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|現職 =
|所属政党 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]
|称号・勲章 = [[従三位]]<br />[[勲一等瑞宝章]]
|世襲の有無 = なし
|親族(政治家) =
|配偶者 = [[那智わたる]](佐藤美弥子)
|サイン =
|ウェブサイト =
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|国旗 = JPN
|職名 = 第46代 [[郵政大臣]]
|内閣 = [[第2次中曽根内閣 (第2次改造)内閣|第2次中曽根内閣(第2次改造)]]
|選挙区 =
|当選回数 =
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|職名2 = [[衆議院議員]]
|内閣2 =
|選挙区2 = [[大分県第2区 (中選挙区)|旧大分2区]]
|当選回数2 = 8回
|就任日2 = [[1967年]]
|退任日2 = [[1990年]]
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}}
 
'''佐藤 文生'''(さとう ぶんせい、[[1919年]][[7月21日]] - [[2000年]][[4月25日]])は、日本の[[政治家]]。[[明治大学]]専門部卒業。[[別府市]][[名誉市民]]。[[ジェラルド・カーティス]]の著書『代議士の誕生』のモデルとして知られた。
 
== 生涯 ==
[[大分県]][[別府市]]西部の[[温泉宿|温泉旅館]]主佐藤倉八の長男として出生<ref>{{Cite web|title=No1054|url=http://today.blogcoara.jp/natukashi/2010/09/no1054.html|website=懐かしの別府ものがたり|accessdate=2021-07-14}}</ref>。
[[大分県]][[別府市]]西部の温泉旅館主の長男として出生。地元で初等、旧制中学校をへて、[[明治大学]][[大学専門部 (旧制)|専門部]]政治経済科に入学。卒業後まもなく[[第二次世界大戦]]が勃発。陸軍大尉として従軍する。終戦後別府に戻り自動車セールスマンとして働きながら、「日本の伝統の良さを守りたい」という思いから政治に関心を持ち始めた。
 
[[大分県]][[別府市]]西部の温泉旅館主の長男として出生。地元初等旧制中学校をて、[[明治大学]][[大学専門部 (旧制)|専門部]]政治経済科に入学。1939年の卒業後<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E8%97%A4+%E6%96%87%E7%94%9F-1676387|title=佐藤 文生|accessdate=2017-12-28|publisher=コトバンク}}</ref>、まもなく[[第二次世界大戦]]が勃発。[[大尉|陸軍大尉]]として従軍する。終戦後別府に戻り[[自動車]][[営業職|セールスマン]]として働きながら、「日本の伝統の良さを守りたい」という思いから政治に関心を持ち始めた。
 
佐藤家には政治家と直接のコネはなく、政界進出には大きな壁があった。そこで佐藤は実の妹を[[大分県議会]][[議長]]の[[荒金啓治]]の子息に嫁がせた。そのコネを活かし、[[1951年]]、荒金の地盤を引き継ぎ、県議会議員に初当選した。以後3期12年務めた後、国政進出を決意する。
 
大物議員に人脈のある[[岩崎貢]]の片腕となり、[[第31回衆議院議員総選挙|1963年の総選挙]]で、[[大分県第2区 (中選挙区)|旧大分2区]]より[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]公認で立候補したが落選。[[第31回衆議院議員総選挙|1967年の総選挙]]で、再び自由民主党公認を受けトップで初当選を果たす(当選同期に[[山下元利]]・[[増岡博之]]・[[加藤六月]]・[[塩川正十郎]]・[[河野洋平]]・[[中尾栄一]]・[[藤波孝生]]・[[武藤嘉文]]・[[坂本三十次]]・[[塩谷一夫]]・[[山口敏夫]]・[[水野清]]など)。以降連続当選8回。自民党では[[村上勇]]→[[水田三喜男]]→[[中曽根康弘]]派に属する。[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根内閣第2次改造内閣]]で[[郵政大臣]]に就任。[[第39回衆議院議員総選挙|1990年の総選挙]]で落選する。[[1995年]]4月、[[勲一等瑞宝章]]を受章。[[第41回衆議院議員総選挙|1996年の総選挙]]では比例九州ブロックで出馬するも名簿下位のため落選し政界引退。2000年4月25日、[[多発性骨髄腫]]により死去。[[享年]]80
 
自民党では[[村上勇]]→[[水田三喜男]]→[[中曽根康弘]]派に属し、[[裁判官弾劾裁判所]]判事、運輸政務次官、党広報委員長などを務めた<ref name=":0" />。[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根内閣第2次改造内閣]]で[[郵政大臣]]に就任<ref name=":0" />。
59歳で[[宝塚歌劇団]]元[[星組]]トップスターの[[那智わたる]]と結婚する。また、{{要出典範囲|[[読売新聞社]]会長[[渡邉恒雄]]と親しく、渡邉が選挙の応援演説をしたこともあった|date=2016年1月}}。
 
[[第39回衆議院議員総選挙|1990年の総選挙]]で落選する。
 
[[1995年]]4月、[[勲一等瑞宝章]]を受章。[[第41回衆議院議員総選挙|1996年の総選挙]]では[[比例九州ブロック]]で立候補するも名簿下位のため落選し政界から引退する。
 
2000年4月25日、[[多発性骨髄腫]]のため、死去した。{{没年齢|1919|7|21|2000|4|25}}。死没日付をもって[[従三位]]に叙された<ref>『官報』第2878号10頁 平成12年5月29日</ref>。
 
== 人物 ==
* [[油彩|油絵]]は政経画人展に2度入賞する腕前で、[[映画]]に出演したこともある<ref name=":0" />。
* [[ドバイ日航機ハイジャック事件]]では、[[朝田静夫]][[日本航空]]社長とともに政府代表として犯人側と折衝し、乗客の身代わりを申し入れて乗客全員の救出に尽した<ref name=":0" />。
* [[1979年]]、59歳で[[宝塚歌劇団]]元[[星組]]トップスターの[[那智わたる]]と結婚する。
59歳で[[宝塚歌劇団]]元[[星組]]トップスターの[[那智わたる]]と結婚する。また、* {{要出典範囲|[[読売新聞社]]会長[[渡邉恒雄]]と親しく、渡邉が選挙の応援演説をしたこともあった|date=2016年1月}}。
*国政進出の際に同じ選挙区の[[綾部健太郎]]の議席を奪うこととなったが、奇しくも綾部が運輸大臣を務めていたころからの懸案である[[成田空港問題]]に精力的に取り組むこととなり、新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])の開港に貢献した。
**1968年2月26日の[[第1次成田デモ事件]]を[[伊能繁次郎]]・[[浜田幸一]]らと共に目撃している<ref>『はるかなる三里塚 ―インサイド・レポート成田空港』(1978年)9-22頁。</ref>。
**運輸政務次官時代、新東京国際空港建設にあたり、[[航空燃料]]輸送用の暫定パイプラインの敷設が懸案となっていた。佐藤は地元の細かい要望も聞き届けてこれを解決させている。[[成田山新勝寺]]の節分会で[[日本社会党]]の地元選出議員であった[[小川国彦]]に遭遇した際に「小川さん、[[寺台]]のじっちゃん元気かな」と話しかけ、後でその人物から事情を聴いた小川は感嘆している。その後も佐藤は、自民党の臨時成田空港建設促進特別委員長として関係自治体を再三訪ね、貨物列車による航空燃料暫定輸送についての同意をまとめ上げている<ref>小川国彦『心は野にありて―回想録』朝日新聞社出版局、2004年、118-119頁。</ref>。
**反対派を恐れて燃料輸送への賛成に回ることができない地元を説得していた[[新東京国際空港公団]]で交際費の資金が不足したときには、自民党成田空港推進特別委員会委員長として領収書にサインして空港公団に回していた<ref name=":2">{{Cite journal|author=|year=1995|title=真説・新東京国際空港開港秘話|journal=逓信協会雑誌|volume=6月(1009)|page=|pages=32-40}}</ref>。
**1970年代初期までの[[三里塚芝山連合空港反対同盟]]については、「精神的支柱としての[[戸村一作]]氏、スポークスマンとしての[[北原鉱治]]氏、分析家、戦術家としての瀬利誠氏、行動隊長としての内田寛一氏らの作り上げた戦後農民運動の芸術品」と称している<ref>{{Cite journal|author=|month=|year=1978|title=成田闘争、十二年の教訓|journal=自由|volume=昭和五十三年七月号|page=81}}</ref>。
**激しい反対運動を受けて規模を大幅に減じられることとなる[[富里市|富里]]での空港建設計画(当初案)について、「卓見だった」と評価している<ref>『日本の航空戦略』(1985年)81頁</ref>。
* 久留米[[陸軍予備士官学校 (日本)|予備士官学校]]で教官を務めていた時に[[広島市への原子爆弾投下|広島で被爆]]をした入校生をみて以来、原水爆反対の信念をもっており、永らく[[核兵器禁止平和建設国民会議]]の理事を務める<ref name=":0" />。
 
== 著書 ==
*『はるかなる三里塚―インサイド・レポート成田空港』 ([[講談社]]、1978年)
*『ハイジャック―日航機ベンガジに燃ゆ 』(講談社、1974年)
*『日本の航空戦略―21世紀のエアポート』([[サイマル出版会]]、1985年)
*『日本の郵政戦略―郵便から宇宙衛星まで』([[ビジネス社]]、1987年)
*『日本の海洋戦略―海から日本列島を活かすHH600構想』(サイマル出版会 、1988年)
*『バグダッド和平工作 化学兵器・核禁止を原点に湾岸戦争回避をはかる』(サイマル出版会 、1991年)
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
{{start box}}
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| before = [[鴨田宗一]]
| after = [[木村武千代]]
}}
{{Succession box
| title = {{flagicon|JPN}} [[法務委員会|衆議院法務委員長]]
| years =
| before = [[福島譲二]]
| after = [[上草義輝]]
}}
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{{衆議院石炭対策特別委員長}}
{{総務大臣||[[郵政大臣]]}}
{{旧大分2区選出衆議院議員(1947-1993)}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さとう ふんせい}}
[[Category:昭和時代戦後の閣僚]]
[[Category:日本の郵政大臣]]
[[Category:大分県選出の衆議院議員]]
[[Category:自由民主党の衆議院議員]]
[[Category:昭和時代戦後の衆議院議員]]
[[Category:平成時代の衆議院議員]]
[[Category:従三位受位者]]
[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]
[[Category:大分県の地方議会議員]]
[[Category:明治大学出身の人物]]
[[Category:大分県立杵築高等学校出身の人物]]
[[Category:大分県出身の人物]]
[[Category:成田空港問題に関連する政治家]]
[[Category:反核兵器活動家]]
[[Category:成田空港航空燃料暫定輸送]]
[[Category:1919年生]]
[[Category:2000年没]]