text-align: center;"|87
|
|[[5月15日]]
|舞鶴回航<ref name="ch" />
|初霜
|-
|
|-
|style="text-align: center;"|88
|
|[[7月30日]]
|宮津湾空襲<ref name="ci" />
|初霜、長鯨
|-
|初霜大破、長鯨中破<ref name="ci" />
|-
|style="text-align: center;"|89
|[[1953年]]
|[[8月]]
|フィリピン親善訪問<ref name="#11"/>
|太昭、太湖
|成功
|-
|-
|style="text-align: center;"|90
|[[1953年]]
|[[10月4日]]
|プラカ号拿捕<ref name="#12"/><ref>{{cite web|url=http://140.119.115.26/bitstream/140.119/49868/7/15300107.pdf|title=第四章 「解除中立」後的關閉政策 1953-1960|accessdate=2018-05-23}}</ref>
|太倉
|成功
|-
|-
|style="text-align: center;"|91
|[[1954年]]
|[[4月]]
|ユリウス・フチーク号拿捕<ref>{{cite web|url=http://140.119.115.26/bitstream/140.119/49868/7/15300107.pdf|title=第四章 「解除中立」後的關閉政策 1953-1960|accessdate=2018-05-23}}</ref>
|太平
|失敗
|-
|-
|style="text-align: center;"|92
|[[1954年]]
|[[5月12日]]
|グットワード号拿捕<ref name="#14"/><ref>{{cite web|url=http://140.119.115.26/bitstream/140.119/49868/7/15300107.pdf|title=第四章 「解除中立」後的關閉政策 1953-1960|accessdate=2018-05-23}}</ref>
|太倉、太湖
|成功
|-
|-
|style="text-align: center;"|93
|[[1954年]]
|[[6月23日]]
|トープス号拿捕<ref name="#11"/>
|太康
|成功
|-
|-
|style="text-align: center;"|94
|[[1954年]]
|[[10月]]
|高島、頭門、大小鹿、羊嶼砲撃<ref name="#10"/>
|-
|成功
|-
|-
|style="text-align: center;"|95
|[[1958年]]
|[[9月2日]]
|92海戦<ref name="#14"/>
|信陽、沱江
|成功
|-
|-
|style="text-align: center;"|95
|[[1959年]]
|[[8月3日]]
|馬祖・葡礁沖での海戦<ref name="#14"/><ref>{{cite web|url=https://nmda.teldap.tw/page_book01_01_dd12.htm|title=丹陽軍艦 丹陽沿革史|accessdate=2021-07-9}}</ref>
|章江、涪江、資江
|成功
|-
|}
{{hidden end}}
:雪風の元乗組員は2011年に放送されたNHK証言記録で、戦争中の雪風は味方に避けられるどころか奴隷を使うようにこき使われたと証言している。兵員や物資の輸送作戦、内地に戻る戦艦や空母の護衛、再び南太平洋での輸送作戦など、ある任務が終わってやれやれと思うともう次の仕事が待っているような恰好で、休みなしで出撃するので雪風が不在となった軍の工廠では「雪風は沈んだ」と思われていたことまであったと言う。この元乗組員は「雪風があまりに運が良過ぎるといい方に宣伝されるので、逆に厄神だと悪い方に言う連中が出てきたらしい」と、実際の雪風やその経歴とは関係ない風評だと推測している<ref>[[#兵士たちの戦争(7)]] P.151-152、{{Cite web|和書|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001100766_00000|title=NHKアーカイブス:「戦艦大和から駆逐艦へ」|accessdate=2025-4-27}}</ref>。
:戦争経験者による著書や回顧録の中に雪風を死神と呼んだ兵の証言や存在についての記述はない。
:円藤らの著書は2000年以降になって発行されたものだが<ref group="注釈">円道祥之、有馬桓次郎とも戦後生まれの作家であり、円藤は「[[空想歴史読本]]」など主にアニメーション作品の評論誌を出版している作家。有馬はアスキー出版や[[イカロス出版]]のミリタリー雑誌に寄稿しているライターで、同人サークル「スタジオゴンドワナ」を主宰し、日本海軍艦艇を取り扱ったブラウザゲーム「[[艦隊これくしょん -艦これ-|艦隊これくしょん]]」や、戦車を取り扱ったアニメ「[[ガールズ&パンツァー]]」などの同人誌を発行している。</ref>、雪風の返還運動があった1965年から1971年にかけて、[[朝日新聞]](1965年11月6日)<ref>[[#雪風手記]]p.71-72</ref>、[[東京新聞]](1969年3月31日)<ref>[[#雪風手記]]p.88-89</ref>、[[週刊読売]](1969年8月22日)<ref>[[#雪風手記]]p.93-94</ref>、[[読売新聞]](1971年1月26日)<ref>[[#雪風手記]]p.97-98</ref>、[[夕刊フジ]](1969年6月7日および1971年2月28日)<ref>[[#雪風手記]]p.90-91、p.100-101</ref>の各誌が雪風に関する記事を掲載した際、当時これらの報道で雪風が味方から死神と呼ばれたとする記述は無く、この逸話は近年になって後付された疑いがある。
*雪風の解体時期について
:丹陽(雪風)の解体完了時期ははっきりしておらず、マスコミの報道や書籍などの記述でも「1970年初頭」と「1971年12月」と二通りのものがあり、2年近いズレがある。「1970年前半に解体完了」という情報は1970年6月に台湾当局が発表したとされるもので当時の新聞報道にも記載されているが<ref name="名前なし_3-20231105133044"/>、その後にいつ頃からか「1971年12月31日に解体完了」という記述が登場し、現在では大部分の書籍等でこの年月日が雪風の解体完了時期とされているがこの情報がいつどこから出てきて置き換わったのかについてははっきりしていない。また1970年6月の発表では部品は残っていないとされたが<ref name="名前なし_3-20231105133044"/>、その後錨などが返還された。
:関連する情報として1970年代当時の新聞雑誌には現地からの目撃情報として「解体されたとされる雪風が実際にはまだ解体されておらず、港に係留されている」という内容の記事が複数載ったことがあった<ref name="名前なし_4-20231105133044"/>。
==艦長==
[[ファイル:Japanese destroyer Yukikaze;h73052.jpg|thumb|300px|right|雪風<br />[[1940年]](昭和15年)1月の撮影とされる。この写真は本艦の士官室に掲げられていたもの。]]
;艤装員長
#[[田口正一]] 少佐/中佐:1939年8月1日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076200|昭和14年8月3日付 海軍辞令公報 (部内限) 第365号}}</ref> - 1939年12月5日<ref name="jirei19391207">{{アジア歴史資料センター|C13072077200|昭和14年12月7日付 海軍辞令公報 (部内限) 第412号}}</ref>
;駆逐艦長
(注)1945年12月20日以降は「艦長」<ref>昭和20年12月20日付 第二復員省 内令第12号</ref>。
#田口正一 中佐:1939年12月5日<ref name="jirei19391207" /> - 1940年11月15日<ref name="jirei19401115">{{アジア歴史資料センター|C13072079400|昭和15年11月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第555号}}</ref>
#[[脇田喜一郎]] 中佐:1940年11月15日<ref name="jirei19401115" /> - 1941年7月25日<ref name="jirei19410725">{{アジア歴史資料センター|C13072081600|昭和16年7月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第678号}}</ref>
#[[飛田健二郎]] 中佐:1941年7月25日<ref name="jirei19410725" /> - 1942年6月23日<ref name="jirei19420623">{{アジア歴史資料センター|C13072085900|昭和17年6月23日付 海軍辞令公報 (部内限) 第888号}}</ref>
#[[菅間良吉]] 中佐:1942年6月23日<ref name="jirei19420623" /> - 1943年12月10日<ref name="jirei19431210">{{アジア歴史資料センター|C13072094800|昭和18年12月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1278号}}</ref>
#[[寺内正道]] 少佐/中佐:1943年12月10日<ref name="jirei19431210" /> - 1945年5月10日<ref name="jirei19450522">{{アジア歴史資料センター|C13072105000|昭和20年5月22日付 秘海軍辞令公報 甲 第1806号}}</ref>
#[[古要桂次]] 中佐:1945年5月10日<ref name="jirei19450522" /> - 1945年11月20日<ref name="jirei19451212">{{アジア歴史資料センター|C13072157700|昭和20年12月12日付 第二復員省辞令公報 甲 第10号}}</ref>
#[[橋本以行]] 中佐:1945年11月20日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072108400|昭和20年11月29日付 海軍辞令公報 甲 第1994号}}</ref> - 1945年11月27日<ref name="jirei19451212" />{{Refnest|group="注釈"|発令の翌日、[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]撃沈の証人として出頭が命じられ、ワシントン行きが決定した為、実際には着任せず<ref>[[#不沈艦生涯(新版)]] 161頁</ref>。}}
#[[佐藤精七]] 少佐/第二復員官/第二復員事務官/復員事務官:1945年11月27日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072157700|昭和20年12月7日付 第二復員省辞令公報 甲 第6号}}</ref> - 1946年10月26日<ref name="jirei19461104">{{アジア歴史資料センター|C13072159800|昭和21年11月4日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第82号}}</ref>
#[[高田敏夫]] 復員事務官:1946年10月26日<ref name="jirei19461104" /> - 1947年1月25日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072160200|昭和22年2月3日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第131号}}</ref>、以後1947年6月1日まで艦長の発令無し。
#(臨時)[[東日出夫]] 復員事務官:1947年6月1日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072160600|昭和22年6月9日付 復員庁第二復員局辞令公報 第38号}}</ref> - 1947年9月5日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072165900|昭和22年9月11日付 復員庁第二復員局辞令公報 第56号}}</ref> (本職:[[花月 (駆逐艦)|花月]]艦長)
'''丹陽時期'''
# [[褚廉方]] 大佐:1949年1月1日 -
# [[兪柏生]] 大佐:1952年10月16日 -
# [[邱仲明]] 大佐:1954年2月1日 -
# [[王庭萀]] 大佐:1957年4月23日 -
# [[王椿庭]] 大佐:1957年9月30日 -
# [[林植基]] 大佐:1959年3月1日 -
# [[雷泰元]] 大佐:1961年12月16日 -
# [[彭運生]] 大佐:1963年2月16日 -
# [[賴成傑]] 大佐:1965年12月16日 -
== 雪風のプラスチックモデルキット ==
*1/350 有名艦船シリーズ「日本海軍 甲型駆逐艦 雪風」([[ハセガワ]] )
:ハセガワ65周年企画として新規金型で2006年に発売。バリエーション2種。
:「昭和十五年竣工時」(No.40063)
:「天一号作戦」(No.Z22)
*1/300 「旧日本海軍甲型駆逐艦 雪風」([[タミヤ]])
:2007年発売。水中モーター付きのフルハルモデル。
*1/350 艦船シリーズ No.20 「日本駆逐艦 雪風」([[タミヤ]])
:2008年発売。「天一号作戦」時を再現。
*1/700 [[ウォーターラインシリーズ]] No.421 雪風([[青島文化教材社]])
:1972年発売。旧版。
*1/700 ウォーターラインシリーズ No.444 「雪風1945」([[青島文化教材社]])
:2004年発売。新金型でリニューアルしたもので、旧版とは全く異なる。
*1/700 フルハルモデル「中華民国海軍旗艦 丹陽」([[青島文化教材社]])
:2008年発売。ウォーターラインシリーズ「雪風1945」の金型を一部流用し、中華民国海軍駆逐艦時代の雪風=丹陽を喫水線下も含めて再現したもの。武装は第2次改装後の状態になっている。丹陽としては初の模型商品化である。
*1/700 ワールドウォーシップシリーズ No.W25。「日本海軍 駆逐艦 雪風」([[ピットロード]])
*1/700 艦隊これくしょんプラモデルNo.03 艦娘 駆逐艦 雪風([[青島文化教材社]])
:2013年発売。『[[艦隊これくしょん -艦これ-|艦隊これくしょん]]』とのコラボレーションキットで、模型そのものはウォーターラインシリーズのものと同じ。
*1/2000 艦船キットコレクション vol.5 レイテ沖〜1944 (5)駆逐艦 雪風・磯風・初月 3隻セット/フルハル・洋上 各Ver.([[エフトイズ・コンフェクト]])
:2014年1月発売。
*ノンスケール ちび丸艦隊シリーズ No.5 駆逐艦 雪風([[フジミ模型]])
:2014年発売。モデルは最終時の機銃増設が行われた状態。大幅なデフォルメが行われた模型
*1/350 艦NEXT-3 駆逐艦 雪風([[フジミ模型]])
:2018年発売。モデルは最終時の機銃増設が行われた状態。
== 登場作品 ==
* 『[[駆逐艦雪風 (映画)|駆逐艦雪風]]』 - 1964年公開の日本映画。護衛艦[[ゆきかぜ (護衛艦)|ゆきかぜ]]が駆逐艦雪風を演じる。
* 『[[萌え萌え2次大戦(略)☆ウルトラデラックス]]』 - [[システムソフト・アルファー]]によるゲーム。
* 『[[Battleship Girl -鋼鉄少女-]]』 - [[ZECO]]による漫画。後にゲーム化。
* 各種[[艦船擬人化]]ゲーム作品 - 日本でリリースされた艦船擬人化ゲーム全作品<ref group="注釈">『[[艦隊これくしょん -艦これ-]]』・『[[戦艦少女R]]』・『[[蒼青のミラージュ]]』・『[[最終戦艦withラブリーガールズ]]』・『[[アズールレーン]]』・『[[アビス・ホライズン]]』・『[[ガーディアン・プロジェクト]]』・『[[蒼藍の誓い ブルーオース]]』・『[[ブラック・サージナイト]]』・『[[パズルガールズ (ゲーム)|パズルガールズ]]』・『[[ヴェルヴェット・コード]]』の11作品。</ref>に雪風を擬人化したキャラクターが登場している。全艦船擬人化ゲームに登場している艦艇は雪風と[[長門 (戦艦)|長門]]のみである<!-- 蒼き鋼のアルペジオ ‐アルス・ノヴァ‐ Re:Birthでの登場が確認できない -->。
* 『少年たちの連合艦隊〜“幸運艦”雪風の戦争〜』(2020年8月23日、[[NHK BS1]])- ドキュメンタリー<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/bs1sp/ts/YMKV7LM62W/episode/te/XRN797G1GY/ |title=少年たちの連合艦隊〜“幸運艦”雪風の戦争〜 |date=2020-08-23 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/4Dxwm |archivedate=2021-08-18 |accessdate=2021-08-21}}</ref>
* 『艦隊のシェフ(モーニング)』(講談社) - 幸風は架空艦であるが雪風をモデルとしている。
* 『[[ゴジラ-1.0]]』 - 2023年公開の日本映画。[[1947年の日本]]に襲来した[[ゴジラ (架空の怪獣)#『ゴジラ-1.0』|ゴジラ]]を倒すための戦力として、堀田辰雄元艦長(架空人物)らが連合国と行った交渉の結果、[[吹雪型駆逐艦]]「[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]」、[[峯風型駆逐艦]]「[[夕風 (駆逐艦)|夕風]]」、[[松型駆逐艦]]「[[欅 (松型駆逐艦)|欅]]」などと共に返還され、ゴジラ駆除作戦「海神作戦」(わだつみ作戦)に参加。同作戦の主力兼司令塔の役目を担う。
*映画『[[雪風 YUKIKAZE]]』 - 2025年8月公開予定。
== 注釈 ==
{{Reflist|group="注釈"}}
== 出典 ==
{{Reflist|3}}
== 参考書籍 ==
<!-- ウィキペディア推奨スタイル 著者五十音順 -->
{{columns-list|2|
*{{Cite book|和書|author=阿川弘之|authorlink=阿川弘之|year=1982|month=12|title=連合艦隊の名リーダーたち|publisher=プレジデント社|isbn=4-8334-1193-8|ref=連合艦隊名リーダー}}
* {{Cite book|和書|author=浅田博|coauthors=高城直一|year=2013|month=9|origyear=1985|chapter=|title=海防艦三宅戦記 {{smaller|輸送船団を護衛せよ}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2799-3|ref=三宅戦記}}
* {{Cite book|和書|author=阿部三郎|authorlink=阿部三郎|coauthors=|year=2005|title=特攻大和艦隊 {{small|帝国海軍の栄光をかけた一〇隻の明暗}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2458-0|ref=特攻大和}}
*{{Cite book|和書|author=有馬桓次郎ほか|year=2011|month=12|title=奮闘の航跡「この一艦」 {{small|知られざる殊勲艦・功労艦列伝}}|publisher=イカロス出版|isbn=978-4-86320-545-1|ref=奮闘の航跡}}
* {{Cite book|和書|editor1=池田清|editor1-link=池田清 (政治学者)|editor2=野村実ほか|editor2-link=野村実|coauthors=近現代史編纂会・編|year=2001|title=海軍艦隊勤務|publisher=新人物往来社|isbn=4-404-02914-4|ref=海軍艦隊勤務}}
**斉藤一好(雪風通信士→水雷長)「駆逐艦『雪風』で闘った日々 {{small|脳裏から消えぬ残酷な戦場}}」<br />別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』(新人物往来社、1997)を再録
* {{Cite book|和書|author=伊藤正徳|authorlink=伊藤正徳 (軍事評論家)|coauthors=|year=1996|title=連合艦隊の栄光 {{small|太平洋海戦史}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2128-X|ref=連合艦隊栄光}}
* {{Cite book|和書|author=井上理二|year=1996|month=3|origyear=1972|title=あゝ海軍特年兵 {{small|ある青春の死線彷徨}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2118-2|ref=海軍特年兵}}
* {{Cite book|和書|author=井上理二|authorlink=井上理二|year=1999|title=駆逐艦磯風と三人の特年兵|publisher=光人社|isbn=4-7698-0935-2|ref=井上 磯風}}
* {{Cite book|和書|author=NHK取材班|authorlink=|year=2013|title=巨大戦艦 大和 {{small|乗組員たちが見つめた生と死}}|publisher=NHK出版|isbn=978-4-14-081609-7|ref=巨大戦艦大和}}
* {{Cite book|和書|author=NHK「戦争証言」プロジェクト|authorlink=|year=2012|month=7|title=証言記録 兵士たちの戦争(7)|publisher=NHK出版|isbn=978-4-14-081348-5|ref=兵士たちの戦争(7)}}
*{{Cite book|和書|author=円道祥之|year=2008|month=8|title=連合艦隊軍艦列伝|publisher=宝島社宝島SUGOI文庫|isbn=978-4-7966-6604-6|ref=軍艦列伝}}
* {{Cite book|和書|author=J.F.エンライト & J.W.ライアン|coauthors=[[高城肇]]訳・[[千早正隆]]監修|year=1994|title=信濃! {{small|日本秘密空母の沈没}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-2039-9|ref=エンライト 信濃!}}
* {{Cite book|和書|author=大西喬|authorlink=大西喬|coauthors=斎藤三郎ほか|year=1968|month=2|title=<small>太平洋戦争ドキュメンタリー第4巻</small> 零戦虎鉄 <small>生と死をわかつ一瞬の先制攻撃 </small>|publisher=今日の話題社|ref=零戦虎鉄}}
* {{Cite book|和書|author=大西喬|authorlink=大西喬|coauthors=|year=1983|title=艦隊ぐらしよもやま物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0200-5|ref=よもやま物語}}
* {{Cite book|和書|author=桂理平|authorlink=|year=1999|title=空母瑞鳳の生涯 {{small|われ等かく闘えり}}|publisher=霞出版社|isbn=978-4-87602-213-7|ref=瑞鳳生涯}}
* {{Cite book|和書|author=門田隆将|authorlink=門田隆将|year=2012|month=4|title=太平洋戦争 最後の証言 {{small|第三部 大和沈没編}}|isbn= 4-093-79833-8|publisher=小学館|ref=証言大和}}
* {{Cite book|和書|author=亀井宏|authorlink=亀井宏|coauthors=|year=1994|title=ガタルカナル戦記 第三巻|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2049-6|ref=ガタルカナル三巻}}
* {{Cite book|和書|author=木俣滋郎|authorlink=木俣滋郎|year=2013|title=撃沈戦記 {{small|海原に果てた日本艦船25隻の航跡}}|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-2786-3|ref=撃沈戦記}}
* {{Cite book|和書|author=木俣滋郎|authorlink=木俣滋郎|year=1990|title=撃沈戦記PARTⅡ|publisher=朝日ソノラマ|isbn=4-257-17223-1|ref=撃沈戦記Ⅱ}}
* {{Cite book|和書|author=駆逐艦雪風手記編集委員会|year=1999|month=9|title={{small|激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦}} 雪風|publisher=駆逐艦雪風手記刊行会|isbn=|ref=雪風手記}}
* {{Cite book|和書|author=小池山三郎|year=2014|month=7|title=帝国海軍最後の水兵さん|publisher=文芸社|isbn=978-4-286-15239-4|ref={{SfnRef|最後の水兵|2014}}}}
* {{Cite book|和書|author=小林昌信・小林健ほか|year=2016|month=3|title=戦艦「大和」機銃員の戦い 証言・昭和の戦争|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-29447|ref=大和機銃員}}
* {{Cite book|和書|author=斉藤一好|authorlink=斉藤一好|coauthors=|year=2001|title=一海軍士官の太平洋戦争 {{small|等身大で語る戦争の真実}}|publisher=高文研|isbn=4-87498-272-7|ref=一海軍士官}}<br />1942年6月、雪風航海士着任、後に水雷長。1944年2月転出。
* {{Cite book|和書|author=相良俊輔|authorlink=相良俊輔|year=2016|month=10|title=悲劇の艦長 西田正雄大佐 {{small|戦艦「比叡」自沈の真相}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2978-7|ref=悲劇の艦長}}
*<!-- サトウキヨオ2004 -->{{Cite book|和書|author=佐藤清夫|chapter=|title=駆逐艦「野分」物語 {{small|若き航海長の太平洋海戦記}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|year=2004|month=01|origyear=1997|ISBN=4-7698-2408-4|ref={{SfnRef|野分物語|2004}}}}
* {{Cite book|和書|author=高戸顕隆|authorlink=高戸顕隆|year=2015|title=海軍主計大尉の太平洋戦争 {{small|私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部}}|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-2889-1|ref=海軍主計大尉}}
* {{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行者|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年 二月〜九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|origyear=|isbn=4-12-403396-6|ref=高松宮日記6巻}}
* {{Cite book|和書|author=田口康生|year=2011|month=7|title=愛しの「雪風」わが忘れざる駆逐艦 {{small|海の真剣勝負に勝ちぬいた栄光の武勲艦の記録}} 駆逐艦戦記 駆逐艦「神風」電探戦記|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4-7698-2696-5|ref=愛しの雪風}}
* {{Cite book|和書|author=田村俊夫|year=2004|month=5|title=歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.45 帝国海軍真実の艦艇史 {{small|未発表写真と綿密な考証で明かされる秘められた新事実の数々}}|publisher=学研|isbn=4-05-603412-5|ref=真実の艦艇史}}
* {{Cite book|和書|author=坪井平次|authorlink=坪井平次|year=2005|title=戦艦大和の最後 {{small|一高角砲員の苛酷なる原体験}}|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-2021-5|ref=坪井大和}}
* {{Cite book|和書|author=手塚正己|authorlink=手塚正己|year=2015|title=新版 軍艦武藏 上巻|publisher=太田出版|isbn=978-4-7783-1447-7|ref=新版武藏}}
* {{Cite book|和書|author=外山三郎|year=1995|month=7|title=図説 太平洋海戦史 第2巻 {{small|写真と図説で見る日米戦争}}|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-0710-4|ref=図説太平洋海戦史第2巻}}
* {{Cite book|和書|author=外山三郎|year=1995|month=9|title=図説 太平洋海戦史 第3巻 {{small|写真と図説で見る日米戦争}}|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-0711-2|ref=図説太平洋海戦史第3巻}}
* {{Cite book|和書|author=寺内正道|title=『私は誇り高き雪風の艦長だった/丸 MARU エキストラ版 vol.49』|publisher=潮書房|year=1976|ref=寺内雪風}}
* {{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|year=2000|title=空母「信濃」の生涯 {{small|巨大空母悲劇の終焉}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2275-8|ref=豊田 信濃生涯}}
* {{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|title=豊田穣文学/戦記全集 第6巻|publisher=光人社|year=1990|origyear=1983|ISBN=4-7698-0516-0|ref=豊田全集6巻}}
* [[豊田穣]]『雪風ハ沈マズ <small>強運駆逐艦栄光の生涯</small>』[[光人社]]〈NF文庫〉、1993年。ISBN 4-7698-2027-5
* {{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|coauthors=|year=2004|title=雪風ハ沈マズ {{small|強運駆逐艦栄光の生涯}}|publisher=光人社NF文庫新装版|isbn=978-4-7698-2027-7|ref=雪風ハ沈マズ新装}}
* {{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|year=1999|title={{small|日米海戦記}}撃沈「四本の火柱」|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2234-0|ref=豊田撃沈}}
*{{Cite book|和書|author=永富映次郎|authorlink=永富映次郎|year=1972|month=12|title=駆逐艦雪風 {{small|誇り高き不沈艦の生涯}}|publisher=出版協同社|ncid= BA32011317|ref=不沈艦生涯}}
**{{Cite book|和書|author=永富映次郎|authorlink=永富映次郎|year=1980|month=4|title=駆逐艦雪風 {{small|誇り高き不沈艦の生涯}}|publisher=共版協同社(新版)|ncid=BB19232487|ref=不沈艦生涯(新版)}}
*{{Cite book|和書|author1=永井喜之|authorlink1=永井喜之|author2=木俣滋郎|year=1988|title=撃沈戦記|publisher=朝日ソノラマ|ISBN=4-257-17208-8|ref=撃沈戦記(朝日ソノラマ)}}
* {{Cite book|和書|author=鳴戸清爾|authorlink=鳴戸清爾|year=1994|title=硯滴録 わが海軍戦記|publisher=出版芸術社|ref=鳴戸 硯滴録}}
* {{Cite book|和書|author=庭田尚三(雪風進水時の佐世保工廠造船部長)|authorlink=庭田尚三|year=1965|month=9|title={{small|元海軍技術中将 庭田尚三述}} 建艦秘話|chapter=4.駆逐艦の巻|publisher=船舶技術協会|isbn=|ref={{SfnRef|建艦秘話|1965}}}}
* {{Cite book|和書|author=能村次郎|authorlink=能村次郎|year=2017|month=4|title=慟哭の海 {{small|戦艦大和死闘の記録}}|publisher=中央公論新社|isbn=4-122-06400-7|ref=能村慟哭新版}}
* {{Cite book|和書|author=原勝洋|authorlink=原勝洋|year=2005|title=戦艦「大和」永遠なれ! {{small|写真集<空前絶後・永久保存版>}}|publisher=KKベストセラーズ|isbn=4-584-17097-5|ref=大和永遠なれ}}
* {{Cite book|和書|author=原為一|authorlink=原為一|coauthors=|year=1995|title=帝国海軍の最後|publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-24557-7|ref=帝国海軍の最後}}
* {{Cite book|和書|author=半藤一利|authorlink=半藤一利|year=2000|title=完伝・列伝 太平洋戦争 {{small|戦場を駆けた男たちのドラマ}}|publisher=PHP文庫|isbn=4-569-57355-X|ref=完伝列伝}}
* {{Cite book|和書|author=半藤一利|year=2014|month=7|title={{small|太平洋戦争}} 日本軍艦戦記 新装版|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4-1679-0153-0|ref=軍艦戦記}}
* {{Cite book|和書|author=平松茂雄|year=1991|month=11|title=甦る中国海軍|publisher=勁草書房|isbn=4-326-30072-8|ref=平松1991}}
* {{Cite book|和書|author=福田幸弘|authorlink=福田幸弘|year=1981|month=7|title=連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記|publisher=[[時事通信社]]|isbn=4-7887-8116-6|ref=サイパン・レイテ海戦記}}
* {{Cite book|和書|author=福本和也|authorlink=福本和也|year=1967|month=6|title=奇跡の駆逐艦『雪風』 <small>週刊サンケイ 1967年6月19日号 通巻841号</small>|publisher=[[扶桑社]]|ref=福本雪風}}
* {{Cite book|和書|author=藤井治美|year=1968|month=2|title=われ"初霜"沖縄の海上砲台とならん|publisher=潮書房光人新社|ref=われ初霜}} 潮書房光人新社『 雑誌「丸」1968年4月特別号』掲載
* {{Cite book|和書|author=星 亮一|year=2016|month=3|title=悲劇の提督 伊藤整一 {{small|戦艦「大和」に殉じた至誠の人}}|publisher=[[潮書房|光人社]]NF文庫|isbn=978-4-7698-29423|ref=悲劇の提督}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|year=1971|month=5|title=戦史叢書46 海上護衛戦|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref=叢書46海上護衛戦}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1973|month=2|title=戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) {{small|昭和十七年六月以降}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1975|month=8|title=戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) {{small|ガ島撤収まで}}|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書83ガ島戦}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1976|month=3|title=戦史叢書93 南東方面海軍作戦大本營海軍部・聯合艦隊(7) {{small|戦争最終期}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書93戦争最終期}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1976|month=8|title=戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) {{small|ガ島撤収後}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書96ガ島撤収後}}
* {{Cite book|和書|author=雑誌「丸」編集部|year=1997|month=10|title={{small|ハンディ判日本海軍艦艇写真集}} 17 駆逐艦 春雨型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風|publisher=光人社|isbn=4-7698-0818-6|ref=日本海軍艦艇写真集17駆逐艦}}
* {{Cite book|和書|author=宮川正ほか|coauthors=|year=1990|title={{small|証言昭和の戦記*リバイバル戦記コレクション}}憤怒をこめて絶望の海を渡れ|publisher=光人社|isbn=4-7698-0497-0|ref=証言田口}}
**田口康生(雪風航海長/砲術長)『愛しの「雪風」わが忘れざる駆逐艦{{small|海の真剣勝負に勝ちぬいた曳航の武勲艦の記録}}』
*{{Cite book|和書|author=八杉康夫|year=2015|month=4|title=戦艦大和最後の乗組員の遺言 新書版|publisher=ワック|isbn=978-4-89831-717-4|ref=八杉 大和}}
* {{Cite book|和書|author=横井忠俊|authorlink=横井忠俊|year=1962|month=6|title=雪風 <small>誇り高き一駆逐艦の記録</small>(下)<small>世界の艦船 1962年6月号 通巻58号</small>|publisher=海人社|ref=横井雪風(下)}}
* {{Cite book|和書|author=吉田俊雄|authorlink=吉田俊雄|coauthors=|year=2002|title=戦艦比叡 新装文庫版|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2345-2|ref=吉田比叡新装}}
* {{Cite book|和書|author=吉田俊雄|authorlink=吉田俊雄|year=1995|title=日本帝国海軍はなぜ敗れたか―戦後五十年目の総括|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-351030-9|ref=日本帝国海軍はなぜ敗れたか}}
* {{Cite book|和書|author1=吉田満|authorlink1=吉田満|author2=原勝洋|authorlink2=原勝洋|coauthors=|year=1975|title=日米全調査 戦艦大和|publisher=文藝春秋|ref=日米調査大和}}
* {{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1998|month=5|title=<small>歴史群像太平洋戦史シリーズVol.18</small> 水雷戦隊I 特型駆逐艦 <small>米英を震撼させたスーパー・デストロイヤーの全貌</small>|publisher=[[学習研究社]]|isbn=4-05-601768-9|ref=特型駆逐艦}}
* {{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1998|month=8|title=<small>歴史群像太平洋戦史シリーズVol.19</small> 水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 <small>究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡</small>|publisher=[[学習研究社]]|isbn=4-05-601918-5|ref=歴史群像vol.19陽炎型駆逐艦}}
* {{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=2005|month=6|title=<small>歴史群像太平洋戦史シリーズVol.51</small> 帝国海軍真実の艦艇史2 <small>史料の精査と傍証の積み重ねで解き明かす定説の真偽と知られざる逸話の実相</small>|publisher=[[学習研究社]]|isbn=4-05-604083-4|ref=真実の艦艇史2}}
*{{Cite book|title=SS-244, USS CAVALLA|url=https://issuu.com/hnsa/docs/ss-244_cavalla|format=issuu|publisher=Historic Naval Ships Association|ref=SS-244, USS CAVALLA}}
*{{Cite book|title= SS-277, USS SCAMP|url=https://issuu.com/hnsa/docs/ss-277_scamp |format= issuu|publisher=Historic Naval Ships Association |ref= SS-277, USS SCAMP}}
}}
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.A10110010100|title=第八輯 観兵式及観艦式 第二編 紀元二千六百年特別観艦式 第二章 実施|ref=紀元二千六百年特別観艦式・第二章}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.A10110010200|title=第八輯 観兵式及観艦式 第二編 紀元二千六百年特別観艦式 第三章 実施|ref=紀元二千六百年特別観艦式・第三章}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08051772000|title=昭和16年〜昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書|ref=戦隊行動調書}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13071988700|title=巻1 追録/第2類 編制(昭和15年6月25日現在 10版 内令提要追録第7号原稿)|ref=編制(昭和15年6月5日現在)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13071991800|title=巻1 追録/第2類 編制(昭和15年12月25日現在 10版 内令提要追録第8号原稿)|ref=編制(昭和15年12月25日現在)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13072000700|title=巻1 追録/第2類 編制(昭和16年12月31日現在 10版 内令提要追録第10号原稿巻1)|ref=編制(昭和16年12月31日現在)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13071997700|title=昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護|ref=昭和16年6月30日現在艦船要目公表範囲}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13072003500|title=昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿2.3|ref=昭和16年12月31日現在艦艇類別等級}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070105000|title=1月(昭和14年達完)|ref=1月(昭和14年達完)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070196900|title=昭和19年1月〜7月 内令/昭和19年3月(5)|ref=内令昭和19年3月(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070504700|title=自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/4月(3)|ref=内令昭和20年4月(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070530000|title=昭和20年1月2日 昭和20年8月30日秘海軍公報/昭和20年8月(2)|ref=秘海軍公報昭和20年8月(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08011233600|title=艦艇特務艦艇籍一覧表|ref=艦艇特務艦艇籍一覧表}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08011232600|title=特保艇現状調書(1月分)|ref=特保艇現状調書(1月分)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08011264600|title=昭和22年6月 艦艇引渡綴 呉地方復員局総務部(15)|ref=昭和22年6月艦艇引渡綴}}
*太平洋開戦後
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030620800|title=昭和16年11月20日〜昭和17年4月30日 第1号哨戒艇戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1611一号哨戒艇戦時日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030620900|title=昭和16年11月20日〜昭和17年4月30日 第1号哨戒艇戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=S1611一号哨戒艇戦時日誌(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030094500|title=昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1703二水戦戦時日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030094600|title=昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=S1703二水戦戦時日誌(5)}}
*ミッドウェー海戦前後
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030094900|title=昭和17年5月1日〜昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1705二水戦戦時日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030095000|title=昭和17年5月1日〜昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1705二水戦戦時日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030040100|title=昭和17年6月1日〜昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1706二水線戦時日誌}}・内容は昭和17年6月第二水雷戦隊戦時日誌
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030022500|title=昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)|ref=S1709八艦隊日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030767200|title=昭和17年7月1日〜昭和17年10月5日 第7戦隊戦時日誌(1)|ref=S1707七戦隊日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030767300|title=昭和17年7月1日〜昭和17年10月5日 第7戦隊戦時日誌(2)|ref=S1707七戦隊日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030767400|title=昭和17年7月1日〜昭和17年10月5日 第7戦隊戦時日誌(3)|ref=S1707七戦隊日誌(3)}}
*ソロモン諸島の戦い
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030051700|title=昭和17年7月14日〜昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=11戦隊詳報(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030051800|title=昭和17年7月14日〜昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=11戦隊詳報(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030051900|title=昭和17年7月14日〜昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)|ref=11戦隊詳報(6)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030022800|title=昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)|ref=S1709八艦隊日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030022900|title=昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(5)|ref=S1709八艦隊日誌(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030023000|title=昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(6)|ref=S1709八艦隊日誌(6)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030023200|title=昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(8)|ref=S1709八艦隊日誌(8)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030401500|title=昭和17年12月1日〜昭和17年12月31日 佐伯防備隊戦時日誌(1)|ref=S1712佐伯防備隊日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030405500|title=昭和18年5月1日〜昭和18年5月31日 佐伯防備隊戦時日誌(1)|ref=S1805佐伯防備隊日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030408700|title=昭和18年9月1日〜昭和18年9月30日 佐伯防備隊戦時日誌(2)|ref=S1809佐伯防備隊日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030047800|title=昭和17年4月1日〜昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)|ref=S1704七戦隊日誌(7)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13120188800|title=第50航空戦隊戦時日誌 自昭和18年1月15日至昭和18年1月31日/3.令達報告等|ref=第50航空戦隊日誌昭和18年1月〜(令達)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13120198000|title=50航空戦隊戦時日誌 自昭和18年12月1日至昭和19年1月1日/3.令達報告等|ref=50航空戦隊日誌昭和18年12月〜(令達)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030146300|title=昭和18年2月1日〜昭和19年10月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1802第17駆日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030117000|title=昭和18年5月1日〜昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1805四水戦日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030101000|title=昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1806二水戦日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030145500|title=昭和18年12月5日〜昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1812第4駆日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030145600|title=昭和18年12月5日〜昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1812第4駆日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030050000|title=昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)|ref=S1812十戦隊日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030050100|title=昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(2)|ref=S1812十戦隊日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030050200|title=昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)|ref=S1812十戦隊日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030050300|title=昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(4)|ref=S1812十戦隊日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030050400|title=昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(5)|ref=S1812十戦隊日誌(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030050500|title=昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(6)|ref=S1812十戦隊日誌(6)}}
*マリアナ沖海戦
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030146400|title=昭和18年2月1日〜昭和19年10月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1802第17駆日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030146500|title=昭和18年2月1日〜昭和19年10月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1802第17駆日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030146600|title=昭和18年2月1日〜昭和19年10月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1802第17駆日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030146700|title=昭和18年2月1日〜昭和19年10月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=S1802第17駆日誌(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030150700|title=昭和19年6月20日〜昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(1)|ref=S1906第61駆詳報(3)}} ○昭和19年6月20日対空戦闘「玄洋丸戦闘詳報」「あづさ丸戦闘詳報」
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030036200|title=昭和19年3月1日〜昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌|ref=第1機動艦隊戦時日誌}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030713900|title=昭和19年5月20日〜昭和19年6月22日 あ号作戦 第10戦隊戦闘詳報 第12号|ref=あ号作戦十戦隊詳報}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030724100|title=昭和19年6月1日〜昭和19年6月30日 第10戦隊戦時日誌|ref=S1906十戦隊日誌}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030150700|title=玄洋丸戦闘詳報 昭和十九年六月二十日対空戦闘|pages=36-66|ref=玄洋丸}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030685300|title=昭和19年5月1日〜昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=日栄丸(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030685400|title=昭和19年5月1日〜昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=日栄丸(4)}}
*レイテ沖海戦
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030589300|title=昭和19年10月22日〜昭和19年10月28日 第17駆逐隊戦闘詳報|ref=S1910第17駆詳報}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030577600|title=昭和19年10月22日〜昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)|ref=矢矧捷1号詳報(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030577700|title=昭和19年10月22日〜昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)|ref=矢矧捷1号詳報(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030050800|title=昭和19年7月1日〜昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(1)|ref=S1907十戦隊日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030050900|title=昭和19年7月1日〜昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)|ref=S1907十戦隊日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030051000|title=昭和19年7月1日〜昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(3)|ref=S1907十戦隊日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030102400|title=昭和19年11月20日〜昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1911二水戦日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030102500|title=昭和19年11月20日〜昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1911二水戦日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030102600|title=昭和19年11月20日〜昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1911二水戦日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030102700|title=昭和19年11月20日〜昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1911二水戦日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14061106300|title=S士官の手記 史実調査部/沖波戦闘行動関係|ref=S士官の手記}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030037500|title=昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)第十戦隊|ref=捷号詳報(2)第十戦隊}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030568500|title=昭和19年10月18日~昭和19年11月5日 軍艦利根戦闘詳報(1)|ref=S1910利根詳報(1)}}
*信濃沈没・坊ノ岬沖海戦以降
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030147000|title=昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1911第17駆日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030147100|title=昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1911第17駆日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030147200|title=昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1911第17駆日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030147300|title=昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1911第17駆日誌(4)}}「第十七駆逐隊(雪風)戦時日誌 昭和20年1月」
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030147400|title=昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=S1911第17駆日誌(5)}}「第十七駆逐隊(雪風)戦時日誌/第十七駆逐隊 浜風戦闘詳報(昭和20年1月15日馬公対空戦闘)」
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030147500|title=昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(6)|ref=S1911第17駆日誌(6)}}「第十七駆逐隊(磯風)戦時日誌 昭和20年1月」
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030147600|title=昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(7)|ref=S1911第17駆日誌(7)}}
* 坊ノ岬沖海戦
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030147700|title=昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(8)|ref=S1911第17駆日誌(8)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030147800|title=昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(9)|ref=S1911第17駆日誌(9)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030103000|title=昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S2004二水戦詳報(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030103100|title=昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S2004二水戦詳報(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030103200|title=昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S2004二水戦詳報(3)}}
== 関連項目 ==
*[[ゆきかぜ (宇宙戦艦ヤマト)]]
*[[Battleship Girl -鋼鉄少女-]]
*[[ゆきかぜ (護衛艦)]] - [[はるかぜ型護衛艦]]の2番艦
*[[佛坂泰治]] - 坊ノ岬沖海戦時の軍医長
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
*[http://navy.mnd.gov.tw//Publish.aspx?cnid=868&p=10184 丹陽艦介紹(中華民国海軍)] (BIG5)
*[http://nmda.teldap.tw/page_book01_01_dd12.htm 海軍歷史文物數位典藏 陽字型駆逐艦數位典藏計畫] (BIG5)
{{陽炎型駆逐艦|state=expanded}}
{{中華民国海軍の艦艇}}
{{DEFAULTSORT:ゆきかせ}}
[[Category:陽炎型駆逐艦]]
[[Category:第二次世界大戦の日本の駆逐艦]]
[[Category:台湾の駆逐艦]]
[[Category:1939年進水船]]
[[Category:1940年竣工船]]
[[Category:佐世保海軍工廠が建造した艦船]]
[[Category:日台関係]]
[[Category:国共戦争の艦船]]
[[Category:台湾海峡危機の艦船]]
|