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{{by|1991年}}の[[1991年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|プロ野球ドラフト会議]]で[[広島東洋カープ]]から2位指名を受けて入団し<ref name="中日新聞19911207"/>、{{by|1992年}}から{{by|1997年}}までは広島で、{{by|1998年}}は[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]でそれぞれプレーしたが、一軍公式戦への出場を果たせないまま現役を[[引退]]した<ref name="読売新聞20040411"/>。
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=== プロ入り前 ===
熊野市[[大泊町 (
木本高校時代は[[日本の高校野球#全国大会|甲子園]]出場を果たすことはできなかったが<ref name="読売新聞20040411">『[[読売新聞]]』2004年4月11日中部朝刊第三社会面28頁「[あしたがある](138)バットから包丁転身スラッガー」([[読売新聞中部支社]] 村田幸次)</ref>、2年生の春からレギュラーに定着し、3年生までの2年間で通算114試合出場、319打数、120[[安打]]、[[打率]].376、39[[本塁打]]{{Efn2|高校通算40本塁打とする文献もある{{Sfn|ホームラン|1992|p=118}}<ref name="中国新聞19911123"/>。}}、109[[打点]]、四死球35、盗塁36を記録した<ref name="伊勢新聞19911123"/>。安打8本のうち1本が本塁打という割合で<ref name="週刊ベースボール19920907"/>、超高校級[[打者#用語|スラッガー]]として<ref>『中日新聞』1991年7月19日朝刊三重版「【三重県】高校野球三重大会 球児の夏あす火ぶた 67校の頂点はどこに 行方探る 満を持す3強豪・Cゾーン」(中日新聞社)</ref>、中央球界から注目されていた<ref name="中日スポーツ19911120"/>。また、飛距離130 [[メートル|m]]の大本塁打も放っている{{Sfn|ホームラン|1992|p=118}}。
1年生だった{{by|1989年}}[[全国高等学校野球選手権三重大会|夏の三重県大会]]ではベンチ入りを果たし、パンチ力抜群の大型新人として取り上げられていた<ref>『中日新聞』1989年7月4日朝刊三重総合版「【三重県】甲子園めざして 66チームの横顔(10)」(中日新聞社)</ref>。2年生だった{{by|1990年}}夏の三重県大会では[[打順#三番打者|3番打者]]を打った<ref>『中日新聞』1990年7月11日朝刊三重総合版15頁「【三重県】甲子園めざして 66チームの横顔(17) 木本 上位打線は俊足ぞろい」(中日新聞社)</ref>。同年秋には選手18人で[[秋季東海地区高等学校野球大会|三重県大会]]ベスト4入りを果たし<ref name="中日新聞20221209"/>、[[明治神宮野球大会|明治神宮大会]]に出場<ref name="中日スポーツ19911120"/>。同大会では
3年時の主将だった橋屋順二は<ref name="中日新聞19910714"/>、同期の徳本が高校時代に飛躍したことから「高校3年間で生徒たちは大きく成長する」という考えを持つようになり、2022年時点でも木本高校野球部の指導を行っている<ref name="中日新聞20221209">『[[中日新聞]]』2022年12月9日朝刊三重総合版17頁「みえ人模様 木本高野球部を支えるOB 橋屋順二さん 後輩に託す聖地の夢」(中日新聞社・森雅貴)</ref>。
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[[1991年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1991年度のプロ野球ドラフト会議]]前には身長188 [[センチメートル|cm]]、体重90 [[キログラム|kg]]{{Efn2|name="体重"}}、胸囲104 cm<ref name="伊勢新聞19911123"/>の大型内野手として、全国的に注目されていた<ref name="中日スポーツ19911120"/>。また当時ドラフト候補だった内野手で長距離打者の素質を持つ打者は少ないとされていたことから<ref name="中日スポーツ19911120"/>、[[東海地方|東海地区]]の高校生としては[[愛知工業大学名電中学校・高等学校|愛工大名電高校]]の鈴木一朗こと後の[[イチロー]]([[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]から4位指名)や井手元([[中日ドラゴンズ]]から5位指名)らを差し置いて最も注目されており<ref name="中日スポーツ19911120"/><ref name="中日スポーツ19911123">『中日スポーツ』1991年11月23日第5版4頁「徳本、広島2位 中部からは12選手 東邦・林が指名もれ」(中日新聞社 阿知波)</ref>、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]以外の[[日本野球機構|NPB]] 11球団が徳本に接触していた<ref name="中日スポーツ19911120">『[[中日スポーツ]]』1991年11月20日第5版4頁「中部のドラフト候補生 徳本(木本高) 2位で消えそう 守備も抜群のスラッガー 11球団があいさつ済み(阿知波)」「林([[東邦高等学校|東邦]])[[イチロー|鈴木]]([[愛知工業大学名電中学校・高等学校|名電]])も高評価(浩)」([[中日新聞社]])</ref>。本人は好きな球団として[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]と[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]を挙げていたが、「ドラフトで名前を挙げてもらえるだけで十分」とコメントしており、2位指名が有力視されていた<ref name="中日スポーツ19911120"/>。西武は徳本を1位指名候補として検討しており{{Efn2|実際には若田部の外れ1位として[[竹下潤]](駒澤大学)を指名した。}}<ref name="中国新聞20191212"/>、管理部長の[[根本陸夫]]は交渉権獲得を逃した際に無念さを見せていたという<ref name="週刊ベースボール19920907"/>。また[[若田部健一]]([[駒澤大学硬式野球部|駒澤大学]])を1位指名する方針を決めていた[[広島東洋カープ]]も、その交渉権獲得に失敗した場合には[[町田公二郎]]([[専修大学硬式野球部|専修大学]])を外れ1位として指名する方針だったが、町田が外れ1位で残っていなかった場合は徳本を指名することも検討していた<ref>『中国新聞』1991年11月23日朝刊第15版スポーツB面24頁「解説 若田部逃したがまずまず」(中国新聞社 井上)</ref>。
そして迎えたドラフト会議当日、広島は若田部を1位指名したが、西武や[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]、[[読売ジャイアンツ]](巨人)との4球団競合の末、ダイエーが交渉権を獲得したため、外れ1位として町田を単独指名した<ref name="中国新聞19911123">『中国新聞』1991年11月23日朝刊第15版スポーツA面25頁「ドラフト会議 パワー抜群 将来の四番 広島、1位に町田外野手(専大)」「若田部投手(駒大)はダイエー 4球団競合 「試合に出たら全部勝ちたい」」「広島指名選手 強打大学一の町田 徳本は将来性豊か」(中国新聞社)</ref>。徳本は西武と広島の2球団からそれぞれ2位指名を受け、抽選の結果広島が交渉権を獲得<ref name="中日スポーツ19911123"/>、同年12月6日に[[契約金]]5,000万円・[[年俸]]500万円(金額はいずれも推定)という条件で広島と仮契約した<ref>『中日新聞』1991年12月7日朝刊運動1面27頁「【広島】ドラフトだより 6日」(中日新聞社)</ref>。契約条件は当時、広島の高卒選手としては史上最高額だった<ref>『伊勢新聞』1991年12月7日朝刊9頁「ドラフトだより 【熊野】徳本内野手が広島と契約 24日に入団発表 契約金5000万、年俸は500万円」「【熊野】看板になるよう頑張る [[西地茂樹|西地]]熊野市長訪ね報告」(伊勢新聞社)</ref>。木本高校出身のプロ野球選手は、[[岩本進]]・[[高見昌宏]]に次いで3人目だった<ref>『[[紀南新聞]]』1991年11月23日号(第15713号)5頁「プロ野球ドラフト会議 徳本選手(木本高)二位指名 広島カープが交渉権」(紀南新聞社)</ref>。ドラフト同期には1位の町田、4位の[[金本知憲]]([[東北福祉大学硬式野球部|東北福祉大学]])がいた<ref name="中国新聞20191212">『中国新聞』2019年12月12日朝刊第16版スポーツ面18頁「カープドラフト史 第3部(7)1991年 金本 予想超える大成功」(中国新聞社 林仁志)</ref>。[[1991年の広島東洋カープ|同年の広島]]は通算6回目の[[セントラル・リーグ]]優勝こそ達成したものの、チーム本塁打は88本、チーム[[打率]]も.254と打撃成績が大きく低迷しており、野手の補強が急務になっていたことから、町田・徳本・金本と長打力のある野手を複数指名していた<ref name="中国新聞20191212"/>。担当[[スカウト (勧誘)#スポーツスカウト|スカウト]]は[[龍憲一]]で<ref name="中日新聞19911129">『中日新聞』1991年11月29日朝刊三重総合三紀「【三重県】和やかムード初の入団交渉 ドラフト指名の広島 木本高の徳本選手宅を訪問」(ネ
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{{by|1992年}}から{{by|1997年}}まで6シーズンにわたり広島でプレーした<ref name="読売新聞20040411"/>。
===== 1992年 =====
プロ1年目である1992年春の[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]は、一軍が1次キャンプを[[沖縄市野球場|沖縄]]で
同シーズンは一軍([[セントラル・リーグ]])公式戦への出場機会はなく、
===== 1993年 - 1995年 =====
{{by|1993年}}も前年と同じく春季キャンプを一軍スタートで迎えたが、同年も一軍出場機会はなかった<ref name="週刊ベースボール19931018"/>。ウ・リーグでは60試合に出場して155打数30安打(5二塁打)、打率.194、4本塁打、17打点、2盗塁、11四死球、39三振の成績で<ref>{{Cite book|和書 |title=ベースボール・レコード・ブック 1994 |publisher=ベースボール・マガジン社 |date=1993-12-25 |page=630 |ref= |edition=第1版第1刷発行 |series=[[ベースボール・レコード・ブック|日本プロ野球記録年鑑]] |isbn=978-4583030937 |ncid=BN06200347 |id=}}</ref>、正三塁手に定着したものの、2年続けて打率1割台に終わった{{Sfn|ホームラン|1994|p=105}}。本人曰く、プロ1、2年目は練習をきついと思いながらも必死について行ったが、それ以降は惰性で野球をやってしまっていたという<ref name="日刊スポーツ19981222"/>。
{{by|1994年}}は[[二軍監督]]の[[安仁屋宗八]]から「結果はどうであれ、四番で押し通す」と期待を受けて[[一塁手]]のレギュラーとして起用され、本人も6月に一軍に昇格したいと意欲を見せていた<ref>『週刊ベースボール』1994年5月2日号(第49巻第19号、通巻:第2085号)106頁「ファーム・ホットライン ウエスタン・リーグ 広島に不動の四番登場」(ベースボール・マガジン社)</ref>。同年はウ・リーグで59試合に出場し、うち一塁手として25試合、三塁手として31試合守備に就いた{{Sfn|ホームラン|1995|p=63}}。打撃成績は174打数24安打(7二塁打・1三塁打)、打率.138、2本塁打、11打点、3盗塁、7四死球、53三振だった<ref>{{Cite book|和書 |title=ベースボール・レコード・ブック 1995 |publisher=ベースボール・マガジン社 |date=1994-12-25 |page=520 |ref= |edition=第1版第1刷発行 |series=日本プロ野球記録年鑑 |isbn=978-4583031712 |ncid=BN06200347 |id=}}</ref>。
入団4年目の{{by|1995年}}にはウ・リーグで72試合に出場して[[規定打席]]に到達{{Efn2|同年の広島の規定打席数は245{{Sfn|ベースボール・レコード・ブック|1995|p=637}}。}}、230打数45安打(7二塁打・3三塁打)、打率.196(規定打席到達者数中25位)、13本塁打、43打点、2盗塁、31四死球、60三振の成績を残し{{Sfn|ベースボール・レコード・ブック|1995|p=638}}、[[中村良二]]([[大阪近鉄バファローズ (ファーム)|近鉄バファローズ]])とともにウ・リーグの[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を獲得した{{Sfn|ホームラン|1996|p=215}}{{Sfn|ベースボール・レコード・ブック|1995|p=734}}。また本塁打・打点ともにチーム最多を記録した{{Sfn|ホームラン|1996|p=46}}。対チーム別で見ると[[阪神タイガース (ファーム)|阪神タイガース]]戦や[[オリックス・バファローズ (ファーム)|オリックス・ブルーウェーブ]]戦ではそれぞれ打率2割台を記録していたが、
===== 1996年 - 1997年 =====
{{by|1996年}}は確実性を求め<ref name="中国新聞19970214">『中国新聞』1997年2月14日夕刊11頁「赤ヘル 日南からの挑戦 もうひとつのキャンプ<中> 徳本内野手 トップクラスの飛距離 精神面鍛え一軍狙う」(中国新聞社)</ref>、ウ・リーグで72試合に出場して216打数60安打(11二塁打・1三塁打)、打率.278、8本塁打、38打点、0盗塁、17四死球、53三振の成績
{{by|1997年}}は一軍昇格まで禁酒し、技術面に重点を置いてレベルアップしようと目論み<ref>『週刊ベースボール』1997年2月3日号(第52巻第4号、通巻:第2216号)82頁「広島東洋カープ ある日のナイショ話」(ベースボール・マガジン社)</ref>、春季キャンプでは苦手としていた変化球を克服するため、1日1000スイングの振り込みをしていた<ref name="中国新聞19970214"/>。当時も打球の飛距離は一軍でもトップクラスで、球団関係者は春季キャンプ地だった[[日南市天福球場]]の左翼後方を通行する車や人に徳本の打球が当たらないか心配していたという<ref name="中国新聞19970214"/>。同年はウ・リーグで77試合に出場して205打数、22得点、36安打(8二塁打・0三塁打)、打率.176、5本塁打、59塁打、22打点、4盗塁、1盗塁死、5犠打、3犠飛、21四球、5死球、53三振、1併殺打の成績だった{{Sfn|ベースボール・レコード・ブック|1997|p=679}}。課題とされた攻守の粗さが克服できなかったことから一軍出場を果たせず<ref name="読売新聞20040411"/>、同年10月1日に広島から[[戦力外通告]]を受け<ref>『中国新聞』1997年10月2日朝刊21頁「プロ野球 球団情報 [[白井康勝|白井]]らに戦力外通告 《広島》」(中国新聞社)</ref>{{Sfn|ベースボール・レコード・ブック|1997|p=63}}、同年12月2日付で[[自由契約]]選手となった<ref>『中国新聞』1997年12月3日朝刊23頁「10球団68人が自由契約選手 コミッショナー公示」(中国新聞社)</ref><ref>『[[毎日新聞]]』1997年12月11日東京朝刊スポーツ面21頁「プロ野球 自由契約選手は「宝の山」!?――「[[野村再生工場|野村方式]]」、他球団でも 大金不要の補強源」([[毎日新聞東京本社]]【荒木功】)</ref>
その後、[[阪神タイガース]]の秋季キャンプで入団テストを受験<ref>『中国新聞』1997年10月23日朝刊21頁「大盛況18人集う 阪神入団テスト」(中国新聞社)</ref>。また同時に広島から戦力外通告を受けた[[千代丸亮彦|千代丸祥士]]とともに[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]の秋季キャンプでも入団テストを受験し<ref>『日刊スポーツ』1997年10月21日付4頁「広島 自由契約の徳本政敬、千代丸祥士 オリックスの入団テストを受ける」(日刊スポーツ新聞社)</ref>、同年11月19日にはオリックスへの入団が発表された<ref>『中国新聞』1997年11月20日朝刊23頁「プロ野球 球団情報 徳本の入団を発表 《オリックス》」(中国新聞社)</ref><ref>『日刊スポーツ』1997年11月20日付4頁「オリックス 元広島の徳本政敬の入団を発表」(日刊スポーツ新聞社)</ref>{{Sfn|ベースボール・レコード・ブック|1998|p=34}}。
翌{{by|1998年}}は[[オリックス・バファローズ (ファーム)|オリックスの二軍]](ウ・リーグ)で40試合に出場して45打数、2得点、2安打(1二塁打・0三塁打)、打率.044、0本塁打、3塁打、2打点、0盗塁、0盗塁死、0犠打、0犠飛、4四球、1死球、13三振、2併殺打の成績で{{Sfn|ベースボール・レコード・ブック|1998|p=673}}、オリックスでも一軍([[パシフィック・リーグ]])公式戦への出場は果たせず<ref name="読売新聞20040411"/>、同年9月24日にオリックスから戦力外通告を受けた{{Sfn|ベースボール・レコード・ブック|1998|p=63}}。同年12月2日付で自由契約選手として公示され<ref>『中国新聞』1998年12月3日朝刊19頁「保留選手名簿を公示 [[キップ・グロス|グロス]]ら自由契約に」(中国新聞社)</ref>、プロ入り後1試合も一軍出場を果たせないまま同年限りで現役を[[引退]]した<ref name="読売新聞20040411"/>。▼
==== オリックス時代 ====
▲翌{{by|1998年}}は[[オリックス・バファローズ (ファーム)|オリックスの二軍]](ウ・リーグ)で40試合に出場し
同年オフには[[中日ドラゴンズ]]が[[浜松球場|浜松]]で開催した秋季キャンプで入団テストを受験したが<ref name="中日スポーツ19981027"/><ref>『日刊スポーツ』1998年10月27日付7頁「中日 前オリックス・徳本政敬の入団テストを実施」(日刊スポーツ新聞社)</ref>、不合格となった<ref>『中日スポーツ』1998年11月1日付第5版3頁「徳本は不採用」(中日新聞社)</ref>。
=== 引退後 ===
引退前は焼き鳥屋の主人になる夢を語っていたが、引退当時の1998年は不景気だったことに加え、事業資金も必要だったため、翌1999年春の資格取得を目指して[[兵庫県]][[神戸市]]内の整体師学校を受験することを決めたと報じられた<ref name="日刊スポーツ19981222">『[[日刊スポーツ]]』1998年12月22日付6頁「連載 サヨナラ プロ野球(7) オリックス編 徳本政敬 整体師を目指す」([[日刊スポーツ新聞社]]【吉川貴志】)</ref>。一方で会社員になると報じた新聞もある<ref>『[[スポーツ報知]]』1998年12月31日4頁「プロ野球 98パ・リーグ来る人去る人」([[報知新聞社]])</ref>。
引退後は地元の熊野市に帰り<ref>『中日新聞』2004年1月17日朝刊牟婁版24頁「小学生対象の硬式高校野球 熊野、20日から募集」(中日新聞社 河北直行)</ref>、整体師を目指した時期もあったが、2001年5月に大泊町の自宅の倉庫を改造して[[朝鮮料理|韓国料理]]店「KAN」を開店した<!--2004年5月に開店3周年と報じられている--><ref name="読売新聞20040411"/>。店を開いた動機は、子供のころに自宅で母が開いていた料理教室に集まった主婦らの笑い声と、その味を思い出したからだという<ref name="読売新聞20040411"/>。また2004年2月からは小学生を対象にした硬式野球教室のコーチを始めていた<ref name="読売新聞20040411"/>。▼
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2014年時点では防犯パトロールボランティア「子ども見守り隊」[[御浜町|御浜]]支部の隊員として活動している<ref>{{Cite news |title=安全安心へ積極的に 子ども見守り隊 御浜支部が発足式 |newspaper=[[吉野熊野新聞]] |date=2014-07-29 |url=https://data.zenkokunews.com/201407/29/2014-07-29w-yosikuma.pdf |access-date=2024-02-18 |format=PDF |publisher=吉野熊野新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20240218135309/https://data.zenkokunews.com/201407/29/2014-07-29w-yosikuma.pdf |archive-date=2024年2月18日}}</ref>。
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プロ入り当初は、目標とする選手に西武の[[秋山幸二]]を挙げ、将来の夢は[[日本プロ野球名球会|名球会]]入りであると語っていた<ref name="週刊ベースボール19920907"/>。また当時の監督である山本浩二からは、当時西武で活躍していた[[清原和博]]に近いタイプであると評されていた<ref>『[[中国新聞]]』2020年9月11日セレクト版スポーツ面6頁「球団70年を彩った男たち【1992年連載「CARPルーキー頑張ってます」】(2)徳本政敬(内野手)=ドラフト2位」([[中国新聞社]])</ref>。一方で[[太田幸司]]からは、打球の飛距離は秀でているものの、[[打撃 (野球)#スイングに関する用語|打撃フォーム]]が「ドアスイング」になることが多く、その矯正が課題であると評されていた<ref>『週刊ベースボール』1995年8月14日号(第50巻第35号、通巻:第2128号)103頁「ヤング・パワーの情報発信源! ファーム・ホットライン “アクシデント”で目覚めた長距離砲!!徳本政敬〈広島〉」(ベースボール・マガジン社)</ref>。
実家は造園・建設業を営んでおり、3人兄弟の末っ子だった<ref name="伊勢新聞19911123"/><ref>『[[朝日新聞]]』1991年11月23日名古屋朝刊三重版地方面18頁「プロ入りへ早くも闘志 ドラフトで指名された県内選手 上位で選ばれ驚き 木本徳本君 速球で押す投手に 四日市工井手元君」([[朝日新聞名古屋本社]]・津支局)</ref>。長兄である{{Efn2|長兄の春敬は政敬がドラフト指名を受けた時点で愛知学院大学3年生だった<ref name="伊勢新聞19911123"/>。}}<ref>『週刊ベースボール』1993年4月19日号(第48巻第16号、通巻:第1993号)92頁「広島東洋カープ BOXSEAT 兄弟自慢 徳本政敬内野手」(ベースボール・マガジン社)</ref>徳本春敬(あつのり)も弟・政敬と同じく身長185 cm、体重91 kg{{Efn2|身長184 cm、体重85 kgとの報道もある<ref name="中日スポーツ19921103">『中日スポーツ』1992年11月3日付第5版4頁「愛学院・徳本が『三星』へ入団決定」(中日新聞社)</ref>。}}と恵まれた体格の持ち主で、政敬と同じ地元の木本中学校・木本高校を経て、スポーツ[[特待生]]として[[愛知学院大学硬式野球部|愛知学院大学]]に進学した<ref name="中日新聞19921107"/>。春敬は俊足・強肩・強打の[[外野手]]として大学でも注目されており<ref name="中日新聞19921107"/>、代打や守備固めで起用される機会が多く、1992年春まではベンチ入りしていたが<ref name="中日スポーツ19921103"/>、故障に泣かされ、一度はプロを断念した<ref name="中日新聞19921107"/>。その後、[[社会人野球]]チームである[[西濃運輸硬式野球部|
== 詳細情報 ==
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[[Category:広島東洋カープ及び広島カープの選手]]
[[Category:オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:三重県出身の
[[Category:1973年生]]
[[Category:存命人物]]
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