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| 主君 =[[足利義持]]→[[足利義量|義量]]→[[足利義教|義教]]→[[足利義勝|義勝]]→[[足利義政|義政]]→[[足利義尚|義尚(義煕)]]→[[足利義視|義視]]
| 氏族 = [[山名氏]]
| 父母 = 父:[[山名時熙]]、母:[[山名氏清]]の娘{{Efn|『但馬村岡山名家譜』では[[山名師義]]の娘とされているが、応永30年([[1423年]])に行われた氏清の33回忌の主催者が時煕正室でかつ南禅寺栖真院(時煕開基)で開かれていること<ref>{{Citation|和書|author=伊藤大貴|chapter=明徳の乱と山名氏|title=室町期山名氏の研究|publisher=吉川弘文館|year=2025|isbn=978-4-642-02996-4|pages=51-52・63}}</ref>、[[康正]]2年([[1456年]])に宗全が但馬で母の十七回忌を行った際に招かれた僧侶が記した『蝉庵稿』では『安清開基無染大姉 山名金吾母 奥州女』と宗全と氏清の官位を記していることから氏清の娘とされる{{Sfn|川岡|2009|pp=175-176}}。}}
| 兄弟 = [[山名満時|満時]]、[[山名持熙|持熙]]、'''持豊(宗全)'''
| 妻 =
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応永11年(1404年)5月29日、現在の[[兵庫県]][[豊岡市]]に山名時熙の三男として生まれる。同20年([[1413年]])、10歳で[[元服]]、4代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義持]]の[[偏諱|名の一字]]を賜り、'''持豊'''{{Efn|「豊」の字の由来は不明だが、持豊の子孫にはこの字を用いる者が多数見られ、山名氏の[[通字]]の1つと化している。}}を名乗る。
応永28年([[1421年]])12月、持豊は[[初陣]]として父の従弟に当たる[[因幡国|因幡]]守護[[山名熙高]]
応永27年([[1420年]])、長兄[[山名満時|満時]]が死去し、後継問題が浮上した。応永35年([[1428年]])に山名時熙が重病になり持豊を後継にしようとするが、6代将軍・[[足利義教]]が自分の側近であった次兄[[山名持熙|持熙]]を後継に立てるように命じた<ref>『満済准后日記』応永35年4月23日条</ref>。間もなく、時熙の病状が回復したために一度は先送りになったが、将軍の意向が示されたことで山名氏は動揺した。
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[[嘉吉]]元年([[1441年]])[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]、持豊は[[足利義教]]と共に播磨・[[備前国|備前]]・[[美作国|美作]]守護[[赤松満祐]]の屋敷を訪問したが、満祐が義教を殺害すると抵抗せずに脱出した{{Efn|『斎藤基恒日記』では「手負人数」として宗全の名があるが、他の記録には見えないため軽傷だったと推測される{{Sfn|川岡|2009|pp=44-45}}。}}。
持豊は領国の播磨で挙兵した満祐を討つため、[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]に侍所頭人を解かれた後は同族の[[山名教清]](石見守護)・[[山名教之]](伯耆守護)や嫡男の[[山名教豊|教豊]]と共に討伐軍を率いて但馬から播磨へ侵攻。満祐の[[城山城 (播磨国)|城山城]]を陥落させて鎮圧に貢献し、[[赤松氏]]の領国を加えて播磨を獲得、5ヶ国の守護となり(教清は石見・美作、教之は[[伯耆国|伯耆]]・備前を領有)、山名熙高の因幡も合わせて10ヶ国の守護職を回復して権勢を得た([[嘉吉の乱]]){{Sfn|小川|1994|pp=47-53}}{{Sfn|石田|2008|pp=59-62}}{{Sfn|川岡|2009|pp=45-47}}。だが、一方で赤松満祐を討つ前から持豊は勝手に自らの守護代らを播磨に送り込み、同国内の所領を横領するなど、幕命を無視する行動を続けており、公家の万里小路時房は持豊が守護に任じられれば「一国滅亡」<ref>『建内記』嘉吉元年閏9月9日条</ref>になると嘆いている{{Sfn|市川|2017|p=203}}。
嘉吉2年([[1442年]])、持豊は出家して宗峯と号し、[[長禄]]年間に'''宗全'''と改めた{{Efn|『但馬村岡山名家譜』では宝徳2年([[1450年]])となっているが、嘉吉2年の小早川家の文書で出家したことが書かれている{{Sfn|川岡|2009|pp=49-50}}。}}。
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寛正元年([[1460年]])、教豊と対立して、教豊が播磨へ逃れる事件が発生、程なく和解している。
[[寛正]]3年([[1462年]])、次男の[[山名是豊|是豊]]が備後・安芸守護に任命され、寛正5年([[1464年]])に山城守護も兼ねたが、勝元の引き立てがあったとされる{{Efn|ただし、備後・安芸を与えられたのは惣領家(宗全ー教豊)で是豊はその守護代に過ぎなかった(別の見方をすれば、史料で確認できる是豊の山城守護任命は勝元による抜擢人事である)とする説もある<ref>{{Cite journal|和書|author
一方で、嫡男・教豊をはじめとした一門や被官達が宗全の行動を支持していたかは別であるという指摘もある。文正元年([[1466年]])8月に斯波義敏の復権に抗議した宗全が斯波義廉と共に切腹すると言い出したとき、被官達が「(将軍の)御敵になる」と述べて宗全に諫言したという話が広まったこと<ref>『経覚私要鈔』文正元年8月26日条。後述のように『応仁記』にも類似の逸話あり。</ref>、10月に勝元主導で行われた畠山義就討伐計画に参加することになった諸将の中に畠山政長や京極持清と共に教豊の名前が含まれているためである<ref>『大乗院寺社雑事記』文正元年10月5日条</ref>。このため、勝元との対立は惣領である宗全による暴走で一門・被官達の多くは勝元との関係維持を望んでいたのではないかとする推測がある。ところが、赤松政則が嘉吉の乱で山名氏に奪われた旧領国(播磨・美作・備前)を奪還するために勝元接近し、後述のように実際に政則が播磨に攻め込むと、一門・被官達も自らの所領を防衛するために勝元と決別して宗全と共に西軍に付くことになったものの、備後を拠点としていたために旧赤松氏領国に所領がほとんど無かったと思われる是豊だけはこの動きを肯んじえず、結果的に一族から離反する形となったとしている(従って、是豊が宗全と対立したのは結果論であり、父子不仲だったというのは後世の創作と言うことになる){{Sfn|伊藤|2025|pp=101-108}}。
=== 応仁の乱と最期 ===
[[寛正]]6年([[1465年]])、男子を出産した足利義政正室の[[日野富子]]は、実子の[[足利義尚]]の将軍職を望み宗全に接近する。[[文正]]元年([[1466年]]
[[応仁]]元年([[1467年]])には畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉となる。さらに[[御霊合戦]]では義就に加勢し、政長を駆逐させる。勝元も巻き返しを図り、5月には宗全と対立する[[赤松政則]]が播磨へ侵攻したのをはじめ是豊も備後へ侵攻、双方で散発的な衝突が起こり、[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]の[[上京の戦い]]をきっかけに[[応仁の乱]]が始まった{{Sfn|小川|1994|pp=148-170}}{{Sfn|石田|2008|pp=191-210}}{{Sfn|川岡|2009|pp=124-128}}。
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文明3年([[1471年]])、[[小倉宮]]の血を引く[[西陣南帝]]を擁立したが、程なく放逐された{{Sfn|小川|1994|pp=171-176,197-201}}{{Sfn|石田|2008|pp=210-221,238-241,244-246,251-253}}{{Sfn|川岡|2009|pp=128-142}}。
応仁
文明4年([[1472年]])、和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗、5月には宗全は自害を試みている{{Efn|ただし自害を試みたというのは噂として流れたとされている(『大乗院寺社雑事記』文明4年5月14日条){{Sfn|小川|1994|pp=213-214}}{{Sfn|石田|2008|pp=261-263}}{{Sfn|川岡|2009|p=143}}。}}。▼
その頃、山名氏領国では、播磨に侵攻した赤松政則が文明2年(1470年)までに嘉吉の乱で赤松氏から山名氏に移った播磨・美作・備前の奪還に成功し、山名氏の一族・家臣の多くが所領を喪い、家中に不穏の動きが出始める。文明3年(1471年)9月には東軍の京極氏の支配下にあった出雲への遠征途中であった伯耆守護[[山名豊之]](教之の嫡男)が謀反によって殺され、それを知った尼子清定らの京極軍によって遠征軍は壊滅させられる。この前後に因幡守護[[山名豊氏]](教之の次男・豊之の実弟)が戦死を遂げたとする記録があり、この遠征関係の戦死であった可能性がある。いずれにしても、伯耆と因幡の守護が相次いで亡くなったのは事実で、両国の重臣や被官の中にはこれを機に東軍への内通者が出始める{{Sfn|伊藤|2025|pp=192-199}}。この事態を知った兄弟の父である山名教之も翌文明4年(1572年)6月に急遽領国である伯耆に撤退することになる{{Sfn|伊藤|2025|pp=202}}。更に石見・美作守護[[山名政清]]の伯父である守護代山名清宗(掃部頭)・義宗父子が美作国を守っていたが、赤松政則に敗れて石見国に敗走後に東軍へ離反、更に[[大内氏]]の内紛において東軍について反乱を起こした[[大内道頓]]の軍も石見に侵攻した結果、被官や国人の多くが東軍に寝返る事態となった<ref>{{Cite journal|和書|author=伊藤大貴|authorlink=伊藤大貴|title=石見守護山名氏の権力構造とその変遷|journal=古代文化研究|issue=27|year=2019}}/所収:{{Cite book|和書|author=伊藤大貴|title=室町期山名氏の研究|publisher=吉川弘文館|year=2025|isbn=978-4-642-02996-4|pages=164-166}}</ref><ref> {{Cite journal|和書|author=伊藤大貴|authorlink=伊藤大貴|title=応仁・文明の乱後における石見山名氏の動向|journal=地方史研究|volume=68|issue=5|year=2018}}/改題所収:{{Citation|和書|author=伊藤大貴|chapter=応仁・文明の乱後における石見守護山名氏の動向|title=室町期山名氏の研究|publisher=吉川弘文館|year=2025|isbn=978-4-642-02996-4|pages=273-276}}</ref>。
▲文明4年([[1472年]])、和平交渉も行われたが、宗全は赤松軍の撤退と守護職回復を求めたが赤松政則の抵抗などで失敗、5月には宗全は自害を試みている{{Efn|ただし自害を試みたというのは噂として流れたとされている(『大乗院寺社雑事記』文明4年5月14日条){{Sfn|小川|1994|pp=213-214}}{{Sfn|石田|2008|pp=261-263}}{{Sfn|川岡|2009|p=
▲応仁の乱の頃の宗全は60を越える老齢のためか、若い頃の剛毅な性格はあまり見られなくなった。文明2年([[1470年]])6月には宗全が東軍に降参する、あるいは副将格の大内政弘が赦免を望んでいるという奇妙な噂も流れ<ref>『大乗院寺社雑事記』文明2年6月13日条</ref>、西軍の結束力に乱れが起こった。西軍が擁立した[[足利義視]]と畠山義就の不和も生じ、8月には山名一族の山名教之が東軍に転じたという噂も流れたという<ref>『大乗院寺社雑事記』文明2年8月12日条</ref>。
このような事態のためか、文明4年(1472年)8月に宗全は家督を[[山名政豊|政豊]]に譲っている{{Sfn|小川|1994|pp=214-215}}{{Sfn|川岡|2009|p=144}}。これは嫡子の教豊は応仁元年に死去していたためである。
切腹騒動に続く家督移譲は、赤松氏に続いて京極氏に敗れ、更に細川氏との和平交渉にも失敗したことで、山名氏の家中から惣領としての宗全の責任が問われ始めていたとする見方もある{{Sfn|伊藤|2025|pp=202-203}}。
文明5年(1473年)1月、一族の最重鎮だった教之が死去、後を追うように2ヵ月後の3月18日に宗全も病死した。[[享年]]70。先年に切腹未遂を起こした時の傷が悪化したのが原因ともいわれているが、詳細は不明{{Efn|『東寺執行日記』には「死去は18日なり。16日に大事にて、18日治定か」とある{{Sfn|川岡|2009|pp=144-145}}。}}。
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。義政から討伐命令を出されたことなどもあるが、宗全は反省の色を見せずにかえって義政を罵って隠居命令まで出されている。また息子の教豊とも衝突、長禄4年には1年間に2度も対立して教豊が播磨に下向しているほどである(『長禄四年記』){{Sfn|川岡|2009|p=190}}。
心優しい一面もあり、病気の家臣を労わったり、死去した家臣を悼んだりしている。[[文安]]元年([[1444年]])2月17日から23日にかけて宗全は太秦薬師に参籠して家臣の田公入道の病気平癒をした(『康富記』同年2月23日条){{Sfn|川岡|2009|p=190}}。[[寛正]]元年([[1460年]])には父の命日に僧侶を集めて冥福を祈らせていた家臣が死去したことを感じ入ってその家臣を悼んで読経の法会を開いている(『碧山日録』同年7月4日条){{Sfn|川岡|2009|pp=190-191}}。また家臣の[[八木遠秀]]が文明元年([[1469年]])に死去したとき、弥陀の6字をしたためている(『禿尾長柄箒』){{Sfn|川岡|2009|p=191}}。また『応仁記』の信憑性はどうあれ、将軍の足利義政との対立を決意して分国の兵力を動員したとき、垣屋・太田垣ら13人の家臣が上意に背くことの非を説いて諫め、それでも戦うなら我らは出家して高野山に上ると言い出した。それに対して宗全は娘婿の斯波義廉と共に切腹するが、お前たちは留まれと述べた。宗全は家臣を道連れにすることを恐れて言ったのだが、この発言で逆に家臣らは宗全と行動を共にすることを決意したという{{Sfn|小川|1994|pp=146-147}}{{Sfn|川岡|2009|p=191}}。ただし、伊藤大貴は前述のように、これは宗全の余りの独断に家中の多くの人々がついて行けなかった(最終的に赤松氏の播磨侵攻によって解消される)経緯の反映とみる{{Sfn|伊藤|2025|pp=101-108}}。
赤入道{{Efn|赤入道の記録は『応仁記』に見える。}}の渾名は当時から広まっていたようで、[[一休宗純]]は顔が赤いことと好戦的な性格から[[毘沙門天]]の生まれ変わりと書いている{{Efn|『狂雲集』に「山名金吾は鞍馬の毘沙門の化身。鞍馬の多門は赤面顔、利生物に接し人間に現ず、方便門を開けば真実の相あり、業は修羅に属し名は山に属す」とある{{Sfn|小川|1994|pp=72-73}}{{Sfn|川岡|2009|p=187}}。}}。ただし実際の宗全の肖像がどのようなものかは伝わっておらず、不明である。なお、宗全自身も毘沙門天に特別の想いがあったのか、[[兵庫県]][[朝来市]]の鷲原寺に宗全が寄進した毘沙門天像がある。
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室町時代末期に書かれた『{{ws|[[:s:塵塚物語|塵塚物語]]}}』では、応仁の乱の最中に訪問した公家が先例を引き合いに出して諫めた所、「これからは例という字を時に置き換えたらどうか」「先例というが、あなたが没落して私と対面している今こそ時を重視すべきではないか」と言ったとするエピソードが書かれ、時勢を重視する宗全を表す逸話として引用されている。この話が史実かどうかは不明だが、宗全が形式より実力を重要視したのは事実で、荘園を横領するなどの行為など後の[[戦国大名]]の実力本位の行動が宗全には多々見える{{Sfn|小川|1994|pp=75-77}}{{Sfn|川岡|2009|pp=5,189}}。
かつて応仁の乱の原因は勝元との対立が主流だったが、対立は寛正6年からであり、それまでは協調して幕政の勢力争いに対処していったことと、文明4年の和睦交渉まで数えると対立時期が7年しかなかったこと、宗全と勝元が死去した後の文明6年にそれぞれの後継者が和睦したことから近年は異説もある{{Efn|寛正6年に勝元の命令で大内教弘・政弘父子が[[伊予国|伊予]]守護[[河野教通]]と合流して[[河野通春]]を討つ手筈だったが、教弘父子は逆に通春と手を組んで勝元と対立した。同時期に斯波義廉が畠山義就・宗全と連携しており、大内氏の離反も宗全と図ったとされ、細川派と山名派の対立はこの年から始まったとされる。また、文明4年の和睦交渉の理由について、義廉の地位保全が幕政における山名氏の存続にかかっていたが、その鍵となる[[関東地方|関東]]政策で現地の幕府方が単独で反幕府方の[[古河公方]][[足利成氏]]を打ち破って優位に立ったため、幕府優位で成氏との和睦、征伐を望んでいた義廉の存在が無意味となり、勝元との和睦に動いたと推定される{{Sfn|石田|2008|pp=182-196,225-256,262-264}}。これに対して、文明2年に赤松政則が播磨・備前・美作を奪還したことで宗全の政治的求心力が失われ、因幡・伯耆では守護が死亡して実権を握った重臣達が東軍に内通するなど、山名領国が大混乱になってこれ以上の戦いの継続が困難となっていたからだという指摘もある{{Sfn|伊藤|2025|pp=200-202}}。}}。
寺社の保護に熱心な一面もあり、本領の但馬をはじめ京の寺社も庇護している。
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* {{Citation|和書|last=川岡|first=勉|authorlink=川岡勉|title=山名宗全[https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b35038.html]|series=[[人物叢書]]|publisher=吉川弘文館|year=2009|isbn= 9784642052528}}
* {{Citation|和書|last=市川|first=裕士|authorlink=市川裕士|title=室町時代の地方支配と地域権力|publisher=戎光祥出版|year=2017}}
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** 第一部第三章所収:{{Cite journal|和書|author=伊藤大貴|title=山名教豊・是豊の政治的地位|journal=年報中世史研究|issue=45|year=2020}}
** 第三部第一章所収:{{Cite journal|和書|author=伊藤大貴|title=応仁・文明の乱と山名氏|journal=日本史研究|issue=660|year=2017}}
== 関連項目 ==
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