「大姫 (源頼朝の娘)」の版間の差分

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| 画像説明 = 武者鑑一名人相合南伝二 大姫君([[歌川芳虎|一猛斎芳虎]]画、[[国立国会図書館]]蔵)
| 時代 = ([[鎌倉時代]])
| 生誕 =[[治承]]2年([[1178年]])?
| 死没 =[[建久]]8年[[7月14日]]([[1197年]][[8月28日]])
| 別名 = 一幡?
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| 婿 = [[源義高 (清水冠者)|義高]]
}}
'''大姫'''(おおひめ、[[治承]]2年([[1178年]]){{Efn|[[保立道久]]は真名本『曾我物語』に記載された安元2年(1176年)3月条の件について、通説の「(同月に)頼朝は政子の許に通い始めて姫君(大姫)が生まれた」とする解釈を批判して、「頼朝は政子の許に通い始めて(同月に)姫君(大姫)が生まれた」と解釈すべきとする説を唱え、大姫は安元2年の生まれで源義高が殺害された時には9歳であったとする説を唱えている<ref>[[保立道久]]「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 、308-309頁。ISBN 978-4-7517-4640-0</ref>。}} - [[建久]]8年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1197年]][[8月28日]]))は、[[平安時代]]末期、[[鎌倉時代]]初期の女性。[[鎌倉幕府]]を開いた[[源頼朝]]の長女で母は[[北条政子]]。大姫というのは長女を意味する通称であり、本名は'''一幡'''とする説があるが不明。
 
6歳の時に頼朝と対立した[[源義仲|木曽義仲]]との和睦のため、義仲の嫡男・[[源義高 (清水冠者)|義高]]と婚約するが、義仲の敗北に伴い義高が処刑されたことに衝撃を受け心を病む。のちの縁談も拒み通し、[[後鳥羽天皇]]への入内の話も持ち上がったが実現する事無く20歳で早世した。
 
== 生涯 ==
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=== 義高との婚姻 ===
[[寿永]]2年([[1183年]])春、頼朝と対立していた[[源義仲|木曽義仲]]は、[[長男]]で当時11歳の[[源義高 (清水冠者)|源義高]]を人質として[[鎌倉]]に送り、当時6歳の大姫の婿とする事で頼朝と和議を結んだ(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。しかし頼朝と義仲の関係は破局し、翌年の[[寿永]]3年([[1184年]])正月、義仲は頼朝の送った軍によって都の郊外で敗死する。
 
同年(改元して[[元暦]]元年)[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]([[6月1日]])、頼朝は将来の禍根を断つべく義高の殺害を決める。それを漏れ聞いた侍女たちから知らせを受けた大姫は、明け方に義高を女房姿にさせ、侍女たちが取り囲んで邸内から出し、ひづめに綿を巻いた馬を用意して鎌倉を脱出させる。義高と同年の側近であった[[海野幸氏]]を身代わりとして、義高の寝床から髻を出し、義高が好んで幸氏といつも双六勝負していた場所で双六を打ち、その間殿中の人々はいつも通り義高が座っているように思っていたが、夜になって事が露見する。
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=== 入内問題 ===
源義高が殺害された直後の元暦元年(1184年)8月、後白河法皇は台頭する頼朝との関係を強化すべく、摂政・[[近衛基通]]に頼朝の娘を嫁がせる意向を示した<ref>『[[玉葉]]』同年8月23日条</ref>。近衛家には頼朝の乳母である[[比企尼]]の外孫である[[惟宗忠久]]([[島津氏]]の祖)が仕えており、法皇や基通が惟宗忠久を介して頼朝周辺に働きかけた可能性がある。しかし、基通に代えて叔父の[[九条兼実]]を摂政として推す意向に傾いていた頼朝は最終的には拒絶している<ref>保立道久「義経・頼朝問題と国土高権」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 、385-388頁。ISBN 978-4-7517-4640-0</ref>。
 
『玉葉』によると、[[建久]]2年([[1191年]])、頼朝が娘を[[後鳥羽天皇]]に入内させようとしているという噂が兼実の耳にも入っている。だが、翌建久3年([[1192年]])の後白河法皇の死とそれに伴う兼実の政権獲得が原因か、1度は沙汰止みになっている。
 
建久5年([[1194年]])8月、頼朝の甥で[[貴族]]である[[一条高能]]が鎌倉へ下ってくる。17歳になった大姫の病状が一時小康状態となった際、政子は高能との縁談を勧める。大姫は「そんな事をするくらいなら深淵に身を投げる」と一言のもとに拒絶。政子はそれ以上話を進める事をあきらめる<ref>『吾妻鏡』建久5年8月18日条</ref>
 
頼朝はその年の10月から[[上洛]]の準備を始め、翌建久6年([[1195年]])2月、政子と大姫・[[源頼家|頼家]]らの子女を伴って[[平安京|京]]へ上る。表向きの目的は[[東大寺]]の落慶供養であったが、都では大姫を後鳥羽天皇への妃にするべく入内工作を行っていた。頼朝は宮廷の実力者である[[源通親|土御門通親]]と[[高階栄子|丹後局]]にさかんに接触を図る。[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]([[5月10日]])には丹後局を招いて政子と大姫と対面させ、銀製の[[蒔絵]]の箱に[[砂金]]300両を納め、白綾30反など多くの派手な贈り物をし、その従者たちにまで[[引き出物]]を送った。
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大姫入内運動は、頼朝が通親・丹後局に利用され、結果的に朝廷の反幕府派の台頭を招く重大な結果をもたらしたとされることが多い。頼朝は大姫の死後、次女・[[三幡]]の入内工作を進めて[[女御]]とするも、自身と三幡の相次ぐ病死で頓挫する。これらは、それまで常に冷徹な政治家であった頼朝の最大の失策とされ、それは父親としての思いからとも、娘を天皇の[[皇后|后]]に立て自らが[[外戚]]になるという、中央貴族の末裔としての意識を捨てきれなかった限界とも評されている。
 
その一方で、政権基盤の脆弱な通親が頼朝と敵対したらひとたまりもなく、通親は実際には頼朝や頼家に最大限の配慮をしており、反幕的公卿の指摘は当たらないとの指摘がある<ref>[[{{Cite book|和書|author=川合康]]『|authorlink=川合康|title=源頼朝 <small>すでに朝の大将軍たるなり</small>』(|publisher=ミネルヴァ書房|series=ミネルヴァ日本評伝選」、|year=2021年)}}</ref>。御家人統制に王朝権威を利用し始めた頼朝にとって朝廷統制は不可欠であって、その最も直截的な方策こそ娘の入内と外孫の即位であり、入内の頓挫は娘たち及び頼朝自身の相次ぐ病死という想定外の事態によるものに過ぎない。3度目の上洛が実現していたら頼朝は三幡を後鳥羽の後宮に送り込むことに成功していただろうとする見解もある<ref>[[{{Cite book|和書|author=元木泰雄]]『|authorlink=元木泰雄|title=源頼朝 <small>武家政治の創始者</small>』(|series=中公新書|year=2019年)}}</ref>。
 
[[常楽寺 (鎌倉市)|常楽寺]]に大姫の墓と伝えられる塚が残るほか、大姫の[[十三仏|守り本尊]]([[念持仏]]とも)であったとの伝説のある[[地蔵菩薩|地蔵]]を祭った地蔵堂([[岩船地蔵堂 (鎌倉市)|岩船地蔵堂]])が[[扇谷]]に残る。
 
== ギャラリー ==
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== 関連作品 ==
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
 
;小説
* 夢鏡(ゆめのすがたみ)-義高と大姫のものがたり([[倉本由布]]、1991年)
* 鎌倉盛衰記1 海に眠る-義高と大姫(倉本由布、1992年)
* 約束-大姫・夢がたり(倉本由布、1996年)
*[[ 女人入眼]] ([[永井紗耶子]]、2022年)
 
;テレビドラマ
* [[北条政子 (テレビドラマ)|北条政子]](1970年、NET) - 演:[[竹中邦恵]]→[[榊原るみ]]
*[[草燃える]](1979年、NHK大河ドラマ) - 演:[[西尾まり|西尾麻理]]→[[斎藤こず恵]]→[[池上季実子]]
*[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]](2005年、NHK大河ドラマ) - 演:[[野口真緒]]
*[[鎌倉殿の13人]](2022年、NHK大河ドラマ) - 演:[[難波ありさ]]→[[落井実結子]]→[[南沙良]]
 
;漫画
* 時をかけた少女たち「1183年のお婿さま-鎌倉に咲いた純愛-」([[かやまゆみ]]、1995年、短編)
*[[ますらお 秘本義経記]] 大姫哀想歌([[北崎拓]]、2014年、全1巻) - 『ますらお 秘本義経記』本来の主人公は源義経であるが、本作は主人公兼語り手を大姫とする外伝的作品。
* あの日見た桜([[藤野もやむ]]、2000年、短編)
;小説
* ひとさきの花(藤野もやむ、2007年、短編)
*[[女人入眼]] ([[永井紗耶子]]、2022年)
* [[ますらお 秘本義経記]] 大姫哀想歌([[北崎拓]]、2014年、全1巻) - 『ますらお 秘本義経記』本来の主人公は源義経であるが、本作は主人公兼語り手を大姫とする外伝的作品。
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=石井進|authorlink=石井進 (歴史学者)|title=日本の歴史7:鎌倉幕府|series=中公文庫|publisher=中央公論新社|year=1974|isbn=4-12-204455-3|ref=harv}}
 
{{DEFAULTSORT:おおひめ みなもとのよりとも}}
[[Category:鎌倉時代の女性]]
[[Category:源頼朝の子女]]
[[Category:北条政子|-1178おおひめ]]
[[Category:源氏将軍家]]
[[Category:伊豆国の人物]]
[[Category:12世紀日本の女性]]
[[Category:1178年生]]
[[Category:1197年没]]