「ヴァーサ (戦列艦)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 http:// -> https:// (wired.jp) (Botによる編集) |
|||
(2人の利用者による、間の4版が非表示) | |||
23行目:
|帆装=
|乗員=船員 145名、兵員 300名
|兵装=24ポンド砲 48門<br />3ポンド砲 2門<br />1ポンド砲 2門<br />榴弾砲 6門<br>ただし、一般に大砲64門として語られる
|その他=
|備考=
31 ⟶ 30行目:
== 建造から沈没まで ==
[[グスタフ2世アドルフ_(スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]の命によって[[1626年]]起工。当時のスウェーデン王朝の名にちなんで名付けられた。スウェーデンは当時ポーランドと戦争中で損失を受けた海軍力を回復するため強力な戦艦を建造しようとしていた。もともと砲甲板は一層の予定であったが、建造途中で初めての試みである二層に増やされるなど無理な構造で、さらに重武装だったため極端な重量艦になってしまった。設計者は当時の建艦先進国
当時は現在のように船の安定性について計算する方法はなく、うまくいった船の寸法やバランスを参考に新たな試みを加えていくという形で経験的に作られていた<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.muji.net/lab/blog/sound/021410.html |title=音をたずねて ヴァーサ号 |access-date=2024-8-18 |publisher=株式会社 良品計画 くらしの良品研究所}}</ref>。そのため、砲船ながら相手船との乗り込み戦闘の盛んだった時代の名残で船尾が高い設計になっていて、それが安定性をさらに悪くしていた。なお、船には国王が乗り込むことも想定され、船尾や船首は高価な塗料で色鮮やかに塗られたり金箔装飾まで行われた手の込んだ彫刻が施されていた<ref name=":0" />。この船の建造のために1000本以上の樫の木が伐採され、400人以上の職人たちが二年余り働いたという<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/4317777.pdf |title=『新書 平成時代』 |access-date=2024-8-18 |publisher=株式会社 岩波書店}}</ref>。
[[1628年]][[8月10日]]、波が穏やかな日に王宮であったトレクローノル城の下の係留場から、礼砲を撃って[[処女航海|初航海]]に出た。しかし、[[マスト]]に帆を張り 1,300 m ほど帆走した地点で横風を受け、[[復原性]]の低さが災いしてそのまま横転[[沈没]]した。
== 沈没直後 ==
事故は宰相や当時戦争で国外にいた国王に直ちに知らされ、国王は船の引き上げと責任者の処罰を命じた。
沈んだところは水深32mほどあったが、マストまで含めて高さの高い船であったため当初は沈んだ位置も分かりやすかったという。事故後すぐから引き上げが試みられた。大砲や貴重品は[[1664年]]までにほぼ回収できた。当時現れていた潜水鐘を使って作業が行われたが、船に固定されていた大砲を船体を傷つけることなくどのように回収されたかは現在でも分かっていない。大砲は腐食がひどく、鋳つぶして再生するために
処罰については、
== 引き上げと展示 ==
1950年代に入って、バルト海は水温や酸素濃度が低く、[[フナクイムシ]]が生息していないことから、ヴァーサの船体が朽ちることなく復元可能な状態で沈んでいる可能性が持ち上がった。アマチュア海洋[[考古学者]]{{仮リンク|アンデシュ・フランツェーン|en|Anders Franzén}}(Anders Franzén)の尽力により1956年再発見され1958年に引き上げ作業計画が決定、ヴァーサは沈没から333年経った[[1961年]]6月、ついに引き上げられた<ref>{{Cite web |url=https://www.sankei.com/article/20170715-KTPMKLRHQFJQRPEW3TJYW2WZS4/ |title=【水中考古学へのいざない(15)】航海1300メートル、あっけなく 世界一短命の戦艦は…(1/3ページ) |access-date=2024-8-17 |publisher=産経新聞社}}</ref>。船体の下に6本のトンネルを作ってロープを通し、持ち上げていったん浅瀬まで運び、さらに持ち上げながら重量を軽くするため溜まった土砂をホース放水で落としていくという方法で引き上げられた。長期にわたる復元作業の後、[[1988年]][[12月]]から{{仮リンク|ヴァーサ博物館|sv|Vasamuseet|en|Vasa Museum}}にて展示中。バラバラになっていた船体の復原作業は「世界最大のジグソーパズル」と称された。引揚や復原の模様はテレビ撮影もされ、とくに引揚模様は海外にも中継放送され、大勢が見たとされる。
船体自体や船体装飾の彫刻や武器類や日常調度品、硬貨4000点以上などが非常に良く原形を残し、船員の衣服や15人ほどの遺骨、さらにその中には毛髪や脳も残っているものもあった。当時の戦列艦の姿、建造方法、設備などを知る貴重な資料を提供している。とくに舵輪が発明される前に船の舵を取るために使われていたホイップスタッフは、当時のものとしてはほぼ完全な形で残っている唯一のものとみられている。
1986年仮設博物館に展示された。その後、対象範囲をスカンジナヴィア諸国とするコンペが行われ、G.Monson 建築事務所(後のMonson Dahlbaeck 建築事務所)が「1879年から有るガラール造船所の古いドックに柔らかい感じの銅板の屋根をすっぽりと被せる」という案を提出、現在はストックホルム
<gallery>
67 ⟶ 66行目:
== 外部リンク ==
*[
*[http://letsgo-sweden.com/vasa-museum/ ヴァーサ号博物館 - スウェーデン大使館公認 観光情報サイト] {{Ja icon}}
*[https://www.vasamuseet.se/ja ヴァーサ号博物館] {{Ja icon}}
|