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{{脚注の不足|date=2020年7月}}
'''長崎派'''(ながさきは)とは、[[江戸時代]]の[[鎖国]]体制下において唯一外国([[オランダ]]・[[中国]]との交渉があった[[長崎市|長崎]]で生まれた様々な諸画派の総称である。
 
==概要 ==
この諸画派は、'''漢画派'''(北宗画派)・'''黄檗派'''・'''唐絵目利派'''(写生派)・'''南蘋派'''・'''南宗画派'''(文人画派)・'''洋風画派'''・'''長崎版画'''の76つに大別できる。こ分けららに共通の主張や特定の様式があわけではない{{Sfn|石田ほか|1987|pp=689-690}}
長崎を通じて外国から流入した新様式が[[上方]]や[[江戸]]の中央画壇に広まり新興の絵画芸術を生む契機となった。とりわけ[[南蘋派]]の影響は大きく、近世絵画に写実性を追求する姿勢が芽生えた。
 
長崎を通じて外国から流入した新様式が[[上方]]や[[江戸]]の中央画壇に広まり新興絵画芸術を生む契機となった。{{要検証範囲|とりわけ[[南蘋派]]の影響は大きく、近世絵画に写実性を追求する姿勢が芽生えた|date=2020年7月}}
なお、[[篆刻]]にも源伯民を祖とする[[日本の篆刻史|長崎派]]が登場する。こちらも同様の歴史的背景から中国[[黄檗宗|黄檗僧]]によってもたらされた工芸美術であるが画派とはいえず、ここには分類されない。
 
<!--なお[[篆刻]]にも、[[源伯民]]を祖とする[[日本の篆刻史|長崎派]]が登場する。こちらも同様の歴史的背景から中国[[黄檗宗|黄檗僧]]によってもたらされた工芸美術であるが画派とはいえず、ここに本項で分類され言及しない。-->
==概説==
長崎は開港以前から[[キリスト教]]と深い関わりをもち、その後も一大布教地域であったため17世紀初めには市内に多数の信者を有し10以上の[[教会]]が建てられていた。教会の中の画学舎では布教や礼拝用の聖画像などがさかんに制作され、信者や制作者は既にキリスト教美術の洗礼を受けていた<ref>16世紀初頭に始まる[[宗教改革]]では偶像崇拝が否定されたが、カトリックは逆手にとって聖母像を布教の道具として最大限に利用したが、日本では大歓迎され、宣教に絶大な効果を生んだ。やがて輸入品だけでは足りなくなり、画学舎が設立された。その中には[[ジョバンニ・ニコラオ]]もいた([[宮下規久朗]]『欲望の美術史』([[光文社新書]] [[2014年]]p.145))。</ref>。秀吉の[[バテレン追放令|キリスト教禁教]]以後も細々とこのキリスト教美術の技法が「'''蛮流'''」として受け継がれ、文献に生島三郎左や野沢久右衛門という洋風画法を取り入れた画人が存在したことが伝わっている。しかし、18世紀後半にはすっかり途絶えてしまいその作品もまったく伝わっていない。
ともあれ、こうして長崎には洋風画を受け入れる土壌が培われたのであるが、一方で頻繁に画僧・画人が中国から渡来した。[[正保]]年間の黄檗僧[[逸然性融]]の来日が嚆矢となり、以後[[沈南蘋]]・[[伊孚九]]・[[費漢源]]などが来日した。
このキリスト教美術の浸透・中国文化の流入に加え、[[狩野派]]・[[土佐派]]などの従来からの美術様式や、職業的な目的をもった[[唐絵目利]]の画家などが長崎という一地域に渾然となって存在し、長崎派の諸派を発生させる源泉となった。
 
==歴史 ==
このように長崎派は、江戸時代の長崎の特異な位置づけと深く関係しており、その絵画史は次の3つの時期に分けられる。<ref>越中哲也『長崎の美術・工芸 ― 長崎文化史序説』[[蝸牛社]] 1981年</ref>
ともあれ、こうして長崎には洋風画を受け入れる土壌が培われたのであるが一方で頻繁に画僧・画人が中国清朝から渡来した。[[正保]]年間(1644-48年)、黄檗僧[[逸然性融]]の来日が嚆矢となり、以後[[沈南蘋]]・[[伊孚九]]・[[費漢源]]などが来日した{{要出典|date=2020年7月}}
 
鎖国後の絵画史は以下の2つの時期に分けられる{{Sfn|越中|1981}}。
*第1期は開港した[[元亀]]2年(1571年)から長崎から[[ポルトガル]]人が追放される[[寛永]]16年(1639年)まで。
*第21:[[ポルトガル]]人退去後、[[明]]末[[清]]初(17世紀中頃から終わり)の戦乱を逃れて亡命した中国人によってもたらされた中国文化、とりわけ黄檗文化が伝播した時期。
*第32は19:19世紀初頭の[[文化文政]]期に唐絵目利の画家や{{要検証範囲|町民画家|date=2020年7月}}と清朝の画風が混ざり合って相互に影響し活況を呈した時期。
 
300200近く以上わたり海外からの文化的・美術的な刺激を真っ先に受けた長崎の特異な土壌が長崎派を成した。その都度、絵画の新様式を中央に伝播させ、日本画壇に新興芸術を誕生させる役割を担ってきた。しかし[[開国]]後一時は、[[南宗画]][[文人画]])系の[[祖門鉄翁]]・[[木下逸雲]]らが人気を博したものの、長崎派はしだいにその輝きを失い衰え、[[明治]]以降は急激停滞し入り、その役割を終えた{{要出典|date=2020年7月}}
 
== 各画派 ==
=== 漢画派(北宗画派) ===
この画派は'''長崎漢画'''もしくは'''唐絵'''と呼ばれ、主に[[明]][[清]]画の影響が色濃い。[[宋 (王朝)|宋]][[元 (王朝)|元]]代の絵画様式を模倣した[[室町時代]]の[[水墨画]]とは別系統の漢画である。
1642年([[正保]]2年(1642年)来日した[[黄檗宗|黄檗僧]][[逸然性融]]は長崎漢画の祖と呼ばれ、[[羅漢]]・[[達磨]]・[[布袋]]像などの[[道釈図|道釈人物画]]を多くいた。逸然以前にも[[范道生]]・[[陳璜 (画家)|陳璜]]・[[陳玄興]]といった渡来画人がしている。また[[陳賢]]の道釈人物図が渡来僧によって幾たびか持ち込まれた。これらの画人の作品は長崎漢画成立の源流となった。逸然の門弟に[[河村若芝]]・[[渡辺秀石]]などが育ち、[[北宗画]]風の漢画を善くした。逸然のほかにも絵画をたしなむ黄檗僧は多く、この画派は長崎派の主流とされる{{要出典|date=2020年7月}}。河村若芝は一家をなし門下に[[上野若元]]・[[山本若麟]]・[[牛島若融]]らがつらなり[[幕末]]まで続いた。またのちに[[唐絵目利]]となった[[小原慶山]]も一時若芝の門下にあった。渡辺秀石は唐絵目利職となり唐絵目利派の元祖の一人となった。
 
=== 黄檗派 ===
[[黄檗宗]]の渡来僧がもたらした[[黄檗美術]]のうちでも[[頂相]](僧侶の[[肖像画]])を中心とした'''黄檗画像'''濃厚な色彩表現と顔貌の正面性、その陰影法に特徴がある。これは[[明]]代に[[江南地方]]で活躍した肖像画家[[曽鯨]]の流れを汲む様式である<ref>[[{{Sfn|錦織亮介]]『 黄檗禅林の絵画』|2006}}。[[中央公論隠元隆琦|隠元]]美術出版 </ref>。隠元が日本にもたらした「[[費隠通容]]像」は曽鯨の門弟のひとり[[張 (画家)|張琦]]の作で当時日本の画家に衝撃をもって迎えられた{{要説明|date=2020年7月}}。同じく曽鯨門とされる[[楊道真]]は隠元に随行してきた画人で主に隠元像を手がけた。その弟子となった喜多長兵衛([[喜多道矩|喜多長兵衛]])<ref>[[{{Efn2|喜多宗雲]]説がある</ref>{{要出典|date=2020年7月}}。}}は隠元・[[木庵性瑫|木庵]]・[[即非]]画像頂相を中心に制作した。道矩の子の[[喜多元規]]は黄檗派の代表格に挙げられ{{要出典|date=2020年7月}}、黄檗僧に限らず、在留唐人や大名など各地に200以上の肖像画を残している。「[[隠元隆|隠元禅師]]像」・「[[独立性易|独立和尚]]像」・「[[鍋島直条]]像」などが有名ある。黄檗画像の表現法は、のちの[[鶴亭]]や[[片山楊谷]]などが受け継がれ[[沈南蘋#南蘋派|南蘋派]]などと混交して独特の画法を生んだ{{要出典|date=2020年7月}}。またその写実的表現は[[長崎版画]](長崎絵)にも影響を与えた。
 
=== 唐絵目利派(写生派) ===
唐絵目利派(からえめききは)は、[[唐絵目利]]職についた画家によって形成された。この職は輸入される[[書画]]の鑑定・価格評価だけでなく、器物や鳥獣類の写図を画き記録することを重要な職務とし、一方で[[長崎奉行所]]の[[御用絵師]]の役割も兼ねた。その職責のために写実性が要求され、洋風画や黄檗派の頂相などの写実的な画法を吸収しながら発展した。逸然門下の[[渡辺秀石]]が17世紀末に唐絵目利職に就き、ついで[[河村若芝]]に画技を受けた[[小原慶山]]もこの職に就いた。秀石や慶山は長崎土産となるような長崎の[[風俗画]]や異国情緒のある花鳥図・人物図を残している。その後、[[広渡一湖]]・[[石崎元徳]]が任命され、[[荒木元慶]]も手伝に任ぜられ[[荒木元融]]のとき本役となった。以降の唐絵目利は渡辺家・広渡家・石崎家・荒木家の四家の世襲となり、門弟を含めて多くの画家を出した。荒木家や石崎家は洋風画への傾向をしだいに強くし、[[大御所時代|文化文政期]]には[[石崎融思]]や[[荒木如元]]といった洋風画家を生んだ。
 
====作品資料====
*「長崎渡来鳥獣図巻」([[東京国立博物館]])
*「唐船持渡鳥類」(同上)
*「外国珍禽異鳥図」([[国立国会図書館]])
*「唐蘭船持渡鳥獣之図」([[慶應義塾大学]]三田図書館)
*「渡辺派鳥獣図巻」([[神戸市立博物館]])
 
=== 南蘋派 ===
{{main|沈南蘋#南蘋派}}
1731年[[享保]]16年(1731年)に来日した清朝の画家[[沈南蘋]]とその一派による画派。細密な彩色[[花鳥画]]に特長がある。従来から継承されてきた[[狩野派]]や[[土佐派]]の硬直的な絵画様式を打破する原動力となり、[[円山応挙]]や[[伊藤若冲]]など新興の画家の台頭を惹起した{{要出典|date=2020年7月}}
 
=== 南宗画派(文人画派) ===
1720年(享保5年(1720年)に[[伊孚九]]が来舶し、長崎に[[南宗画]]を伝えた。[[池大雅]]・[[桑山玉洲]]などの多くの画家が私淑した。続いて1734年(享保19年)に来日した[[費漢源]](享保19年・1734年)・[[張秋穀]](1786年・[[天明]]6年・1786年)[[江稼圃]](1804年・[[文化 (元号)|文化]]元年・1804年)と合わせて'''来舶四大家'''と呼ばれる{{要出典|date=2020年7月}}。このほかにも[[宋紫岩]][[徐雨亭]]・[[陳逸舟]]など多くの清人が長崎に南宗画を伝えている。別系統で日本に伝わっていた[[南画]]と渾然一体となり全国に広まっていった。長崎の南宗画派からは幕末に[[鉄翁祖門]]・[[木下逸雲]]などの優れた文人画家を輩出した{{要出典|date=2020年7月}}
日本の初期文人画<ref> 日本最初の文人画家である[[祇園南海]]は18世紀初頭に初めて[[山水図]](1707年)を手がけている。</ref>に先立つ半世紀以上前に既に渡来僧の[[独立性易]]や[[化林性エイ|化林性偀]]は[[文人]]的色彩が強い[[水墨画]]を多く残している。和僧の[[蘭谷元定]]や[[百拙元養]]も文人趣味が横溢した作品を画いた。
 
享保5年(1720年)に[[伊孚九]]が来舶し、長崎に[[南宗画]]を伝えた。[[池大雅]]・[[桑山玉洲]]などの多くの画家が私淑した。続いて来日した[[費漢源]](享保19年・1734年)・[[張秋穀]]([[天明]]6年・1786年)・[[江稼圃]]([[文化 (元号)|文化]]元年・1804年)と合わせて'''来舶四大家'''と呼ばれる。このほかにも[[宋紫岩]]・[[徐雨亭]]・[[陳逸舟]]など多くの清人が長崎に南宗画を伝えている。別系統で日本に伝わっていた[[南画]]と渾然一体となり全国に広まっていった。長崎の南宗画派からは幕末に[[鉄翁祖門]]・[[木下逸雲]]などの優れた文人画家を輩出した。
 
=== 洋風画派 ===
[[キリスト教]]美術の洗礼を早くから受け入れていた長崎では、続いて[[オランダ]]人によって西洋画法が持ち込まれるなどして全国、他に先駆けて生島三郎左や野沢久右衛門などの蛮流と呼ばれる初期の洋風画家<ref>{{Efn2|洋風画とは、一般的に遠近法や陰影法などの表現法を取り入れるばかりでなく、その題材が西洋人や西洋の事物・風景である場合、あるいは画材が油彩やキャンパスであることも含める{{要出典|date=2020年7月}}</ref>}}が誕生している。その後、18世紀後半に[[若杉五十八]]、ついで唐絵目利の[[荒木如元]]・[[石崎融思]]、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボル]]のお抱え絵師である[[川原慶賀]]などが現れた。[[司馬江漢]]などの[[蘭学]]を修めた画家と比較すると長崎の洋風画派は画工の域を出ず、個性を主張することはまれであった。
 
=== 長崎版画 ===
{{main|長崎絵|合羽摺}}
古い作品では1645年(正保2年(1645年)に刊行された木版画『万国総図』が知られるが{{要出典|date=2020年7月}}、初期のものは大半が無落款であるため、作者名は不明である。およそ[[安永 (元号)]][[天明]]年間(1772-1789年)頃から作品の数が増加し始め、最盛期は[[化政文化|文化文政期]](1804-30年)であった{{要出典|date=2020年7月}}。大半は[[唐人屋敷]]に住んでいた唐人、[[出島]]屋敷に住んでいたオランダ人を描いたものである。
 
==長崎に遊学した主な画家==
73 ⟶ 60行目:
*[[滝和亭]]
*[[納富介次郎]]
*[[粥川伸二]]
 
==参考文献一次史料==
*『崎陽画家略伝』(著者不詳)
*[[渡辺秀実]]『長崎画人伝』
*[[荒木千洲]]『続長崎画人伝』
*[[朝岡興禎]]編『長崎画系』
*虞千里[[西川如見]][[長崎先民伝夜話草]]1719年(享保16年(17314年)
*西川如見虞千里『長崎夜話草先民伝1731年(享保4年(171916年)
 
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist2}}
===出典===
{{Reflist}}
 
==出典参考文献==
*{{Cite book|和書
*陰里鐵郎「川原慶賀と長崎派」<[[日本の美術 (雑誌)|日本の美術]]10> [[至文社]] 1993年
|author=越中哲也
*阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』1995年 [[形文社]]
|authorlink=越中哲也
|title=長崎の美術・工芸-長崎文化史序説
|publisher=蝸牛社
|date=1981-12
|id={{NCID|BN03784933}}
|ref={{SfnRef|越中|1981}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=石田尚豊ほか編
|authorlink=石田尚豊
|title=日本美術史事典
|publisher=[[平凡社]]
|date=1987-05-25
|isbn=978-4582126075
|id={{全国書誌番号|87041645}}
|ref={{SfnRef|石田ほか|1987}}
}}
*{{Cite journal|和書
|author=陰里鐵郎
|authorlink=陰里鉄郎
|title=川原慶賀と長崎派
|date=1993-10
|journal=日本の美術
|publisher=至文堂
|issue=329
|pages=1-98
|issn=0549401X
|ref={{SfnRef|陰里|1993}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=阿野露団
*阿野露団『 |title=長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』1995年 [[形文社]]
|publisher=形文社
|date=1995-12
|id={{全国書誌番号|97006152}}
|ref={{SfnRef|阿野|1995}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=錦織亮介
|title=黄檗禅林の絵画
|publisher=[[中央公論美術出版]]
|date=2006-05
|isbn=978-4805505076
|id={{NCID|BA76614921}}
|ref={{SfnRef|錦織|2006}}
}}
 
{{DEFAULTSORT:なかさきは}}
[[Category:日本美術の流派]]
[[Category:流派江戸時代の絵画]]
[[Category:江戸時代の文化長崎]]
[[Category:長崎市江戸時代歴史中国系文化]]
[[Category:日中関係史]]
[[Category:日蘭関係]]
[[Category:画派]]