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{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
'''荒谷 俊治'''(あらたに しゅんじ、[[1930年]][[4月1日]] - )は、日本の[[指揮者]]。
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{{Portal クラシック音楽}}
'''荒谷 俊治'''(あらたに しゅんじ、[[1930年]][[4月1日]] - [[2020年]][[1月1日]]<ref>https://www.saga-s.co.jp/articles/-/473933</ref>)は、日本の[[指揮者]]。[[日本指揮者協会]]元会長
 
==経歴==
[[広島県]][[東広島市]]に生まれる<ref>[http://jfn.josuikai.net/circle/mgc/dangi/essay27.html 男声合唱団「マーキュリー・グリークラブ」]</ref><ref>[http://www.pressnet.co.jp/2011_02/110219_09.shtml 創立80周年の西条幼稚園 荒谷さん指揮し園児が園歌を披露]</ref>。[[福岡県立修猷館高等学校|福岡県中学修猷館]]<ref>[http://shuyu.gr.jp/tokyo_old/nimoku/dai524/dai524.html 東京修猷会 第524回二木会(2005年10月13日(木))]</ref>、[[福岡高等学校 (旧制)|旧制福岡高等学校]]を経て、1953年[[九州大学]]大学院法学研究院・大学院法学府・法学部|九州大学法学部]]を卒業、1955年同文学部卒業。九州大学在学中は[[九大フィルハーモニーオーケストラ]]、[[福岡合唱協会]]に所属し指揮を行い、指揮法を[[石丸寛]]、作曲を[[高田三郎]]に師事する。1959<ref>[https://www.kyushu-u.ac.jp/f/4967/No61.pdf 九大広報 61号 (平成21[[東京放送合唱団]]を指揮してデ1月発行) - インタビュー。1968年[[東京フィルハ・シリモニー交響楽団]]ズ九大人 指揮者に就任する。1969年[[文化庁]]派遣在外芸術研修員としてアメリカに留学し[[ジョージセル]]のもとで研究、1970年[[クリーヴランド管弦楽団]]を第四代日本指揮する。同年秋からは[[東京バレエ団者協会会長 荒谷俊治]]ヨーロッパ公演に招かれて[[ボリショイ劇場管弦楽団]]、[[ルクセンブルグ放送交響楽団]]などのヨーロッパ各地のオーケストラを指揮する</ref>
 
1959年、[[東京放送合唱団]]を指揮してデビュー。1968年、[[東京フィルハーモニー交響楽団]]指揮者に就任。1969年、[[文化庁]]派遣在外芸術研修員としてアメリカに留学し、[[ジョージ・セル]]のもとで研究して、1970年、[[クリーヴランド管弦楽団]]を指揮。同年秋からは、[[東京バレエ団]]ヨーロッパ公演に招かれて[[ボリショイ劇場管弦楽団]]、[[ルクセンブルク放送交響楽団]]などのヨーロッパ各地のオーケストラを指揮する。傍ら、1966年から、[[日本オペラ協会]]と協力して、『山椒太夫』、『春琴抄』などの創作オペラを公演したり、[[日本音楽集団]]と協力して、[[三木稔]]、[[廣瀬量平]]の作品など、伝統に根ざした日本の新しい音楽を育てることに情熱を注いだ。
傍ら1966年から[[日本オペラ協会]]と協力して『山淑太夫』、『春琴抄』などの創作オペラを公演したり、[[日本音楽集団]]と協力して[[三木稔]]、[[廣瀬量平]]の作品など伝統に根ざした日本の新しい音楽を育てることに情熱を注いだ。1974年からは[[名古屋フィルハーモニー交響楽団]]の常任指揮者として同フィルを日本有数の地方オーケストラに育てた。また、東京リーダーターフェル、東京コールフェライン、福岡コールフェライン、福岡OBフィル、[[桐蔭学園]]第九オーケストラ、町田フィルハーモニー交響楽団、町田フィルハーモニー合唱団など、アマチュアの育成にも尽力する。海外演奏は1970年以来、アメリカ合衆国、ソ連、フランス、スイス、ドイツ、東南アジア、エジプト、中国、南米、韓国に及んでいる。
 
傍ら19661974から[[日本オペラ協会]]と協力して『山淑太夫』『春琴抄』などの創作オペラを公演したり、[[日本音楽集団]]と協力して[[三木稔]]、[[廣瀬量平]]の作品など伝統に根ざした日本の新しい音楽を育てることに情熱を注いだ。1974年からは[[名古屋フィルハーモニー交響楽団]]の常任指揮者に就任同フィルを日本有数の地方オーケストラに育てた。また、東京リーダーターフェル、東京コールフェライン、福岡コールフェライン、福岡OBフィル、[[桐蔭学園]]第九オーケストラ、町田フィルハーモニー交響楽団、町田フィルハーモニー合唱団など、アマチュアの育成にも尽力する。海外演奏は19701985以来から毎年開催されているアメリカ一般公募された唱団による[[、ソ連、フラ技館5000人の第九コス、スイス、ドイツ、東南アジア、エジプサー]]では中国1988年南米2004年韓国に及んで2007年の3回指揮を担当している。
2003年2月7日[[山田耕筰]]、[[齋藤秀雄]]、[[朝比奈隆]]に次ぐ第4代[[日本指揮者協会]]会長に就任する。
 
[[2018年]]には、町田市内外の音楽家の指導や育成、地域音楽の発展に寄与したとして、町田市で4人目の名誉市民に選ばれた<ref>[荒谷 俊治さん | 町田市で4人目の名誉市民として顕彰された指揮者の | 町田 | タウンニュース https://www.townnews.co.jp/0304/amp/2018/05/24/432772.html ]</ref>。
 
海外演奏は、1970年以来、アメリカ合衆国、ソ連、フランス、スイス、ドイツ、東南アジア、エジプト、中国、南米、韓国に及んでいる。その他、[[ウィーン楽友協会|ウィーン楽友協会ホール]]、[[シドニー・オペラハウス]]、[[コンセルトヘボウ|アムステルダム・コンセルトヘボウ]]、[[シンフォニーホール|ボストン・シンフォニーホール]]、[[:en:Municipal House|プラハ・スメタナホール]]、[[マドレーヌ寺院|パリ・マドレーヌ寺院]]などでも指揮を行っている。
 
2003年2月7日から、2012年まで[[山田耕筰]]、[[齋藤秀雄]]、[[朝比奈隆]]に次ぐ第4代[[日本指揮者協会]]会長に就任するを務めた
 
2020年1月1日1時15分、[[心不全]]のため、東京都内の病院で死去<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2020010900677 指揮者の荒谷俊治氏死去] - 時事ドットコム 2020年1月9日{{リンク切れ|date=2025年8月}}</ref>。{{没年齢|1930|4|1|2020|1|1}}。
 
==エピソード==
<!--出典不明のためコメントアウト.
*九州大学法学部在学中、荒谷はもともと弁護士志望であったが、九大フィルの宮崎の演奏会において、招待児童の中に三重苦の生徒たちがおり、当初は楽員も荒谷もこの子たちがどのようにして音楽を感知できるのかと不思議に思っていた。音楽の感動は聴覚と視覚がなくては享受できないと思っていたからである。しかし、この三重苦の子供達生徒たち座している床板から伝わる微妙な振動によって音楽を見事に享受していた。音楽はそこから生徒たちの感応へ見事に溶け入って、生徒たちが輝かしい表情となっているのを荒谷は見た。演奏終了後、生徒たちの拍手を荒谷は泣きたい思いで受け取っていた。この時、荒谷の体を強い衝撃が貫き、プロ指揮者の道を志すことを決意したという。
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*1955年に[[ワルシャワ]]で開催された[[世界青年学生祭典]]に、日本代表の一人として出席したが、そこでのコンサートにおいて歌われた、ポーランド西南部の[[シレジア]]地方の民謡である『シュワ・ジェヴェチカ』(Szła dzieweczka)を荒谷が採譜し、同じく参加者であった[[東大音感合唱団]]のメンバーが、帰国後にそれに日本語の歌詞をつけて紹介した。これが現在、邦題『[[森へ行きましょう]]』として知られる歌である<ref>歌詞内容に関しては[[黒田龍之助]](『チェコ語の隙間』[[現代書館]] 2015年pp.43-45)が詳しい。</ref>。
 
== 出典・脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あらたに しんし}}
[[Category:日本の指揮者]]
[[Category:九州大学出身の人物]]
[[Category:旧制福岡高等学校出身の人物]]
[[Category:福岡県立修猷館高等学校出身の人物]]
[[Category:広島県出身の人物]]
[[Category:1930年生]]
[[Category:2020年没]]