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| 霊名 =
| 墓所 = [[愛媛県]][[松山市]]祝谷の[[常信寺 (松山市)|常信寺]]
| 官位 = [[従四位|従四位下]][[河内国司#武家官位としての河内守|河内守]]、[[隠岐国#武家官位としての隠岐守|隠岐守]]、[[侍従]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川秀忠]]→[[徳川家光|家光]]→[[徳川家綱|家綱]]
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| 父母 = 父:[[松平定勝]]、母:たつ
| 兄弟 = [[松尾君]]、[[松平定吉|定吉]]、'''定行'''、[[松平定綱|定綱]]、[[阿姫]]、[[松平定実|定実]]、[[紀為君]]、[[松平定房|定房]]、菊君、[[松平定政|定政]]、鶴君、玉君
| 妻 = [[正室]]:'''長寿院殿'''<br/>[[継室]]:'''浄蓮院殿'''
| 子 = '''[[松平定頼|定頼]]'''、月船賢順、女子、龍光院、倶君、菊姫<br/>[[養女]]:''[[松平忠倶]]正室''
| 特記事項 =
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[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、定勝の世子になり、掛川を幕府に還付し桑名に移った。[[寛永]]元年([[1624年]])、定勝の卒去により[[桑名藩]]11万石を継承した。3年後、隠岐守に転任されまた従四位下に昇進された。寛永11年([[1634年]])、従甥の[[徳川家光]]の上洛に際し、途上の桑名より供奉し、家光の参内前に侍従に叙任された。家光の参内では騎馬の供奉を務めた。
 
寛永12年([[1635年]])、家光の命により[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]に4万石の加増転封となった。中四国へは初の[[御家門|家門]]入部であり、これは西国の[[外様大名|外様]]への牽制と警戒のための処置であったとされる。寛永16年([[1639年]])に[[松山城 (伊予国)|松山城]]の[[天守]]を5重から3重に改築した。[[正保]]元年([[1644年]])に[[長崎探題]]<ref>のちの幕政に正式にある役名ではない。</ref>に就任し、異国船との交渉に当り、[[鎖国]]制度の完成に貢献した。家光薨去後の[[慶安]]4年([[1651年]])、幼将軍[[徳川家綱]]を補佐するため[[伺候席|溜之間詰]]に任ぜられた。同席は[[保科正之]](家綱叔父)、[[松平頼重]](家光従弟)、[[井伊直澄]](譜代筆頭石高)。一方で同年、幕政批判を行い勝手に剃髪出家した弟の[[松平定政]](三河国刈谷藩2万石)が改易となり、定政一家は定行に預けられ蟄居処分となった。定行に連座は無かった。以降、定政は定行の国許の伊予国松山で暮らした。
 
[[万治]]元年([[1658年]])、72歳で隠居し、家督を嫡男の[[松平定頼|定頼]]に譲って松山東野御殿に退き、松山(しょうざん)と称した(のちに勝山と改める)。これにより勝山公と奉称された。東野御殿では[[俳諧]]や[[茶道]]に親しむなど悠々自適の生活を送り、寛文8年([[1668年]])、東野御殿にて卒去した。享年82。
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== 系譜 ==
*正室:長寿院殿 - [[島津忠恒]]の養女、[[島津朝久]]娘<ref>母は[[島津義弘]]長女・御屋地。</ref>
**長男:[[松平定頼]](1607-1662)
**四女:菊姫(?-1661) - [[松平昌勝]]正室
*継室:浄蓮院殿 - 島津忠恒の養女、[[伊集院忠真]]娘<ref>母は島津義弘次女・千鶴御下。</ref>
*側室:村尾氏
**次女:龍光院(1622-1663) - [[酒井忠朝]]正室
**三女:倶君(1637-1692) - [[堀田正信]]正室
*生母不明の子女
**次男:月舟賢順(1609-1668)<ref name="系図">寛政譜などの系図には記載されていない。</ref> - 仏国山法龍寺住職
**長女(早世)<ref name="系図" />
*養子
**女子(?-1668):[[松平忠倶]]正室 - [[阿部重次]]娘<ref>生母は松平定勝の娘正寿院。</ref>
 
 
== 脚注 ==