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{{参照方法|date=
{{画像提供依頼|
{{Infobox baseball player
| 選手名 = 篠塚 和典
| 本名 = 篠塚 利夫
| 所属球団 =
| 役職 =
| 背番号 =
|
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 出身地 = [[千葉県]][[銚子市]]([[東京都]][[豊島区]]生まれ)
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| 没年月日 = <!--{{死亡年月日と没年齢|1957|7|16|YYYY|mm|dd}}-->
|
|
|
| 打席 = 左
| 守備位置 = [[二塁手]] | プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1975}}
| ドラフト順位 = ドラフト1位
| 初出場 = {{by|1977年}}8月5日
| 最終出場 = {{by|1994年}}10月26日
| 経歴 =
* [[千葉県立銚子商業高等学校]]
* [[読売ジャイアンツ]] (1976 - 1994)
| 経歴補足題 = コーチ歴
| 経歴補足 =
* 読売ジャイアンツ (1995 - 2003, 2006 - 2010)
* [[
}}
'''篠塚 和典'''(しのづか かずのり、本名・旧[[登録名]]:'''篠塚 利夫'''〈しのづか としお〉、[[1957年]][[7月16日]] - )は、[[東京都]][[豊島区]]生まれ、[[千葉県]][[銚子市]]
[[愛称]]は「'''シノ'''」「'''シノさん'''」。
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[千葉県立銚子商業高等学校|銚子商業校]]2年次に3年生[[エース (野球)|エース]]の[[土屋正勝]]を擁し、[[第46回選抜高等学校野球大会|春]][[第56回全国高等学校野球選手権大会|夏]]の甲子園大会では「4番・[[三塁手]]」として連続出場。春は準々決勝で[[報徳学園中学校・高等学校|報徳学園]]に2-1で惜敗<ref>「[[選抜高等学校野球大会]]60年史」[[毎日新聞社]]編 1989年</ref>。夏は全試合勝ち進み、8月19日の決勝で[[山口県立防府商業高等学校|防府商]]を7-0で降し同校初の[[全国高等学校野球選手権大会|夏の大会]]優勝を飾った。この大会から[[バット (野球)#金属バット|金属バット]]が導入されたが篠塚は[[日本野球機構|プロ野球]]の道に進んだ時に適応できるように[[バット (野球)#木製バット|木製バット]]で[[打席]]に入り<ref>[https://full-count.jp/2020/10/20/post937608/ 長嶋監督が直電して病院に“懇願”…元巨人・篠塚氏の入団左右した高校時代の入院秘話(1/3ページ)] Full-Count 2020年10月20日(2021年8月22日閲覧)</ref>、2[[本塁打]]を放った。1学年後輩に[[宇野勝]]がいた<ref>{{Cite web ja |url=https://dot.asahi.com/articles/-/89312?page=2 |title=(2ページ目)宇野勝氏、本人が語った! 「ヘディング事件」や「掛布とのHR王争い」の真相 |website=[[AERA dot.]] |date=2020-06-12 |accessdate=2024-06-10}}</ref>。
翌年夏の[[全国高等学校野球選手権千葉大会|千葉大会]]は準決勝で[[小川淳司]]のいた[[習志野市立習志野高等学校|習志野]]に1-2で敗退。習志野は夏の甲子園で優勝し<ref>「[[全国高等学校野球選手権大会]]70年史」 [[朝日新聞社]]編 1989年</ref>、2年連続で千葉県勢が連覇を果たした。
夏の大会優勝の後に湿性[[胸膜炎|肋膜炎]]に患い、3か月間入院した。一時は[[野球]]生命まで危ぶまれたも、半年後に復帰。病室での静養中は[[ベッド]]から天井をめがけて延々とスローイングの練習を行って、指先の感覚を養い肘の出し方を覚えた<ref name="kyomakuen">[https://full-count.jp/2020/10/20/post937608/2/ 長嶋監督が直電して病院に“懇願”…元巨人・篠塚氏の入団左右した高校時代の入院秘話(2/3ページ)] Full-Count 2020.10.20 (2021年8月22日閲覧)</ref>。[[読売ジャイアンツ]]の[[プロ野球監督|監督]]だった[[長嶋茂雄]]に見込まれ、{{by|1975年}}に開催された[[1975年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]にて巨人から1位指名を受けて入団。
=== 現役時代 ===
プロ2年目の{{by|1977年}}に初の[[一軍]]昇格。{{by|1979年}}には一軍に定着。主に[[二塁手]]、[[遊撃手]]として18試合に[[スターティングメンバー|先発出場]]。同年オフ、[[地獄の伊東キャンプ]]に参加した。翌{{by|1980年}}には[[ジョン・シピン]]と二塁手の定位置を争い、6月にはレギュラーを奪取して2番打者に座る。
監督が[[藤田元司]]に代わった{{by|1981年}}、開幕当初はルーキーであった[[原辰徳]]が二塁を守ったため出場機会が減少。しかし5月には三塁手の[[中畑清]]が怪我、原が三塁に回り、篠塚が二塁手のレギュラーに復帰した。以降は主に3番打者として[[クリーンナップ#野球におけるクリーンナップ|クリーンナップ]]の一角を担い、内野陣が固定された。[[阪神タイガース]]の[[藤田平]]との[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]争いで超接戦と言われるほどの[[打率]]差の勝負をし続け<ref>[https://www.sankei.com/article/20180929-WETRKVGWUFLR3HPJNS6I5KB6TU/ 今でも破られていない「6糸差」の首位打者争い 其の一34]</ref>、最終的にわずか1厘差で[[日本のプロ野球#個人タイトル・表彰関連|タイトル]]を逃すも自身キャリアハイとなる.357を記録<ref>[https://www.zakzak.co.jp/article/20210208-5MPFJLZEQJPKLGGVOGUHHYMJZY/ 【あの名場面の裏側】G戦士編 初のクリーンアップで猛打賞、名選手・篠塚の誕生 「二塁は原で決まり」の絶望感を打ち破る (1/3ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト]</ref>。[[1981年の日本シリーズ|日本ハムファイターズとの日本シリーズ]]では4試合に先発出場。[[1981年の日本シリーズ#第5戦|第5戦]]では8回裏に[[木田勇]]から[[駄目押し]]の3点本塁打を放ち、[[1981年の日本シリーズ#第6戦|最終第6戦]]では2回表に[[間柴茂有]]から先制[[適時打]]、[[勝利打点]]を記録した。最後の[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]となる{{by|1973年}}以来、8年ぶり16回目の日本一に貢献した。
監督が[[王貞治]]に代わった{{by|1984年}}、3番篠塚、4番原、5番[[レジー・スミス]]、6番[[ウォーレン・クロマティ]]、7番中畑の[[打順]]が多く起用された。打率.334、12本塁打で自身初の首位打者に輝き、さらに35[[二塁打]]も[[セントラル・リーグ|リーグ]]最多だった。
{{by|1987年}}に[[広島東洋カープ]]の[[正田耕三]]と同率で2度目の首位打者を獲得した。同率での首位打者は{{by|1969年}}の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]・[[永淵洋三]]と[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]・[[張本勲]]に次ぐNPB史上2度目、セ・リーグ初であった(いずれも打率は.333)。正田とは同じ二塁手であり、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]も注目されたがチーム順位、[[安打]]数、本塁打数が正田を上回る篠塚が受賞した。
[[1987年の日本シリーズ|西武ライオンズとの日本シリーズ]]では最後の打者だったが、この年を最後に後楽園球場での主催試合が終了したため、'''後楽園球場にて最後の打者'''となった。この年の日本シリーズは[[埼玉西武ライオンズ|西武]]に2勝4敗で敗退したが篠塚は打率.409(22[[打数]]9安打)3[[打点]]1本塁打の活躍で、[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]][[敢闘賞]]を受賞している。
選手晩年の{{by|1990年}}から{{by|1994年}}まで持病である腰痛の悪化などもあり、若手の[[緒方耕一]]が二塁を守る機会が多くなったことなどから[[規定打席]]未到達となる300打席前後の出場となった。{{by|1991年}}8月には出場機会の減少に対しての不満から「必要じゃなければ[[トレード]]に出してほしい」とある[[夕刊|夕刊紙]]にて発言。同月19日に球団から首脳陣批判の言動を理由に厳重注意と罰金100万円の処分を受けた<ref>[[読売新聞]]1991年8月20日21面「巨人・篠塚に罰金百万円」読売新聞1991年8月p.853</ref>。
{{by|1992年}}7月1日から[[登録名]]を「篠塚 利夫」から「'''篠塚 和典'''」(しのづか かずのり)に変更した。「『利夫という名前には分裂、分離の意味がある』ということで知り合いの内気功の先生から勧められた」という<ref>[[日刊スポーツ]]1992年7月1日2面</ref><ref>[[週刊ベースボール|別冊ベースボール]]『よみがえる1990年代のプロ野球 PART9 1992年編』(2021年10月刊)76頁</ref>。
{{by|1993年}}、66試合で打率.337、4本塁打、23打点を記録。5月15日の対広島戦で1991年7月以来2年ぶりの本塁打となる自身通算3本目の[[満塁本塁打]]を放つ<ref>読売新聞1993年5月16日21面「内角球にマト読みがズバリ」[[読売新聞#縮刷版|読売新聞縮刷版]]1993年5月p.579</ref>。6月9日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦([[石川県立野球場]])では、8回2/3まで無[[失点]]、16[[三振#奪三振|奪三振]](当時のセ・リーグタイ記録)の投球を続けていたルーキー[[伊藤智仁]]から9回二死に[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]本塁打を放った<ref name="yomiuri19930610">読売新聞1993年6月10日17面「SBO たった1球失投 9回二死、篠塚逃さず」読売新聞縮刷版1993年6月p.457</ref>。この試合はスタメンを外れており、ベンチから伊藤の投球を見て「みんな、[[スライダー (球種)|スライダー]]か[[フォークボール|フォーク]]でやられている」と観察していた。[[抑え投手]]の[[石毛博史]]が[[ブルペン]]で投球練習を開始すると、打席に立って目を慣らした。9回表に二塁手として途中出場し、その裏に初打席を迎えた。間合いを取るために2度打席を外したが、その間に「何かグッとくるものがあった」と言い、伊藤の初球を右中間スタンドへ運んだ{{R|yomiuri19930610}}。
1994年は持病である腰痛が悪化の影響もあり57試合に出場して打率.238、2本塁打、13打点の成績にとどまる。シーズン終了後に現役続行か[[引退]]するかで悩むが、チーム事情と今後の野球人生を考え「過去にしがみつくより惜しまれながらやめたい」として、この年限りでの現役引退を決断した<ref>読売新聞1994年11月16日18面「『惜しまれてやめます』篠塚」読売新聞縮刷版1994年11月p.776</ref>。
=== 引退後 ===
引退した翌{{by|1995年}}から{{by|2003年}}までは巨人一軍[[打撃 (野球)|打撃]]コーチ、一軍内野守備コーチ、一軍内野守備兼走塁コーチ、一軍[[ヘッドコーチ|総合コーチ]]を歴任した。{{by|2004年}}から{{by|2005年}}までは[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]野球解説者、[[日刊スポーツ]]野球評論家を務めた。
{{by|2006年}}に巨人一軍内野守備兼走塁コーチに就任。{{by|2007年}}から{{by|2010年}}まで一軍打撃コーチを務め、{{by|2009年}}には[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回]][[ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]][[2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]の打撃コーチも兼任した。
{{by|2011年}}からは再び日本テレビ・ラジオ日本野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を務めている。{{by|2012年}}1月には[[KBOリーグ|KBO]]の[[LGツインズ]]臨時コーチを務めた。
== 選手・コーチとしての特徴 ==
=== 選手としての特徴 ===
巧みなバットコントロールと華麗な守備で鳴らし、“芸術的”と言われるプレーで、シーズン打率も3割以上を5年連続も含め7回記録。通算打率も.3043とNPBにおける通算打率が4000打数以上の上位40選手のうち15位にランクインしている(2024年シーズン終了時点)。また、1981年の自身キャリアハイである.357は巨人の日本人[[野手]]としては{{by|1951年}}に[[川上哲治]]が記録した.377に次ぐ高打率となる。シーズン[[失策]]数も僅か2回のみの年があるなど、[[守備機会]]の多い二遊間の選手としては驚異的であった。
主に3番打者や2番打者、6番打者、選手晩年は1番打者などの打順を担った。本塁打は、最多の年でも13本、通算でも100本に満たない。クリーンナップの一角を担う3番打者としては、[[長打]]力が物足りなかった。シーズン2桁本塁打が2回のみ、通算[[本塁打#本塁打率|本塁打率]]はNPBにおける通算打率が4000打数以上の上位40選手(15位、2024年シーズン終了時点)にランクインしている選手の中では最小の数字となっている。一方で、1980年代の二塁打数については中畑清、原辰徳を凌ぎチーム最多であり、典型的な中距離砲として一貫した選手であった。
高校時代は[[打者#用語|長距離砲]]だったが、湿性肋膜炎を患ったことで巨人以外の球団に指名を回避され、さらに細身の体をカバーするため阪神タイガースの藤田平の打撃を参考にし、のちに藤田とは首位打者争いを繰り広げた{{Efn2|2007年に小学生への指導経験から出版した「6歳からの広角打法」という指導書では、当初は「[[阪神ファン]]だったので藤田平さんに憧れていた」としている。}}。
長打を狙う打撃に瞬時に切り替えたり、広角に[[打球]]を操る器用な選手で[[進塁打]]は操れるが、[[バント]]などを売り物にしてはいなかったため、制約のある2番打者を任された{{by|1985年}}から{{by|1986年}}までは打率.307、.291と成績を落としている。1985年に26[[犠打]]を記録した。逆に、自由度の高かった1984年には.334で首位打者を獲得。1987年に首位打者を獲得した時もチームは優勝している。規定打席には9回到達しているが、腰痛持ちであり、夏場などにスタメンを外れていた。最後に規定打席に到達した{{by|1989年}}には、梅雨時に10数試合スタメンを外れている。{{by|1982年}}、1984年、1985年、1986年は520打席以上をクリアしており(当時は130試合制)、チームの選手の中で最も多く打席に立っていた年もある。
[[公式戦#セ・リーグ(パ・リーグ)公式戦|公式戦]]の通算打率は.304を記録しており、非公式戦である[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]での通算打率も.327(55打数18安打)を記録しており、日本シリーズでも1987年に打率.409を記録するも、日本シリーズ通算打率は.292(106打数31安打)で、あと1本安打を放っていれば、公式戦、オールスターゲーム、日本シリーズ全てで通算打率3割を達成できた(NPBでこの記録を達成している選手は[[鈴木尚典]]と長嶋茂雄のみであった)。
===
打撃理論・指導理論ともに理想のフォームを綿密に固めたうえで準備を整え、シンプルに「来た球を打つ」というスタイルである。
試合前の練習風景では、監督の原や打撃コーチの[[村田真一]]が若手・中堅選手を担当しているのに対して、不調時の[[小笠原道大]]や[[アレックス・ラミレス]]などの主軸選手と笑顔で[[打撃 (野球)#練習方法|トス打撃]]の相手を務める様子が映っていた。また、2010年シーズン前半に打撃不振に陥っていた[[エドガー・ゴンザレス (内野手)|エドガー・ゴンザレス]]は、7月末頃から好調になったことについて8月13日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]14回戦([[東京ドーム]])後の[[ヒーローインタビュー]]で問われた際に「篠塚コーチとの打撃練習がいい形で実を結んでいる」と語った。
[[阿部慎之助]]、[[亀井義行]]、[[坂本勇人]]、[[高橋由伸]]、[[長野久義]]、[[二岡智宏]]らの選手を育てており、打撃不振の時における指導などをしていた。結果的に篠塚がコーチ時代にはチーム打率は常にリーグ上位だった。
第2次長嶋監督時代には長らく一軍内野守備コーチを担当していた。第1次原監督時代は一軍総合コーチを担当、原と共に[[オフェンス|攻撃]]面・[[作戦]]面を統括していた。
=== 用具 ===
{{by|2024年}}に至るまでも篠塚が使用していたバット、[[グラブ (野球)|グラブ]]などを基本にして自分モデルとして使用しているプロ選手も少なくなく、[[石井琢朗]]や[[立浪和義]]ら左のアベレージヒッターの多くは影響を受けたと語っている。特に[[イチロー]]は篠塚モデルのバットをほとんど修正することなく使用していた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=ixOQ4XXefbw 【イチローの憧れ&驚き秘話】本物のプロはここまでこだわる!バット・グローブ論【篠塚モデル】【篠塚和典さん4/5】]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Oa6iXLgou1A 【vol.6】イチローのバットの起源 バットの握りに隠された秘密とは]</ref><ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/827428 数ある木の角材の中から、良質な一本を選び抜く。イチローがメジャーで3000回も響かせてきた快音は、バット職人の妥協なき姿勢が生んだものだった。]</ref>。中日の立浪は少年時代に憧れた選手が篠塚であり、ルーキーイヤーの{{by|1988年}}に巨人戦で[[出塁]]した際二塁ベース上で「篠塚さんのバットをください」と声をかけたところ篠塚はそれに応え、試合後に中日ベンチまで届けたという{{Efn2|この時のバットは、立浪の引退後も自宅に飾ってあると後年語っている。}}。グラブは素手で掴むのに近いように小さめのものを愛用し、その感覚を大事にして[[手袋]]はせずに使用していた。そのため[[汗]]で痛んでしまい、数年ごとに替えていたという。
主に[[1950年代]]に活躍した[[映画プロデューサー]]で[[上原謙]]、[[金子信雄]]、[[高島忠夫]]、[[丹波哲郎]]らと親交があった[[三上訓利]]と[[俳優|女優]]の[[折原啓子]]は妻の父母で、俳優の[[三上博史]]は妻の[[いとこ]]にあたる。
長男:宜政は和典と同じく右投左打の二塁手である。[[青山学院大学硬式野球部|青山学院大学]]に在籍したのち、2012年春から社会人野球の[[Honda硬式野球部|Honda]]に所属。同年4月9日の対[[立教大学野球部|立教大学]]戦([[明治神宮野球場]])では2点リードの7回に[[代打]]で登場し、3球目の[[速球|ストレート]]を右翼スタンドへ社会人初本塁打を放った。[[第91回都市対抗野球大会|2020年に開催された都市対抗]]の決勝戦にて[[一塁手|一塁]]の[[守備固め]]で出場し、見事日本一に輝いた。
== エピソード ==
プロ入り前、元々本人は退院を経てすぐにプロ入りは体力的に厳しそうだと考えて高校卒業後は[[社会人野球]]の[[ENEOS野球部|日本石油]]に進む方針を固めていたが、長嶋茂雄監督が球団幹部や[[スカウト (勧誘)|スカウト]]に「体力的に無理」と反対するのを押し切らせて指名を決めたことから入団に至った。長嶋は篠塚が2年次の打撃をテレビ中継で観て惚れ込み、指名を決意したという{{R|kyomakuen}}。篠塚が聞いた話によると、長嶋は篠塚が入院した病院に電話を掛け、篠塚の病気が完治していることを確認した上で「他球団が問い合わせてきたら、まだ治っていないと言ってくれませんか」と頼んだという{{R|kyomakuen}}。上記のエピソードから、篠塚は引退までの間「長嶋さんに恥をかかせられない」という思いをプロ人生における原動力とした{{R|kyomakuen}}。
1982年9月15日の対[[中日ドラゴンズ]]23回戦([[後楽園球場]])にて、無死一・二塁の場面で篠塚が[[犠牲バント]]で[[走者]]を送った際、相手[[投手]]の[[郭源治]]が三塁へ悪送球し、[[外野手|外野]]へ転がったがその球を[[左翼手]]の[[大島康徳]]がトンネルし、さらに大島が追いかけて捕った球が三塁手に中継され本塁へ送球したが、[[捕手]]の[[中尾孝義]]が取り損ね、その間に[[打者]]走者の篠塚もホームインした(記録上は[[失策]]であったが[[本塁打#ランニング本塁打|ランニング本塁打]]のような出来事だった)<ref name="trivia">{{Cite book ja |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2005 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 11 |publisher=講談社}}</ref>。このプレーは[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]の[[雑学]][[バラエティ番組]]『[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜]]』で紹介され、[[ビデオテープレコーダ|VTR]]に篠塚本人は出演していなかったが、補足トリビアで「あの守備はプロとして恥ずかしいプレー。あってはならないことだと思う」とコメントしている{{R|trivia}}。
1986年某日、[[槙原寛己]]が試合前に投球練習をしていたところ、篠塚もそこで遊びとして投球を始め、スライダーを投げた。そのスライダーを見て凄いと思った槙原は篠塚に握り方を教わり、その握りで試しに投げてみると「驚くほど横に滑るような感じで曲がった」という<ref>槙原寛己『パーフェクトとKOのあいだ ここ一番の投球心理』[[カッパ・ブックス]]、2002年、p.114</ref>。それまでストレート主体の一本調子で、[[バックスクリーン3連発]]や9連勝ストップなど勝負どころでよい結果が残せなかった槙原が、その後、[[完全試合]]([[槙原寛己の完全試合]])を達成したり、[[1994年の日本シリーズ]]で西武ライオンズを倒し日本シリーズ[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]に輝くなど投球の幅を拡げるきっかけのひとつになったと言われている。
1987年10月18日の対広島東洋カープ最終戦(後楽園球場)、4回裏の打席で[[吉村禎章]]が放った30号本塁打が本来あり得ない「2ストライク4ボール」という珍プレーがあったが中畑清の談話にて、日本シリーズを前にした[[消化試合]]で吉村の打席には誰も興味がなく、ベンチで異変に気づいた選手は篠塚ひとりだったという。
[[審判員 (野球)#外審|線審]]が廃止となり[[プロ野球審判員|審判員]]6人体制から4人体制になった1990年の[[開幕戦#野球|開幕戦]]にて、ヤクルトスワローズに1-3と負けている8回裏、好投を続けていた[[内藤尚行]]から右翼ポール際への[[飛球]]を放ち、[[審判員 (野球)#塁審|一塁審判員]]が本塁打と判定した。その年のバラエティ番組で上記の疑惑の本塁打についてコメントを求められ「あれは[[ファウルボール|ファウル]]でしたね」と発言している。原因はポールがボールと類似色の白い塗料で塗られていたため判定が非常にわかりづらかったことであり、この件はのちに東京ドームのポールは白から黄色(のちに橙色に再度変更)に塗り替えられた。
== 詳細情報 ==
=== 年度別打撃成績 ===
{| {{年度別打撃成績|リーグ=日本
|-
|style="text-align:
|rowspan="18" style="text-align:
|18||26||24||2||5||0||0||0||5||0||0||0||0||0||2||0||0||4||0||.208||.269||.208||.478
|-
|style="text-align:
|3||7||7||0||2||0||0||0||2||2||0||0||0||0||0||0||0||2||0||.286||.286||.286||.571
|-
|style="text-align:
|76||97||90||11||25||2||2||0||31||10||1||0||1||0||6||0||0||14||7||.278||.323||.444||.767
|-
|style="text-align:
|115||351||315||38||82||13||3||6||119||31||6||3||11||2||22||0||1||31||9||.260||.309||.378||.687
|-
|style="text-align:
|116||457||412||51||147||21||2||7||193||45||2||5||14||1||29||6||1||39||9||.357||.400||.468||.868
|-
|style="text-align:
|124||523||467||64||147||26||6||7||206||67||5||0||11||7||35||3||3||32||10||.315||.361||.441||.802
|-
|style="text-align:
|115||473||424||79||130||21||2||13||194||56||10||2||6||4||38||1||1||42||8||.307||.362||.458||.819
|-
|style="text-align:
|126||524||461||75||154||'''35'''||2||12||229||66||7||2||9||1||51||2||2||49||7||'''.334'''||.402||.497||.899
|-
|style="text-align:
|122||538||466||57||143||21||1||8||190||54||6||2||26||1||42||1||3||45||6||.307||.367||.408||.775
|-
|style="text-align:
|128||529||485||64||141||25||3||8||196||43||3||2||17||4||23||2||0||54||8||.291||.320||.404||.724
|-
|style="text-align:
|115||454||429||69||143||25||3||7||195||49||4||1||7||3||14||0||1||52||8||'''.333'''||.353||.455||.808
|-
|style="text-align:
|116||456||414||37||131||18||1||6||169||58||2||2||8||3||29||3||2||31||12||.316||.362||.408||.770
|-
|style="text-align:
|119||494||461||59||134||28||4||4||182||38||5||4||9||2||20||3||2||38||9||.291||.322||.395||.716
|-
|style="text-align:
|71||253||232||31||66||11||1||5||94||29||1||0||4||1||15||1||1||27||5||.284||.329||.405||.734
|-
|style="text-align:
|97||328||289||31||77||9||2||3||99||23||1||1||3||3||32||3||1||49||4||.266||.338||.343||.681
|-
|style="text-align:
|67||257||241||22||64||10||0||0||74||21||2||1||1||1||14||3||0||35||4||.266||.305||.307||.612
|-
|style="text-align:
|66||226||208||27||70||8||0||4||90||23||0||0||2||1||13||0||2||21||4||.337||.379||.433||.812
|-
|style="text-align:
|57||161||147||22||35||5||0||2||46||13||0||0||3||1||9||2||1||15||5||.238||.285||.313||.598
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=== タイトル ===
* [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]:2回
=== 表彰 ===
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:5回
* [[ゴールデングラブ賞]]:4回
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]敢闘賞:1回
* [[東京ドーム#東京ドームMVP賞|後楽園MVP賞]]:1回
=== 記録 ===
; 初記録
* 初出場・初先発出場:1977年8月5日、対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]17回戦([[川崎球場]])、7番・[[遊撃手]]
* 初安打:同上、5回表に[[齊藤明雄|斉藤明
* 初打点:1978年10月4日、対[[阪神タイガース]]25回戦([[後楽園球場]])、6回裏に[[池内豊 (野球)|池内豊]]から
* 初本塁打:1980年5月5日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(後楽園球場)、9回裏に[[堀内恒夫]]の代打で出場、[[遠藤一彦]]から右越ソロ
; 節目の記録
* 1000本安打:1987年4月29日、対[[中日ドラゴンズ]]5回戦([[ナゴヤ球場]])、3回表に[[川本智徳]]から適時打
* 1000試合出場:1987年7月4日、対阪神タイガース14回戦([[阪神甲子園球場]])、6番・[[二塁手
* 1500本安打:1991年7月10日、対[[広島東洋カープ]]16回戦([[札幌市円山球場]])、9回裏に[[長冨浩志]]から右前安打
* 1500試合出場:1992年8月20日、対横浜大洋ホエールズ21回戦([[横浜スタジアム]])、1番・二塁手
; その他の記録
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:9回
=== 背番号 ===
* '''37'''
* '''6'''
* '''81'''
=== 登録名 ===
* '''篠塚 利夫'''
* '''篠塚 和典'''
== 関連情報 ==
=== 著書 ===
* 熱球悲願 嵐をこえて(1981年、[[ベースボール・マガジン社|恒文社]])
* ミスターがくれた19年(1995年、ベースボール・マガジン社)
* プロが教えるバッティング入門(2002年、[[大泉書店]])
* 6歳からの広角打法(2007年、[[MCプレス]])
* 篠塚和典 流し打ちの極意(2013年、ベースボール・マガジン社)
* 篠塚和典が教える広角打法(2019年、[[辰巳出版|日東書院本社]])
=== シングル ===
* RAINY
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[千葉県出身の人物一覧]]
221 ⟶ 229行目:
== 外部リンク ==
{{NPB|81383844}}
* [http://
{{BASEBALLstats|brjpn=shinoz000kaz}}
* [https://sp.baseball.findfriends.jp/player/19570031/ 選手情報] - 週刊ベースボールONLINE
* {{Ameba ブログ|dream-jpn|篠塚和典オフィシャルブログ 篠塚流 真剣(心健) 野球塾}}
* {{NHK人物録}}
* [https://www.youtube.com/watch?v=AxNvn8cdHuE 「歴代の安打製造機」は?]
{{2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|コーチ}}
{{Navboxes|title=業績
|list1=
236 ⟶ 247行目:
{{読売ジャイアンツ1975年ドラフト指名選手}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しのつか かすのり}}
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:千葉県立銚子商業高等学校出身の野球選手]]
244 ⟶ 256行目:
[[Category:日本の野球指導者]]
[[Category:野球解説者]]
[[Category:千葉県出身の
[[Category:銚子市出身の人物]]
[[Category:東京都出身のスポーツ選手]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1957年生]]
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