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{{Otheruses|BC級戦犯|その他|戦犯}}'''BC級戦犯'''(BCきゅうせんぱん)は、<!--[[第二次世界大戦]]の戦勝国である-->[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によって布告された[[国際軍事裁判所憲章#ロンドン国際軍事裁判所憲章|国際軍事裁判所条例]]及び[[国際軍事裁判所憲章#極東国際軍事裁判所条例|極東国際軍事裁判条例]]における戦争犯罪類型B項「[[通例の戦争犯罪]]」またはC項「[[人道に対する罪]]」に該当する[[戦争犯罪]]または戦争犯罪人とされる罪状に問われた個人<ref>対象は「枢軸諸国のために、一個人として、又は組織の一員として、次の各犯罪のいずれかを犯した者」(第六条)で、原則としては官吏や軍人、市民など地位や身分を問わない。</ref>の総称。A項の[[平和に対する罪]]で訴追された者は「[[A級戦犯]]」と呼ぶ<ref>野呂浩「パール判事研究 : A級戦犯無罪論の深層」、『東京工芸大学工学部紀要. 人文・社会編』31(2)、東京工芸大学、2008年、 p43</ref>。
 
日本のBC級戦犯は、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により[[横浜市|横浜]]や[[マニラ]]など世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。被告人は約5700人で約1000人が[[死刑]]判決を受けたとされる<ref>[http://www.jicl.jp/old/now/jiji/backnumber/1948.html 1948年戦争犯罪人に対する裁判と天皇の責任] 法学館憲法研究所</ref><ref>[httphttps://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-08-31/20060831faq12_01_0.html BC級戦犯とは?] 日本共産党中央委員会</ref>。
 
なお、[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)においてもA項目の訴追事由では無罪になったが、B項、C項の訴追理由で有罪になった者がいた([[松井石根]])。<ref>林(2005) 32-33頁。</ref>
 
なお、日本に対してはほとんどB項しか適用されていない<ref name="#1">林(2005) 3頁。</ref>。<!--出典に挙げられていたが、該当する記述がないことを確認。<ref>日暮吉延「東京裁判」[[講談社現代新書]], 2008年, 26頁、116-119頁</ref>-->
 
== 定義 ==
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[[連合国戦争犯罪委員会]]による[[1944年]]10月の提言では、組織的かつ大規模な残虐行為に伴う主要な戦争犯罪には国際法廷を、それ以外の戦争犯罪には軍事法廷を開くことが記されていた。この提言は[[イギリス]]によって否定されたが、後の国際軍事裁判所条例におけるA~C項目の戦争犯罪類型の原型となった。極東国際軍事裁判所条例では、この戦争犯罪類型の一部を変更して取り入れている。
 
* A項「平和に対する罪」((a) Crimes against Peace) に関連する犯罪は、[[ドイツ]]-[[ニュルンベルク]]の国際軍事裁判所と[[日本]]-[[東京]]の極東国際軍事裁判所で審理され、それ以外のB項「通例の戦争犯罪」・C項「人道に対する罪」を主とした犯罪は、各地の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍と犯罪が行われた各国において審理された。
* B項「通例の戦争犯罪」((b) Conventional War Crimes) とは、[[戦時国際法]]における交戦法規違反行為 (Namely, violations of the laws or customs of war) を意味する。
* C項「人道に対する罪」((c) Crimes against Humanity) とは「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、捕虜の虐待、追放その他の非人道的行為」と[[定義]]されたが、この[[法 (法学)|法]][[概念]]に対しては当時から賛否の意見が分かれていた。なお、このC項は、日本の戦争犯罪とされるものに対しては適用されなかった。
B項とC項は重なり合う部分も多く、B項が戦時における兵士による通例の戦争犯罪であるのに対して、C項は一般国民に対する迫害・残虐行為といった形で説明されることも多い<ref name=":0">{{Cite web |url=http://hayashihirofumi.g1.xrea.com/paper47.htm#:~:text=%EF%BC%A2%E7%B4%9A%E3%81%A8%EF%BC%A3%E7%B4%9A,%E7%B4%9A%E3%81%8C%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82 |title=BC級戦犯 |access-date=2025-6-5 |publisher=林 博史}}</ref>。そのため、C項は戦時だけでなく平時も含み、自国民への犯罪も対象になるともされる<ref name=":0" />。その結果、このC項は、ナチのユダヤ人虐殺のような民族的あるいは集団連帯的な迫害・残虐行為を念頭に置いて、日本の戦争犯罪とされるものに対しては適用されなかったという言い方がなされることもある。実際には、例えば、東京裁判では55の訴因が類型としてあげられたが53番目から55番目の訴因が「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」となっているが、判事らが区分けに関心がなく、事案の内容次第でこれらの条項で有罪判決を受けた者がどちらであったかは何ともいえない面がある。[[国際法]]学者[[一又正雄]]は、B級は指揮・監督にあたった[[将校|士官]]・部隊長、C級は直接[[捕虜]]の取り扱いにあたった者、主として[[下士官]]、[[兵|兵士]]、[[軍属]]であるという主旨の説明をしている<ref>東京裁判研究会編『共同研究パル判決書(上)』(講談社、1984年)「第一章 パル判決の背景 東京裁判の概要」</ref>。終戦間もない時期にしばしば語られることのあった説明であるが、適用され始めたばかりの時期の混乱があったとも思われる。
 
そもそも、A級、B級、C級の区別は国際軍事裁判所条例及び[[極東国際軍事裁判|極東国際軍事裁判所]]条例({{lang-en-short|Charter of the International Military Tribunal for the Far East}})における分類である。また、「BC級戦犯」は[[アメリカ合衆国]]での呼称であり、イギリスや[[オーストラリア]]では「軽戦争犯罪裁判({{lang-en-short|Minor war crimes trials}})」と呼ばれている<ref name="#1" />。しかし、外地内地を問わず、指揮官クラスのみならず多数の下士官・兵士クラスの者も実行者としてしばしば処刑され、日本では彼らは一律にBC級戦犯として伝えられることが多かった。
[[国際法]]学者[[一又正雄]]は、B級は指揮・監督にあたった[[将校|士官]]・部隊長、C級は直接[[捕虜]]の取り扱いにあたった者、主として[[下士官]]、[[兵|兵士]]、[[軍属]]であるという主旨の説明をしている<ref>東京裁判研究会編『共同研究パル判決書(上)』(講談社、1984年)「第一章 パル判決の背景 東京裁判の概要」</ref>。
 
なお、A級、B級、C級の区別は国際軍事裁判所条例及び[[極東国際軍事裁判|極東国際軍事裁判所]]条例({{lang-en-short|Charter of the International Military Tribunal for the Far East}})における分類である。
 
また、「BC級戦犯」は[[アメリカ合衆国]]での呼称であり、イギリスや[[オーストラリア]]では「軽戦争犯罪裁判({{lang-en-short|Minor war crimes trials}})」と呼ばれている<ref>林(2005) 3頁。</ref>。
 
== 戦争犯罪人のリストアップ ==
{{出典の明記|date=2015年7月|section=1}}
連合国は戦時中・戦後と戦争犯罪に関する情報を収集していた。
 
これらの情報は連合国戦争犯罪委員会に提出され、それを基に[[1948年]]3月までに36,529名(日本人容疑者は440名)の容疑者リストを作成した。
 
また、日本の戦犯を対象として、[[中華民国]]の[[重慶市|重慶]]に設置された同委員会極東太平洋小委員会では3,158名、連合軍東南アジア司令部では[[1945年]][[11月10日]]までに1,117名のリストが作成された。
 
これらのリストは戦犯の捜査機関を持っている各地の連合軍や各国に配布され、戦犯の逮捕に利用された。
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また、連合軍軍用機の搭乗員の捕虜に対する扱いも問題となった。[[田中宏巳]]「BC級戦犯」([[ちくま新書]])では、「航空機と地上部隊の戦いは『一方的に航空機が攻撃を加え地上部隊は無力感と憎悪が高まる』という具合になりやすい。この状況で軍用機が墜落して搭乗員が捕虜となった時に、ついさっきまで空中から一方的に自軍を殺戮していた者が『捕虜になった以上ジュネーヴ条約で守られる権利がある』ということなど戦場の兵士にはとうてい受け入れられない」と述べている。
 
同書によると、[[石垣島事件|石垣島]]で米軍機搭乗員3人が捕虜となった後殺害された件で(後に減刑されたが)死刑判決42人という事例もあり、軍用機搭乗員捕虜の殺害では全体的に死刑判決が多くなる傾向にあったという。
 
戦犯逮捕の過程では、敵軍の裁きを潔しとしないという理由で自らの命を絶った者もいた。主なものを挙げると、[[杉山元]]([[元帥]]、[[陸軍大将]]、開戦時の参謀総長)は[[拳銃]][[自殺]]、[[橋田邦彦]](文部大臣)、[[近衛文麿]](元[[首相]])の2名は服毒自殺、[[小泉親彦]]([[東條内閣]]の厚生大臣、[[軍医]][[中将]])、[[本庄繁]](元[[関東軍#司令官|関東軍司令官]]、陸軍大将)は割腹自殺を行っている。なお[[東條英機]](元首相、陸軍大将)は自殺を図ったが未遂に終わっている。
 
=== 朝鮮人・台湾人の戦争犯罪人 ===
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[[泰緬鉄道]]建設の例に見られるように、日本政府が「[[ジュネーヴ条約]]」の準用を連合国各国に約束しながら、それに基づいた処遇を適正に行わなかった為、条約に反した命令・処遇の実行責任が、末端の軍属にも問われた(厳密には「準用」は「遵守」に比べて実行側の裁量の余地が大きいが、そうした主張が通る状況ではなかった)。
 
朝鮮人戦犯148人のうち、軍人は3人だった。1人は[[洪思翊]][[中将]]であり、2人は志願兵だった。この他、[[通訳]]だった朝鮮人16人が[[中華民国]]の[[国民政府]]によって裁かれ、うち8人が[[死刑]]となった。残る129人全員が、捕虜収容所の監視員として徴用され、[[タイ王国|タイ]]・[[ジャワ島|ジャワ]]・[[マレー半島|マレー]]の捕虜収容所に配属された軍属である。<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S15929546.html (忘れられた朝鮮人戦犯:上)歴史の隙間、取り残された 朝鮮名貫いた旧日本軍中将:朝日新聞デジタル]によれば、148人の内訳は軍人2人、通訳16人、警察官1人、監視員129人</ref>
 
尚、敵国の婦女子をはじめとする民間人を抑留したジャワ軍抑留所の監視にも朝鮮人軍属があたったため、[[オランダ]]法廷で戦犯となっている<ref>『朝鮮人BC級戦犯の記録』内海愛子 ii頁</ref>。
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起訴件数は2,244件、5,700名が起訴された<ref>[[法務大臣]]官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判概史要』</ref>。ただし、この数字には、[[ソビエト連邦]]と[[中華人民共和国]]での数字が含まれていない。
 
軍事法廷という形式上、裁判は[[一審制]]であったが、通常の[[軍律裁判]]とは違い[[弁護人]]が付けられた。特に中国、ソ連、オランダによる法廷では、杜撰な伝聞調査、虚偽の証言、[[通訳]]の不備、裁判執行者の報復感情などが災いし、不当な扱いを受けたり、無実の罪を背負わされる事例も多数あったと言われる。(反面、中国では国民党・共産党双方の角逐から其々日本将兵を戦力として期待し自陣営に引き入れようとする動きも強く、現地住民が処刑・処罰を強く希望するにもかかわらず、それを抑え、むしろ元々の日本側の行為にくらべ処罰者も意外なほど少なかったという話も聞かれる。また、ソ連のハバロフスク裁判も冷戦時代の隔絶の中で情報があまり入らずベールに包まれていたが、現地の裁判自体は公開で行われ、そこで明らかにされた関特演や731部隊他による生体実験等の日本軍の非について日本側からも否定する声はあまり聞かれない。)
 
特に、こ無実罪や不当な罪を背負わされという主張は被疑者を含め、日本側の関係者を中心に見られる。
 
例として、[[栄養失調]]の捕虜に[[ゴボウ]]を食べさせた([[直江津捕虜収容所事件]])、[[肩凝り]]や[[腰痛]]の捕虜に[[灸]]を据えた収容所関係者が捕虜虐待の罪に問われ有罪とされた、などが挙げられる。ただし、これらの事実が公判で虐待として指摘されたことは確かであるが、例えば直江津では実際に異常な数の死者が出ていた等の事もあって、これだけで有罪になったのか、またはこれ以外にも虐待の事実があったがゆえに有罪の証拠として採用されたのかは不明である。
 
米軍における裁判でも[[山本七平]]は「“タナカという[[憲兵]]がやった”という証言があって、“やったのはこいつだ”と[[面通し]]で言われたらもうおしまいで、『私は憲兵でなく[[砲兵]]です』といくら言っても無駄だった」と回想している。一方、[[林博史]]は、一般的な軍律裁判と比較して、正確な裁判であったと評価する<ref>BC級戦犯裁判 林 博史著 岩波新書</ref>。
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=== 処罰 ===
{{出典の明記|date=2015年10月|section=1}}
[[A級戦犯]]約'''200名'''が、[[巣鴨拘置所]]に逮捕監禁されたのと同時に'''BC級戦犯'''約'''5,600人'''が各地で逮捕投獄された。[[横浜市|横浜]]、[[上海市|上海]]、[[シンガポール]]、[[ラバウル]]、[[マニラ]]、[[マヌス島]]等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、約'''1,000名'''が[[軍事裁判]]の結果、[[死刑]]に処された。<!--出典なし。--国内で戦後逮捕された者は[[家族]]に「ちょっと出掛けて来る」と言い残して、まさか自分が[[戦犯]]で裁かれようとは夢にも思わなかった者が多い。[[死刑]]判決を受けた戦犯の多くは[[遺書]]・遺髪等を遺すことが許されず、[[遺骨]]も秘密裏に焼却・埋葬された。戦犯達は隠し持った鉛筆あるいは自分の血で紙切れやトイレットペーパーに密かに遺書を書き、[[教誨師]]などに託して[[遺族]]に届けてもらったが、それも一部の者だけであった。-->処刑方法は、約3分の2が絞首刑、残りは銃殺刑であり、中国においては[[市中引き回し]]の上、死刑執行させられている。また、巣鴨拘置所では、銃殺刑に処された1人(元[[ネグロス島]]司令大佐)を除いて33人が絞首刑に処された<ref>{{Cite report|df=ja|author=前坂 俊之|authorlink=前坂俊之|date=July 2003|title=東京裁判で絞首刑にされた戦犯たち― 勝者が敗者に執行した「死刑」の手段―|url=http://maesaka.sakura.ne.jp/bk/files/031001_toukyousaibannnosennpann.pdf|format=PDF|accessdate=2020-10-23}}</ref>。1952年、[[サンフランシスコ講和条約]]発効後、戦犯死没者の遺書は巣鴨プリズンの巣鴨遺書編纂会によって取りまとめられ『[[世紀の遺書]]』として1953年に出版された。
<!--出典なし。--国内で戦後逮捕された者は[[家族]]に「ちょっと出掛けて来る」と言い残して、まさか自分が[[戦犯]]で裁かれようとは夢にも思わなかった者が多い。[[死刑]]判決を受けた戦犯の多くは[[遺書]]・遺髪等を遺すことが許されず、[[遺骨]]も秘密裏に焼却・埋葬された。戦犯達は隠し持った鉛筆あるいは自分の血で紙切れやトイレットペーパーに密かに遺書を書き、[[教誨師]]などに託して[[遺族]]に届けてもらったが、それも一部の者だけであった。-->1952年、[[サンフランシスコ講和条約]]発効後、戦犯死没者の遺書は巣鴨プリズンの巣鴨遺書編纂会によって取りまとめられ『[[世紀の遺書]]』として1953年に出版された。
<!--出典なし。--
また海軍では捕虜の処刑など、軍幹部に責任が問われそうな事案は[[昭和天皇]]への訴追に繋がるため、[[第二復員省]]が現地司令官に責任をとどめる弁護方針を立て、法務官などの証人を予め隠すなど秘密裏の工作を行った。そのために上層部の命令を遂行しただけにも関わらず、責任を問われて処刑された佐官の被告もいた。ただし、日本も参加した第一次世界大戦終了後の連合国内の議論では「責任についての1919年委員会」では上層部の命令を遂行したという事実だけでは責任を免れないという議決を満場一致で可決している。(情状酌量の余地としてどれだけ考慮するかは各国にゆだねられている。)-->
 
なお、この裁判では上官の命令に従っただけの下級兵がおおく処刑されたというのがよく一般的に言われるが、実際は2等兵などの下級兵士は起訴された割合が低く、死刑になった割合は減刑などを考慮に入れると割合としては少ない(ただし、朝鮮人などの軍属では、処刑になった割合はやや多い)<ref>巣鴨遺書編纂会編「[[世紀の遺書]]」</ref>。死刑になった割合が多いのは准士官、下士官が多い。一方で、[[シンガポール華僑虐殺事件]]のように戦争犯罪を命令した高級軍人が戦犯逃れで逃亡したために、命令に反対した軍人が身代わりのように処刑された例もあり、旧軍の官僚組織の非道さを具現化した例もあった。他にも真犯人が戦死・抑留等によって不在のために、より罪の軽いはずの軍人が重罪に問われた例もあった。
 
また、外国で逮捕された中にはマレー半島のイロンロン村の虐殺事件などで現地の人々が「助けてくれた。」などの証言をして弁護したケースがある。この事件では比較的厳しい裁判官であったが、虐殺にしては軽い罪になった。これらのケースでは虐殺などの罪でも比較的軽い罪で済むケースが多かった。
 
== 法廷一覧 ==
総計2,235裁判、被告全総数5,724人(ただし、同一人物が複数裁判を受けている場合があるので、実際の人数はこれより減少する)。{{要出典範囲|date=2016年9月|各裁判の人数は公文書館のBC級資料より}}。
 
=== アメリカ裁判 ===
全461裁判、被告総数1,446人
* [[横浜市|横浜]]:331裁判、被告1,029人 1945年12月18日~1949年10月19日(アメリカ裁判終了)
** [[武士道裁判]](アメリカ・横浜裁判23号<ref>以下、裁判対象事件の出典は半藤一利  秦郁彦  保阪正康  井上亮『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞社ほか。</ref>)
** [[花岡事件]](アメリカ・横浜裁判230号)
** [[伊藤ケース]](アメリカ・横浜裁判233号)
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** [[ジョンベル憲兵分隊事件]]
* [[メダン]]:59裁判、被告136人
**[[スマトラ横断鉄道]]
**[https://sumaterarailway.wordpress.com/2019/07/17/1945%e5%b9%b48%e6%9c%8815%e6%97%a5%e4%bb%a5%e5%be%8c/ 鉄道建設苦力虐待]
* [[タンジョン・ピナン]]:6裁判、被告11人
* [[ポンティアナック]]:20裁判、被告38人
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=== 中華人民共和国による裁判 ===
全3裁判、被告総数46人(ただし判明分のみ)。戦犯容疑者は処罰されるよりも[[撫順戦犯管理所]]などで「[[撫順戦犯管理所|認罪学習]]」を受けることがおおかった<ref>林前掲岩波新書、106頁</ref>。
* [[瀋陽]]:3裁判、被告46人
* [[太原]]<ref>[[石井明]] 「中国の立場とソ連の立場」『[争論]東京裁判とは何だったのか』築地書館 1997、pp.93-102.</ref>
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軍事法廷は一審制で、被告人に控訴(上告)の権利はなかった。ただし、たとえば米軍による裁判では、死刑判決が出た場合は、必ず連合国軍最高司令官(マッカーサー)の書類審査を受けることになっていた。他国でも、イギリスなどでは同様の書類審査が行われた。このように、死刑判決の後、書類審査で減刑され死刑を免れたケースも多い。これらを、便宜上[[再審]]による減刑とも呼ぶ。
 
裁判自体をやり直したケースはほとんど無く、[[加藤哲太郎]]が死刑判決を破棄され改めて終身刑に、さらに禁30年に減刑されたのがある程度である。
 
== 「釈放運動」 ==
講和条約発効後、国内外で戦犯として収監されている者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、広がった。既に講和条約発効以前から個人で釈放のための署名活動を開始し、1953年には90万人を署名を集めた者もいた<ref>{{Cite news|title=|newspaper=朝日新聞 朝刊|date=1953-05-10}}</ref>が、大がかりなものとしては、1952年に、例えば日弁連がBC級戦犯家族を核として始めた署名活動<ref>{{Cite news|title=|newspaper=朝日新聞|date=1952-08-11}}</ref>、4日で17万人分の署名を集めた広島の婦人団体によるもの<ref>{{Cite news|title=|newspaper=朝日新聞 朝刊|date=1953-08-09}}</ref>、全国で三千万人分を集めることを目標としたとする引揚援護愛の運動といった団体の署名活動<ref>{{Cite news|title=|newspaper=朝日新聞|date=1953-11-05}}</ref>等が知られている。その後、東西陣営の冷戦対立の激化の中で連合国中西側主要国の方針変化によりA級戦犯の釈放が進む中、未だBC級戦犯の収監者が残ることに世間では不満が持たれていた<ref>{{Cite news|title=|newspaper=朝日新聞 朝刊|date=1955-09-02}}</ref>。海外でBC級戦犯として刑が確定、収監されていたところを日本への帰還が認められ送還された者も、釈放が認められた者でなければ、巣鴨にそのまま収監されることとなっていた。1956年3月A級戦犯の出所が完了すると、世間では不公平感やむしろ逆であるべきではないかとの意識がいっそう高まり、巣鴨も含めBC級戦犯者を全て釈放されるべきだとの声も強まっている<ref>{{Cite news|title=社説|newspaper=朝日新聞 朝刊|date=1956-09-26}}</ref>。
 
釈放運動の一環としてのこれらの署名活動は長期にわたって様々な団体によって度々行われ、あるものは海外諸国に対し一括して、あるものはフィリピンあるいは中国(共産党政権)に対してという風に行われたため、複数回署名した者も多く、それらの署名は延べ総数で4000万人に達したとも言われる<ref>{{Cite journal|和書|author=中立悠紀 |title=戦後日本における戦犯「復権」 : 戦犯釈放運動から戦犯靖国神社合祀へ |issue=九州大学 博士論文(学術)、 17102甲第14131号 |year=2018 |naid=500001371063 |url=https://hdl.handle.net/2324/1931984}}</ref>。全戦犯の釈放が終了したのは1964年12月末とされる。
 
== 年表 ==
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* 1943年11月 - アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦による[[モスクワ宣言 (1943年)|モスクワ宣言]]が発表される。その内容には、ナチス・ドイツによる戦争犯罪の責任者はその犯罪が行われた国で裁判を行うこと、地理的制限を有しない主要な戦争犯罪人の扱いは連合国の決定に委ねることなどが含まれている。
* [[1944年]]10月 - 連合国戦争犯罪委員会において次の提案がまとめられた。
:*# 従来の戦争犯罪として想定されていない組織的かつ大規模な残虐行為や、そのような戦争を行う計画、準備、開始、遂行している指導者を裁くためには、国際条約に基づく国際法廷を開く
:*# 審判されるケースが多数に及ぶことを鑑み、連合軍各方面の最高指揮官が設置する軍事法廷を開く
*: この提案は、イギリスの反対とアメリカ合衆国の消極的姿勢に阻まれ実現しなかったものの、後に設置された戦犯法廷に大きな影響を与えたと言われる。
* [[1945年]][[1月22日]] - アメリカ合衆国大統領宛覚書「ナチス戦争犯罪人の裁判と処罰に関する件」が提出され、次の点が確認された。
:*# 即決裁判方式を否定、政府間協定に基づく国際法廷により主要戦犯を裁判にかけること
:*# 主要戦犯以外の戦犯は、当該国の国内裁判所で裁判にかけること
* 1945年[[8月8日]] - [[ロンドン協定]]ならびに国際軍事裁判所条例が調印される。国際軍事裁判所条例では戦争犯罪の類型として、a項「平和に対する罪」、b項「通常の戦争犯罪」、c項「人道に対する罪」が規定された。
* 1945年[[9月11日]] - 戦犯容疑者逮捕命令
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|230em}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book| 和書| translator=| author=厚生省引揚援護局法務調査室(復刻版全6巻、2011-2012年)|authorlink=引揚援護庁|editor=田中宏巳|editor-link=田中宏巳| year=2011-10| origyear=1954| title=BC級戦犯関係資料集| publisher=[[緑蔭書房]]| ___location =東京| page=|section=| quote=| isbn=| ref=harv}}{{ncid|BB07278527}}
* 田中(2011-2012):[[田中宏巳]]編、『BC級戦犯関係資料集』(復刻版)(全6巻)、緑蔭書房、2011-2012年。
* 井上ほか(2010):[[半藤一利]]・[[秦郁彦]]・[[保坂正康]]・[[井上亮 (ジャーナリスト)|井上亮]]、『「BC級裁判」を読む』、[[日本経済新聞出版社]] 2010年/日経ビジネス人文庫 2015年
* 牛村・日暮(2008):[[牛村圭]]・[[日暮吉延]]、『東京裁判を正しく読む』、[[文春新書]] 2008年、対話篇。
* 日暮(2008):[[日暮吉延]]、『東京裁判』、[[講談社現代新書]] 2008年。ISBN 978-4-06-287924-8
* 林(2005):{{Cite book|和書|author=林博史|authorlink=林博史 |title=BC級戦犯裁判 |publisher=岩波書店 |year=2005 |series=岩波新書 ; 新赤版 952 |NCID=BA72285023 |ISBN=4004309522 |id={{全国書誌番号|20814081}} |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007805574 |ref={{harvid|林(2005)}} }}
* 林(2005):[[林博史]]、『BC級戦犯裁判』、[[岩波新書]] 2005年 :ISBN 4-00-430952-2
* 内海(2004):[[内海愛子]]、『スガモプリズン  戦犯たちの平和運動』、[[吉川弘文館]] 2004年 :ISBN 4-642-05576-2
* 牛村(2004):[[牛村圭]]、『再考「世紀の遺書」と東京裁判 - 対日戦犯裁判の精神史』、[[PHP研究所]] 2004年 :ISBN 4-569-63826-0
* 田中(2002):[[田中宏巳]] 『BC級戦犯』、ちくま新書 2002年
* 毎日新聞社(2002):[[毎日新聞社 | 毎日新聞]]東京本社社会部編、『罪 - 届かなかった十五通の遺書』、[[河出書房新社]] 2002年 :ISBN 4-309-01477-1
* 林(1998):[[林博史]]、『裁かれた戦争犯罪  イギリスの対日戦犯裁判』、[[岩波書店]] 1998年。
*小菅・永井(1996):GHQ編 小菅信子・[[永井均 (歴史学者)|永井均]]解説・訳『GHQ日本占領史 「BC級戦争犯罪裁判」』日本図書センター 1996年。
* 岩川(1995):[[{{Cite book|和書|author=岩川隆]]、『|authorlink=岩川隆 |title=孤島の土となるとも  : BC級戦犯裁判』、 |publisher=講談社 |year=1995 |NCID=BN1304406X |ISBN=4062074915 |id={{全国書誌番号|95067005}} |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002421384 |ref={{harvid|岩川(1995年。)}} }}
**姉妹書に『神を信ぜず  BC級戦犯の墓碑銘』、中公文庫、1978年。
* 岩川(1982):[[岩川隆]]、『多くを語らず  生きている戦犯』、[[中公文庫]]、1982年。
* 東京裁判ハンドブック(1989): 東京裁判ハンドブック編集委員会編、『東京裁判ハンドブック』、[[青木書店]] 1989年。
* 茶園(1984-1993):[[茶園義男]]編、『BC級戦犯関係資料集成』(全15冊)、不二出版、1984年 - 1993年。
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* [[日本における検閲]]
* [[マニラ軍事裁判]]
* [[横浜軍事法廷]]
 
; 遺稿集、戦犯関連作品など
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* [http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/peace/nurchartr.html 国際軍事裁判所規約]
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/essay1/essay1-1.htm |title=国際軍事裁判所憲章第6条c項「人道に対する罪」に関する覚書 |date=20190128073804}}
* {{Cite journal|和書|author=中立悠紀 |title=旧帝国陸海軍軍人と靖国戦犯合祀の関係:BC級戦犯合祀の経緯 |journal=史学雑誌 |ISSN=0018-2478 |publisher=史学会 |year=2019 |volume=128 |issue=7 |pages=1-26 |naid=130008083431 |doi=10.24471/shigaku.128.7_1 |url=https://doi.org/10.24471/shigaku.128.7_1}}
 
<!--;文献情報
* 「[https://iccs.aichi-u.ac.jp/database/report/reports-of-use-session/use-1/entry-3046.html 国民政府の対日戦後処理方針の実際]」和田英穂(国際中国学研究センター2006.3.31)[http://iccs.aichi-u.ac.jp/archives/report/032/4a13b4c92757a.pdf][http://iccs.aichi-u.ac.jp/report/file.html?file_id=988]-->
 
[[Category:太平洋戦争|せんはんBC]]