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== 来歴 ==
[[宮城県名取高等学校|名取高校]]中退<ref name="森、マイホーム優勝">[[朝日新聞]]縮刷版p398 昭和47年11月12日朝刊18面「'''森、マイホーム優勝 尾崎17位、パーマー19位 ロレックス・ゴルフ'''」</ref>後は阿武隈ゴルフ場<ref>
[[1969年]]の[[日本プロゴルフ選手権大会|日本プロ]]では[[石井裕士]]・[[杉原輝雄]]・[[村上隆 (ゴルファー)|村上隆]]に次ぐと同時に陳健忠({{ROC}})・[[日吉定雄]]・[[鷹巣南雄]]・[[内田袈裟彦]]・[[鈴村久]]・[[安田春雄]]を抑えての4位<ref>
ホームコースの川崎国際CCで行われた[[ロレックス・ゴルフ・クラシック|ロレックストーナメント→ロレックスクラシック]]では、1971年には初日を前後半とも3バーディずつ、ボギーは前半1、後半2の計3アンダーの69で首位スタート<ref>朝日新聞縮刷版p185 昭和46年11月6日朝刊21面「'''第1日、森が首位に ロレックス・クラシック'''」</ref>。最終日には10番でバーディを取った[[橘田規]]が[[アーノルド・パーマー]]({{USA}})と並び、この二人の首位争いに、9番で1アンダーになって絡むなど試合を盛り上げたが、鷹巣・[[矢部昭]]・[[今井昌雪]]・パーマーと共に優勝した橘田と1打差の2位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p218 昭和46年11月7日朝刊20面「'''橘田規が優勝 パーマー・森に1打差 ロレックスクラシック'''」</ref> <ref>{{cite news |title=Arnold Palmer shares second in 4th Rolex Classic |url=https://www.newspapers.com/image/251881255/ |access-date=6 February 2021 |work=Palladium-Item |agency=UPI |date=7 November 1971 |___location=Richmond, Indiana |page=24 |via=Newspapers.com |url-access=subscription}}</ref> <ref>
[[1972年]]には初日にホームコースの利を生かして5アンダー67をマークし、安田と共に首位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p363 昭和47年11月11日朝刊19面「'''尾崎どん底 パーマーも振わず ロレックス第1日'''」</ref>でスタート。最終日もホームの有利さからイーブンパーの72でまとめて通算5アンダー139で、橘田を1打差に抑えて連覇を阻止し初優勝<ref>{{cite book |last1=McCormack |first1=Mark H. |author-link=Mark McCormack |title=The World of Professional Golf 1973 |date=1973 |publisher=Collins |isbn=0002119463 |pages=536–537}}</ref> <ref>
[[1973年]]には[[日本国|日本]]のプロ競技で初めて行われたチャリティートーナメント「ソニーチャリティークラシック」<ref>
[[1975年]]の[[静岡オープンゴルフトーナメント|静岡オープン]]では[[:en:Mya Aye (golfer)|ミヤ・アエ]]({{BIR}})の2位<ref>{{cite book |last1=McCormack |first1=Mark H. |author-link=Mark McCormack |title=The World of Professional Golf 1976 |date=1976 |publisher=Collins |isbn=000211996X |pages=171, 493–494}}</ref>、[[東北クラシック]]では[[竹安孝博]]・吉川と並んでの5位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p263 昭和50年6月9日朝刊19面「尾崎、待望の1勝 東北クラシック三連覇 青木の猛追退ける」</ref>に入る。
1975年の[[札幌とうきゅうオープンゴルフトーナメント|札幌とうきゅうオープン]]では初日を石井・[[小林富士夫]]・[[高橋信雄 (ゴルファー)|高橋信雄]]と並んでの2位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p392 昭和50年6月13日朝刊16面「陳健忠トップ 2位に石井、森ら4人 とうきゅうオープン・ゴルフ」</ref>でスタートし、2日目には出足の2番でボギーを叩きながら7、8、9番とうまい寄せとパットで連続バーディーを取る<ref name="手堅い首位の二人">朝日新聞縮刷版p429 昭和50年6月14日朝刊17面「高橋と森が首位に並ぶ 陳健は6位に後退 とうきゅうオープン・ゴルフ」</ref>。強風に悩まされながらも<ref name="手堅い首位の二人" />堅実なプレー<ref>
1975年の[[関東オープンゴルフ選手権競技|関東オープン]]では初日から首位を走ったが、3日目の16番で崩れ、最終的には[[青木功]]・小林・杉本・[[新井規矩雄]]・[[草柳良夫]]に次ぐと同時に[[謝敏男]](中華民国)・陳健・[[草壁政治]]・[[河野高明]]・安田を抑えての6位<ref>
同年には[[ゴルフ日本シリーズ|日本シリーズ]]初出場も果たし<ref name="第12回日本シリーズ">{{Cite web |title=ゴルフ日本シリーズの歴史 第12回 - GOLF報知|url=https://golf.hochi.co.jp/japan_series12|website=golf.hochi.co.jp|access-date=2023-07-19}}</ref>、開幕前日までの練習ラウンドでは一緒に回った[[金井清一]]に「アップライト気味にしたら」とアドバイスされたことで、怖くて打てなかったドライバーが改善<ref name="森、まずリード">朝日新聞縮刷版p411 昭和50年11月14日朝刊17面「'''森、まずリード 1打差で村上隆ら4人 ゴルフ日本シリーズ第1日'''」</ref>。金井の教科書通りの手本のようなタイミングも参考になり、初日は2番3ホール連続バーディー、5番のミドルホールでダブルボギーを叩いたものの、インは10、13番をバーディーとしてスコアをまとめた<ref name="森、まずリード" />。絶好のコンディションの中でドライバーを確実に運ぶ快調なプレーを続け、4アンダー<ref>{{Cite web |title=森憲二(川崎国際) 男子プロゴルファー “第12回ゴルフ日本シリーズ” 第1日|url=https://photobank.mainichi.co.jp/kiji_detail.php?id=P20130129dd1dd1phj23900|website=photobank.mainichi.co.jp|access-date=2023-07-19}}</ref>69で村上に1打差付けて首位に立つ<ref name="森、まずリード" /> <ref name="第12回日本シリーズ" />。2日目には75を叩いて8位<ref>朝日新聞縮刷版p447 昭和50年11月15日朝刊17面「'''金井、首位に立つ 2打差内で6人が追う ゴルフ日本シリーズ第2日'''」</ref>、3日目も75を叩いて[[前田新作]]・[[尾崎将司]]と並んでの11位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p480 昭和50年11月16日朝刊16面「'''金井、首位を保つ 村上隆もピタリ一打差 ゴルフ日本シリーズ第3日'''」</ref>に後退したが、最終的には村上・[[島田幸作]]・金井・前田・謝敏・[[中村通]]・青木・[[山本善隆]]に次ぐと同時に杉原・[[宮本康弘]]と並んでの9位タイ<ref name="第12回日本シリーズ" />に入った。
[[1976年]]の[[宇部興産オープンゴルフトーナメント|ペプシウィルソントーナメント]]では初日を小林・金井・山本・[[土山録志]]・[[石井冨士夫]]、[[ブライアン・ジョーンズ (ゴルファー)|ブライアン・ジョーンズ]]({{AUS}})と並んでの5位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p622 昭和51年5月21日朝刊16面「宮本省リード 尾崎ら二位三人 ペプシ・ゴルフ」</ref>でスタートし、2日目には[[:en:Bill Brask|ビル・ブラスク]](アメリカ)と共に首位の[[宮本省三]]と1打差の2位タイに追い上げ<ref>朝日新聞縮刷版p695 昭和51年5月23日朝刊15面「宮本省首位守る ペプシ・ゴルフ」</ref>、豪雨による54ホール短縮競技の最終日<ref>{{Cite web|和書|url= https://news.golfdigest.co.jp/news/record/jgto/article/140958/1/ |author=武藤一彦 |title=ツアー最長プレーオフ 14ホールの死闘/残したいゴルフ記録 |website=[[ゴルフダイジェスト・オンライン]] |date=2021-09-28 |accessdate=2023-06-18}}</ref>は[[ベン・アルダ]]({{PHI}})、土山と並んでの5位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p723 昭和51年5月24日朝刊19面「死闘!プレーオフ14ホール トムソンが優勝 ペプシ・ゴルフ」</ref>に入った。
[[1977年]]には[[中日クラウンズ]]で3日目に[[謝永郁]](中華民国)と1打差の2位に着け、最終日には[[グラハム・マーシュ]](オーストラリア)、謝永・
1977年の[[長野県オープンゴルフ選手権競技|長野県オープン]]では初日に[[内田繁 (ゴルファー)|内田繁]]と共に3アンダー69で並んで首位に立つと<ref>朝日新聞縮刷版p227 昭和52年7月7日朝刊17面「森・内田がトップ 長野県オープン」</ref>、最終日には通算3アンダー141で[[浅井教司]]・アルダ・土山・新井・[[菊地勝司]]・[[榎本七郎]]を抑えて逃げ切り優勝し、賞金200万円を獲得<ref>朝日新聞縮刷版p262 昭和52年7月8日朝刊16面「森、逃げきり優勝 長野県オープンゴルフ」</ref>。
1977年の[[関東プロゴルフ選手権大会|関東プロ]]では初日に33度の厳しい暑さでコンディションの維持に追われる中、68をマークし[[野口裕樹夫|野口茂]]と並んでの4位タイ<ref name="竹安9アンダー首位">朝日新聞縮刷版p138 昭和52年8月5日朝刊16面「竹安9アンダー、首位 関東プロゴルフ」</ref>でスタート。暑さに加えてピンの位置が難しくなった2日目には初日首位スタート<ref name="竹安9アンダー首位" />の竹安と5アンダーで並んでの3位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p171 昭和52年8月6日朝刊15面「草壁・中島が並ぶ 関東プロゴルフ第二日」</ref>、3日目には最終ホールでバーディーを取るなど8アンダーで首位タイの[[中嶋常幸]]・草壁に1打差迫る単独3位<ref>朝日新聞縮刷版p205 昭和52年8月7日朝刊19面「草壁・中島が激戦 森も8アンダーで迫る 関東プロゴルフ第三日」</ref>となる。最終日は上位3人の争いから草壁が12番でダブルボギーを叩いて脱落し、勝負所の17番を前に13アンダーの森と2打差で追う中嶋の争いにしぼられる<ref name="やった!公式戦初優勝">朝日新聞縮刷版p225 昭和52年8月8日朝刊7面「森13アンダー、逆転 関東プロゴルフ」</ref>。17番は打ちおろしでフェアウェイはS字型にカーブ、グリーンの手前に[[池]]が待ち受けているロングホールであり、強引に攻めればイーグルも可能であったが、落としどころを間違うと、右側に沿って流れる[[小川]]に捕まってトリプルボギーさえ出てしまう<ref name="やった!公式戦初優勝" />ホールであった。森は中嶋と共にフェアウェイのセンターをキープし、無理な勝負を避けて池の手前に落とす安全なコースを選択<ref name="やった!公式戦初優勝" />。一方の中嶋は森を10mほどアウトドライブし、4番ウッドで2オンを狙う勝負に出たが、第2打は池は越えたものの、サブクリーンの手前でアプローチも8mほどショート<ref name="やった!公式戦初優勝" />。ここで勝敗は九分通り決まり、ピン横2mに3オンした森がバーティーを決めて勝利を不動とし、通算13アンダー275で公式戦初優勝<ref name="やった!公式戦初優勝" />を飾る。森は観客に[[帽子]]を投げ込んで大喜びした<ref>
1977年の[[日本国土計画サマーズ]]では[[上野忠美]]と並んでの4位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p638 昭和52年8月22日朝刊18面「中島常が逆転勝ち 国土計画サマーズゴルフ」</ref>に入り、同年の日本シリーズでは2日目に68をマークし、中嶋と並んでの10位タイ<ref>
[[1979年]]の中日クラウンズではパットが好調で<ref name="混戦を制し、青木史上初の2連覇達成">
同年の第1回[[かながわオープン]]<ref>{{Cite web |title=歴史 | 横浜カントリークラブ|url=https://www.yokohama-cc.jp/history/|website=www.yokohama-cc.jp|access-date=2023-06-18}}</ref>では初日を首位に5打差の18位<ref name="第1回かながわオープン">[[毎日新聞]]縮刷版p85 昭和54年5月3日朝刊15面「'''森が逆転優勝 アマ羽川二位 かながわオープン'''」</ref>でスタートし、最終日には途中まで首位を走っていたアマチュアの[[羽川豊]]が終盤崩れると、この日4アンダー68で回った森が逆転<ref name="第1回かながわオープン" />。通算1アンダー143でプロ入り4勝目を挙げ、賞金200万円を獲得<ref name="第1回かながわオープン" />。
[[1980年]]は[[ブリヂストン阿蘇オープン|阿蘇ナショナルパークオープン]]では吉川・[[高橋純一 (ゴルファー)|高橋純一]]・杉本・河野・[[横島由一]]と並んでの7位タイ<ref>[[毎日新聞]]縮刷版p219 昭和55年4月7日朝刊17面</ref>、連覇を狙った第2回かながわオープンで5位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p228 昭和55年7月6日朝刊16面</ref>、[[全英への道 ミズノオープン|美津濃トーナメント]]では鈴木・横島・内田・[[橘田光弘]]・[[天野勝]]に次ぐと同時に[[松井功 (ゴルファー)|松井功]]・金井・謝永・宮本と並んでの6位タイ<ref>[https://jpn.mizuno.com/golf/mizunoopen/history/010 第10回 1980年(昭和55年)|ゴルフ|ミズノ公式オンライン]</ref>に入る。▼
続く関東オープンでは3日目には66をマークして[[上原宏一]]・[[天野勝]]・[[高橋五月]]と並んでの8位タイ<ref>毎日新聞縮刷版p720 昭和54年9月23日朝刊18面「'''尾崎将一躍トップ 関東オープンゴルフ第3日'''」</ref>に浮上し、最終日には67をマークして新井・尾崎将と並んでの2位タイに入った<ref>毎日新聞縮刷版p744 昭和54年9月24日朝刊18面「'''伏兵・天野が大逆転 勝てない尾崎 5打差守れず 関東オープンゴルフ最終日'''」</ref>。
1980年の日本国土計画サマーズでは初日は[[雨]]だけでなく[[霧]]にもコースが覆われてスタートが45分も遅れたが、ぬかるんだコースの9番ホールで抱腹絶倒の珍事を起こす<ref name="珍事連発の末に前代未聞のフィナーレ">[https://www.alba.co.jp/articles/category/tour/jgto/post/column-20041/#google_vignette 9打差逆転!トラブル・珍事連発の末に前代未聞のフィナーレ 1980年日本国土計画サマーズ【名勝負ものがたり】]</ref>。森は[[船渡川育宏]]と同じ組で、第1打を左のラフに打ち込んだが、第2打をサンドウェッジで振り抜いた瞬間、ボールが消える<ref name="珍事連発の末に前代未聞のフィナーレ" />。森は「あれ?ボールはどこだ」と一瞬戸惑って「埋め込んじゃったのかな」と足元を見直したがどこにもなく、クラブフェースを見てみると、そこに[[土]]と[[草]]が[[団子]]状になり、ボールもそこにくっついていた<ref name="珍事連発の末に前代未聞のフィナーレ" />。判断に迷った森は、同伴競技者である金井の顔の前にそのクラブヘッドを突き出しながら「ねえ、金井さん、これどうしたらいいの?」と言うと、困った金井は「え?分かんないよ」といきなりその場から走って逃げだし、森はクラブを突き出しながら「そんなこと言わないで教えてよ」と追った<ref name="珍事連発の末に前代未聞のフィナーレ" />。前代未聞の[[鬼ごっこ]]を見た周囲は、腹を抱えて笑うしかなかった<ref name="珍事連発の末に前代未聞のフィナーレ" />。森は結局元の場所に戻り、クラブを地面に置いてやっと取れたが、これでも1打の計算になり、このホールはダブルボギーの6と当時の記録に残された<ref name="珍事連発の末に前代未聞のフィナーレ" />。▼
日本国土計画サマーズでは最終日には吉川と共に追い上げて2位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p185 昭和54年8月6日夕刊7面「三上が初優勝 サマーズゴルフ」</ref>、[[KBCオーガスタゴルフトーナメント|KBCオーガスタ]]では[[鈴木規夫]]・小林と並んでの4位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p889 昭和54年8月27日朝刊19面「草壁、逆転で初優勝 強風ついて12アンダー KBCオーガスタ・ゴルフ 最終日」</ref>に入った。
▲[[1980年]]は[[ブリヂストン阿蘇オープン|阿蘇ナショナルパークオープン]]では吉川・[[高橋純一 (ゴルファー)|高橋純一]]・杉本・河野・[[横島由一]]と並んでの7位タイ<ref>[[毎日新聞]]縮刷版p219 昭和55年4月7日朝刊17面</ref>、連覇を狙った第2回かながわオープンで5位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p228 昭和55年7月6日朝刊16面</ref>、[[全英への道 ミズノオープン|美津濃トーナメント]]では鈴木・横島・内田・[[橘田光弘]]・
[[1982年]]の[[NST新潟オープンゴルフトーナメント|新潟県オープン]]では山本・謝敏に次ぐと同時に鈴木・[[秋富由利夫]]・[[牧野裕]]を抑えての3位に入り<ref>朝日新聞縮刷版p445 昭和57年7月12日朝刊19面</ref>、関東プロでは初日を69で謝敏・尾崎将・榎本・[[湯原信光]]・[[長谷川勝治]]・[[海老原清治]]・青木・杉本と並んでの6位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p1126 昭和57年7月30日朝刊16面「川波が初日首位 2位に羽川ら 関東プロゴルフ」</ref>でスタートし、2日目も続いて69で[[川波通幸]]・[[中村俊明]]と並んでの5位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p1168 昭和57年7月31日朝刊18面「謝、一気に首位へ 関東プロゴルフ」</ref>、3日目も69で謝敏・安田と並んでの3位タイ<ref>毎日新聞縮刷版p19 昭和57年8月1日朝刊19面「青木基首位奪う 新井に3打差 関東プロゴルフ第三日」</ref>とし、最終日も69で[[青木基正]]から2打差の2位<ref>毎日新聞縮刷版p33 昭和57年8月2日夕刊9面「"影武者"が表に出て来た 青木基がプロ初V 森に2打差 関東プロゴルフ最終日」</ref>に終わった。[[ウッドワンオープン広島ゴルフトーナメント|広島オープン]]では初日を尾崎将・横島・小林・青木・鷹巣・[[栗原孝]]・秋富と並んでの9位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p935 昭和57年9月24日夕刊17面「草壁ら三人並ぶ 広島オープンゴルフ」</ref>でスタートし、3日目には謝敏・[[坂下定夫]]と並んでの5位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p998 昭和57年9月26日朝刊16面「羽川がトップ 広島オープン」</ref>に着け、最終日には川田・中村・[[石井秀夫]]・[[海老原清治]]・[[高井吉春]]と並んでの9位タイ<ref name="栗原逆転優勝">朝日新聞縮刷版p1032 昭和57年9月27日朝刊18面「栗原が逆転優勝 羽川2位 広島オープンゴルフ」</ref>に入った。▼
▲1980年の日本国土計画サマーズでは初日は[[雨]]だけでなく[[霧]]にもコースが覆われてスタートが45分も遅れたが、ぬかるんだコースの9番ホールで抱腹絶倒の珍事を起こす<ref name="珍事連発の末に前代未聞のフィナーレ">
[[1983年]]の中日クラウンズでは最終日の12番で首位[[:en:Scott Simpson (golfer)|スコット・シンプソン]](アメリカ)に並ぶなど追い上げを見せたが、その後が続かず後退し、マーシュ・[[泉川ピート]]と並ぶ8位タイ<ref>[https://hicbc.com/special/crowns/new/history/timeline/1980-1989/cup24/ 3人のプレーオフを制した小技の名手・陳志明]</ref>に終わった。▼
[[1981年]]の日本オープンではアイアンショットの悪さから2日間の練習ラウンドでも内容が悪く、予選通過も危ないと思って「ここはボギーが出やすい。バーディーを取らなければ」と作戦を立てる<ref name="森、堅実に首位奪う">朝日新聞縮刷版p1249 昭和56年10月31日朝刊17面「'''森、堅実に首位奪う 青木大たたき8位タイ 倉本2アンダー3位浮上 日本オープンゴルフ'''」</ref>。初日を雨と難コースでスコアが伸び悩む中、[[岩下吉久]]・天野・[[尾崎直道]]・安田と並んでの4位タイでスタートする<ref>朝日新聞縮刷版p1199 昭和56年10月30日朝刊17面「'''青木3アンダー、好スタート 単独トップ 倉本・湯原は出遅れ 日本オープンゴルフ'''」</ref>。2日目も小さくて速いグリーンに悩まされて相変わらずスコアが伸びなかったが、ショットの悪さをアプローチとパットで補う我慢強いプレーを展開<ref name="森、堅実に首位奪う" />。ショットは思うに任せず8ホールでグリーンを外したが、グリーンを外しながらも寄せやすいところばかりで助けられ<ref name="1981日本オープン">{{Cite web |title=第46回日本オープンゴルフ選手権(1981年)|url=https://www.golfdendou.jp/jga_jog/46-1981.html|website=www.golfdendou.jp|access-date=2023-11-27}}</ref>、7ホールを巧みにリカバリー、パーパットを沈めて持ち堪えるなど狙い通りにバーディーが先行してパープレーで上がった<ref name="森、堅実に首位奪う" />。上位が崩れたこともあり<ref name="森、堅実に首位奪う" />、連日パープレーの通算イーブンパーで首位に立つ<ref name="1981日本オープン" />。3日目には8番からの3連続バーディーが物を言って69、通算で唯一人アンダーパーをマークし、1アンダー209で2日連続の首位を堅持<ref>朝日新聞縮刷版p17 昭和56年11月1日朝刊17面「'''森、トップの座を守る 青木は1差に再浮上 倉本後退 日本オープンゴルフ'''」</ref>。首位スタートで迎えた最終日は2番のトリプルボギーで一旦後退したが、その後3バーディーで盛り返し、12番でボギーとして通算イーブンパーになった<ref name="1981日本オープン" />。13番以降3ホールを1パットパーで切り抜けるなど粘ってスコアを守り、18番もグリーンを外してアプローチで1mになる<ref name="1981日本オープン" />。見守る羽川はプレーオフを覚悟していたが、18年目のベテラン森はプレッシャーに押しつぶされたのか、そのパーパットを外す<ref name="1981日本オープン" />。新鋭の羽川と激しい競り合いを繰り広げた末、中嶋と並んでの2位タイ<ref>{{Cite web |title=JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】|url=http://www.jga.or.jp/jga/html/2006/08-0/history/champions_02.html|website=www.jga.or.jp|access-date=2023-06-18}}</ref>に終わった。
▲1983年の[[ファンケルオープンin沖縄|大京オープン]]では3日目に山本・宮本と並んでの6位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p404 昭和58年12月11日朝刊16面</ref>に着け、最終日には[[森本俊治]]と並んでの10位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p438 昭和61年12月12日朝刊18面</ref>に入った。
▲[[1982年]]の[[NST新潟オープンゴルフトーナメント|新潟県オープン]]では山本・謝敏に次ぐと同時に鈴木・[[秋富由利夫]]・[[牧野裕]]を抑えての3位に入り<ref>朝日新聞縮刷版p445 昭和57年7月12日朝刊19面</ref>、関東プロでは初日を69で謝敏・尾崎将・榎本・[[湯原信光]]・[[長谷川勝治]]・[[海老原清治]]・青木・杉本と並んでの6位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p1126 昭和57年7月30日朝刊16面「川波が初日首位 2位に羽川ら 関東プロゴルフ」</ref>でスタートし、2日目も続いて69で[[川波通幸]]・[[中村俊明]]と並んでの5位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p1168 昭和57年7月31日朝刊18面「謝、一気に首位へ 関東プロゴルフ」</ref>、3日目も69で謝敏・安田と並んでの3位タイ<ref>毎日新聞縮刷版p19 昭和57年8月1日朝刊19面「青木基首位奪う 新井に3打差 関東プロゴルフ第三日」</ref>とし、最終日も69で[[青木基正]]から2打差の2位<ref>毎日新聞縮刷版p33 昭和57年8月2日夕刊9面「"影武者"が表に出て来た 青木基がプロ初V 森に2打差 関東プロゴルフ最終日」</ref>に終わった。[[ウッドワンオープン広島ゴルフトーナメント|広島オープン]]では初日を尾崎将・横島・小林・青木・鷹巣・[[栗原孝]]・秋富と並んでの9位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p935 昭和57年9月24日夕刊17面「草壁ら三人並ぶ 広島オープンゴルフ」</ref>でスタートし、3日目には謝敏・[[坂下定夫]]と並んでの5位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p998 昭和57年9月26日朝刊16面「羽川がトップ 広島オープン」</ref>に着け、最終日には川田・中村・[[石井秀夫]]・
[[1984年]]の[[群馬オープンゴルフ選手権競技|群馬オープン]]では初日に[[岩下吉久]]に次ぐと同時に[[大町昭義]]・海老原を抑え、[[中村稔 (ゴルファー)|中村稔]]と並んでの2位タイでスタートし<ref>朝日新聞縮刷版p306 昭和59年7月8日朝刊16面</ref>、最終日には新井・大町に次ぐと同時に泉川・川田・岩下・土山・中村と並んでの4位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p340 昭和59年7月9日朝刊18面</ref>に入った。▼
▲[[1983年]]の中日クラウンズでは最終日の12番で首位[[:en:Scott Simpson (golfer)|スコット・シンプソン]](アメリカ)に並ぶなど追い上げを見せたが、その後が続かず後退し、マーシュ・[[泉川ピート]]・[[山本政彦]]と並ぶ8位タイ<ref>
1983年の[[ウッドワンオープン広島ゴルフトーナメント|広島オープン]]では2日目に63をマークして[[河野和重]]・[[高橋勝成]]・[[:en:Chen Tze-ming|陳志明]](中華民国)と並んでの3位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p944 昭和58年9月24日夕刊16面</ref>、3日目には73で船渡川と並んでの8位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p964 昭和58年9月25日朝刊16面</ref>に着け、最終日には船渡川と共に73で内田・鈴村照・[[池原厚]]と並んでの9位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p999 昭和58年9月26日朝刊19面</ref>に入った。
1983年の[[ファンケルオープンin沖縄|大京オープン]]では3日目に山本・宮本と並んでの6位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p404 昭和58年12月11日朝刊16面</ref>に着け、最終日には[[森本俊治]]と並んでの10位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p438 昭和58年12月12日朝刊18面</ref>に入った。
▲[[1984年]]の[[群馬オープンゴルフ選手権競技|群馬オープン]]では初日
1984年の大京オープンでは3日目に岩下・湯原・[[鈴村照男]]・鈴村・[[川上典一]]と並んでの4位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p343 昭和59年12月9日朝刊17面</ref>に着け、最終日には草壁と並んでの5位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p377 昭和59年12月10日朝刊19面</ref>に入った。
[[1986年]]の東北クラシックでは宮本・[[高橋五月]]・前田と並んでの10位タイ<ref>
[[1988年]]の[[マンシングウェアオープン KSBカップ|テーラーメイド瀬戸内海オープン]]では初日に7アンダー65のコースレコードで単独首位に立ち<ref>朝日新聞縮刷版p1131 昭和63年3月25日朝刊23面「ベテラン森初日首位に 瀬戸内海オープンゴルフ」</ref>、2日目には75とスコアを崩しながらも通算4アンダー140で単独首位を守ったが<ref>朝日新聞縮刷版p1194 昭和63年3月26日朝刊24面「森トップ守る 瀬戸内海オープン」</ref>、最終日にはウェイン・スミス(オーストラリア)の逆転を許すと同時に[[三上法夫]]に並ばれての2位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p1285 昭和63年3月28日朝刊23面「スミス逆転優勝 瀬戸内海オープン」</ref> <ref>{{cite book |last1=McCormack |first1=Mark H. |author1-link=Mark McCormack |title=World of Professional Golf 1989 |date=1989 |publisher=Collins Willow |isbn=000218284X |pages=276, 501}}</ref>に終わる。
1988年の[[埼玉オープンゴルフトーナメント|埼玉オープン]]では初日を川田と共に67をマークして首位タイ<ref>[[毎日新聞]]縮刷版p140 昭和63年8月4日朝刊26面</ref>でスタートし、最終日には並んだ[[川俣茂]]をプレーオフで下して優勝<ref>毎日新聞縮刷版p177 昭和63年8月5日朝刊19面</ref>。
[[1990年]]のサンコーグランドサマーでは最終日に69をマークして海老原・[[町野治]]・[[中村彰男 (ゴルファー)|中村輝夫]]・[[高見和宏]]と並んでの6位タイ<ref>朝日新聞縮刷版p517 平成2年8月13日朝刊17面</ref>に入り、[[1992年]]の第一カップ<ref>{{Cite web |title=森 憲二選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site|url=https://www.jgto.org/player/895/result|website=www.jgto.org|access-date=2023-06-18}}</ref>を最後にレギュラーツアーから引退。
== 主な優勝 ==
* 1972年 - ロレックスクラシック
* 1977年 - 長野県オープン、関東プロ
* 1979年 - かながわオープン
* 1988年 - 埼玉オープン
== 著書 ==
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{{デフォルトソート:もり けんし}}
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[[Category:1946年生]]
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