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{{出典の明記|date=2020-08}}
{{転送|陸軍幼年学校|一般の陸軍幼年学校|幼年学校}}[[File:Japan Central Military Preparatory School.JPG|thumb|250px|[[明治]]後期の頃の陸軍中央幼年学校]]
'''陸軍幼年学校'''(りくぐんようねんがっこう、{{旧字体|'''陸軍幼年學校󠄁'''}})は、[[大日本帝国陸軍]]において、選抜した満13歳以上・満15歳未満の男子(主に[[旧制中学校]]2年生)を、将来の陸軍[[役種|現役]][[兵科]][[将校]]候補者として教育するために設けられた全寮制の教育機関([[軍学校]])。[[プロイセン王国|プロイセン]]の [[幼年学校|陸軍幼年学校]]([[:de:Kadettenanstalt|Kadettenanstalt]] に範をとって設立された。通称・略称は'''陸幼'''・'''幼年校'''・'''幼年学校'''。
 
== 概要 ==
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帝国陸軍の幼年学校には幾度の変容があり、[[陸軍士官学校 (日本)#士官学校予科・本科制度|陸軍士官学校が予科・本科制度となった1920年以降]]「陸軍幼年学校」は、将来の将校候補者すなわち陸軍士官学校の予科(「陸軍士官学校予科」、陸士予科。これはのち予士こと「[[陸軍予科士官学校]]」に改称し独立)に入校しその予科生徒(予士生徒)とならん者を、受験時に満13歳以上・15歳未満の若年時に'''生徒'''として受け入れて教育する、[[旧制中学校]]相当の全寮制の教育機関であった。[[1940年]](昭和15年)の昭和15年[[勅令]]第89号「陸軍幼年学校令」第一條では「'''陸軍幼年学校は生徒に陸軍予科士官学校生徒たるに必要なる素養を与うる為軍事上の必要を考慮して普通学科を教授し軍人精神を涵養する所とす'''」と定義されている<ref name=":14" />。
 
陸士予科生徒は陸幼出身者(陸幼組<ref name=":12">{{Cite journal|和書|author=武石典史|year=2010 |title=陸軍将校の選抜・昇進構造 - 陸幼組と中学組という二つの集団 - |url=https://doi.org/10.11151/eds.87.25 |journal=教育社会学研究 |volume=第87集 |pages=25-45 |publisher=日本教育社会学会 |accessdate=2018-6-11 |doi=10.11151/eds.87.25}}</ref>)と、陸幼に進まずに一般の旧制中学校に学んでから陸軍[[役種|現役]][[兵科]][[将校]]を志願した中学出身者(中学組<ref name=":12" />)から主に構成される{{Refnest|group="注釈"|陸士予科生徒となる者は、「(1)陸幼組」と「(2)中学組(16歳以上20歳未満)」に加え、陸軍内部からの志望者として、「(3)陸軍現役下士官からの志望者(26歳未満)」と「(4)幹部候補生(甲幹・乙幹)・操縦候補生・現役兵からの志望者(いずれも25歳未満)」があったが、(3)と(4)で陸士予科生徒に採用される者は少数に留まった<ref name=":8" />。}}。

陸士卒業生は旧1期(明治10年10月卒業)から昭和20年の敗戦までの間に約5万1千名、うち陸幼組は明治7年4月の卒業生から昭和20年の終戦時の在校生まで約1万9千名であり、累計の人数として
:「陸幼組:中学組が過半数を占め=4:6」
となる<ref name=":8">{{Harvnb|藤井|2018|p=|pp=75-82|loc=第二章 幼年学校という存在-兵科将校の補充源}}</ref>。

陸幼生徒は陸士予科生徒と合わせて「'''将校生徒'''」とも呼称された。
 
1920年代以降の基本的な将校任官の流れとして、陸幼または中学から陸士予科(1896年から1903年は陸軍中央幼年学校、1903年から1920年は陸軍中央幼年学校本科、この中央幼年・中央幼年本科は地方幼年・中央幼年予科の陸幼卒業者のみが入校した。中幼本科が改変された1920年から1937年は陸軍士官学校予科、1937年から1945年は陸軍予科士官学校となり、陸士予科・予士へは陸幼卒業者のみならず中学出身者も入校する)に進んだ生徒は、陸士予科において[[旧制高等学校]]に準ずる「普通学」を主に学び、卒業時に指定されている[[兵科]](兵種)及び原隊の[[士官候補生]]となり、約半年間の隊附勤務(この間に形式的なものであるが[[軍隊の階級|階級]]は[[上等兵]]から[[伍長]]に進級)を経て、[[軍曹]]の階級が与えられ今度は陸軍士官学校の本科(陸軍士官学校本科。これはのち陸軍士官学校に改称し、さらに[[陸軍飛行戦隊|陸軍航空部隊]]関係の兵科将校を専門的に養成する[[陸軍航空士官学校]]も分離独立)に入校。陸士本科(陸士)においてより専門的かつ高度な[[軍事学]]を学び、卒業後に原隊において[[見習士官]](階級は[[曹長]])となり数ヵ月後に晴れて任[[少尉|陸軍少尉]]となった。陸軍航空士官学校へ進む兵科将校候補者([[航空兵|航空兵科]]将校候補者)の場合、その専門性から予科卒業後の士官候補生としての隊附勤務は無いか短期間で、また本科卒業後の見習士官としての隊附勤務はない。陸軍幼年学校は帝国陸軍において本流となる現役兵科将校へと進む階段において最初の一歩となる。なお、[[明治]]後期からは陸幼卒業者は陸士予科入校試験は免除され、エスカレーター式に進む。
 
[[1896年]](明治29年)から[[1903年]](明治36年)までは、上述の陸士予科にのちに改変される学校を「'''陸軍中央幼年学校'''」とし[[東京]]に1校を設置、上述の陸軍幼年学校とのちになる学校を「'''陸軍地方幼年学校'''」と称し[[仙台市|仙台]]、東京、[[名古屋市|名古屋]]、[[大阪市|大阪]]、[[広島市|広島]]、[[熊本市|熊本]]の各地方に設置し、各地方幼年は仙台陸軍地方幼年学校などと地名を校名に冠した。1903年には、「陸軍中央幼年学校」と「東京陸軍地方幼年学校」が合併され、従来の陸軍中央幼年学校は「'''陸軍中央幼年学校本科'''」に、東京陸軍地方幼年学校は「'''陸軍中央幼年学校予科'''」と改変された。陸軍士官学校が予科・本科制度となる[[1920年]](大正9年)以降に「陸軍中央幼年学校本科」は「陸軍士官学校予科」、陸軍中央幼年学校予科は「東京陸軍幼年学校」、各地の陸軍地方幼年学校も「'''陸軍幼年学校'''」(大阪陸軍地方幼年学校の場合は大阪陸軍幼年学校に改称)となる([[#歴史]])。
 
藤井非三四は、地方幼年学校(生徒150名)の運営経費が、生徒600人の旧制高等学校のそれとほぼ同額であり、幼年学校で「生徒1名に対し、教職員2名」の体制が取られていたことに言及し、下記のように述べている<ref name=":0" />。{{quotation|今日に至るまで、日本でもっとも整備された教育機関は陸軍幼年学校だった。|藤井非三四|<ref name=":0" />}}
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* 陸幼は難関であり、渡部が鶴岡中学に在学している間に、鶴岡中学から陸幼に入校した者は1名のみであった。
 
陸軍幼年学校生徒採用試験は合格・入校すると同時に軍籍に入るため「召募試験<ref name=":14">{{Cite web|和書|url=https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000037761&ID=&TYPE=|title=陸軍幼年学校令改正・御署名原本・昭和十五年・勅令第八九号(請求番号:御23468100)|accessdate=2021-909-29|website=国立公文書館デジタルアーカイブ}}</ref>」と呼ばれ(士官学校の採用試験も同じ)<ref name=":0" />、身体検査と学科試験が実施された<ref name=":11" />。まず身体検査が行われ、身体検査に合格した者のみが、学科試験(国語・作文・地理・歴史・数学・理科<ref name=":11" />)を受験できた<ref name=":11" />。
 
'''陸幼受験資格は、満13歳以上・満15歳未満'''<ref name=":0" /><ref name=":11" />(願書を提出する翌年=入校する年の、3月31日における年齢<ref name=":11">{{Cite book|和書|title=陸軍予科士官学校 陸軍幼年学校 受験入校の手引|year=1938|publisher=[[講談社|大日本雄弁会講談社]]|pagepages=19-26|authorauthor1=[[教育総監|教育総監部]](監修)|authorlink1=教育総監|author2=陸軍将校生徒試験常置委員(編)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1437791|quote=第二 陸軍幼年学校受験入校の手続}}</ref>{{Efn|例えば1939年度(昭和14年度)志願者(1938年に願書を提出して1939年4月に入校)は、1924年4月2日 - 1926年4月1日の出生であることを要する<ref name=":11" />。}})'''という年齢制限のみ'''であり、2回まで受験できた<ref name=":0" />。召募試験において求められる学力は中学校1年第2学期修了程度であったが<ref name=":11" />、受験に際して'''学歴は不問'''であった<ref name=":0" /><ref name=":11" />。陸幼の召募試験は高倍率であったため陸幼生徒の多くは中学校出身者であったが、少数ながら高等小学校出身者も存在する{{Refnest|group="注釈"|高等小学校から陸幼に進んだ著名な軍人には、[[後宮淳]]大将<ref>{{Harvnb|半藤|2013|p=|pp=|loc=位置No. 1030-1137, 第二章 緒戦の連勝と米軍の反攻-後宮淳 東条の選んだ高級参謀次長}}</ref>、[[遠藤三郎 (陸軍軍人)|遠藤三郎]]中将<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=29|pp=|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-遠藤三郎}}</ref>、[[辻政信]]大佐<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=103-104|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-辻政信}}</ref>がいる。}}。
 
特待生となる資格を持つ「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされた<ref name=":0" />。陸幼生徒選抜にあたっては理数系の素養が重視されており、数学が満点で、他が一定基準を満たしていれば優先的に合格とされた<ref name=":0" />。さらに、召募試験合格者は入校予定の各陸幼において精密な身体検査を受け、これに改めて合格した者が晴れて陸幼生徒となった。
 
武官の子息を主な対象とする月謝の減免措置も影響し、陸幼入校者のうち30% - 50%程度が武官の子息であった{{Sfn|江利川春雄|2005|p=68-69}}(統計<ref>{{Cite journal|author=廣田照幸|author-link=広田照幸|year=1987 |title=近代日本における陸軍将校のリクルート:階層的特徴をめぐって |url=https://doi.org/10.11151/eds1951.42.150 |journal=教育社会学研究 |volume=42 |page=155 |chapter=表1 陸幼採用者の父兄職業 |doi=10.11151/eds1951.42.150}}</ref>)。
 
=== 月謝 ===
毎月の納金(月謝)は、士官学校([[陸軍予科士官学校]]・[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]・[[陸軍航空士官学校]]・[[陸軍経理学校]])が無償であったのに対して、幼年学校は有償であった。例として、[[1938年]](昭和13年)時点での陸幼の月謝(授業料+寮費)は20[[日本円|円]]であった<ref name=":11" /><ref>{{Harvnb|村上|2003|p=180}}</ref>{{Efn|帝国陸軍は、陸幼の運営経費として陸幼生徒1人あたり毎月80円を計上しており、父兄の負担額はその1/4であった<ref (2003a)name=":13" />。}}、父兄は小遣い5円を加えた25円を毎月送金した<ref name=":13">{{Harvnb|教育総監部|1940|p.180=132}}</ref>。
 
ただし、
 
:(a) (a)[[戦死]]した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の[[軍人]](「軍人」には兵を含む、以下同じ)、または[[文官]]{{Efn|(a)と(f)の規定における「文官」は、「陸海軍の文官」に限定されないと読める。|name=文官}}(「文官」には[[地方公務員|公吏]]を含まない、以下同じ)の遺児。
 
:(b) (b)恩給法により普通恩給・増加恩給を受ける権利を得ている、陸海軍の軍人、または陸海軍の準軍人{{Efn|出典に「準軍人」とあり、注釈は付されていない<ref name=":11" />。}}の子息。
 
:(c) (c)陸海軍の[[役種|現役]]の[[佐官]]以下の高等武官の子息。
 
:(d) 11(d)11年以上軍務に精励する、陸海軍の現役の[[准士官]]以下の[[軍人]]の子息。
 
:(e) 15(e)15年以上軍務に精励する、陸海軍の[[奏任官]]・[[判任官]]たる文官の子息。
 
:(f) (f)特に国家に功労がある陸海軍の軍人、または文官{{Efn|name=文官}}で、死亡した者の遺児。
 
のいずれかに該当する場合は、資産状況も踏まえ、特待生(月謝を全額免除)または半特待生(月謝を半額免除)とされた(昭和13年時点の規定による)<ref name=":11" />。
 
==== 中学校の月謝との比較 ====
中学校の月謝の例として、[[1935年]](昭和10年)時点での愛知県立中学校の月謝(授業料のみ)は4円70銭であった<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.20677/csssej.1.0_31 |title=府県立中学校における財源構成と授業料の府県間比較 : 1890年代から1930年代を対象に |author=烏田直哉 |journal=教育学研究ジャーナル |year=2005 |volume=1 |page=33 |doi=10.20677/csssej.1.0_31}}</ref>。[[1940年]](昭和15年)に刊行された書籍(監修:[[教育総監|教育総監部]])には、陸幼生徒の父の談話という形で「陸幼の月謝が20円(小遣いを加えた毎月の送金額は25円)であるのに対し、自宅から中学校に通わせる場合も毎月20円は必要である」旨が記されている<ref name=":13" />。
 
=== 教育 ===
陸幼における3年間の教育では、陸軍教授たる[[文官]][[教官]]による旧制中学校2年生から5年生課程相当の普通学(「'''学科教育'''」)が主となる。加えて比較的簡素な軍事学(「'''訓育'''」)や精神訓話を[[武官]]たる生徒監などに学んだ。学課は一般中学と大差はないが、陸幼では語学([[ドイツ語|独]][[フランス語|仏]][[ロシア語|露]][[英語]]の4つから1つを選択<ref>{{Harvnb|教育総監部|1940|p=17, 90}}</ref>〈英語は1938年(昭和13年)より[[仙台陸軍幼年学校|仙幼]]と[[熊本陸軍幼年学校|熊幼]]で導入{{Sfn|江利川春雄|2005|p=71-72|ps=, 3. 陸軍幼年学校の外国語教育:3-3. 陸軍幼年学校の英語教育}}からなる語学、音楽図画が重視されていたという違いがある<ref>{{Harvnb|村上 (2003a) |2003|p.=188}}</ref>。
 
1921年(大正10年)、陸幼卒業者に[[旧制高等学校|高等学校]]の受験資格が与えられるようになった{{Sfn|江利川春雄|2005|p=68-69}}。
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=== 職員 ===
1940年改正「陸軍幼年学校令」においては陸幼職員として「[[校長]]」・「[[副官]]」・「学校附」・「教官」・「訓育部長」・「生徒監主事」・「生徒監」・「[[下士官]]及[[判任官|判任]]文官」を置くこととなっている<ref>「陸軍幼年学校令改正の件」 1940年</ref>。概ね「校長」は[[少将]]・[[大佐]]級、「訓育部長」と「生徒監主事」は[[中佐]]級、各「生徒監」は[[少佐]]級である。特に訓育班において指導の中心となる「'''生徒監'''」は、幼い生徒達にとって特に重要な存在となった。第二次大戦後半中、軍隊では[[大隊|大隊長]]級の中堅将校たる生徒監は激化する戦地への転出が相次ぎ、末期には1学年に対して1ないし2名という状態になっていったため、新たに[[尉官]]の「訓育班長」を各訓育班に置き生徒監を補佐するようになった<ref>『陸軍士官学校』 p.121</ref>。
 
=== 模範生徒・取締生徒 ===
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1945年、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])敗戦に伴い、陸軍幼年学校は陸軍士官学校・陸軍航空士官学校・陸軍予科士官学校などとともに廃止され、解散した。
東京陸軍幼年学校の敷地は農耕地となり、[[1946年]](昭和21年)[[3月1日]]、[[昭和天皇]]の[[行幸]]([[昭和天皇の戦後巡幸]])があった<ref>{{Cite book |和書 |author=原武史 |title=昭和天皇御召列車全記録 |publisher=新潮社 |year=2016-09-30 |page=90|isbn=978-4-10-320523-4}}</ref>。
 
== 陸幼組と中学組 ==
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# 陸士の成績が上位であれば、陸大卒の履歴を有さない「無天組」でも中央三官衙の課長への道、稀な例ではあるが局長への道が開かれていた。
 
という3点を指摘している<ref name=":12" />。さらに、陸士優等卒業・陸大優等卒業であれば90%90%が中将以上に至ったのに対し、陸大優等卒業のみの場合は中将以上に至ったのは76%に留まり、明確な差が認められるという今西英造の見解を紹介している<ref name=":12" />。
 
武石典史は、帝国陸軍において陸士の卒業成績・陸大の卒業成績が進級と補職に大きく影響したため、陸士・陸大の双方において成績上位者を多く輩出している陸幼組が、中学組と比較して、より高い階級に至って長く現役に留まり、より重要なポストに補任される結果となったものである、と結論している<ref name=":12" />。
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藤井非三四は、
 
# 中央三官衙の要職の筆頭と言える'''参謀本部作戦課長'''(参謀本部第二課長、昭和11年6月から12年11月までは第三課長)についてみると、陸士15期以降では中学組が補職されたのは[[今村均]](陸士19期、陸大27期首席)のみで、他は陸幼組で占めた<ref name=":6" />。今村は、作戦課長在任中に[[満州事変]]が起きると、処理方針を巡って孤立無援の状態に陥り、特に失策がなかったにもかかわらず、わずか半年の在任で更迭される悲運に遭った<ref name=":6" />。
#'''陸軍省軍務局軍事課長'''についてみると、昭和に入ってからは陸幼組が独占した<ref name=":7">{{Harvnb|藤井|2018|p=|pp=96-100|loc=第二章 幼年学校という存在-人事を抑えたDコロ}}</ref>。
# 人事を扱う部署についてみると、'''陸軍省人事局長'''は昭和に入ってから中学組が補職されたのは[[川島義之]](陸士10期)のみで他は全て陸幼組が占め、'''陸軍省人事局補任課長'''は陸幼組が独占し、参謀の人事を扱う'''参謀本部庶務課長'''も陸幼組が独占しており(陸幼組でない[[牛島貞雄]](陸士12期)は[[陸軍教導団]]出身)、「人事は陸幼組が独占」という状況であった<ref name=":7" />。
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== 各校 ==
* [[東京陸軍幼年学校]](旧東京陸軍地方幼年学校および陸軍中央幼年学校予科) - 東幼
* [[大阪陸軍幼年学校]](旧大阪陸軍地方幼年学校) - 大幼
* [[仙台陸軍幼年学校]](旧仙台陸軍地方幼年学校)- 仙幼
* [[名古屋陸軍幼年学校]](旧名古屋陸軍地方幼年学校) - 名幼
* [[広島陸軍幼年学校]](旧広島陸軍地方幼年学校) - 広幼
* [[熊本陸軍幼年学校]](旧熊本陸軍地方幼年学校) - 熊幼
* [[陸軍予科士官学校|陸軍中央幼年学校本科]](旧陸軍中央幼年学校のち陸軍士官学校予科)
 
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陸幼・陸士・航士・予士には多くの「武窓用語」および「隠語」が存在し、主に陸幼では陸幼生徒を意味する「KD」・「カデ」・「カデット」・「C」を筆頭に、以下を一例とする用語が使用されていた<ref>主に『陸軍士官学校』 pp.27-28. p.60. p.124等。</ref>。初期の帝国陸軍は[[フランス陸軍]]と[[ドイツ陸軍]]に倣っていたことから、[[フランス語]]・[[ドイツ語]]に由来する用語が散見される。
 
** 「Dコロ」 - 「陸幼出身者」<ref name=":9">{{Harvnb|藤井|2018|p=|pp=86-91|loc=第二章 幼年学校という存在-Dコロ対Pコロという構図}}</ref>。中学出身者が陸幼出身者に対して使う蔑称<ref name=":9" />。「カデ=KD」のDに由来<ref name=":9" />。
* 「コンマン」 - {{要出典範囲|「主席」。|date=2020-10}}
** 「Pコロ」 - 「中学出身者」<ref name=":9" />。陸幼出身者が中学出身者に対して使う蔑称<ref name=":9" />。語源はドイツ語のPlatpatrone=空包<ref name=":9" />。陸幼出身者が自分たちをScharfepatrone=実包に見立て、中学出身者は音だけの空包に過ぎない、と揶揄したもの<ref name=":9" />。
* 「デコン」 - {{要出典範囲|「最劣等生」|date=2020-10}}。{{要出典範囲|語源はフランス語のデ・コンマン。|date=2020-10}}
** 「[[稚児]]さん」<ref>{{Harvnb|村上 (2003a) |2003|p.=208|pp=|loc=}}</ref> - 上級生や生徒監・教官の寵愛を受けているとされる者を指す。
* 「カデ」・「KD」 - {{要出典範囲|「陸幼生徒」・「陸幼出身者」。語源はドイツ語のKadett。|date=2020-10}}
** 「Dコロ」 - 「陸幼出身者」<ref name=":9">{{Harvnb|藤井|2018|p=|pp=86-91|loc=第二章 幼年学校という存在-Dコロ対Pコロという構図}}</ref>。中学出身者が陸幼出身者に対して使う蔑称<ref name=":9" />。「カデ=KD」のDに由来<ref name=":9" />。
**「Pコロ」 - 「中学出身者」<ref name=":9" />。陸幼出身者が中学出身者に対して使う蔑称<ref name=":9" />。語源はドイツ語のPlatpatrone=空包<ref name=":9" />。陸幼出身者が自分たちをScharfepatrone=実包に見立て、中学出身者は音だけの空包に過ぎない、と揶揄したもの<ref name=":9" />。
* 「ゴミン(護民)」 - {{要出典範囲|「模範生徒(指導生徒)」。品行方正かつ学術優秀な上級生が命ぜられて下級生と寝台・自習机を共にし指導した。語源は[[古代ローマ]]の[[護民官]]。|date=2020-08}}
* 「スタ」 - {{要出典範囲|「頭の悪い者」|date=2020-10}}。{{要出典範囲|語源はドイツ語のスタインコップ|date=2020-10}}(Stein = 石、Kopf = 頭)。
* 「アカデミー」 - {{要出典範囲|「補習授業」。|date=2020-08}}
* 「少年(ショーネン)」 - {{要出典範囲|「校内の美男子」。語源はドイツ語のシェーネ、あるいは美少年の略称。|date=2020-08}}
** 「少年さわぎ」 - {{要出典範囲|某が美貌であるとの評判をめぐって評し合う、騒ぐこと。|date=2020-08}}
** 「自信をつける」 - {{要出典範囲|美貌を鼻にかけること。|date=2020-08}}
** 「[[稚児]]さん」<ref>村上 (2003a) p.208</ref> - 上級生や生徒監・教官の寵愛を受けているとされる者を指す。
* 「ブス」 - 「醜男」。{{要出典範囲|語源はブスケ(武助)。|date=2020-08}}
** 「自信ブス」- {{要出典範囲|自信ありげに美貌らしく振舞うが、実際はブスであること。|date=2020-08}}
* 「解剖」 - {{要出典範囲|「大勢がかりで衣類を無理に脱がせて裸にする」こと。日夕点呼終了後から消灯前後にかけて面白半分で行われた。行為自体に深い意味はない。|date=2020-08}}
 
== 校長 ==
=== 歴代校長 ===
; 陸軍幼年学校(第一次)
* [[武田斐三郎|武田成章]] 大佐:1875年5月2日 -
*(兼)[[保科正敬]] 中佐:1875年9月7日 - 1877年1月13日廃止
; 陸軍幼年学校(第二次)
* [[藤井包總]] 工兵中佐:1887年6月 - 1889年6月3日
*(職務取扱)藤井包總 工兵中佐:1889年6月11日 - 7月10日
*(心得)[[古川宣誉]] 工兵少佐:1889年7月10日 - 1889年11月2日
*古川宣誉 工兵中佐:1889年11月2日 - 1890年8月25日
* [[山内長人]] 歩兵中佐:1890年8月25日 - 1892年12月7日
* [[佐々木直 (陸軍軍人)|佐々木直]] 歩兵中佐:1892年12月7日 -
*(兼・事務取扱)[[波多野毅]] 歩兵大佐:1894年9月13日 - 1895年8月10日
* [[粟屋幹]] 歩兵中佐:1895年8月10日 - 1896年5月15日
; 陸軍中央幼年学校
*粟屋幹 歩兵中佐:1896年5月15日 - 1896年9月25日
* [[谷田文衛]] 歩兵中佐:1896年9月25日 -
* [[伊崎良煕]] 歩兵中佐:1898年10月1日 -
* [[小野安堯]] 砲兵大佐:1904年9月7日 -
*竹内武 歩兵中佐:不詳 - 1906年3月9日
* [[野口坤之]] 歩兵大佐:1906年3月9日 - 1908年3月18日
* [[久能司]] 歩兵大佐:1908年3月18日 - 1910年11月30日
* [[松浦寛威]] 歩兵大佐:1910年11月30日 - 1915年8月10日
* [[岩崎初太郎]] 歩兵大佐:1915年8月10日 -
* [[長谷川直敏]] 少将:1920年5月12日 - 8月10日(陸軍士官学校予科へ改組)
 
==== 主な地方校長 ====
* [[橘周太]] - 名古屋校長。歩兵第34連隊第1大隊長として、[[遼陽会戦|遼陽の戦い]]で戦死。
* [[千田貞季]] - 仙台校長。独立混成第2旅団長として、[[硫黄島の戦い]]にて戦死。
* [[百武晴吉]] - 広島校長。第17軍司令官 / [[ガダルカナル島の戦い]]参照。
* [[阿南惟幾]] - 東京校長。[[陸軍大臣]]。[[終戦の日|終戦]]の前日に陸相官邸で自刃、[[介錯]]を拒み、翌朝に絶命。
 
== 関係者 ==
=== 第二次大戦敗戦時在校中生徒 ===
敗戦で閉校したため、全員が旧制中学に復学した。
* [[いずみたく]](作曲家)- 仙幼
* [[加藤秀俊]](評論家)- 仙幼
* [[なだいなだ]](作家、精神科医)- 仙幼
* [[西村京太郎]](作家) - 東幼
* [[加賀乙彦]](作家) - 名幼
* [[桂千穂]](脚本家、作家) - 名幼
* [[水島一也]](学者)- 名幼
* {{仮リンク|東典男|en|Norio Azuma}}(画家) - 名幼
* [[藤岡琢也]](俳優) - 広幼
*[[國分康孝]](カウンセリングサイコロジスト) - 東幼
* [[大原健士郎國分康孝]](大(心理教授) 者)- 東幼
* [[大原健士郎]](大学教授)- 東幼
* [[杉山邦博]](NHK(NHKアナウンサー) - 熊幼
* [[相倉久人]](音楽評論家) - 東幼
 
=== 中途退校者 ===
* [[大杉栄]]([[作家]])- 名幼
* [[宇都宮徳馬]]([[政治家]]、[[実業家]])- 東幼
 
== 脚注 ==
258行目:
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|230em}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|title=陸軍大学校|year=1973|last=上法|first=快男 編|authorlink=上法快男|publisher=芙蓉書房出版|ISBN=}}
* {{Citation|和書|last=教育総監部|first=(監修)、陸軍将校生徒試験常置委員(編)|authorlink=教育総監|author2=|year=1940|title=輝く陸軍将校生徒|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1458897/1/1|publisher=[[講談社|大日本雄弁会講談社]]|ref=harv}}
* {{Citation|和書|title=ある情報将校の記録|year=1998|last=塚本|first=誠|authorlink=|edition=|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|series=中公文庫|isbn=|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|editor1=外山操|editor2=森松俊夫編著『|title=帝国陸軍編制総覧|publisher=芙蓉書房出版、[[|year=1987年]](昭和62年)。|isbn=|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=野邑理栄子|title=陸軍幼年学校体制の研究|publisher=吉川弘文館、[[|year=2006年]](平成18年)。|isbn=|ref=harv}}
*{{Citation|和書|title=日本陸海軍総合事典|year=2005|last=秦|first=郁彦 編著|authorlink=秦郁彦|edition=第2|publisher=東京大学出版会}}
* {{Citation|和書|title=歴代日本大将全覧 昭和編/太平洋戦争期総合事典|year=20132005|last=半藤|first=一利郁彦 編著|authorlink=半藤一利|series=秦郁彦|edition=[[Amazon Kindle]]第2|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=東京大学出版会}}
* {{Citation|和書|title=歴代陸軍派閥大将全覧 昭和編/太平洋戦争期|year=20182013|last=|first=非三四一利 他|authorlink=半藤一利|series=|edition=[[Amazon Kindle]]|publisher=[[潮書房光人中央公論新社]](光人社NF文庫)|isbn=}}
* {{Citation|和書|title=桜と剣 第一部 わが三代のグルメット陸軍派閥|year=20032018|last=村上藤井|first=兵衛非三四|authorlink=村上兵衛|publisher=[[潮書房光人新社|]](光人社]]NF文庫)|isbn=}}
* {{Citation|和書|title=本当のこ剣 第一部 わわかる昭和史三代のグルメット|year=20152003|last=渡部村上|first=昇一兵衛|authorlink=渡部昇一村上兵衛|publisher=[[PHP研究所潮書房光人新社|光人社]]|isbn=4569824897}}
* 編集責任:山崎正男(元陸軍少将、陸士33期、終戦時陸軍予科士官学校幹事) 『陸軍士官学校』 秋元書房、1969年。
*{{Citation|和書|title=本当のことがわかる昭和史|year=2015|last=渡部|first=昇一|authorlink=渡部昇一|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=4569824897}}
* {{Citation|和書|title=本当のことがわかる昭和史|year=2015|last=渡部|first=昇一|authorlink=渡部昇一|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=4569824897}}
* {{Cite journal|和書|author=[[江利川春雄]] |date=2005 |title=日本陸軍の英語教育史-1930年代以降の幼年学校・予科士官学校を中心に- |url=https://doi.org/10.11222/hisetjournal1986.20.0_65 |journal=日本英語教育史研究 |ISSN=0916-006X |publisher=日本英語教育史学会 |volume=20 |pages=65-90 |naid=130001929688 |doi=10.11222/hisetjournal1986.20.0_65 |ref=harv}}
 
== 関連項目 ==
* [[陸軍予科士官学校]](旧陸軍中央幼年学校本科)
* [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校 (日本)]]
* [[陸軍予備士官学校 (日本)|陸軍予備士官学校 (日本)]]
* [[陸軍航空士官学校]]
* [[陸軍大学校]]
* [[陸軍少年飛行兵]] / [[陸軍少年戦車兵学校|陸軍少年戦車兵]] / [[陸軍少年通信兵学校|陸軍少年通信兵]]
* [[陸上自衛隊少年工科学校]] / [[陸上自衛隊高等工科学校]]
* [[海上自衛隊生徒及び航空自衛隊生徒]]
* [[沼津兵学校]]
* [[海軍兵学校予科]] - いわば陸軍幼年学校の海軍版。敗戦間近である1945年(昭和20年)4月に開校。
 
== 外部リンク ==
* [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/{{Cite thesis/d1/D1002502.pdf|和書|author=野邑理栄子 |title=日本陸軍エリート養成制度の研究 : 陸軍幼年学校体制の発足とその展開]野邑理栄子、 |volume=神戸大学レポジトリー、2003 |series=博士 (学術) 甲第2502号 |year=2002 |naid=500000226584 |hdl=20.500.14094/D1002502}}
 
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[[Category:日本陸軍の教育機関|*]]
[[Category:1945年廃止日本中等教育機関学校]]