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| 主君 =[[足利義持]]→[[足利義量|義量]]→[[足利義教|義教]]→[[足利義勝|義勝]]→[[足利義政|義政]]→[[足利義尚|義尚(義煕)]]→[[足利義視|義視]]
| 氏族 = [[山名氏]]
| 父母 = 父:[[山名時熙]]、母:[[山名氏清]]の娘{{Efn|『但馬村岡山名家譜』では[[山名師義]]の娘とされているが、応永30年([[1423年]])に行われた氏清の33回忌の主催者が時煕正室でかつ南禅寺栖真院(時煕開基)で開かれていること<ref>{{Citation|和書|author=伊藤大貴|chapter=明徳の乱と山名氏|title=室町期山名氏の研究|publisher=吉川弘文館|year=2025|isbn=978-4-642-02996-4|pages=51-52・63}}</ref>、[[康正]]2年([[1456年]])に宗全が但馬で母の十七回忌を行った際に招かれた僧侶が記した『蝉庵稿』では『安清開基無染大姉 山名金吾母 奥州女』と宗全と氏清の官位を記していることから氏清の娘とされる{{Sfn|川岡|2009|pp=175-176}}。}}
| 兄弟 = [[山名満時|満時]]、[[山名持熙|持熙]]、'''持豊(宗全)'''
| 妻 =
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[[嘉吉]]元年([[1441年]])[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]、持豊は[[足利義教]]と共に播磨・[[備前国|備前]]・[[美作国|美作]]守護[[赤松満祐]]の屋敷を訪問したが、満祐が義教を殺害すると抵抗せずに脱出した{{Efn|『斎藤基恒日記』では「手負人数」として宗全の名があるが、他の記録には見えないため軽傷だったと推測される{{Sfn|川岡|2009|pp=44-45}}。}}。
 
持豊は領国の播磨で挙兵した満祐を討つため、[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]に侍所頭人を解かれた後は同族の[[山名教清]](石見守護)・[[山名教之]](伯耆守護)や嫡男の[[山名教豊|教豊]]と共に討伐軍を率いて但馬から播磨へ侵攻。満祐の[[城山城 (播磨国)|城山城]]を陥落させて鎮圧に貢献し、[[赤松氏]]の領国を加えて播磨を獲得、5ヶ国の守護となり(教清は石見・美作、教之は[[伯耆国|伯耆]]・備前を領有)、山名熙高の因幡も合わせて10ヶ国の守護職を回復して権勢を得た([[嘉吉の乱]]){{Sfn|小川|1994|pp=47-53}}{{Sfn|石田|2008|pp=59-62}}{{Sfn|川岡|2009|pp=45-47}}。だが、一方で赤松満祐を討つ前から持豊は勝手に自らの守護代らを播磨に送り込み、同国内の所領を横領するなど、幕命を無視する行動を続けており、公家の万里小路時房は持豊が守護に任じられれば「一国滅亡」<ref>『建内記』嘉吉元年閏9月9日条</ref>になると嘆いている{{Sfn|市川|2017|p=203}}。
 
嘉吉2年([[1442年]])、持豊は出家して宗峯と号し、[[長禄]]年間に'''宗全'''と改めた{{Efn|『但馬村岡山名家譜』では宝徳2年([[1450年]])となっているが、嘉吉2年の小早川家の文書で出家したことが書かれている{{Sfn|川岡|2009|pp=49-50}}。}}。
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応仁3年([[1469年]])、東軍が西軍本陣に斬り込んできたときには、66歳の老齢ながら具足をつけ刀をとって庭に出て、敵兵を追い払ったという記録がある(『応仁別記』){{Sfn|小川|1994|p=214}}{{Sfn|川岡|2009|p=144}}。しかし、年齢による衰えは隠しようもなく、若い頃の剛毅な性格はあまり見られなくなった。文明2年([[1470年]])重度の[[中風]]に冒されて自筆もできずに花押印を使用していた。またこの頃は宗全が和平を望んでいるという噂が頻繁に流れた始め、6月には宗全が東軍に降参する、あるいは副将格の大内政弘が赦免を望んでいるという奇妙な噂も流れ<ref>『大乗院寺社雑事記』文明2年6月13日条</ref>、西軍の結束力に乱れが起こった。西軍が擁立した[[足利義視]]と畠山義就の不和も生じ、8月には山名一族の[[山名教之]]が東軍に転じたという噂も流れたという<ref>『大乗院寺社雑事記』文明2年8月12日条</ref>。
 
その頃、山名氏領国では、播磨に侵攻した赤松政則が文明2年(1470年)までに嘉吉の乱で赤松氏から山名氏に移った播磨・美作・備前の奪還に成功し、山名氏の一族・家臣の多くが所領を喪い、家中に不穏の動きが出始める。文明3年(1471年)9月には東軍の京極氏の支配下にあった出雲への遠征途中であった伯耆守護[[山名豊之]](教之の嫡男)が謀反によって殺され、それを知った尼子清定らの京極軍によって遠征軍は壊滅させられる。この前後に因幡守護[[山名豊氏]](教之の次男・豊之の実弟)が戦死を遂げたとする記録があり、この遠征関係の戦死であった可能性がある。いずれにしても、伯耆と因幡の守護が相次いで亡くなったのは事実で、両国の重臣や被官の中にはこれを機に東軍への内通者が出始める{{Sfn|伊藤|2025|pp=192-199}}。この事態を知った兄弟の父である山名教之も翌文明4年(1572年)6月に急遽領国である伯耆に撤退することになる{{Sfn|伊藤|2025|pp=202}}。更に石見・美作守護[[山名政清]]の父である守護代山名(掃部頭)・宗父子が美作国を守っていたが、赤松政則に敗れて石見国に敗走後に東軍へ離反、更に[[大内氏]]の内紛において東軍について反乱を起こした[[大内道頓]]の軍も石見に侵攻した結果、被官や国人の多くが東軍に寝返る事態となった<ref>{{Cite journal|和書|author=伊藤大貴|authorlink=伊藤大貴|title=石見守護山名氏の権力構造とその変遷|journal=古代文化研究|issue=27|year=2019}}/所収:{{Cite book|和書|author=伊藤大貴|title=室町期山名氏の研究|publisher=吉川弘文館|year=2025|isbn=978-4-642-02996-4|pages=164-166}}</ref><ref> {{Cite journal|和書|author=伊藤大貴|authorlink=伊藤大貴|title=応仁・文明の乱後における石見山名氏の動向|journal=地方史研究|volume=68|issue=5|year=2018}}/改題所収:{{Citation|和書|author=伊藤大貴|chapter=応仁・文明の乱後における石見守護山名氏の動向|title=室町期山名氏の研究|publisher=吉川弘文館|year=2025|isbn=978-4-642-02996-4|pages=273-276}}</ref>。
 
文明4年([[1472年]])、和平交渉も行われたが、宗全は赤松軍の撤退と守護職回復を求めたが赤松政則の抵抗などで失敗、5月には宗全は自害を試みている{{Efn|ただし自害を試みたというのは噂として流れたとされている(『大乗院寺社雑事記』文明4年5月14日条){{Sfn|小川|1994|pp=213-214}}{{Sfn|石田|2008|pp=261-263}}{{Sfn|川岡|2009|p=202}}。}}。