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{{出典の明記|date=2019年9月10日 (火) 13:29 (UTC)|ソートキー=人1668年没}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 松平 定行
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[江戸時代]]前期
| 生誕 = [[1587年天正]]15年([[天正1587年]]15年
| 死没 = [[1668年]][[11月23日]]([[寛文]]8年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]([[1668年]][[11月23日]])
| 改名 = 定行、松山、勝山
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 眞常院殿前侍従道賢勝山大居士
| 霊名 =
| 墓所 = [[愛媛県]][[松山市]]祝谷の[[常信寺 (松山市)|常信寺]]
| 官位 = [[従四位|従四位下]]、[[河内国司#武家官位としての河内守|河内守]][[隠岐国#武家官位としての隠岐守|隠岐守]]、[[侍従]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川秀忠]]→[[徳川家光|家光]]→[[徳川家綱|家綱]]
| 主君 =
| 藩 = [[遠江国|遠江]][[掛川藩]]第2代藩主→[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]主<br />[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]初代藩
| 氏族 = [[久松氏|松平氏(久松系)松平家]]
| 父母 = 父:[[松平定勝]]<br />母:内室松源院殿([[奥平貞友]]娘で[[奥平信昌]]養女、二之丸殿)たつ
| 兄弟 = [[松尾君]]、[[松平定吉|定吉]]、'''松平定行'''、[[松平定綱|定綱]]、[[阿姫]]、[[松平定実|定実]]、[[紀為君]]、[[松平定房|定房]]、菊君、[[松平定政|定政]]、鶴君、玉君
| 妻 = [[正室:[[島津忠恒]]の養女([[島津朝久]]の娘、:'''長寿院殿)'''<br />[[継室]]島津忠恒の養女千鶴([[伊集'''浄蓮忠真]]の娘)<br />他側室'''
| 子 = '''[[松平定頼|定頼]](長男)'''おまん([[酒井忠朝]]正室月船賢順、女子、龍光院、倶君、菊姫<br />娘([[堀田正信養女]]正室)、娘(:''[[松平昌勝忠倶]]正室''
| 特記事項 =
}}
'''松平 定行'''(まつだいら さだゆき)は[[江戸時代]]期の[[大名]]。[[遠江国]][[掛川藩]]主、[[伊勢国]][[桑名藩]]主、[[伊予国]][[伊予松山藩|松山藩]]の初代藩主。定勝系久松松平家宗家2代。[[官位]]は[[従四位|従四位下]]・[[隠岐国#武家官位としての隠岐守|隠岐守]]、[[侍従]]。[[於大の方]]は祖母、[[徳川家康]]は伯父にあたる。
 
== 経歴生涯 ==
'''松平 定行'''(まつだいら さだゆき)は[[江戸時代]]初期の[[大名]]。定勝系久松松平家宗家2代。[[於大の方]]は祖母、[[徳川家康]]は伯父にあたる。
[[天正]]15年([[1587年]])、松平定勝の次男として生まれる。母は[[奥平信昌]]の養女([[奥平貞友]]の次女)・たつ。[[慶長]]6年([[1601年]])、伯父家康に初めて拝謁した慶長7年([[1602年]])、従五位下河内守に任ぜられる。次男であるが本家とは別に[[近江国]][[蒲生郡]]うち2千石を賜った。翌年、兄の[[松平定吉|定吉]]早世自害により嫡子となる。慶長10年([[1605年]])9月、家康の命により[[島津忠恒]](家久)の養女を室とする。慶長12年([[1607年]])、父定勝より[[掛川城]]3万石を譲られ、嫡子のまま大名となった。[[大坂の陣]]では定勝とともに[[伏見城]]を警衛する。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、父定勝の世子になり、掛川を幕府に還付、桑名に移るした
 
[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、定勝の世子になり、掛川を幕府に還付し桑名に移った。[[寛永]]元年([[1624年]])、定勝の卒去により遺領[[桑名藩]]11万石を継承した。3年後、隠岐守に転任されまた従四位下に昇進された寛永11年([[1634年]])、[[従甥]]・[[徳川家光]]の上洛に際し、途上の桑名より供奉、家光の参内前に侍従に叙任された。家光の参内では騎馬の供奉をつと
== 経歴 ==
[[慶長]]6年([[1601年]])、伯父・家康に初めて拝謁。同7年([[1602年]])、従五位下河内守に任ぜられる。次男であるが[[近江国]]蒲生郡の内2千石を賜う。翌年、兄・定吉の早世により嫡子となる。同10年([[1605年]])9月、家康の命により[[島津忠恒]](家久)の養女を室とする。慶長12年([[1607年]])、父定勝より[[掛川城]]3万石を譲られ、大名となる。[[大坂の陣]]では父定勝とともに[[伏見城]]を警衛する。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、父定勝の世子になり、掛川を幕府に還付、桑名に移る。
[[寛永]]元年([[1624年]])、父定勝の卒去により遺領[[桑名藩]]11万石を継承。3年後、隠岐守に転任し従四位下に昇進。同11年([[1634年]])、[[従甥]]・[[徳川家光]]の上洛に際し、桑名より供奉、家光の参内前に侍従に叙任。家光の参内では騎馬の供奉をつとめる。
 
寛永12年([[1635年]])、家光の命により4万石の加増をもって[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]に移る4万石の加増転封となった。中四国は初の[[御家門|家門]]入部でありこれは西国の[[外様大名|外様]]への牽制と警戒のための処置であったというされる寛永16年([[1639年]])に[[松山城 (伊予国)|松山城]]の[[天守]]を5重から3重に改築した。[[正保]]元年([[1644年]])[[長崎探題]]<ref>のちの幕政に正式にある役名ではない。</ref>に就任し、異国船との交渉にあたり、[[鎖国]]制度の完成に貢献するした。家光薨去後の[[慶安]]4年([[1651年]])、幼将軍[[徳川家綱]]を補佐するため[[伺候席|溜之間詰]]に任ぜられ。同席は[[保科正之]](家綱叔父)、[[松平頼重]](家光従弟)、[[井伊直澄]]。[[万治]]元年[[1658譜代筆頭石高)。一方で同]])72歳で隠居。幕政批判を行い勝手に剃髪出督を嫡男した弟の[[松平定頼|定頼]]に譲って松山東野御殿に退き、松山しょうざん三河国刈谷藩2万石が改易称した(のちなり、定政一家は定行勝山預けられ蟄居処分改める)なったこれ定行より勝山公と奉称され連座は無かった。東野御殿以降、定政は定行の国許の伊予国松山は俳諧や茶道に親暮らむなど悠々自適の生活を送り、寛文8年(1668年)、東野御殿にて卒去。[[享年]]82
 
[[万治]]元年([[1658年]])、72歳で隠居し、家督を嫡男の[[松平定頼|定頼]]に譲って松山東野御殿に退き、松山(しょうざん)と称した(のちに勝山と改める)。これにより勝山公と奉称された。東野御殿では[[俳諧]]や[[茶道]]に親しむなど悠々自適の生活を送り、寛文8年([[1668年]])、東野御殿にて卒去した。享年82。
正室は長男定頼の生母。元和4年([[1618年]])卒去。長寿院殿月窓貞泉大姉と贈られる。桑名長寿院に葬られ、定行の移封にともない菩提を弔うため松山城下に長寿院(のちの[[法龍寺]])を造営、位牌が祀られる。継室は前室長寿院殿の養妹。[[明暦]]4年([[1658年]])、江戸で卒去。江戸麻布[[曹渓寺 (東京都港区)|曹渓寺]]で火葬、蓮香院殿湖月貞鑑大姉と贈られる。遺骨が松山長寿院(法龍寺)に贈られ、浄蓮院殿湖月貞鑑大姉と改めて贈り、埋葬される。
 
正室は長男定頼の生母。元和4年([[1618年]])卒去。長寿院殿月窓貞泉大姉と贈られ当初は桑名長寿院に葬られたが、定行の移封にともない菩提を弔うため松山城下に長寿院(のちの[[法龍寺]])造営され、位牌が祀られ。継室は前室長寿院殿の養妹。[[明暦]]4年([[1658年]])、江戸で卒去。江戸麻布[[曹渓寺 (東京都港区)|曹渓寺]]で火葬され、蓮香院殿湖月貞鑑大姉と号を贈られ。遺骨松山長寿院(法龍寺)にられ、改めて浄蓮院殿湖月貞鑑大姉と改めて号がられ、埋葬され
[[画像:Matsuyama castle(Iyo)1.JPG|thumb|right|250px|大手門跡から見た松山城]]
 
== 関連項目系譜 ==
*正室:長寿院 - [[島津忠恒]]の養女、[[島津朝久]]娘<ref>母は[[島津義弘]]長女・御屋地。</ref>
*[[タルト (郷土菓子)]]
**長男:[[松平定頼]](1607-1662)
**四女:菊姫(?-1661) - [[松平昌勝]]正室
*継室:浄蓮院 - 島津忠恒の養女、[[伊集院忠真]]娘<ref>母は島津義弘次女・御下。</ref>
*側室:村尾氏
**次女:龍光院(1622-1663) - [[酒井忠朝]]正室
**三女:倶君(1637-1692) - [[堀田正信]]正室
*生母不明の子女
**次男:月舟賢順(1609-1668)<ref name="系図">寛政譜などの系図には記載されていない。</ref> - 仏国山法龍寺住職
**長女(早世)<ref name="系図" />
*養子
**女子(?-1668):[[松平忠倶]]正室 - [[阿部重次]]娘<ref>生母は松平定勝の娘正寿院。</ref>
 
== 脚注 ==
{{掛川藩主|久松松平氏|2代|1607-1617}}
<references/>
{{桑名藩主|久松松平氏|2代|1624-1635}}
 
{{伊予松山藩主|久松松平氏|初代|1635-1658}}
== 関連項目 ==
{{先代次代|[[久松氏|久松松平氏]]|1624年 - 1658年|[[松平定勝]]|[[松平定頼]]}}
*[[タルト (郷土菓子)]] - 愛媛県の郷土菓子。長崎探題を務めた定行が、長崎から松山に伝えた。
*[[野間馬]] - 定行の藩政時の放牧・飼育試行に発する。
*[[松本山雪]] - 定行に仕えた[[御用絵師]]。馬の絵で知られる。
 
{{先代次代|定勝流[[久松氏|久松松平氏]]当主|1624年 - 1658年|[[松平定勝]]|[[松平定頼]]}}
{{掛川藩主|久松松平氏|2代|1607- 1617}}
{{桑名藩主|久松松平氏|2代|1624- 1635}}
{{伊予松山藩主|久松松平氏|初代|1635- 1658}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まつたいら さたゆき}}
[[Category:松平隠岐守家|さたゆき]]
[[Category:伊予山藩主|さたゆき松01]]
[[Category:江戸の大藩主|202]]
[[Category:三重県の歴史掛川藩主]]
[[Category:親藩]]
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[[Category:1584年生]]
[[Category:1668年没]]