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{{Pathnav|日本|近畿地方|大阪府|大阪市|[[中央区 (大阪市)|中央区]]|frame=1}}
{{日本の大学
{{Infobox settlement
| 国=日本
|name = 南船場
| 大学名=玉川大学
|settlement_type = [[町丁]]
| ふりがな=たまがわだいがく
|image_skyline = Minamisenba-4.jpg
| 英称=Tamagawa University
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| 画像=Tamagawa-University.jpg
|image_caption = 南船場4丁目(塩町通西端付近)
| 画像説明=玉川大学
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|map_caption = 南船場の位置
| 大学設置年=[[1947年]]
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| 創立年=[[1929年]]
|latd = 34 |latm = 40 |lats = 34.77 |latNS = N
| 学校種別=私立
|longd = 135 |longm = 30 |longs = 16.2 |longEW = E
| 設置者=[[学校法人玉川学園]]
|subdivision_type = [[国の一覧|国]]
| 創立者=[[小原國芳]]
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| 本部所在地=[[東京都]][[町田市]][[玉川学園]]六丁目1番1号
|subdivision_type1 = [[都道府県]]
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 34 | 緯度秒 = 0.7 | N(北緯)及びS(南緯) = N
|subdivision_name1 = [[File:Flag of Osaka Prefecture.svg|border|25px]] [[大阪府]]
| 経度度 = 139 |経度分 = 28 | 経度秒 = 5.1 | E(東経)及びW(西経) = E
|subdivision_type2 = [[市町村]]
| 地図国コード = JP
|subdivision_name2 = [[File:Flag of Osaka, Osaka.svg|border|25px]] [[大阪市]]
| キャンパス=
|subdivision_type3 = [[区 (行政区画)|区]]
| 学部=文学部<br/>農学部<br/>工学部<br/>経営学部<br/>教育学部<br/>芸術学部<br/>リベラルアーツ学部<br/>観光学部<br/>通信教育課程
|subdivision_name3 = [[中央区 (大阪市)|中央区]]
| 研究科=文学研究科<br/>農学研究科<br/>工学研究科<br/>マネジメント研究科<br/>教育学研究科<br/>脳情報研究科
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| ウェブサイト=https://www.tamagawa.jp/university/
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|area_footnotes = <ref name="area">{{Cite web|和書|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=27&city=27128 |title=大阪府大阪市中央区の町丁・字一覧 |publisher=人口統計ラボ |accessdate=2019-10-04}}</ref>
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}}
'''南船場'''(みなみせんば)は、[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]の[[町丁|町名]]および地域名。現行行政地名は南船場一丁目から南船場四丁目。
'''玉川大学'''(たまがわだいがく、{{Lang-en|Tamagawa University}})は、[[東京都]][[町田市]][[玉川学園]]六丁目1番1号に本部を置く[[日本]]の[[私立大学]]。[[1929年]]創立、[[1947年]]大学設置。
 
==概説 地理 ==
現行住居表示の南船場は1丁目から4丁目まであり、[[東横堀川]]から[[堺筋]]までが1丁目、[[三休橋筋]]までが2丁目、[[御堂筋]]までが3丁目、西横堀川(現在は埋立。[[阪神高速1号環状線]]北行き)までが4丁目となる。
=== 経営・教育信条 ===
経営主体は[[学校法人玉川学園]]であり、幼稚園から大学院までを擁する総合学園の[[高等教育]]部門と位置づけられている。
 
4丁目が高感度なショッピングエリアとなっており、ファッション誌などで「南船場」と紹介される場合は通常4丁目を指す。元々は繊維[[問屋]]街として発展したが、産業構造の変化で衰退しつつあった[[1990年代]]前半、[[オーガニックビル]]などいくつかの新しい建築が話題を集め、[[デザイナー]]などが集まり出した。1990年代後半より4丁目には[[心斎橋]]や[[アメリカ村]]などから店舗が移転、さらに20歳代後半以上向けの高級衣料店や[[カフェ]]、[[レストラン]]が次第に集まり始め、高感度な地区として認識されるようになった。さらに御堂筋や[[長堀通]]沿いに海外の高級[[ブランド]]の路面店が集まり、南船場はその地位を確立した。
創立者は[[小原國芳]]であり、彼の唱えた[[全人教育]]を教育信条に掲げている。特に國芳が存命中だった時に学んだ卒業生は、彼の人格を尊敬する人が多い。
 
2000年前後に若者向け商業地区となった点で、[[堀江_(大阪市)|堀江]]などと共通する点はあるが、堀江が当初東京の[[セレクトショップ]]など大阪外部の店舗が集まったのに対し、南船場は大阪の地元資本による衣料やカフェなどの出店が目立つこと、また堀江にはない高級ブランド店の存在など、堀江に比べて客層の年齢がやや高いことが挙げられる。
学長職は、第3代以降、創立者一族による世襲である。初代学長は元[[東京文理科大学]](現・[[筑波大学]])教授の[[田中寛一]]、第2代は[[京都帝国大学]]文学部哲学科宗教学講座での小原の恩師[[波多野精一]]。第3代が小原國芳(晩年は総長)自身であり、初代から第3代まで小原の母校である京都帝国大学文学部哲学科の卒業生あるいは元教授が学長の任に当たったことになる。第4代は國芳の子・[[小原哲郎]](晩年は名誉総長)、第5代は哲郎の子・[[小原芳明]](現・[[学校法人玉川学園]][[理事長]]兼[[学園長]])、第6代(現職)は[[小原一仁]]である。年配の教職員には、存命中の國芳の教育理念に共感する玉川学園出身者が多く、小原家の世襲に対する反対運動はほとんどない。
 
[[心斎橋筋]]が縦断する3丁目は、心斎橋筋北商店街、[[丼池筋]]商店街のように旧来の格安の衣料店や衣料問屋などが主体であるが、御堂筋や長堀通に面して高級ブランド店が立ち並び、レストランやギャラリーなども増えつつある。2丁目・1丁目は、目覚ましく発展した4丁目・3丁目に続く発展エリアとして注目され、カフェやプライベート施設が隠れるように多数存在している。
=== 施設 ===
[[File:Tamakawa University Minamisatsuma Campus.jpg|thumb|創設者[[小原國芳]]の出身地である[[鹿児島県]][[南さつま市]][[坊津町久志]]にある南さつまキャンパス]]
キャンパスは、[[東京都]][[町田市]][[玉川学園]](キャンパスの7割程度)、[[神奈川県]][[川崎市]][[麻生区]][[岡上]](農学部)、[[横浜市]][[青葉区 (横浜市)|青葉区]][[奈良町 (横浜市)|奈良町]](工学部、中・高)の一都一県三市にまたがり、敷地面積は59万m²におよぶ。詳しくは施設については、[[学校法人玉川学園]]を参照のこと。
 
=== 河川 ===
学外施設は主に農学部の農場・実習林用地として、箱根([[神奈川県]][[箱根町]])約77万m<sup>2</sup>、北海道([[北海道]][[弟子屈町]])約122万m<sup>2</sup>、鹿児島([[鹿児島県]][[南さつま市]][[坊津町久志]])約10万m<sup>2</sup>、カナダ([[カナダ]]・[[バンクーバー島]][[ナナイモ市]])約34万m<sup>2</sup>がある。
* [[東横堀川]]
 
== 歴史 ==
[[カナダ]]の玉川学園ナナイモキャンパスは主に中学部カナダ研修や大学農学部研修で利用されている。
{{CSS image crop
|Image = 大阪圖 明治五年(『大阪市史 附図』昭和2年).png
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|Description = 南船場地域の町組<br />{{small|(『大阪圖(元祿十六年)』)}}}}
本来の南船場は、[[船場 (大阪市)|船場]]のうち[[本町通 (大阪市)|本町通]]以南([[本町 (大阪市)|本町]]を含む)を指す。江戸時代の[[大坂三郷]]では南組に属した。
{{see also|船場 (大阪市)|}}
明治に入り三郷から四大組に改編された際、船場は当初全て東大組に属したが、[[1870年]]([[明治]]3年)に順慶町通以南(初瀬町・浄国寺町・順慶町5 - 1丁目を含む)の所属が南大組に変更された。以降は[[南区 (大阪市)|南区]]時代を通じて境界変更はなく、[[1982年]]([[昭和]]57年)に南区が「南船場」の[[住居表示]]を実施したこともあって、近現代では順慶町通以南を指す場合が多い。[[宮本又次]]は順慶町以南が南区で、これを南船場とみるべきであるが、しかし北[[久太郎町]]以南をもって南船場とみる方が景観からいって妥当としている<ref>宮本又次『船場』ミネルヴァ書房(風土記大阪第1集)1960年、315-316頁</ref>{{#tag:ref|俗称地名としての船場の地域区分は以下の通り(出典:<ref>橋本藤四郎『大阪市地理指導』吉田春昇堂、明治44年、俗6,12-13頁</ref>)
;北船場
:北浜、今橋、大川町、高麗橋、伏見町、道修町、平野町
;中船場
:淡路町、瓦町、備後町、安土町、本町、南本町、北渡辺町
;南船場
:南渡辺町、上難波北ノ町、上難波南ノ町、唐物町、北久太郎町、南久太郎町、北久宝寺町、南久宝寺町、博労町|group=注釈}}。
 
順慶町通以南の南船場では、[[1872年]](明治5年)に以下の町名に改編された。
鹿児島のキャンパスは、1977年の用地取得後、1978年に「久志農場」として、主に玉川大学農学部の実習の場として利用されてきたが、2018年1月に創立80周年記念事業として「久志晴耕塾」(滞在型教育施設)が竣工し、「久志農場」から「玉川大学南さつまキャンパス」という名称に変更され、学園全体・大学全体で利用される施設となった。
* 順慶町通4 - 1丁目 ← 初瀬町・浄国寺町・順慶町5 - 1丁目
* [[安堂寺橋通]]4 - 1丁目 ← 北勘四郎町・安堂寺町5 - 1丁目
** この安堂寺町は、[[1982年]]([[昭和]]57年)に[[上町台地|上町]]側([[東横堀川]]以東)の内安堂寺町通が改称した現行町名の[[安堂寺町 (大阪市)|安堂寺町]]とは異なる。
* 塩町通4 - 1丁目 ← 南勘四郎町・車町・塩町4 - 1丁目
* 末吉橋通4 - 1丁目 ← 長堀平右衛門町([[西横堀川]]以東かつ[[長堀川]]以北)・長堀10丁目(長堀川以北)・長堀心斎町(同左)・長堀次郎兵衛町(同左)・長堀橋本町
* 横堀7丁目 ← 五幸町
 
1982年(昭和57年)に南船場の町名に改称されたのちも、各通りの名称として使用されており、末吉橋通は現在は埋め立てられた長堀川跡まで拡幅されて[[長堀通]]となっている。
== 沿革 ==
[[1929年]](昭和4年)、創立者[[小原國芳]]により「[[全人教育]]」を第一の教育信条に掲げて開園された玉川学園を母体とする。
 
=== 町並み ===
[[1947年]]に旧制'''玉川大学'''として開学。[[1949年]]には、旧制玉川大学と旧制玉川工業専門学校(1945年開設)を背景に新制大学に移行し、文学部と農学部を設置した。小原はかねてから大学設立を目指しており、本学設立以前の1942年にも学園内に半官立といえる興亜工業大学(現[[千葉工業大学]])を誘致していたが、これは設立早々に転出してしまっていた。
[[File:三木楽器店.png|thumb|[[三木楽器]]店<br />{{small|(店先にベカ車が見える)}}]]
船場も[[本町 (大阪市)|本町]]から南になると南北線が細くなって屋並も小さくなっていた。特に丼池筋など唐物町から北久太郎町の十字路になると、東西線の舗装工事で一段と地盤が落ち込んで付近の屋並も小さかった。しかし南久太郎町の[[堺筋]]から西へ入った辺りはどこかどっしりした[[外村与左衛門 (9代)|外村]]や[[伊藤萬助 (初代)|伊東万]]などの大店が軒を並べ、[[呉服]]、[[文房具|文具]]、[[日用品|雑貨]]、[[質屋|質商]]など、いかにも古い大阪の[[豪商]]の町らしく立派な町並みであった。
 
黒い塗りごめの厚壁やしっかりと築かれた忍び返しや[[路地]]でもあると正面を見えないように入り互いに衝立のような立派な二枚の戸が立てられ、磨きたてた細かい[[格子戸]]が光るなど、戦災前にはまだそうした雰囲気があり大阪の町の本当のよさがみられた。
[[1950年]]には[[通信教育部]](現在は、[[通信教育課程]])がスタートし、全人教育を広く社会に開放することや、当時全国の小学校に多くいた[[代用教員]]等の正規の教員免許を持たない現職教員に「[[小学校]]一種[[教育職員免許状]]」を取得可能とさせる全国初の課程として注目された。
 
中船場から南船場にかけて[[明治]]期の景観は、防火のための低い二階に狭い窓であり、[[屋号]]を染め抜いた紺の[[暖簾]]であり、上げ店、結界、軒の長い尾垂であった。火災や改築による瓦礫を狭い道路に埋めたために道路は凹凸がはげしく、往来の度に[[丁稚]]車の車軸がきしんだものであった。板車([[ベカ車]])も古い大阪の風習で、[[大八車]]は大阪ではあまりなかった。
[[1962年]]に工学部を設置し、しばらく3学部体制が続いていたが、[[2002年]]に経営学部、[[2003年]]に教育学部と芸術学部、[[2007年]]にリベラルアーツ学部、[[2013年]]に観光学部を開設した。法学系、経済学系、医療系の学部や学科はないが、玉川大学は文系・理系を擁する総合大学に成長した。
 
小間物屋、呉服屋、文具屋は嵩高い荷を背負っていた。水桶を板車に積んで売りに来る水屋、台箱持参の町[[髪結い]]が往来し、竹笠で角帯、紺前掛に白足袋、輪棒鼻緒の雪駄をはく丁稚さんなど、今は見られぬ風俗が繰り広げられていたのである。
=== 年表 ===
* [[1929年]] - [[小原國芳]]らによって財団法人玉川学園設立。玉川中学校(学園内での通称:中学部)・玉川学園小学校(小学部)玉川学園幼稚園(幼稚園)を設置。玉川学園教育研究所を設置。
* [[1939年]] - 大学設置に向けて中学校・高等女学校の上に玉川塾(専門部)を設置し、[[森矗昶]]の協力を得て産学連携による実践教育を開始。
* [[1940年]] - [[東久邇宮]]が学園視察に訪れ、大学設置の構想が本格化する。
* [[1941年]] - 玉川塾工業大学の設置許可申請を文部省(現在の文部科学省)に行うが受理されず、文部省の指示に従って大幅に構想を変更し、興亞工業大學(現在の[[千葉工業大学]])の設置が許可される。興亞工業大学は玉川学園内に1942年に創立されたが1944年に転出する。
* [[1945年]] - 玉川工業専門学校設置。
* [[1947年]] - [[大学令]]によって[[旧制大学]]として最後の設置認可(ただし[[旧制医学専門学校]]からの昇格を除く)。予科、文農学部(文学科・農政学科)、研究科を設置(ただし、実際に学生が入学したのは予科のみの段階で、学制改革を迎えた)。学長は田中寛一(心理学)。玉川学園教育研究所を玉川大学教育研究所と改称。
* [[1949年]] - 新制玉川大学を設置。文学部(教育学科、英米文学科)と農学部(農学科)を設置。玉川工業専門学校廃止。学長は田中寛一(心理学)、次いで波多野精一(宗教哲学)であった。
* [[1950年]] - 全人教育を広く社会に開放することを目的として、[[通信教育部]]文学部教育学科を開設。日本で初の通信制による「小学校教員免許状」取得可能な課程として注目された。
* [[1951年]] - 財団法人から学校法人へ移行。
* [[1952年]] - 小原國芳が学長に就任。
* [[1955年]] - 旧制玉川大学廃止。
* [[1962年]] - 工学部を開設(機械工学科、電子工学科、経営工学科の3学科)。
* [[1964年]] - 文学部に芸術学科、農学部に農芸化学科を開設。
* [[1965年]] - [[玉川学園女子短期大学]]を設置(教養科)。
* [[1967年]] - 大学院工学研究科修士課程を開設(機械工学専攻、電子工学専攻)。玉川学園女子短期大学に保育科を開設。
* [[1971年]] - 大学院文学研究科修士課程を開設(教育学専攻)。
* [[1972年]] - 文学部に外国語学科、工学部に情報通信工学科を開設。大学院文学研究科修士課程に英文学専攻、工学研究科博士課程に電子工学専攻を開設。
* [[1973年]] - 大学院文学研究科博士課程に教育学専攻を開設。
* [[1977年]] - 大学院農学研究科修士課程を開設(資源生物学専攻)。創立者・小原國芳、死去。
* [[1979年]] - 大学院農学研究科博士課程を開設(資源生物学専攻)。大学に専攻科(芸術専攻科芸術専攻)を開設。玉川大学教育研究所を玉川学園学術教育研究所と改称し、教育研究所、体育研究所、ミツバチ科学研究所を置く。
* [[1980年]] - 大学院工学研究科博士課程に生産開発工学専攻を開設。
* [[1983年]] - 大学院工学研究科博士課程の電子工学専攻を廃止。
* [[1984年]] - 玉川学園女子短期大学の保育科を幼児教育科に改称。
* [[1993年]] - 玉川学園学術教育研究所に生産工学研究所(量子開発通信研究施設・品質工学研究施設)を開設。コンピュータ準備室開設。
* [[1994年]] - 玉川学園学術教育研究所を玉川大学学術研究所と玉川学園教育研究所に改組し、玉川大学学術研究所に全人教育研究施設(体育研究所を吸収)、ミツバチ科学研究施設、生産開発研究施設を置く。玉川学園女子短期大学に専攻科教養専攻を開設。同年、[[小原芳明]]第5代学長が玉川学園理事長、玉川大学学長、玉川学園学園長に就任。
* [[1995年]] - 大学院工学研究科修士課程の電子工学専攻を電子情報工学専攻に改称、4月に[[親学推進協会]]より[[高橋史朗]]を大学院講師兼任として招く。
* [[1996年]] - 玉川大学学術研究所に脳科学研究施設を開設。
* [[1998年]] - 玉川大学学術研究所に応用生命科学研究施設を開設。
* [[1999年]] - 玉川学園教育研究所を玉川学園全人教育研究所と改称。玉川大学学術研究所より全人教育研究施設を分離。
* [[2001年]] - 経営学部国際経営学科を開設。農学部の農学科を生物資源学科、農芸化学科を応用生物化学科と改称。玉川学園全人教育研究所に心の教育実践センターを開設
* [[2002年]] - 文学部教育学科をもとに教育学部(教育学科)を、文学部芸術学科をもとに芸術学部(パフォーミング・アーツ学科、ビジュアル・アーツ学科)を開設。また、文学部に人間学科、国際言語文化学科を開設。通信教育部文学部教育学科を通信教育部教育学部教育学科に改組。玉川大学学術研究所に言語情報文化研究施設を開設。
* [[2003年]] - 玉川学園女子短期大学を4年制に転換して、教養科を母体として文学部にリベラルアーツ学科を、幼児教育科を母体として教育学部に乳幼児発達学科を開設。玉川大学学術研究所に量子情報科学研究施設を開設。玉川大学学術研究所が全人教育研究所を包括統合(玉川学園全人教育研究所に開設していた心の教育実践センターを玉川大学学術研究所へ移管)し、人文科学研究施設、知能ロボット研究施設、量子情報科学研究施設を開設し、研究促進室を設置。
* [[2004年]] - 工学部機械工学科を機械システム学科に改称。電子工学科を改組し、知能情報システム学科を開設。同学科に人間情報科学コースを設置。情報通信工学科をメディアネットワーク学科、経営工学科をマネジメントサイエンス学科に改称・改組。玉川学園女子短期大学を廃止。
* [[2005年]] - 農学部を改組し、生物環境システム学科、生命化学科を開設。大学院修士課程にマネジメント研究科を開設(マネジメント専攻)。農学部の農学科、農芸化学科を廃止。
* [[2006年]] - 文学部の教育学科、英米文学科、外国語学科、芸術学科を廃止。文学部に比較文化学科を、芸術学部にメディア・アーツ学科を開設。工学部知能情報システム学科人間情報科学コースのコース別入試を廃止。大学院文学研究科修士課程に哲学専攻、教育学研究科修士課程教育学専攻を開設。玉川大学学術研究所に体育・保健科学研究施設を開設。
* [[2007年]] - 大学院文学研究科修士課程の教育学専攻を廃止。工学研究科博士後期課程に脳情報専攻、システム科学専攻を開設。文学部リベラルアーツ学科を改組し、リベラルアーツ学部リベラルアーツ学科を開設。経営学部に観光経営学科を開設。脳科学研究所を開設。玉川大学脳科学研究所設置に伴い、玉川大学学術研究所より脳科学研究施設、知能ロボット研究施設、言語情報文化研究施設を分離。
* [[2008年]] - 工学部の機械工学科、電子工学科、経営工学科を廃止。工学部の機械システム学科と知能情報システム学科を改組し、機械情報システム学科を開設。メディアネットワーク学科を改組し、ソフトウェアサイエンス学科を開設。大学院教育学研究科に専門職学位課程(教職大学院)教職専攻を開設。各「研究施設」の名称を「センター」へ改称。玉川大学学術研究所に教師養成研究センター開設。
* [[2009年]] - 工学部の情報通信工学科を廃止。大学院文学研究科博士課程後期の教育学専攻、工学研究科博士課程後期の生産開発工学専攻博士課程後期を廃止。
* [[2010年]] - 大学院文学研究科修士課程に人間学専攻、英語教育専攻を開設。大学院脳情報研究科博士課程後期を開設(脳情報専攻)。農学部応用生物化学科、文学部リベラルアーツ学科を廃止。玉川大学学術研究所に知的財産本部を設置。
* [[2011年]] - 大学院文学研究科修士課程の哲学専攻、英文学専攻を廃止。玉川大学学術研究所の量子情報研究センターを分離し玉川大学量子情報科学研究所を設置。
* [[2012年]] - 通信教育部の文学部教育学科を廃止。大学院工学研究科博士課程後期の脳情報専攻を廃止。文学部の国際言語文化学科を廃止。玉川大学学術研究所より教師養成研究センターが教育教育リサーチセンターへ移管。
* [[2013年]] - 経営学部の観光経営学科を改組し、観光学部観光学科を開設。工学部の機械システム学科、メディアネットワーク学科を廃止。玉川大学学術研究所より体育・健康科学研究センターが教育学部へ移管。
* [[2014年]] - 大学院脳情報研究科脳情報専攻博士課程後期を、大学院脳科学研究科修士課程心の科学専攻と博士課程後期脳科学専攻に改組。芸術学部のメディア・アーツ学科、ビジュアル・アーツ学科をメディア・デザイン学科と芸術教育学科に改組。
* [[2015年]] - 文学部の比較文化学科を改組し、英語教育学科を開設。工学部にエンジニアリングデザイン学科を開設。玉川大学学術研究所の心の教育実践センターを高等教育付属機関内にTAPセンターとして独立。
* [[2016年]] - 大学院教育学研究科の一部授業が夜間開講となる。
* [[2017年]] - 文学部の人間学科を改組し、国語教育学科を開設。工学部の機械情報システム学科を改組し、情報通信工学科を開設。通信教育部教育学部教育学科を教育学部教育学科通信教育課程に組織変更。改組により玉川大学学術研究所に先端知能・ロボット研究センター(AIBot研究センターを設置)。玉川大学量子情報科学研究所の量子情報科学研究センターを量子情報数理研究センターに改称。TWP(玉川風車プロジェクト)を本年度をもって休止。
* [[2021年]] - 大学院教育学研究科の夜間開講授業が原則遠隔形式(オンライン)となる。
* [[2024年]] - 第6代学長に[[小原一仁]]が就任。
 
久宝寺町からは家並も小さくなり、問屋などの店も少なくなっていた。そして更に[[博労町 (大阪市)|博労町]]になると[[小売]]商店が多かった。順慶町以南は[[明治]]2年から3年まで[[大坂三郷|東大組]]に属していたこともあったが、大体、南組・南大組・南区に属し、船場とはいいながら、寧ろ[[島之内]]の色彩の濃い地帯となっていた。
== 基礎データ ==
=== シンボル ===
[[スクールカラー]]は[[紺]]。[[校章]]は、円(=玉)の中に縦棒が3本(=川)が入ったもので、大学名「玉川」を表している。[[校旗]]は、紺の地に[[白]]の校章を配したもの。[[校歌]]は、[[田尾一一]]作詞・[[岡本敏明]]作曲。
 
安堂寺橋通りは[[地金]]問屋が多く、塩町通りの夜などは静かなよい町であった。この筋は巨商の[[隠居]]家や仕舞屋風の旧家が並び、その間に長い軒を垂れた大小の商店が一斉に表戸をおろして、そこに星の光がかすかに投げかけられていた。こうした情景は古都大阪の気分をはっきり浮き出していた<ref>宮本(1960年)、315-318, 416頁</ref>。
== 教育および研究 ==
=== 組織 ===
====学部・学科====
* [[文学部]]
** 国語教育学科
*** 国語教員養成コース
*** 言語表現コース
** 英語教育学科
*** 英語教員養成コース
*** ELFコミュニケーションコース
* [[農学部]]
** 生産農学科
*** 理科教員養成プログラム
*** 植物科学領域
*** 微生物科学領域
*** 昆虫科学領域
*** 動物科学領域
** 環境農学科
*** 生態系科学領域 
*** 持続的農学領域 
** 先端食農学科
*** システム農学領域
*** 食品科学領域
* [[工学部]]
** 情報通信工学科
** ソフトウェアサイエンス学科
** マネジメントサイエンス学科
** デザインサイエンス学科(2023年4月開設)
** エンジニアリングデザイン学科(2023年4月学生募集停止)
*** 数学教員養成プログラム
* [[経営学部]]
** 国際経営学科
*** グローバルビジネスコース
*** 国際会計コース
*** マーケティング戦略コース
* [[教育学部]]
** 教育学科
*** 保健体育専攻
*** 初等教育専攻
*** 社会科教育専攻
** 乳幼児発達学科
* [[芸術学部]]
** メディア・デザイン学科
** 芸術教育学科
*** 音楽コース
*** 美術・工芸コース
** パフォーミング・アーツ学科
* [[リベラルアーツ学部]]
** リベラルアーツ学科
*** ヒューマン・スタディーズ系
*** ジャパン・スタディーズ系
*** グローバル・スタディーズ系
*** STEMスタディーズ系
* [[観光学部]]
** 観光学科
 
==== 通信教育課程唐物町 ====
唐物町はその名にもかかわらず、[[唐物]]を扱う[[商社|貿易商]]人はあまりいなかった。ここはむしろ[[革細工]]の本場であった。[[奈良県|奈良]]の[[太物]][[問屋]][[山口吉兵衛]]家の初代吉兵衛の次子は文政7年に分家して布屋と号し、唐物町に移り[[長崎県|長崎]]において[[オランダ]]、[[中国]]の商人と洋反物の貿易を始めた。元治元年1月同地において[[両替商]]を開業。明治12年三代山口吉兵衛の時、国立銀行に組織を切りかえ、第百四十八銀行(唐物町2丁目)となり、明治31年に[[山口銀行 (大阪)|山口銀行]](瓦町2丁目)となり、昭和8年に[[三十四銀行]]、[[鴻池銀行]]と共に共同して[[三和銀行]]を創立した<ref>宮本(1960年)、319-321頁</ref>。
* 教育学部
** 教育学科
*** 教育学コース
*** 幼稚園コース
*** 小学校コース
*** 社会コース
*** 公民コース
*** 地理歴史コース
*** 司書コース
*** 学芸員コース
*** 社会教育主事コース
 
==== 研究科・専攻横堀 ====
[[西横堀川|西横堀]]の東岸に横堀[[材木屋]]があった{{#tag:ref|{{quote|西横堀東岸ニあり北ハ七郎右衛門町一丁目二丁目より濱町長濱町椹木町及ひ西笹町五幸町等凡十五町餘の間材木屋軒をつらねて目覺し|『攝津名所圖會大成』卷之十三上「横堀材木屋」<ref>船越政一郎『浪速叢書 第八 攝津名所圖會大成』浪速叢書刊行会、昭和3年、519頁</ref>}}|group=注釈}}。とりわけ横堀四~六丁目あたりには色々の問屋があったが、材木屋も多かった。材木の売買は一名立売ともいって、浜地に陳列して売る。大阪の立売は初め、[[立売堀]]で行い、後、西横堀に移って明治に及んだ。そんな関係で立売堀に対し、呼応して西横堀の東側にも多数の材木商が軒を並べていた。しかしながら大正4年に立売堀の市場が廃止せられ、これに代わって[[境川 (大阪府)|境川]]運河市場(大正7年廃止)や[[千島 (大阪市)|千島]]町市場が発展すると共に、西横堀筋の材木屋も西方に移動した<ref>宮本(1960年)、370-371頁</ref>。
* [[文学研究科]]
** 人間学専攻(修士課程)
*** 思想文化研究プログラム
*** 社会倫理研究プログラム
*** 認知行動研究プログラム
** 英語教育専攻(修士課程)
*** 英語授業研究プログラム
*** 応用言語学研究プログラム
*** 英語圏文化研究プログラム
* [[農学研究科]]
** 資源生物学専攻
*** 植物微生物機能科学研究分野
*** 動物昆虫機能科学研究分野
*** 生態地球環境科学研究分野
*** 応用食品科学研究分野
*** 理農系教育コース(専修免許状取得コース)
* [[工学研究科]]
** 機械工学専攻(修士課程)
*** 生産開発コース
**** 材料加工システム分野
**** 環境エネルギー分野
**** 経営システム分野
** 電子情報工学専攻(修士課程)
*** 量子情報コース
*** システム情報学コース
*** ロボティクスコース
***情報セキュリティコース
** システム科学専攻(博士課程後期)
*** 量子情報科学研究分野
*** 知能情報科学研究分野
*** ロボティクス研究分野
*** 生産開発システム研究分野
*** 環境エネルギー研究分野
* [[マネジメント研究科]]
** マネジメント専攻(修士課程)
*** グローバル・マーケティング研究コース
*** 会計学研究コース
*** グローバル・ツーリズム研究コース
* [[教育学研究科]]
** 教育学専攻(修士課程)
*** 教育学研究コース
*** 乳幼児教育研究コース
*** 初等教育研究コース
*** IB(国際バカロレア)研究コース
*** 教師教育学コース
** 教職専攻(専門職学位課程([[教職大学院]]))
*** 現職教員コース
**** 短期履修コース(1年制)
**** 標準コース(2年制)
*** 学部卒業(予定)者コース
**** 標準履修コース(2年)
**** 長期履修コース(3年/4年)
* 脳科学研究科
** 心の科学専攻(修士課程)
*** 脳情報科学研究プログラム
*** 神経科学研究プログラム
*** 人間科学研究プログラム
** 脳科学専攻(博士課程後期)
*** 脳型計算論研究プログラム
*** 脳・神経学学際研究プログラム
 
=== 南・北久太郎町 ===
※かつて(2013年度大学院修士課程入学者まで)、文学、農学、工学、マネジメント、教育学研究科の修士課程に、「大学院学際領域プログラム「人間情報科学」」を設置していた。
[[File:大阪三品取引所.png|thumb|大阪三品取引所]]
[[塗師]]職は延享頃から北久太郎町より[[安堂寺町 (大阪市)|安堂寺町]]迄、[[難波橋]]より[[三休橋筋|三休橋]]迄の間に集住していた。[[漆]]商も南久太郎町、[[北久宝寺町]]、[[博労町 (大阪市)|博労町]]に多く、久太郎町、[[堺筋]]を中心に集まっていたが次第に各地に分散した。[[小間物]]は[[南久宝寺町]]、南久太郎町、唐物町、博労町などはその[[卸売|卸商]]の密集地域をなしていた。南久太郎町4丁目通りと北久太郎町4丁目通りの中間、[[御堂筋]]と[[心斎橋筋]]とを連絡する街路を'''御前小路'''と称した。また御堂筋の西の筋、本町4丁目と北渡辺町の境より南、北久太郎町4丁目に通ずるものを'''狐小路'''といった。南御堂より北久太郎町通りへかけて毎朝花作りの農夫が、昔は四時折々の草木の花を持ってきて地上につらねたという。御堂前花市である。
 
北久太郎町二丁目の又一株式会社は初代阿部市太郎が[[江州 (日本)|江州]][[能登川村|能登川]]にて「又二」の屋号をもって[[麻]]織物の営業を始め、明治に[[阿部市太郎 (3代)|三代目市太郎]]が個人経営で、大阪に「阿部市商店」を開業し、屋号を「又一」と称して、[[麻織物]]、[[綿織物]]、[[絹織物]]、[[毛織物]]、洋[[傘]]、[[肥料]]、[[海産物]]を取扱った。大正7年株式会社阿部市商店となり、同14年4月又一株式会社に改組された。
※2013年度より、学部(学士課程)の学際教育プログラムとして「学際領域プログラム「人間総合学」」が開講されるようになった。これは「学部学科を問わず、脳科学や人間科学に興味のある学生に本プログラムを提供することで、広く人間に関する学問を学ぶプログラムです。また、大学院修士課程の「人間情報科学」プログラム、脳科学研究科修士課程および博士課程後期との一体化により、学部・修士・博士一環教育の機会を設けることを目的」(『履修ガイド2014』)とするものである(2015年度より、目的から後段の文章が削られ、「学部学科を問わず、脳科学や人間科学に興味のある学生に本プログラムを提供することで、広く人間に関する学問を学ぶプログラム」となった)
 
北久太郎町及び北久宝寺町にはかつて嘉門長蔵が住んでいた。長蔵は明治18年[[メリヤス]]製品の将来性を思い転業し、明治21年に南渡辺町に店舗を設け、同38年に北久宝寺町4丁目に移転し、同45年に大阪莫大小株式会社を設立した。
==== 専攻科 ====
* 芸術専攻科
** 芸術専攻
 
[[尾張国|尾州]]商人の岩田徳三郎は北久宝寺町2丁目に居を構えていた。[[岩田惣三郎]]は明治3年3月に分家して同7年大阪にでて、兄の常右衛門と共同して船場にて綿糸業を営んだ。その後惣三郎は明治14年7月分立して北久太郎町にて綿糸商を営んだ。その跡をついだ三男岩田宗次郎の時、岩田商事株式会社に発展した。
==== 附置機関(研究所ほか) ====
* 教育学術情報図書館
* 教育博物館 - 第一展示室には日本教育史と小原國芳関連資料等を展示、第二展示室には美術資料(絵画・彫刻)等を展示
* 学術研究所
** K-16一貫教育研究センター
*** K16一貫教育研究部門
*** 日本語教育研究部門
** [[ミツバチ]]科学研究センター
*** ミツバチ生物学研究部門
*** ミツバチ生産物研究部門
*** 花粉媒介機能研究部門
** 生物機能開発研究センター
** 菌学応用研究センター
** 人文科学研究センター
*** 哲学思想研究部門
*** 文学・芸術研究部門
*** 歴史文化研究部門
** 高等教育開発センター
** 先端知能・ロボット研究センター(AIBot研究センター)
*** 社会知性創生研究部門
*** 先端知能・ロボットビジネスモデル研究部門
*** STREAM教育研究部門
** 研究促進室
** 知的財産本部
* 脳科学研究所
** 基礎脳科学研究センター
** 応用脳科学研究センター
* 量子情報科学研究所
** 量子情報数理研究センター
** 超高速量子通信研究センター
* 継続学習センター - 社会人向けの公開講座を運営している。[[楽天市場]]に申し込みのための店舗を持つ。
* 教師教育リサーチセンター
** 教職課程支援室
** 教員研修室
* 国際教育センター
* ELFセンター
 
[[狂歌師]][[鯛屋貞柳]]の住んでいた宅地は北久太郎町通りにあった。御堂筋の東南角にて[[菓子]]を製して業とし、鯛屋山城掾と号していた。
以上のほかに学部附属の機関として、
*教育学部全人教育研究センター
*教育学部健康教育研究センター
があるほか、教育学部には「デンマーク・オレロップ高等体操学校東洋分校」の事務局もある
 
山田市兵衛は南久太郎町2丁目の熊野屋に奉公し、明治9年2月山田家の養子となる。後に大同藍株式会社を創立してこれを主宰し、明治29年には大阪染料組合取締ともなった。
=== 研究 ===
==== COE、GPの採択 ====
*[[2002年]]、[[文部科学省]]が推進する[[21世紀COEプログラム]]において、「全人的人間科学プログラム」が採択される。
*[[2005年]]、[[大学・大学院における教員養成推進プログラム]](教員養成GP)において、「広域大学間連携による高度な教員研修の構築」([[筑波大学]]、[[東京学芸大学]]などとの共同プロジェクト)、「実践的指導力を育てる体験学習プロジェクト」(玉川大学単独のプロジェクト)が採択される。
*[[2006年]]、[[特色ある大学教育支援プログラム]](特色GP)において、「全学生参加型の一年次教育の実践-「一年次セミナー」の組織的展開」が採択される。
*[[2008年]]、[[グローバルCOEプログラム]]において、「社会に生きる心の創成」が採択される。
 
明治26年取引所法の発布の時、綿糸、綿花、木綿の三品の営業者はその商品の取引所をつくった。会所は明治28年2月高麗橋4丁目に開業、同29年12月北久太郎町3丁目に移り、大正12年同町15番地に三品ビルディングが建てられた。これが三品取引所である。
==== ロボット研究 ====
2006年度から工学部に設置されたロボット工房を中心に[[ロボカップ]]に参加している。[[アイボリーグ]]で世界大会出場の経験のある[[岡田浩之]](工学部教授)が中心になり実績を挙げる。2008年度のロボカップ世界大会においてロボカップ@ホームリーグで世界一に輝く。ロボカップジャパンオープンでは2008年度より3年連続で優勝した。2010年度世界大会(シンガポール)では2度目の世界一に輝く。知能ロボットの研究は脳科学研究所を中心して行われており、岡田浩之(工学部教授)の赤ちゃん研究を応用したユニークで他大学には無い特色をもつ。
 
北久太郎町には[[真宗大谷派難波別院|難波別院]]がある。[[本願寺津村別院|津村別院]]の南にあるため南御堂とも呼ぶ。明治42年この難波別院境内に[[大谷中学校・高等学校 (大阪府)|大谷女学校]]が創立された。津村別院の[[相愛中学校・高等学校|相愛女学校]]と並び称せられた船場内の有名私立学校であった。
2017年には脳科学研究所とは別に、学術研究所内にロボットと[[人工知能]](AI)を担当する「[[先端知能]]・ロボット(AIBbot)研究センター」を設立<ref>[http://www.tamagawa.jp/research/academic/about.html 玉川大学・学術研究所について](2018年6月14日閲覧)。</ref>。岡田ら28人が[[擬声語|オノマトペ]]をも解するロボットの開発などに取り組んでいる<ref>【解剖 先端拠点】玉川大学 先端知能・ロボット(AIBbot)研究センター/ロボ協働社会実 現探る『[[日経産業新聞]]』2018年6月13日(先端技術面)。</ref>。
 
南御堂の門前より北久太郎町通にかけては花市で賑わい「御堂前花市」と称された{{#tag:ref|{{quote|右南御堂の門前より北久太郎町通りへかけて毎朝花作りの農夫四時をり〱の草木の花をもち來りて地上につらねてこれを販ぐその光景艶にして美觀なり尤花の市ハ上町松屋町通りにもありて當所に限らずといへども此地ハ殊に賑しくして勝りたり|『攝津名所圖會大成』卷之十三下「御堂前花市」<ref>船越政一郎『浪速叢書 第八 攝津名所圖會大成』浪速叢書刊行会、昭和3年、536-537頁</ref>}}|group=注釈}}宮本(1960年)375-376頁。
== 学生生活 ==
=== 学風 ===
創立者である小原國芳は、教育における宗教的情操・感化を重視して学園を創設したため、キャンパス内には[[チャペル]]や[[礼拝堂]]があり、教育の一環として礼拝の時間もある(大学1年次に必修)。かつては、通信教育課程の夏期対面[[スクーリング]]においても、朝の授業前に各期ごとに1回、全3期通じて計3回行われていた。また、通信教育課程でも、音楽教育が重要視されており、卒業を必要とする学生については、スクーリング(夏期対面スクーリング期間のみ、2回開講)での履修が必要な、音楽I及び音楽IIの2科目が必修科目に設定されている。[[2000年]]に新設されたチャペルには、礼拝堂にあった辻[[オルガン]](1978年製)が移設されている(礼拝堂にあるパイプオルガンは、アメリカ・シカゴのキンボール社製で、1931年設置)。
 
[[坐摩神社]]は南御堂の後ろにあり、天保文久の頃に[[人形浄瑠璃]]が盛行し、明治7年3月には大阪府連によって東大組内における[[寄席]]の地域が坐摩御堂、難波([[稲荷神|稲荷]])社内に定められたため一層の賑いを呈した。[[千日前]]が派手に売り出すまでの大阪の娯楽の中心は、御堂ハン界隈と坐摩ハンから博労町[[難波神社]]のいなりさんが二つの大きな要であった。また坐摩社の内には吉田座の寄席があった。
なお、キリストの教えに従うことは学則第1条にも謳われているが、特定の教会(会派・宗派)と結びついた[[ミッションスクール]]ではない。小原國芳自身はクリスチャンであったが、宗教観・情操の面で良いものは良く、尊いものは尊いとして他の宗教も大いに尊重し、この姿勢は現在の学園にも受け継がれている。
 
塩町を創業地とする柳原家(河内屋喜兵衛)は、南久太郎町心斎橋筋の後、北久太郎町心斎橋筋北入る西側に書肆を構え、名所図絵類の板元として書林仲間に重きをなしていた<ref>船越政一郎『浪速叢書 第七 攝津名所圖會大成』浪速叢書刊行会、昭和2年、1-2頁</ref>。
また、小原國芳は「服装は人格を宣言する」と唱え、身なりも玉川学園における教育の一環とした。そのため、公式行事などでは、男子はダークスーツを着用し、校章をつけることが定められており、これは伝統的に「第一装」と呼ばれる。以前は、色も紺の[[背広]]と紺の[[ネクタイ]]と指定され、さらに大学創立時にはこれが制服(毎日着用)であった。女子については、自己に相応しい服装を自ら考え、TPOに応じた服装のセンスを磨くことを重視し、併設の下級学校を含め、開校当初から制服等は設けていない(小原國芳全集第14巻312頁参照)。したがって女子学生の第一装については、「男子の第一装に見合う清楚な服装」と定めるにとどまる。「学生生活規定」では、これ以外に学内外での生活の心構えも記されている。
他、南久太郎町御堂筋には[[松尾芭蕉]]が病歿した花屋仁右衛門の裏屋敷があった{{#tag:ref|{{quote|南久太郎町御堂前東へ入南側にあり今俳師花屋菴鼎左こゝに居住す尚其砌の手水鉢今に存す且蕉翁が遺品を傳りて秘蔵せり原此家ハ其始花屋仁右衛門といへる切花をあきなふ者の家にして裏に風流なる座敷のありしを貸屋として有しを翁南都より難波に來り此ざしきを借て滞留せられしが其内病床にふして終にこゝに卒すとそ委ハ其角が枯尾花終焉の記に見へたり十月八日の夜の吟に云<br /> 旅に病で夢ハ枯野をかけ廻る はせを|『攝津名所圖會大成』卷之十三下「芭蕉翁終焉地」<ref>船越政一郎『浪速叢書 第八 攝津名所圖會大成』浪速叢書刊行会、昭和3年、537頁</ref>}}|group=注釈}}<ref>宮本(1960年)、321-347頁</ref>。
 
=== 南・北渡辺町および上難波南・北ノ町 ===
幼稚園から大学まで玉川の園児・児童・生徒・学生である者を「完玉」と呼び、小学校から大学まで玉川の児童・生徒・学生である者を「純玉(準玉)」と呼ぶ。
南渡辺町、北渡辺町は[[天正]]年、[[天満橋]]付近[[八軒家船着場|八軒家]]周辺にあった[[坐摩神社]]の遷座があったので、渡辺の民衆がこの地に移住したため、渡辺の地名をなした。上難波南・北ノ町の地はもと上難波村の内でもあったので、旧称が残ったものといわれる<ref>宮本(1960年)、342頁</ref>。1989年、渡辺町は久太郎町に統合されたが、渡辺[[姓]]発祥の地として名称保存が望まれ、[[住居表示]]に「久太郎町4丁目渡辺3」にその名が残っている<ref>『船場人 2020 第9号』船場倶楽部・集英地域活動協議会、2021年、10頁</ref>。
 
渡辺筋を南下した難波・津村御堂の後ろ、則ち坐摩の前は古着商の多い所であった。{{#tag:ref|{{quote|座摩の前通本町より南へ博労町迄凡七町許の間古手の小売店軒をつらね日毎に買客羣をなし至つて賑わし|『攝津名所圖會大成』卷之十三下「座摩前故衣鋪」<ref>船越政一郎『浪速叢書 第八 攝津名所圖會大成』浪速叢書刊行会、昭和3年、546頁</ref>}}|group=注釈}}<ref>宮本(1960年)、372頁</ref>。
=== 教育 ===
授業時間割は、1コマ50分で組まれているが、ほとんどの科目は2コマ連続の100分間の授業時間が割り当てられている。時間割に昼休みはなく、学生は各自の空き時間に休みをとることになっている。また、1年を2学期([[セメスター]])に分け、週2コマ(100分)の講義を1セメスター(15回)履修すると2単位となる。1セメスターあたりの履修上限単位数は16単位であり(一部上限外科目がある)、これは日本全国の大学で最も少ない。学業成績では[[GPA]]が重視されており、GPA2.0以上が卒業条件である。
 
=== 南・北久宝寺町 ===
入学年度から卒業年度までクラス担任制をとっている。
[[江戸時代]]この辺りには古くは唐弓、唐槌の商人がおり、[[合羽]]屋があった。ついで塗物問屋が多く、小間物屋の集団地域であった。南久宝寺町を筆頭に南・北久太郎町、唐物町、博労町に多かった。天保頃既に唐小間物屋株として一時は唐薬屋仲間に編入されていたこともあり、小間物といえば唐渡来品が多かった。
 
北久宝寺町1丁目には[[繰綿延売買会所]]があり、宝暦9年に出願され小西町([[島之内]])にあったが、後に北久宝寺町に移った。北久宝寺町通りの西方、丼池筋より御堂筋の少し東迄を伝馬町とよんだ<ref>宮本(1960年)、349-351頁</ref>。
「教育の玉川」をうたっている。特に日本で初めて通信教育による教職課程を設置し、戦後の代用教員や大学既卒者の教員免許取得を支援したため、小学校教員の中では大きな勢力となっている。
 
[[File:小橋屋呉服店屋号.png|thumb|120px|小橋屋呉服店屋号]]
工学部ソフトウェアサイエンス学科では、特定の科目の単位を取得し、修了試験に合格することで、[[基本情報技術者試験]](FE)の[[基本情報技術者試験の午前試験免除制度|午前の部の受験が1年間免除される制度]]が導入されている<ref>[https://www.jitec.ipa.go.jp/1_80tokurei/_index_tokurei.html IPA 独立行政法人 情報処理推進機構:情報処理技術者試験:午前試験免除 基本情報技術者試験(FE)]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jitec.ipa.go.jp/1_80tokurei/koza_ichiran.pdf|title=認定免除対象講座の一覧(PDF)|work=独立行政法人 [[情報処理推進機構]]|accessdate=2021-07-31}}</ref><ref>[https://www.tamagawa.ac.jp/college_of_engineering/software/ ソフトウェアサイエンス学科|玉川大学工学部 - 玉川学園]</ref>。
[[File:Matsuo-building.jpg|thumb|130px|旧小橋屋呉服店[[神戸市|神戸]]支店ビル<br />{{small|(現:[[松尾ビル]])}}]]
北久宝寺町通り、[[御堂筋]]の西南角には平井小橋屋なる大[[呉服店]]があり、[[江戸時代]]から[[昭和]]の初めまで著名な呉服店として存在していた。小橋屋は[[三越|越後屋]]・岩城・[[心斎橋筋]]の下村[[大丸]]と並び、これらは大阪呉服店の四店といわれた。初代の円清は[[摂津国]][[嶋下郡]]鵜殿村桝屋清兵衛という柴薪商の家に生まれ、[[本町 (大阪市)|本町]]二丁目古手商小橋屋四郎右衛門方に奉公していたが、[[享保]]の初年に主家の没落するに及んで独立して各地の古手の買次問屋をなした。そして塩町四丁目[[三休橋筋]]東の角屋敷を買い入れて本拠とした。享保9年の大火にて罹災したが、店舗を拡げ大阪のみならず[[京都]]にも店をもった。[[寛政]]年間には[[江戸]]店をも設けた。[[文化 (元号)|文化]]16年には塩町三丁目に小橋屋彦九郎という本[[両替屋]]を開いた。[[宝暦]]2年から御堂筋に呉服店を開業した。『[[摂津名所図会#類似作|摂津名所図会大成]]』巻之十三下に、小橋屋呉服店として「山鳥のをばしやのたなの子供らがながゝしき聲のにぎわしきかな」の歌がのっており、古くより繁昌していたことが察せられる<ref>宮本(1960年)、377-378頁</ref><ref>船越政一郎『浪速叢書 第8』浪速叢書刊行会、昭和3年、531頁</ref>。
 
江戸時代から[[小間物]]商で賑わった南久宝寺問屋街は、明治以降の西洋化、工業化の流れの中で数多くの商品が生まれ、戦後[[高度経済成長|高度成長]]期には、建物のビル化も進み大いに賑わった。歩道地下には塵芥容器を設置し、上部にはアーケードが[[日本万国博覧会|大阪万博]]の[[1970年]]に完成した。[[2020年]]には50年を迎えアーケードを撤去し、明るく開放的なオープンモールの通りとなっている<ref>『船場人 2020 第9号』2021年、10頁</ref>。
通信教育課程では、[[GPA]]要件はないが、[[スクーリング]]は1コマ100分、4日間15コマで実施される。夏期対面スクーリングについては、1日に100分1コマと150分1コマ(他期間で実施した場合の1日2.5コマ相当)で実施して、6日間でトータル15コマと同じ時間となるようにされている(いずれも、原則的に最終日の最後の50分は試験時間の扱いとなっているが、試験を実施しない科目も一部存在する)。
 
=== 行事博労町 ===
博労町4丁目には[[戯作]]者[[暁鐘成]]が居を構え、博労町心斎橋筋北入る西側には名物屋を開き、著述の傍ら名産名物屋並に画廊風の商売をなしていた。また、その西北角には岡田家(河内屋茂兵衛)の書肆があった<ref>船越政一郎『浪速叢書 第七 攝津名所圖會大成』浪速叢書刊行会、昭和2年、3頁</ref>。
学校行事も教育活動の一環ととらえられており、10月に行われる総合[[体育祭]]では学園幼稚部から大学教育学部の1年生までの数千名が参加する。[[大学祭]]は「コスモス祭」と呼ばれ、体育会・文化会による課外活動展と農学部収穫祭他の各学部展からなる。
 
寛政4年5月錺屋町(島之内)の[[石門心学|心学]]明誠舎が金田町(博労町)に移った。明治5年明誠舎の場所は金田小学校となり、その後[[長堀橋]]1丁目に新築され明治16年6月に明誠舎が移った。
大学1年では音楽(通信教育課程でも、音楽I及び音楽IIの2科目2単位が、スクーリング必修科目として、卒業要件としても必修とされている)が必修科目であり、例年12月に大学音楽祭が開催され、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーベン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九]](演奏は第4楽章のみ)を1年生全員が合唱する。これとは別に、毎年12月頭には、玉川大学が主催して、芸術学部学生らで構成される管弦楽団と合唱団による[[第九]]特別演奏会を[[サントリーホール]]で開催されていたが、こちらは2014年が最後となった<ref>[https://www.tamagawa.jp/introduction/enkaku/history/detail_13979.html 玉川の「第九」](2019年12月1日閲覧)。</ref>。
 
難波神社は通称博労町のお稲荷さんで親しまれてきた。稲荷社内には東芝居と称する文楽軒の人形浄瑠璃座があった。夏祭は盛んで祭礼には祭[[俄]]も流行した<ref>宮本(1960年)、352-361頁</ref>。
音楽を大切にする教育の伝統は通信教育部でも引き継がれており、やはり音楽は必修科目である(卒業希望者のみ)。夏期スクーリング中盤で行われるイベント「通大祭」や、最終日の授業終了後に行われる閉講式「丘の終鈴」をはじめとする各種行事では、学生歌・校歌の他、玉川学園児童の作による曲も多く歌われる。
 
=== その他順慶町 ===
[[File:浪花名所図会 順慶町夜見世の図-Junkei machi Yomise no Zu MET DP121549.jpg|thumb|200px|[[歌川広重]]『浪花名所図会 順慶町夜見世の図』]]
玉川学園前駅近くに購買部(2007年より[[紀伊国屋書店]]に業務委託。それまでは玉川学園の法人内組織として直接運営されていた)の店舗があり、文具・書籍等を割引価格で購入することが可能である。ここでは、農学部の実習(ミツバチおよび乳牛飼育)によって開発された「たまがわはちみつ」と「たまがわアイスクリーム」も販売している。かつては、キャンパス内にはコンビニエンスストア・[[生活彩家]]もあった。ATMについては、[[きらぼし銀行]]玉川学園支店が大学1号館と本部棟にそれぞれ1台ずつ設置している。
順慶町通は[[筒井順慶]]の屋敷があったことに由来し{{#tag:ref|{{quote|順慶町ニあり地所未詳和州添下郡筒井城主筒井陽舜房順慶旅館ありしゆへ今尚町名とすト云|『攝津名所圖會大成』卷之十三上「筒井順慶第古趾」<ref>船越政一郎『浪速叢書 第八 攝津名所圖會大成』浪速叢書刊行会、昭和3年、549頁</ref>}}|group=注釈}}、江戸時代には[[新町遊廓]]へ至る新町橋が架けられ[[夜市]]で賑わった。『[[摂津名所図会]]大成』巻之十三には「当所の夕市は浪花の一奇観として四時とも絶ゆることなし黄昏時より内店出舗万燈をてらし己が種々に品を飾りてこれを商ふ」と記されている。[[心斎橋]]の賑わいもこの順慶町の夜店と関係をもっていたもので、[[江戸時代]]の[[心斎橋筋]]の中心はこの心斎橋筋と順慶町との交叉する辺りであった<ref>宮本(1960年)、405頁</ref>。
 
[[寛永]]12年順慶町と新町とをつなぐ新町橋が架けられた。名称の由来は新町の廊へ通う通路であることから名付けられ、かつて新町の廊を瓢箪町と呼んだので瓢箪橋とも呼んだ。所在は西横堀に架かり[[四ツ橋]]の一つ北の橋であった。明治期には大きな鉄材の橋に改築された<ref>宮本(1960年)412-414頁</ref>。
学生の集会および看板の設置は許可制となっており、大学の方針によって[[学生自治会]]も許可されていない。したがって公式な[[学生運動]]に類する活動は不可能とされる。この学生運動を規制するこの規則をもって「お坊ちゃん大学の象徴」などと唱える者もいる。通信教育課程(旧・通信教育部)には[[学生会]]が存在し、大学側との「懇談の場」と位置付けられている。
 
[[File:株式会社稲畑商店.png|thumb|200px|株式会社稲畑商店<br />{{small|『大大阪画報』}}]]
== 大学関係者と組織 ==
順慶町の[[老舗]]としては小説家[[山崎豊子]]の生家[[小倉屋山本]]がある。[[堺筋]]には大阪商業会議所会頭をつとめた[[稲畑勝太郎]]の株式会社稲畑商店があった{{#tag:ref|設計は[[木子七郎]]。順慶町2丁目51番地にあり、同番地には商店と本邸があった。また木子は[[神戸市]][[東灘区]][[岡本(神戸市)|岡本]]の稲畑別邸(1923年竣工)の設計も手掛けている<ref>武知亜耶、波多野純『建築家木子七郎の住宅作品における様式採用と和室の導入』日本建築学会計画系論文集 第82巻 第731号、2017年、p.227</ref>。|group=注釈}}。順慶町三丁目には[[丹平製薬|丹平商会]]の本店(丹平薬房)があった。また、大正13年には旧本社跡の[[心斎橋筋]]二丁目に薬局と文化施設を設けた洋館(丹平ハウス)が建ち、[[赤松麟作]]の洋画研究所がおかれ、昭和5年には[[安井仲治]]をリーダーに大阪心斎橋を拠点とした『[[丹平写真倶楽部]]』が結成されている
=== 関連組織 ===
<ref>佐藤卯兵衛『大阪商工大觀』大阪新聞社、昭和4年、145頁</ref><ref>『大大阪画報』441頁</ref><ref>松實輝彦『中山岩太と百貨店文化 ─業界誌『ニユースタヂオ』の分析を中心に─』「甲子園短期大学紀要 No.28」2010年、129頁</ref><ref>前川佳子、近江晴子『大阪船場を語りつぐ』和泉書院、2016年、219頁</ref>。
* 玉川大学出版部 - 教職員らが執筆する論説集や学生向け教科書のほか、教育学を中心とする書籍を数多く出版している。
* {{Mediaarts-db|C47199|玉川大学出版部}}
 
他、明治期には[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]屯所があり塀ごしの桜が知られていた<ref>宮本(1960年)、411-412⾴</ref>。
=== 大学関係者と出身者 ===
{{See|玉川大学の人物一覧|Category:玉川大学出身の人物}}
 
=== 対外関係安堂寺町通 ===
[[File:山本藤助商店(『大大阪画報』昭和3年).png|thumb|160px|山本藤助商店<br />{{small|『大大阪画報』}}]]
=== 国際・学術交流協定大学 ===
安堂寺の称は{{ruby|安曇|あずみ}}寺の訛伝であるといわれている。太古はこの辺りは長汀曲浦の地で{{ruby|安曇江|あずみえ}}と称した。明治5年に安堂寺橋通に改称された。安堂寺町通には[[金物]]屋が古くより多かった。釘やはりがねやその他多くの金物商が集まっていた。心斎橋筋の安堂寺町通には売薬屋の[[浮田桂造]]五龍円があった。安堂寺町一丁目の十字街には、「油掛地蔵」と呼ばれる地蔵尊があった。{{#tag:ref|{{quote|安堂寺町壹丁目十字街の傍ニあり石佛にして祈願の者油をそゝぐ故に此名あり往古安曇寺の石像なりといふ|『攝津名所圖會大成』卷之十三下「油懸地藏」<ref>船越政一郎『浪速叢書 攝津名所圖會大成』浪速叢書刊行会、昭和3年、552頁</ref>}}|group=注釈}}
* {{Flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国]]
** [[コロンビア大学]]([[ニューヨーク州]])
** [[ペンシルバニア大学]]([[ペンシルバニア州]])
** [[ドレクセル大学]](ペンシルバニア州)
** [[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]([[ワシントン州]])
** [[オレゴン大学]]([[オレゴン州]])
** {{仮リンク|セント・マイケルズ・カレッジ|en|Saint Michael's College}}([[バーモント州]])
** {{仮リンク|マーシャル大学|en|Marshall University}}([[ウェストバージニア州]])
** {{仮リンク|ダコタ州立大学|en|Dakota State University}}([[サウスダコタ州]])
 
[[大阪市中央公会堂]]を建てた[[岩本栄之助]]は安堂寺橋通2丁目(109番屋敷)で生まれ、[[帝塚山学院中学校・高等学校|帝塚山学院高等女学校]]を開校した[[山本藤助 (2代)|山本藤助]]は安堂寺橋通に商店を設け、1丁目10番地に居を構えていた<ref>『大大阪画報』昭和3年、485頁</ref><ref>宮本(1960年)、417-426頁</ref>。
* {{Flagicon|カナダ}} [[カナダ]]
** [[バンクーバーアイランド大学]]([[ブリティッシュコロンビア州]])
** [[ビクトリア大学 (カナダ)|ビクトリア大学]](ブリティッシュコロンビア州)
 
=== 塩町通 ===
* {{Flagicon|HKG}} [[香港]]
[[File:大阪砂糖取引所.png|thumb|160px|大阪砂糖取引所]]
** [[香港中文大学|香港中文大學]]([[中華人民共和国香港特別行政区|香港]])
塩町通には[[砂糖]]問屋が多く、[[1925年]]([[大正]]14年)には大阪砂糖取引所が設置された。
 
塩町通3丁目の内である旧車町{{#tag:ref|もとは芝居町。新町遊郭と西横堀川を隔てた東側の勘四郎町・芝居町(南勘四郎町・車町)の辺りに芝居小屋あったことから<ref>『角川日本地名大辞典 大阪府』1983年</ref>。|group=注釈}}にはかつて御堂があり、[[弘法大師]]の作という[[薬師如来|薬師仏]]を祀って難波薬師または蘆間薬師と呼んだ{{#tag:ref|{{quote|鹽町心齋橋東へ入南側ニあり一説に古しへハ天台の佛院にして本尊藥師佛ハ弘法大師の作たり年久しく荒廢におよび本尊も民家に傳り後世こゝに草堂をいとなみ安置せしが近世又他にうつして跡ハのこらず人家となれり又此ところに池ありて往昔ハ蘆間の池と號しめぐりに片葉の蘆を生ず丼池と稱するハこの池の名なるべしといひつたふ 難波名所蘆分船藥師堂の條下ニ云|『攝津名所圖會大成』卷之十三下「難波藥師堂跡」<ref>船越政一郎『浪速叢書 攝津名所圖會大成』浪速叢書刊行会、昭和3年、554頁</ref>}}|group=注釈}}。蘆間池のあった所であるが、堂は他に移り池は明治7年(1874年)に埋められた。池は一名丼池といったとも伝える。そのため同地辺りを丼池と俗称した。蘆間池は古歌にも見えている勝区であり、芦池小学校の名もこれに由来する。
* {{Flagicon|AUS}} [[オーストラリア]]
** [[メルボルン大学]]([[ビクトリア州]])
** [[クイーンズランド大学]]([[クイーンズランド州]])
 
この辺りは割合に静な所で、船場とはいいながら、忙しいことそれ自体を生命とするような[[問屋]]の町ではなかった<ref>宮本(1960年)、426-427頁</ref>。
* {{Flagicon|FRA}} [[フランス]]
** [[西フランス・カトリック大学]](フランス)
 
他、[[大阪音楽大学]]を創立した[[永井幸次]]の音楽学校<ref>前川佳子、近江晴子『船場大阪を語りつぐ ―明治大正昭和の大阪人、ことばと暮らし―』和泉書院、2016年、61-62頁</ref>や旧文栄堂の[[前川善兵衛 (大阪)#前川合名会社|前川合名会社]]<ref>大大阪画報社『大大阪画報』昭和3年、538頁</ref>、[[帝國キネマ]]本社<ref>国際映画通信社『日本映画事業総覧 昭和2年版』国際映画通信社、大正15年、565頁</ref>などがあった。
* {{Flagicon|GBR}} [[イギリス]]
** [[エセックス大学]](イギリス)
** [[ウエストミンスター大学]](イギリス)
** [[ゴールドスミス・カレッジ|ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ]](イギリス)
** [[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン|ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]](イギリス)
** [[バース大学]](イギリス)
 
=== 教育・学術協定末吉橋通 ===
[[平野 (大阪市)|平野郷]]町の[[豪商]][[末吉孫左衛門]]は御[[朱印船]]貿易や[[銀座 (歴史)#伏見銀座|銀座]]頭役として活躍した家柄である。末吉橋西詰角屋敷がその旧邸で、末吉孫左衛門町の名はそれに由来した。末吉橋は孫左衛門が在邸中通行人の便をはかって架設したものである。元は孫左衛門橋と呼んだが、後に末吉橋と呼ぶようになった。
* [[昭和薬科大学]]
 
末吉橋西詰より[[島之内|鰻谷]]東の町に通ずる長堀川に架している安綿橋は総年寄の安井九兵衛と綿屋某が道路の便のために架けたものという<ref>宮本(1960年)、428-429頁</ref>。
=== 大学間連携 ===
* [[千葉工業大学]]
 
=== 通信教育課程 協定大学心斎橋 ===
{{see|心斎橋}}
以下の大学の在学生は学内での選考により、玉川大学通信教育課程の科目等履修生として小学校二種免許状に関する科目を併修できる。
心斎橋は[[江戸時代]]初期に[[山城国|山城]][[伏見藩|伏見]]の岡田心斎が、[[長堀川]]が掘られた時に架けたと伝えるが確かではない。これは、元来「心斎町」に由来するのではないかといわれる。
* [[昭和音楽大学]]
* [[専修大学]]
* [[東京成徳大学]] (小学校教職課程認可前の平成23年度入学生まで)
* [[日本大学]][[文理学部]]
* [[二松学舎大学]]
* [[神奈川大学]]
* [[中京大学]][[スポーツ科学部]]
* [[関西国際大学]]
* [[エリザベト音楽大学]]
* [[名桜大学]]
 
安永9年([[1780年]])、大阪市中の町橋135橋を大きさによって6級に分類したときには、心斎橋は第3級として、317橋の中にあげられていた。しかし、なんといっても心斎橋筋という繁華街に架かっているため、著しく著名な橋になってきた。なお、心斎町というのは長堀心斎町と江戸時代にはいったもので、これは後の心斎橋筋とは異なる。長堀の北側と南側の心斎橋と三休橋の間、つまり鰻谷の浜側と北側の長堀橋通の中この北と南の二カ町が心斎町である。
=== 学部・研究科ごとの提携 ===
* [[カリフォルニア工科大学]](大学院工学研究科と)
* [[昭和大学]]大学院(大学院工学研究科と)
 
明治5年([[1872年]])、心斎橋は新たに市内最初の吊鉄橋として架かった。この鉄橋は名所絵の好題材となった。明治42年([[1909年]])には現在の石橋に架けかえられ、大阪最初の石造橋として喧伝された。新しい心斎橋には[[ガス灯|瓦斯灯]]がついており、気品のある瓦斯の灯が水におち、華美な[[ネオンサイン|広告燈]]の裡に超然とした気品を示していた<ref>宮本(1960年)、429-434頁</ref>。
=== 加盟コンソーシアム等 ===
* [[青葉6大学連携事業]][http://www.city.yokohama.lg.jp/aoba/00life/15local/univ.html]
* [[相模原・町田大学地域コンソーシアム]]
* [[首都圏西部大学単位互換協定会]]
 
[[File:心齋橋通書肆(浪速叢書 第八 攝津名所圖會大成 昭和3年).png|thumb|心齋橋通書肆<br />{{small|『浪速叢書 第八 攝津名所圖會大成』}}]]
=== 自治体との連携 ===
[[File:((File;.Ginsaibashi ShinShindo.jpglthumb❘(駸々堂心斎橋店 大正))).jpg|thumb|[[駸々堂]]心斎橋店]]
* 鹿児島県南さつま市
心斎橋筋は「松屋町や菓子屋寺町や坊さん」とならび称せられた本屋街で、五十何軒もの書肆が軒をならべていた{{#tag:ref|{{quote|船場より嶋の内にいたり當橋すじに數多あり尤浪花中において書林數百家此方彼方に店を開けり就中此所に軒をつらねて繁昌なり云|『攝津名所圖會大成』卷之十三下「心齋橋通書肆」<ref>船越政一郎『浪速叢書 攝津名所圖會大成』浪速叢書刊行会、昭和3年、573頁</ref>}}|group=注釈}}。やがて鉛活字印刷となり出版は東京が中心となったが、大阪の書肆は販売の方で活躍した。しかしそれと共に西横堀から阿波座・靱へと本屋は移っていき、心斎橋筋は書肆の町ではなくなった。それでもまだ戦前には、そうした面影を偲ぶものがあった<ref>宮本(1960年)、379, 382頁</ref>。
* 北海道川上郡弟子屈町
* 和歌山県東牟婁郡古座川町
* 静岡県下田市
* 福島県石川郡玉川村
 
;大阪の主な書肆一覧<ref>宮本(1960年)、388-384頁</ref>
== 就職状況・卒業後進路 ==
* 備後町四丁目 朧曦堂 梅原亀七
* 就職決定率(=就職決定者÷就職希望者)は、大学全体で男子96.8%、女子96.7%。(2005年度)
* 備後町四丁目 宝文軒(館) 吉岡平助
*: 学部別では、文学部94.4%・農学部98.8%・工学部99.3%・経営学部95.9%・教育学部98.0%・芸術学部91.1%。(2005年度)
* 備後町四丁目 松恵堂 小谷卯三郎
* 安土町四丁目 積善館 石田忠兵衛
* 安土町四丁目 松雲堂 鹿田静七
* 本町四丁目 忠雅堂 赤志忠七
* 本町四丁目 尚書堂 辻本秀五郎
* 本町四丁目 宝玉堂 岡島真七
* 南本町四丁目 文淵堂 金尾為七
* 唐物町四丁目 偉業館 岡本仙助
* 北久太郎町四丁目 積玉圃 柳原喜兵衛
* 北久太郎町四丁目 開成館 三木佐助
* 南久宝寺町四丁目 文栄堂 前川善兵衛
* 博労町四丁目 嵩山堂 青木恒三郎
* 博労町四丁目 明善堂 中川勘助
 
船場には古くから時計屋があったが、ことに心斎橋に多く集まっていた。明治以後、北出作次郎・渋谷史春・尚美堂・[[服部時計店|服部時計]]支店・[[生駒ビルヂング|生駒権七]]などが旧東区内にあり、石原時計店ももとは博労町にあった。その中心斎橋筋には石原・渋谷・北出の三大時計店の建物が高くそびえていた<ref>宮本(1960年)、385, 387頁</ref>。
== その他 ==
* [[1995年]]4月に[[親学推進協会]]より[[高橋史朗]]氏を大学院講師兼任として招き[https://www.coco-de-sica.com/lecture/takahashi_siro.html]、近年も保護者向け勉強会が行われている[http://shishimai.p1.bindsite.jp/oyagaku/][http://www.tamagawa-up.jp/book/b100615.html][https://www.tamagawa.jp/education/report/detail_13953.html][https://www.tamagawa.jp/education/report/detail_16648.html]。2009年頃には塚田稔講師を玉川大学脳科学研究所副所長に迎え、親学<ref>{{Cite web|和書|title=左巻健男「学校に入り込むニセ科学」(平凡社新書0925)|url=https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0814VYQXC|accessdate=2019-11-15}}</ref>の推進にも勤しんでいる [https://www.tamagawa.jp/education/report/detail_16648.html]。
 
== 世帯数と人口 ==
* 2007年1月、平成19年度一般入試出願期間において、[[神奈川朝鮮中高級学校]]3年の男子生徒が農学部受験を出願しようとしたところ、大学側は「各種学校である[[朝鮮学校]]の卒業見込は出願資格にならない」として拒否し、出願には文部科学省による[[高卒認定試験]]の合格が条件であるとした。これに対して生徒側が弁護団とともに本学へ乗り込んで抗議し、注目を集めた。日本全国から本学入試課への電話での賞賛の声や抗議も殺到したが、結局出願は認められなかった。
[[2019年]](平成31年)[[3月31日]]現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population"/>。
{|class="wikitable"
![[丁目]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]]
|-
|南船場一丁目
|style="text-align:right"|1,902世帯
|style="text-align:right"|2,652人
|-
|南船場二丁目
|style="text-align:right"|694世帯
|style="text-align:right"|891人
|-
|南船場三丁目
|style="text-align:right"|174世帯
|style="text-align:right"|215人
|-
|南船場四丁目
|style="text-align:right"|146世帯
|style="text-align:right"|197人
|-
|style="text-align:center"|計
|style="text-align:right"|2,916世帯
|style="text-align:right"|3,955人
|}
 
=== 人口の変遷 ===
* 参考:玉川大学の入学有資格者 1.〔学校教育法の第1条にいう〕高等学校又は中等教育学校の卒業者 2.通常の課程による12年の学校教育の修了者(含 通常の課程以外のこれに相当する学校教育の修了者)〔旧制学校の卒業・修了者等を対象?〕 3.外国において学校教育における12年の課程の修了者又はこれに準ずる〔インターナショナルバカロレア等による?〕者で文部科学大臣の指定した者 4.文部科学大臣が高等学校の課程と同等の課程を有するものとして認定した在外教育施設〔海外の日本人学校等〕の当該課程修了者 5.専修学校の高等課程(修業年限3年以上ほか文部科学大臣が定める基準を満たすものに限る) 6.文部科学大臣の指定した者 7.高等学校卒業程度認定試験合格者(含旧大検合格者)
[[国勢調査]]による人口の推移。<!-- 10人あたり1pxでグラフ作成しています。 -->
{|
|[[1995年]](平成7年)
|style="text-align:right"|1,487人||<ref name="jinko1995">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&bunya_l=02&layout=datalist&cycle=0&toukei=00200521&tstat=000001064072&tclass1=000001064137&tclass2=000001064156&cycle_facet=tclass1%3Acycle&stat_infid=000023630313 |title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 |publisher=総務省統計局 |date=2014-03-28 |accessdate=2019-08-16}}</ref>
|<div style="width:148.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2000年]](平成12年)
|style="text-align:right"|1,838人||<ref name="jinko2000">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&bunya_l=02&tstat=000000030001&cycle=0&tclass1=000001048665&tclass2=000001064749&stat_infid=000025137862&cycle_facet=tclass1%3Acycle |title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 |publisher=総務省統計局 |date=2014-05-30 |accessdate=2019-08-16}}</ref>
|<div style="width:183.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2005年]](平成17年)
|style="text-align:right"|2,252人||<ref name="jinko2005">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&bunya_l=02&tstat=000001007251&cycle=0&tclass1=000001048664&tclass2=000001065184&stat_infid=000025514284&cycle_facet=tclass1%3Acycle |title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 |publisher=総務省統計局 |date=2014-06-27 |accessdate=2019-08-16}}</ref>
|<div style="width:225.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2010年]](平成22年)
|style="text-align:right"|2,677人||<ref name="jinko2010">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&bunya_l=02&tstat=000001039448&cycle=0&tclass1=000001047504&tclass2=000001047970&stat_infid=000012671554&cycle_facet=tclass1%3Acycle |title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 |publisher=総務省統計局 |date=2012-01-20 |accessdate=2019-08-16}}</ref>
|<div style="width:267.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2015年]](平成27年)
|style="text-align:right"|3,559人||<ref name="jinko2015">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&bunya_l=02&tstat=000001080615&cycle=0&tclass1=000001094495&tclass2=000001094526&stat_infid=000031522156&cycle_facet=tclass1%3Acycle |title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 |publisher=総務省統計局 |date=2017-01-27 |accessdate=2019-08-16}}</ref>
|<div style="width:355.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
 
=== 世帯数の変遷 ===
* 2014年、オオスズメバチを主人公にした小説『風の中のマリア』の執筆のため、スズメバチの生態をくわしく知るために作家の [[百田尚樹]] 氏が玉川大学 小野正人教授に取材した逸話を通した対談が[https://www.tamagawa.jp/serial/zenjin/detail_7046.html 「全人」2014年4月号 No.782]に掲載された。
[[国勢調査]]による世帯数の推移。<!-- 10世帯あたり1pxでグラフ作成しています。 -->
{|
|[[1995年]](平成7年)
|style="text-align:right"|808世帯||<ref name="jinko1995"/>
|<div style="width:80.8px;height:10px;background:#66dd66"></div>
|-
|[[2000年]](平成12年)
|style="text-align:right"|1,092世帯||<ref name="jinko2000"/>
|<div style="width:109.2px;height:10px;background:#66dd66"></div>
|-
|[[2005年]](平成17年)
|style="text-align:right"|1,592世帯||<ref name="jinko2005"/>
|<div style="width:159.2px;height:10px;background:#66dd66"></div>
|-
|[[2010年]](平成22年)
|style="text-align:right"|1,821世帯||<ref name="jinko2010"/>
|<div style="width:182.1px;height:10px;background:#66dd66"></div>
|-
|[[2015年]](平成27年)
|style="text-align:right"|2,539世帯||<ref name="jinko2015"/>
|<div style="width:253.9px;height:10px;background:#66dd66"></div>
|}
 
== 事業所 ==
* 2018年、[[石破茂]]氏による「大学生にいま伝えたいこと」と題した玉川大学学友会寄付講座が、リベラルアーツ学部1年生を対象に開催され,自民党との深いつながりを伺わせる. [https://www.tamagawa.jp/education/report/detail_13795.html]
[[2016年]](平成28年)現在の[[経済センサス]]調査による事業所数と従業員数は以下の通りである<ref name="keizai2016">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200553&tstat=000001095895&cycle=0&tclass1=000001106235&tclass2=000001106275&tclass3=000001114496&tclass4=000001114523&stat_infid=000031727490 |title=平成28年経済センサス-活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果 |publisher=総務省統計局 |date=2018-06-28 |accessdate=2019-10-23}}</ref>。
{|class="wikitable"
![[丁目]]!!事業所数!!従業員数
|-
|南船場一丁目
|style="text-align:right"|613事業所
|style="text-align:right"|11,351人
|-
|南船場二丁目
|style="text-align:right"|768事業所
|style="text-align:right"|12,205人
|-
|南船場三丁目
|style="text-align:right"|758事業所
|style="text-align:right"|10,277人
|-
|南船場四丁目
|style="text-align:right"|845事業所
|style="text-align:right"|11,065人
|-
|style="text-align:center"|計
|style="text-align:right"|2,984事業所
|style="text-align:right"|44,898人
|}
 
== 交通アクセス施設 ==
[[画像:Organic-Building.jpg|240px|thumb|オーガニックビル]]
小田急線「[[玉川学園前駅]]」 北口より、新宿方面へ徒歩3分。
* [[心斎橋筋商店街]]
* [[クリスタ長堀]]
* [[大阪観光局]]
* [[浜崎健立現代美術館]]
=== 史跡 ===
* [[橋本宗吉]]絲漢堂跡
* 大阪書籍館跡
* 渥美高等家政女学校跡
 
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
* '''[[心斎橋駅]]'''([[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]] [[Osaka Metro長堀鶴見緑地線|長堀鶴見緑地線]]・[[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]])
*'''[[長堀橋駅]]'''(Osaka Metro 長堀鶴見緑地線・[[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]])
 
=== 道路 ===
; [[高速道路]]
* [[阪神高速1号環状線]]
; [[国道]]
* [[国道25号]]([[御堂筋]])
* [[国道308号]]([[長堀通]])
; [[主要地方道]]
* [[大阪府道102号恵美須南森町線]]([[堺筋]])
* [[三休橋筋]]
 
== その他 ==
=== 日本郵便 ===
* {{〒}}542-0081<ref name="postal"/>(集配局:[[大阪南郵便局]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/zipcode/dl/bangobo/zip_bgb.pdf |format=PDF |title=郵便番号簿 2018年度版 |publisher=日本郵便 |accessdate=2019-06-10}}</ref>)
 
== 明治から昭和期の近代建築 ==
:(出典:<ref>[http://kindaikenchiku.michikusa.jp/index.html 今はなき大阪の近代建築] 参照</ref><ref>『大大阪画報』昭和3年、538, 639頁</ref><ref>川島智生「大正期大阪市における鉄筋コンクリート造小学校の成立と学区制度との関連について」『日本建築学会計画系論文集 61巻 486号』1996年、213頁</ref><ref>『船場人 2020 第9号』2021年、10-12, 15-16頁</ref>)
;北・南久太郎町
* 黒川ビルディング ─ 設計:設楽建築事務所(設楽貞雄) 1920年(大正9年)
* 愛國貯金銀行 ─ 1922年(大正11年)
* 浪華小学校 ─ 1925年(大正14年)
* 内外化学物産大阪営業所 ─ 昭和初期
* 朝日堂 ─ 設計:竹中工務店(早良俊夫) 1928年(昭和3年)
* 住友銀行船場支店 ─ 設計:住友工作部(長谷部鋭吉) 1930年(昭和5年)
* 大谷仏教会館 ─ 設計:竹内緑 1933年(昭和8年)
* 三菱銀行船場支店 ─ 設計:三菱地所 1936年(昭和11年)
* 金商又一ビル ─ 設計:ヴォーリズ建築事務所 1936年(昭和11年)
;北・南久宝寺町
* 久宝小学校 ─ 1923年(大正12年)
* 三木楽器店 ─ 1925年(大正14年)
* 三井銀行船場支店 ─ 設計:トローブリッジ・アンド・リヴィングストン建築事務所 1931年(昭和6年)
* クツワ文具店 ─ 1938年(昭和13年)
;博労町
* 第一徴兵保険株式会社大阪支店 ─ 大正~昭和期
;順慶町
* 川崎貯蓄銀行大阪支店 ─ 設計:矢部又吉 1931年(昭和6年)
* 稲畑商店 ─ 大正~昭和期
* 黒田生々堂 ─ 大正~昭和期
;安堂寺橋通
* 芦池小学校 ─ 1924年(大正13年)
* 原田産業本社 ─ 設計:小笠原祥光 1928年(昭和3年)
* 三菱商事大阪支店 ─ 1930年(昭和5年)
* 第一銀行南支店 ─ 設計:西村好時 1933年(昭和8年)
* 明治製菓大阪支店 ─ 設計:森山松之助建築事務所 1935年(昭和10年)
;塩町通
* 渥美小学校 ─ 1924年(大正13年)
* 大阪砂糖取引所 ─ 1925年(大正14年)
* 前川合名会社 ─ 1925年(大正14年)
;末吉橋通・長堀通
* 心斎橋
** 鉄骨トラス橋 ─ 1873年(明治6年)
** 石造眼鏡橋 ─ 1909年(明治42年)
* 長堀橋 ─ 1912年(明治45年)
* 末吉橋 ─ 1927年(昭和2年)
* 日本簡易火災保険本店ビル ─ 設計:早良俊夫 1931年(昭和6年)
 
== ギャラリー ==
<gallery mode="packed">
File:Harada_Industry_Building.jpg|原田産業株式会社大阪本社ビル
File:Dobuike Hall.jpg|丼池繊維会館
File:Osaka_Norin_Hall_2023.jpg|大阪農林会館
File:Kawasaki Savings Bank.jpg|堺筋倶楽部(旧:川崎貯蓄銀行大阪支店)
File:Sueyoshibashi Osaka JPN 001.jpg|末吉橋
File:Nagahori Monuments.jpg|長堀橋跡記念碑
File:順慶町通一~四丁目 - panoramio.jpg|『順慶町通一~四丁目』旧町名継承碑
File:安堂寺橋通一~四丁目 - panoramio.jpg|『安堂寺橋通一~四丁目』旧町名継承碑
File:塩町通一~四丁目 - panoramio.jpg|『塩町通一~四丁目』旧町名継承碑
File:末吉橋通一~四丁目 - panoramio.jpg|『末吉橋通一~四丁目』旧町名継承碑
File:昭和銀行船場支店.png|昭和銀行船場支店
File:愛國貯金銀行.png|愛國貯金銀行
File:川崎貯蓄銀行大阪支店.png|川崎貯蓄銀行大阪支店
File:三菱商事株式会社大阪支店.png|三菱商事株式会社大阪支店
File:前川合名会社.png|前川合名会社
File:心斎橋変電所.png|心斎橋変電所
File:末吉橋日本簡易火災保険ビル.png|日本簡易火災保険ビル
File:大阪市立久宝小学校.png|久宝小学校
File:大阪市立渥美小学校.png|渥美小学校
File:大阪市立芦池小学校.png|芦池小学校
File:東横堀川「末吉橋」.png|末吉橋
File:長堀橋交差点.png|長堀橋交差点
File:『大阪都市計画並同事業輯攬』御堂筋.png|御堂筋
</gallery>
 
== 関連項目 ==
* [[船場 (大阪市)]]
{{Commonscat|Tamagawa University}}
* [[心斎橋]]
* [[学校法人玉川学園]]
* [[御堂筋]]
* [[大学通信教育|通信制大学]]
* [[堀江 (大阪市)]]
* [[大阪写真会館]]
 
== 参考文献 ==
* [[宮本又次]]『船場』ミネルヴァ書房(風土記大阪第1集)1960年
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプReflist}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|1}}
{{Notelist}}
 
== 外部リンク ==
* [https://www.tamagawacity.osaka.lg.jp/chuo/ 学校法人玉川学園中央区]
* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1303482/1 浪花名所図会 順慶町夜見世之図]広重
* [https://www.tamagawa.jp/university/ 玉川大学]
** [https://www.tamagawa.jp/correspondence/ 玉川大学通信教育課程]
* [https://www.tamagawa-tucl.com/ 玉川大学継続学習センター]
* {{Mediaarts-db}}
 
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{{学校法人玉川学園}}
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}}
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[[Category:玉川学|*阪市中央区の町・字]]
[[Category:東京都の私立大学船場]]
[[Category:神奈川県の私立大学心斎橋]]
[[Category:神立東玉文武]]
[[Category:日本の農学]]
[[Category:園芸とガーデニング関連学校]]
[[Category:学校記事]]