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| 画像サイズ = 250
| 画像説明 = [[石川啄木]]没後の節子([[大正]]元年)
| 出生名 = 堀合 節子セツ
| 生年月日 = [[1886年]][[10月14日]]
| 生誕地 = [[岩手県]][[南岩手郡]]上田村新小路11番地<br />(のちの[[盛岡市]]上田、[[岩手大学]]構内)
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| 活動期間 =
| 雇用者 =
| 団体 = [[滝沢市|滝沢村]]立篠木尋常高等小学校<br />函館区立弥生尋常高等小学校
| 著名な実績 =
| 業績 =
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'''石川 節子'''(いしかわ せつこ、[[1886年]]〈[[明治]]19年〉[[10月14日]] - [[1913年]]〈[[大正]]2年〉[[5月5日]])は、[[石川啄木]]の妻。
 
その前半生は平穏に過ぎ、啄木との長い恋愛ののちに結婚する<ref name="堀合216">[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] p.216</ref>。1905年(明治38年)5月末の結婚式に啄木が欠席したときに、節子は「吾はあく迄愛の永遠性なると言ふ事を信じ度く候」という決意を表明した<ref>[[#岩城(1985)|岩城(1985)]] pp.219</ref>。夫には生活力がなく、絶え間ない流転と別離の日々が続くなか<ref>[[#石川(1936)|石川(1936)]] p.236</ref>、愚痴一つこぼさず、女手一つで幼い娘の京子を抱え、確執のある姑のカツかつ子を養いながら、窮乏した生活を耐え忍んだ<ref>[[#石川(1936)|石川(1936)]] p.237</ref>。1909年(明治42年)10月の彼女の家出事件は啄木に深刻な打撃を与え、その文学と思想にも大きな影響をもたらした<ref>[[#岩城(1985)|岩城(1985)]] pp.234-235</ref>。啄木との結婚生活は1912年(明治45年)4月まで、満7年にも満たず、同居した期間は5年もなかった<ref>[[#澤地(1981)|澤地(1981)]] p.229</ref>。啄木は病魔のため大成を見ずに亡くなり、節子もまた同じ病で若くしてこの世を去った<ref name="堀合216" />。
 
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[[File:1909 Ishikawa Setsuko.jpg|thumb|300px350px|right|家出期間中の節子と堀合の家族(明治42年10月)。前列右より、堀合了輔、工藤その、石川京子、祖母キン、堀合ろく子、母の堀合とき子、堀合克巳、石井京。後列右より、堀合赳夫、父の堀合忠操、堀合孝子、堀合忠直、堀合ふき子、節子、高橋ノシ、宮社フシ]]
=== 死 ===
大正2年4月13日、浅草の等光寺において、与謝野寛、[[北原白秋]]、金田一京助、土岐哀果らを発起人として、61名が出席して啄木の一周忌の追悼会が行われた。この会で去る3月23日に、函館の啄木未亡人節子の代理として[[函館市中央図書館|函館図書館]]の[[岡田健蔵]]が上京して、等光寺に埋葬してあった啄木とカツの遺骨を、函館に持ち帰ったことを報告した<ref>[[#冷水(1968)|冷水(1968)]] pp.82-85</ref>。一方、函館図書館でも同じ日に啄木の一周忌の追悼会が催されている。宮崎郁雨、岡田健蔵が幹事となり、堀合忠操、斎藤大硯、岩崎白鯨ら20名あまりが出席している<ref>[[#冷水(1968)|冷水(1968)]] p.88</ref>。この来会者の席上で、啄木と面識のない斎藤咀華が写真を参考にし、宮崎ら友人たちの意見も取り入れて、描いた肖像画の油絵が披露されている<ref name="山下157">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.157</ref>。

追悼会の数日後、「苜蓿社」時代の啄木の友人・岩崎白鯨は、この絵を一目節子に見せようと、岡田健蔵と連れだって病院を訪ねた<ref name="山下157" /><ref>[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] p.214</ref>。岡田は絵を前にして、当日の様子について詳しく話し、これを機会に啄木会として「啄木文庫」を創設し、啄木の関係資料の収集や保存をしていくことを約束している。節子は啄木が残した日記、書簡および遺稿など一切を「啄木文庫」に託すことを言い残したと伝えられる<ref>[[#坂本(1998)|坂本(1998)]] p.464</ref>。病室の節子は痩せ衰え、正視できないほどだった。岩崎はその時の節子が絵に見入るときの様子を、手記次のようこう書き記している<ref>[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] pp.214-215磐幸正「啄木遺稿と歌集」(上)『函館毎日新聞』1913年6月21日付朝刊、1面</ref>。
{{Quotation|そうだ君の一周忌の記念祭を図書館でやった四五日後に、岡田君と僕とで、咀華君の描いた君の肖像画を節子さんに見せる為に病院まで持って行った。その時は見て貰ったら直ぐ持って帰る積りで行ったのだが節子さんが咳入り〱乍ら一心に眺めてゐるものを、とても持って帰る訳に行かなかったそれで、こっそり岡田君に耳打して、飽きたら返して貰う事にして画を置いて二人ハ帰ったそれは僕にしてハ永の別れであった。(中略)然し其日も、節子さんを一目も見なかったといっても可い位ゐのものであった。衰痩た節子さんを、正面に見ることハとても出来なかったのだ。僕ハ始終眼をそらして別の病人の方ばかり見てゐなければならなかったのだ。外へ出てから岡田君に、画を持って帰るに忍びなかったと云ったら、同君も同感だと云ってうつむいた。岡田君もあれを最後に、節子さんに逢はなかったことと思ふ。|岩崎白鯨}}
節子は啄木の肖像画とともに、残りの二週間ほどの命を生きた<ref name="山下157" />。