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{{出典の明記|date=2014年2月5日 (水) 00:28 (UTC)|ソートキー=沖縄おきのくう}}
{{神社|
{{独自研究|date=2014年2月5日 (水) 00:28 (UTC)}}
名称=沖宮|
{{神社|
所在地=沖縄県那覇市奥武山町44|
|名称 = 沖宮|
祭神=天受久女龍宮王御神<br />天龍大御神<br />天久臣乙女王御神<br />熊野三神|
|画像 = [[image:Oki-no-gū entrance.jpeg|250px]]}}
社格=琉球八社・無格社|
|所在地 = [[沖縄県]][[那覇市]]奥武山町44|
画像=[[image:Oki-no-gū entrance.jpeg|250px]]}}
| 緯度度 = 26 | 緯度分 = 12 | 緯度秒 = 10.0 | N(北緯)及びS(南緯) = N
 
| 経度度 = 127 |経度分 = 40 | 経度秒 = 37.5 | E(東経)及びW(西経) = E
'''沖宮'''(おきのぐう)は[[沖縄県]][[那覇市]]にある[[神社]]。[[琉球八社]]の一つで、明治時代の[[社格]]は[[無格社]]。[[奥武山公園]]の東部に位置する。
| 地図国コード = JP
| 地図 = Japan Naha city
|祭神 = 天受久女龍宮王御神<br />天龍大御神<br />天久臣乙女王御神<br />熊野三神|
|社格 =琉球八社・ 旧[[無格社|]]
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|本殿 =
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|札所等 = 琉球八社
|例祭 =
|神事 =
}}
'''沖宮'''(おきのぐう)は[[沖縄県]][[那覇市]]にある[[神社]]。[[琉球八社]]の一つであるが明治時代の[[近代社格制度]]社格を与えられておらず、神社本庁に属さない[[単立]]の神社である。([[無格社]]。[[奥武山公園]]の東部に位置する。
 
== 祭神 ==
天受久女龍宮王御神(てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ。[[天照大神]])・天龍大御神(てんりゅうおおおんかみ)・天久臣乙女王御神(あめくしんおとめおうおんかみ)・熊野三神([[イザナミ|伊弉册尊]]・[[熊野権現|速玉男尊]]・[[事解男尊]])を祀る。
 
[[明治]]の[[神仏分離]]までは「沖山三所権現」(沖の寺)と称し、[[神仏習合]]で[[阿弥陀如来]]・[[薬師如来]]・[[十一面観音]]を祭っていた。
 
*神代一代
**相殿中央の御座
*** 御先 女天神代 天受久女龍宮大御神(てんじゅくめりゅうぐうおおおんかみ)
*** 中 女天神代 天智門女龍宮大御神(あまちじょうめりゅうぐうおおおんかみ)
*** 今 女天神代 天受賀女龍宮大御神(てんじゅかめりゅうぐうおおおんかみ)
**相殿左の御座
** 父御神 天龍大御神(てんりゅうおおおんかみ)
** 母御神 天久臣乙女大御神(あめくしんおとめおおおんかみ)
**相殿右の御座
*** 天芳子乙女大御神(てんぽうしおとめおおおんかみ)
*** 天仁子乙女大御神(てんじんしおとめおおおんかみ)
*** 天来子乙女大御神(てんらいしおとめおおおんかみ)
**熊野三神
*** 伊弉冊尊(いざなみのみこと)
*** 速玉男尊(はやたまをのみこと)
*** 事解男尊(ことさかをのみこと)
 
== 摂末社 ==
; 末社 住吉神社
: 神代二代
: 下二柱が御夫婦神
:* 天風龍大神(あまふうりゅうおおかみ) - 子(ね)の神 表筒王
:* 天火龍大神(あまひりゅうおおかみ) - 丑(うし)の神 中筒王
:
: 下二柱が御夫婦神
:* 表臣幸乙女大御神(うはしんこうおとめおおおんかみ)
:* 中臣幸乙女大御神
:
: 下二柱が御夫婦神
:* 天水龍大神(あますいりゅうおおかみ) - 寅(とら)の神 底筒王
:* 底臣幸乙女王御神(そこしんこうおとめおおおんかみ)
 
; 末社 辨財天宮(べんざいてんぐう)
: 神世三代
:* 木龍宇具志久乙姫王(もくりゅうぐしおとひめおおお) - 辰(たつ)の神
:*: またの名を 辨天負百津姫神(べんてんよもつひめかみ):ノロ神の御名
 
== 歴史 ==
創建の由緒は不詳だが、[[源為朝]]の時代と史料にある<ref>{{efn|[[琉球王国]]の[[正史]]である『[[中山世鑑]]』を始め、『[[おもろさうし]]』、『[[鎮西琉球記]]』、『[[椿説弓張月]]』などでは、[[源為朝]]は現在の[[沖縄県]]の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖[[舜天]]になったとされる。この話がのちに[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』を産んだ。[[日琉同祖論]]と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、1922年([[大正]]11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている。なお、『[[中山世鑑]]』を編纂した[[羽地朝秀]]は、摂政就任後の1673年([[1673康熙]]12・[[寛文]]313年)3月の仕置(しおき)』(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「窃かに惟ふは此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>りたる儀疑<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久しく通通為<sub>レ</sub>えたる故也」)なお、最近の[[遺伝子]]の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[高宮広土]]([[鹿児島大学]])が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている<ref>{{Cite news|author=|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274.html|title=ルーツ解明 沖縄に注目|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=|date=2010-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100420201708/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274.html|archivedate=2010-04-20}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274_01.html|title=ルーツ解明 沖縄に注目|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=|date=2010-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110629171640/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274_01.html|archivedate=2011-06-29}}</ref>[[2021年]][[11月10日]]、[[マックス・プランク人類史科学研究所]]を中心とした、[[中華人民共和国|中国]]、[[日本]]、[[大韓民国|韓国]]、[[ヨーロッパ]]、[[ニュージーランド]]、[[ロシア]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の研究者を含む国際チームが『[[ネイチャー]]』に発表した論文によると、[[宮古島市]]の[[長墓遺跡]]の[[先史時代]]の[[人間の骨の一覧|人骨]]を[[DNA型鑑定|DNA分析]]したところ「100%[[縄文人]]」だったことが分かり、先史時代の[[先島諸島]]の人々は[[沖縄諸島]]から来たことを示す研究成果となった<ref name="沖縄タイムス1112"/>。また、[[言語学]]および[[考古学]]からは、[[中世]]([[グスク時代]]、[[11世紀]]~[[15世紀]])に[[九州]]から「本土日本人」が[[南西諸島|琉球列島]]に移住したことが推定でき、[[高宮広土]]([[鹿児島大学]])は、「結果として、[[琉球語|琉球方言]]の元となる言語を有した農耕民が本土から[[植民地|植民]]した。著名な『日本人二重構造論』を否定するという点で大変貴重だ」と指摘している<ref name="沖縄タイムス1112">{{Cite news|author=|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/862140|title=宮古島先史の人々「北側の沖縄諸島から」「南から」説を覆す 人骨DNA分析で100%縄文人|newspaper=[[沖縄タイムス]]|publisher=|date=2021-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211113042120/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/862140|archivedate=2021-11-13}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/researches/view/696/|title=トランスユーラシア言語は農耕と共に新石器時代に拡散した|newspaper=[[九州大学]]|publisher=|date=2021-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211127021902/https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/researches/view/696/|archivedate=2021-11-27}}</ref>。}}。[[1713年]]([[正徳 (日本)|正徳]]3年)の『[[琉球国由来記]]』には、「大昔、[[那覇港]]の海中から光が絶えず射していたので、調べてみると霊木であった。これを熊野権現の霊木とし、社寺を建てこの木を祀った」とある<ref>加治順人『沖縄の神社』p22 ひるぎ社、2000年10月30日</ref>。
『琉球国由来記』([[1713年]])には、「大昔、[[那覇港]]の海中から光が絶えず射していたので、調べてみると霊木であった。これを熊野権現の霊木とし、社寺を建てこの木を祀った」とある。
 
最初は那覇埠頭の地(現・那覇市西3丁目)にあったが、[[1908年]](明治41年)、那覇港埠頭築港に伴い那覇市安里の[[安里八幡宮]]の隣地に遷座し、寺は那覇市住吉町に移転した。その時の社殿は琉球における[[神社建築]]の典型例として、[[1938年]]([[昭和]]13年)[[国宝]]に指定されたが、[[沖縄戦]]で壊滅焼失した。戦後、比嘉真忠に「沖宮を復興せよ」と神託があり、沖宮霊木の根元は奥武山の天燈山と神示があった。[[1961年]](昭和36年)に通堂町へ仮遷座し、[[1975年]](昭和50年)、現位置である[[奥武山公園]]内へ遷座された。2020年(令和2年)に[[神社本庁]]との被包括関係を解き、[[単立]]神社となった。
 
そのほか、先代宮司である比嘉真忠によって沖縄各地に伊計神社([[うるま市]]与那城伊計218)、宜名真神社([[国頭村]]字宜名真218)、[[恵比須神社 (那覇市)|恵比須神社]]([[那覇市]]字安謝251)、神着宮([[名護市]]字安部)が創建された。また、平成29年には[[伊平屋島]]に伊平屋天巌戸神社([[伊平屋村]]字田名 念頭平松付近)が創建された。クマヤ洞窟の遥拝所の役割を果たす神社である(広報いへや 2018年1月号)。いずれも御祭神は[[天照大御神]]である。
== アクセス ==
 
== 交通 ==
{{Commonscat|Oki-no-gū}}
{{Osm box|w|554172923}}
=== モノレール ===
* [[沖縄都市モノレール]](ゆいレール) [[奥武山公園駅]]
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
{{琉球八社}}
== 外部リンク ==
{{神道 横}}
{{Commonscat|Oki-no-gū}}
{{Normdaten}}
* [http://www.genbu.net/data/ryukyu/oki_title.htm 沖宮(玄松子の記憶)]
{{shinto-stub}}
* [http://www.ariesu777.com/oki01.html 沖宮 琉球沖縄八社・神社巡り]
 
{{DEFAULTSORT:おきのくう}}
[[Category:沖縄県の神社]]
[[Category:那覇市の建築物]]
[[Category:那覇市の歴史]]
[[Category:熊野神社]]
[[Category:無格社熊野信仰]]
[[Category:沖縄県の旧無格社]]
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