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{{画像提供依頼|本人|date=2024年1月|cat=野球選手}}
{{Infobox baseball player
| 選手名 = 湯口 敏彦
| 選手写真ファイル名 = <!--画像ファイル名-->▼
▲| 選手写真ファイル名 =
| 写真サイズ =
| 写真のコメント =
| 国籍 = {{JPN}}
| 出身地 = [[岐阜県]][[郡上郡]][[白鳥町 (岐阜県)|白鳥町]]<br />(現
| 生年月日 =
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1952|6|3|1973|3|22}}
| 身長 = 180
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| プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1970}}
| ドラフト順位 = ドラフト1位
| 経歴 =
* [[岐阜第一高等学校|岐阜短期大学付属高等学校]]
* [[読売ジャイアンツ]] (1971 - 1972)
}}
'''湯口 敏彦'''(ゆぐち としひこ、[[1952年]]〈[[昭和]]27年〉[[6月3日]] - [[1973年]]〈昭和48年〉[[3月22日]])は、
== 来歴・人物 ==
岐阜短期大学付属高等学校(現在の[[岐阜第一高等学校]])では[[エース (野球)|エース]]として活躍。{{by|1969年}}春季岐阜大会決勝で[[岐阜県立多治見工業高等学校|多治見工]]から[[完全試合]]を記録し、一躍注目を浴びる。翌{{by|1970年}}の甲子園に春夏連続出場。[[第42回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]は1回戦で[[沖縄県立真和志高等学校|真和志高]]に完封勝ち。2回戦では[[天理高等学校|天理高]]との乱打戦を制し、準々決勝に進むが[[神垣雅行]]、[[才田修]]を打線の中軸とする[[関西大学北陽中学校・高等学校|北陽高]]に3-4で惜敗した<ref>「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年</ref>。チーム初出場の[[第52回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]は1回戦で[[青森県立五所川原農林高等学校|五所川原農林高]]を完封。2回戦は優勝候補であった[[和歌山県立箕島高等学校|箕島高]]の[[島本講平]]に投げ勝つ。準々決勝は[[東邦高等学校|東邦高]]の[[水谷啓昭]]と投手戦を展開するが2-0で完封勝ち。準決勝に進むが[[東海大学付属相模高等学校・中等部|東海大相模高]]に9回裏サヨナラ負けを喫する<ref>「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年</ref>。高校同期に[[右翼手]]、控え投手の高橋幸広(のち[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]])がいた。
甲子園では通算7試合に[[登板]]して5勝2敗、61[[三振#奪三振|奪三振]]、[[防御率]]1.35を記録した。また高校時代に[[ノーヒットノーラン]]を3回達成(前述の完全試合を含む)。同学年で活躍した島本講平(のち[[福岡ソフトバンクホークス|南海]])、[[広陵高等学校 (広島県)|広陵高]]の[[佐伯和司]](のち[[広島東洋カープ|広島]])と合わせて「高校生三羽ガラス」と呼ばれた。高校通算28勝4敗を記録。
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{{see also|湯口事件}}
{{by|1972年}}[[11月22日]]、二軍首脳陣の公認のもとで寮生活の1年の締めくくりとしての慰労会が開かれ、湯口は寮生の同僚と朝方まで酒を飲んでいた<ref name="Business Journal20210330">{{Cite news|title=【巨人軍の闇・湯口事件1】高卒ドラ1のエース候補が急死…精神的変調と首脳陣の叱責|newspaper=Business Journal|date=2021-03-30|author=[[織田淳太郎]]|url=https://web.archive.org/web/20210718080338/https://biz-journal.jp/2021/03/post_216802_3.html|accessdate=2021-07-18|agency=[[サイゾー]]}}</ref>。翌23日[[後楽園球場]]で[[ファン感謝デー]]が開催され、その中で行われる[[紅白戦]]は当初一軍選手主体の予定で湯口の登板はなかったが、監督の[[川上哲治]]が若手主体で行うと予定を変えたため、湯口は[[二日酔い]]の状態で白組の2番手として[[マウンド]]に送り出された<ref name="Business Journal20210330" />。
湯口は前日に参加した無礼講の飲み会の影響のせいか(自分の登板予定が無かったため、大量の酒を痛飲していた)、打者一巡に2ホームランと打ち込まれ、川上哲治[[プロ野球監督|監督]]から「お前は2年間もムダメシを食っていたのか!」と叱責され<ref name="Business Journal20210401">{{Cite news|title=【巨人軍の闇・湯口事件2】精神病院のベッドで謎の突然死…隠蔽体質と勝利至上主義の弊害|newspaper=Business Journal|date=2021-04-01|author=[[織田淳太郎]]|url=https://web.archive.org/web/20210401095648/https://biz-journal.jp/2021/04/post_216803.html|accessdate=2021-07-18|agency=[[サイゾー]]}}</ref>、[[中尾碩志]]二軍監督から厳しい叱責を受けたと言われている<ref>[
11月27日(28日説もある<ref name="Business Journal20210401" />)に行われた納会では話しかけられても反応しない、視点が定まらないなど、変調を見せる。湯口より1学年下の[[外野手]]・[[庄司智久]]によれば、納会前の寮では「そろそろ納会に出発しましょう」と湯口の部屋の外で声をかけても返事がなく、ドアを開け部屋に入るとベッドに腰かけたままの湯口は目の焦点がずれ、庄司の方を見ようせず、声をかけても、「うん」と頷くだけだったという<ref name="Business Journal20210401" />。
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翌1973年初めに病状が改善したとして、同年2月中旬に[[宮崎県]][[都城市]]で行われた二軍[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]に合流(これは[[マスメディア|マスコミ]]を警戒した球団側の意向もあったといわれている)。
キャンプ初日に同部屋のチームメイト・[[淡口憲治]]
1973年3月22日、[[心不全]]のため急逝。{{没年齢|1952|6|3|1973|3|22}}。死因については、前日まで精神を病んでいた可能性があったとはいえ、身体そのものは元気だった湯口が急に死去したのは不自然であり、誰もが「自殺ではないのか?」と怪訝な目で見ていたという。しかし、[[検死]]の結果は突然死による自然死であり、事件性ならびに自殺の可能性はないと発表された。
[[織田淳太郎]]によれば、死亡当日に[[看護師]]が湯口の腕に[[イソミタール]]注射を施しており、[[牛込警察署]]が第一発見者の看護師や主治医などに事情聴取を行ったのも[[医療
== 詳細情報 ==
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[[Category:岐阜第一高等学校出身の人物]]
[[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]]
[[Category:岐阜県出身の
[[Category:郡上市出身の人物]]
[[Category:1952年生]]
[[Category:1973年没]]
[[Category:心臓病で死亡した人物]]
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